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一般公開されている領域の先は、まるで別世界に来たように気温が下がって寒さが肌を刺すようだ。空気も張り詰めていて、重苦しい緊張感に満ちている。
先導するグラントや後ろから付いてくる神殿騎士に挟まれて、居心地の悪さに顔を顰めながら、ルディはどこまで続くのか想像もつかない、目を凝らしても先の見えない回廊を歩いていた。
――カツ、カツ、カツ
神殿騎士の立てる甲高い靴音が耳障りでしょうがない。磨きぬかれた仰々しい全身鎧に身を包んだ神殿騎士は、甲冑の奥からずっとルディを睨んでいる。ルディのような傭兵がここに居るのが気に入らないのだろう。マーレヴィーナの神殿騎士は名誉職で、国内はもとより近隣諸国の名家の子弟がなるのだと聞いていた。それなりに訓練を積んできたのだろうが、所詮はいいとこの坊っちゃんたちで、殆ど実戦では使えないと見た。実際、後ろを歩く神殿騎士の鎧は傷ひとつない綺麗なもので、黙って立っていたら置物だと言われても信じてしまったかもしれない。とにかく武人にある研ぎ澄まされた刃のような鋭利な気配は微塵にも感じられない。こんなのばかり揃えていたのなら、自分のような傭兵に声がかかるのも道理だと、ルディは苦々しく思った。矜持の塊で使えないものほど面倒な存在はない。睨んでいる暇があったら素振りの一つでもしろよな、とルディは内心毒づいた。
それにしてもこの薄暗く細長い回廊に入ってから随分経つ。進むにつれて光が薄くなっていくことから、今居る場所は恐らく地下、それも海の底なのではと考えられた。
神殿に入るまではルディに喧しく声をかけてきたグラントも、この回廊に入ってからは一言も声を発しない。背後の神殿騎士に至っては出会ってから一度も口を開いていない。あまりの気まずさに、ルディは眉間の皺をさらに深くした。
あまり辛抱強いとは言い難いルディの苛々が限界点に達しようとした時、不意に前方から凍てつくような空気を感じ取って、グラントが青い顔をして足を止める。訝しんで前を見据えると、通路の奥に小さな人影が見えた。それは何の装飾もないただ真っ白い長衣に身を包んだ少女だった。彼女は髪も肌も雪のように白く、その瞳だけが海底の深い闇のように昏い。その瞳は見るものを深淵の底に引きずり込むような、得体の知れない恐怖を相対するものに与える。これまで様々な修羅場を踏んできたルディですら、戦慄して立ち竦んでしまった。グラントや神殿騎士に至っては恐怖を顔に貼り付けたまま、氷のように固まってしまっている。
「わたしの護衛に雇われた傭兵とは、あなたのことですか?」
少女は思ったよりも低い声で問いかけてきた。その眼差しは冷たく、その上殺意すら感じられる。そのことにルディは内心の焦りを相手に気取られないよう、ぐっと顔に力を入れて表情を引き締める。
「ああ、そうだ。あんたが『巫女姫』か?」
目の前の少女はまだ年若く、恐らく一七、八歳くらいに見受けられたがその圧倒的な存在感は既に老成された老人のものと言っても遜色ない。全く感情と言うものを感じさせない、人形のような整い過ぎる壮絶な美貌を持つ少女は、視線だけを僅かに動かしてルディを一瞥すると、こちらも全く感情の欠片も感じ取れない口調で冷酷に言い放った。
「わたしに護衛は必要ありません。ご足労を掛けましたが報酬の半分を受け取ってこのマーレヴィーナから立ち去りなさい」
そのまま踵を返し、彼女はルディたちを残したまま回廊の奥へと戻って行ってしまう。
「あっ、あの、み、巫女姫様っ!!」
巫女姫の予想外の言葉に、グラントが慌てて前に進み出る。ルディと巫女姫の間でおろおろと視線を彷徨わせているが、巫女姫は振り返りもせずそのまま奥へと消えようとしている。
「おい、待てよ」
ルディは堪えられず巫女姫の背中に向かって怒鳴った。
巫女姫は足を止めない。寧ろ歩く速度が早まったくらいだ。
「無視かよ、おい!」
ルディは駆け寄って、巫女姫の肩を掴んだ。背後でグラントが情けない悲鳴を上げ、神殿騎士が「無礼な!」と喚いていたがルディはそれを無視して巫女姫を捕らえ、正面に回りこむ。
改めて見た巫女姫は、何度見ても壮絶な美貌だった。これまでルディが出会った多くの人間の中でも彼女の美貌は抜きん出いる。しかし、噂で聞いた「慈悲深い」存在とは両極のものにしか思えない。断罪を迫る女神のように無慈悲で冷酷。千年以上溶けないという伝説のクジャレイス氷山のように、触れる者を全て凍てつかせるようだ。
ルディの無礼な態度にも、乱暴な言葉遣いにも巫女姫は眉ひとつ動かさなかった。仮面のような無表情を張り付けたままゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにルディを見つめてくる。全てを見透かすような、しかし得体のしれない空虚な闇の奥に、どうしてか明確な憎悪が感じ取れる。俺は一体、この初対面の少女に何の恨みを、嫌悪を抱かれているのかと思うと、全く心当たりもないので苛立ちが先に立つ。そして唐突に憎しみの――侮蔑の理由に思い至る。
(ああ、そうか――)
ルディは唇を歪ませて、そして嘲笑う。
「どこの馬の骨とも知れない下賤な輩に身辺をうろつかれたくはないと」
高貴な御身分の奴らと言えば、傲慢で自分たちのことを選民階級だと思っている節がある。彼らにとっては傭兵などごろつきと同類なのだろう。特に高位の王侯貴族や聖職者で能力のない者にその傾向が強いことを、ルディはこれまでの経験から嫌というほど学んできた。
「わたしには必要ないから不要だと言ったまでです。物わかりの悪い人ですね」
抑揚のない声。落ち着き払った態度が、ルディの癇にこれ以上ないほどに障る。
「俺は一旦この後ろにいる神官から依頼を受けたんだ。それを何もしないまま金を受け取ったっていうなら俺の評判に関わるだろ」
「ならばお金はお渡ししません。依頼などなかったことにすればよいでしょう」
「あんたんとこの神官は人の大勢いる酒場で俺に依頼を掛けてきたんだぞ。俺が何もしないままに返されたって知れたらもっと評判に関わるだろ! あんたにとっちゃ関係ねえ話しかもしれないけどな、こっちにとっちゃ評判は今後の仕事に関わる、死活問題なんだぞ!」
怒気を強めて捲し立てると、巫女姫の目が一瞬すっと細められたように見えた。ルディも初めは乗り気でなかった仕事なのに、まるで奪われたくなくてあがいてるように見える自分の態度にルディは戸惑う。巫女姫の態度が一貫して冷淡なものだったから意地になったのか、それとも破格の報酬をフイにしたくなかったためだろうと何とか自分を納得させる。
「ならば勝手になさるといいでしょう」
巫女姫はルディの手を払い、するりと脇を抜けて何事もなかったかのように回廊の奥へと進み出す。今度はルディも黙ってそれを見送った。
彼女の小さな姿が見えなくなると、これまで息を詰めて固まっていたグラントとが盛大な溜息をつく。
「ああっ、びっくりしましたよ。まさか巫女姫様がこんなところにお出ましになるなんて!!」
グラントは忙しなく手巾で額の汗を拭いながら、興奮気味に捲し立てる。
「お前の会わせたがっていた上官って巫女姫じゃないのかよ」
護衛対象に目通しするのは当然のことなので、てっきりそうだと思っていたがどうやらそうではないらしい。
「いいえ、私の上官である筆頭巫女であるローゼリシア様にお会いいただく予定でした。ですが、まさか巫女姫自ら奥からお出ましになるなんて……」
「彼女に報告は?」
「あ、いえ……恐らく伝わっていたからこうしてお出ましになられたのでしょうが、ほとんど奥殿から、しかもお供もお連れにならずというのは滅多にないことで、わたし自身も驚いている次第で」
わたわたと言い訳を並べるグラントの様子をみると、巫女姫が出てきたことは本当に不意打ちのことであることがわかる。それにしても巫女姫はわざわざルディに「帰れ」と言うためだけに出てきたのか?
「とにかく依頼は続行でいいんだな」
「は、はい!それはもちろんです」
卑屈なほどにへこへこする神官を内心ウザいと思いながらも、ルディは先ほど巫女姫が現れ、去って行った回廊の奥を睨んだ。
(巫女姫は狙われているんだろう? 大事な儀式を前に何かあっては拙いんじゃないのか)
高額な報酬といい、先ほどの巫女姫の態度といい、この依頼にはきな臭ささしか感じられない。何かこの神官の話していない裏があるに違いない。しかし今言わないのなら、グラントはそれをルディに伝える気がないのは明白だった。
面倒なことになった、とルディは思った。やめとけばよかったかもしれない。
しかし何故か自分で退路を断ってしまった。
再び歩き出したグラントの後に続きながら、思い出すのは先ほどの巫女姫の昏い瞳のこと。あれは正直、恐怖を感じた。全てを見透かされるような、吸い込まれるような得体のしれない恐怖。こんな存在に出会ったのは初めて――のはずだった。しかし一方でどこか引っかかるものもある。あれは、一体何だったのか……。
記憶の先を辿ろうとしても何も出て来ない。
悪態を吐きかけたとき、急に視界が開けた。神殿騎士によって開け放たれた扉の向こうには目を疑うような神秘的な世界が広がっていた。
青白い光に包まれたここはまさしく海の底だった。
「ようこそお越しくださいました、ルディ様」
鈴の鳴るような綺麗な高音。優しく、慈愛に満ちた声に反応して声の主を探す。声の主はこの不思議な空間の中央に静かに佇み、ルディの視線に気付くと、彼女は極上の笑みを浮かべて優雅に礼を取った。息を飲むような麗しい少女がそこにいた。
「わたくしどもの願いをお聞きいれ下さいまして、誠に感謝の言葉もありません」
彼女の動きに合わせてしゃらり、と長い銀髪が流れ落ちる。見上げた瞳は澄んだ海の蒼。同じ色合いなのに醸し出す雰囲気が異なると、これ程までに印象は変わるものなのか。
「わたくしは筆頭巫女のローゼリシアと申します」
ローゼリシアの笑みに、一瞬で射抜かれた。この衝撃を、ルディは一生忘れないだろうと思った。




