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今日は厄日だとライドールは知らず眉間に皺を寄せ、ずれた眼鏡を直すために眼鏡の弦に指をかけた。
目の前では巫女姫が海神像の前に跪き、こちらも石像のように微動だにしない。
この状態になって数刻の時間が経過したようだが、ライドールにとっては数日経ったかのような、長い長い苦行のように感じられる。
今日は聖婚前に行われる潔斎の儀で、巫女姫は早朝から薄暗い礼拝室に籠って祈りを捧げ続けている。広くはないこの部屋中を重厚で濃密な霊力が満ちていて、半端な精神の持ち主では数分もこの空気に耐えることができないだろう。
この圧倒的な霊力は巫女姫たる所以かと、さすがのライドールも舌を巻くが、そもそもライドールはこの巫女姫を認めているわけではない。
ライドールがマーレヴィーナに来た頃は、ローゼリシアが巫女姫候補として存在しており、いずれ彼女を護ることになるのかと思っていた。しかし五年前突然神殿長がこの娘を連れてきた。何処の何者かも分からない素性の知れない娘。初めて見たときは華奢というよりもあまりに貧相で青白い顔をした、幽霊のような娘だと思った。けれど彼女の秘めた霊力は他の追随を許さず、幼い頃から巫女姫候補として修練を積んできたどの娘よりも頭一つ以上秀でていた。故にほとんどの神殿人が認めないと申し立てても、巫女姫の座はこの青白い娘のものになった。
丁度そのころ筆頭騎士の座に就いたライドールは、この巫女姫の護衛をしなければならないのかと思うと大変不本意だった。筆頭騎士の一番の職務は巫女姫の護衛だからだ。しかし何故かライドールは巫女姫ではなく、筆頭巫女であるローゼリシアの護衛を担当するように神殿長ゼイオスから命じられ、複雑な思いをしたことを覚えている。そして巫女姫の護衛は上級騎士が交代制で行っていた。
当時はマーレヴィーナのことをあまりよくは知らなかったから、この命令を奇妙に思いつつも、不本意な仕事よりもむしろローゼリシアの護衛の方が望ましかったので、彼は納得して受け入れた。しかし今となっては腑に落ちない点も多いが。
今更ではあるが、ライドールは聖婚について詳しくは知らない。
海神との『結婚』など所詮は儀礼的な形だけのもので、儀式が終わったら役目も終わり、と思っていた。巫女たちは聖婚が終わったら還俗されて故郷に帰ると聞いている。しかし巫女姫は聖婚の儀式のあと、どうなるのかはよく分からない。神のものになった娘であるので、おおっぴらに神殿の外に帰すわけにはいかないのだろうから、しかるべき時期を見かはらって出されるのだろうとは思う。
ライドールは目の前の巫女姫を凝視した。
ローゼリシアが麗しい白薔薇であるなら、彼女は静謐な白百合だ。巫女姫は認めがたい存在ではあるが、彼女の霊力とその神秘的な美貌については認めざるを得ないとライドールは観念している。あの色素の薄い容姿はローゼリシアの母親と同じ西方の出身か、もしくはライドールと同じく北方の出か。彼女の過去のことは何一つ知れないので分からないが、彼女の佇まいや所作、言葉遣いから察するに庶民階級ではないことは分かる。また、高い教養も見受けられる。明らかに貴族の出身のようだが、けれど誰かに傅かれて生活してきたようにも見えない。貴族の姫君として育てられたなら、身の回りのことを周囲のものにさせることに慣れているはずなのにそんな様子もない。
ライドールにとって巫女姫は不可解な存在だった。
しかし、聖婚さえ終わればこの神殿での生活にも終止符を打つことができる。ライドールはオルシュタット公爵の後ろ楯を得て、祖国に打って出ることになっている。隣国アーベルの内乱を利用して不当に公国での地位を簒奪した、彼の異母兄弟から本来の地位を奪い返すのだ。祖国を出る際、父である大公から彼を国に戻しさらに後継に推すために、このマーレヴィーナとの『縁』を作ってくることを条件にされた。北方諸国は今、紛争や内乱が絶えない。フラゼア公国は歴史も長い大国だけに基盤もしっかりしていて、大公の権力も今のところは揺るがない。しかし周辺諸国が不安定な状況にある以上、それなりの対策も必要で、これまであまり交流のなかった南方の有力な国とも関係を作っておくことも必要だと大公は考えているようだ。
ライドールが思わぬ政争に敗れて失権し、このマーレヴィーナへ来たのも、もしかしたら大公が噛んでいるのではと彼は思うが、今となればそれはほぼ確信に変わっていた。そして自分は父の期待に応えられるだろうとも。彼は聖婚が終わったら還俗するローゼリシアと婚約してこのマーレヴィーナでの地位を得て、祖国へ凱旋する。ライドールはその光景を思い浮かべて、口元を弛める。
(――もうすぐ、だ。)
ライドールは早くその時が来ればいい、と思う。不当な立場に甘んじた数年を取り返し、新たに望むものも手に入れて。
(――全ては予定通り、上手くいく。わたしは全てを手に入れる……)
ふと、室内を満たす霊力の濃度が薄れる。
見ると先程まで跪いて祈りを捧げていた巫女姫が立ち上がり、こちらを見つめていた。ゾッとするほどに昏い闇とも見紛う深い蒼の瞳に光はない。あるのは深海の底のような静謐で得体の知れないモノで。ライドールはその余りの底知れなさに戦慄するが、奥歯に力を入れ、何とかそれを外に出さないように堪える。そんなライドールの動揺に気づいたのかは分からないが、巫女姫はゆっくりと口を開いた。
「祈祷は終わりました。立ち会い御苦労様でした」
巫女姫は長い髪を揺らしてライドールの側を通りすぎていく。すれ違い様、視線で彼女の姿を追う。背筋をピンと真っ直ぐ伸ばし、姿勢よく歩く姿は凛として気高い。何の装飾もない質素過ぎる真っ白い長衣すら豪奢なドレスにも見劣りしないものに見えるのだから、それは彼女が持つ本質がそれなりのものであるということに他ならない。
一体巫女姫は何者なのか。
ライドールは彼女がこのシェーラミルデ神殿に現れてから、もう何度したか分からない問いを繰り返す。本当に始まりの巫女姫の再臨だとしても、この神殿に来る前は別の生活をしていたはずだ。けれど彼女の過去については全く分からないままだ。その名前すら。
祈祷が終わって恐らく自室へと戻る彼女についてライドールはその背中に従う。この場において巫女姫の護衛を担うのはライドールの職務だからだ。振り返りもせず、言葉もなくただ静かに回廊を歩く巫女姫が一体何を考えているのか想像も出来ない。
二人分の靴音だけが他に誰もいない回廊にやけに高く響く。
早く部屋に着いてしまえばいい。ライドールはこの息苦しい状態から早く解放されたかった。解放されて、早くローゼリシアの顔が見たい。彼女に会って、彼女の優しい雰囲気に癒されたい。
「――――――っ……」
もうすぐ聖殿に入るところで先を行く巫女姫が突然足を止める。珍しく焦燥するような気配に訝しんで彼女の視線の先を見ると、そこには抱き合う男女の影が見えた。
注意深く凝視すると、その影の正体はすぐに知れる。
影はルディと――ローゼリシアだった。




