3
大きな背中をローゼリシアは懸命に追いかけた。
相手は特に早足で歩いている訳ではないと思われるのだが、長身のルディは足も長い。歩幅が違い過ぎるため、後を追うとなると必然的にローゼリシアは小走りになる。
先程の怖いくらいに厳しい表情を思い返し、ローゼリシアは自分の軽挙を心底悔やんだ。
きっかけは昨日、実家から届けられた品物の中に珍しいお茶を見つけたことだった。
家人が北方諸国から持ち帰ったそれは、とても口当たりのよい優しい香りと味わいだった。そのお茶を初めて口にした彼女は実家の使いの者に詳しく尋ねたところ、アーベルの特産品の花茶と呼ばれるもので、かの国では一般的なお茶であると聞かされた。色も透き通っていて美しく、ローゼリシアはすぐに気に入った。
そしてお茶を楽しみながらふとルディのことを思い出した。
彼はアーベルの元王子だ。
国を離れて随分経っているが、この優しい味を懐かしいと思ってくれるかもしれない――笑ってくれるかもしれない、と。
冷静に考えれば今の彼にとって祖国にいい思い出はないだろう。垣間見た彼の過去は重く、彼は努めてそれを封じて生きている。彼が今何を思い、願い生きているのかは分からないが、故郷を懐かしむ心の余裕などありはしないことはわかりきっていたのに。
なのに些細な彼との接点を思いがけず見つけたことで舞い上がり、彼を深く傷つけてしまった。
(……なんと、愚かなことを……)
ローゼリシアは泣きたい気持ちを必死に堪えた。泣きたいのは寧ろルディの方だろう。
お茶の香りを嗅いだ時の彼の強ばった頬と、恐らくいろんな感情が入り交じった瞳。彼の胸の裡にある何かを、ローゼリシアは不用意に踏み荒らしてしまったのかもしれない。
そして彼が去り際に言った言葉――『王夫妻は自らの民に殺されたんだ』
血を吐くように、彼が絞り出した言葉はローゼリシアにとって衝撃をもたらした。
冥い瞳の奥には恐らくは壮絶な光景が映し出されているのだろう。
ゆっくりと立ち上がり、振り返りもせずに部屋を立ち去った彼の態度がそれを雄弁に物語っている。
(ああ、何てことを……! わたくしは一体彼に何を望んでいたというの?!)
ローゼリシアは自分を激しく叱咤する。ルディの過去に踏み込んで、祖国の現状を知らしめて、一体彼に何をしてほしかったというのか。
(わたくしは多分、彼に有るべき姿を取り戻してほしいと思ったのよ……)
誇り高い王族としての本来の姿を。
今の擬態もローゼリシアにとっては好ましい姿の一つではあったけれど、それは偽りの姿だ。内乱さえなければ、彼はこんな瞳で、こんな言葉遣いで、世界から背を向けるような真似はしなかったに違いない。
でも、ルディが本来の姿を取り戻したらローゼリシアはどうしたかったのかと自問する。そしてその瞬間に彼女は自分の望みを理解する。
(わたくしはこの先の未来、彼と一緒にいたいから、彼に自分に釣り合う身分であってほしいと思っている)
ローゼリシアは自分の勝手すぎる願いに愕然とする。
恐らく父公爵は還俗した自分が添う相手に、身分相応のものを選ぶだろう――あのライドールのように。ルディも本来の身分なら小国とはいえ王族、それも未来の王になる者だった。そうなら身分と言う点において障害となるものはない、と。
(何て自分勝手で浅ましい……)
とにかく謝らなくては。ローゼリシアは離れていく背中を必死に追いかける。
とにかく自分の浅慮がいけないのだと激しく後悔していたが、それでもこのままにはしておけなかった。
「ルディ様、お待ちくださいませ!」
必死に追いかけてようやく追いついたは聖殿に差し掛かった辺りだ。
「ルディ様……」
振り返ってくれた彼の表情には恐れていた怒りや侮蔑の色はなかった。しかし彼は困惑したような微妙な表情で、ローゼリシアの顔を見て小さく溜息をついた。
「あの……、わたくしが軽挙でした。貴方様のお心も考えず、勝手に浮かれて」
「どうして浮かれていたんだ?」
「それは……ルディ様に縁のものを手に入れて、ルディ様との接点が出来たと思って」
だんだん紅潮して熱をもっていく頬が恥ずかしくて、ローゼリシアの声は小さくなりついには俯いてルディの顔が見れなくなってしまった。ローゼリシアは居たたまれなくなって両手で顔を覆い隠す。
その瞬間、ルディの大きくて硬い手がローゼリシアの小さなそれに触れた。
「この指輪は……?」
ルディの様子がおかしいので両手を顔から外し、見上げるとルディはローゼリシアの右手を取って、指に――その薬指にはめられた指輪を見つめていた。この指輪はローゼリシアが筆頭巫女に就任した時にその身分を示すものとして授けられた。以来、ローゼリシアの指にはずっとこの指輪がはまっている。因みに指輪は巫女の全てに授けられており、その中央に輝く石の色で階級を示す。透明な石は見習い、紅は上級巫女、ローゼリシアは蒼、そして巫女姫は紫といったように。そういえば巫女姫が指輪をしているところは見たことがない。といっても彼女は一切の装飾品を身につけないのであるが。
「この指輪はマーレヴィーナの巫女であることを証明するものです」
ローゼリシアが説明してもルディはローゼリシアの手を取ったままだ。
「指輪がどうかしましたか?」
「これと同じ指輪を持つ者は他にいるか?」
「いえ、筆頭巫女は当代に一人ですので、わたくしの他には誰も……」
難しい顔のままルディは何やら考え込んでしまった。その険しい雰囲気にローゼリシアはどうしたらいいのかわからなくなった。
先程の失態のことを怒っているようには見えないが、状況は依然としてローゼリシアにとって辛いものには変わりない。
「あの……ルディ様。わたくし先程はルディ様のお気持ちも考えず本当に申し訳なく」
ローゼリシアは意を決して顔を上げ、伝えようと心に決めてきた謝罪の言葉を改めて口にした。ルディの手を握り返し、必死に。その様を見てルディは僅かに瞠目したが、やがて静かに首を横に振る。
「いいよ、お前に悪意がなかったのは分かるから。でもこれ以上俺に関わらないでもらえると助かるな」
思いがけない台詞に、今度はローゼリシアが固まる。
「それはどう言うことですか?」
「言葉通りの意味だ。お前はここで大切なお姫様だからな、どこぞの馬の骨が関わるのは歓迎しない人間が多いんだ」
「でもルディ様は……」
「それを知っているのはお前だけだろう」
離れようとルディはもう片方の手をローゼリシアの肩に置く。ローゼリシアはこの後の展開を予想して、ルディに逆に縋りついた。
「わたくしは、そんなことは嫌です!」
ルディの胸に顔を埋めて、ローゼリシアは涙を溢す。彼女自身も何故自分がこんなに感情的になったのかは分からなかった。けれど、遠ざかるものをどうしても引き留めたい一心だった。こんなに欲しいと切望したものは他にはなかった。
「……ローゼリシア……」
初めてルディがローゼリシアの名を呼ぶ。けれど、その声に熱はない。乾いた、呻くような声に益々ローゼリシアは感情的になってさらに身を寄せる。
――ガシャン
何かが落ちる音がして二人同時に振り返ると、見たこともないほどの怒りに身を包んだライドールと、仮面のように全くの感情の色のない巫女姫が、聖殿の入口に立ったままこちらを見ていた。