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何が一体どうなってこの状況に陥ったのか?
今を遡ること数刻前、聖殿に続く回廊でローゼリシアと鉢合わせした。彼女はルディの姿を見ると、いつものように嬉しそうに声を掛けてきた。
ここまではいつもと変わらない。
問題はこの後だった。
ローゼリシアはお付きの巫女や仕事中の神官、神殿騎士のいる前で唐突にルディをお茶に誘ったのだ。曰く、
「実家から旅の土産だと珍しいお茶を頂いたのです。ルディ様はここ連日まともなお休みもなく働き詰めでいらっしゃる。わたくしの誘いを口実に少し休まれては如何でしょうか?」
悪戯っぽい視線を投げ掛けながら耳打ちされた言葉に、ルディは返答に窮した。
ローゼリシアと関わると煩い者が多すぎる。面倒には関わらない方がいいというか、これ以上の面倒は御免だと、ルディはそう考えて断ろうとした。しかし、
「礼儀も知らない傭兵ごときが、お生まれの高貴なローゼリシア様の折角のお心遣いを無下にするとは、何と無礼な……」
脇に立っていた中年の巫女が口元に手を遣りながら、神経質に言う。この手の者は誘いを快諾したらしたで、「下賤の者が何と厚かましい」などと言うに違いないのだ。ルディがギロリとその巫女を睨むと、当の巫女は「ヒイッ」と素っ頓狂な悲鳴を上げて竦み上がった。その声を聞いて周囲にいた神殿騎士の何名かが集まってくる。
「おい! 傭兵風情が神殿の巫女どのに対してその態度は何だ!」
神殿騎士は彼なりに威厳を持ってルディを叱責したようであるが、身なりだけ立派だが中身の伴わない半端な騎士ではルディに勝ち目はない。神殿での立場は彼の方が上であるので、上役としての立場を主張したいのかもしれないが、何の迫力もないので無意味な上に滑稽だ。
(ったく、面倒だよな……)
正直煩わしさしかない。ローゼリシアは何の悪気もなく、全くの善意のみで声を掛けてきたことが分かるだけに面倒だ。
今の状況も十分に面倒だが、ルディはこれ以上炎上するのはどうしても避けたかった。しかし、漸く場の空気を察して自分の失敗に気付いたローゼリシアがしゅん、と項垂れているのを見て何だか可哀想になった。彼女のことを気遣える余裕もないのが本音だったが、周りの外野があれこれ騒ぐから、ルディの中で何かがブッツリと音を立てて切れた。
「いいよ、ご相伴に預かろうか」
ニヤリ、と口角を上げて笑うとそれは思いの外威力があったらしい。ルディの傭兵仲間が見ればこれはヤバイと直ぐ様退散するような邪悪な笑みは、年増巫女や無能騎士には効果覿面で、彼らは青くなったり赤くなったりして、口を陸に上がった魚のようにパクパクさせていた。
「本当ですか?!」
しかしながら世慣れないローゼリシアには全く効かなかったらしい。彼女は額面通りに受け取って、純粋に喜んでいる。だが彼女の裏のない様は、見ているだけで何故だかほっとする。ルディは長い間、誰も信じないで生きてきた。他人は信用できない、信じてはいけないと唱えながら生きてきたから、彼女のような純粋培養されたような人を見ると何とも言えない気持ちになる。
一抹の罪悪感と、これから起こりうる煩わしいものにルディは内心嘆息しながら、急に元気を取り戻したローゼリシアに着いていくことになった。
ローゼリシアの私室は神殿の中とは思えない様相だった。
白と水色に統一された内装は、清楚且つ高貴な雰囲気でいかにもお姫様の部屋だ。さすがに海底なので窓はないが、純白のレース織りの天蓋が存在感を主張している。
部屋の中央に設えた立派な応接用のソファーは、どこかで見覚えがある意匠だと思ったら東国の超有名な工房で作られた、王公貴族でもそう簡単には手に入らない逸品だ。遠い昔にルディの母親が気に入って使っていた座椅子と意匠が似ている。勧められ腰を下ろすと、成る程本当によい座り心地で、ローゼリシアの実家がいかに権力を持っているかがよく分かる。あの工房の品は納品までに数年掛かることもざらで、その上職人は納品先を選ぶからだ。
ルディがそんな下世話なことを考えていると程なく暖かいお茶が運ばれてきた。
年代物の茶器に入れられたそのお茶は澄んだ琥珀色で、仄かに甘い香りがする。ルディはそれを見た途端に僅かに眉を吊り上げ、睨む。
「これはどういうことだ?」
折角のお茶を口にせず低い声で唸るように言うと、ローゼリシアはお茶を運んできた巫女を下がらせて、ルディの正面に腰を下ろした。
「先日実家のものが所用で北方諸国を巡ってきたそうです。これはその土産と」
微笑んで話すローゼリシアを見れば完全に善意でしたことであるらしい。彼女が淹れたお茶は、春茶と呼ばれている。ルディの祖国の特産品で長い冬を経て漸く訪れる短い春に咲く春雪花という桃色の花を乾燥させて作る。一年の殆どが雪に閉ざされるアーベルにおいてはこのお茶は待ちに待った春を象徴するものだ。
懐かしい香りが鼻孔を擽り、ルディはそっと瞼を伏せた。
「折角の心遣いだが、今はまだ頂けないな」
ルディは茶器をテーブルに置く。それを見たローゼリシアは見る間に萎れてしまった。大変分かりやすい態度に、ルディは小さく溜め息をつく。
「俺は今はただの傭兵でしかない。故郷もない」
ルディのこぼした言葉に、ローゼリシアは首を振った。
「アーベルは新たな王が立ってもう何年も経つのに、国内は未だに乱れているそうです」
「そうらしいな」
ルディは全く表情一つ変えず、他人事のように嘯く。その視線の先には例の春茶。ルディが無関心を装っているだけなのはローゼリシアにすら明らかだったが、それをここで指摘することは止めた。それでもローゼリシアが何か言いたげなのは気配で伝わったようだ。ルディは視線を上げてローゼリシアを真っ直ぐに見据えると、皮肉げに口元を歪める。
「お前はアーベルの前王について何か知っているか?」
挑むようなルディの態度に、ローゼリシアは呼吸を落ち着かせてから記憶の糸を手繰る。ローゼリシアは物心つく前から神殿で育った。一通りの教育も神殿で受けた。大陸の主だった国の歴史も学んでいる。しかし、ルディの祖国アーベルはこのマーレヴィーナからは離れすぎている。一年の殆どを雪に閉ざされた小さな国。ライドールの祖国フラゼアは大国だけによく学んだが、正直それ以外の北方諸国にはあまり馴染みがないせいかよく知らない。知っていることは些細なことだけだ。
「民のことをよく思いやる、慈悲深い賢王だったと」
あくまで聞き齧った程度の話だ。アーベルの前王は穏やかな人柄で、国民から慕われていた、と。しかしその優しき王は国を追われた。それは何故か。
「王は民のことを第一に考え、常に民に忠実だった。彼の政治的な判断の基準は民の利益に叶うかどうか、だった」
「では王は自分の利権を主張する貴族に陥れられたのですか?」
「他国ではそう見られているようだな」
ルディは俯いているので表情はよく見えない。けれど握り締めた手が白く微かに震えていた。
「アーベルの王は愚かだ。最期まで自分の民を信じていた。いつか彼らは真実に目覚めてくれると。敵はそんな甘いものではないと分かっていたのに……」
ルディは一旦言葉を止めて、ゆっくりと立ち上がる。
「ルディ様?!」
背を向けて立ち去ろうとしたルディの背中に、思わずローゼリシアは縋るように呼び掛けると、彼は首を回して顔だけをこちらに向けた。彼の身を包む明らかな拒絶の空気に、ローゼリシアは凍てついたように動けなくなる。
「王夫妻は逆臣に討たれたんじゃない。彼らが最期まで守ろうとした自分の民に殺されたんだ」
吐き捨てられた言葉に、ローゼリシアは何も返すことが出来なくてただ、彼の氷の瞳を見つめるしか出来なかった。