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聖婚をあと三日後に控え、シェーラミルデ神殿はその準備に追われかつてない慌ただしさをみせていた。二十年前に行われたという前回の聖婚がどのように行われたかルディは全く知らないが、ここの忙しさは異常に見える。それは年配の神官に顕著で、彼らは一様に忙しなく動き回ることで、何かから逃げてようとしているのではないかとさえ思えた。
今も大きな荷物を抱えた神官が、息を弾ませながらルディの視界を横切っていった。大変だなと思うが、彼を手伝ってやろうとは思わない。神殿のことに必要以上に関わると煩いものが多すぎる。特にあのライドールとかいう筆頭騎士は、何かにつけてルディを目の敵にしてくる。完全に敵認定されたようだ。どうやらローゼリシアに気のあるらしい彼は、ローゼリシアに近づく者は容認出来ないようだ。
そのローゼリシアは傭兵が珍しいのか、ルディの過去に興味を持ったのかは分からないが何かと気安く接してくる。彼女の健気な様子は、彼の記憶の奥に仕舞っている大切な思い出と重なることがある。そして彼女の素直さや可憐な佇まいはとても好ましいとは思う。平時であれば自分でも知らないうちに心が傾いていたかもしれないが、けれど今は正直それどころではないと戒める。
ルディの仕事は相変わらずの状態だった。
あれ以来、男の襲撃はなく小物の襲来ばかりだ。
一体誰が何の目的で仕向けているのかは分からない。散々あっさりと返り討ちにされて、これ以上同じような程度のものを仕向けても仕方がないことは分かるはずだ。
敵の目的が分からなくて、ルディの苛立ちは募るばかりだった。
「ルディ様!」
ルディの姿を回廊の奥に見つけて、ローゼリシアは思わず声を張り上げて呼び止めてしまった。はしたない、と口に手を当てた時にはもう遅かった。隣に付き従っていた年嵩の巫女は厳しい表情で眉を顰め、周囲にいた他の神官たちが足を止めてこちらに視線を向ける。
当のルディは困ったような曖昧な表情で立ち止まり、逡巡したのか一拍おいてからゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「何かご用か、筆頭巫女どの」
ルディの態度は他の神殿の住人にはないもので、初めはそれがとても新鮮だった。彼はローゼリシアを特別扱いしない。
彼を見ていると胸がぎゅ、と締め付けられるような切ない気持ちになる。ルディは容姿も洗練されていて、長い間傭兵をしていたためか逞しい体つきをしている。女性では背の高いほうである自分よりもさらに頭一つ分以上高い長身も、耳に心地よい低音の声も、氷のような薄い水色の意思の強そうな瞳も、ローゼリシアの心をしっかりと捕らえてしまった。
初めは義務感と少しの好奇心だった。
余程のことがない限り使わないと決めた過去視の力。類をみないこの力を持っているのは、少なくとも神殿内ではローゼリシアだけだ。
グラントが連れてきた傭兵はとても不思議な存在だった。容姿は貴公子然としているのに口も態度も悪い。その不釣り合い加減が微妙で、興味が湧いた。他人の生い立ちを知りたくなったのは巫女姫以来だった。
そして覗き視た彼の過去は、想像以上に高い彼の霊力のせいかかなり断片的だったが非常に重いものだった。
王位を継ぐものとして、妥協を許さず、自分を厳しく律して勉学に、剣の稽古に励んできたこと。
隣国と組んだ貴族に嵌められて王都を追われた日のこと。
逃亡生活の中で得たささやかな安息と、それを遥かに凌駕する絶望と。
彼が何故傭兵になったのかは視えなかった。
それ以前に王都を追われてからの出来事が、厚い氷に閉ざされているように酷く曖昧だった。彼が特に心を閉ざして封じようとしているかのようだ――けれどその向こうにあるのは明らかな絶望だった。底の見えない闇のような濃くて、深い絶望。
彼を知るほどに目が離せなくなった自分を自覚したのはいつだったろうと、ローゼリシアは自問する。気が付いたら目で追っていた。
多分これが恋なのかもしれないと、ローゼリシアは思う。実際恋がどんなものなのかは分からない。男性に声を掛けられてドキドキしたり、嬉しかったりすることが初めてだった。彼の声を聞きたくて意を決して呼び掛けると、彼は自然な態度で応じてくれる。それが嬉しくて、もっと一緒にいたくて。
ローゼリシアは聖婚の儀式が終わったら巫女の任を解かれる。
シェーラミルデ神殿の巫女は聖婚が終わると全員入れ替わるのだ。任を解かれた巫女は「外」に還される。ローゼリシアは実家に戻って、多分親の選んだ相手の元に嫁がされるのだろう。
巫女姫に選ばれなかった日から、そうなることは分かっていた。偶に会う父公爵からそれを匂わせる話も出たし、どうやらその相手はあの筆頭騎士のライドールであろうことも。ライドールは祖国での復権を望んでいる。そのため、南方一の権威をもつこのマーレヴィーナの有力貴族の令嬢、且つ元巫女のローゼリシアを妻に娶ることは彼の望みを叶えるのに重要な足掛かりとなるだろう。
つい先日まではそれも自分の運命だと諦めていた。
ライドールは苦手だが、彼は紳士的であるし、彼女を大事にはしてくれるだろう。それ以上望むことは贅沢だと、ローゼリシアは今の立場を甘受しなければならないと思っていた。
けれど、欲が生まれてしまった。
彼に出会って、彼に恋をして。
この先の未来を一緒に過ごせたらと望んでしまった。
ローゼリシアは今まで何かを強く望んだことはなかった。
この望みはただただ、純粋な想いだけだった。
だから、この先の運命を揺るがすものになるとは思いもよらなかった。
「あの、ルディ様……」




