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ルディの嫌な予感というのは高確率で的中する。
祖国を追われた日も、信じていた者に裏切られた日も、大切な人を永遠に喪った日も。
だからこの予感を感じた時は、これから起こることが彼にとって望ましくないことであることを伝えているので正直有り難くない。けれど、この危険に対する鋭い嗅覚を持ち合わせていたお陰で、彼は今日まで生き延びてこれたのかもしれなかったから、この能力には感謝すべきかもしれない。
ルディは目の前に幽霊のように気配なく立つ黒くずめの男を見据える。
一番警戒していた相手。前回ルディが全く歯が立たなかった相手。
「まだいたのか、業突張りな奴め」
相変わらず一分の隙もない。その紅い眼光には明らかに侮蔑の色が見てとれた。
何と言われようが、ルディには大金を集める理由があった。今度は心の準備も十分に出来ている。前回のような不覚は絶対に取らないと、ルディは男を無言で睨み付けた。
ゆっくりと愛用の長剣を構える。いつでも斬りかかれるように、腕に力をこめて柄を握る。ジリジリと摺り足で間合いを図るが、男は剣に手を掛けることはなくこちらをじっと見つめている。どういうつもりなのか、ルディの眉が僅かに上がると、それを目敏く見ていた男が無表情のまま口を開いた。
「答えはわかったか?」
静かな声だった。この緊張に満ちた回廊に低く響く。
その眼差しは真摯で、男が何らかの野心を持って巫女姫を狙っているようには見えない。
「何のことだ」
ルディは男が言わんとしていることを分かっていたが、敢えて尋ね返す。相手の反応を見てみたかったからだ。
「お前がそんなことも分からぬほど愚かだとは思ってはいない。擬態も大概にするんだな。見くびらないでもらおうか」
「なるほど」
男の冷静な反応に、ルディは対応を変える必要性を感じた。相手はどこぞの馬の骨ではなさそうだ。確実にそれなりの過去を持っている。
「答えは否、だ」
剣を構えたまま、ルディは端的に答える。
男の問いは本来聞き返すまでもなく解っている。
『何故マーレヴィーナに巫女姫が必要なのか?』
神話を今に残すため、伝統の儀式を執り行うため、海神に変わらぬ信仰を捧げるため。
誰もが考え付くそのどれもこれもが、男のいうものではないことは明白だ。そんなものが答えなら、男は敢えて訊いたりしないだろう。
ルディは神殿騎士に目をつけられない程度に調べて回ったが、答えにたどり着くことは出来なかった。どんな書物にも、建前のような理由が並べられているだけだった。
「聖婚は阻止する。巫女姫は存在してはいけない」
男の声は酷く静かなままだったが、裡には確かな決意の色が見える。生半可な覚悟ではない。その迫力に、ルディは瞠目した。
「だから巫女姫を消すのか? 聖婚を阻止して何がしたい? あんたはマーレヴィーナに相当な恨みでもありそうだ」
揶揄を含んだルディの口調に、男の顔が明らかな怒りに歪む。
「ああ、そうだ。マーレヴィーナなど滅びてしまえばいいのだ!」
地獄から響くような低い声音。男は吐き捨てるようにいい放つと腰に差した剣を抜いた。
「だが、その前にわたしにはやるべきことがある。それを邪魔立てするなら誰であっても容赦しない」
背筋が瞬時に凍てつくような、凄まじい迫力だった。
男の目的は巫女姫を消して聖婚を阻止すること。そうすることで、この海都がどんな混乱に陥るかは余所者のルディにも想像に難くない。マーレヴィーナの民にとって海神は絶対の存在であり、それに属する巫女姫は唯一無二の信仰対象でもあり、聖婚は最も大事な儀式だ。マーレヴィーナの精神的支柱ともいえるこれらが崩れ落ちたとき、この紺碧の都は闇に閉ざされるほどの失意と言う海の底に沈むだろう。海神に最も近いとされる巫女姫という権威の光を失っては、マーレヴィーナはもはやその地位を失ってしまうだろう。それが男の目的なのか?
いや、何か違う。
ルディは男を改めて見る。鍛えられた立派な体格、太い筋肉で引き締まった腕。隙のない構え。只者ではないのは言うまでもないが、男には不可解なことが多すぎる。巫女姫を弑するのならこれまでも機会はいくらでもあったはず。何故今になって現れたのか。
「俺は自分の仕事をするだけだ!」
男の繰り出す白刃の煌めきが空を鋭く切り裂く。その一閃を躱せたのは、ルディもそれなりに死線を越えてきたからに他ならない。前回とは違って今は十分に落ち着いているし、心構えもある。前回の轍は踏まないと誓った。
ルディは男の攻撃を躱した反動を利用して、外套に仕込んでいた短剣を投げる。予想していなかった反撃に男の反応が一瞬遅れる。
「――――チッ」
しかしそこはさすがと言うか、男は体格に見合わない俊敏さで辛うじて剣で弾き返す。
「――――!!!」
だが、今回はルディの方が一枚上手だった。男が短剣を弾いた瞬間に二投目の短剣が男を襲う。今度ばかりは男も追いつかない。
鈍い音がして、短剣は男の腕に突き刺さる。男は一瞬眉を顰めて腕を見やり、盛大な舌打ちをする。舌打ちしたいのはルディも同じで、急所を狙ったはずが仕留め損ねてしまった。
「噂は誇張ではないということか……」
男は突き刺さった短剣を一気に引き抜くと、その剣先から鮮血が滴る。
男の口元が歪に歪む。男は忌々しげにルディを睨むと両手を前に翳した。
その瞬間、狭い回廊に視界を奪うような眩い閃光が走る。目眩ましの呪術、それは前回巫女姫がしたのと同じものだった。しまった、と思った時には視界が回復し、男の姿は見えなくなっていた。
「くそったれ!」
ルディは悪態を吐き、込み上げる怒りをどうにかやり過ごそうとした。手ごたえはあったはずだった。先日は突然のことで混乱していたから冷静に相手をみることができなかったが、今回は違う。男は確かに相当な手練だ。しかし、相手は元騎士か何かに違いない。間違っても傭兵じゃない。それは男が正統派の剣を扱うからだ。先ほどのルディのような戦法は使わないのだろう。
(あいつ、何者だ?)
ルディは訝しむ。男は突然現れる。他の神殿騎士が侵入に気づいた様子もない。神殿騎士たちと男がグルであればこの疑問は意味をなさないが、それも考えづらい。男は巫女姫を害するというよりマーレヴィーナを憎み、聖婚を壊そうとしているように思える。それならば先日グラントの部屋にあった不気味な手紙の内容とは、微妙に違和感を感じる。どういうことだろうか、とルディが首を傾げた時、視界の先にキラリと光るものが映った。
ゆっくりと近づいてみると、そこには小さな指輪が落ちていた。この薄闇のなかで気付けたのが奇跡なくらい小さなものだった。意匠や大きさから考えるに女性のものだろう。慎重に手のひらに乗せると、中央に嵌った蒼い石が存在感を主張している。指輪からは禍々しいものは感じられない。呪具の類ではなさそうだ。
先ほどまではなかったものだった。本当に小さなものだから見落としていたかもしれないが、持ち場に戻りしな、ルディは周囲に異変がないか神経を使って見て回っていたのだ。その時この指輪はなかった。
あの男のものなのだろうか。
ルディは指輪を乗せた手のひらをゆっくりと握った。
手の中の冷たい金属の欠片が、何故か重く感じた。




