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マーレヴィーナの巫女姫  作者: 綾野柚月
2章 心の行方
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 波打つ水面の天井から雨のように降り注ぐ「外」の光は優しく、ローゼリシアはその目映さに目を細めた。ここのところ何かと忙しく、こうして「外」の光を感じる余裕もなかった。

 『聖婚』の儀式まであと半月となった。

 今はその準備で目が回るほどに忙しく、ここまでの忙しさは未経験だったため、目の前の仕事をこなすだけで精一杯だった。彼女の仕事は主に当日の巫女姫の段取りを確認することで、全く準備に関わろうとしない巫女姫に代わってその一切を執り行っている。正直なところ、どうして自分がここまでしなければならないのかと首を傾げるも、巫女姫が奥に閉じ籠っているのは今に始まったことではないので諦めた。ただ、本番こそは出てもらわないと困るので、当日までこの調子を続けられたら……と、それだけが不安だ。

 今も聖婚の儀式で巫女姫が着る礼装の衣裳合わせだったのだが、相変わらず拒否されたので代わりにローゼリシアが試着した。いくら背格好がほとんど同じとは言え、代理で着てもほとんど意味がないが、せっかくマーレヴィーナの民が来る日のために心を込めて仕立ててくれたので、その思いに礼を尽くして応えなければならない。繊細なレースや刺繍が丁寧に施された礼装は、本当に美しく、海神の花嫁に相応しいものだった。見ているだけで心が踊るような素晴らしい仕上がりで、この衣裳を身にまとうのが自分であればと思ってしまい、ローゼリシアは小さなため息をつく。


 ローゼリシアも年頃の娘で、世俗にはいくら疎くても世間一般の少女らしい願望はある。

 物語の中でしか知らない、切なく愛おしい感情――ただ一人の人に心を捧げ、捧げられたい。

 美しい花嫁衣装を着てただ一人の人と結ばれたい。手にした礼装は花嫁衣装としては極上のものだろう。この衣装を着て、神の前で愛を誓えたら。

 彼女は物心ついた時から神殿で巫女となるべく育ってきたので、同世代の異性とまともに話したことはあまりない。神官や騎士たちはいつもローゼリシアに対して一定の距離を置いて接してきたし、彼女の立場はそういうものだったのでどうしようもないとは理解していた。しかし、ほかの巫女たちも彼女を特別視しすぎる故に壁を感じていた。そう、物理的なものに不自由は感じていなかったが、彼女はいつも孤独だった。声を掛ければ誰もが優しく応じてくれる。皆笑顔でローゼリシアに接してくれるが、どうしても距離を感じてしまうのだ。ないもの強請りだとわかっていても、望む心は溢れてどうしようもなかった。

「ローゼリシア、どうかしましたか?」

 俯いている彼女に、背後から優しい声が掛かった。振り返るとライドールがいつもとは違って騎士の正装の鎧ではなく、高位貴族がよく着用する襟の高い服を着て立っていた。重厚そうな漆黒の外套は見た目より涼しげな素材で織られたもので、最高級品をさらりと着こなすあたりは彼の出自を考えれば納得できる。ライドールはローゼリシアになじみのない北の大国の公子だった。ローゼリシアは神官騎士としての彼しか知らないが、彼の高貴で他人を従えるようたたずまいは生まれ持ったものなのだろう。その彼の縁のない眼鏡の奥の翠の瞳は硝子玉のように静かに、ローゼリシアを捕らえていた。

「ライドール様、いいえ。わたくしは何も」

 ローゼリシアは聖婚の礼装を手にしたままだったことに気づいて、慌てて後ろに隠そうとした。が、目敏くなくてもその豪奢な衣装は彼女の小さな背中に隠しきれるものではなかった。ライドールは高い靴音を響かせながら近づいてきて、ローゼリシアから衣装を奪い取ってしまう。彼はその純白の衣装を見て、びっくりするくらい優しく微笑んだ。

「聖婚の礼装ですね。大変素晴らしい出来だ。貴女によく似合う」

「でもそれは巫女姫様のものです。わたくしはただ、巫女姫様の代わりに衣装合わせをしていただけで……」

 いいわけがだんだん苦しくなる。衣装合わせは別の部屋で行っていたが、ローゼリシアはその後つい別の場所で着てみたくて思わず持ちだしてしまった。自分でも何故こんなことをしてしまったのかは分からない。後先を考えないなんて子供みたいだと、彼女はバツが悪そうに俯くが、ライドールは真っ白なそれをローゼリシアの体に当てて満足そうに頷く。

「貴女の方がよく似合う」

 ともすれば巫女姫への不敬ともとれる発言にローゼリシアが眉を顰めると、ライドールは肩を竦めて衣装をローゼリシアに返した。その時微かに触れた自分より少し高い熱を持った手に、ローゼリシアは思わず身を震わせた。

「これは失礼」

 苦笑して、ライドールは用事の途中だったのだと言い残して立ち去る。珍しい服装の彼は恐らくこれから神殿の外へ行くのだろう。彼は神殿に身を置く騎士であるが、政治に明るいからかマーレヴィーナの議会にも籍を置いている。祖国では若いながら優秀な政治家だったと聞く。隙のない視線や所作は怜悧な刃物を連想させて、ローゼリシアはどこが、というわけではないが苦手としていた。真面目で誠実な態度は好ましいと思うが、心の中を決して見せない態度が、どことなく拒絶されているようで近寄りがたかった。それでも彼が筆頭巫女という彼女の立場を尊重して丁寧に接してくれていることは知っていたので、彼に特に害意のないことは分かる。要するに自分の問題なのだとローゼリシアは胸に手を当てて息をつく。


 結局礼装をもとの部屋に戻そうと来た道を戻り始めたとき、向こうから誰かの足音がした。

 視線を上げると、向かいから歩いてきたのはルディだった。過去を勝手に視てしまったことで怒らせてしまったのではないかと危惧していたが、彼は特に変わりない態度で接してくれた。恐らく口外しないなら目をつぶってくれるようだ。そして彼女の存在に気づいて足を止める。

「よう、大層な荷物だな。一人で大丈夫か?」

 砕けた口調は彼の偽装だと分かっているが、気易い態度にローゼリシアの心はふわりと浮上する。これまでこんな風に彼女に接する者はいなかった。

「ええ、大丈夫です。問題ありません」

「そうか……それって聖婚の衣装か?」

 ローゼリシアが頷くと、彼は珍しそうにじっと礼装に見入っていた。そして自然な動作で礼装の裾を持ち上げる。

「へえ、これは見事な仕事だな。巫女姫と言うのは民から随分慕われているようだ」

 感嘆の声を上げたルディに、思わずローゼリシアは彼を凝視してしまった。彼の反応は新鮮だ。ローゼリシアの周囲にいる者はまずローゼリシアを持ち上げようとする。けれど彼の反応は違う。しかし、別にローゼリシアを蔑ろにしているわけではない。彼はローゼリシアを一人の少女として普通に接しているだけだ。

 ふと、彼の視線と彼女の視線がぶつかってローゼリシアの頬に朱が散る。

 彼の薄い水色の瞳の中に自分が映っていることに、彼女は心拍数が一気に上がって目眩がした。





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