2
彼は苛々した気持ちをどうにか抑え込んで、目の前にたまった決裁待ちの書類の山の上から一枚の書類を取った。ちらりと内容に目を滑らせるが、他愛もない備品の申請で、彼はめんどくさげに署名すると決裁済みの書類を入れる箱に放り投げる。書類はめくってもめくってもくだらない内容だった。基本的に文官気質の彼は、騎士としての仕事よりこう言った事務作業の方が性に合っている。とはいえ、今の心境では他の騎士と鍛練でもして体を動かした方が随分マシだとさえ思う。
苛々の原因は言うまでもない。あの使えない警備担当の神官、グラントが連れてきたルディとかいう傭兵だ。もともと神殿警備は神殿騎士たちの仕事であるが、今は聖婚準備の為に人が割かれている。グラントは奥殿内部の騎士たちと神官を繋ぐ役割をしていたが、今回の人手不足であの巫女姫の警護の責任を押し付けられた。やたら保身に走る輩で、なりふり構わない奴だと思ったら本当になりふり構わず傭兵なんかを連れてきた。初めその報告を聞いた時、あまりの至らなさに切り殺してやろうかと思ったほどだ。その上あの傭兵はただならぬ雰囲気を纏っていた。あれは敵だと彼の直感は告げていた。あの眼光といい、所作といい、傭兵を装っているが、ただの傭兵では有り得ない。奴が何らかの目的を持ってこのシェーラミルデ神殿に乗り込んできた可能性もある。警戒するに越したことはない。ライドールはこれまで慎重に準備を重ねてある「計画」を立ててきた。その成就まであと少しのところまできて今回の一件だ。ライドールが警戒するのは当然の流れだった。
「あっ……閣下、この後面会を予定している方が既に神殿に入ったとのことです」
向かいの机に座って、居心地悪そうに大柄な体を揺すりながら仕事をしていた側近の騎士であるゼフィロが、新しい決裁の束を整えながら唐突に言った。この騎士は腕力は目を見張るものがあるが、脳まで筋肉でできている者の典型で、こういった事務作業では全く使えない。今日はライドールが祖国から連れてきた文官上がりの騎士が体調不良で寝込んでしまったため、急遽代わりにこの男が執務の補佐に入ったのだが、彼の仕事の出来なさは思わず天を仰ぎたくなるほどで、いっそ何もしないでもらえた方が助かるというものだった。
今も大事な言伝てをすっかり失念していたようだから、本当にどうしようもない。神殿騎士は良家の子息から選ばれるので身元は確かで、血筋もいいが、基本跡継ぎになれない次男三男がくるのではっきりいって使えないものが多い。そのくせ矜持だけは立派だから扱いに困る。このゼフィロは東国の将軍家の五男なので腕っぷしは立派だし、盾にはなるが、剣や槍の扱いはほとんど訓練を積んでいないライドールにも劣る。そのくせ口だけは達者で、部下に対する尊大な態度が目に余る。ライドールは構っている時間も煩わしかったため適当に放置していたが、そろそろ何とかしなければならないとため息をつく。
そして今回こそは使えない部下に対して叱責を飛ばそうかと思ったが、したところでこの男には全く響かないのは分かっていたのでやはり止めにした。これからのことを思えば頭痛が酷くなるので、これ以上疲れることは避けたい。次回にしようと思う。多分次の機会はそんな先のことではないばずだ。
「公爵はいつごろお越しになられたのか?」
「ええっ? あ……そうですね。わたしが聞いたのはだいたい半刻前です」
「…………」
半刻前と言えばこの男がライドールの執務室に入室してきた時間だ。恐らくゼフィロはライドールに公爵が到着したことを告げに来たのに、何故か目の前の書類を見た途端に本来の目的を忘れてしまったのだろう。散漫なのも大概にしてもらえないと、今日のように賓客に無礼を働いてしまうのは本当に勘弁被りたい。
「公爵のところへ行く故、この後のことは全部保留だ。ハーヴィが来るまで全部そのままにしておけ。来訪者についてはすべて後刻に改めて出直すよう伝えよ」
「はっ!」
背中に投げかけられた威勢のよい声に、返事だけは一人前だとライドールは舌打ちしながら執務室を足早に出る。待たせてしまった相手はこのマーレヴィーナの政治の分野においての最高権力者だ。そして、ライドールが密かに進めている『計画』の最重要人物でもある。万一彼の不興を買って、これまでの労力が水の泡になることだけは何としても避けなければならない。
執務室を出て真っ直ぐに向かった先は、表の神殿で賓客を迎えるために用意された部屋だった。神殿の他の部屋と同じく白と青に統一された室内は貴族の邸のように贅を尽くした内装で、一般に参拝客が出入りできるところとは趣が大きく異なる。そして奥殿とも違って神聖な雰囲気は全く感じれない世俗的な部屋だった。
半刻以上前に到着したというライドールの賓客は、温厚そうな壮年の貴族だった。白が目立つ髪に、浅黒い肌は南方のマーレヴィーナの民に多く見られる。深い蒼の瞳はよく見ると油断出来ない鋭い光を秘めて、真っ直ぐに伸ばした背筋からは老いは見えない。
「お待たせして大変申し訳ございません、オルシュタット公爵」
入室するなり深く頭を下げたライドールに、オルシュタット公爵は穏やかな表情のまま首を振る。この見た目優しげな男が、外見とは対極の性質を持っていることを身に染みて承知しているライドールにとって、この笑みは正直心臓に悪い。
「いや、構わぬよライドール殿。こちらが約束よりも早く着いたゆえ」
ライドールに着席するように告げて、オルシュタット公爵は時間がないので手短に、前置きした。神妙に頷いて、ライドールはすぐに本題を切り出す。
「グラントが傭兵を雇いました。素性の判らぬ男ですが、ただの傭兵ではないと思われます。警戒は必要かと」
「調査はどうだ?」
「暗部に命じて探らせてはいますが、ギルドにも登録はなく、噂で凄腕で金に煩いとだけ。実際剣の腕は相当のようです。巫女姫に差し向けられた暗殺者の殆どを一太刀で仕留めています」
「ほう……」
のんびりとした相槌の中に、オルシュタット公爵の不快を敏感に感じ取ってライドールは居ずまいを正す。
「それに最近はローゼリシア姫にも接触しています。目的は分かりませんが」
「ローゼリシアに、な。それはどういうことだろうな」
娘の名前を耳にして、オルシュタット公爵の表情が険しくなる。
「あれは世間知らずで穢れも知らぬ。我が娘に何ぞあればそなたも困るであろう」
「心得ております」
ライドールは再度頭を下げて、恭順の意を示す。
オルシュタット公爵はマーレヴィーナ一の権力者であるが、ライドールの本来の身分と比較したなら対等であるといっても差し支えない。けれど、ライドールにとってオルシュタット公爵は今後の命運を握る最重要人物の一人で、彼の「計画」を成し遂げるためには公爵の協力は不可避である。機嫌を損ねて敵に回られるのだけは絶対に避けなければならない。
「ローゼリシア姫に付けた護衛の数を倍にしました。今後はわたしも自ら動きます」
ライドールの返答に思っても見なかった言葉を見つけて、公爵の口角が上がる。
「そうであろうな。傭兵は大層な美男であるとか。愛しいローゼリシアの心を捕まれては貴公も困るだろう」
ライドールは黙礼を返す。
苛々した。公爵の視線にも、目障りな傭兵の存在にも、そしてままならないローゼリシアの心にも。
ただ今は、狂い始めた計画をどう修正するか、それだけに注心すべきだとライドールは自分に言い聞かせた。