表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マーレヴィーナの巫女姫  作者: 綾野柚月
序章 海都マーレヴィーナ
1/54

 ルディは目の前にそびえたつ巨大な神殿を見上げた。


 このゆうに一千年以上前に建立されたと言われるシェーラミルデ神殿は、海神に守られた都市国家マーレヴィーナの象徴であり、都の民の誇りでもある。強い日差しを吸収してさらに純白に輝く神殿は、常に訪れるものを圧倒する。視界いっぱいに広がる白亜の神殿の壁面に刻まれた荘厳且つ繊細な彫刻の数々は、海神とマーレヴィーナの民がどのようにしてこれまで歩んできたのか、その歴史を詳細に物語っている。そして神殿の中心にある聖殿に祀られた海神の像は力強く、慈悲深い眼差しで参拝者を出迎える。その立派な立ち姿からマーレヴィーナの民がどれだけ都を守る海神を敬愛しているか知れようものだ。

 遙か神話の時代。無垢で美しい海の娘で神殿の巫女であったラヴィアータが、荒れ狂う津波から都の民を守るために海神へ祈りと愛を捧げ、海神は彼女の心根を愛しんでその願いを叶えた。そして海神はラヴィアータを妻に望み、彼女は喜んで海神のもとに嫁いだのだという。

 以来、このシェーラミルデ神殿には『巫女姫』と呼ばれる者が存在する。巫女姫は例外なく大変美しい少女で、類稀な霊力を持ち、海神と心を通わせるそうだ。彼女は海神の言葉を民に伝え、都民を神から授けられた偉大な力で守るという。巫女姫は海神の妻ラヴィアータの生まれ変わりであり、数十年に一度海都に降臨する。巫女姫は慈愛に満ちた生き神的な存在で、海神の次に都民の崇拝を一身に受けており、彼女が名目上このマーレヴィーナの女王ともいえた。




 現在の巫女姫は今から約5年前に都に降臨したという。

 白銀の月光のような長い髪に、海の底のような深い蒼の瞳、南国のマーレヴィーナの民にはほとんど見られない新雪のような白い肌を持つそれは美しい人だそうだ。ルディは生憎マーレヴィーナの生まれではないため、海神についても、巫女姫についてもよくは知らないし、知ろうとも思わなかった。祖国は異なる神を信仰していたし、その祖国も今は亡い。だから依頼人がいかに海神や巫女姫の偉大さを切々と訴えようと心には全く響かなかったし、彼の胸の中にあるのは仕事によって得られる報酬のことだけだった。


 ルディは腕利きと最近最も評判のいい傭兵だった。

 生まれは大陸の北にあったアーベルという山国だ。アーベルは炭鉱と、銀細工、毛織物が主な産業の小さな国だった。今から八年前、国を席巻する内乱が起き、逆臣に陥れられた王家の一族が国から追放された。王都には今は別の王が立ち、しかし国は未だに乱れているという。国を追われた王は無念のうちに亡くなり、後継者である王子も都から落ち延びたとの情報を最後に行方知れずで、もはや生きては居ないだろうと言われていた。

 ルディは内乱の際に国を出て、知人のところを転々とした後に傭兵になった。報酬の額に煩いが腕はいい、評判が評判を呼んで仕事には困らない。白金の髪に薄氷色の瞳を持つ端正な顔つきはどこか高貴さも窺えるため、どこかの貴族の落胤かと噂になったことがあるが、彼はそのことについては何の反応も示さなかった。彼が関心を示すのは依頼内容とその報酬額だけだ。それなりに着飾って黙って立っていたらどこぞの王侯貴族でも十分通用する容姿を持ちながら、彼の粗暴な言動がそれを全て台無しにしていた。


 依頼人はこのシェーラミルデ神殿の上級神官で、グラントと名乗った。彼はルディが半月前このマーレヴィーナの隣国ウルゼンに滞在していたときに声を掛けてきた。我が主を救ってほしい、と。マーレヴィーナへはもともと仕事を探すために向かうことにしていたから、向こうからおいしい話を持ってきたことに内心ほくそ笑みながらも、ルディは神殿というものにあまりいい印象を持っていなかったため即答することは避けた。以来、グラントはルディの後を追って来て、再びこのマーレヴィーナ都市内で説得という名の泣き落しを始めた。今日の場所は上級神官には似つかわしくない場末の酒場だ。彼の明らかに上質の絹で仕立られた聖衣ははっきり言ってこの場所には異質で、これ以上なく浮いている。場違いであることに彼は未だ気づかないのか? ルディはこの世間知らずの神官を初めこの場所で見かけたとき、何の幻覚を見たのかと目を疑ったほどだ。そしてグラントはルディを視界にとらえるなり駆け寄ってきて、もう何回目になるか分らない『依頼』を持ちかけてきたのだ。


 巫女姫の噂はルディも聞いたことがあった。そしてもうすぐ『聖婚』が行われるとも。

「聖婚の儀まであと一月、無事に巫女姫様が儀式を遂げられるように、貴方にはその護衛をお願いしたいのです」

 聖婚とは神話になぞらえて行われるマーレヴィーナの一大儀式で、海神と巫女姫との『結婚』の儀式のことを言う。この数十年に一度の周期で行われる儀式は、当代の巫女姫が執り行う最後の儀式で、これが終われば巫女姫は役目を終えるのだという。その大事な儀式を目前としたこの時期に、巫女姫の周辺に不穏な影が見られるようになった。その不審者は神殿の厳重な警備を巧みに掻い潜り、先日はついに巫女姫の寝所にまで潜入したらしく、その事実は神官たちをこれ以上ないほどに震撼させた。神殿の最奥ともいえる、最も厳重で安全なはずの巫女姫のおわす場所まで到達されるということは、言うまでもなく大問題だ。今回は巫女姫自身の機転と、間一髪間に合った神殿騎士のおかげで事なきを得たとのことだった。とはいえ賊は取り逃したため、再びの襲撃も十分あり得る。目の前にいる気の弱そうなひょろっとした細長い神官は、これでも神殿警備の担当なのだという。ルディを前にしておどおどびくびくしていて、その軟弱な態度がルディをどうにも苛々させた。

「それでも前回はその巫女姫様が自ら賊を撃退したんだろ。何でも生き神の如き強い霊力をもつ、類稀な方なんだって聞いてるぜ? だったら俺みたいなどこの馬の骨とも分らない奴をを雇わなくてもご自身でどうにかすんじゃねえの?」

「確かに巫女姫様は類稀なる霊力をお持ちの方。しかし、巫女姫様はうら若き乙女でもあられる。霊力は高くても物理的な攻撃に応ずる術はほとんど持ち合わせていらっしゃらない。前回が幸運だっただけなのです。巫女姫様の大切な御身に何かあれば、本当に、ええ本当に大変なことになるのです。このマーレヴィーナの命運にも関わることで……」

 グラントはか細い声で縋るようにルディに訴える。その言動すらルディをさらに苛立たせることにも気付かないで。しかし彼にとって巫女姫の警護というのは、何においても果たさなければならない至上命令なのだろう。見た目本当に頼りないことこの上なさそうだが、それなりの階級の神官にありがちな高圧的なところも見られないことから、彼は恐らく必死なんだろう。……仕事はできなさそうだが。

「で、俺がその仕事を受けたらどんな利益があるっていうんだ?」

「お望みなら神殿騎士の身分も――――」

 ギロリ、と上から睨み下ろされて両手を組みグラントはひやー、と情けない悲鳴を上げて竦みあがった。

「俺は神殿に飼われるつもりなど微塵もない!!」

「では金貨千枚で……」

「おいおい、お前んとこの巫女姫様の御命はそんなに安いものなのか」

「では二千……あ、三千で」

 ルディは腕組みをしたまま難しい顔を崩さない。金貨二十枚で基本的な成人都民の一カ月分の収入であるから、ルディも法外な金額を吹っかけている自覚は十分にある。しかし、依頼人が提示してくる金額から、依頼人の本気度と依頼の難易度が知れるというものだ。

「…………」

「あ……っ、四千…………いや五千でどうかっ!」

 仕方ないな、とルディは愛用の大剣の柄を無造作に掴んで立ちあがった。

 絶望的な表情の神官を横目で捕らえて、彼は振り向きもせずに告げる。

「五千で手を打ってやる。成果報酬はあとで相談だな」

「ありがとうございます、ありがとうございます!」

 グラントは随伴する部下に上官への先触れを命じて、大股で先を行くルディの後を追って小走りに駆けだした。




「早速私の上官にお会いいただきたいのですが」

 グラントにそう告げられて連れて来られたのが、他でもないシェーラミルデ神殿だった。海沿いに立つ巨大な神殿は何度見ても圧倒される存在感を持ち、ルディは何故だか妙な闘争心を抱いて神殿の入り口――その奥を睨み据える。

(――――びびってんじゃねえよ。今更……)

 チッ、と舌打ちするのをグラントに聞き咎められて、ルディの表情はさらに険しさを増した。グラントはまるで自分がなにかこの目つきの悪い傭兵の機嫌を損ねたのでは、と恐々としていたが、ルディはグラントの様子を気に留めることなくゆっくりと入口に向かう。

(今までない仕事だからってビビんな。たかが小娘の護衛くらい、今まで何度もやってきたじゃねえか)

 後ろからグラントが追ってくる気配がしたが、彼はそれには構わず奥へ歩みを進めた。




 神殿の奥から吹き抜ける冷やかな風に、ルディは一瞬背を震わせる。

 何か、予感めいたものを感じた。

 彼は信仰心は薄い。神など全く信じてはいない。

 けれどこの時は何故か確信のようなものを感じて戦慄する。


 この奥にあるものが、自分の未来を変えてしまう力がある、と。


(――――フン、何でも来いって。受けて立ってやろうじゃないか)


 ルディは無言で神殿に足を踏み入れる。

 その予感が現実になることを、確信しながら。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ