第五話「吸血鬼の花嫁」
既に、シュルトには自分を無視して飛び去って行く雑魚を相手にする余裕はなかった。初撃こそ攻撃範囲を重視して広域攻撃魔法を放ったが、今ではもうそんな考えは彼の頭の中にはない。
紅い影が闇夜で羽ばたく。それを追うように放たれた莫大な数の爆裂弾が炸裂する。連続する爆音にやや遅れて飛来するのは断続し大気を揺らす衝撃波。闇にはためく外套をどこか煩わしく思いながら、シュルトは身を翻す。そのすぐ側を、反撃とばかりに斜め上から熱線が通過した。
レブレの使う竜魔法『ペネレイトブレス』に酷似したその閃光の吐息<レーザーブレス>の一撃が、低空へと誘い込んだシュルトに大地の傷跡をまざまざと見せ付ける。
何度と無く繰り返されたその攻防。着弾した場所が抉れ、溶け出した地面がまるでマグマのように煮えたぎっている。直撃すればシュルトの魔法障壁でさえ数秒も持つまい。紅鳥はそのまま頭上を越え、旋回する軌道に入っている。一撃離脱。何度と無く繰り返してきたそを見送りながら、シュルトは愚痴のような呟きを上げた。
「魔力の底が見えん。なんなんだこいつは――」
今までの魔物とはまったく違う。その証拠に、その紅鳥は魔物が共通して使用する魔力障壁ではなく、精緻にして強靭な理論によって組まれた魔法障壁を使用していた。ただの魔力で作られた障壁ならばシュルトの魔法でこれまでのように問答無用で抜くことができる。しかし、この相手はそうでない。
シュルトの使うそれとは違う体系で、しかし確かに意味を持ち指向性を与えられた魔力を燃料として、魔法という超常現象を確立している。そしてそれをまるで息をするかのような気軽さで平然と操ってくる。魔力の最大値を隠蔽しているらしく、シュルトのそれと同じ程度のようにみせかけているが、その実魔法を使用してもまったくと言っていい程に感知魔力が変動しない。加えて脅威なのはその機動性。推定二十メートルにも及ぶその巨体が生み出す質量が、信じられない程の速度で空を舞っている。それはまるで悪夢とでも呼ぶしかない現実だ。
同じように空を飛べるからといって、シュルトは完全に同じ土俵に立っているわけではない。質量差を考えればただ体当たりされただけでも莫大な破壊力を実現する。ましてや、羽ばたきながら高速で飛来する大質量と熱量の持ち主はそこに魔法を織り込んでくる。
(時間稼ぎはできているが、まさかそれだけしかできんとは――)
旋回しながら嘶く紅鳥が業を煮やして滞空する。と、ようやく地面に着地したシュルトはその姿を見上げながら戦慄した。紅鳥の周囲に光が顕現する。紅く燃える火の弾丸が、次々と空を埋め尽くすその姿は神罰を下すために地上に舞い降りた神鳥のようだった。その弾丸の数は、もはや数えることができない。千を越え万に届こうかと言うほどだ。だが、真に驚くべき箇所はそこではない。その魔法が、先ほどまで使っていた彼のブラストバレットに余りにも似すぎていたのだ。
「模倣した? こんな短時間でかっ!」
シュルトが指を弾く。足元の影が揺らめき、大きく広がる。広がった影が変形。対峙する鳥に角度を合わせ、平面に薄く展開された。膜のようなその黒い影の向こう、闇さえも燃やし尽くすのではないかと思われる炎の弾丸が弾雨となって飛来する。炎と影が接触。底なし沼と化した影の中に次々と飲み込まれていく。だが、全てを飲み込めるわけではなかった。
炎を飲み込むたびに影の密度が少しずつ薄くなる。炎とは熱だけでなく光をも産む。そして光は闇を照らして影を消す。飽和するほどの弾丸の雨によって、影魔法の絶対的相克である光が蝕んで行くのだ。リリムの奇跡の光がシュルトの影を無効化できるのもその性質が無関係ではない。だが、そんな弱点は使い手として当たり前のように彼は理解している。故に次の手を打つ。
指を弾く音が連続で鳴る。その度に、新しい影が層を作る。一枚目の影が崩壊する。そこで初めて飲み込まれたはずの爆裂弾が影を形作っていた破損魔力に接触。二枚目の影の目前で炸裂していく。爆音が木霊し、更に峻烈な紅で夜を燃やす。それを飲み込むのは次の影。
光が瞬けば瞬くほどに、足元に出きる影が濃くなり強度を増す。そして、光源があればあるほどに角度を変えた光が新しい影をいくつにも作り出す。その果てに形成される炎と影のループ。その最中、確かな手ごたえを得たシュルトが詠唱を開始する。周囲に展開された九つの魔法陣が魔力を集束させながら回転していく。彼が選んだ魔法はシェルバスター。障壁を撃ち抜くことに特化した螺旋の閃光だ。生半可な攻撃は効かない。ならば選べる選択肢の数は少ない。
炎の雨が止む。影のベールに消えたその向こう、滞空して様子を見ていた紅鳥もさすがに高まるシュルトの魔力を無視することはできなかった。
「kYUOONN!」
怪鳥の巨躯が燃え盛る。より赤々と燃え盛るそれは、まるで太陽のように眩しい。離れた場所に居るはずのシュルトの全身が汗ばむ。近づかれただけで炭化してしまいそうなほどに熱を帯びた空気が風に乗って熱風の如く押し寄せてくる。
怪鳥が嘶き、その頭を地面へと向ける。怪鳥はそのままシュルトに向かって突っ込んだ。圧倒的なその加速性能が彼我の距離を見る見る狭めていく。
(まだだ。 まだ遠い――)
狙うは右の翼の付け根。飛べない鳥の機動力など高が知れる。それで十分に時間は稼げる。また、機動力さえ奪ってしまえば倒すにしてもやりようはある。しかし、避けられたら意味が無い。相手は空を舞う者。機動性は折り紙つきだ。ならば限界まで引きつけるしかない。別の問題があるとすれば、これで魔法障壁を撃ち抜けるかという一点。賭けに近いが、相手がまだ全力ではないなら勝機はあった。
「はぁ、はぁ――」
全身が燃えるように暑く、彼を蝕む。滝のような汗が不快だった。数秒にも満たない我慢比べ。熱の苦しみから逃れるために安易に撃ち放ちたい衝動を、彼は鋼の精神力で押さえ込む。二度目などないつもりで睨むように目を凝らし、花嫁を害するだろう敵を見据える。どこか濁ったような紅鳥の瞳には、他の魔物と同じように叡智の光など存在しないように見える。
――或いは、リリムならばこの紅鳥をも救えるのかもしれない。
一瞬脳裏を掠めたその感慨を、心の奥底に押し止めシュルトは右手を突き出す。熱波に焼かれる腕に火傷のような痛みが奔る。それでも彼はしっかりと狙いを違うことなく魔法を放った。
「ぶち抜けっ、シェルバスター!!」
閃光が九つ、魔法陣から光を放ち螺旋を描く。光の螺旋が炎を纏った神鳥と衝突。更に飽和する熱量で大気を歪ませた。一点にただ照射される螺旋が炎を削り巨躯を押し戻す。それに負けじと羽ばたく鳥の勢いは止まらない。嘶きと共に迫りくる大質量。接近による熱量の伝播が右腕の先から徐々に激痛となって広がり、魔法の行使を阻害する。
被害は当然それだけには留まらない。接近による温度の上昇が呼吸で生じた空気のやりとりでもって肺を焼き初める。シュルトは内気魔法を発動。身体能力を内側から強化する。元々人間よりも頑強な吸血鬼の体。それが更に強化されたことで限界を僅かだが先伸ばす。
果たして、その努力にどれほどの意味があったのか。それを問える者はこの場にいない。ただ、紅鳥が嘶いた。瞬間、纏った炎が突如として消え衝突の結果が顕現した。
――両者の視線が交差する。
次の瞬間、大質量の主が悲鳴を上げた。シュルトの周囲から魔法陣が消える。その頭上を、怪鳥が血を流しながら通り過ぎ、頭から大地に突っ込んだ。滴る血がそれに点々と続き墜落により生じた轍に続く。
シュルトが息を荒げながら振り返る。その向こうでは、右の翼をシェルバスターによってほとんど引きちぎられた紅鳥の姿があった。もはや、二度と空を舞うことはできまい。だがそれでも鳥にだとて足がある。紅鳥の巨体を支える強靭な足が、ゆっくりと体を持ち上げた。
大地をしっかりと掴んだ足が、のろのろと背後に離れたシュルトへと体を回す。その動きには、まだ確かな闘争心が宿っているように感じられる。その証拠に弱々しい光が口から点る。
逃げるように先に止めを刺すべきだと瞬時にそう悟った彼は、左手で指を弾く。同時に、比べ物にならないほどに弱まった熱線がシュルトの予想を越え魔法障壁を貫いて左腕を奪い去る。だが、それでも発動した影は止まらない。広がった影が反撃の刃となり、幾重にも紅鳥を真下から串刺しにする。激痛の叫びか、ただの悲鳴か、それとも怨嗟か。クチバシの先から聞こえる絶命の声が虚しく夜に響き、今度こそその巨体が力を失う。
「……」
紅鳥は動かない。大きく息を吐く吸血鬼は、そうして失った左腕と、炭化した右腕に視線を向けた。「腕二本で済んだだけマシか」――そう呟いた彼の眼前で、不意に紅鳥が炎に包まれた。シュルトは右腕を酷使して持ち上げ、魔法を行使しようとして――その姿勢のままで硬直する。
死体であるはずの亡骸が今まで以上に燃えていた。その亡骸を燃やし尽くすほどの業火は、やがて炎で自らを形作る。炎そのものがまるで本質だとでも言わんばかりのその光景。言葉を失った彼の眼前で、火の鳥にも似た炎のシルエットが一度その頭を垂れ、次の瞬間にはまるで幻であったかのように完全に消失した。シュルトの魔眼でさえも、もはやその痕跡は伺えない。完全にこの世界から欠片一つ残さずに消えてしまっていた。
「今のは……転生炎? まさか、不死鳥に属するものだった……のか」
だとしたら、死んでまた復活するために消失したのだろうか。或いは、特性として持ちえる無限転生能力を利用して己の住んでいた世界に還ったのか。呆然と呟いた彼は、その事実の先にある結論に愕然とした。
(アレも召喚された存在であるということに間違いは無い。だとしたら、一体どこまで強制力があるというのだ)
よほどの実力差でもなければ、アレだけの大物を使役するのは難しい。そして恐らく、あの不死鳥もまたレブレと同じように意識を保ったまま支配に抵抗していたのだろう。そうでなければもっと梃子摺ったか逃げるしかなかった。
シュルトは考える。同じく召喚された存在である自身のことを。リリムのおかげで召喚時にかけられていた正体不明の魔法効果の全ては解除されている。けれどもし彼女に出会っていなければ、果たして自分はどうなっていたのか。
(私は体を支配されるようなことはなかった。……何故だ? 何故、魔物とそれ以外でこうも差が出る。召喚結果がランダムだとして、区別する必要がある理由とはなんだ。分からん。行動の意味も、狙いも。一体何なのだ。リリムの、私の敵とは――)
理解できない恐怖が、彼の胸に去来する。何れ、リリムを脅かす敵として排除する必要があるとはいえ、未だ目的も姿さえも見せない相手だ。得られる僅かな情報からその実体を推察しないわけにはいかない。だが今は、それを熟考している暇は彼には無かった。シュルトは先行したサキの持つ指輪の反応を探り大まかに転移した。
粗末な槍に腹を貫かれた歳若い男が満足気な顔で息絶える。最後の最後で役目を果たせたことに安堵する戦士の寝顔だ。その体が、無造作に持ち上げられた。槍を持つオークが鬱陶しげに男の亡骸から槍を抜く。無造作に撃ち捨てられる死体が、馬の死体にぶつかって止まる。それに微かな怒りを覚えながら、サキは真横に少年姿のレブレが落ちてきたことを確認。用意していた風の結界を展開する。
リリムの体を中心に、半径二十メートルほどの周囲に竜巻が顕現。内と外をその猛威で断絶する。ブレイドサイクロンよりも威力は低いが、持続力と効果範囲は広い。
「リリムをお願いします。私は、周囲の掃除をしますので」
言うや否や、レブレの返事を待たずにサキが飛び出す。ブーストエンチャントの光が残像のように尾を引いた。一足飛びでオークへと接近した彼女が握る二本の短刀には三倍ほどの長さに伸びている魔力刃――ブレイドエンチャントが施されている。反射体にオークが手にした槍を突き出すも、サキが左手の短刀で払うようにして更に踏み込む。
サキの勢いは止まらない。ほぼ零距離まで密着しながら、右手を心臓めがけて突きだした。手元が霞むような圧倒的な速度。魔力障壁ごと脂肪の鎧を魔力刃が容易く貫くも、そのまま念入りに手首を捻り傷口を容赦なく抉る。かと思えば、瞬時に右足を跳ね上げオークの巨体を蹴るようにして刃を抜いた。
強化された体が、オークの巨体を軽々と吹き飛ばす。その胸元から滝のような血が吹き出した。当たり前のようなその返り血をものともせずに、サキは引き結んだ顔を能面のように固定したまま次の獲物へと視線を向け飛び掛る。殺しに馴れているのは、偶にレブレと共にダンジョンの外で狩っているからだ。もう、一年前の彼女とは違う。そこらの冒険者も顔を引きつらせるほどの戦士に仕上がっていた。
一撃では矢が刺さらず、剣や槍で容易に傷つけることもできず、魔法の一発で殺傷できない。そんな相手は危険な動物であっても稀だった。魔物たちの持つその耐久力こそが、攻撃力に欠いたこの世界の人間たちを苦しめた最大の理由。だが、彼女にはもうその制約がない。
「遅いっ!」
それは正に、疾風の如きスピードだった。リリムへと殺到する手近な魔物へと手当たり次第に切り込むその体に停滞はない。両手の短剣が煌く度に次々と魔物たちが血の海に沈んで行く。限定された空間に隔離された魔物たちは、もはや檻の中に閉じこめられた獲物に過ぎなかった。
「良かった、まだ息がある。これならまだなんとかなる――」
サキの様子を気にも留めず、レブレが安堵のため息を零す。矢が首の骨を貫通したわけではなく、隙間を通した感じだ。相当な悪運だ。苦しいだろうが、それでもまだギリギリ助かる見込みはあった。
強引に竜眼と碧眼を合わせ、レブレが啓示を行使する。レブレには彼女をこの状態から完治させる魔法などない。だが、リリム本人なら別だ。ならば彼女の意思を強引にも揺さぶり起こしてやれば良かった。
「さっきまで母さんが川の向こうで手招きしてる夢を見てたはずなのに、今度はレブレかぁ。この分だとあいつやサキも出てくるのかな?」
いつかのように、見覚えのある緑竜が眼前に居た。それまでのこの世のものとは思えないほどに美しい光景は消え去り、虚空にも似た空間の中で二人は対峙していた。それが啓示だと察するよりもはやく、レブレが呆れ顔を浮かべて言うのだ。
「それ、多分死者が渡る川とかいう奴だよ。どうやらギリギリ間に合ったみたいだね。単刀直入に言うけどさ、君は今死に掛けてるから早く奇跡を使ってよ。このまま僕の啓示を吹き飛ばすぐらいの全力でやって。今すぐにだよ」
「なぬ? 死に掛けてるってどういうことよ」
「ほらほら急いで。でないと魔法卿が君への手向けとしてこの国を滅ぼすかもしれないよ。彼は君のためだったらもう神様だって殺しちゃおうって真顔で言える程に堕ちてるんだ。それは防げるのは保護者である君だけでしょ。あっ、もしかしたらそれだけでは足りないとばかりに世界征服して聖女リリム王国とかを建国したりしてさ、聖女リリム教とかリリム像とか作って世界中に布教するかもしれないね」
「何その嫌過ぎる未来」
何を何のために信仰するのかさえ分からないし、そんなことになったら黄泉路の果てで憤死するに違いない。
「それを防ぐためにも、君は彼より早く死んじゃ駄目だ。ちなみに、僕は面白そうだから手伝って上げる側だよ。それが嫌ならさっさと奇跡奇跡――」
「ああもう、あいつは――」
竜巻の中で白い光が溢れ出す。サキがそれを理解してようやく、能面のような顔に安堵を浮かべる。最後の一匹を斬り殺し、振り返ってみればレブレが突き刺さった矢を途中で折り、力づくで引っこ抜いていた。
その拍子に脈が傷ついたのか、血が凄まじい勢いで飛ぶ。だが、それも一瞬で完治し矢が貫通したはずの首が元通りになっていた。顔色は悪く、かなりだるそうだが、それでも彼女は生きている。出鱈目でも何でも、それが事実としてここにあることをサキは素直に喜んだ。
「シュレイダー! 貴方、死んだ後も私を悩ませる気なのっ!!」
「……はい?」
何故シュルトに対して怒りの声を上げているのかが分からない。いつものことなのでサキは流すことにするが、それでも大陸人の感情表現は不可解だと首を捻るばかりだった。
「リリム、着替えですよ」
「サキ? レブレだけじゃなくてあんたも来たのね。ありがと、心配かけたみたいね」
着替えと装備が入ったリュックサックを受け取りながら、リリムがはにかむ。そうして、すぐに怪訝な顔をして見せる。まるで居る筈の誰かがいないことを寂しがっているいるようだ。サキは隣で忍び笑いをしているレブレの代わりに説明した。
「先生は今、強そうな魔物の足止め中です。多分すぐに来ますよ」
「ちょっと、それじゃあまるで私がシュレイダーを待ってるみたいじゃない。いいの、あいつは別にほっといても顔出してくるわ。それより、ねぇ、ここに白い馬に乗った兵士の人が居なかった?」
「……彼らのこと、でしょうか」
サキの体で見えなかったのだろう。横にズレたことで、その亡骸がリリムの目に晒された。少女の眼が一瞬見開かれ、そうしてすぐに閉じられる。ギュッとに握られた手が震えていた。サキは言った。
「彼は最後に、レンドール公爵に伝えて欲しいといいました。ヤンクという人が、貴方を射ったことを」
「――」
「リリム、私はそこの彼らがどういう人たちかは知りません。ですが、最後まで貴方を守っていたことだけは分かります。彼の願いを、貴方はどうしますか」
「レブレ……私の力ならもしかして――」
「無理ではないとは思うよ。でもね、さすがに普通はそれをやると死ぬよ。命を購えるのは命だけだ。聖女や聖人が命を賭して他の命を救った記録があることを僕は確かに知っている。でも、それに例外はない。それがノーリスクでできるのはきっと、神の如き力を持つ者だけの特権なんだ。残念だけど、君にはそこまでの力はないよ」
「そう、そう……なのね」
呟きながら、彼女は無造作にドレスを脱ぎ捨てリュックを漁る。そうして装備を整えながら、ただ語った。
「兵士の人、ロンドはタフな奴だったわ。多分、アレは心臓に毛でも生えてるタイプ。それで、あの白い馬は彼の相棒なんだって。名前は知らないわ。まだ教えてもらってなかったし。でも、その子は私が生まれて始めて乗った馬よ。とっても速くて、賢いの。まるでロンドの言ってることが分かってるみたいだったわ」
運が悪い二人。貧乏くじを引いた二人。それでも、彼女の記憶の中に微かに刻まれている一人と1頭は、果たしてこんなところで死ぬべきだったのか。リリムには分からない。分かりたくもない。ましてやそれが、自分の行動の結果なのだとは。
門の向こうにあるのは、険しくても可能性がある未来。それに賭けたというのに、どうしてこうも現実は違うのか。
「……ねぇ。私の命とこの二人の命と、一体どこに差があったのかしらね」
白いシャツに黒のジャケット。ジャケットに合わせられた黒いズボンのベルトには、ミスリルナイフとミスリルウィップを吊るす。足には鉄版が縫いこまれた頑丈なブーツを履けば着替えはお仕舞い。その足で、二人の亡骸の前にふらふらした足取りで向かったリリムは更に問う。
「全ては、シュレイダーや貴方たちを待てなかった私の弱さが原因? それとも、こんな力があるせい? それとも、今日召喚を命じたおじさんが原因なの? ねぇ、誰か教えてよ。ねぇったら――」
運が悪かった、お前のせいだ、誰かのせいだ、魔物のせいだ。そんなことを決め付けることができる権利など二人には無く、どれを言ったところでリリムが納得できるとも思えずただ黙った。嗚咽しながら、物言わぬ亡骸に縋りつく少女の痛ましさに見守る二人も押し黙る。その時、ようやく彼が転移してきた。
「あっ、先生……」
「魔法卿……」
外套や服が焼け、左腕が肩から千切れていた。右腕は焦げ、肉の焼けるような異臭を放っている。大よそ、一同が始めてみるほどの負傷。振り返ってそれに気づいたリリムの視線が、虚ろになる。
「貴方でも、すっごく強い貴方でもそんなになっちゃうのね」
「生きている以上は傷つきもするさ。だが大したことは無い。どうせ再生するし、君の血を吸えば一瞬で完治する程度の怪我だ。何も心配することはないよ」
「……ねぇ、シュレイダー」
「ん?」
「私がここに居るせいで人が死んだわ。死ななくても良いはずの人たちがよ。私は一体、どうすればいいの」
シュルトは、リリムの後ろに倒れている亡骸に眼をやりながら歩み寄る。そうして、右手で少女を胸に抱きながら言った。
「何もする必要は無い」
「えっ」
「何故なら前提が間違っている。殺したのは君ではなく魔物だろう。それとも、君が自分でその手にかけたとでもいうのか? 違うはずだ。君にはそんなことをする理由がこれっぽっちもないのだからな」
「でも、でも……」
「君がここに無理やりつれてこられたから魔物が襲ってきた。そのせいで間接的な罪悪感を感じるのは分かるが、意図しないことまで背負う込む必要は無い。誰が何と言おうと気にするな。仮にそれで君を詰り、命を狙って来る奴がいても私は最後まで君の側に居る。殴りかかってきたら君の変わりに殴り返すし、国が出てきたら国ごと潰してやる」
「ぐすっ。貴方のそういうこところが、私は本当に怖いわ」
自分を理由にして何でもしてしまうだろうその男が、正直に言えば彼女は怖い。リリムは免罪符ではない。行動の理由にされて、本当にそれが起こった時を考えれば考える程に恐ろしい。それもきっと、彼女が彼に抱く躊躇の一つだった。
「だがそれは私の覚悟の証明でもあるはずだ」
「だからって……はぁ。本気だから性質が悪いのよ、もう!」
結局、そういうところも含めて制御しなければならない厄介な男に纏わりつかれていることを彼女はこの後に及んで理解する羽目になった。酔狂なことに、その男は少女の重りを半分背負うと言っていた。それを当たり前のように口にしてくれることが、どれだけありがたいことだったかを少女は腕の中で噛み締める。まるで絡まった複雑な心の糸が、強引にハサミによって断ち切られるようだった。今なら、どんな恐怖もしがらみも投げ出せるかもしれない。
「私ね、最初は適当に稼げるぐらいに強くなったら行方を眩ませて静かに暮らしてやろうって思ってたけど、その前に必要なことに気づいちゃったわ」
「不穏当な発言ではあるが、一応は続きを聞こうか」
「魔物を操ってる奴が邪魔なの。私が被った精神的、肉体的苦痛は貴方のそれを遥かに凌駕するのよ。この意味が分かる?」
「……そこで私を引き合いに出すのが不思議だが、つまりはやり返したいのだろう?」
「そういうこと。手段はもう選ばないわ。だから――」
少女が邪魔な金髪をかきあげ、無防備にも首筋を晒す。シュルトがその白いうなじに視線を向ければ、流れた血の跡が垣間見れた。それを改めて確認した瞬間、彼の中で心臓が確かに跳ねた。
「いいわよまたこっちで吸っても。もう一度、貴方の花嫁になって上げる。来て、シュレイダー」
その言葉に、シュルトは抗えない。大きく口を開き、遠慮なく少女の首筋に噛み付いた。少女の体臭よりもなお濃い血臭が鼻腔を貫く。知りうる美酒のどれよりも芳醇なその香りは、彼の脳髄を痺れさせる。舌に感じる底なしの透明感。いつもは舐める程度で抑えていたそれが、贅沢にも喉越しを意識させるような量で供給される。
それは常人が上手い料理に出会い、その味に魅せられるのとは訳が違う。血に酔わされる感覚。屈服させられる感覚。支配される感覚。胃から全身に広がる幸福感と、聖女の血がもたらす確かな力が吸血鬼の本能を刺激し無意識に秘術を行使させる。
「げっ、ここでやるの!」
「なんですかアレ。いつもと違うみたいですが」
「えーと、吸血鬼風の愛の語らいかな」
二人の足元に紅い魔法陣が展開された。その間にも血を嚥下するシュルトの左腕が再生し右腕も完全に完治している。偶々前回のそれを見ておらず、何が起こっているのかわからないサキが困惑したまま様子を伺う。
「まっ、外野が気にすることじゃないよ。どーせリリムなら解除できるし。少し特殊な強化魔法みたいなものだよ」
それは『吸血鬼の花嫁』と呼ばれる秘術であり、人間を擬似吸血鬼にして番へと変貌させる通常は解除不可能な強化魔法。獲物である『ヒト』に恋した吸血鬼の始祖が作り上げたそれが、少女の肉体を改変していく。
少女の瞳が碧眼から紅に染まる。背中には蝙蝠のような翼が生え出し、同じ時を生きるために外見が固定化され肉体もそれ相応に強化される。そして何よりも、吸血鬼にとって重要な血の味が固定された。
「これやるとずっとシュレイダーが側に居るみたいで落ち着かないんだけど、なんか私の知らない付与効果あるんじゃないでしょうね」
「さて、害は無いはずだがな」
首筋から離れたシュルトが律儀に答える。けれど、今日に限ってはリリムは追求することはしない。その体を、シュルトが抱き上げる。リリムは頷き、今度は彼女がシュルトの首筋に噛み付く。小さな八重歯が肌を裂き、あふれ出る血が口内へと吸われていく。
途端に、奇跡を行使して消耗していたリリムの生命力や魔力が回復する。同時に、吸血鬼が血に拘る理由が彼女には分かるような気がした。無駄に美味いのだ。病み付きになるほどに。だが、元々の人間としての理性がそれを拒む。首筋から直ぐに唇を離し、滴る血をペロリと舐め上げ儀式を終える。
「ん、後はこっちだな」
少女を下ろし、指輪に魔法を掛ける。これで、召喚される前の状態に戻った。んんーと伸びをして、体の調子を確かめると少女はクルリと回転。周囲を魔眼で睥睨する。
「なんか、すっごく魔物が集まってる気がするんだけど」
「当然だよ。のんびり儀式やってるんだもん」
「リリムその翼は……」
「ああこれ? シュレイダーのと一緒みたいよ。空を飛べるようになるんだけど、正直邪魔なのよねこれ」
無造作に展開されたままだった翼を消し去る。サキが背中に回り込んで翼のあった場所をやけに驚いた顔で見ている。その姿に苦笑しながら、リリムはシュルトを見上げる。彼は頷いた。
「さて、いい加減ダンジョンに帰りたいところではあるが……どうやら我が花嫁はそれだけでは納得できないようだ」
「世の中はお金よ。お金で買えないものだってあるけど、それでも人が誠意を示すときにはお金を出すものだわ」
「話しが繋がってない気がするけど、これって僕が竜だから理解できないだけ?」
「リリムはそこらの魔物に八つ当たりがしたいのですよ。その結果、魔物の死体から金になる部位が残れば街の人たちのための金になると言いたいのでしょう。すぐに転移して、魔物が都市を襲っても危険ですしね」
「だから誠意かぁ。人間は本当によく分からないことに拘るよねぇ」
「勿論それだけじゃないわ。レブレとサキにあの二人をレンドール公爵のところに届けて欲しいの。彼の伝言着きで。公爵の屋敷は、都市の中心にある大きな建物だから、多分直ぐに分かるわ。任せていい?」
「ええ。といっても、運ぶのはレブレになるでしょうが」
馬1頭と男一人。竜の姿で運んだ方が速いことは間違いない。レブレは少しだけ面倒そうな顔をしたが、一週間お肉抜きを取り下げるとリリムが言えばすぐに態度を一変させた。
「やるやる! 僕やるよー!」
「よろしい。後、サキは気をつけて。何があるか分からないから。元に私は後ろから人間に射られた。アレが無かったら、多分二人はまだ生きてたと思う……」
「一応魔法障壁は展開しておきますね」
「お願いね。本当は私が行ってヤンクとかいう奴をぶっ飛ばしたいんだけど……今の状況じゃあそれは無理だし」
「決まりだな。終ったら合流して帰ろう」
シュルトがリリムを抱き上げ、指を弾いた。小気味良い音と主に、いつものように広がっていく黒い影がある。陸を闊歩しなければならない陸上生物を効率よく仕留めるためのそれは、罠にかかる獲物を前にして貪欲なまでに揺らめいている。
「いいぞサキ。解除してくれ」
「はい」
竜巻が掻き消える。同時に、周囲を伺っていた魔物たちが一斉に飛び掛ろうとするもシュルトが広げている影に足を取られる。指が再び鳴り響き、影が大きく広がって行く。そして、それが三度鳴る頃には夥しい数のシャドウブレイドが獲物を真下から貫いた。
「さて、僕らも行こうか――」
少年の姿のレブレの口から咆哮が上がる。魔物たちから上げるどれよりも遠くまで響く、雷鳴のような遠吠えだ。大気がビリビリと震えるその中で、レブレの体が元の緑竜の体へと変化する。それが終るよりも先に黒髪の少女が跳躍。質量が巨大化する前に飛び乗る。
三十メートルも離れていない都市からも、恐らくはその光景が遠めに見えていたのだろう。煩いほどのどよめきの声が聞こえてくる。レブレが馬とロンドの死体を両手で拾い、同時に二本の角をバチバチと放電させながら雷を呼んだ。
「発雷!」
稲光が空を焼く。リリムに向かって降下を開始していた飛行型の魔物たちが、放射された電撃の前に成す統べなく焼き焦がされて落下して行く。それに満足そうに頷いて、ようやく彼は力強く羽ばたく。そうして、残った二人の髪を風で乱しながら都市の方へと飛んでいった。
「いってきまーす」
どこまでも危機感を感じさせないユルさのままに、若い竜が行く。真下から訳も分からず半狂乱になった兵士や冒険者たちが攻撃しているが、レブレは意に返さずに外壁の向こうへと消えた。それを見送りながら、リリムはシュルトに言った。
「お腹空いたら言いなさいよ。今だけは、今夜だけは、好きなだけ吸わせてあげるからね」
「大盤振る舞いだな。そんなにあいつらが憎いか」
「ええ、上から二番目ぐらいに嫌いよ」
シュルトでさえ思わずゾクリとするような暗い笑みが浮かんでいる。抱き上げた少女に、もはや躊躇はない。元々魔物に対するそれは希薄ではあったが、完全に一線を飛び越えた様子だった。今ならどんな惨たらしい惨劇が目の前で起ころうとも、それがよほどの理不尽でさえなければ問題にさえしないだろう。
暗い憎悪の感情を、これほどまでに浮き彫りにするのを見るのはシュルトとしても初めてだった。その切っ掛けを作っただろう人間に、彼は軽い嫉妬を覚えた。とはいえ、だからといってシュルトは既に死した人間に対してそれ以上の感情を覚えることはなかった。それよりも、今この瞬間を共有できることの喜びが彼の胸を躍らせていたのだ。
リリムが魔力を回復させられるからこそ、後先考えずに魔法が行使できる。吸血対象さえいればどの種族よりも圧倒的に早く回復して全力を行使できるからこそ、瞬間的になりがちな魔法の火力を長期に渡って行使できる。それこそが吸血鬼の恐ろしいところであり強み。そして今、彼の腕の中に居る少女の血は、それこそ一舐めで彼の魔力や生命力を全快させて余りある程のエネルギーに満ち溢れている。この状況で吸血鬼である彼が興奮しないわけが無かった。
「その澄んだ憎悪に応えよう。君の怒りは私の怒りだ」
ゆっくりと、都市から離れるように歩きながらシュルトが微笑んだ。その笑みは、リリムのそれとは違って、純粋に暖かかった。膨大な魔力が吹き荒れる。展開されていく魔法陣の数が、当たり前のように二桁を越えた。
「やっちゃえシュレイダー!」
花嫁からのオーダーに、彼は当たり前のように頷いてその力を解き放った。
「どうしましょうか」
「さすがに降りられないのは想定外だったね」
避難民が公爵の屋敷へと大勢詰め掛けているのが見える。周囲を取り囲む堀と外壁。都市にとてっての最後の砦となり得るべき拠点であるためか、人々が庭の至るところに存在する。竜が降りるにしてもさすがに足の踏み場もない有様だ。加えて、レブレの巨体を見て次々と矢と魔法が放たれてくる。
旋回しながら様子を見ている二人も、さすがにこれには参っていた。サキの姿は見えているはずだが、さすがに身元も分からない相手を下ろすことはできないようだった。かといって、屋敷の外に下りるのも無理そうだ。避難誘導に従ってやってくる人々の列が通りを埋めているからである。
「こうなったら私が乗り込んで話しをつけるしかありませんね。あまり時間をかけるわけにもいきませんから、屋敷の上へお願いします」
「んー、手荷物が無ければ僕も一緒するんだけどなぁ」
ロンドとバッシュの遺体がある。リリムの意思を汲むなら、ぞんざいに扱うわけにもいかない。
「帰りは?」
「決裂したら屋根から飛びますので拾って下さい。成功すれば庭にでも下りるスペースを作ってくれると思いますのでそちらで合流しましょう」
問題があるとすればサキの話しを公爵が信じてくれるかどうかということ。そして、公爵がここに居るかどうかだったが、二人はそれは考えないことにした。
「了解。じゃ、いくよ――」
空に円を描くように旋回していた巨体が軌道を代える。サキは一旦魔法障壁を解除すると、公爵の屋敷の屋根のほとんど上へと差し掛かると同時にはもう跳躍していた。
「くっ――」
着地する前に障壁を再展開。両足にかかる衝撃を緩和しながら、屋根の上を転がりつつも勢いを殺す。予想よりも作りがしっかりとしているらしく、その程度では屋根はビクともしない。一瞬、屋根の上にレブレを着陸させても良かったのではないかとサキは思うがもう遅い。都合よく屋根裏部屋へと続く出窓に手をかけ、その身を静止させる。
「さて、いきま――」
安堵するのも束の間。サキは両手で瞬時に体を引き上げる。丁度出窓の上に上がったその数秒後に、その出窓が開きカーテンの開く音がした。
「なんだ、気のせいか?」
「何してるんだ急ごうぜ。なんだか分からねーが竜が屋敷のすぐ側を飛んでやがる」
感知した魔力は五つ。民衆のざわめきが煩いせいであまりよく聞こえない。サキは開け放たれたままの窓から慎重に顔をのぞかせ、様子を探る。すると、梯子を降りて行く兵士の後ろ姿が見えた。最後の一人のようで、ほかには姿は見当たらない。その背には大きな袋を担いでいる。
「血の匂い――」
場違いにも鼻腔をくすぐる匂いに眉根を寄せながら、サキは音を掻き消す魔法『サイレント』を使用して屋根裏部屋へと侵入する。そうして、手前に備え付けられていたベッドの上で見栄えの良い女性の死体を見つけた。一目見てそれが、平民とは違うことに気づいた彼女は死体に近寄り、憎悪に見開かれたままになっている目を閉じさせた。
(火事場泥棒……じゃない?)
指に嵌められたままになっている高そうな宝石のついた指輪に、イヤリングやネックレス。魔物襲撃のドサクサに紛れた泥棒にしては妙だ。
魔力感知の圏内の中で、五人が遠ざかって行く。サキはふと、かつての自分の境遇に思いを馳せる。そして、サイレントを解くや否や下に下りる梯子に急いだ。
ほとんど飛び降りるような速度で下の部屋に飛び込んでみれば、値打ち物だと思わせるような家財が彼女を迎えた。大陸風の調度に関してそれほど詳しいわけではないサキでさえもそう思わせるのだから、間違いなく位の高い誰かの部屋だ。ドアは閉められており、その手前には護衛だろう兵士が血溜りに伏している。
ほとんど蹴り破るようにしながらドアへと飛び込む。その向こう、音に気づいた兵士が四人、全身に武器や矢束を持って移動しているのが見えた。そのうちの一人は、肩に担ぐようにして白い袋を背負っている。サキは全力でその集団へと駆け寄った。
「な、なんだあの餓鬼――」
「知るか! つか、なんであの部屋から――」
白い袋を背負った男以外が、一斉に荷物を投げ捨て剣を抜く。二人ほどが遮るように前に出てくる。サキが跳躍。ほとんど天井に届きそうなほどの高さまで飛び上がって男たちの頭上を軽々と越える。呆気に取られた前衛二人が振り返った時には、彼女は既に最奥に居た袋を担ぐ男さえも飛び越えていた。
少女は着地するや否や、袋を掴み右足を跳ね上げる。男の体に容赦なく蹴りが放たれる。打撃音が鳴った。男が纏った鉄の鎧に靴跡を残しながら、冗談のように袋だけを残して吹き飛んだ。その前にいた中衛の男が、背中からのいきなりの衝撃に成すすべなく巻き込まれる。
サキはそれを横目に短剣を抜き、奪い取った袋の口を無理やり開けた。中には気を失っていている銀髪の少女が居た。寝息を立てていることから生きていることは伺える。リリムと同じぐらいの歳だろうか――そんな感慨を抱きながら、ゆっくりと地面に下ろし、手を縛っているロープを切り裂く。それを明らかな隙と見て取ったのか、前衛のうちの一人が突撃した。
「舐めやがって!」
銀光が蜀代の明りを受けて閃く。放たれた突きが、サキへと無造作に伸びる。少女はそれをバックステップすることで避けると、再び右足を跳ね上げる。再び廊下に響く打撃音と共に、男の体が一瞬確かに斜め上方向へと浮きあがる。溝尾に突き刺さった爪先の、そのあまりの衝撃に白眼を剥いた男が、吐しゃ物を撒き散らしながら後ろへと崩れ落ちる。その先に居るのは先ほど下敷きにされた中衛の男だ。
二人目の衝撃と新たに加わった重さに、思わず中衛の男が「ぐっ」と潰れたカエルのような声を上げる。サキは煩わしくなったのか、少女の足さきのロープを切るよりも先に最後の男へと向き直る。
男の体が、得体の知れない少女を見て微かに震えていた。勝ち目が無いと思ったのか、すぐに反転して廊下の向こうへと消えようとする。サキは無造作に短剣を振り上げ、すぐに止める。男の前に立ちはだかるメイドが居たのだ。逃げようとしていた男の足が止まり、更に眼に見えて震え始める。
「――どうした。何があった」
メイドが勤めて大仰に尋ねる。その視線が、少女の足のロープを切るサキと、兵士の格好をした男の間を往復する。
「なるほど、侵入者か」
「は、はい! な、仲間があの餓鬼に――」
「煩い。黙れ。私は場内に居る兵士の顔は覚えている。特に男の顔はな。だが、お前の顔なぞ知らん」
メイドの底冷えする声に、今度こそ殺意が宿る。ゆっくりと腰元のサーベルを抜きながら距離を詰める彼女を前に、男は冷や汗を浮かべながら選択を余儀なくされた。結局、彼が選んだのは恐ろしいほどに強い武装メイドではなく、得体の知れない少女だった。
「どけぇぇ!」
ロープを切り終えたサキが駆け寄ってくる男の前に当たり前のように立ちふさがる。男が横からなぎ払うために剣を振り上げる。それは、そのまま駆け抜けて逃げたいという意思の表れだったのか、それとも一旦引かせて寝入った少女を人質にするためだったのかはもはや本人だけが知ることだ。
サキが無造作に左手を上げ、習ったとおりに指を弾く。瞬間、サキと男の間を風の弾丸が通過した。初級魔法『ウィンドバレット』。圧縮した空気の弾丸を叩きつけ、衝撃を受けると共に破裂させるだけの簡単な魔法だ。とはいえ、その衝撃は十分に人には凶器である。
「え、詠唱がな――」
剣を振りぬくことは、終ぞ男にはできなかった。鎧の上から炸裂した空気の弾丸が男の体に衝撃を浴びせる。背中から吹き飛んだ男が、仲間二人に押しつぶされる形になっている中衛の男に更なる重量をプレゼントした。偶然にも男の山が出来たところでサキは右手の短剣を仕舞い、少女を抱き上げるとメイドの方へと向かった。
「屋敷の方ですね」
「ああ。そういう君は侵入者のようだが……ふむ。状況が理解できないな」
「私にもこの連中のことは理解できません。ですが、別件で尋ねてきたということは理解して頂きたい」
「なるほど別件か。都合の良い話しではあるが、とりあえずは聞こうか。何が目的だ」
「貴方たちが召喚したリリムの頼みで、彼女を護衛していた兵士の人の亡骸と彼の伝言を届けに来ました。公爵に会わせてください」
「ではその要求を呑むとして、武装解除はしてもらえるのだろうな」
当然の要求ではある。仮にも公爵は要人だ。不法侵入してくるような相手を武装をそのままに招き入れる訳にもいかない。だが、サキは敢えて首を横に振るった。
「いいえ。この都市にリリムを矢で射った者が居る以上は非武装になるつもりはありません。この攫われそうになった少女を変換することは吝かではありませんが、私はこの国の人間を信じる気にはなれませんので」
「ではどうするのだ。私は武装したお前を連れて行くことはできんぞ」
「ならこの子を起こして案内してもらうというのも手ですね」
「その子がすると思うか?」
「はい。屋根裏部屋から入らせてもらいましたが、そこの彼らに殺されただろう女性を見ました。そのことを教えてあげれば、公爵に泣きつくでしょうから」
「貴様――」
「冗談です」
一瞬、ギラリと鋭い眼を浮かべたメイドの表情を見てサキは予想が当たったことに内心でため息をつく。
「しかし、いいのですか? この子が狙われたということは、同じように公爵も狙われているのだと思います。なら、ここで私と無駄な戦いをする余裕がありますか?」
「……ふん。いいだろう。その可愛い顔に免じてその口車に乗せられてやる」
「この子はどうしましょうか」
「このまま連れて行く。その方は公爵令嬢だ。手荒には扱ってくれるなよ」
「それは構いませんが……何を?」
見れば、メイドはどこからともなくロープを取り出して男たちを拘束していた。何故か、非情に特殊な縛りだった。
「ふぅ。日頃から縛り慣れていて良かった。やはり何ごとも修練がものをいうな」
「……早く行きましょう」
「ん、そうだな」
サキとメイドがたどり着いた頃、数人の兵士が部屋から死体を担ぎ出していくのが目撃された。
「私が離れたと知って動いたか。馬鹿な奴らだ」
吐き捨てるように呟きながらメイドが進む。すれ違う兵士たちが後ろに続くサキを見て怪訝そうな顔をするが、当たり前のように進む武装メイドを前にして黙っていた。
「公爵様、客人です」
「入りたまえ」
「はっ――」
メイドに続き、サキが入る。すると、男がサキの抱いている娘を見て驚いた。
「ノルメリア? 一体どういう……まさかっ――」
「その子は生きている。しかし、そこの彼女が言うには屋根裏部屋で一人死人がいたそうだ。確認はしていないが護衛が消えていた。恐らくは……」
「なんということだ。おお、クラリス……お前まで先に――」
「犯人らしき男たちを上の階に捕まえている。尋問できるとは思うが、どうせバノス宰相の差し金だろう」
「アデル!」
「はっ、どちらにも大至急兵を回します」
執事が最後まで聞かずに部屋を出る。残された公爵は、よろめきながらも眠っている娘の元に歩み寄り、サキから娘の体を受け取って胸に抱いた。そのまま仮眠用のベッドに娘を寝かしつけると、ドッと老けて見える程に精気の無い顔のまま椅子に座る。
「公爵様、もう一つ悪い知らせがある」
「この上、この上まだあるというのか!」
「……リリムが矢で射られたそうです」
「なに!?」
座った椅子から飛び上がるほどの勢いで公爵が立ち上がる。
「といっても、今はもう大丈夫。なんとか生きながらえて安全な場所にいますから」
「そ、そうか。ふぅぅ、しかしこの上あの子まで狙うとは……」
「どちらもこのタイミングなのは偶然だろう。だがノルメリアや公爵様の暗殺計画事態は入念に練っていた可能性がある。申し訳ありません。予兆さえ察知できていませんでした」
「……君のせいではあるまい。奴が一枚上手だったというだけだ。……それで、その子は?」
「私はリリムの仲間です。今屋敷の周囲を飛んでいる竜もそうです」
「何?」
「ほう、竜もか?」
悲しみを堪えていたレンドールも、レイリー共々眉根を寄せる。
「外を飛んでいる竜が、リリムが世話になった兵士と馬の亡骸を運んでいます。できれば庭に降りられるように場所を空けてください。それから、その兵士の人から今わの際に公爵様宛に伝言を頼まれています。伝言は、『ヤンクがリリムの嬢ちゃんを射った』です。勇猛な兵士の方の伝言、確かに伝えましたよ」
「……ヤンク?」
「兵士の男です。目立たない男だとは聞いていますが……擬態だったのでしょう」
「そうか。その男、何としても逃がすな。撃たれた場所は?」
「恐らく、北門を出て直ぐの場所です」
「……そうか。ロンドは、門を抜けていたか。だが、そうなると門兵も怪しいな。全員捕まえるしかないか」
「アレが無ければ生きていただろうと、リリムはいっていました。丁重に葬ってあげてください。リリムに変わってお願いします」
「勿論だ。彼は決死の任務についてくれた。当然、報いるべき義務が私にはある。そう、報いるべき義務があるのだ。この私には――」
硬く握り締めた拳を震わせながら、公爵は頷いた。その眼が見据えるのは、遠く離れた敵に対してだろう。サキは公爵がどうしようもないほどに全力で笑顔を取り繕っただろうその姿を見て、その余りの痛々しさに眼を背けた。かけるべき言葉など、よく知りもしないサキには当たり前のようになかった。
屋敷の庭にレブレが降り立つ。観衆は兵士たちによって作られた簡易的なバリケード外側から、恐怖と好奇心が入り混じったような顔でその光景を見ていた。
「もう、遅いよサキ」
「すいません。少しごたついたもので」
「……竜が喋ったぞ。私は夢でも見ているのか?」
サキの隣に見送りに来たレイリーが呆然とした表情でレブレを見上げる。レブレはすぐに一人と1頭の遺体を降ろし見上げたままのレイリーを不思議そうな顔で見下ろした。
「んん? なんだか異常に美味しそうな匂いのする女の人だね。ねぇ、食べていい?」
「駄目です」
「じゃ、舐めるだけにしとくね」
「ぬわぁっ」
言うや否や、サキが止めるよりも早く伸ばされた舌がレイリーの顔を襲った。逃げ遅れた彼女の顔が、べったりと唾液塗れになる。
「凄く美味しい。見たところレアな人みたいだし、ちょっと視ちゃお――」
「レブレ、遊ぶのはそれぐらいにして早く戻りましょう。リリムたちが待ってますよ」
「そう? その女の人も数奇な運命っぽいのに……まっ、いっか。あ、でも帰る前に聞きたいんだけどさ。あそこに突き刺さってる剣は何? 教えてよお姉さん」
魔法陣らしき物の中心に突き刺さった剣がある。兵士が見張っているが、飛びながら疑問に思っていたレブレは単刀直入に聞いた。
「アレ、リリムが何かした奴でしょ」
「……召喚した侍女が使っていた儀式用の剣だ。アレでリリムが刺されたが、妙な力で抜き差った後に一人でにあそこに突き刺さった。どいうわけか誰にも抜けんようだ」
ハンカチで唾液を拭いながら律儀にもレイリーが答える。
「ふぅん。ちょっと細工するね」
「なに?」
「GUOONN!」
屋敷中の人間が、その咆哮に飛び上がる。聞きなれたサキさえも、いきなりのそれには顔を顰める。当然、いきなりの咆哮に民衆たちが腰を抜かしたかのように後ず去る。
「な、なんだ!?」
剣を見張っていた男の周囲に剣を中心にして石柱が地面の下から六つ程そそり立つ。それらは等間隔に配置され、何がしかの儀式的意味合いを思わせる。一度だけ発光。頂点で光の円を描きすぐに消えた。
「レブレ、説明を」
「リリムの封印の上から僕も封印を施したのさ。言うなれば、二重の封だ。これでもうこのパワースポットを使って召喚はできないよ。解除すれば別だけどね」
「では、残りは四つですか」
「少なくともこの国で判明している箇所で言えばね」
「ちょっと待て、聞き捨てならんことを聞いたような気がするぞ」
ある意味国の盛衰を決めるために縋りついた切り札が二度と使えないというのは問題だ。問い詰めようとするレイリーだったが、その眼前で面倒になったサキが跳躍。レブレの背に逃げ込んだ。
「では、用が無くなったので失礼します」
「ばいばーい」
「なっ、こら待て。せめて名前ぐらい名乗ってからにしろ。口説けないだろうが――」
力強い羽ばたきで舞い上がる土ぼこりから目を守ったレイリー。彼女が髪を靡かせる風を鬱陶しく思いながら見上げた頃には、竜と一人は既に北へと飛び去ろうとしていた。
「まったく、訳が分からん連中だ。しかし――」
だが、そう言いながらも武装メイドは唇を歪めていた。表情から漏れ出す内心の歓喜の感情が止められないのだ。竜の唾液の匂いさえも、今はどうでも良いと感じられるほどに。
(グリーンドラゴンが北西の山に住み着いたという陳情があったな。なるほど北西か。まだ、天は帝国を見放したわけではないようだ)
暗中に埋もれそうな希望が、首の皮一枚で繋がった気分だった。それを、この国の天命だと彼女は思う。そして、そんな彼女の妄想染みた願いは、遅れてやってきた伝令の持ち込んだ新しい情報を前に確かな物となった。この日、レイリーと呼ばれる彼女――武装メイドは一つの確信を得た。ならば後は、どのような手段を用いてでも成就させるだけ。ただ、それだけだった。
絶叫の如き悲鳴が聞こえる。
悲鳴は怨嗟を内蔵し、忌まわしい程の不快感で耳を苛む。その中心にあって、不思議と少女は恐怖を感じなかった。
力だ。圧倒的な力の差がそこにはあった。その状況の中で一体、何を恐怖すればいいというのだろう。少女には分からない。例えそれが自分自身のものではなくても、今この瞬間は間違いなく彼女のモノなのだ。抱かれた腕の中で、詰みあがって行く屍を散歩するような速度で抜けながら二人はただ前に進軍する。
陸地で生きる者の歩を奪い、容赦なく刃を突き立てる影。そして一撃で数十、数百単位で消し飛ばす多種多様な上級魔法が止む事無く道を切り開いて行く。あるときは数えるのも馬鹿らしい爆裂弾が飛び交い、またあるときは初級の魔法が弾雨となって敵を打ち抜く。場違いなほどのその火力が、今はただ少女には頼もしい。
「魔力は大丈夫?」
「ああ。それより見ろリリム。これが君の敵の末路だ」
ハーピーが、ブラックウルフが、ゴブリンが、オークが、ワイバーンが、それ以外の帝国に存在するありとあらゆる魔物の死骸が詰みあがって行く。血臭を上回る死臭が風に乗って席巻するその光景は、少女の想像の中にさえない地獄絵図。その中で、当たり前の顔をしてシュルトが笑う。
「これだけの数をまともに相手にするのはリングルベルでの大進攻以来だが、ふふふ。このまま歩いて帰っても負ける気がしないぞ。これが君と私の力だ」
「すっごいご機嫌ね」
「そうとも――」
仲間の屍の上を跳ね、影に飲み込まれないように飛び越えながら詰め寄ってきたブラックウルフの顎をシュルトが無造作に蹴り飛ばす。シャドウブレイドの刃獄を越えた命が消える。また一つ残骸を積み上げながら、シュルトは少女の首筋に顔をうずめた。芳しい少女の血の匂いが、甘い体臭と交わって鼻腔をくすぐる。それを十分に堪能した後には、舐めるように舌を這わせて血を啜る。
「んっ――」
「嗚呼、これだけ闘争本能が昂るのは念神を殺したあの日以来か」
指が鳴る。過去を懐かしむ言葉と共に雷が落ちる。初めは一本だった落雷は、影の展開範囲の外側にいた軍勢の中心で拡散。円状に広がりながら進攻上の敵を焼き焦がす。激しい雷光に目を焼かれそうになりながら、少女はしかとそれを記憶する。
同じことが今すぐにできなくても、何れはシュルトの魔法を覚える。そして、覚えた全てで世界で一番嫌いな召喚の担い手に落とし前をつけさせるのだ。そのために彼女はシュルトから学ばなければならなった。彼の知っている戦いの全てを。
例え、今はまだ後ろに居たのだとしても何れは隣に立つときも来る。少女はもう、彼や運命から逃げるのは諦めていた。出会ったあの日に感じた直感が、こうやって確かに現実になったことにはため息を禁じない。だが、シュルト・レイセン・ハウダーでなければこの先の人生に、望む未来を切り開けないというのならもはや是非はなかった。
魔物から隠れ続けて、逃げ続けて、ただ訳も分からずに狙われ続ける日々を終らせる。そんなことができるのは、そんな危険な行為を投げ出さずに最後まで当然のような顔をしてやってくれるような男は、彼女の周囲にはシュルトしか居ないのだ。そして、リリムにシュルトが必要なように、シュルトには乾きを癒してくれるリリムが必要だった。お互いに動機は不純。しかし互いに必要なのだから、なるほど繋いだ縁などそう簡単に切れるわけがない。
「私もいつか、シュレイダーみたいに強くなれるのかな」
「同じにはなれないだろうが、君は君の望む者に成れる素質を持っている。心配することはないよ」
「そっか。じゃあそれまではお願いね。私も、絶対に追いつくから――」
少女の手が首に回され、白く発光する。光が薄っすらと周囲を照らしていく。だが、足元の影は以前のようには消えずにそのままであった。それは、一年間の訓練による得た効果対象の選別能力だった。
「リリ――」
闇を抱く光の中で、少女は吸血鬼にキスをした。一瞬目を瞬かせたシュルトの隙をついて、腕の中から彼女は飛び降りる。影の上に立つ少女は、腰元から鞭を抜いて振り返る。その背中には、彼と同じ羽が生え出していた。
「花嫁は隣を歩くものなんでしょ。私にだって歩くための足はあるもの。一緒に行きましょうシュレイダー。貴方に頼りっぱなしなんて、私はやっぱり嫌だわ」
「そうだな。その方が君らしい――共に行こう」
吸血鬼と花嫁が行く。シュルトは近距離に潜り込んでくる敵をリリムに任せ、大群に専念する。魔力が切れれば互いに血を吸い、活力を維持しながら包囲網の中を闊歩する。そこへ仕事を終らせてきたレブレとサキが合流する。
「お待たせー。随分と派手にやってるねぇ。このままだと帰る前に全部倒しちゃうんじゃない?」
「手伝いは要りますか」
「ここで無理をする必要はないと思うけど……どっちが嫌がるかな」
「そりゃーやっぱり、手駒を殺されるほうが頭に来ると思うよ」
能天気にレブレが言い、ブレスを放つ。空を焼く灼熱の吐息。新たに量産されるは炭化した死体の雨。そこでようやく魔物たちに変化が起きた。空に居たレブレとサキがいち早くそれに気づく。
「先生、後方の魔物たちが妙な陣形をとってます!」
「形は分かるか」
「んとねー、あー、魔法陣としか言えないや。僕たちが知る体系外の奴だよ魔法卿」
「ふむ、ならば潮時か」
大規模な集団により儀式魔法の可能性を考えてシュルトが呟く。すぐにリリムを抱き上げ、跳躍。レブレの背に飛び乗り、念のために通常の魔法障壁ではない防御陣を虚空に描く。
「レブレ、お前の目で解析できるか」
「んー無理っぽい。そっちは?」
「こちらも無理だ。しかし、魔力の流れは視えている……なに?」
四人の目の前で、不自然に魔物たちが崩れ落ちて行く。まずは前衛。そして魔法陣を構成している魔物たちまでがまるでドミノ倒しのように倒れて行った。
「うひゃっ、周辺の魔物が生贄にされてるよ!?」
「まさか、供物召喚でパワースポット抜きで召喚する気かっ!?」
「上だよっ!」
レブレが気づき、全員が空を見上げる。その瞬間にそれは来た。死体で形作られた魔法陣の上に落ちるのは光。それも、想像を絶する大きさの範囲のものだった。
「まるで光の柱ですね」
サキの感想に皆が頷く。視線が一点に集中。その向こうから、呆れるほどに大きなシルエットが浮かび上がる。
「天から降り注ぐ光在り。その柱より出でる者、それは賢人。祖は規定する者。魔法を伝えし者。それは大陸に隆盛をもたらし、やがてひっそりとどこかに消えた――」
「先生、それはなんですか」
「リングルベル王国に伝わる賢人についての伝承の一説だ」
賢人は魔法だけではなく、様々な物を開発したという逸話がある。今でこそ魔法が有名だが、様々な統一規格の概念を持ち込み長さなどの単位を持ち込んだという。シュルトは天才的な魔法使いにして発明家だと思っていた。しかし、その認識は初めて見た召喚魔法によって変化した。
「賢人か。調べ直す必要があるかもしれんな」
「てことは賢人様も召喚された誰かってこと?」
「かもしれない。だがそうなると……召喚魔法は魔法が生まれるよりも前に完成していたことになる。どういうことだ? 分からん、まだ情報が少な過ぎる」
「ちょっとちょっと、悩むのは後にしよーよ。ほら出てきたよ」
光の柱が消える。その向こう、山よりもなお大きい黒い足が姿を現した。四人はポカンとした表情を浮かべる。何せ、それは体が大きすぎた。全長が既に山を越え、雲よりも更に高いのだ。
「……レブレ、南東に向かいながら人気のないほうへ飛んでくれ」
「あー、うん。りょうかーい」
反転する一行。それに反応してか、黒の巨人もまた動き出す。右足が上がる。たった一歩に数秒を要するほどの並外れた巨体。振り返っていた皆の耳朶に届くのは、大地が軋むのではないかというほどの激震の音。超重量による一歩が、地面をめくりあがらせる。その後に残るのは、目に見える程しっかりとした足跡だ。巨人が歩くたびに、まるで当然のように大地に刻み困れて行く。
「あの姿、まるで『だいだらぼっち』ですね」
「だいだらっち? なんなのそれ」
「詳しくは知りませんが、空元で言うところの妖怪の一種です。大陸風に言うと、御伽噺に出てくるような伝説の魔物みたいなものですね。山のように大きくて、歩いた後に出来た足跡に涙を流して湖を作ったという話しを聞いたことがあります」
「ふーん。見かけに反して泣き虫なのね」
「ちなみに、『だいだらっち』ではなく『だいだらぼっち』です」
「なら間違えたお詫びに可愛いらしく『だらっち』と呼んであげるわ」
「……可愛いですかそれ」
首を傾げてサキが唸り、その『だらっち』を振り返る。するとのっぺりと前傾を取った彼(?)と目が合ったような気がした。
見上げるだけで首が痛くなりそうな人型の巨大なシルエット。そのどこか丸みを帯びる輪郭が、サキにも可愛く見えないような気もしないでもない。しかし、人のようではあるものの赤い目と口のせいで全体としては不気味に見える。ジッと眼を凝らして観察していた彼女は、そこで更に可愛くない要素を見つけてしまった。
「気のせいでしょうか。『だらっち』が先ほどよりも大きくなっている気がしますが」
「本当ね。レブレ、シュレイダー。原因は分かる?」
「僕も元の世界じゃそれなりに博識な方だけどああいうのは見たことないからなぁ」
「近づいてきたからだけではないとすれば……恐らくはアレだな。足元見てみてろ」
少女たちが言われたとおりに視線を向ける。すると、月夜の光に照らされた足元で魔物の死骸が踏み潰されたのが見える。次の瞬間、踏み潰したはずのだらっちの足が膨れ上がり、体が大きくなった。
「捕食というよりは、同化かな。スライムがスライムを飲み込んだときに似てるね」
「私の聞いただらっちの話しにはあんな能力はありませんでした。ですが、そういえばだらっちは雲の高さを越えるぐらいに背が高いという話しがありました。そのせいで足元が見えないから前傾を取るとも」
「背が高いにも程があるよ。ここまで大きい生物は僕、みたことないや」
レブレが関心している間にも、魔物たちの死骸を踏み潰しただらっちが巨大化していく。そのせいで歩幅が大幅に増加し、見る見るうちにレブレたちの方へと近づいてくる。
「生物というよりは、アレは念神に……想念神に近いように見えるがな」
「アレって神様なの?」
「というか想念神という言葉自体、聞いたことがないのですが」
シュルトやレブレの世界の概念であるため、二人が首を揃って首を傾げる。
「想念神というのは、人々の持つ共通した思念が大気中の魔力に触れて反応し、実体化したものだ。宗教の神などが実体化しやすく、人々が念じれば念じるほどに伝承に忠実になっていく。とはいえ、実在する神ではなく想像の果てに生まれる紛い物だ。強さはピンきりで、相手次第では絶対に倒せない相手ではない。ちなみに念神とだけ呼ぶ者も居るがどちらも大して違いはない。広義的には精霊もそうだ」
「魔法卿は戦争で人間の信仰する念神を倒して成り上がったんでしょ? だったら勝てるんじゃない」
「アレは若気の至りだ。先に戦っていた者たちに気を取られているうちに後ろからパワースポットの魔力を使った一撃を叩き込んだ。言うなれば手柄を横取りしたようなものだ。同じことをもう一度やれと言われても困る。そもそも質量差があり過ぎるぞ」
「じゃあもう転移で逃げちゃう?」
「ですが私たちはよくても、リリムを見失った彼がどうするかが分かりませんよ」
「あちゃー、確かにそうね。あの調子なら一月も掛からずに帝国中の人間を踏み潰せそうだものね」
普通の魔物なら放置しても大したことは無いが、それにしたって限度というものがある。頭を抱える少女たちだったが、レブレとシュルトがあることに気づいた。
「待って、魔法卿。アレって確かに念神に近いみたいだよね。だったら、今は思念の元と繋がってないんじゃないかな。この世界にはアレを形成している人たちがいないわけでしょ。だから、少しでも実体を保つために死体を取り込んでリアリティを補強してるとは考えられない? 実像が少しずつ薄れてる気がするように見えるけど……」
「お前も気づいたか」
「つまりどうすればいいのよ。私の力で開放すればいいの?」
「いや、恐らくこのまま何もせずとも放っておけば勝手に自滅する」
「なぬ?」
シュルトの言葉に、少女たちが当たり前のように首を傾げる。
「ちょっと待ってよ。それじゃ結局何のために現れたの? こけおどしってレベルじゃないわよアレ」
「私とリリムが止められないからがんばって召喚してみたが、運悪く外れを召喚してしまったということではないかな」
「そんな単純な話しなのですか」
「そもそも召喚魔法は大前提として契約した者、或いは召喚する方法を明確に定義されている存在しか呼び出せない。それ以外はランダム召喚といって、呼び出すまで誰が出てくるか分からないものなのだ。ある程度召喚対象を絞り込むことは術式を開発して組み込めばできないこともないが、結局それを完全に仕上げるまでは誰が出てくるかなど分からないんだ。従って、こういうこともありえる」
「まぁ、この相手は規格外だけどねぇ。何せ異世界から僕や魔法卿を無理やりにでも呼べるぐらいだし、あのだらっちもそう。呼び出して完全に支配してる。そこだけは凄いんだけど……なんなんだろ。これだけ見ると間抜けに見えるね」
「そこがランダム召喚のギャンブル性という奴だ。普通は労力に見合わんから誰もやらんし切り札にもしないのだが……」
「この分だとそのうちきっとさ、もっと下らないものとか呼んじゃいそうだ」
「確率的に考えればありえるな」
結局、しばらくして存在を保てなくなっただらっちは逃げる一行に追いつけずに空気に溶けるように消えて行く。薄れて行くその真下で、今度は紅い黒い光が灯る。そして、その光の中にだらっちの体が取り込まれていく。
「あっ、やり直してるね」
「だらっちを生贄に再召喚か。しかし、これは――」
二度目となる召喚の儀を、再びシュルトたちは目撃する。振り注ぐは天よりの光。神々しいまでの光の柱が、魔法陣の中心に降り立つ。光の影のその向こう、だらっちとは比べ物にならないほど小さな影が現れる。瞬間、その姿を見たリリムはおろかサキさえも目を疑った。
「ね、ねぇ。アレって……まさかシュレイダーと同じ?」
「似たようなものだ。しかしあいつは――」
零れ落ちたシュルトの独白は二人の耳に届く前に掠れて消える。だが、無言で二人を抱いたシュルトに何かを感じたのか、二人は目を凝らしてそれを見た。
背中から生えるのは、シュルトと同じ蝙蝠のような翼。どこか貧弱そうなその体躯は、戦士というよりは学者を思わせる。だが、その存在が持ちえる存在感は二人が手に入れた魔力感知能力を介して圧倒的な危機感を煽るほどに強大だ。
「やはり、ジャン・ルックバイトだ」
「うぇっ、ままま、まさかあの放浪鬼?」
旋回しながら様子を伺っていたレブレが、シュルトの呟きを聞いて目を見開く。そうして見下ろす彼の竜眼は、これまでにないほどの驚きが宿っていた。
「もしかして、シュレイダーより強いの?」
「んー、それはないと思うよ。ただ、逃げ足の速さと食い気では有名だよ。血さえ通ってたら相手が何でも喰らいつく吸血鬼なんだ。神祖に最も近いレベルの多様な力を獲得した真祖で、魔法卿の弟子だった男の成れの果てだって聞いてるよ」
「先生の、弟子……」
「にしては敵意むき出しみたいだけど……今度こそ私の力で助ける?」
無作為に放射される強大な魔力。その中に込められた刺すような殺意。操られているだろうことは明白であったが、リリムは自分に向けられるそれに絶えかねるように尋ねる。しかし、シュルトはその提案を蹴った。
「……駄目だ。あいつはここで確実に消滅させる」
底冷えするような冷たい声で答えたシュルト。その両手が硬く握り締められ、全身からは脈動する魔力が吹き荒れる。その顔に浮かぶのは苦渋と憎悪と、いくばくかのやるせなさ。
「偶然にしては出来すぎている気がしないでもないが……油断するなよ。アレは私よりも吸血鬼の特殊能力を強く獲得している個体だ」
シュルトが言うなり、見下ろしていた影が忽然と消えた。驚く少女たち二人を抱き寄せ、シュルトがレブレの背を蹴る。
「「きゃっ!?」」
悲鳴を上げる二人をそのままに、先ほどまでリリムが居た場所に突如として現れた影が腕を振るう。その手にある指先からは、鉤爪のように伸びた爪がある。空間ごと引き裂くような一撃。それは容易く魔法障壁を展開し損ねたレブレの鱗と皮を抉り取る。
「痛っ、この――」
空に逃れた三人の向こうで、レブレの悲痛な叫びが耳に届く。体躯からすれば大した傷ではないが、それでも傷を負わされたことは確か。怒りに燃える子竜が虚空で身を捩り、背中に乗ったジャンを振り落とす。
「フハ……フハハハハ――」
男は、血の滴る爪を舐め上げながらも狂ったように笑いながら再び消える。その瞬間を、虚空に静止したシュルトの両腕の中で今度こそしっかりと少女たちは目撃する。
空間が微かに歪み、男の姿がブレるようにしてかき消えた。瞬きする程度の刹那の時間が経過。数秒にも満たない間に男が空間を歪ませながら彼らの眼前に現れる。爛々と輝く瞳は愉悦に燃えて吊り上り、その体が背中の翼をはためかせて砲弾の如き加速力を得る。振るわれる爪撃。それに合わせて、シュルトが魔法障壁を展開して防ぎきる。
思わず自分でも展開したリリムの眼前で、吸血鬼との距離が開く。真正面からの衝撃を利用し、勢いに逆らわずに落ちていく。シュルトは鋭い視線をジャンに向けながら自らも翼をはためかせて降下速度を更に上げた。
「何よアレ! 一瞬で近づいてきたわよ!」
「先生の使う転移魔法とは違うようですが」
「吸血鬼の持つ固有能力の一種だ。私は使えないがな」
それは、吸血鬼に当たり前のように備わっている超能力の一つだった。魔法ではなく、種族固有の力であり息を吸うように扱える異能。魔法などという後天的に得る力ではなく、先天的な資質によって持ちえる特殊技能であり、獲物である人類種から吸血するために備わっている武器である。
「吸血鬼は人間を圧倒する身体能力の他に、様々な能力を持っている。いくつか種族全体で共通する能力もあるが、それ以外は個体によって様々だ。その中でもジャンは、真祖の吸血鬼になる過程において様々な能力を自身に付与した元人間の魔法使いだ」
「元人間ですって!?」
「君のような擬似吸血鬼とは違って、完全に摂理から外れているがな」
かつて、吸血鬼の花嫁と呼ばれる神祖の吸血鬼の秘術を知り、魔法で吸血鬼になろうとした魔法使いが居た。不老不死を求めてか、強靭な能力を求めてか、今となってはシュルトも知る由は無い。だが、それは確かに世界中の魔法使いの欲望を糧に研究されて日の目を見た。
「魔法で自らを吸血鬼としたものを真祖の吸血鬼と呼ぶ。生まれながらにして吸血鬼である私のような神祖とは違い、不完全で弱点も多い。最初期の真祖はそれこそ大した力はなかったそうだ。だが、人間は延々と研究し続けて真祖化の秘術に様々なバリエーションを産んだ。アレは、その中でも最も神祖に近いレベルの異能を持つと今では言われている」
「つまり、強いのね?」
「本来、吸血鬼は私のような魔法重視の戦闘スタイルではなく、異能と己の肉体を武器にする。今でこそ魔法も扱うが太古の昔には能力の強弱こそが戦闘能力の指針だった。そういう意味で言えば、アレは能力だけは上級に位置する稀有な例だ。異能だけで言えば私を圧倒的に凌駕する。当然だ。私自身が自らを強化するために研究していた術式を使っているのだからな。生憎と元から吸血鬼である私には適応ができなかったが、奴はその恩恵を完璧に受けているというわけだ」
「うぇっ!?」
「まぁ、元々私は格下の吸血鬼の出だったから異能など下級と変わらん。だが――現代においては能力の有無は戦力の決定的な差ではない。覚えておけ二人とも。この世界で私以外の吸血鬼の力を知るいい機会だ。この機会に少し講義をしておこう」
「シャァァ!」
二度目の空間渡り。真上から降下中の彼らに向かって、ジャンが追撃を敢行する。ブレる空間のその向こう、消えて距離を越えるその間隙にシュルトがいつものように指を弾く。
小気味良い音を合図に、シュルトが構築した術式に従って魔力という名のエネルギーが魔法へと変化する。光の矢<ライトアロー>が三人を囲むようにしに顕現。光の矢は術者であるシュルトの意に沿って周囲を高速で旋回を開始する。
「一つ目だ。空間を渡る相手には古典的だが出現と同時に叩くのがセオリーだ。こんな風にな――」
真祖の吸血鬼が空間を越えるべく至近距離に出口を形成。空間の歪みが顕在化。そこへ、シュルトが瞬時に光の矢を全弾打ち込む。空間を越えてきたばかりの男に、それを避けるような暇はない。二十本の矢が追撃をかけようとした吸血鬼に突き刺さっていく。肉を貫き、抉る光の鏃。光の乱舞が終ればそこには全身に大穴を開けた吸血鬼の姿がある。
「一撃で終わり、ですか?」
「まだだ。よく見ておけ」
シュルトが翼をはためかせ、距離を取る。瞬間、穴だらけになった吸血鬼の体から白煙が上がる。血を滴らせながら、しかしその下から数秒もせずに欠損部位が消えて行く。それは、吸血鬼の持つ驚異的な回復力の発露だった。
「何アレ!」
「格上の吸血鬼は生半可な攻撃では死なないほどの不死性を備えている。そして、今日は満月。満月の下では吸血鬼の能力は強化されるのだ。逆に、昼間は少し落ちる。対処方法は二つ。生命力が尽き果て、再生できなくなるまで攻撃する。或いは、真祖の場合は首を刎ね心臓を貫け。こいつらの弱点はそこだ」
地面が迫る。軽やかに荒野に降り立つシュルトとは対照的に、再生したばかりのジャンは地響きを立てて着地した。
「オ……オノレ……ナゼ……お前ハ……!!」
「むっ――」
ジャンの体から魔力の輝きが灯る。同時に、魔力障壁と身体能力を強化するエンチャントの魔法光が淡く夜を照らし出した。シュルトもそれに合わせてオーラで自身を強化する。
「アドバイスその2。神祖はそうではないのだが、真祖は摂理に反する者だ。故に系統としてはアンデットに性質が近い。聖女であるリリムの血は劇薬だ。飲めば塵に還るだろう。もっとも、普通は血を吸いに来るがこいつの場合は操られている。狙いはリリムの命だ。吸血などということはせずに、殺しに来るだろうな。だが、サキは気をつけろ。真祖には吸血と同時に、血を吸った相手を任意で下僕にして操る能力があることが多い。抵抗できる種も居るが、人間には致命的な攻撃だ。しかも血は吸血鬼にとっては食事でもある。普通の吸血鬼は食事として吸血し、魔力と生命力を回復させる。自分以外に吸血対象外がいる場合は気をつけろ。もっとも、神祖の吸血鬼には人を操る能力などないし、聖女には無意味だ。安心していいぞリリム」
「ほ、本当でしょうね……」
「本当だとも。ただ、私のように神祖は君の血の味に執着はするだろう。きっと君を手に入れるためになんだってする」
「というわけで、真祖も神祖も魔法卿以外の吸血鬼を見つけたらとっとと殺すに限るのさっ!」
頭上より舞い降りてきたレブレが、三人の隣に着地しながら大きく顎を開く。放たれるはドラゴンブレス。間髪居れずに放たれた灼熱の炎が荒野を舐める。その向こう、炎に飲まれて消えたジャンの魔力反応が消える。
シュルトは瞬時に二人を抱えたままで跳躍。その下を、空間渡りで一泊遅れて背後に移動したジャンが強襲する。
「もーう、あったま来たよ!」
小回りの聞かない竜の体からレブレが人化。少年姿になるや否や、オーラを展開してジャンに殴りかかる。シュルト――というよりはリリムを目で追っていたジャンはそれを無視。足元に不自然に広がった己の影へと背中から倒れこむ。そこへ、レブレの一撃が叩き込まれる。ド派手な爆音が鳴り、地面が振動する。竜の膂力にオーラが乗った一撃が小規模なクレーターを構築。土砂を派手に巻き上げる。
「アドバイス三つめだ。吸血鬼は影から影へと渡ることができる。そして――」
シュルトが指を鳴らす。瞬間、リリムの影から姿を現したジャンがシャドウブレイドに貫かれて無理やりに距離を開けられる。だが――、
「げげっ!? 蝙蝠になっちゃった!?」
「―― 一時的に霧や蝙蝠の群れに姿を変えて物理的な攻撃を回避することもできる。近接戦闘時には気をつけろ。止めを刺したと思った瞬間、回避されて逆に反撃されることもある。これは相手の戦闘スタイルにもよるな。当たり前だが吸血鬼には知恵がある。人間と同じように戦場の駆け引きを使ってくる。卑劣な行為も、潔い戦いも、それを成すのは本人の人格と精神に由来する」
蝙蝠の群れは距離を取り、一箇所に集合。暗黒のシルエットを構築し、元の体へと復帰する。当然、その際にはシャドウブレイドで貫かれた傷など見当たらない。
「さて、至近距離に安易に潜れないと悟れば当たり前だが遠距離攻撃が来るだろう。二人とも、奴の足元を見ろ。いいか、これ以後目をあわせるな」
「え? なんでよ」
「魔眼を応用し、視線があった相手の精神にダメージを与える邪眼<イビルアイ>といった攻撃方法がある。これは魔法障壁では防げないことが多い」
「僕には関係ないけどねっ!」
傷つけられた腹いせか、殴りかかることを止めようとしないレブレがクレーターの中から飛び出して突撃する。
「格上の魔眼や同質のそれで相殺すれば無効化することもできなくもない。単純に気合を入れて抵抗することもできなくもないが、よほどの精神力がなければ厳しい。肉体にダメージも行くからやらないほうがいい。あいつは……竜だから関係ないだろうが」
レブレがお構いなしに突っ込んで行く。それを見送る三人の眼前で、不自然に空間が歪む。ジャンは実体を構築してからそのままだ。シュルトは後方に跳躍。と、その瞬間歪んだ空間が薄らと輝いて破裂した。同時に吹き荒れる風が激しく頬を撫でていく。
「きゃっ、今度は何よ!?」
「空間を歪め、その反作用で攻撃する恐るべき破壊能力だ。残念ながら、注意深く観察して避けるしかないな。魔法障壁でも同質のモノでなければ防げん。ちなみに、それに特化した能力を持つ吸血鬼を見つけたら絶えず動き回れ。タイムラグがあるからその間隙を利用して回避し、攻撃するようにな」
「てやぁぁ!」
どこか間延びするような声と共に、ようやく懐にまでもぐりこんだレブレがオーラで包まれた拳を振るう。ジャンはそれを避けもしない。レブレが胸部へと放たれた右ストレートが空振った。たたらを踏むその小さな体が、ジャンの体を突き抜ける。
「アレが体を霧化させて避ける技法だ。打撃は意味が無いから、魔法で消し飛ばすほうがまだいいな。もっとも、そのままでは攻撃することはできないし、ずっと霧になることはできない。これも蝙蝠化と同じで実体を取り戻した瞬間に叩け」
「こんのぉぉ!!」
泳いだ体を瞬時に引き戻し、レブレが何度も霧に殴りかかる。風に乗る霧は、それを嫌って空へと舞い上がる。それを見て、大きくレブレが息を吸う。必殺の竜魔法ドラゴンブレスの兆候だ。口元に魔力で作られた炎が顕現。霧が実体化した瞬間に放たれる。
灼熱の吐息が大気ごと焼き尽くしながらジャンに迫る。同時に、ジャンの周囲の空間が歪んだ。
「ああっ、また避けた!?」
悔しがるレブレを他所に、シュルトが天を仰ぐ。魔力反応を引き連れて空間から飛び出したジャン。その周囲にはシュルトの世界の魔法が準備されている。魔法陣は四つ。虚空に顕現し回転を始める。どこかで見たような魔法であることは間違いない。ギョッとした目でリリムとサキが其れを見る。
「アレって、シュレイダーの――」
「――シェルバスター!?」
「教えてあるから使えて当然だ。あいつは筋が良かった――」
シュルトが指を弾き、影の沼を眼前に立てる。そこへ、螺旋を描く魔力砲撃が閃光となって飛来する。狙いは相変わらずリリム一択。馬鹿正直なその狙いを前に、シュルトは不快感を覚えると共に、かつての弟子へ哀れみにも似た視線を送る。
――シュレイダー先生、俺もいつか絶対に先生みたいな有名な魔法使いになります。
閃光を飲み干す影がある。影のベールの向こうより、シュルトは遠い日の記憶を想起する。貧弱な体しか持たない者にとって、魔法とは憧れだ。強い体などなくても、行使でき、資質の差こそあっても論理と技術の積み重ねによって力を得ることができる。それは、シュルト・レイセン・ハウダーのように魔法をよりどころにした一人の青年にとっては、確かに価値あるものだった。
念神殺しの魔法卿。その名で有名になったシュルトは、別の意味でも有名である。十代・二十代の処女の血でなければ体が受け付けないというその特異な体質は、彼の生まれに起因する。低級の吸血鬼にして田舎の弱小貴族、その末っ子として生まれた彼は幼少の頃は体が弱かった。そこで、両親は栄養が豊富である処女の血だけを彼に与えることで栄養面から体の貧弱さを救おうと考え実行した。それも病的に徹底して、である。
通常の吸血鬼ならば、血の質ではなく量に走りそうなものだがその方針によってシュルトは処女の血だけを摂取しつづけ、結果として爆発的に保有魔力を増幅させた。虚弱体質もそれによって完治したが、逆に彼はそれ以外の血を吸えなくなった。飲むと嘔吐感や吐き気に襲われ、まるで毒を喰らったような症状を出す。他の吸血鬼たちに馬鹿にされながら、彼はそこで自らが手に入れた魔力を生かすべく魔法を研鑽し、遂には念神殺しを成して地位を築いた。その逸話はある種のサクセスストリーとして流布している。それは当然、吸血鬼界隈だけでなく人間にもそうだった。
ジャン・ルックバイトも生来体が強くなかった。だから余計に、シュルトに強い憧れを抱いていたのかもしれない。その手段が魔法。そう思えばこそ、かつてのシュルトにとっては熱が入るものだった。念神殺しの魔法を享受する程度には。
(操られ、理性無き状態でさえ制御できるか。修練の成果が出たというわけだな。ジャン、そうまでしてお前は私のようになりたかったのか)
ジャン・ルックバイトはシュルト・レイセン・ハウダーが念神殺しを成してからできた初めての弟子だった。先生などと言われて、浮かれていたシュルトはその筋の良さもあってか様々なことを教えた。数々の魔法やオリジナルスペル、そして禁断の秘術も。水が真綿に染み込む様な様を見るのは楽しかった。
人は吸血鬼とは違い、駆け抜けるように人生を走破する。その道の一助になればとシュルトは思っていた。憧れだと言われ、目標にされ、そしていつかの夜に儚い幻のように消え失せたのだ。もし、あの時にシュルトが止めを躊躇していなければ、こういう形で会うこともなかっただろうし、罪を重ねることも無かった。
結局のところ、ジャン・ルックバイトの真祖化は失敗していた。能力こそ多様であり、魔力も生命力も、身体能力さえも比べ物にならないほどに増幅された。これでしっかりと本人の理性が残ってさえいたならば、成功だった。
神祖は真祖を基本的には紛い物として嫌っているが、魔法の深遠を探求するために魔法使いが手を出すことについては、シュルトは否定したいとは思わない。人の手では時間が足りない。だからそれに手を伸ばすための手段としてなら理解できるからである。だが結果は失敗で、だったらもう否定することしかできやしなかった。
確かにリリムの奇跡でなら人間に戻してやれるかもしれない。だが彼はもう罪に塗れ過ぎている。逃亡の途中で領民に手を掛け、シュルトの領内を抜けてからも討伐されることなく今日まで生き延びた理性なき吸血鬼。そんな存在はもはや魔物と変わらない。
「あの時、躊躇せずに止めを刺してやるべきだったのだろうな。ジャン、随分と遅くなったが許せよ――」
小脇に抱いていた二人の少女を地面に降ろし、シュルトが影のベールを重ねる。光の螺旋が一枚目の影を輝きで照らしつくし、実体を無理やりに崩壊させる。その後ろには重ねられた二枚目の影が同じようにシェルバスターを飲み込んで行く。
「これから私は、全力で攻撃に傾注する。二人とも、訓練を思い出して互いを守れ。何、教えたとおりにやればいい。最後のアドバイスだ。生き残った者こそが勝者。その真理を忘れるな。――もっとも、そんな余裕が奴にあるとは思えんがな」
二人の頭に掌を置き、勤めて優しくそう言うとシュルトは返事も聞かずに背を向けた。無言で頷いた少女たちは、その背中に漂う一抹の寂しさのようなものを感じ取る。
「終らせるぞジャン」
いつものように、シュルトが指を鳴らす。その眼前に展開されるのは、敵を凌駕する倍の数の魔法陣。幾重にも重ねられた影のベールの後ろから、神祖の吸血鬼は魔法を紡ぐ。何時になく朗々と詠唱される言霊に従い、魔法陣がさらに明滅。蓄えた魔力に意思を乗せ、過去の柵を断ち切るべく解き放たれる瞬間を待つ。
「ぶち抜け、シェルバスター!」
己の影のベールを貫きながら、彼のオリジナルスペルが空へと上る。対面から降り注ぐ同種の閃光を明確な出力差で押し切りながら、かつての弟子へとまるで手本を見せるかのように打ち勝ってみせる。
後に残ったのは、右半身を貫かれながら白煙を上げるかつての弟子だ。シュルトを見下ろすその顔に、間違えようの無い怯えが走ったように彼には見えた。
そこへ、真下から背中に竜翼を部分的に生やしたレブレが飛翔していた。自分を無視して行われた撃ちあいなど子竜には関係ない。ジャンよりも高く飛んで背後へと回り込むと、虚空で回転。右半身を再生しながら空に滞空している彼の後頭部にオーラを凝縮させた蹴りを問答無用で叩き込む。
「隙ありだっ!」
瞬間、叩き込まれた蹴りの威力にオーラの力が炸裂した。命の力である気はそれそのものが聖なる属性であり、摂理に反する者にとっては例外なく弱点となる。そこへ、竜の膂力が加わり当然のような結果をたたき出す。
シュルトのシェルバスターによって魔法障壁を抜かれていた頭部が、スイカを木の棒を叩きつけたかのような勢いで粉砕される。脳漿が飛び散り、その衝撃に仰け反った体が耐え切れずに空を泳ぐ。だが、次の瞬間にはそれら全てが蝙蝠に変化。虚空で集合しながら、無傷の実体を形作る。そこへ、間髪居れずに指を弾いたシュルトの光の矢<ライトアロー>が弾雨となって無慈悲に飛来する。
「ガッ……グガ……アァァァァ――」
空の一角を、流れ星のような輝きが席巻する。再生したばかりの体に、次々と矢が穿たれていく。肉体を破壊しようとする光の猛撃と、肉体を維持しようとする不死性が正面から凌ぎを削った。
「再生する暇など与えんよ。そのまま塵に還れ――」
白煙が立ち上る吸血鬼の体が、まるで切り取られるかのように失われては再生して行く。その、恐るべき再生能力を前にしながら、シュルトは冷静に魔法を叩き込に続ける。
「うわぁ、容赦ないなぁ魔法卿は」
これには追撃をかけようとしたレブレも足を止めるしかない。魔法の射線に入らないように注意しながら、虚空でその様子を見守ることにする。
手足がちぎれ、首がもがれ、翼を失い、落下する。滴り落ちる血と肉片が、大地を穢す。それでもなお、執拗にシュルトの攻撃は続く。やがて、浮力を失ったジャンの体が重力に逆らえなくなって地面へと落ちて行く。墜落の寸前、その体が霧に変化。墜落を免れると同時に、シュルトの光の矢を素通りさせる。
「馬鹿め、私が同類だということをいい加減理解しろ」
ジャンを操っているだろう召喚者に向かって吐き捨てながら、弾かれた指先が別の魔法を紡ぐ。爆裂魔法『ブラストバレット』。拳大の大きさの魔力球が、残りの光の矢に紛れて霧に向かって殺到する。
耳を劈く爆音が木霊した。衝撃は地面を抉り土砂を巻き上げ、それだけでは飽き足らずに実体を形成しようとした霧を無理やりに拡散させる。そこへ、仕上げとばかりに鳴らされた指に従い不自然な竜巻が闇夜に突如として現れる。
「す、凄い――」
サキがほとんど間髪居れずに放たれた魔法の数々に驚嘆の声を上げる。その眼前で、大気を取り込むような勢いで魔力光を発する竜巻が吹き荒れる。竜巻は巻き上げるように霧を飲み込み、その結合を阻害する。
霧化した状態においてはこの不自然に魔力の竜巻に抗う術はない。同じ吸血鬼だからこそシュルトには能力の対処法は手に取るように分かる。例え、自身ではそこまでの芸当ができなくとも関係ない。
武力の研磨とはすなわち殺法の模索。いかに効率的に相手を一方的に害するかを突き詰めるということに他ならない。それは例え世界の真理に挑む魔法使いであっても変わらない。知識を蓄え、攻撃系の魔法を習得する。ならば当然のようにそれを向ける相手を想定し考察し、殺法を獲得することと大して変わらない。
「無慈悲なる悠久の楽土。それを成すのは太古の洗礼にして原初の熱量。生者さえ砕け散る虚空の使者よ。彼の光無き世界を、今一度我が眼前に顕現させよ――」
珍しく浪々と紡がれる詠唱と共に、竜巻ごと覆うかのような魔法陣が地面に形成される。大地に刻まれる文様は、魔力光を伴って複雑精緻な図形を描く。その上に形成されるのは魔法の威力を逃さぬ結界だ。結界が位相をズラし空間をズラし、結界内部を完全に隔離する。極大の一撃を確実に与えるための、それはもっともポピュラーな処刑場である。
「――アブソリュート・ゼロ!」
突如として現れた闇色の光が、結界内の光を喰らう。内部に存在するあらゆる光を貪り喰らいながら侵食。同時に、そこに存在する全ての熱量を奪い去る。魔力光を放っていた竜巻さえも、遂には消える。その果てに吸血鬼の体を構成していた霧が水滴→氷→原始結合の崩壊という流れを経て塵へと回帰した。その後に待つのは完全なる静寂だ。数秒後、少女たちは確かに世界が軋むような小さな音と共に、結界が崩壊する音を聞いた。
闇が晴れる。その向こう、月明かりも星光に照らされながら何も無い大地が伺えた。吸血鬼の痕跡していた跡は、そこにはもう何も無い。夜風が、局所的に絶対零度までを落ち込んだ空間に熱量を運ぶ。吹き散らされる風が、シュルトの魔法障壁に遮られ、肌を刺すような冷気となって少女たちの傍らを吹き抜けて行く。
「ジャン、お前にまだ教えていなかった吸血鬼殺しの禁術だ。今のうちにあの世でしっかりと研鑽しておけ。続きは地獄の底で享受してやる――」
吹きすさぶ風に銀髪を揺らされながら、シュルトは一人呟いた。
「とりあえず、これでお仕舞いかな」
周囲一帯を竜眼で見渡しながら、レブレが言う。
「確かに魔物の姿はもう見えませんね」
「多分、この辺り一帯の魔物は供物召喚で全員召されちゃったんだよ」
「それは朗報ね」
魔物がいなくなれば、それだけで人々は安全な旅が可能になる。狩猟や食糧生産などの悪影響も減るだろう。もっとも、そのうち時間をかければまた魔物も姿を現すようになるだろうが。
「……シュレイダー?」
少しだけいつもより寂しそうな顔をしているシュルトを見て、リリムがそっと腕を抱く。上の空だった彼は、その暖かな熱に気がついて小さく頷く。
過去は過去であり、所詮は過ぎ去った事象に過ぎない。痛みを伴うような過去のしこりが数奇なる偶然により解消されただけ。大事な思い出は記憶の中に記憶されている。今はただそれを噛み締めればいい。これから先に続く膨大な未来が、それさえも色褪せさせるだろうから。
「ここでやるべきことは終った。ダンジョンへ戻ろうか」
「うん。帰りましょ。私たちの家に――」
シュルトはその小さな花嫁の肩を抱き寄せながら転移魔法を詠唱した。その際、彼もまた少女が憂いを帯びた顔でドルフシュテインの方を見てることに気づいた。その原因に思い至るも、彼は無言で転移魔法を発動させた。ほんの少しだけ、それまでよりも強く少女の肩を抱きながら。