第四話「狂騒のドルフシュテイン」
襲い掛かってくるのは絶え間ない激痛だった。
想像を絶する程の痛みは少女の寝ぼけた頭を無理やり覚醒させていた。致命傷と言っても良いだろうその一撃。しかして、自身の体はそれほどの痛みの中でピクリとも動かない。のたうちまわろうとする反射さえ許されない。まるで動こうとする意志そのものが肉体に伝わらないかのようだった。自分の体が自分の物ではない。そして極めつけは聴覚を無視して直接頭に叩き込まれるような不快な嘲笑。
「……さい」
言語化さえできていないはずなのに、その不愉快な声が勝手に求めても居ない旋律を刻む。
それは呪いの詩。
それは死の賛歌。
それは絶望の悲鳴。
それはまるでガラスを爪で引っかいたかのような、或いはありとあらゆる生き物の断末魔を重ね合わせ合唱させたような声色で延々と紡がれた。それは、死の間際を彩るにしては余りにも不快な悪意ある闇への誘い。
恐怖を感じるよりも先にリリムは激怒した。それが一体何なのかさえ気にはしなかった。ただひたすらに爆発する感情に指向性を与え、そして自身の力を完全に解放つ。
「出て行けっ――私の中からっ!」
搾り出すような叫びが少女から発せられる。同時に、彼女を中心にして純白の光が広がった。力の本流が清涼なる風を産む。少女の激情が痛みを凌駕し、目前の死を彼岸の彼方へと追いやる。その力の名は『奇跡』。かつて、大山脈で瀕死になったレブレを回復させた時のそれさえも凌駕する、聖女の特質のその片鱗だ。
光が広がる。全てを浄化する純白の光が、あらゆる障害物を透過して夜を真白に染めて行く。周囲で見ていた者たちは全てその暖かい光の中で目を凝らす。そして確かに、己の眼でしかと見た。
召喚された少女と、剣を振り下ろした侍女の体から何か黒い靄のようなモノが抜け出たことを。その瞬間、侍女の体が糸の切れたマリオネットのように地面に倒れた。
変化はそれだけではない。その次には少女の背中から剣が抜け、ひとりでに虚空に浮かび上がったかと思えば血を滴らせながら光に一度分解されて再構築。まったく別の、純白の刀身を持つ長剣へと変化して魔法陣の中心に突き刺さった。
「はぁ、はぁ……まったくもう、嫌になっちゃうわ」
刀身一杯まで地面に突き刺さった剣の横で、仰向けに体を向けたリリムが荒い息を吐きながら呟く。そのときにはもう、光は消え完全に場に静けさが戻っていた。
数秒の静寂。
我が物顔で輝いている満月を見上げながら、リリムが刺された傷を手でなぞる。貫通したパジャマの下の肌にはあたり前のように傷跡はない。ただ、急激に消費した生命力と失血のせいで少しだけ目が霞む。瞼が落ちそうになるのを堪え、思い出したかのように体を起こし周囲に目をやる。少女は二重の意味で驚いた。
「なぬ?」
周囲を取り囲んでいる武装した兵士たち。そしてその中にあった知った顔である中年男が居たからである。かつてそれなりの格の貴族と名乗っていたその男は、部下たちを伴い慎重に近寄ってくる。
「あー、おほん。もしかして君は『小悪魔の巣』のリリムちゃんかい?」
「ええ。もう抜けたんだけどね。久しぶりね、貴族のおじさん。相変わらずお腹が大きいみたいね」
リリムの視線が肥えた腹に向かう。叩けばいい音で腹太鼓が鳴ることを彼女はよく覚えていた。かつてはお得意様であったのだ。
「き、貴様! レンドール公爵閣下に対してなんという――」
兵士の一人が剣を抜かんばかりに怒声を出すも、彼は止めた。
「構わん。それより、あの侍女を一応拘束してくれ」
「は? はっ!」
一瞬聞き返そうとした兵士の男は、ニコヤカに笑う男に頷かれ冷や汗を流しながら動き出す。それを尻目に、リリム問うた。
「私はどうしてこんなところに?」
「うむ。私がそこの侍女に召喚魔法を執り行わせたからだが……私も困惑しているよ。リリムちゃん、君、レイデンから居なくなったかと思えばいつから英雄になったんだい」
「えいゆー?」
キョトンとした顔で男を見上げるリリムは、小首を傾げる。だが、すぐに合点が行った。召喚魔法で呼び出された者のことを、昨今ではそう呼ぶ風潮があるからである。常に人々を脅かす魔物に対しての切り札。すなわち、救国の英雄。それを連想できてしまえばなんとなく意味は分かる。だが当たり前のように頭痛しか感じない。
(聖女の次は英雄? 勘弁してよ。もうっ――)
変態吸血鬼に見初められるは、つまみ食いする竜のせいで魔物に目の仇にされるは、召喚されて剣で刺されるは。挙句の果てに『英雄』などという大層な役柄を与えられるなんてのは彼女のライフプランには存在などしていない。しかも今度の相手は貴族様である。何ができるというわけでもないのだが、平民という身分のせいで色々と嫌な予感しかしなかった。
「……えと、よく分からないけど私はお家に帰りたいかなぁ」
無知な小娘を演じ、切り抜けようと画策。そんな少女の儚い願いを前にして、レンドールは困った顔を浮かべた。
「あー、ところでお腹は大丈夫かね」
「えーと、多分?」
納得させるために捲り上げた血塗れたパジャマの下には、当たり前のように傷一つ残っていない。周囲からどよめきの声が上がる。
彼らからすれば明らかに致命傷だったように見えたからである。その視線には、驚愕とそして……得体の知れないものに対しての恐怖が垣間見れた。相手が貴族ということで徒順に振舞うという選択をしたのだが、どうにも旗色が悪いご様子である。
(なんか、やばい感じ? こうなったらシュレイダーが迎えに来るまで待った方がいいかなぁ)
深夜にはダンジョンを抜け出す彼ならば気づいていても可笑しくは無い。ならば迎えに来るために血相変えて家を飛び出した頃だろうか。助けを待つか、それとも自分から家に戻るべく行動するべきなのか。彼女はすぐには判断ができなかった。
だが、ふと己や指輪に掛けられた魔法が例外なく全てさきほどの全力浄化で消失していることに気づき、愕然とした。
「やばっ、詰んだかも」
「どうかしたかね?」
小声での独白が聞き取れなかったレンドールが聞き返す。
「う、ううん。どうするべきかなぁって。夜も遅いし」
「うむ。まぁ、今日は泊まって行きなさい。色々と混乱しているだろうし、着替えも必要だろう。明日、詳しい話しをしよう」
兵士たちに後始末を任せ、レンドールがリリムを屋敷へと誘う。彼女は頷いた。
兵士たちは護衛と、後片付けのために動き出す。二人が消えた後、一人の兵士が興味本位で地面に埋まった剣の柄に手を伸ばす。引き抜こうとするもまったく抜けず、それどころか数秒もしない間に剣が発光。剣を握った男をまるで拒絶するかのように吹き飛ばした。暴風でも食らったかのような有様だ。地面を転がった男に同僚が駆け寄る。
「おい、大丈夫か」
「あ、ああ。しかし、この妙な剣といいさっきの少女といいなんなんだ?」
男の疑問に答えられる者は、当然のようにこの場所にはいなかった。
ふと、サキ・トクナガは目を見開いた。それは、間違いなく心臓に悪いほどの急激な覚醒だった。咄嗟に明りの魔法を使用し、光の玉を頭上に浮かべつつ愛用している短剣を握り締める。
「家の……外? これは……先生!?」
感じるは膨大な魔力の励起。まだ未熟な彼女の感知能力をして鳥肌が立つ程のそれはただ事ではない。ベッドから飛び出し、転がるように家を出る。その眼前に、目が眩むほどの魔力で空中に編まれた魔法陣が見える。それを制御しているのは、間違いなくシュルトだ。竜の姿で眠っていただろうレブレなど、何がどうなっているのか分からずに目を丸くしている。
「案の定か。ちっ、ヒントは方角だけか。レブレ、悪いがぶち抜くぞ」
「は? ちょ、魔法卿――」
「悪いが、説明している暇はない」
魔法陣から閃光が放たれる。いつか見た魔法『シェルバスター』に酷似している。ただし、かつてのそれを攻撃範囲では上回るに違いない。明らかに魔法陣の数が倍に増えていた。そこには確実にダンジョンに大穴を開けるという明確な意思が込められている。そして遂には数秒もしない間に本当に穴が穿たれてしまった。
「うわぁぁん。僕が一生懸命作った皆の巣がぁぁぁぁ」
レブレが大粒の涙を目じりから流した頃には、ダンジョンの一角が魔力砲撃によって貫通され一筋の大穴が見えていた。シュルトが振りかえりサキに言う。
「リリムが召喚され、指輪のマーキングが消えた。これから探しに行くから着替えて来い。最悪、召喚した者とその一派を完全に叩き潰す必要がある。そのつもりで準備するんだ」
「わ、わかりました」
底冷えするような声だった。サキは咄嗟に聞き返せなかった。急いで部屋に戻り、装備を整える。緑のジャケットにズボン。白のシャツ姿に腰元に短剣を二つ吊るす。それから、リリムの装備を引っつかんでリュックに入れると外に飛び出る。すると、シュルトが家を影の中に沈めた。
「念のために持っていくぞ」
「でも入れ違いになったら」
「それはない。あの子が街の外に出て魔物に見つかったらそこで終わりだ。そのリスクを犯してまであの子は動かない。少なくともすぐには」
嫌にはっきりと言い切ると、彼はサキを抱き上げ跳躍した。跳躍先は当然のようにレブレの背だ。ダンジョンに開けられた大穴を、悲しそうに見ていたレブレは乗り込んだ二人に気づくとそのまま穴の中へと歩いて行く。
「分かっているのは方角だけだ。それほど遠い風には感じなかった。このまま真っ直ぐ飛んでくれ。できるな?」
「勿論さ! でも、帰ってきたらこの穴を絶対に塞いでよ!」
「約束しよう」
竜の巨体が大穴を抜ける。すると、すぐさま翼を広げたレブレが、力強く羽ばたき夜空へと舞い上がっていく。久しぶりの空。落ちないように抱かれたままのサキは、春の夜風の中でジャケットの前を閉めようとして気づいた。恐るべき魔法の使い手であるシュルトの手が、微かに震えていることに。
怒りを堪えかねているのはあるのだろう。だが、サキにはそれだけではないような気がしていた。背中越しに振り返った視線の先にあるのは、険しい顔だ。いつも淡々としている相貌はそこにない。感情が珍しく表に出ていて、まるで鬼ではなく人間のようだった。
「先生、方角にある街や村を延々と探していくんですか」
「いや、条件を絞る」
「魔法卿、パワースポットだね」
「そういうことだ」
エルフ店長の話しと元々の考察。情報の共有は怠っては居ない。サキやリリムにはピンとこずともシュルトとレブレの二人ならばピンと来た。
「結論としては、この方角にあるパワースポット上にリリムが召喚された可能性があるわけだ。街や村はこの際関係が無いんだ」
「問題があるとすれば、あの子が移動させられている場合だよね。もしそうだったら時間との戦いだ。パワースポットは僕や魔法卿なら魔眼で確認できるけど、そればっかりはどうにもならない」
「だな。しかも運が悪いことに私はこの方角ではパワースポットを見つけていない」
影の中から帝国の大雑把な地図を取り出して広げる。
「大山脈、古城、レイデン、そして帝都。四つほど儀式に使えそうなレベルのものがあった。しかしレイデンまでしか調べられていない。その先に複数あるかもしれん」
「今の方向は大よそ東南かな。あ、やばっ。魔法卿がマーキングを最後に感知した方角に飛んでるのは間違いないけど精度はどうなのさ」
「……完璧とは程遠い。何せ感覚便りだ。誤差は当然ある」
「うーん、帝国のレイデンから東は大よそ三角形みたいな感じで、ダンジョンが北よりだから……ここ公爵領の北の港よりは下。でも、それでも範囲が結構広いね」
地図を脳裏に思い浮かべながら話すレブレの言葉は重い。
「もう一つ、ヒントが無いわけではないかもしれないが」
搾り出すような声で、シュルトが言う。
「だが、それは考えられる中で最悪の事態だぞ」
「最悪ねぇ。もう、魔法卿も理解していると思うけど……いや、僕の方が感知能力は上だったっけ? 二人とも後ろを見てみなよ」
「な……に!?」
「……鳥?」
後方を振り返ったシュルトとサキの視線が、ほとんど同時にその影を捕らえる。それは、今のレブレに勝るとも劣らないほどの巨大な怪鳥だった。燃え盛るような真紅の翼がはためく度に、火の粉のように羽が舞う。魔物と呼ぶよりは、神獣とでも言うべき荘厳な姿だ。
「参っちゃうよねぇ。僕より更に速いみたいだよ。すっごい勢いで距離を詰めてきてる。抜かれたらまず追いつけそうにないや。加えて、魔力も僕より大きいっぽい。魔法卿とどっちが大きいかは……ちょっと分からないな。アレで全力かどうかも分からないしなぁ」
「レイデンの方角、つまり西から来るということは大山脈からか」
「それはさすがに速すぎると思うなぁ。多分、途中の地脈で呼ばれたんじゃないかな」
「どちらにせよ止めるしかない……か?」
「た、戦うんですかアレと!」
サキからすれば、絶望的な相手にしか見えない。レブレの魔力でさえサキの何倍もあるというのに、それ以上など考えられない。目を細めて戦力差を査定しているシュルト
ではあったが、彼女からすれば何時に無く険しいその目が旗色の悪さを物語っているようにしか見えなかった。
「不味いなぁ。アレだけじゃなくて下の魔物も動き出してる」
「奴の背後からも来ているな。飛行系が空を埋め尽くさんとしている。この数を全て叩くのはさすがに厳しい。奴が居なければ時間さえあれば可能だが楽観はできん……」
それが純然たる事実なのだろう。それだけはっきりと言い切りながら、しかしシュルトは表情を変える。それは不敵な笑みに彩られていた。
「――が、この動きは好都合ではあるな。レブレ、大まかでいい。お前の感知能力なら奴らの動きからリリムの位置を推察できるだろう。サキと一緒に先に行け。場合によってはすぐにリリムを連れてダンジョンに転移するんだ。あの子の位置を見失えば奴らも引くはずだ。私は、あの派手な奴を足止めする」
「了解。死んじゃ駄目だよ」
「当たり前だ」
レブレの上に立ちながら、シュルトは生徒の頭を撫で微笑んだ。
「私の代わりにあの子を頼むぞ」
「はい……先生!」
「ん?」
「帰ってきたら上級魔法、教えてください」
「ああ。あの子と一緒に教えよう」
シュルトが膝を曲げ、跳躍。夜の空へと身を任す。纏った外套が風を受けて大仰にはためいていく。その背中からは普段は展開していない蝙蝠のような翼が生え、空の魔物たちに立ちはだかるように持ち主を滞空させた。シュルトの周囲で、サキも知らない複雑な魔法陣が刻まれていく。
「しっかり掴まっててよ!」
「うん」
最後まで見届けることは敵わない。ただ、それでも少女はしかと見た。遠くで遠雷のような爆音と共に、閃光が何度も連鎖するのを。それは、確かに会戦の狼煙だった。魔物を召喚し、英雄を召喚させる何者かへの。
「ん、これもいいな」
着ていた夜着の代わりに用意されたその服は、何故か白いドレスだった。青い髪の歳若いメイドが何度も頷きながらその仕事に満足そうな笑みを浮かべる。姿見の前で成すがままとなっていたリリムは、もう十着目にもなるためにいい加減呆れていた。
「いや、やっぱりこの黒も捨てがたい! こちらにし――」
「いえ、気に入ったのでこれでいいです」
精一杯猫を被りながら、硬い笑顔で断る。いい加減今日は寝てしまいたいというのに中々寝させてもらえないせいで口調が固くなっていた。
「こっちの方が似合うような気がするのだが、本人が気に入ったのならしょうがないか」
残念そうな顔でそのメイドが黒のドレスを仕舞う。
「でも、これで寝ていいの?」
「可愛いいから私が許す」
「えっ?」
「おほん。あー、別に公爵様は怒られない。どうせ私のお古だ」
「はぁ……」
言葉を濁しながらリリムは改めて若いメイドを見る。貴族のメイドである以上は、見栄えの良い女性として雇われているのだろう。同姓のリリムから見てもとても美しく見えた。しかも出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。商売女を沢山見てきた彼女ではあったが、明らかに一番人気クラスの上玉だ。これが公爵レベルの貴族が従えるメイドなのだと思えば感嘆の吐息が漏れそうになる。
(でも……武装メイドって何?)
聞いたことも無いメイドだった。文字通り腰に二本のサーベルを下げているのもそのせいだろうし、他にもどうやら暗器の類を仕込んで居るようだ。リリムとしては手の裾の中に一瞬見えた銀の煌きが無性に気になっていた。特に、今のように背後に立たれるとゾクリとする。
「よし、せっかくだから髪の手入れもしておこう」
「別にそんな……」
「心配せずとも慣れている。公爵様の娘もよく私がやって差し上げているのだ」
そういう問題でもなかったが、鏡台の椅子に強引に座らされたリリムは言っても無駄かと諦めた。その代わりに鏡を注視して彼女を観察する。
切れ長の目も、その雰囲気も、どこか他のメイドとは程遠い。しかも態々公爵に指名されていた。護衛のつもりか、それとも別の意味があるのか。今はまだリリムにも判別はできない。鏡の向こうの自分が、碧眼で鏡の向こうの様子を伺っている。気づいているのかいないのかはともかくとして、そのメイドは楽しそうにリリムの髪にブラシを通す。
「ん、完璧だ」
「……どうも」
「うむ。それでは、私の寝室に案内しよう」
「……え?」
「安心して欲しい。同意を得るまでは取って食いやしないぞ。はぁ、はぁ……」
冗談とも本気とも取れない言葉が投げかけられる。どういう表情を浮かべればいいのか分からなかったが、とりあえずなんともいえない表情を浮かべたままで見上げる。メイドは何故か息が荒く、顔も血色が良い程に赤らんでいる。リリムは見なかったことにして、疑問を口にする。
「武装メイドってなんなの」
「文字通り、武装したメイドのことだ」
「戦えるってことね」
「あの公爵様にじきじきに手ほどきを受けている。これでもそこらの男には負けん」
上品に笑うその顔には自信で満ち溢れていた。
「腹でかお……レンドール公爵様は剣が御得意なのね」
「あの肥えた腹のせいで今はそうは見えんが、当時はかなりやんちゃだったそうだ。今でも剣技では周辺諸侯に恐れられている」
「ふーん。見かけによらないのね」
不敬とも取られかねない発言だったが、メイドは薄く笑ってリリムに返した。
「それは君にも言えることだと思うがな」
「えっ」
「歩き方が素人ではない。何かやっているんだろう。恐らくは、剣ではない何かを」
メイドの顔に更に熱が帯びて行く。その手はリリムの頬に触れて包み込む。彼女が顔を引きつらせるのと同時に、ズイッと踏み込むメイドの体。まるで、もっと近くで鑑賞したいと言わんばかりだった。そのまま少女の小顔が覗き込み、納得したかのように何度もメイドが頷く。
「うんうん、やはり興味深い。初めて君が召喚された時はルビーのように赤かった瞳が、今はどういうわけか碧眼になっているね。致命傷から回復したあの白い光のせいかな」
「……何のこと」
「ふふふっ。恍けなくてもいい。知りたいんだよ私は。純粋に君の事がね」
「意味が分からないわ」
「君がただの少女ではないのは明らかだ。公爵様もそう思っている。アレを見た後では誰もがそう思うだろう。あの力は何だ、あの剣は? どうしてただの元娼婦が召喚された?」
矢継ぎ早に質問が投げかけられる。想定していたとはいえ、リリムはうんざりした表情を浮かべる。明日話すのではなかったのかと、公爵を心の中で罵りながら。
「知らないわよ。そもそもこっちだって知りたいっての。どうして私だったのかをね」
「力があるからではないのか? 英雄として名を馳せるだけの力が」
「まさか」
召喚した後、召喚者を操ってリリムをすぐに殺そうとしたのだ。召喚の秘術を与えた何者かにとっても、この召喚は予期せぬアクシデントだったに違いない。もし、狙ってリリムを呼べるのなら一年も時間を開ける必要などない。
「話しにならないわ。百歩譲って力があったとしても、私は英雄じゃあないもん。そういうのはもっと正義感のある素敵な殿方の仕事でしょ」
「性別は関係ないよ。それは魔法淑女隊が既に大陸中に知らしめていることだ」
「リングルベル王国……ね」
「そう、今では魔法王国とまで呼ばれ始めた彼の強国だ。世界中から羨望とやっかみを受け、今日の召喚隆盛時代の先駆けとなった国だ。君は今、あの音に聞こえし永久名誉顧問と同じ立ち居地に居る。この意味が分かるかい?」
吐息がかかるほどの距離で、メイドが語る。
「君はこの国の希望になったんだよ。幸か不幸か言い逃れをするには不可能な力さえ見せ付けてしまった。もう、君は普通の生活には戻れない。公爵様は絶対に君を逃さないだろう」
ねっとりと熱を帯びているせいか、言葉が嫌に大仰に聞こえる。舞台俳優にでもなったかのような仕草と熱演。しかし、その目はどこか覚めている。その温度差の中にある滑稽さが、妙にアンバランスで笑いを誘う。
「あははは。何を言うかと思えば、随分とくだらないことを言うのね貴女」
「心外だな。私は真面目に君の未来を示しているだけさ」
「それがくだらないっていうのよ。仮に私に力があったとして、この国を変えるほどの力があったとしたら真っ先に貴方たちを滅ぼすわ。何故なら、私は今すっごく機嫌が悪いからよ」
「祖国の窮地を見捨てると? 魔物のことを知らぬわけではあるまい」
「祖国が私の窮地に何もしてはくれなかったのに、私が祖国に何をしろと? ううん、それだけじゃないわ。私の最も新しい空元の友達に酷いことをした連中の上位なの。見捨てる気だった私が言うのもなんだけど、その罪は償われてさえいない。きっと、悪徳が平然と罷り通るこの国は魔物なんて関係なく滅びるのよ」
「……」
「正直、国なんてどうでもいいわ。もっと住みやすい国に移住したっていいんだもの。それよりも、これは忠告だけど私がここに長居をすればするほど後悔するのは貴女たちよ。私を刺した女がその証拠だわ。きっと繰り糸の先の者が次の手を打つ。そうでなくても、あの人の手元から私を誘拐した貴方たちは、私の彼を怒らせたはず。どっちにしても詰んでるわ、お互いにね」
シュルト・レイセン・ハウダー。あの吸血鬼がたかだか指輪のマーキングを失ったからといって諦めるだろうか? そんなわけが無い。リリムはそう確信している。間違いなく草の根を分けてでも彼女を探し出し、再び独占するためにただの人間に戻った彼女を吸血鬼の花嫁に戻そうとやってくるに違いない。
「よく分からないのだが……」
「おっと、これはただのメイドが知らなくていいことだったっけ」
ニンマリと微笑み、意趣返しとばかりに口元を歪めて流し見る。その顔は、中々どうして女だった。青髪のメイドは、暗示された不吉な言葉を前に肩を震わせる。
「いいな、秘密の香りがぷんぷんだ。ミステリアスで実にいい。くふふ、しかもそのやらしい顔。最高じゃないか。君は見た目とは裏腹に相当な色香を持っているな。素晴らしい、実に素晴らしい。どうだ、私の愛人にならないか?」
「結構。そういうのは間に合ってるもの」
「いやいや、試してみれば案外病みつきになるかもしれない。これでも私は屋敷のメイドたちからは人気だぞ」
「私はもうそういうの抜けたの。オプション料金詰まれたってやるものですか」
頬っぺたを挟んでいる両手をやんわりと跳ね除け、目の前で大欠伸をかます。いい加減眠いのだ。相手がただの変態メイドなら慎みなど見せてやる必要もない。
「眠いわ。さっさと貴女の部屋以外に案内してよ」
「分かった。私の部屋はこっちだ」
「ぜんっぜん、分かってないわね」
「そうでもない。これは保険だ」
メイドが衣装部屋の扉を開け、外に出る。外には護衛の兵士が一人待ち構えており、軽く会釈する。
「変わりないか?」
「ええ。特に異常はありません」
「そうか。では異常はきっと見ない顔のお前だな」
言い終わる前から武装メイドがサーベルに手をかける。男の反応は早い。腰に佩いた剣ではなく、腰元の短剣に手を伸ばしながら、メイドのサーベルが鞘から抜き放たれる前に踏み込む。
「馬鹿め」
それは、一瞬の早業だった。メイドの右手がサーベルを握らずに霞んだ。瞬間、何かを引き裂くような音と共に襲い掛かった男の動きが止まる。その首元には、手首の裾を切り裂いて伸びでた剃刀状の刃が存在した。男からは指に挟まれて見えるが、斜め後ろから見たリリムにはばね仕掛けの暗器がしっかりと手首に装着し固定されているように見える。魔物相手の武器としては心もとないが、相手が人間なら十分な殺傷力を秘めているだろう。頚動脈を掻き切る程度は造作もあるまい。
「随分と手癖が悪いのね」
「女を狙う暴漢よりはマシだ」
「で、一応聞くけど狙いは私? それとも貴女?」
「君に決まっている。どうせバノス宰相の手の者だ。そうだろう?」
男は応えない。中途半端に抜いた短剣を抜くことができずに静止したままだ。その顔には、薄っすらと脂汗が浮かんできていた。
「どこから漏れたか、などと聞いたところで吐くとも思えん。元々忍び込んでいた類かな。どうしたものか。……そうだ、良いことを思いついた」
意味ありげに笑うと、その左手がリリムの肩を抱いた。疑問に思うよりも先に、リリムの体が前に押し出される。メイドは、右手を下げた。それに男が反応する。当然、リリムは悪態を着きながらその場でしゃがみ込む。その頭上を、抜き放たれた男の短剣が通過した。
「あんた――」
既にメイドの気配はない。後退して安全圏に消えているようだ。悪態を着きながら、リリムはしゃがみ込んだ最に曲げた膝を伸ばし床板を蹴る。軽やかなその動きに迷いはない。距離を取りながら護衛兵の格好をした暗殺者の姿を目で追った。そこに男が斬りつけた反動で翻った肘を引く。それは、一撃でしとめられなかったが故の二手目だった。逆手に抜かれた刃が、手首の捻れと共に水平に動かされ、肘に連動。瞬時に振りぬかれて投擲される。
「――最低!」
瞬間、廊下が白く染まる。開放した聖浄気の光だ。気によって内側から爆発的に強化された少女の碧眼が、今正に飛来してくる短刀を捕らえる。リリムの知覚が加速した。こうなれば、勝手に体が身を守るべく反応する。左手を反射的に上げて短刀の刃を指で掴み取る。不思議なことに、短刀の刃は潰されていた。だが、そうと分かっても関係はもはやない。
一連の動きに暗殺者とメイドの目が驚きに見開かれる。だが、リリムは知ったことではない。手に入れた短刀を床に投げ捨てる。カランッと甲高い音と同時に響くのは少女が床を蹴る。
「なっ――」
男が瞬きした瞬間には、既に彼女は眼前にあった。見開いたままの目が、金髪の少女の不機嫌そうなしかめっ面を認識した次の一瞬。少女が伸ばした手が、男の胸倉を掴み上げる。抵抗する余裕などない。男の体が問答無用で宙を舞う。
「くたばれ意地悪メイド!」
それは、力任せの投擲だった。リリムが振り返り様瞬時に男を投げつける。少女のか細い腕からは想像もできないほどの膂力だ。メイドが反射的に道を開けると、その横を暗殺者が通り抜けて行く。生じた風がメイドのブルーロングの髪を無遠慮にそよがせる。振り返ったメイドが見たのは、男がそのまま縦に回転しながら硬い床を転がって行く様である。回転する最中にしこたま頭を打ったのだろう。止まった後には気を失ったのかピクリとも動かない。
「ねぇ、余所見していいの? 私からすれば一番怪しいのは貴女なんだけどなぁ。っていうか、こういうやり方はカチンと来るんだけどなぁ」
背中から、少女の声がする。ゾワリと背筋が泡立ち、反射的に無防備にも振り返ったメイドは急激な下向きの力の前に屈した。メイド服の前が破れそうなほどの力。思わず前に倒れこもうとしてしまうその体が、胸元を握り締める一人の少女によって支えられていた。その意味を真に理解する暇は、ない。怯えを含む彼女の驚愕を前にして、碧眼の持ち主が一等無邪気に笑っていた。
「お姉さんも転がってみる? 何なら向こうの壁まで投げてあげる」
「……正直、辞退したいな」
「そう。じゃあ楽しみは次の機会にとっておいてあげるね。明日は天気も良さそうだし、窓の向こうのお庭はきっと綺麗だと思うから」
二度とふざけたことをするな、と少女の目が言っていた。無言でメイドが頷くと、少女が手を離す。そうして、もう一つついでとばかりに希望を述べた。
「でさぁ、私の一人部屋ってどこだったっけ」
「案内しよう。こちらだ――」
音を聞きつけてやってきた衛兵に、転がったまま動かない暗殺者を任せてメイドは職務に奔走した。さすがに自身の部屋へ招くようなことはしなかった。
「……で、どうだったかね」
まだ起きていたレンドールが報告に来た武装メイド――レイリーに問うた。
「使いものになるかは別として、素直に恐ろしいと思ったよ」
「ほう、君にそこまで言わせるかね」
「悪意に対して敏感で、力を誇示して威圧することを躊躇している風ではない。一応は公爵の手前猫を被っているようだが、それだけだ。敬意も何も持っていない。それ以前に祖国の存亡にも興味はなさそうだ。どうやったらあんなに歪むのかが分からない」
「……まぁ、歪むだろうな」
レンドール公爵は娼婦としての彼女を知っている。だからこそ、若い美空で彼女が味わった辛苦が歪めたのだろうと簡単に推察できた。
「協力を仰げそうかな」
「無理そうだが、良いことを聞けた。彼女を取り戻しに来る輩が居るらしい。彼女は無理でもそちらからなら交渉できるかしれん」
「ならばそれまでリリムちゃんが留まってくれるかどうかだな」
「嫌われてしまったようだし、交渉するなら明日公爵閣下の口からにした方がいいぞ」
「で、肝心の力はどうだった? 一人再起不能にしたのだろう」
「純粋な腕力だけなら破格だ。武装した男一人を数メートルほど片手で投げた。力自慢の大男でも無理だろうな。全力で殴られると私なら軽く死ねる自信があるね。技術は分からないが、完全な素人というわけでもなさそうだ」
「そうか。投げられた彼には、危険手当ては弾まないといけないな」
「そうしてやってくれ」
「それで、人に対してはその腕力が役に立つのは分かった。しかし魔物に対してはどうかね」
「そればかりは未知数だとしか言えないな。人間と魔物では違いすぎる」
サーベルの柄に手を置き、レイリーは静かに瞳を閉じる。彼女だとて魔物狩りに参加したこともある。その経験からいくと、やってやれないことは無いように思える。だがそれは彼らが求めていた力とは程遠い。
「やはり、リングルベルの魔法淑女隊と比べると見劣りする。一対一ならともかく、多対一なら必要なのは殲滅力だ」
「では、同じく召喚された者には?」
「分からん。それこそ未知数だ。『勇者』は単体で大進攻時の魔物の群れに突撃して生き残り、『聖女』は教会騎士たちに祝福を与え強化し、既存の戦闘能力を大幅に引き上げるらしい。しかも死にかけた者たちが生きてさえ居れば五体満足で回復させる奇跡のような魔法さえも行使するという話しだ。どちらも既に我々の常識を超えているよ」
「私には噂の聖女よりの力を持っているように見えたよ。君も見た通り、アレは間違いなく致命傷だった。それを癒したという事実からみれば、戦闘能力よりはともかくとして、裏方として兵の命を支える重要な役割を担えると思うのだ」
「そういえば、あの侍女は結局なんと?」
「召喚の儀式を行った直前から記憶が無いと言っている」
「それは……どちらが?」
「両方だよ。召喚の儀式の手順全てと、行使して刺すまでの記憶の両方」
「噂どおり、というわけか」
「その通り。気持ち悪い話しだよ」
椅子を軋ませながら、レンドールが背もたれにもたれかかる。思案顔で天井を見つめるその様子を見て、レイリーはその間無言で公爵の言葉を待った。
「噂は本当だった。今のところ出揃った話しに嘘はない。少なくとも英雄となるほどの者が呼び出されるかは別として、確かに力ある者が召喚されている。例外で魔獣が呼ばれたなどという話しもあるわけだが、それもある意味では強者だ。最悪で四対一。旗色が急激に悪くなったな」
「バノスも今夜召喚という話しでしたね」
「もはや隠すつもりもないということだ。大山脈の魔物が動かない間に、ケリをつけたいのだろう。場違いな助っ人の力を借りてまでしがみ付きたいものかね。私にはあんな窮屈な椅子でふんぞり返りたいと願い続ける精神が理解できん」
東西の確執に、異界の英雄の力を借りることが果たして正しいことなのかはレンドールにも分からない。だが、何もしないことだけはできなかった。召喚に対する妨害工作にしてもそう。最終的な決行日を掴んだ頃には手遅れだった。ならばと、召喚の秘儀を理解したと駆け込んできた侍女にやらせた。結果はこの通り異界ではなく、この世界の自国に住む少女ではあったものの、力ある者が呼び出せた。しかしそれを希望だと据えることに些かレンドールも後味の悪さを感じて止まない。
本来であれば、自分たちで決着をつけなければならない事柄だ。勝つためにありとあらゆる手段を取る姿勢は理解できても、どこか領分を越えてしまったという感触が拭いきれない。また、召喚した者を送り返すことができないことも問題だった。この時点で召喚した相手にまったく申し開きができない。レンドールにとって、これは賭けではあったものの呼び出したのがこの国の人間であることに心のどこかで安堵してもいた。これならばまだ、詫びようもあるし理解を得ることは難しくは無いと思えたからである。
「前皇帝は、私の兄は人道を踏み外した先に未来は無いとよく言っていた。ならば、これから先に我らが帝国を襲うのはこれまでの因果がもたらした結果になるだろう。ふふふっ、奴も私も結局は泥舟に乗っているのかもしれんな」
「泥舟結構。沈むと分かっているなら、補強するなり船を乗り換えるなりすればいい。まだ出航さえしていない以上は結果を空想しても無意味だ」
「……そういう頑ななところはよく似ている」
「さて、誰と比べられたのかは詮索しませんが……私としてはできれば明るい未来を手に入れたい。それが我々が生まれながらにして血に宿した責務というもの」
愛国心というものがある。リリムには無くともレイリーにはあり、レンドールを立たせた根源である。無論、それ以外にも様々な理由はあるのだ。しかし、個の感情を越えた先にあるそれが個人としての彼を律し、公人としての立ち振る舞いを強要して来る。それから逃げることだけは彼にはできない。既にサイは投げられているのだ。前皇帝がバノス宰相に暗殺されたあの日に。
「……むっ!?」
思わず過去を振り返ろうとした二人の耳に、いきなり滅多に聞くことがない半鐘の音が飛び込んできた。
「なんだ? 今日最大の厄介ごとは終ったはずだが……どこかで火事でも起こったか」
「公爵様、一大事でございます!」
呟いて数秒。様子を確認するべく外へと飛び出そうとしたレイリーが部屋を出るよりも先に、老執事のアデルが執務室に飛び込んでくる。ノックもせずに入ってきた彼は、顔面を蒼白にして矢継ぎ早に言った。
「魔物が、魔物の大群がここドルフシュテインを目指して進行中とのこと!」
「「馬鹿な!?」」
レイリーともどもレンドールが怒鳴る。魔物の大群が押し寄せるにしても、それは帝都が先のはずなのだ。魔物が現れて以来、帝国の歴史の中で公爵領最大の都市ドルフシュテインが襲われたことはない。魔物は西の大山脈から勢力を広げて行く。それが今までの行動であった。防衛線を抜けて各地に広がってはいることはあるが、それだけだったのだ。
「現在、南北の門は閉鎖。勝手ながら全ての兵に戦闘準備が済み次第防衛配置に着けと命令を出させていただきました。また、自衛団や冒険者ギルドにも触れを出しました」
「そうか。今日は厄日だな」
内心での動揺を押し止め、レンドールは取り乱しかけた自分を律する。アデルはそんな主の様子を黙って眺めながら指示を待っていた。レンドールは大きく息を吸い、決断した。
「街中に篝火を焚かせろ。戦える者には武器を持たせ、戦えない者でも動ける者たちには湯や油を炊かせろ。絶対に外壁の外で押し止めるのだ! 通達と共に詳細な魔物の情報を集めよ。民の避難誘導も忘れるな!」
「はっ――」
「レイリー、あの子を呼んできてくれ」
「どちらのです?」
「無論、たった一人の切り札の方だ」
「かしこまりました」
老執事とメイドが執務室を去っていく。レンドールはすぐに妻と子を呼び、防衛戦のために自ら装備を整えながら説明。自分も参戦すると言って聞かない娘を妻に任せ、戻ってきたレイリーと金髪少女を迎えた。彼女は事情をまだ知らないらしく、嫌に猫を被った様子で尋ねてくる。
「至急呼んでいるとのことでしたが、何の用件でしょうか公爵様」
「単刀直入に言おう。魔物が押し寄せてきているので手を貸してもらいたいのだ」
「嫌よ」
レンドールからの協力要請。それに放心しそうになったリリムだったがその返答は早かった。相手が魔物であるというなら尚更矢面に立つわけには行かないのだ。今のリリムでは大量の魔物を相手にはできない。シュルトやレブレが居るならまだしも、今は一人。戦うなど論外だった。
「正気か、今は非常時なんだぞ」
レイリーの声が嫌に冷たい。その手がサーベルの柄に伸ばされているのを見て、リリムは役々顔を顰める。もはや、公爵が居ようが居まいが関係無かった。不機嫌な様子を隠そうともせずに口を開く。
「だからって、自分が寝てる間に誘拐したような連中のために戦って死ねっていうの?」
「いやいやいや、リリムちゃんを前線に立たせるつもりはないよ」
落ち着かせるように、レンドールが勤めて静かに語りかける。
「君にやってもらいたいのは負傷者の救護なんだ」
「どっちにしろ変わらない気がするけどね。そもそもあいつらがどうして攻めてきてるか分かってないでしょ」
「魔物の行動原理など分かる訳が無い」
メイドが吐き捨てるように言う。それが普通の認識であることは間違いないが、リリムにとっては違っていた。本当は言わずとも良い。その方が時間が稼げることだけは確か。しかし、リリムは敢えて告白した。
「奴らの狙いは私よ」
その一言を紡ぎだすことに迷いが無かったわけではない。自己保身のためには秘匿するべきだとは分かっていながら、それでも彼女は決断した。
「……何?」
「あいつらの狙いは私なのよ。私が存在してると邪魔らしいから、こうして無防備にも仲間から切り離された私を狙って攻めてきてるの」
「リリムちゃん、君は自分が何を言っているのか分かっているのかね」
「勿論。私は分かってて言ってやってるの。公爵様は――おじさんはお得意様だったし、アフターサービスって奴ね。勿論ロハだから請求書なんて出さないわよ」
ニッコリと笑う彼女はそう言って、レンドールを見つめる。その眼が、表情とは裏腹にとても冷たいのは見ての通りだろう。部屋の温度が下がって行くように感じるのはきっと錯覚ではないだろう。
「この事態を招いたのは私を召喚した貴方たち。ちゃんと責任をとってくれると嬉しいんだけどなぁ」
「……なぜ、奴らが君を狙うのだね。言っては何だが、君を狙う理由がとんと見えないよ。だって君は――」
――ただの少女だろう。
紡がれるべき言葉を、レンドールは飲み込む。飲み込むしかなかった。既に力を見ていた。ただの少女にはないだろう力を。尻すぼみになった彼を見て、リリムが続ける。
「魔物を召喚して操ってる奴が居るらしいの。私は、そいつの支配から魔物や人を解放する力があって、一年前に見られちゃったの。あの白い光がそうなんだけど、それ以来魔物が私を見つけると親の仇とばかりに襲い掛かってくるのね。だから、きっとこの襲撃もそうなんだと思う。あの侍女もきっと操られてたから私を刺した。そして、操られてた侍女が私を見つけたから魔物が送り込まれてきた。ね、理由なんて単純明快でしょ」
「それをいきなり信じろと言われてもな」
「証明しろというならしてあげてもいいわ。後始末をきちんとつけられるならね」
「……どうするというのだね」
「簡単よ。どんな魔物でもいいわ。少し私が顔を出して、奴らが反応したら私が言ったことが証明される」
「しかしだね、それをしてもし事実だったとしたら君は――」
「ええ。奴らの攻撃が私に集中するでしょうから、多分私は死んじゃうわね」
濁した言葉と類似する結末を躊躇無く本人の口から語られたせいで、一瞬公爵の顔が葛藤で歪む。どういうつもりで語っているのかは彼をしても分からない。だが、この告白は危険だ。危険すぎた。今はまだレイリーと公爵の二人だけしかいないからいい。しかし、外部に漏れれば真偽はともかく生贄に差し出されかねない。そしてこれはそれだけの話しでは終らない。事実であれば彼女は猛毒にも良薬にもなりえる劇薬なのだ。
(アフターサービスにしては、大盤振る舞いに過ぎるよリリムちゃん)
この告白がレンドールの良心を苛む。彼は貴族であり、この都市を統べる者であり、出来うる限り被害を少なくさせる責任があった。そんな彼の元に、この状況の原因と言っている少女が居るのだ。
――上手く使えば、この状況をすぐにでも終らせられるかもしれない。
この考えが当たり前のように脳裏を過ぎった冷酷な自分を、レンドールは自嘲する。自分たちのために呼んでおいて、その結果起きてしまったことに自分たちで責任も取らずに全て押しつける。それは果たして許されることなのか?
(いや、違うだろうレンドールよ。何が許されるだ。許されるわけが無いだろう。私の罪だ。これは、安易によく分からない何かに縋った弱さが招いた災厄なのだ)
長考する時間はなかった。今この瞬間にも魔物と戦っている者たちが居る。それを思えばすぐにでも行動するべきだった。魔物は人間に対して容赦などしない。捕虜も取らなければ、やるのはただの皆殺し。押し返せるだけの戦力差だったとしても、リリムが居る限り攻めて来るというのであれば時間を掛ければ掛けるほどに状況は悪くなっていく。相手は周知の通りに限界無き戦力の持ち主なのだ。だが、レンドールがそれをするには葛藤という工程が必要だった。
自分を納得させるための理由はある。だがそれでも状況を打開するための手段を彼は模索したかった。執務室が静寂に染まる。都合の良い答えなど浮かばない。何もかもがいきなりに過ぎた。そこへ、伝令の兵士が飛び込んでくる。
「公爵様、敵魔物の総数は現段階でも一万は下らないとのこと! その数は今も増え続けているようです!」
「だってさ。おじさん、もういいわよ」
大仰にため息を吐くと、少女が口を挟む。それが、どういう意図でもって紡がれた答えだったのかをレンドールは咄嗟には問えなかった。少女の浮かべる表情が、やけに優しかった。隣に立つレイリーが思わず言葉を失ってしまうほどに。
「ねぇ、魔物はどこに多いか分かる?」
「な、なんだ貴様は」
「答えて上げなさい」
「は? はッ――北門の方が若干多いと聞いています!」
「北門ね。ここ、ドルフシュテインなのよね。東には外に出られる門はないの? レイデンに続く街道があるはずよね」
「……東門などはない。あるのは北門と南門だけだ」
「そうなんだ」
それだけ言うと、執務室の左手にかけられていた地図へと向かう。グリーズ帝国の国内の地図であり、一応は街道や主要な都市の名が記されている。国内で最高精度の地図である。
「あった、ここがドルフシュテイン。で、こっちがレイデンなら……ここね。私の家がある山は」
指先でなぞるようしながらルートを思案。直線でなら北西。レイデンに向かうよりはまだ距離は短い。とはいえ、人の足で魔物の追撃から逃げながら逃避するのは不可能である。だから、リリムは公爵に振り返る。
「ねぇ、おじさん。お願いがあるんだけど聞いてくれる?」
「魔物の動きが変わった? げげっ、ちょっと不味い」
持ちえる感知能力で魔物の動きを探りながら飛翔していたレブレが思わず泣き言を口にする。
「急いでレブレ!」
乗り込んでしがみ付いていたサキが、思わず叱咤するように鱗を叩く。すると、レブレがいきなり大きく翼を動かして上昇を開始する。
「前から来る。分散して足止めするつもりみたい。さすがに僕たちを放置する程無能じゃないか。でも、さっきの大物がいないんなら稼げる時間なんて高が知れてる。突っ切るよ!」
「ええ――」
大きく息を吸い込む竜の首が勢いよく前に動く。同時に開かれた顎からは、吐き出されたペネレイトブレスが空を焼く。その向こう、集束された灼熱の輝きに照らされるようにして飛行可能な魔物の姿が一瞬だけ露になった。
鳥のような姿をしたものから、人間の女の上半身と鳥をあわせたような体を持つ魔物ハーピー、かつて大山脈で見たワイバーンまで居る。攻撃に反応し、魔力障壁を纏う彼らの中心を、レブレのブレスが容赦なく貫く。火力の差は歴然だった。完全に全能を振るえるレブレからすれば、鬱陶しいだけだ。しかし、それでも彼らは立ちふさがる構えを見せる。例えそれが一分、一秒であろうとも、稼げれば稼げるだけ狙いを果たせる可能性は増す。それはきっと無意味ではないのだ。そのために彼らは陣形を整える。
魔物たちがレブレの進攻方向に合わせて取り囲むように広がって行く。密度を減らし、少しでも長く時間稼ぎに入ろうという意図がそこに垣間見れる。
「甘い甘い」
レブレが接触するまでに次々とブレスを打ち込む。竜族の代名詞でもあるドラゴンブレスが次々に包囲網に風穴を開けて行く。だが、同時にそれに合わせて返礼が来た。ワイバーンの吐き出した炎弾、羽を弾丸のように飛ばしてくるハーピーたちの弾幕だ。
「下を抜けるよ。何でもいいから広範囲を攻撃できる魔法をお願い!」
「わかった」
サキが詠唱を開始すると同時に、上昇を続けていたレブレが急激に首を下げる。魔法障壁はまだ纏わないままだ。飛行に使用している魔力を割くつもりはないのだろう。そのまま、落ちる速度さえも利用するように滑空。迫り来る弾幕を回避しながら、低空を飛行するコースを取った。望むのは最速での防空網の突破。
地面が迫る。スレスレで体を引き起こすレブレの体が暴風のように土煙を巻き上げる。同時に、それへと頭上から強襲しようとする魔物たち。そこへ、サキが用意した風の魔法を解き放つ。
「切り裂き抉れ。旋風の刃!」
範囲攻撃魔法『ブレイドサイクロン』。それは魔力によって半実体化した風の刃が竜巻のように攻撃範囲を飲み込み、斬り刻む魔法だ。その中心は一時的に真空となり、それを埋めようとする大気の流れが周囲の敵を引き寄せる副次効果がある。
包囲網を形成しようとしていた魔物たちが、竜巻に無理やりにも引き込まれ切り刻まれる。やはりそれは魔力障壁では防げない。ズタズタに全身を切り刻まれ、血を撒き散らしながら魔物たちが墜落して行く。運が悪いモノは翼を引きちぎられるだけで済むも、浮力を失ってもがくように地面に落下。そのまま夜の闇に消えて行く。
「修行の成果ありだね! 次来るから準備して。それと見えてきたよ。あの街だ。あの街にきっとあの子が居る! 魔物たちが集結してるのがその証拠さっ!」
篝火が焚かれたその街は、遠目にも巨大であった。その都市の名はドルフシュテイン。帝都ゼルドルバッハに次ぐ大きさを持つレンドール公爵領最大の都市だ。巨大な外壁に囲まれたその中を蠢く無数の影は、確かに魔物なのだろう。閉ざされた頑強な門を破れないと考えたのか、己の体を寄せ合って足場を作り侵入を果たそうとしているのがサキにも見える。
それ以外でも、空を飛ぶ魔物たちが魔法や矢を受けながらも一斉に中へと飛び込んで行く。中には飛行できる魔物が中に魔物を運んでいる姿さえある。従来の魔物の動きを越えたそれには人間たちも驚いているのかどこか精彩に欠けている様子が伺える。魔物たちはまだリリムを見つけていないのか、空の動きは緩慢だ。知覚するレブレは、それと同時に不審な点を見つけた。
「変だ。パワースポットの直上にある街なのに、全然魔力の放出を感じない」
「召喚で魔力を消費したのでは?」
「にしては、地脈の流れは正常に見える。これは……封印? 一体誰だろう」
咄嗟にレブレの脳裏に浮かんだのは、シュルトが話したというエルフ店長。しかし、彼女やその仲間であるはずはない。帝都とドルフシュテインの距離を考えればそれがありえないと分かるからだ。
「先生が言ってたエルフの人でしょうか」
サキも同じ結論に達したらしい。
「違うと思う。大掛かりな魔法の形跡そのものが感じられないんだ。これは多分リリムかな? でも、どうしてそんなことができたんだ。そんな力の使い方をあの子は覚えてないはずなのに」
聖女の奇跡は理に従った魔法とは違う。それは文字通りの奇跡でありそれ以上でもそれ以下でもない。言い換えればそれは過程を無視して結果をいきなり持ってくる史上最悪の反則技。何でもできるわけではないが、それが可能だからこそ神の代行とも見做されるべき力の体現者なのである。それ故、発現する奇跡は『明確に望まれなければ発現しない』。何かがリリムに作用し、この結果を求めさせなければこんな結果は起きないはずなのだ。
「なんにしても微妙だね」
「微妙、ですか」
「魔法卿や僕なら地脈から溢れでた魔力を使えば、随分と楽に魔物を駆逐することができる。パワースポットってね、防衛拠点にするなら最高の場所なんだよ」
「なら封印を解けば」
「あの子が封印したんだから、きっとそうしなければ危険だったとも考えられる。それはやらないほうがいいね。まぁ、魔法卿とあの子が合流すれば魔力の有無なんてたいした問題じゃない。問題はあの子をどうやって見つけるかさ。あーあ。絶対に僕がこの姿で近づいたら人間に攻撃されちゃうよ」
「それはその、しょうがないような気が……」
竜も魔物である。この世界の住人からすれば怨敵とも言うべき相手だ。意思疎通ができる温厚な彼であっても、そうだと知らなければ敵でしかない。
「魔法卿が一人一人探すよりはマシなんだろうけどね。僕が空飛んでたらきっと目立つから、すぐに姿を見せてくれると思うんだ。匂いで探せればいいんだけど、きっともう血の匂いが強すぎて探せないだろうし、それを期待するしかない。おっと、しつこいなぁほんとに――」
火球が目の前の地面に着弾。土砂が舞い上がり、土煙が激しく舞った。その中を鬱陶しげに通過する二人を、次々と放たれてくる背後からの攻撃が襲う。レブレが体を揺すって回避する。包囲網を突破されたことで魔物たちが相変わらずに追って来ていた。その下では街に向かって陸を疾走する魔物の集団がちらほらと見える。中には夜営をしている冒険者らしき人たちもいたが、無視して通り過ぎて行く魔物たちを前にして戸惑っているようにサキには見えた。
彼らは頭上を通過したレブレと、それを追う魔物たちを見て仕切りに何かを叫んでいる。あるいは、竜に騎乗するサキを見て驚いた者も居たのだろう。竜騎士がどうのという声まで聞こえた。
「げっ、ここにも僕より早いのが居る」
「ワイバーン!」
振り返れば、遠ざかっていく他の魔物と違って確かに距離を詰めてくる巨体が見える。通常の翼竜たちよりも飛びぬけて大きい。十メートルはあるだろうか。変異種か、それとも亜種か。サキが迎撃のために風の魔法を放つも、魔力障壁で耐え切った。このままでは街にたどり着く前に追いつかれることは明白だ。
「アレは僕ほどじゃないけど飛び抜けてるね。んー、僕が片そう。サキはちょっと温存しといて」
「任せます」
回避機動を取るべく一端大きく羽ばたいたレブレの体が重力に逆らって急激に上昇。その下を、ワイバーンの炎弾が通過する。進攻方向の軽微な変化。余分な行動により、その距離が今までよりも更に詰まっていく。ピタリと真後ろを着くような迷いのない飛翔。轟く方向が二人の耳朶を叩いた。
空中での高速戦闘において普通は真後ろにほとんど攻撃ができない。これは大抵の飛行生物が持つ欠陥だ。空戦においては後ろを取る方が一方的に前を飛ぶものを攻撃できる権利を有するのである。例外を除けば、竜もその不文律からは外れない。
「GUUOONN!」
上がり続ける高度が対にワイバーンの高さを越え更に上へ。どうせ低空で都市に向かえば盛大な歓迎を受ける。その前にどうせ高度は上げるつもりだった。レブレは前倒すためにも躊躇せずに羽ばたきを強くする。その体が不自然に左右に揺れる。放たれる炎弾の狙いがそれ、明後日の方向へと消えて行く。その間にも、距離が詰まって行く。
「しっかりしがみ付いててよっ!」
その言葉に従いサキが構える。瞬間、レブレが大きく息を吸い込むと同時に急激に首を上げる。巨躯が地面と垂直に態勢を崩す。それと同時に広げられた翼が巨大な空気抵抗を産み急激に減速。背後から追っていたワイバーンの頭上を飛び越える。
「くっ――」
急激な減速により、サキの体が大気の壁によってレブレの体に押し付けられる。瞬間、目標を失ったワイワーンが同じように減速しようとする。そのタイミングでレブレが羽ばたく。背後からの圧迫が消えたサキが目を凝らす。そこへ、容赦なくレブレの吐息がワイバーンを襲う瞬間が彼女の瞳に映りこむ。
ワイバーンとて広義的には竜種に数えられる生物。当然対火性能は総じて高い。だが、そんな翼竜の無防備な背中を魔力障壁ごとペネレイトブレスが貫いた。か細い嘶きと共に、焼け焦げる肉の匂いが鼻をつく。
「同じ竜種でも格が違うのだよ格がっ!」
翼竜の巨体が浮力を失う。背中に風穴を晒しながら、二人のすぐ上を越えて落ちて行く。背後で盛大な墜落音が木霊した。追ってきていた魔物のいくつかが不運にも押しつぶされて絶命する。レブレがそれを見ずに最加速。目前に迫る都市へ向かって最後のスパートをかけて行く。と、その瞬間街の東側から光が上がった。白い光だ。まるで、彼らがよく知っている少女の放つ柔らかな色。少女の命の光そのものだ。
「レブレ、あれを!」
都市の外壁にまとわり着いていた魔物の動きが変化する。空の魔物が不自然に南へと移動していく。陸は陸で、外壁に沿うように魔物がこちらも移動を開始していた。まるで何かに引き寄せられているような動きだった。
「不味い……魔物の動きが何かに引き寄せられるみたいに一点へ向かって動いてる!」
「そんな、リリム――」
人々が逃げ惑っていた。
絶えず鳴り続ける半鐘の音が、嫌にリリムの耳朶に響く。篝火が沢山焚かれたせいで街中が赤く染まって見える。空を見れば、鳥の姿をした魔物が魔力障壁の光を纏いながら夜闇の中を飛んでいるのが見えていた。統一性の無いその飛行は、何かを探すように出鱈目だった。レンドールの屋敷から伸びる非常用の脱出口から街に移動したリリムは、ドレスの上に羽織った外套のフードを目深に被った。
まだ、見つかった風ではない。魔物にとっては目視だけが発見方法なのだろう。そういえばシュルトの魔法講座の中で、使い魔の目や耳を通して離れた場所の状況を探る魔法があるという講義があったことをふと彼女は思い出していた。
「こっちだ」
レイリーの言葉に、すぐに頷いた彼女は手を引かれながら人ごみを抜けて行く。目指すのは東。彼女の発案で既に指示を公爵が出している。乱戦のの最中、出された命令に戦う者たちは困惑したことだろう。だが、やってもらわなければ困る。
「どうしてだ。何故、君はこんな馬鹿な方法を考えた」
走りながら、武装メイドが問う。言葉には困惑はもとより、理解できないという感情が大きい。リリムはそれを鼻で笑う。
「はんっ、借りは返すもんでしょ。平民だろうと貴族様だろうと関係ないわ」
「それで死んでもか」
「死ぬ気は無いっての。これが一番お互いに都合が良いから提案してあげただけよ。仕事さえ碌に果たせない奴にとやかく言われたくないわ」
「失礼だな。私はこうして働いて――」
「だったら、つまらない好奇心で無駄話すんじゃないわよ。ていうかさぁ、部外者が私と彼の間に立ち入るな。鬱陶しいんだよ似非メイド!」
「……手厳しいな」
機嫌は最悪に悪いと理解して、レイリーが押し黙る。しばらく、ただ駆ける時間が続いた。悲鳴が聞こえる。怒号が聞こえる。伝染する恐怖と、踏みにじられていく平和。リリムがここに召喚されさえしなければ、起こらなかっただろう襲撃。それを思えば、少女の心が当たり前のように揺さぶられていく。
――ただ走り抜けるだけなのに、どうして忍耐なんて要するのか。
その答えは明瞭だった。すれ違う子供たちが、かつての自分に見えてくるのだ。父を失い、母を失った。その原因を作ったのは、欲という愚かさだったのかもしれない。だが、その原因の一端が魔物の存在があることは間違いない。
ならば同じなのだ。形は違っていようとも、間違いなくここで親を失う子は出てくるだろう。その果てに自身と同じ者たちが量産される恐ろしさが着いて回る。ただ原因になったというだけで災害を生む。召喚したレンドールたちが悪いと、そう思うことは感嘆だがそんな簡単に割り切れるものではない。
「お母さんどこぉ!」
「パパ、返事してよパパァァ!」
どことも知れぬ子供の叫びが聞こえるたびに、彼女の心臓が凍りつきそうになる。
(私のせいじゃない。私のせいじゃない。私のせいじゃない――)
悲鳴が怖かった。眼をあわすのが怖かった。いつか、その眼が憎しみに変わり自分に向けられるのではないかと思うと恐ろしくてたまらない。リリムに出来ることといえば、一刻も早くこの街が消えること。ただ、それだけなのだ。
「はぁ、はぁ……」
息が上がる。訓練してきたとはいえ、息一つ乱していないレイリーとは違うのだ。用意させた武器やリュックの重みも彼女を苛む。だが、彼女は泣き言を言わずに走り続けた。先を行くレイリーは、その気丈な姿をチラチラと確認して認識を少しだけ改める。
(……強いな。この子は、強い)
腕力だけではない。致命的に自身とは差があると武装メイドは考える。彼女だったら、こんな馬鹿げたことは行わない。レンドール公爵を利用し、街を利用し、最後まで生き残るべく立ち回る。その方が堅実で確実に思えるからだ。だがそれは、何を犠牲にしてでも最後に自分だけが生き残る必要があるという義務感によって支えられているものだが、リリムのそれは違う。
大胆にも自分の命を対価に、犠牲を最小限にして更に生き残ろうなどという貪欲さに満ち溢れている。成功することができれば、文句などつけられない。最も喜ばしい結末を迎えるための悲痛の道。そのために難業を背負い込む精神力。これはレイリーにはきっと無い。
彼女の選択を馬鹿だと笑うことは簡単だ。明らかに失敗するだろうことに、命を掛けるなんてナンセンス以外の何者でもない。恐らくは自身でも成功するなどとは思ってもいない。だというのに、それができてしまうその勇気を笑うことなどレイリーにはできそうない。
「見えたぞ。この上だ」
「はぁ、はぁ、やっと……着いた……のね」
東の外壁。門などないただ頑強な石壁が二人の前に立ちふさがっている。高さにして七メートルはあるだろうか。外壁の上へと続く上り坂がすぐ側にあり、戦うために兵士たちがひっきりなしに移動している。
「レイリー様、こちらです!」
上から、公爵が先に用意させただろう軽装の兵士が屈強な白い馬に乗って待っていた。二人はすぐに上り坂を登り、側に駆け寄る。
「ぜえ、ぜぇ……あんたが……貧乏くじを引いた人?」
「貧乏くじかどうかは知りませんが、一番馬の扱いに長けている者です。大変でしたよ。志願してこの座を勝ち取るのはね」
まだ歳若い兵士の男がニッコリと笑う。真面目そうなその顔は、しかしすぐに引き締められる。
「ご苦労様です。準備はできているようですね」
「はい。命に代えてもその少女を送り届けて見せます」
敬礼するその兵士にレイリーが頷く。リリムが息を整えながら彼の後ろに飛び乗る。外套から一瞬だけ漏れるのは、白い光。それを見上げながら、レイリーが公爵に頼まれた伝言を言う。
「『生き残ってくれリリムちゃん。それと、済まない』だそうだ。確かに伝えたぞ」
「おじさんらしいわね。あの人、根は優しいから最後には謝っちゃう。あんた、しっかり守ってあげなさいよ」
「言われずとも守るさ。それが今の私の仕事なのだからな」
「そう。精々がんばんなさいよ」
着ていた外套を脱ぎ、メイドに放り投げる。その下には、借りた着替えのドレスと用意してもらったリュック。それに、腰に巻かれたベルトだ。ベルトには用意させたプレイ用の鞭と短剣が下げられており、最低限の武装が完了していた。
「じゃあね」
「ああ」
リリムが大きく息を吸い込む。ありとあらゆる余分な思考をカット。ひたすらに自分に必要な側面を呼び起こす。求められる自分は、聖女としての自分。笑ってしまいそうなほどに似合わないそれをマインドセットし、成すべきことを成すために眼を見開く。その右手が白く輝き作戦の開始を告げるべく空へと振られる。
内気魔法『オーラショット』。オーラを用いた単純な遠距離攻撃魔法であり、本来は敵に向けて放たれる技だ。白い光が天を登る。空の魔物が天敵とも言うべきその光の発生源であるリリムを見つけた。すぐ下に居る魔物たちが異様なほどに煩い雄たけびを上げる。
「出発!」
「はっ――」
若い兵士が馬を駆る。外壁の上、命令どおりになんとか開けられた左スペースを駆けさせて行く。進路は南。馬の蹄に打ちつけられている蹄鉄の音が外壁の上で高らかになる。
疾走する馬が嘶く。戦闘の中、事情を知らされることなくただそうしろと言われただけの冒険者や兵士たちが訳が分からないような顔で通り過ぎる二人を見送った。その顔が、直ぐに驚愕に変わる。
戦闘の怒号に混ざるざわめきに思わずマインドセットが崩れそうになった。駆け抜けるたびに聞こえてくるそれを振り切り、少女が振り返る。すると視界に案の定空の魔物が追走してくるのが見える。外壁の外も同じだ。魔物たちがリリムを追うことに傾注する。その光景が、異様でないわけがない。
「おおっ。話しには聞いてたが凄ぇなっ」
「だからって今から志願を取り消すのは無しにしてよ」
「まさか――燃えるだろこういうの!」
真面目な兵士の殻を脱ぎ捨てた男が快活に笑う。リリムは臆病風に吹かれないその兵士を素直に頼もしく思った。
「頼もしいわね。お兄さんの名前は?」
「ロンドだ」
「私はリリム。無事に送ってくれたら彼に内緒でお礼のキスぐらいはしてあげるわね」
「そいつは光栄だね! できれば五年後によろしく」
「その頃にはきっと人妻よ」
「いいなそれ。響きがエロい!」
馬が南の角を曲がり西へ。数キロにも渡る直線を駆け抜けて行く。リリムがベルトにに手を回し、右手に鞭を抜き放つ。
「ロンド、近づく奴を叩き落とすけど煩くしてもこの馬は大丈夫?」
「こいつは俺と一緒で度胸がある。何をするのか知らないがガンガンやってくれ」
手にした鞭が、詠唱されたライトエンチャントの輝きを灯す。その瞬間、リリムが手馴れた手つきで鞭を振るう。
不用意に近づいてきた鳥型の魔物を魔力障壁ごと爆砕する。爆音に驚いた馬が、一瞬減速する動きを見せるもロンドがそれを許さない。
「相棒、ほらビビるんじゃねーっての! はっ――」
ロンドの言葉を理解しているとは思えないが、それでも馬は命令に従った。馬の扱いが上手いという言葉は伊達ではないようだった。それを見てリリムは遠慮なく鞭を振り回す。戦っている人々の視線が、更に派手な音をさせるようになった二人へとチラチラと向けられる。その眼に映るのは、少女の容赦の無い鞭捌きとその威力だ。
「なんなんだよその鞭! 俺も欲しいぞ嬢ちゃん!」
冒険者や兵士たちの言葉を代弁したかのような呟き。魔物戦のセオリーを一切無視するそれにロンドが眼を輝かせる。
「あんたの剣にも同じ魔法をかけて上げよっか?」
「魔法なのかそれ。変わってるな。おっ、なんか俺の剣が光ってやがる」
「光が消えたら効果切れだから気をつけてよ」
「オーケイ!」
「ついでにこの馬にも細工しとくべきかしらね……ブーストエンチャント!」
二人が乗る馬が淡く輝く。すると途端に駆ける速度が跳ね上がった。外壁を走り抜けるその馬が一陣の風となる。手綱を繰るロンドでさえ驚くその驚異的な加速は、足の速い飛行型の魔物たちから一行との距離をじりじりと開けて行く。
「すげぇ、相棒が光ってやがる。ふははは最高だぜ嬢ちゃん。ひゃっはー!」
非常時だというのに楽しそうに笑う男だ。逆境に強いタイプなのかもしれない。そう考えて、ふとリリムは頭を振るう。この男を寄越したのはレンドールなのだ。だとしたら最後までしっかりと任務をやり遂げるだろう資質の者を寄越したのかもしれない。自ら志願したのだとしても最終的に選ぶのは彼なのだから。
(腕しか注文つけなかったけど、こういう相手なら私の精神的な負担も小さい。さすが貴族様ってとこか。人の使い方が上手いのね――)
素直に感心しながら、馬の心配をせずに少女は鞭を振るう。まだまだ都市を抜けるには時間が掛かりそうだったが、それでも少しだけ気が楽になった。
(後は、私に運があるかどうか――)
外壁の東から南に向かい、魔物を引きつけながら北門を手薄にさせる。その上で外周を回るコースを辿って西でいったん街に下り、中央のメインストリートまで進んでから北門を短時間だけ空けさせて外に出る。そうして、奇跡で一度魔物の集団の支配を解除して統制が取れない間に家のある北西へと向かう。
運がよければ迎えに来るだろうシュルトたちと合流できる。最悪それが無理でもダンジョンへと逃げ込むことさえできればなんとかなる。通常の馬なら途中で休憩が居るだろうがリリムが乗っている。それこそ奇跡で回復させて強引に距離を稼げば、追ってくる魔物も疲労で追いつけなくなるだろう。
問題があるとすれば、それはリリム自身の気力と体力。そして魔物の分布が不明な点だろうか。ダンジョンのある山の周囲はよくレブレがつまみ食いのために片っ端から魔物や危険動物を狩っている。山に向かえば少なくなるはずだった。
色々と穴が多い作戦ではあるだろう。行き当たりばったりであることはリリムも分かっていた。だが、それでも一番最悪な選択肢があるとすればそれは篭城だと彼女は悟っていた。
逃げ道を塞がれてしまえばシュルトたちが迎えにこなければ逃げられない。それでは確実に詰んでしまう。魔物が動いていなければ都市に引きこもる選択肢もあったがもう無理なのだ。加えて、もし彼女自身が逃げ切れなくなっても最悪都市の住民が根こそぎ魔物に狩られることもなくなる。結局被害を最小限にするには一刻も早くリリムがここを去るしかないのだ。だから彼女に取るべき道はこれしかなかった。
「嬢ちゃん、空の上の奴らが集まってきたぜ! ハーピーの群れだ!」
一メートルはある巨大なカラスを叩き落したリリムに、ロンドが叫ぶ。
「あいつらは確か羽を矢みたいに飛ばすんだっけね。ちっ。近づいてきてくれたら温存できるってのに、もうっ――」
羽の矢で相手を弱らせ、足の獰猛な鉤爪で獲物を空へと攫う習性がある。近距離での戦いが得意な冒険者からは地味に嫌われている。また、複数でで行動することも多いために手強さと稼ぎが一致しない厄介さも持っていた。
夜空を睨みつけながら少女が魔法を詠唱。選択したのは初級の魔法『ライトアロー』。広範囲を攻撃できない代わりに、術者の魔力量と制御能力次第では弾幕にして叩き込める魔法の矢だ。
リリムの頭上に二十ほどの光が発生する。それらは獲物を打ち抜くために細長い矢の形へと直ぐに変形。弓につがえられた矢のように、獲物に向かって射撃体勢と整える。
「邪魔だっての!」
怒声と共に放たれた矢が一斉に夜闇を貫く。放たれた魔法の矢がそれぞれ獲物に喰らいつく様は圧巻だった。ハーピーたちの体に容赦無く穴が開く。呆気なく魔力障壁を抜くのは、リングルベル王国の学生たちへと教えるためにシュルトが最低限必要な威力を定義して用意していたのだから当然だろう。
「あちゃー、三匹残った」
「ここじゃあ逃げ場がねぇ。このままじゃ狙い撃ちだぞ!」
「はいはい。どうにかするから突っ込んで」
「どうにかって……ええい、何でもアリかよっ――」
白馬が更に加速。それを見て甲高い奇声と共に、ハーピーから返礼の羽矢が飛んでくる。だが、それはリリムの張った魔法障壁が弾き飛ばす。外壁を駆け抜けながら、ロンドは白い光の膜が羽矢を弾くのをしかと見る。同時に、背中の少女が行っていることの理不尽さを噛み締める。
「抜けるぜ!」
三匹にハーピーの真下を抜ける。同時に、身に纏った白の輝きが掻き消える。その後に、再びライトアローが放たれハーピー三匹が街中へと墜落した。
「よっし――」
「そろそろ西の坂だ。一旦降りるぜ」
魔法でブーストされた白馬のせいか、驚くべき速さだった。後は最後にメインストリートへと向かい、北門から抜けるだけだ。
出来うる限り路地裏をかけるようにして人の通りが少ない道をロンドは選ぶ。幸い、街の構造はしっかりと頭に入っている。入り組んだ道を右に左に迷わずに走破。避難しているしている民間人たちがごった返している箇所を避けるようにして徐々に北門へと近づいて行く。
「嬢ちゃん、次の十字路の先が最後の直線だ。門を開ける合図、しっかりと決めてくれよ」
「任せなさいっての」
少女の左手に白い光が集う。白馬が遂にメインストリートへと突入。大きく左に曲がりなが北へと完全に進路を整える。瞬間、リリムが空へと二発目のオーラショットを打ち上げる。
どんどんと間近に迫る北門。既に避難民の姿はなく、レンドールの指示のおかげで彼らの行く手を遮る者は誰も居ない。リリムは三度左手にオーラを集める。淡く輝く燐光が、これまでにないほどに発光。彼女の生命力を大きく削っていく。一瞬、碧眼の視界が霞む。だが、そうだとしてもリリムは躊躇しなかった。
「来たぞ、ロンドだ!」
「開門だ、開門しろっ――」
兵士の怒声が大きく戦場に響くのと同時に、閉ざされた鋼鉄の門が数人掛かりで内向きにゆっくりと開かれていく。魔物を南側に引き付けたとはいえ、皆無ではない。その向こう、待ちきれずに飛び込んできたブラックウルフを前に少女が罵倒を飛ばしながら左腕を真っ直ぐに振りぬく。
「引っ込め早漏野郎っ!」
内気魔法オーラショットの亜種『バーストショット』。通常なら着弾と同時に込められた分の気を開放し広範囲に炸裂する技法である。だが、リリムのそれは違っていた。
命中したブラックウルフを基点に爆音と同時に白い光が広がって行く。凝縮されていた聖浄気が開放され、破壊ではなく周辺一帯の遮蔽物を透過しながら問答無用で浄化治癒していく。魔物の動きが乱れる。同時に、彼らが纏っている魔力障壁のことごとくが消失した。その瞬間を都市側の迎撃者たちは呆気に取られながらも見逃さない。
「撃て、なんでもいいから撃ちまくれ!」
魔法が、矢が、次々と打ち込まれ無防備になった魔物たちを蹂躙する。繰り糸を失った魔物たちはその攻勢を前にして逆上するよりも先に命の危険を感知する。門の周囲から我先にと逃げ、浄化されていない魔物とかち合って同士討ちを始めた。戦場の一角が混沌と化す。
半鐘が鳴る。ロンドが外に出る合図だ。門の周辺を狙っていた者たちが撃つのを中断。その中を一頭の白馬が遂に門を抜けて行く。
「ようやく外か。後は決死の逃避行だな。まぁ、この調子ならなんとかなるだろう。なぁ、嬢ちゃん。……嬢ちゃん?」
痛快な声を上げたロンドが、返事の返ってこないことを訝しんで背後を振り返る。その瞳に写ったのは、背後から首を射抜かれた少女の姿。ロンドの顔から余裕が消える。喉元を斜めに貫通した鏃から、血が滴る。訳が分からないといった顔で首に手をやる少女の指先が、苦しみの元凶に触れる。それが何かを理解する暇は、きっと彼女にはなかった。ロンドが手綱からすぐに片手を離してその体を支えようとするも落馬するのを止められない。
ロンドは反射的に手綱を繰ると、馬を反転。落馬したリリムの元へと向かって行く。その向こうで、無慈悲にも閉じられていく北門の向こうに薄ら笑いを浮かべる者の姿を見つけた。それは、確かに知っている顔だった。
「ヤンク、てめぇぇぇぇ!!」
その男は、真面目というわけでもなく、不真面目というわけでもない。ただ、どこか影の薄い男だった。記憶の中にあるのはそんな同僚。だが、最後に見たあの冷酷な表情を思い歯噛みする。流れ弾がたまたま、という風ではない。アレは明らかに意図的であった。そうでなければ、口元を吊り上げる理由はない。
(野郎、予定調和みたいなすまし顔をしやがって。バノスの野郎の差し金かっ――)
腸が煮えくり返りそうなほどの怒りが胸中を駆け巡る。意図などもはや、ロンドにはどうでも良かった。湧き上がってくる怒りが、確かに殺意の感情を捻出する。だが、それを向けることを状況が許してはくれない。
外壁の上で、予定にない結果を前にしてどよめきの声が上がる。誰かが援護するために攻撃を始める。だがそれでも、リリムの浄化に中てられなかった魔物たちを止めるには破壊力が足りなさ過ぎた。
「くそっ」
馬から飛び降り、リリムのエンチャントが掛かったままのロングソードをロンドは抜いた。全力で駆け寄り、倒れた少女に襲い掛かろうと迫るブラックウルフを真横から斬り付ける。
爆音が鳴る。障壁ごと横殴りにして吹き飛ばすはずだったロンドの予想を越え、ブラックウルフが肉片となって吹き飛んだ。だが、それで怯えるような魔物はもう、その周囲にはいなかった。
「う……あ……」
か細い声が足元から聞こえる。きっと、その少女は自分の身に何が起こったのか理解していないに違いない。落馬の衝撃もあったのだろう。あの不思議な白い光を発することも無く、先ほどまで確かに感じていた不思議な心強さがロンドには感じられない。まるで、彼がよく知っている妹たちの死に際のようだった。その瞬間、彼の中でかつて見た地獄がフラッシュバックする。
「嬢ちゃんそのままだと死ぬぞ! あの白いのでなんとかしろ! 早く!」
一度致命傷を受けて完治した姿を彼は見ていた。もはや頼みの綱はそれだけ。少女に向かってくる魔物を次々と切り飛ばしながら彼は叫び続ける。相棒に乗って逃げる余裕などもはやない。それどころか完全に逃げ道が塞がれた。もう、北門が開かれることはないだろう。それをすれば魔物が都市の内部に飛び込める。申し訳程度に援護の魔法が飛び交うも、もはやあまり意味が無い。
「嬢ちゃん! おい、嬢ちゃん!」
リリムは微動だにしない。剣のエンチャントも輝きを失って行く。もはや、自分の命さえ風前の灯火。それを理解しながら、遮二無二ロンドは剣を振るう。外壁の上のざわめきなど、もはや気にもならない。ただただ近づく者を遠慮なく切り捨てることしかできないのだ。更に状況は悪化する。
「相棒!?」
白馬が嘶いた。その声を聞いて彼が振り返れば、馬の視線が空を向いている。眼を凝らして視線を向ければ、ハーピーがの集団が滞空しながら羽ばたいていた。
(ここまでかっ)
状況はもはや詰んでいる。空から狙われ、大地の上には周囲を囲む魔物たち。それこそドルフシュテインに襲い掛かってきた魔物たちの全てが終結しようとしている。ロンド一人ではもはや、どうにもならない。
(結局、また餓鬼一人救えねぇのか。なぁ園長の糞爺よぉ。すぐそっちにいくぞ。餓鬼供と一緒に待ってろや。嗚呼、でもなんだってこんなに――)
不用意に近づいてきた短剣持ちのゴブリンに剣を振り下ろし、体ごと爆砕する。それで、完全にエンチャントの光が剣から消えた。その横から、遅れて二足歩行している巨大な豚顔の魔物、オークが粗末な槍を突き出してくる。咄嗟に半身になって避け、救い上げるような軌道で長剣を跳ね上げる。途端、その剣が当たり前のように硬質の光に阻まれる。
「くそったれぇぇぇ!」
魔力障壁だ。魔物が例外なく持つ強固な鎧。それでなくても巨体を持つオークは、肥満体であり分厚い脂肪に覆われている。動きが鈍重で弱い割りには比較的耐久力が高く、新人の冒険者程度であれば十分な強敵になる。一対一ならばロンドも倒せないことはない。だが、敵は目の前のオークだけは当然ないのだ。
「GURUOONN!」
再度長剣を叩きつけようとしていたその横から、耳朶を振るわせるような咆哮と共に黒い影が飛び掛ってきた。毛色のせいで夜には見づらい闇から忍び寄る森のハンター、ブラックウルフだ。
「邪魔だっ――」
右手に喰らいついて離れないそれに気を取られた瞬間、先ほどまで戦っていたオークの槍が飛来するのが見える。ロンドは咄嗟に腕を食いちぎろうとしてくるブラックウルフを引きずり出して盾にする。激痛の調べが、ロンドの顔に脂汗を浮かべさせるもオークの槍とブラックウルフの魔力障壁が衝突させることに成功する。槍が弾かれ、オークが予想外の反動を受けて後退する。
そこへ、嘶きと共に白馬が割って入ってくる。彼に驚く余裕はもはやない。割り込んだ彼の眼前で、白馬が悲鳴を上げた。白馬の体に次々とハーピーの羽が突き刺さるのが見える。
「バッシュ、お前っ――」
白い体毛が流れる血で染まって行く。白馬の体がグラリと傾き、ついには地面に倒れこむ。右腕の痛みさえ、その瞬間にはロンドは忘れていた。
「――そがぁぁぁ!!」
男の叫びが戦場に木霊する。そこへ、容赦なく彼の相棒を殺した羽矢が飛来した。ブラックウルフを盾にして凌ぐも、完全にはいかない。出来る限り逃避行のためを考えて軽い防具にしていたことが仇になった。纏っていた革鎧に次々と羽矢が突き刺さる。
(痛ぇ、痛ぇよ。ちく……しょう――)
激痛で視界が霞む。その中で、ロンドは背後に迫る音を聞く。なんとか首を回してみれば、倒れたまま動かないリリムの上に忍び寄ったゴブリンが短剣を振り上げている。彼は、最後の力を振り絞った。
「させ、るかぁぁぁ!!」
血を吐きながら右腕を大きく振るう。ブラックウルフの体が火事場の馬鹿力よろしく浮いた。血走ったままの目で、真横から彼はゴブリンに狼を真横から叩きつける。魔力障壁同士が接触。威力は軽減したものの重量による衝撃を完全に耐え切れなかったのかもつれるようにして二体の体が吹き飛んだ。
「へ、へへっ……がっ――」
ロンドが笑う。その腹からは背後から突き出されたオークの槍が顔を出していた。だが、それでも彼は笑った。眼前には、人影があった。見たこともない黒髪の少女だ。その少女は、空から降ってくるや否や彼が守った少女と同じように体に不可思議な光を纏いながらゴブリンとブラックウルフに止めを刺していた。それは、一瞬の早業だった。少女が視線に気づき、彼を見る。
「……頼む、レンドール公爵に、伝えてくれ。ヤンクが、リリムの嬢ちゃんを……射ったって……なぁ……」
正しく伝わったかどうかなど分からない。だが、それでも薄れ行く意識の中でロンドは聞いた。確かに、その少女が「はい」と返事をしてくれたのを。