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第三話「五人目」


 一年と少し前にリリムが啓示を受けたあの日以来、大山脈に張られた結界から魔物が以前ほど大量に出てくることはなくなっていた。


 帝国の宰相バノスは、これ幸いと王都のほとんど目の前にあった最終防衛ラインの強化を行うと共に、それまでに行ってきた増税や兵の徴兵を緩和し、東側の諸侯の顔色を伺いながら切り崩し工作を開始。不満の暴発タイミングを伸ばすべく暗闘し、水面下では召喚の儀を行う準備を進めていた。それは通常の召喚とは明らかに規模が違っていた。


 普通に召喚するだけなら一年前にも出来ただろう。だが宰相はそうはしなかった。いや、それこそ大山脈に結界が張られる前であれば儀式を執り行っただろう。しかし状況が変わったことで宰相は前代未聞の試みを行う準備を進めていた。


「遂に、我らが帝国にも異界の力がもたらされるのですな」


 帝都城の庭の一角にて、子飼いの部下たちが準備している姿をテラスから見下ろしていたバノスはふと後ろから声をかけられた。彼が振り返ってみれば、そこにはロスベル辺境伯の姿が見えた。老齢のバノスからすれば、一回りは若いだろう。辺境伯は四十半ばだっただろうか。そうとは思わせぬほどの精気溢れる彼の姿は、宰相にさえ衰えたようには見えない。


 ロスベル辺境伯は大山脈のすぐ麓に領地を持つため、常に第一線での戦いを強いられてきた貴族である。武門の家柄といえばそうなのだが、政治的な能力についてはそれほど高いわけではなく寧ろ疎い。バノスからすれば単純であるが故に使いやすい男だった。


「然りだよ伯爵。ただし我が帝国は目先のためだけではないがね」


「閣下の慧眼には頭が下がる心地です。何せ、一度に複数の召喚を行おうと言うのですからな」


 各国が何人も召喚できたという話は今のところない。秘密裏にしているのかといえばそうでもなく、召喚後に皆が記憶を飛ばされるという話しが広まっていた。たった一回限りの召喚の秘儀。ならば、同時に複数行うことで一度に大量に呼べばどうだろうか。たった一人が国のあり方を激変させるのであれば、複数人呼ぶことができればそれこそ帝国の力が飛躍的に高まるのは道理であろう。リングルベル王国を皮切りに、水面下で行われてきた召喚の儀式。未だに複数人召喚できた事例はない。これが成功すればグリーズ帝国はかつて魔物が居なかった時代、大陸に名を馳せていた頃のような栄華を再び取り戻すことも不可能ではないかもしれない。そして、それを成すことができれば煩い抵抗勢力も黙るしかない。それだけ召喚という荒唐無稽な手段には影響力があるものと認知されていた。


「ここ一年で不自然なほどに大陸の各地では召喚が相次いで行われているようだ。帝国もこの波に乗り遅れる訳にはいかんのだよ」


「左様ですな」


「ハイドラー殿はどうだろうか。上手くやれているかね」


「はっ、既に準備を整えているとのことです」


「召喚場所一つにつき一人。最も過酷な大山脈付近で召喚を行えるのは君たちしかいないのだ。苦労をかけるな」


「いえ。国を変えるほどの大事に立ち会えるのですから幸運でありますよ」


「そう言ってくれると気が楽になる」


 辺境伯の後を継ぐべき長男ハイドラー。冒険者に紛れて魔物退治で名を上げているAランクの冒険者である。バックアップを辺境伯がしているとはいっても冒険者界隈では

『銀剣のハイドラー』の異名を持つ程の剣士だと宰相は聞いていた。魔物との終わりの見えぬ戦いで手に入れた経験が、その後の辺境伯としての武力を支える下地になることは明白だが、有能な手札となってくれるので重宝していた。


 東側の諸侯と西側の諸侯とでは温度差がある。大山脈に近い西側の貴族たちは魔物によって常に脅かされている関係で帝都のバックアップを欲している。帝都は帝都で膨れ上がって行く税金と出兵要請に嫌気を刺している東の諸侯を宥めるのに四苦八苦していた。それでも先代の皇帝はそれをバノスと共に乗り切っていたのだが、子供二人のうち長男を残して皆暗殺された。以来、残された若い皇帝に変わって政務を宰相が取り仕切っていた。


 近年では東側がレンドール公爵の元に水面下で集い、きな臭い動きを見せている。昨年に召喚を行おうとして更に刺激したが、その寸前で大山脈に異常が感知されたことで猶予が伸びた。バノスとしてはそれが天の采配に思えてならなかった。


「満月まで後二日か。是非とも成功させたいものだ」


「ですな。しかし、パワースポット……でしたか。こんな目と鼻の先にあるとは……些か拍子抜けしてしまいますな」


 ロスベル辺境伯もまた、テラスから庭を覗きこむ。庭師によって上品に維持されている庭を避けるようにして、召喚の儀式が行えるように準備されている。そのせいで景観を少し損ねていると城内の者から苦情が出てはいた。無論、そんな苦情などよりも召喚の儀式の方が大事であるので黙らせてはいたが。


 また、堂々と行うことで妨害者を炙り出して口実にするための準備も整えている。レンドール公爵といえど、少なくともここでは邪魔はできない。ただ一つだけ気に掛かることがあるといえば公爵領にもパワースポットが存在することである。


(奴の所にも地脈とかいう奴があるがまさか、な。奴が行うなどということはあるまい。一応、保険はかけてはあるが……)


 そもそも召喚の方法についても緘口令を強いている。突然に帝都城内に召喚魔法の知識を得たと申し出る者がいて、それがたまたま彼の信頼できる部下だったことが原因で完全に秘匿できていた。無論、話しを匂わせて東側の諸侯を揺さぶる材料にもしたがそれだけだ。レンドール公爵たちが行えるわけもない。


「拍子抜けか。私は少し作為を感じるがね」


「と言いますと?」


「魔物の脅威に怯える国に、誰も知らないうちに召喚の魔法が授けられる。神を信じたくなるような奇跡だが、虫が良すぎるのではないかとも思えるのだよ。もし召喚魔法がまったくの出鱈目だったとしたらどうだね」


「まさか、そんなことは――」


「まだ試しても居ないのだぞ。できると信じてはいるが、何故そう確信できるのだろうかが分からん。そして逆に、成功したとしてそれが何者かの謀略によるものだったとしたら……いや、忘れてくれ。今君に言うことではないなこれは」


 できるかできないかわからないもののために息子を動かさせている。それがバノスの立場である以上はロスベル辺境伯に言うべき言葉ではなかった。しかし、バノスは言っておかなければならなかった。最悪の後へと続く免罪符として。


「はっはっは。宰相閣下は心配性ですなぁ」


「失敗すればレンドールが嬉々として攻めてくる。そちらもあわせて期待しているぞ辺境伯」


「ははっ。魔物に押されている今、内乱など起こそうとする輩など許しては置けませんからな。まったく、東側は平和ボケしていていけない」


 政務についてはともかくとして、防衛戦に関しては国内有数の経験を持っている。相手が魔物相手ではあるものの、その経験は役に発つ。軍については門外漢の宰相にとっては彼は有用な駒だった。勿論、それは現皇帝さえも同じだ。帝国の大半を手中に収めたとはいえ完全ではない。帝国の全てを手中に収めるためにも、彼は信じるしかなかった。


――胡散臭い、召喚魔法などというものを。








 夢を見ていた。

 それは元娼婦には決して訪れることのないだろう戦いの夢。沢山の人が死に、沢山の魔物が死んでいった。そうして、遂に自分がそうなる段階になったその後で、ようやく彼がやってくる。そういう夢だ。


「あ、死んだ」


 確実に今、死んだ。そうと分かるほどに生々しい映像が垣間見れた。泡沫のような呆気なさと共に人としての生が終る。それを残念に思うも、今それを見ている自分とは関係ないことに気づき憤慨する。


「これは……何?」


「啓示さ」


「啓示? ……って、さっき死にかけてた竜じゃないの!」


 目前に佇む竜が、どこか穏やかな目で彼女に告げる。


「僕はレブレ。人呼んで啓示の緑竜。君のような珍しい存在に啓示を与え、可能性の一端を指し示す者さ」


「可能性? はっ、だとしても随分と嫌な未来じゃない」


「かもしれない。でもね、それはある意味しょうがないとも思うよ」


「なんでよ」


 レブレは言った。


「だって君、聖女だもん」


「なぬ?」


 そんな大仰な称号で、何故自分が呼ばれるのかが分からない。大陸では唯一の宗教として定着したリスティラ教会を信仰しているわけでもなければ、そうと呼ばれるほどの何かを成したわけでもない。そもそも借金返済のために余計なことをする余裕などこれっぽちもなかったのだから。


「永遠の処女性を持つ者。奇跡を行使する者。穢せぬ聖女。呼び方は様々だけど、君は確実にそうと呼ばれる者だよ。特にあのシュルト・レイセン・ハウダーが、魔法卿が君の血を吸って、それでも君を花嫁にしようとする時点で確定さ」


「わかんないわね。なんであの変態が関係するのよ」


「彼は吸血鬼の中ではある意味有名な偏食家なんだ。処女の血しか受け付けないなんていう、吸血鬼にはあるまじきその舌を満たせる非処女はいないよ。純粋な人間なら聖女以外はね」


「……だから彼は私に執心してるってわけ?」


「そうだよ。摂理に背く者なら君の聖性に耐え切れない。とはいえ、神祖の吸血鬼なら生まれつきだから摂理には反していないわけで死ぬことはないんださ。けど彼らの場合はお酒とか麻薬に似ているのかな。一度味わうと我慢できなくなるみたいだよ。普通の処女や童貞が持っている純血由来の聖性とは比べ物にならない程、魔法学的な不純物が一切聖女の血には無いんだ。そんな聖なる血は彼らの舌を直撃するんだね。それは理性の箍を外し彼らを狂わせる。それこそ同属同士で聖女を巡って殺しあうほどに。だから彼以外の吸血鬼には血を上げないほうがいい。記録では僕が生まれる前に二つほど吸血鬼の国がたった一人の聖女を巡って殺しあって、結局は同士討ちで滅んだらしいから」


「血をペロペロしたいだけで国を滅ぼすなんて、さすが変態の種族だわ」


「別に彼らだけじゃないけどね。悪魔とか魔王とか、それこそ竜である僕とかも儀式で生贄とかに使うとパワーアップできるんだ。僕たち竜の場合はそのままぱっくりと食べる方がポピュラーだけどさ。あ、なんか話してたら齧りたくなってきたよ。良かったら手足の一本ぐらいくれない?」


「いやよ」


「ちぇっ。聖女なんてご馳走を食べるの久しぶりだったのになぁ」


 少しだけ残念そうに舌なめずりをすると、その竜は続ける。


「それで、ああそうそう。勿論人間とかも君を狙うよ。何せ奇跡を起こせる。こんな理不尽な存在、見つければ皆が寄ってたかって自分のものにするか気味悪がって殺す。利用価値がありすぎるんだよね。不治の病を治したりとかできるからさ」


「そんなこと言われても、私には奇跡なんて起こせないわよ」


 起こせたら真っ先に変態吸血鬼の問題をどうにかしている。


「大丈夫。僕の啓示は可能性の幻視と一緒に潜在能力の開放もできるから、こうして話してる間にも君は力の使い方を少しずつ理解しているのさ」


「……ねぇ、あんたがそんなことするから私が死ぬ未来があるんじゃないの?」


「んー、そういうところはあるかも。でも、僕だって切羽詰ってるからこうするしかないんだよね。魔法卿がさ、僕を殺そうとしているでしょ。結構致命傷に近いから、君の奇跡で助けてもらわないと死んじゃうんだ。しかも僕、今は体の自由も利かないしね。両方をどうにかするためには君の力が必要だ。だからごめ……あ、無理かも。その前に殺されそう」


「え、ちょ、レブレ?」


「あーあ。短い竜生だったなぁ……」


「ああもう――」





「――駄目、止めてシュレイダー!」


「……ふむ? 私はまだ何もしていないぞ」


 理解できないという顔で、吸血鬼の男が見下ろしていた。いつものように夜の狩りから帰ってきた帰りなのだろう。湯上りらしく、脱ぎ捨てられた服が隣のベッドの上に放置されている。下着姿のシュルトはタオルで髪を拭いている最中だったようで、首にタオルを巻いていた。


「なーんだ、夢か」


 一年程前、レブレに啓示を受けたときのものだった。ゆっくりと体を起こし、リリムは不思議そうな顔をしているシュルトを見る。相変わらず傷らしい傷はその体には存在しない。グリーズ帝国領内を回り、色々と調査をする傍ら魔物を間引いては時折ギルドで換金するフリーの冒険者。それが彼の表向きの肩書きだ。だというのに傷一つ無いのは彼が一重にテクニシャンだからに他ならない。その視線をどう受け止めたのか、シュルトは少しだけ眉根を寄せた。


「如何ながら夢の中の私は紳士的ではなかったようだな」


「紳士ねぇ……ぷっ――」


 堪えきれずにリリムが噴出す。


「頭に変態の二文字がついていれば認めてあげてもいいかもね」


「なんだそれは」


「だって、普通の紳士様は私の血をペロペロして幸せにはならないわよ」


「人間と比べられてもな」


 そこらの紳士とは一線を駕す存在だという自負はあるようだった。無駄に銀髪を梳きながら、胸を張って彼は言う。


「私は誇り高い吸血鬼だぞ。血で幸せを感じなくてなんとする」


「はいはい。それにしても随分と流暢に話せるようになったわね」


 三人とも既に言葉の壁も越えていた。元々文字は理解していたシュルトはともかく、レブレなどは異常に覚えるのが早い。彼の場合はそれどころかサキの国の言語さえ覚えて話せる。啓示を行うことで魂での会話がレブレにはできた。それを利用して言葉をこっそりと覚えていたのだ。最近ではシュルトがレブレに教わるほどだ。


 彼らは空元へ何れは渡るつもりだった。サキを送るためなのは言わずもがなだが、魔物を召喚する何者かについての手がかりが大山脈で手に入れられない場合、そちらで探る必要があるからである。


 魔物狩りもその一環である。数を減らしておかなければいざというときに大量の魔物に追い回されることになる。焼け石に水だとしても少しでも調査のために戦力を沿いでおきたい。更にその仮定でお金も手に入るので夜はシュルトが単独で狩りに出ていた。

 夜ならば人目にはつき難く、リリムが居なければ魔物の動きは変わらない。大山脈にこそ近寄ることはしなかったが、シュルトは帝国領内に出現する大抵の魔物の相手をしていた。


「言葉など、コツさえ掴めば意外となんとかなるものだ」


「まっ、いいけどね」


 リリムとしてはサキが大陸の言語を大体覚えてなんとか話せるようになったので十分である。大陸の魔法を入門用にしたシュルトのせいで、サキの熱意は凄かった。そのおかげで大陸の魔法もリリムが知っている魔法はほとんど覚えた。今はスキル魔法ではなく、自前の魔力でシュルトの魔法を中級レベルまでは使えるようになっていた。何れ上級魔法まで覚えることができれば卒業することになる。得意の風系統にほとんど絞って訓練しているせいで他の魔法は雑ではあるものの、その習得速度は努力相応に速い。教えがいがあるとシュルトが満足そうに話していたことはリリムも記憶に新しい。


「……ところで、どうして私のベッドに入ってくるのよ」


「私が私の花嫁と夜を共にしても問題などないからだ」


「そりゃあ字面だけを追えばね」


 枕が奪われ、代わりに腕が差し出される。こういう強引なところは相変わらずだ。リリムはいつものようにため息をを一つ吐いて好きなようにさせてやることにする。いい加減、彼の子供染みた独占行動にも慣れていた。既に明け方に近いだろうが、朝食を作るまではまだ寝られる。ここで一々争っても眠気が無くなるだけだろう。


 リリムは既にシュルトという吸血鬼に対して達観しているというよりはむしろ諦めていると言ってた方がいいのかもしれない。レブレが言ったように、シュルトの理性の箍はもはや完膚なきまでに己の血で破壊されているのだと彼女は理解していたからである。彼の頭の中にあるのはもう自分のことで一杯なのだ。それが空回りし過ぎている点については笑えないが、それでも少しだけそのあたりが犬チックで可愛らしいと思えるようになっていた。それはできる女の余裕という奴であった。


 冗談で足を舐めろと言って切って見れば、躊躇せずに舐めに来る。一瞬の迷いも見せなかった時点で、調教がどうのこうのという問題ではもはやない。血に完璧に屈服しているというか、お腹を見せて構ってくれと甘えてくるペットのようである。


「お休み」


「はいはいお休みお休み」


「最近思うのだが、私の扱いがぞんざいではないか?」


「十分に優しくしてあげてると思うけどね」


「ではその証拠を見せて欲しい。主に血液言語で」


「駄目。ペロペロは一日一回だけって約束でしょ」


「今日の分があると思うが」


「じゃ、今夜は無しね」


 笑顔で言い放つと、シュルトが沈黙。お預けを食らわされている犬のような顔で押し黙り葛藤する素振りを見せる。高々血だが、されど血。数秒ほど悩んでから搾り出すような声で言った。


「お休みリリム」


「よしよし、よくできました」


 言いながら、リリムがシュルトの頭を撫でる。今度こそシュルトの顔が情けなく歪む。


「……私は我慢を知らぬ子供か」


「似たようなもんじゃない。一日一回の約束を破ろうとした癖に」


「むしろ、約束を破るのは大人だぞ」


「悪い大人は嫌いよ。シュレイダーはどっちかなぁ」


「……さて、寝るとしようか」


 誤魔化すようにそう言って毛布をかけてくるその男。やはり独占欲を隠そうともせずにそのままリリムを抱くようにして寝始める。いつものことだ。彼女はもう、抵抗せずにそのまま寝ることにしてその紅眼を閉じた。




 






 帝国領の最東にレンドール公爵領がある。王領を除けば貴族の領地としては最大規模を誇るその領地は、西の大山脈から遠いせいか魔物の数がかなり少ない。元々東側は魔物が少ないという話しを聞いていたシュルトは、最東の山を拠点にすることにしていた。当然だが山に住むとしても危険な魔物や野生動物がいる。


 そこで竜であるレブレが魔法でダンジョンを構築した。とはいえ、誰もが気軽に入れるようなものでは当然ない。入り口は谷間の絶壁に設けられており、飛行できるものでなければ容易にはたどり着けないようになっている。仮に辿りつけたとしても、その奥にあるダンジョンは登録されている者以外を排除するゴーレムやガーゴイルによって阻まれる。元々魔法が趣味のシュルトと、巣作りのためにダンジョン作りが出来たレブレ。この二人が組んだことで、ダンジョンは馬鹿みたいな防衛能力と広さを得た。リリムとサキに作り直しを要求されるほどに。


 その最奥には、当然のように四人の家がある。とはいっても元々はリリムの家である。それを無理やり置いてあるといった風情だ。おかげでダンジョンとのミスマッチ感が凄すぎるが四人はもう気にしてはいなかった。


「レェブゥレェェェ!」


 シュッと空気を引き裂きながら振るわれたミスリルウィップの先端がレブレを痛打した。途端にライトエンチャントによって得た魔力が魔法障壁の上で爆裂する。並の鎧なら砕け散るほどの衝撃。しかしレブレの魔法障壁は揺るがない。リリムもそれを知っているからこそ容赦はない。すぐに手首を返して鞭を振り回し滅多打ちにする。触れれば接触点から光を上げて爆裂する鞭の連打だ。常人なら一撃喰らった時点で体が弾け飛ぶだろう。仮に大仰な盾で防いだとしても何度も何度も打ち据えられては無事で済むはずはなかった。


「わわっ、もう勘弁してよぉ」


 執拗に打ち据えてくる鞭の猛威から逃れるべく少年姿のレブレは全力で逃げ惑う。しかし、相手はエプロン姿の女王様である。つまみ食いなどという悪行は許されない。


「こらぁぁっ、何度言ったら分かるの!」


「竜の辞書には我慢っていう文字はないんだもん!」


「まぁ、基本的には食っちゃ寝するか財宝を集めるかしてる連中だからな」


 追い回されるレブレを見ながら、同じくエプロン姿のシュルトがしみじみ呟く。リリムの手伝いをしていたようで、野菜と包丁を持ったまま外を走り回る二人の姿を眺めていた。


「レブレも懲りませんね」


「竜だからな」


 神にも悪魔にも屈しないアウトローである彼らは、ある意味で生態系の問題児だ。年老いて強大な力を得た者に限られる特権ではあるが、その性質はどうやらレブレにも備わっているようである。果敢に調理中に忍び寄っては調理された肉をつまみ、リリムに追い回されるのを繰り返す。


「案外、ああして遊んでいるのかもしれないが……あの分だとまたお仕置きされるぞ」


「また鱗剥がしの刑ですか」


「あいつのは高く売れるからな」


 翼竜――ワイバーンなどよりも更に頑丈であるためにその需要は高い。元々討伐指定級の中でもかなりの力があるのが竜である。リスクが高すぎて市場にもあまり出回らない。レブレが涙目になるぐらいの被害で大金が手に入るのだからよくリリムがお仕置きと称して毟り取っていた。後で彼女が奇跡を使えばすぐにでも生えてくるので実害は剥ぐときにレブレが感じる痛みぐらいだ。泣き叫ぶドラゴン姿のレブレを思い出しながらサキは視線を戻す。その目は妙に優しかった。


「リリムも……見た目は変わらずとも随分と逞しくなりました」


 元は十メートルを超える竜を相手に平然と鞭をくれる少女である。これを逞しいと表現する以外どうすればいいのかがサキには分からない。本人は子供の躾けみたいなものだと言い張っているが、明らかに調教の一環である。


「まだまだだよ。やはりあと一年は欲しい」


「地脈とかいうパワースポットの調査のために、ですね」


「そうだ。複雑に地面の下を巡っているのは教えたと思うが、その中で特に力が溢れている吹き溜まりのような場所をそう呼ぶ。この国で一番巨大なのは西の大山脈であり、あの結界や魔物の召喚もその力を利用しているものと推測される。……半信半疑ではあるがな」


 地脈に流れるのは魔力だ。であれば、シュルトには結界やら召喚が感知できて当然なのだがそれができない。その謎はいまだに彼にもレブレにも解けないでいた。


「魔法体系から逸脱していると考えるべきなのかもしれん。こうなると、とっかかりがない分大変だ。加えて、調べるにしても魔物が邪魔だ。あいつらはリリムを見ると狂ったように狙ってくる。私やレブレの火力を超えてこられれば厄介だ。リリムの奇跡にも限界はあるから強くなってもらうしかない」


 一日にそう何度も奇跡を行使することはできない。彼女の力が召喚者にとっては脅威である以上は、対峙した場合のために温存しておかなくてはならない。


「しかしいいのか? 君は付き合わなくても良いのだぞ」


「そこに魔物のルーツがあるというなら、知りたいと思います。対処法さえ理解できれば空元から魔物を駆逐することもできるでしょう。その情報が手に入るかもしれないのですから協力は惜しみません」


 一年、シュルトやレブレから異界の魔法を学び、リリムには土着魔法と言葉を習った。その借りぐらいはサキは返しておきたかった。無論、話したことも本心ではあるものの、ここまでくれば一つの結末を知りたいと思っていた。


――神祖の吸血鬼シュルト

――啓示の緑竜レブレ

――穢せぬ聖女リリム


 空元風に言えば血を吸う鬼、物の怪とも神とも呼ばれる竜の子供、そして不浄を祓う巫女と言った珍妙なる組み合わせだ。それはまるで荒唐無稽な御伽噺のようにもサキには思えた。


――もしこれが御伽噺であるなら、自身に課せられた役柄とは何なのか。


 サキは商家の次女であった。成さなければならない役柄があるとすれば、それはきっと矢面に立つことではないと漠然と感じていた。元々求めていたのは魔物退治のノウハウであり情報。ならば天が与えた配役とはつまり、彼らのことを語り継ぐことではないのかと、そう彼女は思わずにはいられない。


 父を殺されたのも、奴隷商人に売られそうになったのもきっと、この三人の成すことを空元に語り継ぐため。そんな風に考えてしまうのは父の死について未だに納得がいかない心がそうと思わせるのか。


「捕まえたわよレブレ。今日という今日は許さないんだからね」


「ひぃぃ助けてよ魔法卿!」


 鞭で足を取られて倒れたところに馬乗りになり、後頭部を光る拳骨でポコポコと連打する金髪少女。魔法障壁のせいでまだレブレは無傷だが、まるで小さい子を苛めているいじめっ子のような光景である。


「反省の色がまったくみられないわ。こうなったら今日から一週間お肉抜きね」 


「そ、そんな横暴だよぉ」


 肉食の竜であるレブレにとって、それは間違いなく拷問である。


「貴方は今日から菜食主義なベジタリアドラゴンに生まれ変わるのよ」


「無理無理。魔法卿が非処女の血を吸うぐらい無理だからそれ!」


「……さすがにそれは可哀想ではないだろうか」


 見かねたシュルトが仲裁に入るも、目が据わったミニ女王様には通じない。


「じゃ、連帯責任でシュレイダーもペロペロなしね。もういっそのこと私以外の血を適当に吸ってきなさいよ。二人揃って好き嫌いを直す良いチャンスだわ」


「レブレ、とっておきの野菜サラダを作って待っているから早く反省するようにな」


「変わり身が早すぎるよ魔法卿!」


 家の中に戻って行くシュルトの背に、レブレが涙目で訴える。彼にしても背に腹は変えられない。やがて縋るような目がサキへと向けられる。彼女は頷いた。


「好き嫌いする子供は大きくなれない。がんばれ」


「そういう問題じゃな――って嗚呼、サキも僕を見捨てたぁぁ!?」


 悲鳴を背中で聞きながらに家に戻って行くサキは思った。さすがに、こんな情けないところは語り継がないようにしよう、と。





 朝は言葉の勉強と魔法の勉強。そして昼からは実戦訓練である。訓練前にリリムとサキは『気増演舞』なる動きをやることになっている。動きやすい服装で武術の型のような動作を丁寧にゆっくりと行っていく。


 それは内気魔法のための鍛錬であると同時に、柔軟も兼ねているそれは生物が持っている生命力――オーラを増やす効果がある。素質がある者ならば継続的に訓練することでその力に開眼し、主に肉体の内側に作用する力を行使出来る。優れた使い手は身体能力を強化したり、それを纏って攻撃することで常人を超えた力を発揮することができる。代償として気を消耗するが使えるようになれば継戦能力が飛躍的に上昇する。


「すぅぅはぁぁぁ」


 動作を交えて深呼吸をするなかで、少しずつリリムの体から白い光が漏れ出しくる。元々命の力は聖なる力であり光に類似する性質を持っている。聖女としての特質を持つリリムとの相性は抜群である。しかし、彼女の場合は気が常人とは違っていた。シュルトが『聖浄気』と名づけるほど澄み切ったその気は、呆れるほど質が高いエネルギーを内包している。奇跡を行使するための燃料になるその力の研磨は、彼女にとって優先度が高い訓練項目だ。サキももう少しでコツが掴めそうな気はしていたが気を操ることはまだできない。それでもいつかできるようになると信じて黙々とリリムと一緒に汗を流す。


「いい感じだね。二人ともそのままそのまま」


 レブレが竜眼で観察しながら同じく動作を繰り返す。彼には二人の気の流れが見えるので、順調に気が増幅されているのを楽しげに見守っていた。


 その頃シュルトはといえば、ダンジョンを出て入り口に干してあった洗濯物を取り込み洗濯籠一杯に乗せて戻ってきていた。それを訓練している三人が見える位置に設置した木のテーブルの上に乗せ、畳む作業に勤しんでいる。魔法で浄化すれば汚れは落ちるが、それでもやはり天日で干した方が着心地が良い。初めは自分の分は自分でするようにという家主からのお達しだったが訓練の効率が悪いので何時の間にかシュルトがやるようになっていた。


 気増演舞が終れば実戦訓練だ。レブレやシュルトを相手に二人が学んだモノをぶつけて行く。二人とも生半可な魔法では敗れない程に強固な魔法障壁を持っているし直撃しても早々簡単に死ぬような体ではないため、サキもリリムも全力で攻撃する。それが終れば自由時間だ。各々が思い思いに過ごしていた。


 レブレはよく夕方に空に出ては獲物を狩り、サキは基本的には訓練を続ける。そんな中リリムはといえばシュルトと共に食料の買出しに出ることが多い。魔物のいない街中であればリリムも外を歩ける。グリーズ帝国中を調査するために夜中に飛び回っているシュルトにとっては、様々な街や村を一緒に巡る一種のデートであり、帝国や他国の噂話を収集するためにも欠かせない日課となっていた。


「――の国は勇者様で、教会の総本山は聖女様だとさ」


「ここ最近になって召喚したっていう国が多いよなぁ。何かの前触れかな」 


 帝都ゼルドルバッハの往来で、噂話に花を咲かせる商人たち声が聞こえてきた。リリムは少しばかり足を止め、シュルトの外套を引っ張った。


「ねぇねぇ、あんなこと言ってるけど興味ないの?」


「ないな。この前に聞いた街一つ滅ぼしたとかいう人面魔獣の方がよほど気になる」


「魔獣なんてどうでもいいわよ。それより聖女よ聖女」


「自称聖女など、自称勇者と同じぐらい世の中にはごまんと居るがな」


 シュルトにとっては二つ名や称号的な意味合いでしかない偽者になど興味はない。勿論、成果あっての異名ではある。しかし事実として彼が定義する聖人にカテゴリーされない限りは興味など湧いてこない。血や奇跡の力で証明しない限りは彼にとってはどうでもいいのだ。


「噂されるほどだからそれなりに力はあるのだろうが、だからどうしたという話しでしかないよ」


 彼の住んでいた世界とはまた違う異界から召喚され、強力な魔法でも携えている可能性は勿論ある。もっとも、本人の意思に関係なく勝手に祭り上げられているだけという可能性もあるだろう。今の所出会う可能性は皆無であるからやはり彼は気にならなかったが。


「確かめに行かないの?」


「君だけで私は満足しているからな」


「……本気で言っているから性質が悪いのよねぇ」


 この男に愛はない。あるのは食欲ただ一点。だがそこに並々ならぬ熱意と本心があるから困るのだ。しかもそれを自覚しながら隠さずに曝け出してアピールしてくる。それこそ愛にも似た食欲でもって。


(おまけに気持ちは後からついてくるから問題ないとか真顔で言ってくるしさぁ)


 左手の指に嵌った指輪にかけられたマーキングとやらも、今なら奇跡を用いて解呪できる。訓練中に制御できずに無作為に解呪していた頃にはそれこそ毎日のようにマーキングをやり直されたが、それに抵抗もしなかったのはある意味リリムの落ち度である。なんだかよく分からないうちになし崩し的に打ち解けている現状こそその証明。それを自覚する度に複雑な気分になるリリムだった。


「ねぇ、シュレイダー。貴方は結局私をどう思ってるのよ」


「食べてしまいたいぐらいに想っている」


「正直すぎるわっ!」


 せめてオブラートに包めばいいものを直球でぶち込んでくる。吸血鬼とかいう生き物は本当に訳が分からない。顔を違う意味で紅く染めながら、リリムは手を振り解く。そうしてシュルトの腕を両手で抱くように身を寄せてから指でギュッと抓ってやった。


「地味に痛いぞ」


「我慢しなさい。ところで、今日は何処にいくつもりよ。食料はまだ余裕あるから買うものなんてないわよ」


「まずはギルドだ」


「また換金?」


「それもあるが、サラレスがな。私に会って欲しい人物がいるそうだ」


「ふーん」


 怪訝そうな顔をしながら、しかしリリムは興味本位で同行した。






「おっ、来たな旦那」


 五つ星レベルのベテラン解体職人サラレスは、やってきたシュルトの姿を見て仕事中の手を止めた。すっかり解体職員たちに顔を覚えらている彼を知らない者はこの職場にはいない。かつて程に魔物を下ろすことは無くなってはいたものの、相変わらず沢山の仕事をくれるシュルトは大事な金蔓であったからである。


「とりあえず今日の分だ」


「あいよ。これが昨日までの金だ」


 影の中から現れて行く魔物の死体を横目に、サラレスが金の入った袋を投げる。シュルトは中身を確認せずに受け取るとリリムに差し出した。


「んー、今日もたっぷりね」


 袋に嬉しそうに頬釣りする少女が、大事そうに袋を仕舞う。金の大事さを知っているリリムにとっては純粋にお金が溜まるのは嬉しかった。ホクホク顔を見せる彼女に、シュルトも満足そうに口元を緩める。その様子を見ていたサラレスは、相変わらず凸凹コンビのままの二人に苦笑する。


「今日も仲がよろしいようで」


「うむ。私の稼ぎを見れば文句も出ないようだ。円満の秘訣だな」


「ははは。そりゃあんだけ稼げたら大抵の不満は消し飛ぶに違いねーよ」


 愛想良く笑った後、彼はシュルトが出した魔物を見下ろしながら一度周囲を見渡す。そうして、徐に作業服のポケットに手を突っ込むと紙切れを取り出してシュルトの肩に腕を回した。背後からは仲の良い男たちが冗談を言い合っているように見えただろうか。シュルトは無言で差し出された紙を受け取ると懐に手を伸ばし手仕舞いこみ、すぐに財布を取リ出した。


「今日も多いが換金の方は頼むぞ」


「あいよ。おい野郎供、また我らが金蔓様が飲み代をくれたぞ! その分、仕事も多いがなっ!」


「「「「あざーっす!」」」」


 手を止め、職人たちが礼を言う。煩いほどの声量だが、職人たちの顔には笑顔があった。既に頭の中では酒のことを考えているに違いない。


(男ってどうしてこう酒に弱いのかしらねぇ)


 冒険者の父もそうだった。飲みすぎて母に怒られ、それでもやっぱりまた同じことを繰り返す。こういうノリは好きではなかったリリムは、どこか憮然とした表情でシュルトの手を引く。


「もう用はないでしょ」


「ん、ではなサラレス」


「まいど。また来てくれよ旦那」


 職人たちに見送られながら、二人はギルドの中へと入る。内部の人間で目聡い者はシュルトを見つけて冷や汗交じりの視線を送ったが、シュルトは意に返さない。完全に無視して掲示板でフリーの依頼や討伐指定級の獲物の情報を確認してから外に出た。


「ねぇ、気のせいかもしれないけど少しずつ冒険者が減ってない?」


「大山脈の結界のせいだろう」


 大侵攻がピタリと止み、出現する魔物の数が減ってきていた。そのせいで稼ぎが減っていることもあって冒険者たちは遠征し、山脈付近までいく者も多い。腕に自信のある者たちなどは突破された防衛線の向こうにキャンプを張り活動していた。


「そろそろ国は前線を押し上げたりはしないのかしら」


「そう簡単な話しでもあるまい」


 山脈の結界はあくまでも帝国の思惑の埒外にある。いつそれが無くなるかも分か分からない以上、少しずつ拠点を強化していきたいという思惑が透けて見える。また、市井にまでまことしやかに語られている東西の確執。その根の深さが安易な選択ができないように縛り付けているようにもシュルトには感じられた。


 帝都の近くに防衛用の軍隊が居るということは、逆に言えば帝都で何かあれば有事の際には素早く兵を動かせるということでもある。それらに加えて召喚の噂だ。より複雑に絡み合っているのであろうことぐらいは読み取れた。


「それで、どこで会うの」


「確認しよう」


 言いながらシュルトは懐に仕舞いこんだ紙切れを取り出して文面に目を走らせる。特に長文が書かれているわけではなく、場所と合言葉が書かれている程度だ。思わずシュルトは舌打ちする。


「ハニードロップに行くぞ」


「反対方向じゃない」


「だな。サラレスめ、人目につく場所を選んでどういうつもりだ」


 内容についてはシュルトは知らない。ただ、「俺の顔を立てて先方と会って欲しい」と言われたからこそ時間を割いた彼からすれば少し杜撰なように思えた。或いは、警戒する相手ではないということなのか。


 解体職人にして気が回るあの男はギルドの噂話をなどをよくシュルトに聞かせてくれる。ギルドの監査官が張っていた時などはそれとなく忠告もしてくれたりと、話しの分かる男だった。案外厄介ごとではないのかもしれない。


「まぁいいじゃない。久しぶりにサキたちにお土産持って帰ってあげましょ」


 少女に急かされながら、シュルトは道を引き返した。





 喫茶店『ハニードロップ』。帝都では女性に有名な、甘いお菓子がうりの店である。夕方であるせいか昼間の賑わいと比べれば静かだった。それでも人気店であることは変わらないらしく、客足が完全に途切れるということはない。


 二人がドアを開けて入るとまずはカウベルの音で迎えられた。ガラスがふんだんに使用されているせいで店内は明るい。それでいてどこか落ち着く木製のテーブルや椅子はどこか素朴な安心感を客に与える。一線を引退したという見目麗しいエルフの女性冒険者が店長であり、男女問わず店内には人が居た。


 迷わずカウンター席に向かい席に着くと、エルフの店長が他のウェイトレスの代わりに注文をとりに来た。その足取りは明らかに重い。断じてエプロンの下に着けている青い軽鎧や腰元のレイピアが重いわけではない。愁いを帯びた白磁の肌が更に白いように見え、いつもは男供を魅了する大人な笑顔に影がある。加えて、どこか凛々しくも見えると評判の瞳も精彩を欠いていた。明らかに変だった。


「ご注文は?」


「店長涙目だ」


「……やっぱり、貴方がそうなのね」


 シュルトが合言葉を言うと諦めたかのような表情を浮かべた。客商売だというのに明らかに顔からは笑顔が消えたことを流し、先を促す。


「それで、私に会いたいと言うのは誰だ」


「私よ」


「ほう」


 金髪流麗のエルフ店長――ライラ・ウル・レル・ミラ。元々冒険者でもあるから解体職人のサラレスと繋がりがあってもおかしくはない。しかし、シュルトをどこか避けるような相手だったはずだった。理由は既に二人ともが知っていた。シュルトがまったく魔力を隠さないせいで、感受性の高いエルフとしての感性が無意識に警戒してしまうのだそうだ。それは冒険者時代に体で覚えた危機感知能力がもたらした職業病のようなものだった。


「腕の良すぎるフリーの冒険者が居るからって、あの子がセッティングしてくれたんだけど……ね」


「苦手なシュレイダーが来ちゃって不満だ、と。あ、ケーキセット頂戴」


「私も同じのを」


「ええ」


 数分後、一端離れていたライラが用意して持ってくる。蜂蜜がたっぷりと掛かったパンケーキとコーヒーのセットだ。二人はそれに鼓舞を打ちながら話しを聞くことにした。


「何から話したらいいかしらね。そうね、エルフの魔法については知ってるかしら」


「精霊魔法だな。基本的には人間には使えないのだったか」


「ええ。よほど感受性が高い人でなければね」


 土着魔法の中でも攻撃力に関しては群を抜く魔法だ。賢人と呼ばれる人間が開発したものではなく、エルフたちが太古に得た秘儀でもある。魔力でもって精霊を直接召喚し、その力を貸してもらうのが精霊魔法。精霊とは自然界の力の象徴であり、具現化された想念の結晶、あるいは擬人化された非実体の存在に近い。要するに神格化された自然現象が意思を持ったとでも言うべき存在だ。これはシュルトの居た世界とも酷似しており、世界間で共通する考えでもあった。


「それで、その精霊魔法がどうした」


「ここ百年程、精霊たちが目に見えて弱体化していっているのだけどね。この数ヶ月でまたガクッと急激に弱体化したの」


 魔力でもって精霊を呼び出すという形式から推察されるように、精霊と魔力は密接な係わり合いがある。斬っても斬れない関係とでも言うべきか。シュルトはすぐにそれを察した。精霊たちに供給されるべき魔力量の減少こそが問題なのだろう、と。


「理由を調べて欲しいとでも?」


「それも含めて、問題の解決をお願いしたいわ」


「無理だ」


 シュルトは間髪居れずに答える。


「そもそも話しが大きすぎる。世界規模で憂うべき問題だ。個人でどうこうするレベルではない」


「私もそう思うわ。でもね、彼らが言うのよ。これまでで一番魔力が豊富な者に協力を願えと。彼らは世界中のどこにでも居る。性質に差はあっても無知ではない。だからその言葉には意味があるのだと思うのよ」


「……それで私か」


「今日ここに貴方が来たのは私の範疇外ではあったわ。あの子が押すほどの特異な魔法とやらが気になって繋いでもらったのだけれど、今のところ貴方が最高クラス。この前一緒に来てたボーヤも大概だったけど貴方はそれさえも凌駕している。ううん、寧ろこの前よりもまた更に強大になっているようにも見えるわ」


「ねぇ、その精霊っていうのが弱くなったらなんで困るの?」


 パンケーキを食べるのを止めてリリムが問う。彼女からすれば素朴な疑問であったに違いない。


「精霊は自然の代弁者でもあるのだ。彼らに異常が生じるということは現実の自然にも影響が出るということだ。例えば、大雨が降るとしよう。その大雨に異常が生じていつもの十倍の雨が降ったとしたらどうだ。或いは雨が一切降らなくなるのでもいい」


「それ、けっこう大変な問題じゃない」


「極端な話しはあるけれど、あながち外れてはいないわ。現に異常に砂漠化が進む国もあるし、逆に森林が増殖する地帯も出てきていると旅のエルフ族から聞いてるの。でも、誰も原因が分からないのよ」


「精霊はなんと言っている」


「彼らも首をかしげているわ。魔力が何故か減ってるって。この近くだと西の大山脈付近でそれが顕著らしいの。おかげで空腹で気が狂う精霊が増えてるわ」


「ほう」


 シュルトが相槌を打ちながらコーヒーを飲む。一拍の間。生じた間隙に隣のリリムを見れば大口を空けて再びケーキに挑んでいた。随分と幸せそうな顔である。吸血鬼はなんとはなしに皿に盛られたケーキにナイフを通し、フォークを突き刺す。そうしてたっぷりとかけられた蜂蜜を絡めて口に運んだ。


 口に広がるふんわりとした感触。その後には口内に広がる蜂蜜の甘味が広がって行く。やがて甘さに飽きれば際立つようなコーヒーが待ち構えている。金を出して通うだけの価値はある――などと正直な評価を下したところでリリムが言った。


「もっと美味しそうに食べたらどうなのよ」


「十分に美味いと思うが」


「そういう顔してないもん」


「ふむ。では、どういう顔をすればいいか教えてくれ」


 フォークを切り分けたケーキに突き刺し、シュルトはリリムの口元に差し出す。


「……」


「どうした。ためらうことはないぞ。パクッといくといい」


「貴方、女の子の扱いがなってないわね」


 見かねたライラが呆れたように口を挟む。しかし、彼はそのままフォークを退けなかった。リリムの視線がパンケーキとシュルトとを往復する。そこには目に見えるほどの葛藤が見て取れる。やがて少女が諦めたかのような顔で喰らいついた。


「やっふぁりおいひい」


「うん。いい表情だ」


 あーんをされる照れ臭さよりもケーキを取ったリリムは正直だった。その蕩けるような笑顔を満足そうに見届けてから、シュルトはライラに向き直る。するとライラは眉間を押さえていた。


 男への恥じらいよりも食い気に走った少女の行動の意味を教えてやるべきか、それとも無駄に満足そうな男の勘違いを責めてやるべきかが悩ましい。結局、彼女は見なかったことにした。


「そういえば、結界が張られたそうだけど何か関係があるのかしらね」


「それはあるだろう。しかし意外だよ。精霊にもアレが分からんとは。事態は思ったよりも深刻なようだ」


「その口ぶり、何か知ってるのね」


「隠すようなことでもないから言うが、おそらくは召喚魔法の影響だろう」


「やっぱりそういう結論になっちゃうか」 


「召喚魔法とやらは魔物だろうと人だろうと異界の存在を召喚するものだと私は推察している。これに莫大なエネルギーが使われていることは想像に難くない。それが魔力だというなら納得できる話しだしな」


「でも、それなら精霊はそう明言するはずなのよ」


「そこが私も納得できない。だからきっと魔力を変質させる何かがあるはずなのだ」


「何かって……何よ」


「それを定義する言葉を私は知らないが、とにかく何かがあるのだ」


「百歩譲ってその何かが在ると仮定して、よ。結局はどうすればいいのかしら」  


 カウンターから身を乗り出すような勢いでライラが尋ねてくる。人間よりも精霊が身近であるために他人事ではないのだろう。その必死さに免じてシュルトは答えた。


「術者ないし代行装置を潰すか、世界中の地脈を利用できないように封印するしかあるまい」


「簡単に言ってくれるじゃない。どっちも大変よ」


「しかし他に方法はない」


「そもそも精霊にだって術者が特定できていないんだけど?」


「なら地脈を封印するしかない」


「今の召喚隆盛の情勢で? 無理じゃないそんなの」


 魔物の出現が止まるかもしれないとはいえ、それだけではもう理由が弱い。仮に出来うる限りのパワースポットを封印したとしても、完全に全てを閉じられなければ意味がない。中々に無茶苦茶な条件であると言わざるを得ないだろう。


 身を乗り出していた店長が頭を抱える。彼女自身にも分かっていたのだ。それでも特異な魔法を使う者とやらに話しを聞きたがったのは、少しでも前向きな話しが聞きたかったからだ。


「各国の思惑は問題ではないよ。結局はやるかやらないかだ。こんな風にな」


 店長から視線を逸らし、シュルトは残りのパンケーキにフォークを突き刺す。そうして流れるような動作でリリムの口元へと運ぶ。少女は怪訝そうに眉を寄せるも、彼はやはり微動だにしない。


「この子の蕩けるような笑顔が見たければ、こうして行動しなければならない。道理だろう?」


「ものすごく葛藤してるみたいだけどね」


 だが、結局少女は敗北した。パクリと喰らいついては笑顔を浮かべるのがその証拠である。ダンジョン暮らしが長いおかげでお菓子は貴重だ。このチャンスを逃すほど彼女は愚かではなかった。リリムは見栄よりも実を取る性格なのだ。


「だが私は行動し、こうして結果を手に入れたわけだ」


「ううっ、悔しい。でもこの口内に広がる甘い幸せには抗えない!」


「……例えはアレだけど、言いたいことは分かるわ」


「それは良かった。ならば犯人をおびき寄せる手段を伝授しよう」


「あるというの? そんな方法が」


 驚きと共に、再び身を乗り出してくる店長。そこには今日始めて憂い以外の感情があっただろうか。


「単純な手段だが、パワースポットを封じることで妨害できる可能性は君も理解しているとは思う。ならば召喚することで何かを成したい犯人は必然的にその行動を防がなければならないわけだ。だったらこちらの施す封印を解除、或いは妨害するために本人か部下が派遣されてくる可能性は十分にあるとは思わないか」


「それは、そうかもしれないわ。でも危険よ。国絡みだけじゃ絶対に済まない」


「しかし現状ではこれしか手がない」


 精霊にも犯人が分からず、召喚の原理や目的さえも未だに不明。そんな相手を燻り出す手段など現状ではこれしかない。確かに相手が無視したらそれまでだ。しかし、ならばいっそのこと世界中のパワースポットを封じるぐらいの気構えで当たればいい。そうすれば最低でも魔力を消費させない態勢が構築できる。


 また、封印すると言っても魔法的な儀式に使用できないようにするだけだ。地脈それ自体は自然界と直接繋がっているからパワースポットが封印されようが関係は無い。地脈の流れを塞き止める類の封印でなければ悪影響は出ないのだ。


「結局はやるかやらないかなわけだ。好きなだけ悩んで動きを決めてくれ」


 そう締めくくると、彼はまたリリムにパンケーキを突き刺したフォークを差し出した。もう少女は迷わない。遠慮なくあーんの罠の餌食になった。






「シュレイダーも結構意地悪よね」


 カウベルの音が響く。その音色を背に店の外に出るなり少女が言った。


「どうせなら私たちが一年後に大山脈に挑み行くって教えてあげればいいのに」


 彼女はお土産用にテイクアウトしたケーキの袋を大事そうに抱えながら、どこか攻めるように見上げていた。シュルトは頭を振るって答えた。


「そうなると彼女は店仕舞いをしてしまうかもしれないぞ。それは君が困るだろうと思ったのだが……言った方が良かったか?」


「なぬっ!」


 予想もしていない理由を突きつけられたせいで、少女の顔が「げっ」という顔になる。ハニードロップのお菓子を気に入っていた彼女にとっては、うめき声の一つも上げたくなる惨事だった。


「とはいえ今日の会話は有意義ではあったな。精霊に悪影響が出る程の事態だとは思っていなかったんだ。これは予定を繰り上げる必要があるかもしれない。万全を期したかったのだが……」


 彼の予定ではあくまでも挑むのは来年。リリムとサキが上級の魔法まで完全に習得することが前提であり、それを前倒しにするのは些か悩ましいところだった。教導のペースを上げて対応することは可能だが、付け焼刃では挑みたくなかった。


「ままならないものだ」


「ほんとよね。お菓子を取るか話して味方にするかの二者択一なんて、本当に酷い選択肢だわ」


「……それは別に問題ではないのだがな」


 憤慨する少女の悲壮な声が、往来の喧騒に飲み込まれた。











「お休みー」


 夕食が終れば、特にすることはない。お風呂に入り終えたレブレが家の外に消えて行く。偶に家の中で寝ることもあるが、人間の少年姿で寝るよりは竜としての姿で寝たいらしくリリムの家のすぐ近くに作った寝床で寝ていた。番犬ならぬ番竜である。これなら泥棒が来ても安心である。もっとも、このダンジョンに侵入してきた人間は皆無であるため必要かどうかは謎ではあったが。


「では、私もそろそろ部屋に戻りますね」


「ああ」


「お休みなさい」


 明りの魔法である光玉を頭上に浮かべ、サキもまた自分の寝床へと移動する。とはいっても、真面目なサキが部屋の中ですぐに寝るとは二人は思っていない。


 元はリリムの部屋だったそこは、今ではサキの部屋として利用されている。しばらくはシュルトに借りたリングルベル王国時の教科書で魔法について勉強するだろう。空元の人間が真面目なのか、それともサキの目的意識がそうさせるのか。リリムには分からなかったが、一所懸命なところには素直に好感を持っていた。だからこそ――、


「さて、私たちも寝るとしようか」


 それを合図に忍び寄ってくるシュルトの姿が余計に駄目に見えてくるのである。もはや毎晩のことだったが、その度にリリムは深いため息をしてしまう。勿論シュルトはそんなことは気にしない。リリムを両手で優しく抱き上げて部屋へと運ぶのだ。まるで本当の花嫁のように。


「もう、堪え性が無いんだからぁ」


「できれば四六時中味わいたいというのが本音だよ」


「そんな本音、無くしたらいいのに」


「その時はきっと私が死ぬときだよ」


 元は両親の寝室だった部屋。今ではそこが二人の部屋になっていた。二つ用意されているベッドの一つで下ろされたリリムは、シュルトによって全身に浄化魔法を掛けられる。そうして、埃も垢も何一つ無い体にされた上で同じく清められたナイフを渡されるのだ。


 鞘から抜き放たれた鈍い輝き。生半可な覚悟では普通、それで肌を傷つけるなんてことはしない。というよりはできないだろう。一千百四十万リズ分の代価だと思うことで初めてそれをする気になるというのが、正直なリリムの気持ちであったはずだった。


(なんていうか、最近は抵抗感がまるで無くなってるのよねぇ)


 彼女がチラリと視線を向ければ、吸血鬼が今か今かと待ちわびている姿が見える。慣れとは恐ろしいものだった。もはやマインドセットさえ必要としないレベルで彼女の意識が切り替わるのだ。ただの少女を逸脱し、『吸血鬼の花嫁』など呼ばれる儀式を受けた彼のつがいとして、その義務を果たすために。


 右手に握ったナイフが動く。刃は肌に触れるか触れないかのところで滑るように動いて行く。同時にシュルトの視線もそれを追随する。左手の肘の上から手の甲、指先まで進んで一度止まり、掌を反転させて、逆にまた手を遡る。肩を通り、首筋を切ると見せかけてまだ発達していない胸へ。その動きはパジャマの上だろうがなんだろうが関係はなかった。その日その日で斬ろうとする場所を変えてその部位を切る。その間は完全に待てである。これは暗黙の了解でいつの間にか二人の間で築かれたルール。どうやら今日は上半身な気分ではないようだった。ナイフの切っ先は更に下がって行く。


 細い太ももを通過し、柔らかなふくらはぎへ。まるで劣情を誘うような悩ましさがそこにはあっただろうか。知らず知らずの内にかつての職場で覚えた技能が出ていた。それは視線を誘導するための蠱惑的な仕草であったり、悩めかしい動きであり、相手を支配するための誘導である。だが同時に、それを完璧にするには相手を理解する必要があった。


 相手の考えを読み、声に出ない願いを聞き、最も望む部位を理解した上で与えてやる。それができて初めて相手は彼女を信頼し、全てを委ねてくるようになるのだ。少しずつ少しずつ、遅効性の毒が全身に浸透するかのように積み重ねて行く。それはまるで信頼という鎖で繋ぐかのようだった。


「つっ――」


 ナイフが左足の親指を浅く切った。切り傷に滲む血が、じんわりと赤く肌色の上に雫となって零れようとする。それを尻目にナイフを浄化すると、鞘に仕舞う。そうして、少女は足を差し出した。


「いいわ。おいでシュレイダー」 


 その声色の艶は、果たしてただの演技なのか。もはやシュルトには判別がつかない。魅了<チャーム>の魔法でもかけられたかのように熱を持った思考は、既に限界に近かったのだ。左足に手を伸ばし、まるで宝物のようにそっと抱いて躊躇無くその親指に口付けた。それは姫の手に口付ける騎士ではなく、ただ忠誠を誓う従僕のようにも見えただろうか。その瞬間、少女の背中を間違いなくゾクゾクした何かが去来する。言葉に出来ないそれが何なのかを、リリムは知らない。知りたくも無い。断じて、認めることができない。


 吸われる指先が妙に熱い。やがて、血をより求めるべく動く生暖かい舌が傷口を滑る度に痛みが奔るようになると、役々その感覚が強くなる。それを誤魔化すために、夢中になっている彼に問う。


「ねぇ、そんなに私の血って美味しいの?」


「ああ」


「相変わらず考える時間なし? ほんと、変態さんだよねぇシュレイダーはさ」


「指先を選んで舐めさせている君が言うのか」


「貴方の場合どこでも関係ないじゃない」


 手でも足でも肩でも首筋でもお腹だろうと関係がない。血さえ流れていればどこだってペロペロと舐める。この一年、シュルトが躊躇したところをリリムは見たことがなかった。


「他でもない君なら部位など関係ない。どこだって舐めとって見せよう」


「変態」


 極めて真面目に本気でそうのたまう男に、少女は躊躇なく蔑みの言葉を投げかける。返答は舌先で来た。熱の篭った目のままで、傷口が味われていく。その感触が痛みと共にくすぐったさを彼女に与える。


「んっ」


 自然と漏れる声。それに気づいてシュルトは少しだけ傷口を舐めるのを止める。


「すまん。痛かったか」


「どちらかといえばくすぐったい感じ」


「そうか。今日はこれぐらいにしておこう」


 名残惜しそうな顔こそ一瞬垣間見えたが、彼は治癒魔法を施して切り傷を塞ぐ。ただし、舐られ吸われた部位は少しだけ赤い跡が残った。毎日血を与える度にどこかに付けられて行くその跡は、まごうことなき印である。それを見る度、彼女の中でうんざりとする感情と共に諦観ではない何かが育って行く。


「毎日毎日こうして跡を刻まれると、まるで所有権を主張されてるみたいでやんなっちゃうわ」


「目立たない場所ばかりだから気にする必要はないだろう」


「そういう問題じゃないの。私の気持ちの問題なの」


「嫌なら伝統的な方に切り替えよう。ただし――」 


「我慢できなくなって吸いすぎるかもしれないと」


 本来は後ろから抱きしめるようにして牙を突きたて、首筋から吸うのがオーソドックスな吸血行為なのだ。それを態々舐める程度にしているのはそのためだった。おかげでもうほとんど味われていない場所はないのだが、永遠に吸い付かれるかもしれない部位よりはマシだった。


「如何ながら理性が持たんからな。私はもう君の血を見ると気が狂いそうになるのを我慢するので精一杯だ」


「本当、とんでもない男に捕まっちゃったもんだわ」


 一々悪態を吐きながらベッドに横になるその顔には少しだけ赤みがさしている。その様に苦笑しながらシュルトもまたベッドに横になった。


 背を向けた彼女の背後から軽く抱きしめれば、いつものようにその体が硬くなるのが感じ取れる。シュルトは怖がられているのは知っていた。武力はもとより、彼女にとっては未知の種族でしかない吸血鬼である自分という存在。そして、自身の聖女という稀有な特質がもたらした結果がいつも強がることを彼女に強いている。


 きっと、一人になってからずっとそうだったのだろう。そう思うと、シュルトはまだまだ心の距離というものを彼は感じずにはいられなかった。


「なぁリリム」


「なによ」


「まだ、私が怖いか」


「……うん」


 背中越しに聞こえた言葉が、胸を抉る。聞きたくない答えであっても、それでも聴かざるを得ない言葉がある。それを残念に思いながら、それでも彼は離れずに耳元で囁くのだ。


「なら怖くなくなるまで側にいよう。片時も離れずにずっと」


「もう、どこまで私の中に入ってくるつもりなのよぅ」


「どこまでもだ。知らないから怖いのだ。なら私のことを知れば怖くなくなるのが道理だろう? 現に、一年前よりはマシになっているじゃないか」


「毎日のように顔を合わせればそうなっちゃうわ」 


「うん。だから私はこうするんだよ。これでも成果が出ていると思うが、どうかな」


「……知らない」


 少女は両手で耳を塞いでそれ以上の言葉を遮断する。

 成果が皆無ならベッドから蹴り出せばいいのにそれができない。諦めているからだけではなかった。拒絶するような行為をシュルトがさせないからでもない。それは、彼女自身に残された最後の砦だ。簡単にその門を開け放ってなどやらない。その門を開け放ってしまったら、リリムは完全に吸血鬼の手に落ちてしまう。


 心のどこかでそれを望まない部分がまだある。それが妙なしこりとなってシュルトとの間に線を引こうとする。それは少女の中にある小さな棘となって胸を煩わせるのだ。

 だというのに――、


「ねぇ……」


「ん?」


「もし、もしもよ」


 線引きをしてしまう明確な理由に彼女は気づいていた。聞かなければ分からず、聞けば決定的な変化をもたらすそれをしかしそのまま曖昧にしておいた。しかし我慢には限界があった。門の前で、執拗に開くのを待っているシュルトが煩わしい。煩わしいからこそ、知れば知るほどに聞きたくない答えがある。


「もしも、私より血が美味しい人が見つかったらどうするの」


 背中越しに尋ねるその声が、少しだけいつもの彼女よりしおらしい。シュルトは声に隠された怯えには気づずいつものように「ふむ」とだけ言って黙考する。シュルトとリリムではあたり前のように考え方が違う。何を考えているかなど、他人のそれを理解しよとしても物差しが違うせいで予想するしかなかった。


 彼女の感じる恐怖とは血だった。己のそれに価値をシュルトが見出そうとも、彼女自身にはそれがまったく分からない。血なんて体を巡っている赤い液体だ。それに食欲を見出し、それに魅入られるような思考など未来永劫に分からない。人間である彼女には分かるはずもない。


――血の味だけが己の価値だったなら、それを上回る誰かが居たらどうなるのか。


 数秒の間の中でリリムは尋ねたことを後悔しそうになった。結局、不安はそれに尽きた。気軽には聞けず、聞いてしまえば態度を変えてしまうだろうことは分かっていたからこそ、今は寝室に漂う沈黙が重いのだ。きっと、このまま寝てしまえば誤魔化せたのだろう。だがシュルトは曖昧にはしなかった。


「見つかるわけがないといっても、その答えでは納得できないのだろうな」


「信じられないわよ。サキの血も美味しそうに味わってるんだもの」


 世の中は労働と報酬で成り立っている。サキのそれはしっかりと理由付けされたものであり、リリムがとやかく言う問題ではない。そんなことぐらいは彼女にだって分かっている。けれど、だとしても気に入らないこともある。自分を熱心に口説こうとしている男が、他の女に目移りしているように見えるのだ。信じようなどという気も失せるのが道理というものだ。


「私にとっては食事のメニューが代わる程度の認識だぞ。リリムだって毎食肉だけを食べるわけではないだろう?」


「それは、そうだけど……」


 シュルトが言いたいことぐらいはなんとなく分かる。しかし、もやっとするから聞いたのだ。


――私の血だけで満足じゃないの?


 そう意地悪にも聞いてやることを考え、すぐに開きかけた唇を止める。言葉を濁したままでその先の言葉を飲み込んで、背中からくっついてくるシュルトをベッドの中から蹴り落とす勢いで追い出していく。


「今日は一緒は嫌な気分!」


「むぅ?」


 いきなり機嫌を損ねた理由が分からずに首を傾げるシュルトをそのままに、毛布を深く被って背を向ける。我ながら可愛くない行動だと思いつつも、リリムはそれで眠ることにする。


「リリム」


 再びベッドに侵入しようとするつもりなのか、ベッドを少しだけ軋ませながらシュルトの気配が背中から迫ってくるのを感じ取る。それに応えずに無視していると、一瞬だけ頬に暖かいものが触れる感触があった。


「お休み」


「……お休み」


 一言だけを返して寝る前に一度だけ彼が触れた頬に手を当てる。少しだけ熱を帯びた部位を指先で撫でる。その間にも熱は冷めるが、胸に生じた微かな波紋はすぐには消えずに残っていた。


(本当に馬鹿なんだから……)


 きっとそれで謝っているつもりなのだろう。リリムが分からないように、シュルトだって分からないのだ。分からないから、行動や態度で示そうとする。そういう不器用なところはこの一年で嫌というほど痛感していた。なんだか余計に馬鹿らしくなった少女はそこで意識を手放した。自分自身もまた、似たような馬鹿だと自嘲して。









――きろ、リリム!


 ふと、暖かさが消失した。その少し前には、シュルトの切羽詰った声が聞こえたような気がしただろうか。まだ眠いのに、周囲からはざわめきの声が聞こえてくる。


 肌を撫でる風に、炎のように揺らめく赤い光。不審に思い、薄っすらと目を開いて――すぐに彼女はうめき声を上げた。


「なぬ?」


 そこは、見知らぬ場所だった。端的に言えば貴族の庭、だろうか。庶民の家とは比べ物にならないほどに大きな屋敷が見えるのがその証拠だ。そんな場所で、気がつけば満月の下で彼女は周囲を武装した兵士たちで囲まれていた。


 足元には幾何学的な文様の魔法陣が刻まれた地面があり、その中心とも言うべき場所に自分が寝ていることが伺える。魔法陣の周囲には等間隔に篝火が焚かれており、火の粉を散らせながら闇を焼いている。明りの魔法を使えばいいのにと思わないでもなかったが、リリムはそこで背後から近寄って来る足音を聞いた。


 思わず振り返ってみれば、そこには儀礼用とでもいうべき剣を握った歳若い侍女が居た。侍女だと判断したのは、纏った服装からである。オプションで帝都城勤めの侍女のそれと同じ服という触れ込みの物を着たことがあったのだ。見間違うわけもない。


 だが、状況が分からない。何故、その侍女は剣を振り上げているのか。そして、どうして彼女と目が合った瞬間から体がピクリとも動かないのかが。


「な、何をしている! 止めたまえ!」


 どこかで、聞き覚えのある声がした次の瞬間にはもう衝撃が来た。振り仰いだまま動けない彼女の背に剣が突き立てられた。剣の鋭い切っ先が、小柄な少女の腹から顔を出す。灼熱の如き熱を孕んだような痛みと共に、刃の勢いで体が地面に倒れた。か細く発せられた苦痛の喘ぎに混じって口内に血が溢れてくる。鉄錆びたその味を訳も分からず味わいながら、その時確かに彼女は聞いた。


――知りうる言語のどれでもない、何者かの嘲笑を。



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