EX01「勘違いDay」
EXはレブレと出会ってからの一年の間の話を想定してます。
「止めた方がいいと思うんだけどなぁ」
掃除も碌にされていないような大部屋の中、金髪の少女がため息混じりに呟いた。まだあどけない少女といっても差し支えないティーンの少女は、両手を後ろで縛られたまま木の椅子の上に座らされていた。その碧眼が周囲を囲む冒険者崩れたちを見渡す。どいつもこいつもニヤニヤと笑い、成功を確信したような顔をしている。
場所は帝都ゼルドルバッハの貧民街である。いくら都会と言われようと、所詮は地方都市とさえ変わらない。レイデンのそれと大して変わらない治安の悪さには彼女もさすがに笑えなかった。彼女に悲鳴を上げる余裕は無かったが、見ていた者たちは少なからずいたはずだ。だというのにこの有様。税金泥棒である巡回の兵士たちは元より、保身主義的な人情の欠如の前にはどこか関心さえ覚える程だった。人心の荒廃は既に極まっているご様子である。一応、叫び声は連れ去れてから申し訳程度に聞こえたもののそれまでだ。義憤に狩られて追ってくるお人よしは残念ながら周囲には居なかった。
(まぁ、私もきっと無視する口なんだけどさ)
知り合いになる前の少女のことで、冷たい態度を取ったという前科がある。人の行いを見てようやく分かる自分の非情さ。やられて初めて理解できるこのなんともいえない感慨が、妙に胸に引っかかる。もしかしたら、そのせいで知り合いに余計な気を回しているのだろうか。贖罪のつもりではなかったはずなのだが、今ならばそんな気がしないでもなかった。
「にしてもこいつ、妙に贅沢な装備だな」
男の一人が縛られたままの少女を見て言う。
「そうか? どこにでもありそうな服だろ」
「いやいや、さすがにアレを見てそう思えるなんて節穴だぞ」
「なんだよ、ただの皮製のジャケットだろうが」
男が訝しみながら部屋の隅に座らされている少女に近寄って袖を掴む。黒のジャケットは、思いの他頑丈そうだった。確かに、普通の衣類よりはマシだろうがそれほど贅沢な装備――などと呼ばれる程のものにはまったく見えない。だが、その不可思議な感触に男が一瞬眉根を寄せた。
「なんだこれは……鱗?」
「何の鱗かは分からねぇが、そこらの安物よりは値が張る代物さ」
「そういえば、ミスリル製っぽいナイフと鞭もあったな」
「護身用にしたってどっちもこんな乳臭い餓鬼に持たせるようなもんじゃねーよ」
(私もそう思うわよ。乳臭いは余計だけど……)
妙にまともなことを言う男に内心のムカムカを押し隠しながら、少女は内心では同意する。確かに、普通はか弱い少女に持たせるようなものではない。
「その男はいつ戻ってくるんだ」
「嬢ちゃん、怖い目に合わされたくなけりゃあ答えな」
「多分、夕食前ぐらいには宿に戻って来ると思うけど」
武器で脅されるよりも先に律儀に答えると、男たちはその意味を考えずにすぐに計画を練りだす。七人ほどのチームなのか、皆は全て男だ。そこそこに若いように見える。
「――で、その銀髪野郎と仲間の黒髪の餓鬼をレイデンに連れてけば金にできるわけだ。そうだなミック」
「おうよ。随分と派手にやったらしくて奴隷商に賞金首にされてるぜ。腕っ節が強いのは偶々見たが、こっちには人質が居るんだ。脅迫して仲間に引き込んで稼がせるか、そいつを利用してレイデンの詰め所に突き出そう。探してる餓鬼も一緒にさ」
「……俄かには信じられない話だがな」
「だが、解体の部署がその男のせいで盛り上がってたのは確かだぜ」
ミックと呼ばれた若者が、ニシシッと笑う。どちらでも儲かるということなのだろうが、彼女にとっては呆れるような計画だ。何せ、相手が普通の相手ではないのだ。素直に泣き寝入りするような玉ではない。そもそも戦闘能力の上限さえ分からないテクニシャンだ。人質を確保しなければ相手もできないチンピラとは違いすぎる。根本的にその時点で失敗するのが目に見えていた。
(にしても、よくもまぁペラペラと私の前で喋るわね)
違う意味で感心しながら、少女はもう一度ため息を吐く。レイデンにはもう確実に帰れない。帰りたいほどに思いいれがあったわけではないが、こういうトラブルに巻き込まれる可能性を鑑みれば帰りたいという気さえ失せてしまった。それもこれもあの男のせいだが、借金を返済してくれたことにだけは借りがある。花嫁云々はともかくとして、その一点だけは感謝しているのでしばらくは一緒に居てやろうなどと少女は考えていたのだが、こうもトラブルに巻き込まれるのはたまらなかった。
(あいつ、もしかして下げ野郎?)
都市伝説のように語られる不名誉な称号の一つが、一瞬少女の脳裏を掠める。思わず不幸だ、などと叫びたい衝動に駆られてしまう程には的を居ている気がするのである。とにかく彼女の中の彼は流血プレイ好きの変態でテクニシャンな男だった。これに今更別の称号が与えられても問題はない。それどころか、言われたところで意に返さないタフさを見せ付けて自分をげんなりさせるに違いない。その様子までしっかりと思い浮かべ、金髪碧眼の小柄な少女――リリムはもう一度だけ深いため息を吐いた。
「魔法卿、これぐらいでいいかな」
「うむ。ようやく形になってきたな」
満足気な顔をして、銀髪紅眼の吸血鬼シュルトが頷く。竜の姿ではなく少年姿のレブレもどこか満足そうな顔をしている。両者の胸の内にあるのは暖かな達成感である。ようやく、隠れ家とも言うべき拠点の内装が完成したのだ。
入り口は常人では侵入できない谷間にあり、その絶壁に設けられた大穴は、竜姿のれブレが入れる程に広い。そこから歩けばすぐに人サイズの者しか入れなくなる程に穴は狭まり、奥にあるダンジョンに出迎えられる。二人の魔法で繰りぬかれ、更に幾つにも現地の健在である土を魔法で強引に石化させて作った柱と壁がさながら迷宮のようにダンジョンを彩っている。場所によっては地面が露出している箇所もあるが、それでも二週間程度で仕上げたにしては中々大した物であった。
また、地震や対魔法攻撃に対しての防御効果を得るために壁面には至るところに魔法文字が刻まれ、自然界に存在する魔力を用いてほぼ恒久的な防御効果を実現している。それに加えて魔力文字が発光することでダンジョン内部に明りを提供しているせいで昼間ほどではないにしても、人間でも光源無しに歩くことが出来る工夫まで施されていた。ここまで素早く、そして念入りに構築するのはよほどの物好きぐらいだろう。二人の感慨も一入だった。惜しむらくは地脈から外れていることだったが、それを抜きにしても満足の行くものに仕上がりそうだった。
「竜といえば巣。巣と言えばダンジョン! 僕に掛かればこんなものさっ!」
ふんぞり返りながら出来栄えを誇る少年は、グゥゥとお腹を鳴らす。消耗した魔力も大きいらしく、腹時計が急かすように鳴り響く。竜という種族の燃費の悪さを象徴するような腹の悲鳴である。
「後は防衛用のゴーレムとガーゴイルの設置。そしてリリムの家だな」
「うん。でも、お腹減ったし今日はもう帰ろうよぉ。僕の腹時計は正確だから、きっともう夕方だ」
「しょうがない奴だな。一応、入り口までは歩くぞ。付与の確認は必要だ」
「りょうかーい!」
二人で魔眼と竜眼をそれぞれ凝らしながら確認していく。シュルトはダンジョンの入り口に向かってゆっくりと歩いて行くが、先行するレブレは急かすように走りぬけて行く。
「魔法卿、早く早く」
「まったく、子供みたいな奴だ」
百は優に超えるはずだが、人化した見た目同様に精神の幼さが垣間見れる。竜の寿命からすれば子供同然なのだろうが、それでもその正体が巨大な竜であるというギャップが妙に可笑しい。
リリムやサキにさえどこか子供扱いされているレブレではあるが、竜としての矜持はまだ無いらしくそんなことを不快に思うでなく子供らしく無邪気に振舞っている。偶に二人に齧りつくことだけは気になるが、今のところ危険ではないのでシュルトは好きにさせていた。もっとも、何かあれば拳骨程度では済まされないことは分かっているのだろう。悪戯程度で済ませるあたりの絶妙な匙加減のせいで、小賢しくもどこか憎めない子竜という感慨を与えてくる。そのことに苦笑しながら、シュルトは確認作業を急ぐことにした。
「リリムはいないようだな」
宿の部屋に直接転移してきたシュルトは、サキだけしかいない室内を見て首を傾げる。ここ最近はサキを相手に言葉を教えているか、二人一緒に外に出て時間を潰していることが多い。シュルトが過剰に渡してあるお金のおかげで観光するのには困らないこともあってか、宿周辺は既に把握しているようだった。
「きっと僕たちに内緒で買い食いしてるんだよ」
「にしては、サキが何か言いたそうにしているのが気になるな。レブレ、任せる」
「はーい」
レブレが視線を合わせ、啓示を授ける。啓示の際には言葉という概念を越えて思念で直接両者が語らうことができる。会話ができなくなった現在において、唯一それだけがサキとの会話方法である。一瞬仰け反るサキではあったが、数秒もせずに現実を認識。どこか心配そうな顔でシュルトを見上げた。
「あー、昼過ぎに宿を出てから戻ってきてないってさ」
「ふむ? マーキングの感触からすればそれほど遠い場所ではなないようだが……しょうがない。私が迎えに行くから先に食事を済ませるといい」
「無理だよぉ。僕とサキだけだとまだ普通には会話できないじゃん」
「そういえばそうだったな。なら少し待っていろ。すぐに呼んで来る」
まだ日常会話が出来るほどにサキもレブレも言葉を覚えてはいないのだ。シュルトも筆談はできるが、まだまだ流暢な会話ができない。解決しなければならない問題の一つである。
「急いでね魔法卿。でないと、お腹が空きすぎてサキをぱくりと食べちゃうかもしれないからね」
「はははっ、お前も冗談が上手いな」
涙目で必死に訴えるレブレの頭に手を置いて、シュルトはドアへと向かう。その背に「早くしてよぉ」と情けない声が届くも、彼は笑いながら部屋を出た。数秒もしない間にサキがスキル魔法を行使するような感覚を彼は得たが、どこか真面目な少女のこと。魔法の自主練習かと思って宿を降りて行く。気のせいか、レブレの悲鳴が聞こえるような気がしたが彼は無視した。
一階は酒場でもあるためか騒がしい。春の陽気に誘われているのか、この季節は酔っ払いも多い。看板娘にセクハラして悲鳴を上げさせている不埒な男が、景気よく頬をひっぱたかれる音が時折混じる。賑やかで結構なことだと思いながら、ここ数週間ほど毎日のように感じる喧騒を背に宿の外に出た。
「!”#$%&」
「なんだ?」
と、宿を出たところでシュルトは声をかけられた。見たこともない茶髪の若者であり、冒険者よろしく長剣で武装していた。しかし、シュルトはまだ流暢に大陸語を話す彼の言葉が理解できない。周りに居る別人に声を掛けているのかと周囲を見渡すも、話しかけているのは明らかに自分であるせいで困惑の表情を浮かべるしかない。
「!”#$%」
「困ったな。何を言ってるのかさっぱり分からん」
「$I%O」
ぼそりと呟くと、今度は向こうが仰天した。言語の違いに気づいたのだろう。シュルトと同じように困惑する。というよりは寧ろ、頭を抱えていた。
「よっぽど焦るような何かがあるのか?」
レブレに急げと言われてはいたが、シュルト自身は狭量ではないと自負していた。確かに空腹は辛い。断食ならぬ断血を体験していた彼ではあるが、どこか途方に暮れているその男を不憫に思った。これも高貴なる者の務めか、などと内心で思いながらコミュニケーションを図るべく、影から筆談用に使っている白紙の本やコカトリスの羽を毟って作った羽ペンを取り出して筆記する。影から取り出された筆記用具を見て驚いている男の眼前で大陸文字を書き記し、男に見せる。
――何か用か?
短く書き記された大陸文字。文法だけは完璧なそれを見せられて、男が顔を引きつらせて喚く。まるで、天に向かって慟哭しているように彼には見えた。
「まさか、冒険者の癖に文字が分からないのか? 依頼書を閲覧するときはどうやって――」
その時、シュルトはハッとした。ギルドには有料で文字の分からない者のために変わりに読み上げたり、代筆するサービスがあることを。グリーズ帝国の識字率について詳しくは知らないシュルトではあったが、その事実に思い至ったせいで少しだけ優しい表情を浮かべた。
「そうか。田舎から一旗上げるために出てきたタイプか。文字が分からなくて難儀しているのだな」
シュルトは元々領地持ちの弱小貴族の末っ子である。戦争に置いてその戦働きが認められ、独立し領地を与えられたがそういう民が居ることを実家と領地で確認している。シュルトが当たり前のように学問や魔法に打ち込めたのも、引いては家がそれなりに裕福だったからである。そう思えば、苦労して都会に出てきただろうこの目の前の若者が文字という文明の利器を前にして頭を抱えるのにも頷けた。
「謝罪しよう。知識をひけらかす様な真似をしてしまっただろうか」
なんとなく、罰が悪い気持ちでシュルトが頭を下げる。彼には不快にさせる気はなかったのだ。すると、田舎出の若者はその行為の意味が分からず、目を瞬かせる。だが、言葉は通じないが、なんとなく馬鹿にされた気分だったのだろう。シュルトが突き出した本を腕で払いのけ、何事かを叫んだ後におもむろにその腕を引っつかんできた。シュルトは役々困ったが、その男が決死の形相で手招きしている仕草を見て渋々頷いた。
(着いてきてくれ、ということか。何か、人手が居るような事態なのだろうか。私ではなく話しが通じる相手を呼ぶべきだと思うが……なるほど。藁にも縋りたい気持ちとかいう奴か)
理解できないまま、シュルトは手を引かれて歩いていった。リリムのことは心配だが、居場所が特定できているのでなんとかなる。そう思い、度量の深さを示すためにも着いて行くことにした。その手に、筆記用具を携えたまま。
その時、ミックは困っていた。
(言葉が通じないとか、どうしろってんだ!)
完璧な計画だったはずなのだ。だが、宿に帰ってくるはずの男は何故か宿の中から出てくるは、言葉が通じないわで完全に出鼻を挫かれていた。極めつけは本での筆記である。文字など理解できなくても、会話さえできればどうにでもなる。事実、これまでの人生はそれで回っていた。だが、今日始めて彼はそうはいかない相手に出会ってしまった。文字は理解するが、会話ができない。果たして、こんな相手をどうやって脅迫すればいいのか分からず、彼は頭を悩ましていた。
「!”#$%&」
大陸言語でさえない何か。まさか、空元とかいう海の向こうの島国の言葉かと、噂交じりの推察をするがその国の黒髪黒目という風貌とはまったく違う。武器をちらつかせる方法はある。しかし、彼は偶然にもリリムを抱いたままならず者だけでなく正規の兵士たちを余裕で倒していた武力を知っていた。加えて、シュルトの相貌を知っているのも彼だけだ。余り大人数で宿に張っていても不審がられるということで、自信満々で出てきたことを彼は後悔していた。そんな彼に出来たのは、その男の手を引っつかんで連れて行くことだけだった。
もし、シュルトが短気であればアウトだった。訳も分からない言葉で話しかけてくるような男に従うような奴はいない。そして、他の誰かに相談するような真似をされて、大事になった挙句に脅迫の現場を抑えられても不味い。通りがかりの兵士に筆談による通訳を頼まれてもアウト。冷や汗をダラダラと流しながら、気が変わらない内にとばかりに急いていく。
幸い、拠点であるスラムは近い。拠点に帰れば文字が分かる仲間が居る。後はそいつに交渉させればいい。ミックは、どこかやけっぱちな気分で道を急いだ。まるで、凶悪な魔物を引き連れたような感慨を抱きながら。
薄暗いスラムの一角を二人を歩いていた。奥ではないのでそれほどではないが、それでも柄の悪い連中が通り抜けて行く二人の様子を伺っている。カモだと思えば襲い、そうでないのであれば見過ごす。弱者は強者を見抜く目に長けている。或いは、同類を見抜く目を彼らは持っている。焦るようなミックを見て、そして無駄に落ち着いているシュルトを見て、一様に彼らは顔を背け見なかったことにする。果たして、彼らがどういう匂いを嗅ぎ取ったのかは分からない。
裏通りに入って既に十数分の道のり。だがその間にも、シュルトは不思議そうな顔をして目の前の男を見ていた。彼はリリムの指輪にマーキングを施してある。故に、手を引く男がその場所にまるで誘うように近づいていくに連れ、奇妙な予感を感じていた。
やがてそれが、とある一軒の家に差し掛かったことでシュルトの中で予感が確信に変わっていた。男がどこか張り詰めたような緊張感を漂わせているのもきっと、そのせいに違いない。そう思えば、彼は不思議と爽やかな感慨に包まれた。
「$%%&」
田舎から出てきた文字が読めずに苦労しているだろう冒険者の若者は、家を見上げるシュルトを振り返ると、慎重に、というよりは大胆に大きな音を立ててドアを開け放つ。そうして、シュルトは遂に開け放たれたドアの向こう、部屋の片隅にロープで縛られているリリムを見つけた瞬間、まるで道を明け渡すかのように振り返ったその若者に皆まで言うなとでも言うかの如く頷き、当たり前のように突撃を敢行した。
「$%――」
若者の驚くような応援らしき声を背に、シュルトが外套をはためかせて風になる。果たして、突入してくる彼を見た誘拐犯たちが一斉にポカンと口を開け、呆気に取られた顔を晒す。それはまるで、話しが違うとでも言いたげな表情だ。次の瞬間、まずリリムの前で話しこんでいる二人の男のうち最も近くに居た男へと跳躍し、シュルトは嫌に華麗な飛び蹴りを叩き込む。
「!”#!?」
訳が分からないというようなその男の顔に、シュルトの靴裏が無慈悲にも叩き込まれる。顔面が凹んで見えるほどの衝撃を受け、顔面から血を噴出しながら男が家の壁に向かって吹き飛んだ。人外の身体能力を持つ吸血鬼の蹴りだ。壁に盛大に叩きつけられた男は、当たり前のように床へと崩れ落ちる。その余りに速すぎる凶行に、左側の男もまた眼前に立つそのシュルトへの対応が遅れた。
話しこんでいたはずの仲間と入れ替わるようにして着地したシュルトが、右足を跳ね上げる。飛来する右足は、弧を描くように高々と持ち上げられて男の右側頭部へと叩き込まれる。再び、人間が一人宙を舞った。今度は壁に叩きつけられるようなことこそなかったが、埃の積もった床板を滑るように転がり、安物のテーブルの足に引っかかりながらもその質量でテーブルの位置を激しく移動させる。そのせいで、男たちが用意していた酒瓶やグラスが、床に落ちていくつか割れた。
「!”#$%&」
ここで、ようやく誘拐犯の仲間たちが武器を抜いた。皆、大陸の言語で罵声のような何かを上げる。その言語が、果たして一体どこの誰に向けられたモノだったのかを知る術は、当然シュルトにはない。
シュルトは手に持っていた筆記用具を影に落とすように収納し、背後に居るリリムに近寄ると、腰元のナイフを抜いてロープを切る。その間、一人の男がチャンスとばかりに剣で斬りかかろうとする。だが、その前に鳴った指を弾くような音が全てを変えた。男の足元の影が床上に広がり、踏み込もうとした男の足を取る。
「!”#$」
「#$」
足を取られて身動きが取れない誘拐犯たちが必死にもがく。その眼前で振り返ったシュルトが、どこか見せ付けるようにリリムを両手で抱き上げその額にいつかのようにキスをする。感動的な再開にしては、少女の方がどこかうんざりしているように見えなくもないのが妙に印象的な図柄だった。
「!”#$%&」
リリムが何事かを言い、シュルトが大きく頷く。
「言われずとも分かっている。全員に君を誘拐したことを後悔させてやろう」
そうして、ゆっくりと抱え上げたはずの少女を椅子の上に降ろすと影の上を歩いて男たちに近寄って行く。その様がまるで幽鬼のように恐ろしく、男たちは一様に顔を青く染め上げた。
「あーあ、馬鹿よねぇこいつら。よりにもよって私を誘拐するなんてさ」
不幸だと自認する自身よりも、ある意味目の前で惨劇を繰り広げて余裕の変態男を敵に回した相手の方が不幸なのかもしれない。半殺しのまま捨て置かれている六人に同情しながら、リリムは取り上げられていたミスリルナイフとミスリルウィップを取り戻す。そうして、思い出したかのように、一人影の沼で足を取られたまま入り口で固まっている男を見やる。
どういうわけか、シュルトは他の連中を遠慮なく殴り飛ばしたがその男だけは放置している。それどころかあまつさえ近寄り、血の気の引いた顔で震える男の前の肩をフレンドリーにも叩いたかと思うと、懐から財布を取り出して少なくない額の硬貨を握らせていた。
「訳が分からないわね。あのミックとかいう男がそもそもの元凶のはずなんだけど」
「!”#$%」
男も、その行動には絶句している。無論、渡された硬貨の額に対しての驚きもあったに違いない。リリムはことさらゆっくりに本と良い、ペンを握って書くようなボディランゲージを行う。すると、彼はすぐに頷いて影からそれらを取り出した。受け取ったリリムが、とにかく尋ねる。
――どうして、あいつにお金を渡しちゃうのよ。
その素朴な疑問に対する文面は、すぐに帰ってきた。文字を読んだリリムは、当然のように首を傾げる。
「……なぬ?」
「じょ、嬢ちゃん。その旦那は一体なんて言ってるんだ。俺にはもう、何がなんだか分からねぇよ」
生かさず殺さずの状態にされてしまったせいで固まったままの男が、冷や汗を流しながら縋るような目で問いかけてくる。リリムは説明するのも億劫になって本のページを毟り取り、男に差し出す。今更気の毒な程に震えるその男が何かするとも思えなかったのである。
だが、渡されても男は字が読めない。困った顔で視線をリリムとページに往復させる。けれど、リリムにはそこまでしてやる義理はまったくないので答えてはやらない。
「これに懲りたら二度と悪いことはしないことね。多分、彼も次からは半殺しじゃ済まさないと思うから」
言うだけ言って、本に何事かを書き記しシュルトに見せる。彼は頷き、思い出したかのように影の魔法を解くと、男に会釈してから転移した。
一人だけ五体満足で残されたミックは、その場にへたり込んだ。後日、渡された金を仲間の治療費に当てたが、それでもやはり責任を追及されチームから追い出されてしまった。途方に暮れた彼は、残った金を使ってギルドで彼は代読のサービスを頼んだ。幸運なことに、実は彼が密かに狙っていた職員の女性が偶然にも代読してくれた。
「ええと――何故って、言葉が通じずとも君の居る場所に必死に私を連れて行こうとしてくれた恩人だぞ。ならば当然、礼を失するわけにはいかんだろう。文字が読めないことから察するに、田舎から一旗上げようとやってきた若者のようだ。あの金でできればどこかで文字でも習い、都会に適合してくれることを切に願うばかりだ。私は、彼の正義感に心を打たれたのだよ。そうでなくても、何かの足しにしてくれれば幸いだ――と書かれていますね」
「あの野郎、田舎者で悪かったな」
顔を真っ赤にしながらもボソリと呟いた男に、職員の女性は苦笑する。だが、そこには馬鹿にしたような感情は欠片もない。
「私も元田舎者ですが、お互いがんばりましょう」
「うえっ――」
営業スマイルのまま少しだけ恥ずかしげにはにかむ女性を注視して、男は意を決した。一世一代の勝負のつもりで勝負に出る。
「よ、良かったら俺に文字を教えてくれないか!」
「構いませんよ」
「ほ、本当か!?」
グッと右手を握り締めるその男を前に、女性は営業スマイルで続ける。
「はい。一月で一万リズになりますがよろしいですか?」
その嫌に完璧なスマイルを前に彼は引くことができず、とりあえず受講の説明を受けることにした。治療費ですっからかんな財布の中身を、どうやって工面しようかと考えながら。