第二話「少女の憂鬱」
幼い肢体の上を湯が流れて行く。
雨音のように響くその音が、どこか軽快なBGMを演出する。時刻は既に夜である。少し早いとはいえ、天井に浮かべてある光の玉――明りの魔法のおかげで汗を流すことに支障はない。
かつての賢人が発明した魔法の中でも生活魔法に分類されるモノは、呆れる程に生活を激変させた。戦闘用などは両手の指で数えられる程度の癖に、例えばお湯を出す魔法一つとってもいくつもあった。
コーヒー、お茶などが最高に上手いとされる温度はもとより、風呂に適した温度から薬を飲むのに適した温度のお湯を出す魔法などがその一例だ。それについては病的なほどのこだわりをシュルトなどは感じている。その癖、攻撃魔法は対人程度の破壊力が最高で、その数は豊富ではない。もしかしたら賢人と呼ばれた大陸魔法の祖は、本来は争いが嫌いな温厚な人物だったのかもしれない。
もっとも、それを使う大陸のものたちは一々そんなことなど考えずに利用していた。リリムも勿論その一人である。
「……ここを出てからが勝負。何事も最初が肝心なのよ。しっかりしなきゃ」
職業病とも思えるほどに入念に、しかしそれでいて丁寧に体を清めながら、リリムは備え付けの鏡に向かって呟いた。妙な気迫を溢れさせているその碧眼は、これからの未来に対する憂いを打破するべく力強い意思の光を湛えている。
両手からお湯を出す生活魔法『ハンドシャワー』が、彼女の白い肌をほんのり紅く染めて行く。お湯を浴びる前に浄化の魔法で体の汚れを落としきっているが、やはりそれだけでは足りない。
今までの娼婦生活の中で得た経験則を武器に、自身を最高の状態にまで磨き上げて行くことに傾倒する。やがてそれが終れば、軽く髪を纏めて浴槽に浸かり、目を瞑ってマインドセットを行いはじめる。
そうして呼び起こすのは無邪気で、大胆で、どこか大人びた部分を持って不相応な色香を醸し出すペルソナだ。それは、男を誘惑してコントロールするための術の一つであり、愛の無い快楽遊戯をプレイにまで押し上げるための儀式であった。
「よし、準備完了」
湯船から出てタオルで体の湯をふき取る。そうして彼女は大胆にも下着を着けずにバスタオルを羽織る。決戦の時は来た。ガチャリと音を立てながらドアノブを開き、寝室に顔を出す。
三人一部屋で借りたこの宿は、それなりに清潔である。安さだけが売りの宿ではなく、どちらかといえば中流に位置するその宿の部屋にはベッドが三つ並んでいた。
「……アレ?」
だが、調教するべき変態男の姿はない。見つかったのは先に風呂に入っていたサキだけである。彼女は備え付けのバスローブを羽織ったまま既に寝息を立てている。てっきり毒牙に掛かっているのかと思えばそうではない。リリムの中に、戸惑いが生じる。と、あたりを見回していた彼女はテーブルの上にメモと硬貨がいくつか置かれているのに気づく。
――少しばかり稼いでくる。朝には戻るから、ゆっくり休んでくれ。金は何かあれば使ってくれ――
書置きにはそう書かれていた。リリムは震え声でそれを読み終えると、無言でシュルトのベッドにダイブする。そうして彼の枕相手にマウントポジションを取ってストレス発散運動を決行した。どちらの立場が上かを知らしめるはずの最初の夜は、こうして何事もなく更けていった。
翌朝、リリムが目を覚ますといつの間にか帰っていたシュルトがベッドで寝ていた。
「……何時の間に戻ってきたのよ」
静かに寝息を立てているその男は毛布を被らすに下着姿だった。そのデリカシーの欠片も無い有様にため息を吐きながら、彼女は床に散乱している外套や衣類に目をやった。
着古されているせいで随分と草臥れている。家を持たない冒険者であれば嵩張るので必要最低限の着替えしか持たない。一着・二着で着まわすこともよくある。元々汚れを落とす浄化の魔法がある世界。汚れさえそれでどうにかしてしまえば気にしない者は多い。とはいえ影の魔法で荷物を収納することができるシュルトならば所持品の制約など無い。それでも着続けているのは思いいれがあるからか、それとも単に面倒くさがっているだけなのか。服自体は草臥れてきてはいても汚れている風でもないので、浄化魔法をまめに使っていたのだろう。そこからあまり服に頓着しないタイプだということが見て取れる。
「だらし無い奴」
のっそりと起き上がり、衣類を拾うと浴室へとリリムは向かう。昨日洗面所に放置した自分の衣類と一緒に浄化魔法を掛け、そのついでに着替えを済ませる。そうして寝室に戻ると、備え付けのテーブルに腰掛けてシュルトの服を畳んでいく。
さすがに彼女の物とはあたり前のようにサイズが違う。男と女の差、だけではなく年齢の差もあるだろう。見た目十代後半の少年とも、二十台前半にも見えるシュルト。どちらにせよ彼女から見れば年上で、大きいのはあたり前。抱き上げられた時には体がすっぽり腕の中に納まってしまったのだからこのくらいはあるだろう。
やがて、畳み終えるとテーブルの上で頬杖をつく。やることがないのだ。暇つぶしになるものがないかと思って探してみると、サキの服が目に入る。こちらは一応は畳まれているものの、まるで子供が初めて畳んだような錬度の低さが見受けられる。
「そういえば、あの子は空元とかいう国の子なんだっけ」
国が違うので服の文化も違うのかもしれない。浄化魔法を掛け、畳んであげることにしてふと彼女はそれに気づく。子供の下着にしては際どいそれは桁違いに面積が小さい。娼館で似たような衣装をオプションで着たことはあったが、日常で使うにはかなりの度胸が必要になる。
「……同業者? 違うはずよね。んんー……あ、そうか」
奴隷商人が売りモノにするために着せていたのだ。扇情的な格好にして見栄えを良くするというのはある種の常套手段である。察すれば理解は生まれた。おかげで一つやることが決まった。きちんと畳み直して上げながら他にもするべきことを考えていく。
リリムの荷物は今、シュルトの影の中に飲み込まれた家の中にある。買いなおすのはもったいないが、中から物を取り出すにしても街中で家を出させるわけにはいかない。絶対に騒ぎになるし、そもそも家を置く土地がない。最悪は街の外で取りだせばいいが、シュルトがどういうつもりなのかが分からない。結局、主導権を持っているのは彼なのだ。この現状を変えなければならない。それには話し合いが必要で、彼が目覚めるのを待つしかない。さすがに夜中に稼ぎに行ったのだから起こすのも憚られる。結局は待つしかなかった。しばらく待っていると、サキが起きた。
「おはよ」
「!”#$」
言葉は相変わらず通じないが、声を掛けられているぐらいは分かるようだった。恐らくは挨拶だろう言葉を共に、リリムに軽く会釈する。意思疎通ができないのでリリムには彼女のことが分からない。シュルトが言うには、かなり肝が据わった冷静な少女らしいのだが、リリムからすればいきなりシュルトに向かってナイフを振るった危ない子だ。現に寝るときも枕元に短剣を置いていつでも抜けるようにしていた。もしこれから先起こさなければならないようなことがあっても、絶対に起こしたくない相手だった。
服を探しているらしく、キョロキョロとしていたので畳んでテーブルの上に置いているそれを指差す。気づいた先は少しだけ驚いた表情を浮かべ、会釈して着替え始める。だが、下着を見て一瞬悩む素振りを見せたのをリリムはしっかりとその目で確認する。しかし他に着るものはない。彼女は諦めたような顔で着用していく。ブラのあたりで再び悩み、葛藤の末着けずに服を来ようとした。これにはリリムもさすがに見かね、着けてあげることにする。なんとかボディーランゲージで意思を伝え、着せて行く。その間サキは大人しかった。
「着けない文化ってわけでもないのよね」
呟くと、サキが少し困ったような顔をした。いつまでシュルトが面倒を見るつもりなのかはリリムはまだ聞いていないが、それでもこのまま放り出すわけにもいかないことぐらいは彼女にも分かる。着替え終えた彼女の手を引っ張り、テーブルの前の椅子に座らせて大陸の言葉を教えることにした。
「リリム」
自分を指差してゆっくりと発音。さすがにそれで名前を教えようとしていることが分かったのかサキが頷いた。今度はサキがリリムを指差して声を出す。
「リイム」
「リ・リ・ム」
「リリム」
「そうそう。で、貴方はサキだっけ」
今度はサキを指差し、彼女の名を呼ぶ。
「サキ」
「サキ」
とりあえずこれで呼び合うことはできる。とにかく片言でもいいから意思を伝えあえるようにしなければならない。先は長いだろうが暇つぶしにはなる。手近にあるものを指差し、少しずつ教えて行く。それはシュルトが起きるまで続いた。
朝食を終えると、すぐさま三人は冒険者ギルドに向かった。五つ星の解体職人である男が二日続けて顔を出したシュルトを見て顔を引きつらせたがすぐに対応。昨日と同じ条件で査定することを請け負った。
「了解。また昼頃に来てくれ。あ、そうだ旦那。おかげで随分と儲けが出たらしいぜ」
「ほう、それは良かったな」
「直ぐそこで競売ができるから、試しに競りに出してみたんだ。そしたら馬鹿売れ」
解体していない分、店の者でやれば解体費が削減できる。とはいえ、競りなので値段が上がって行くものだが出品数が多いことから商人たちがあまり吊り上げることをしなかった。それでもオークションの形式なので値が上がる。それで十分に利益が出たのだ。
「ただ、ギルドの連中が身元を探ろうとしてるらしいから気をつけてくれ。フリーの旦那を拘束する力はギルドにはないが、まぁ、気をつけて損することはないだろうぜ」
親切心からか、こっそり耳打ちした男はすぐに彼から放れていった。シュルトとしては気にしてもしょうがない。しばらくは様子を見ることにした。
朝の内にリリムに言われたとおり三人は買い物に繰り出す。シュルト以外には影の魔法が使えない。手ぶらは楽だが、居ない間は不便なのでまずは荷物袋を買い、変えの服や下着などから手をつけて行く。
「ふふぅん。どう、こういうの」
セクシーな黒のランジェリーを取り出し、シュルトに見せ付けてやる。店員はともかく、他の客がそれを見て眉を顰める。その視線はリリムではなくシュルトに向けられる。傍から見ればどうみても年端もいかぬ少女にアダルティーな下着を選ばせている男にしか見えないのだ。それは、少女のささやかな意趣返しである。
「黒か。それも悪くないがそっちの白いのはどうだ。君の魅力がより引立ちそうだぞ」
物怖じしないどころか、真面目な顔で提案してくるあたりが只者ではない。実に手強い相手だ。リリムはムムッと眉根を寄せて更に際どくしていく。勿論値段は気にしない。どうせ全部シュルトが出す。男の甲斐性を見せてもらうつもりで遠慮なく選んだ。
「あ、そうだ。サキはこっちね」
普通のを渡す。するとどこかホッとした様子をサキは見せた。忍び笑いを堪えずシュルトに会計をさせて店を出る。その次は服屋だ。こちらは際どさなど考えずに普通の服を選ぶ。そしてその次は何故か武器・防具屋へと向かった。
「……なんでよ」
気がつけば、リリムはお髭が立派なドワーフの親父に採寸されていた。職人気質なようで、必要最低限の質問だけして後はすぐに奥へと引っ込んでいく。
「リリム、獲物はどれがいい」
「いやいやいや、貴方私に何を望んでるのよ」
並べられている武器を前にして、悩んでいる様子のシュルトに彼女は突っ込む。
「勿論、私の花嫁としての立ち振る舞いだが」
「それでどうして武器防具なのよ」
「ん? 吸血の花嫁といえば、共に戦場に立ち夫の背中を守るものだからな」
「……私、自慢じゃないけど戦えない一般人だからね」
「心配するな。サキと一緒に私がしっかりと教育する予定だ。む、これなんてどうだ」
差し出された杖は木製ではなく金属製。特殊な金属でも使われているのか、見た目よりも随分と軽い。
「ミスリル製だ。これなら余裕で振り回せるだろう」
彼の中では既に決定事項らしい。他にもナイフやら手甲やら短剣などの軽量武器を次々と選んでは持ってくる。リリムは二・三回振り回して突っ返すを繰り返す。このままではなんちゃって冒険者に仕立て上げられかねない。そんな覚悟はさすがに彼女はしていないのだ。武器を選ぶ振りをして適当に時間を潰す。すると、途中でリリムは見覚えのある武器を見かけた。
「……鞭ねぇ」
手にとって振ってみる。他の武器と比べれば使い慣れている武器になる。しかしこんなもので魔物を倒せるとは思えない。人間相手なら怯むかもしれないが、別に人間相手に戦う予定もリリムにはない。とはいえ、閃くものを少しは感じた。
「これであいつを調教するのは有りかも。でも威力がなぁ……」
鞭にもいくつか種類がある。乗馬用、プレイ用、子供の躾け用などそれなりに種類がある。さすがに武器として売っている物を使うのは彼女も触るのは初めてだ。きっと打たれれば尋常な痛さではないだろう。鞭を扱うテクニックに自信が無いわけではなかったが、さすがにこれは憚られる。
「ほう、中々恐ろしい武器を選ぶな」
「いや、選んだわけじゃないんだけどね。これで貴方をしばき倒したら楽しそうだなぁって思ったけど……後で試していい?」
「妙なプレイは望まないが、それは使いようによってはかなり凶悪だぞ。そうだな、どうせならこっちを使うといい」
「金属製の鞭……チェーンウィップって奴?」
「耐久性は言うに及ばず、ミスリル製だから軽い。おまけに握りの下には杖に使われているような特殊な鉱石をはめ込んであるようだ。恐らく、魔法の威力増幅効果があるな」
「ふーん。じゃ、それでいいんじゃない」
使い勝手は確かに悪くはなさそうだった。他の武器を持たされるよりはマシかもしれない。どうせ本格的に戦う予定もない。
「店主、これとこのナイフも追加だ」
「まいど」
無愛想な表情のままドワーフの男が答える。しばらくしてサキが着ているのとそっくりな服を持ってくる。ただし、その色は黒い。試着室で着替え、ミスリルウィップとミスリルナイフを装備。見た目だけは冒険者としての体裁を整える。
「うん、いい感じだ」
頑丈な鉄板入りのブーツが少し重いが、全部纏めても重過ぎるというほどではない。寧ろ装備としては軽装に入る部類なので他の物と比べると格段にマシだろう。そのまま着ていた服は荷物袋に仕舞いこみ次の店へ移動する。
最後は小物屋で、これはシュルトの発案だ。シルバーリングを買うと何かの魔法を掛け、リリムとサキに付けさせる。
「うう、なんか本当に花嫁にされた気分」
左手の薬指に嵌められたそれを見て、リリムはぼやく。既に観念しているとはいえ、それでもやはり思うところが無いわけではない。ただ、疑問に思うことはあった。
「私はともかくサキにもつけさせるのはなんでよ。やっぱり手篭めにするつもりなの?」
「いや、はぐれたときの目印にしたかっただけだ」
「……目印って何よ」
「魔力でマーキングしておいた。それがある限り、同じ世界に居る限りは私は君たちがどこにいても探し出せる。これなら誘拐されても安心だ」
「外すわ――って、なによこれ外れないわよ!?」
「ちなみに私以外は外せないように呪いを掛けておいた。無くせないから安心してくれ」
「安心できるかぁぁ!!」
最悪、一千百四十万リズ分働いたら行方を眩ますのもいいかとも思っていたリリムの最後の希望が、粉みじんに砕かれた。この変態からは逃げられない。そのことを嫌というほど体感した瞬間である。
「外しなさい。今すぐにこれを外しなさい!」
「ははは。そんなに照れなくてもいいぞ。似合ってるじゃないか」
さりげなくペアリングの片方を自分の手につけながら、満足そうに彼は言う。
「では、準備も整ったところで山脈あたりに実戦に行くか」
「なぬっ!?」
当然、拒否権など彼女にはなかった。
「人間って、恐怖が限界を通り越すと何も感じないものなのねぇ」
体だけは正直に震えているが、もはや精神が麻痺していた。右を見ても魔物、左を見ても魔物。後ろも正面も魔物である。そこは西の大山脈と呼ばれる場所であり、ここ二日ほどシュルトが稼いでいた場所である。間違っても非戦闘員でしかない元娼婦の少女がやってきて良い場所ではない。
周囲には影に足を取られて身動きが取れない魔物たちが唸るように咆哮している。リリムにはそれが、同じ男によって理不尽な目に遭わされている同胞の慟哭のように聞こえてならない。これからきっと、彼らも酷い目に会わされるのだろう。そう思うと人類の敵が可哀想に思えてくるから不思議であった。
「こいつらが魔物だ。君は、見るのは初めてだったな」
「ええ。街の外に出たことなんてないもの。確か、普通の動物は光らないのよね」
「それが魔物と動物の違いであり、人間が彼らを恐れる理由だ。攻撃魔法を使ってみろ」
「私が?」
「ああ。サキ、お前もよく見ておけ」
「!#」
「ファイア!」
近くにいる狼の魔物『ブラックウルフ』に適当な相手に炎の魔法を放つ。すると、ブラックウルフの纏っている魔力障壁とぶつかって炎が消える。同時に魔物が纏っている魔力障壁の光が少しばかり翳った。
「今のように大陸の魔法では人間相手ならともかく、魔物相手だと威力が足りない。故に何度も魔法を当て、武器で攻撃して障壁を貫通ないし破壊してからでなければダメージを与えられない。それを念頭において攻撃し、その上で倒すというのが一般的な対魔物戦術だ。これは大体の国がやっている対処法だ」
魔力障壁のおかげで簡単に傷つけられないせいで人間は連携、或いは攻撃の集中で対処するようになっていった。少なくともまともにぶつかるという選択肢は論外であり、平地で大軍と戦うような真似をせずに戦えるように拠点を構築。防衛戦の形で削るように攻撃することで大規模侵攻時は対処するようにしていた。
冒険者の場合は浅い領域に少しずつ侵入し、少しずつ狩るというのがセオリーになっている。魔物は大勢の人間に対しては大群で動く。逆に少数ならば少数で動く性質があるからだ。その習性を利用して戦うのが基本的な冒険者。そこまで説明した後でシュルトはリリムの頭に手を当て魔法を使う。それは、彼がかつて元居た世界で開発した特殊な魔法だった。
「今度は何よ」
「私との間に魔力のパスを繋げ、簡易的に魔法を使えるようにした」
「……つまり何なのよ。貴方って基本的に言葉が足りないわよ」
「これは私の魔力を使い、私が習得している魔法の中で君自身に適正のある魔法を簡単に使えるように魔法を掛けた。便宜上スキル魔法と名づけている魔法だ。今、君はなんとなく頭の中に魔法が浮かんでいると思う。意識してみてくれ」
「ふむふむ」
確かに脳裏に聞いたこともない魔法とその効力が浮かんでくる。それらは明らかに大陸の魔法ではない。そうと分かるのは、そもそも今シュルトが使っている影の魔法や転移魔法、そしてスキル魔法など聞いたこともないからである。
異世界から召喚された魔法好きの吸血鬼。宿で聞いた胡散臭い話が、やけに真実味を帯びる結果となって顕現したことを改めてリリムは認識する。
(ただの冒険者じゃなかったのは分かったけど、これって凄い魔法なんじゃないの?)
単純に魔法を覚える必要が無くなるし、なんといっても自分の魔力を消費せずに行使できる。なら、例えば戦わない一般人を魔力タンクにし、そちらの魔力が無くなれば自分の魔力を使うようにすれば魔法を使える回数が大きく増える。
「それで、貴方の魔法はどうやって使うの」
「サキには説明しているが、発動するには意識と音声のトリガーをあわせる必要がある……要するに頭で狙って使いたい魔法を声に出せば発動だ」
「ふーん……ライトアロー」
ブラックウルフを意識し、狙いを定めて発声する。瞬間、なんだかむず痒い感覚と共にどこからか流れ込んできた魔力が体外へと放出され、リリムの周囲に実体化。一本の光の矢となって獲物の頭部を撃ちぬいた。
「すっごく簡単ね」
「ちなみに効果範囲や威力の増減、射出する数や大きさもある程度まで変えられる。色々と試してみてくれ」
「はーい」
「サキも、自分が適正のある系統の魔法を多く使ってその感覚を覚えておけ。自分の魔力で使えるようにそのうち教えるからな」
「!#$」
返事の後に、動けない魔物を一方的に二人は攻撃して行く。
最終的にサキは主に風属性の魔法を、そしてリリムは光属性の魔法を使い出す。
「なんだか一方的に攻撃するのって気持ちいいわね。跪けーって感じ」
魔物に対する恐怖などもはや忘れそうだった。彼らと対峙して恐ろしいのは、そもそも対抗手段が無いからだ。相手を倒しきる力があるなら、恐れは余裕へと変化する。だが同時にリリムの中で虚しさが沸いてきた。
冒険者はハイリスクの中で戦い、リターンを得る職業だ。だというのに父親の言っていた恐ろしい存在の、この呆気なさはなんなのだろう。
こんなにも一方的に倒せるのはシュルトが動けなくしているからだとしても、それでも聞きかじった情報と差異がありすぎた。元娼婦にさえ殺されていく程度の魔物が人類の脅威だというのだろうかと、彼女の中で崩れてはいけない常識が崩れそうになっていく。それと同時に、知らず知らずのうちに少女の中に眠っていた残虐さが芽吹き始める。嗜虐心にも似たそれは、いきなり手に入れてしまった力の強大さを苗床に肥大化していった。
「アハハハ、これすっごいわ。なんだか今日から私も冒険者になれちゃいそうじゃない!」
初めて行使する圧倒的な力は、虚しさを凌駕し黒い感情と爽快感を彼女に与える。
光の矢で射抜き、光の塊をぶつけて吹き飛ばし、聖なる雷を叩き込んで魔物たちを物言わぬ屍へと変えていく。まるで物語に出てくる英雄にでもなった気分だった。
だがそう思うリリムとは逆に、見守るだけの彼はその姿にベクトルが逆の英雄の姿を見ていた。それはサキにも薄っすらと見られた黒い感情の発露ではあったが、今はただ指摘せずにいた。力が変えるのか、それとも力があるから変わるのか。かつての王国での教師時代のそれとはまた違う化け方を予見しながら、彼は少女の精神の変革をただただ見守る。少女が少しずつさらけ出して行くありのままの素顔が、彼にはとても新鮮だったのだ。
「リリム、武器へのエンチャント系は使えるか?」
「えーと、これかな。ライトエンチャント!」
使うなり、持っていた鞭とナイフが魔力の輝きに包まれる。
「振るってみろ。相当な威力が出るぞ」
「了解。てやっ!」
ヒュッと小気味良い音がする。
通常の近接武器とは違い、鞭の飛来速度は相当なものになる。その速度から得るエネルギーを一点に叩き込むのが鞭という武器の真骨頂。だが、それだけには留まらない。鞭の先端が影から抜け出せずにもがいてた単眼の牛のような魔物、『アイビーフ』の頭部を、魔力障壁をほとんど無視して打ち据えたのだ。瞬間、光が稲光のように瞬いたかと思えば、魔物の頭部が爆砕した。
「げっ――」
頭蓋に守られたはずの脳漿と肉片が周囲に飛びちり、完全に力を失った胴体と共に影の中に消えて行く。血の匂いが鼻につく。知らず知らずのうちに恐怖とはまた別の感情が彼女の背中を震わせる。
「明らかに鞭の威力じゃないんだけど……」
「奴らの魔力障壁を貫通して余りあるほどの魔力が込められていたからな。アレぐらいはできるさ。とはいえ、効果は無限ではないから気をつけろ」
「うう、浄化魔法かけないと持つ気になれないわね」
使用した部分に体液や肉片が付着している。顔を顰めながらミスリルウィップを浄化し、サキの方を見てみる。そちらはそちらで、地獄絵図が展開されていた。風の刃が両断し、竜巻が切り裂き、空気の塊が炸裂して対象を吹き飛ばす。
リリムと共通しているのはやはり魔物の魔力障壁をほとんど無視しているところだろう。驚くほどに呆気ない蹂躙劇を演出している。サキの方は一度経験しているせいで静かなものだ。空恐ろしい程淡々と魔法を行使して行く彼女もまた、リリムと同様に生み出した死に怯えることはない。二人とも切り替えが異様に早い。魔物は人間の敵である。その認識が、行使する力に呵責などといった不純物を与えさせるわけが無かったのかもしれない。
「サキもすごいわね」
「威力はこれでも抑えられている方だがな」
「あれで抑えてるんだ」
「あくまでも簡易的に魔法を使わせるための魔法だ。私が覚えていない魔法は使えないし、魔力消費の効率も最悪。威力も低下しているし私がパスを遮断すると使えなくなる。だが魔法を使う感覚をこれで養っておけば習得がかなり楽になる。どちらかといえば教導用とでも言うべきか。この世界だと十分な威力にはなるがな」
「なんていうか、貴方のところと比べるとうちの魔法が貧相に見えるわ」
「方向性の違いだ。ここの生活魔法は痒いところに手が届いていて素晴らしい。ここまで生活に密着した形態なのは珍しいが、随分と勉強になった。中々有意義であったよ」
「帝国だと子供のときに大抵は覚えさせられるけどね」
「魔力消費も少ないし、何よりも覚えやすい。魔法の入門用としても最高だ」
嫌に饒舌に絶賛するシュルトは、更に生活魔法の利便性について説いてくる。聞いてもいないことばかり言ってくるがリリムは思い出した。魔法が好きだと言っていたことを。
話が専門的な分野に飛ぶので適当に相槌を撃ちながら聞き流し、ストレス解消とばかりに魔物に対して魔法を撃ち込む。影に飲まれた魔物はすぐに一掃されるのに時間はそれほど掛からなかった。だがシュルト一人で一気に殲滅するのとは違うせいで、周囲に魔物が集ってくる。
「――OOON!」
その時、一際大きな叫びが聞こえた。山脈に木霊する咆哮は、これまでの動物サイズの魔物とは一線を駕す声量だ。リリムとサキが魔法を使うのを止めてシュルトを見た。
「……でかいな」
呟きながら、少女たち二人を両手で抱き寄せる。咆哮は徐々に大きくなっていき、心なしか地面が振動しているように揺れていた。と、森の木の一角でバッと野鳥が飛び去って行くのが遠目に見えた。その下には緑色をした蜥蜴の頭のようなものが見える。それが、魔物の頭部だと理解した少女たちは、さすがに口をあんぐりとあけた。
「%&!”#」
「でかっ!」
「討伐指定級クラスの大物だな。さしずめ、グリーンドラゴンとでも呼ぶべきか」
十二メートルは優に超えるだろうその巨体の持ち主は、木々を倒しながら真っ直ぐに歩いてくる。纏っている魔力障壁は、他の魔物たちと比べものにならない程に輝いており、見ため以上の防御力を誇示している。頭部に生えている二本の角は時折バチバチと放電しており直ぐにでも雷を呼びそうだ。顎から見える獰猛な牙と、手や足に生えている爪は鋼鉄さえも引き裂くだろう。そして極めつけはその全身を覆う鱗だ。生半可な武器では傷さえ付けられない強度がある。
「妙だな。翼がある癖に飛ばないとは」
飛ぼうと思えば飛べるはずなのに、一向に飛ばずに歩いてくる。シュルトは自分の知っている竜との差異に首を傾げる。竜は知能が高く、中には人語を解するものも存在した。それほどまでに理性的であり、強大な魔力を持つ。生物の上位に君臨する程の生き物なのだ。にもかかわらず、そういったものが余り感じられなかった。
「……あ、落ちた」
リリムが呆然と呟く。眼前で、シュルトの影に足を取られもがいている。その頃になってようやく思い出したかのように翼を使うも、シュルトが指を鳴らす方が早い。真下からシャドウブレイドが鋭い矛先を持つ槍の形状をとって次々と竜へ伸びて行く。魔力障壁は少しばかり健闘したが、数秒の接触を経て貫通。竜の手足に風穴を開けた。
(弱すぎる。なんだ、これは本当に竜なのか?)
影の刃は様子見の一撃でしかなかった。見たところ若い竜だ。感知できる魔力の最大量はシュルトには及ばずとも、全能を駆使すれば少しばかり梃子摺るレベルであるはずなのだ。困惑が彼の中に疑問を生じさせる。止めを刺すべく用意された影の刃を向けることを戸惑うほどに。
激痛に身を捩りながら竜が咆哮した。それ自体はここまでの魔物たちと何も変わらない行動だった。だがその次の行動が少しばかり違っていた。竜の関心が、シュルトから逸れたのだ。今までずっと弱き者ではなく強き者に関心を持ってきた魔物が現状で最もか弱いだろうリリムを見るなど変化以外の何者でもない。
「えっ――」
獰猛で凶悪な存在である魔物。だがどういうわけかその目が不思議と穏やかだった。碧眼と竜眼が交差する。瞬間、リリムの体が不可視の衝撃を受けて仰け反った。
「私の障壁を無視しただと!? 邪眼か!」
視線を合わせることで発動する類の術である。障壁の有無など関係ない。精神にダメージを与えるものから魅了や石化などの状態異常効果を与えるものまで色々ある。どの種類かは咄嗟には分からなかったが、シュルトは血相を変えて怒りを露にした。
「リリム!? ええい、蜥蜴風情が!」
止めを刺そうとして放たれるシャドウブレイド。殺到する死の刃を前にして、竜が静かに目を閉じる。
「――駄目、止めてシュレイダー!」
「何故止める!」
影の刃が心臓と首に叩き込まれる寸前で止まる。
額を押さえながら、それでも懇願する彼女の声に、シュルトが苛立ちの声を上げるのも束の間、彼の腕の中からリリムが飛び出した。
「リリム!」
岩の上からシュルトの影魔法の上に飛び降りると、彼女はその上を何事もないかのように歩き竜に近寄って行く。その体が、何故か白い輝きに包まれていた。
「あれは……内気魔法か?」
術者以外を飲み込むはずの影の沼が、彼女の光に駆逐されてその下の地面を露にしていく。その上を走る少女の体は通常の魔力とは違う優しい光――生命の光に満ちていた。
通常の魔法が外に魔力を放出して行使する技法であるとすれば、内気魔法は体内に存在する生命力――気やオーラなどと呼ばれるエネルギーを内部で作用させて使う技法だ。
シュルトが与えたスキル魔法で行使することは可能だが、今は魔力のパスを繋いではいても生命力をやりとりするようなパスは存在しない。ならば消費されるべきエネルギーは彼女の体から捻出されることになる。だというのに下手をすると何一つ鍛錬をしていない彼女が彼を上回るほどの輝きを持っている事実は不可解だろう。その理由をなんとなく予測できるシュルトでさえも思わず目を疑わずには居られなかった。
「いや、質が微妙に違う。オーラに類似する力だとすれば……やはり君は――」
続く言葉は、彼女の発する純白の光に飲み込まれた。周辺を全て飲み込むほどの異様な光のその向こうを、彼は何一つ見逃さないように必死に見届け続ける。
少女の体が血まみれの竜の前で止まる。シュルトの影のせいで竜は動けない。だが、一度口を開けば灼熱のブレスを放つことができる。そんな相手に彼女は臆せずに見上げて問いかけた。
「ねぇ、どうすればいいのよ。この続きを教えなさいレブレ」
一度閉じた竜の瞳が再度開かれ、リリムがもう一度視線を重ねる。またも一瞬、仰け反るリリム。だが、倒れることはない。それにはそもそも攻撃力など無かったのだ。
(レブレだと? まさか、啓示の緑竜レブレか!?)
シュルトの住んでいた世界において、特異な力で名を轟かせた若き竜である。視線を合わせた相手に啓示を与え持ちえる才を引き出すその竜は、世界中を飛び回っては希少な技能を持つ者たちの力を無秩序に目覚めさせてきた愉快犯だ。そんな竜が、何故こんなところに居るのか。
(確かにレブレならリリムに目をつけてもおかしくはない。だが何故この世界に居る。そして何故、語りかけてこなかった。やはり魔物とは――)
瞬間、少女の体が更に発光。爆発的な勢いで広がり、周辺一体を完全に包み込む。その姿はまるで、小さな太陽が目の前に顕現したかのようだった。
「……リリム?」
三十程の数を数えたぐらいの時が経っただろうか。数秒ほど完全に彼女の姿を見失っていたシュルトが、何度も瞬きをして眩んだ眼で彼女を探す。すると、リリムは地面に伏せたレブレの口元撫でていた。その足元にあったはずのシュルトの影は、完全に喪失している。突き刺さった刃も消え、さらには傷つけられたはずの体が完全に治癒していた。
シュルトは呆然としているサキを小脇に抱えて側に向かう。その間、レブレはリリムを害することも、シュルトたちを攻撃することもなかった。それは周囲に集まってきていた魔物たちも同じだ。彼らは一様に魔力障壁を失ってこの場から去っていく。まるで、強者を嗅ぎ分けた獣のようだ。そこには明らかな変化が生じていた。
「リリム、レブレと会話したのか?」
「!”#$%」
「……なに?」
一瞬、リリムの言葉がシュルトには分からなかった。向こうも同じで通じなかったらしく、二人揃って驚いている。
「あー、多分会話は無理だよ。その子が僕や君にかけられていた妙な魔法を解いたし」
困惑する二人の前で、レブレが言った。その少年のような声が理解できたのは、シュルトだけだ。リリムとサキは急に大口を開けて訳のわからない言語を紡いだレブレから距離を取り、シュルトの背中へと隠れて様子を伺っている。
「やはりこの子は――」
「そうだよシュルト・レイセン・ハウダー。魔法卿の方が聞こえがいいかな。彼女は君たち吸血鬼や摂理に反する者の天敵……穢せぬ聖女さ」
少しだけ舌なめずりをして、レブレはリリムを見た。竜は肉食が多く、また人間も食べる種は多い。食べる場合は吸血鬼に似ていて、異性の純潔である方が力がつく。その中でも聖女というのは格好の獲物なのだ。とはいってもシュルトの居た世界において竜は最近であれば縄張りを荒しにでも来なければ人を襲うことはあまりない。特にこの啓示の緑竜は戯れに啓示を与えることを娯楽としているため、食欲よりも好奇心が強く、滅多に人間は食べないことが知られていた。
「血はもう吸ったんでしょ」
「ああ」
「なのに無事でいるってことが答えだよ。君は神祖なんだよね。なら血の味に魅せられちゃったわけでしょ。もう一生君はその子から離れられないよ。大変だね色々と」
「そうでもない。この世界に居る吸血鬼は私だけだ。対抗馬がいないなら問題ない」
「今は、ね」
意味深なその言葉に、シュルトは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「まぁいいや。それも含めて情報交換をしたいところなんだけど邪魔が入りそうだね。乗りなよ魔法卿。早く逃げないと厄介なことになりそうだよ。その子、危険視されてる。すっごい勢いで魔物が集まってきてるよ」
「難儀なことだ」
背中に居る少女二人を小脇に抱えてその場で跳躍。レブレの背に乗る。少女たちが一瞬悲鳴を上げたが、彼は言葉の通じない二人をそのままレブレの首にまたがり影の魔法を再展開。シャドウブレイドを変形させ、紐状にしてから二人の体を両膝に乗せて影の紐で固定する。影はレブレの首にも巻きつけられており、万が一にも落ちることはない。シュルトは踵で鱗を軽く蹴ってレブレに合図を送る。
「こっちはいいぞ」
「おっけー」
レブレが立ち上がり、翼を広げる。力強い羽ばたきに混じって自然と行使された魔力が、竜の巨体をゆっくりと空へと浮き上がらせていく。上がって行く視界が、周囲の木の天辺を超えていく。その後に見えてくるのは山脈の麓の景色と、次々と飛び上がってくる魔物の群れだ。それらはまるでシュルトたちを取り囲むように旋回を始めていた。その中には、解体師の男が話していたレッドホークの姿もある。また、地上でも魔力障壁持ちの魔物たちが集ってきていた。
「ちょっと数が多いかな。さすがの君でもこの状況で転移魔法は無理でしょ」
「乗る前に試したが失敗した。転移妨害の結界が張られている」
竜眼と魔眼が、山脈を一帯を覆うほどに巨大な結界を見つけていた。そのあまりの広さには竜と吸血鬼の二人もさすがに驚かないわけにはいかない。
「試しに聞くけど解除は無理だよね」
「基点になっている奴か、あるいは術者を狩れれば問題ない。しかし魔力を行使した跡がないのはどういうことだ。そのせいで特定が出来ん。そもそも結界事態転移に失敗して気づいたぐらいだ。この私でさえ薄っすらとした見えないのは異常だぞ」
「僕たちの世界にはない未知の技法かな。きっと魔物の召喚と同じ技術だ」
「やはりか」
魔物だけではなく自分を召喚した原理も同じなのだろうとシュルトは予想していた。そうでなければ自身にかけられていた翻訳効果のある魔法や、その他のよく分からない魔法も解除できていた。
「どうする? あの可愛らしい聖女様の奇跡にでも縋ってみるかい」
「駄目だ。アレは負担が大きいと聞いたことがある。慣れるまではあまり使わせたくない」
「なら強行突破だ」
「念のため突破の瞬間だけタイミングを合わせよう」
「了解」
レブレが翼をはためかせる。
「「!”#$」」
急激な加速に少女たちが悲鳴を上げた。風圧でシュルトに背中を預ける形になっている彼女たちは、回された手に必死にしがみ付いて離さない。二人を安心させるように言葉を吐こうにも今は言葉が通じない。吸血鬼は後で説明するのが大変だと思いながら魔法を詠唱。離脱を妨害しようとする魔物の群れへと意識をやった。
「一番槍を貰うよ」
レブレが大きく顎を開く。獰猛な牙を誇示しながら、大きく息を吸い込む。ドラゴンブレスの兆候だ。通常ならこの動きを察知した者はすべからく逃げ惑う。しかし、魔力障壁を纏った鳥形の魔物たちは回避機動さえとらない。全周囲から一斉にレブレに向かって突貫してくる。
それは空を埋め尽くしそうな程の数の暴虐。数十では明らかに足りない。数百単位での特攻を前にして、レブレは慌てずにブレスを吐いた。竜魔法『ペネレイトブレス』。それはただ灼熱のブレスを広範囲に吹き付けるタイプのものではなく、圧縮して貫通力を持たせた大口径のレーザービームの如き一撃だった。
山脈の空を背に一条の閃光が虚空を貫く。一撃は前方の魔物を魔力障壁ごと容易く消し炭にして貫通。結界までの空路に風穴を開ける。ブレスの勢いは止まらない。空の彼方まで届くのではないかというほどの一撃は、しかし結界に触れた瞬間にぶつかって遮られる。
「うわぁ。予想以上に硬いよアレ。こんな広範囲に張ってる癖にありえない強度だ!」
「泣き言を言っても仕方あるまい!」
頭上に二百を優に超える拳大の大きさの黒い魔力の玉――爆裂弾『ブラストバレット』を浮かべながらシュルトが言う。彼は指を鳴らし、それらは一斉に前方へと射出。レブレが風穴を開けた包囲網の一角へと叩き込む。爆裂弾は包囲網に開いた穴を塞ごうとする一団に命中。轟音を立てながら次々と炸裂し、飛行方の魔物を次々と肉片に変えていく。数秒送れてやってくる爆風が、騎乗する三人の髪を更に風に靡かせる。
「魔法障壁全開! いーやっほう!」
強引に二人で開けた空隙に、卵形に障壁を展開したレブレが突っ込んで行く。加速し続けるその巨躯はまるで破城槌のようだった。行く手を阻もうとする魔物たちを強引に弾き飛ばし、力ずくで包囲網を突破する。それに数秒送れて置き土産とばかりにブラストバレットを再度詠唱したシュルトが、反転して追撃に移ろうとした敵集団に二発目の爆裂弾を叩き込む。爆裂音と共に大気が震え、背中から来る衝撃波が追い風となって更にレブレを加速させる。
竜の翼ならば結界の端まではそれほど時間はかからない。結界をぶち抜くための魔法の詠唱に入ろうとしたシュルトは、そのとき左膝に座っているリリムに肘で合図された。何事かと思って視線を向ければ、リリムが指差す左側から竜が三体上がってきているのが見えた。
「あれは……ワイバーンか!?」
レブレよりは一回り小さいその翼竜たちは、相変わらず魔力障壁を纏っていた。揃って大きく息を吸い込んだかと思えば、炎弾を吐き出してくる。
「レブレ、右下に避けろ!」
「魔法卿、二人を落とさないようにしててよ!」
言うなり、右に回転しながらレブレが高度を落としていく。シュルトは今までよりも強く二人の少女を抱きしめつつ、回転する視界の中で中断していた詠唱を再開する。その上を、三つの炎弾が抜けていくのが見えた。
それをレブレもそれを確認したのだろう。ロールしながら下降するのを止めて一度後ろを振り返り、ワイバーンの位置取りを確認。上下左右へ体を揺らすしながら回避機動を取り始める。逃げるレブレと追う魔物。それは空だけに留まらずに陸にまで影響していた。
地面では足の速い四速歩行タイプの魔物を筆頭に疾走し、大攻勢もかくやという規模で追ってきている。その数は空陸を問わずに理不尽にも増え続けていた。シュルトが振り返ればあたり前のように増えているワイバーンの姿が確認できた。三匹から七匹にまで数が増えているそれらは次々と背後から炎弾を放ってくる。レブレがそれらを巧みに躱しながら進むたび、高速で追い抜いて行く炎弾が結界に当たって弾け飛ぶ。
「合わせろレブレ!」
「了解!」
レブレが大きく息を吸い、再びペネレイトブレスを放つ準備を整える。同時にシュルトが魔法を起動。レブレの首の周囲に幾何学的な文様が描かれた魔法陣を六つ展開する。魔法陣はそのままレブレの周囲を回転しながらシュルトの魔力を練り上げていく。それは、魔法卿と呼ばれた頃に彼が開発した魔法障壁の貫通にこそ特化したオリジナルスペル『シェルバスター』。すぐ側まで迫った結界に向け、シュルトは魔力を出し惜しみする事無く大半を込めて放つ。
「ぶち抜けぇぇぇ!」
回転する魔法陣から六つの黒い閃光が放たれる。大口径のそれはレブレの放ったブレスにも似ていた。それらは一点に集束し虚空に螺旋を描きながら抉りこむようにして障壁に挑みかかる。
シェルバスターと結界が激しく衝突し接触点で激しいまでの火花が散った。過負荷が衝突地点で視覚化され、魔眼や竜眼を持っていない二人の少女にもその光景が目に映る。空間が歪んだようにも見えるその一点へ一拍遅れてレブレが駄目押しのペネレイトブレスを放つ。魔法陣の中心を奔るのは真紅の光。貫通を重視されたそのブレスが駄目押しとなった。結界がひび割れたかと思えば二人の猛撃に耐え切れずに大穴を開ける。そこへレブレが己の体を突っ込ませた。
「うわっ、滅茶苦茶だよあれ」
振り返ったレブレが、恐ろしい速度で修復されていく結界の穴を見て呻く。その穴を二体のワイバーンが通過した。三匹目は修復された結界に頭から衝突しそのまま結界を滑るように落下。残りは結界を通ることができずに寸前で速度を緩め立ち往生していた。
「残り二匹か。相手をしてやる義理はないが――」
「叩いておこう。あいつらはきっと使い魔みたいなものなんだ。やっておかないと後で絶対に使われる」
「なら、もう少しこころ離れてからだ。もう一度結界を張られたくはないからな」
「逃げる方角はどっちがいい?」
「直ぐ下の川に沿って飛んでくれ。廃棄された城があるはずだ」
うち捨てられている古城ならばレブレの巨体が人目につくこともない。かつての空元への旅で覚えていたシュルトは提案した。
「オーケー」
レブレは頷き、川に沿って飛んだ。
二体のワイバーンを撃破し、その屍を影の中に回収したシュルトたちは古びた古城の中庭に降りていた。かなり風化してはいたものの、魔物らしき人影はない。堅牢に作られることも多い城の例から漏れず調べれば使えそうな部屋が見つかりそうだった。無論、生活するなら掃除の必要はあるだろうが、一息つくには十分だった。四人は城内へと続く階段に腰掛け、話をすることにする。
「いやぁ、それにしても僕は運が良かったよ」
魔法で人化したレブレがシュルトに話しかける。リリムやサキよりも更に小さく十歳ほどに見えるだろうか。どこか人懐っこい笑みを浮かべるその少年は、エメラルドグリーンの髪を靡かせながら如何に自分がピンチだったかを説明して行く。
彼には明らかに危機感が欠如していた。長命であり、天敵らしい天敵が少ない個体である竜にとっては命の危機に遭遇する機会はかなり少ない。そういう意味で言えば、彼がいろいろな意味で興奮しているのも不思議ではないのかもしれない。しかし、その言葉が分かるのはシュルトだけだ。リリムとサキは獰猛そうな巨竜が可愛らしい少年になったことが信じられないらしく、やはり様子を伺っている。
いい加減面倒くさくなったシュルトは、影から白紙の本とインク、そして羽ペンを取り出してレブレの話しを聞き流しつつ大陸語で言葉を綴り始める。リングルベルで教鞭を取るために文字は覚えていたのだ。会話は召喚されたときに付与されていた翻訳魔法でなんとかなかっていたのだが、リリムによって全て解除されている。おかげで会話するには筆談をするしかなかった。文法は問題はないシュルトだったが、如何せんネイティブに発音するリリムの言葉は聞き取り難く、大陸語を口にするにしても慣れるまで時間がかかりそうだった。
理解できているだけの現状を書き綴りリリムに見せる。怪訝な顔をした彼女は、しかしそれを読んで納得の表情を一応は浮かべた。シュルトから羽ペンを奪うと、筆談に応じる。
――それで、これからどうするのよ。
その問いに、羽ペンをもう一つ取り出して本に記していく。魔物が今後リリムを狙ってくる可能性が高いこと。そのために、魔物に遭遇しない程度に逃げ隠れするしかなく、対処するために武力を研鑽して欲しいこと。そして、そのために身を隠して欲しいことなどを伝えて行く。
――なんで私なのよ。
ここ最近の出来事の積み重ねにうんざりしていた彼女は、絶望を通り越して諦めたような表情を浮かべる。
――魔物はレブレと同じで何者かに召喚され利用されている異世界の存在だ。驚くべきことにアレだけの数の魔物が全て使役している。何が目的なのかは分からないが、手足となる彼らを開放する力が君にはある。だから今後狙われる可能性がある。
――で、いつまでそうしろって?
――君が連中を歯牙にもかけない程に強くなるか元凶が排除されるまでだ。安心しろ。私は君を見捨てはしない。それに君の敵は私の敵だ。確実に潰さなければならない。
――……ほんとブレないわよね貴方は。
「ねぇねぇ、二人で話してないで僕も混ぜてよぉ」
「なんだ、もう終ったのか」
「情報交換してる最中にそういうことするのはどうかと思うよ」
「ならば聞くが召喚主の居場所は?」
「分かんない。気がつけば君たちに出会った森の中に居たんだ。多分遠隔召喚だね」
そして体の自由をほとんど奪われていたともレブレは言う。しかし、敵にも誤算があった。竜というのは状態異常に対する耐性がかなり強い。彼は辛うじて理性は保ったまま抵抗し、偶々自分を救えるだろう聖女に啓示を授けた。シュルトに殺されるかと思って諦めそうになったが、結果として助かり今に至っている。
「さて、それじゃあそろそろ君の方の話しも聞かせてよ」
今度はシュルトが大まかに説明する番だった。リングルベル王国で召喚されたこと。そして、それから今に至るまでの簡単な流れを話していく。結果として二人の認識は一致した。シュルトとレブレ。二人を召喚した犯人は同一人物ないし、同じ力を持った存在だろうと。しかし分からないことが一つだけある。それは犯人の目的だ。
魔物を召喚し人々を襲わせる一方で、魔物に対抗するための存在も呼び出す。犯人が単独犯であれば矛盾する。しかし、別々であっても不可解さは残る。対魔物用の召喚を行う側が特に顕著だろう。
「結局共通点は召喚だけだけど態々召喚で対処しようとするところが訳が分かんないんだよね。普通は送還系の魔法を広めて対処するとか、もっと効率の良いやり方をするし」
「そもそも召喚対象がランダムであるところが解せん。自分より強く、そして聞く耳を持たない相手を呼ぶとその時点で詰むぞ」
「だよねぇ。うちの長老とかだと絶対に言うこと聞かずに食べちゃうよ」
「私も召喚当初は殺意を抑えるのに苦労したが……む? 考えてみればよく承諾したな」
「んー、救いを求めて召喚したわけでしょ。なら徒順にする魔法もかかってたとか?」
「ありえるな。解析できなかった付与効果はそういう類だったわけだ」
どちらにせよもうそれに悩まされることはないので二人は情報交換を終えて次の議題に移る。魔物からリリムを隠すための手段や、犯人への対抗策。リリムの聖女としての力の覚醒と強化。サキへの魔法の伝授などやるべきことは沢山在る。
「二年だな。もう一度山脈を調査したいが、そのために準備する必要がある。幸い、東側は魔物が少ない。それぐらいならリリムを匿えるだろう」
「んー、帝国だっけ。この国がそこまで持つかな」
「最悪は私たちが持たせればいい。二年間、グリーズ帝国には奮闘してもらいその間に打って出るだけの力を蓄える。リリムのためにも相手を生かしておくわけにはいかない。そしてあわよくば召喚魔法の詳細も入手する。方針としてはこんなところか」
「じゃそういうことで決定!」
やはり危機感を感じさせない顔でレブレが言う。頷きながらシュルトは空を仰いだ。太陽の位置から時間を逆算し気づいた。もう、既にギルドの解体職員との約束の時間はとっくに過ぎているということに。