第十三話「平凡者へのレクイエム」
快晴の空。エルネスカ砦の眼前で動きがあった。暴れる竜から逃げるように、その一団は拠点からワラワラと飛び出してくる。自らが作った迷路を抜けて、隠れることもせずにただ前へ。その進撃速度は明らかに異常だった。
当然といえば当然だったかもしれない。彼らは皆、極めて軽装であった。外套の下には鎧などない。手にしているのは武器と盾。例外もいないわけではなかったが、そういった重武装の者は皆軍馬に乗っていた。
隊列を組み、距離を詰める公爵軍をまるで包囲するかのように横に散らばっていく。それが浄化魔法用で一網打尽にされないための対策であるのは明白だろう。加えて、防具を最低限にした彼らは、人間を越える身体能力を遺憾なく発揮した。
それはレギオン。人間の姿をした化け物のレギオン。リアルタイムで情報を得て、戦場の中を有機的に活動できる恐るべき軍隊であった。それが約七万。公爵軍としては、そのセオリーを一切無視した者たちの突撃は正に正気を疑う程に恐ろしい物であった。
指揮用に組み立てられた車輪着きの櫓の上で、陣営を見渡していた公爵から矢継ぎ早に伝令が伝えられる。突撃してきた際の作戦も当然打ち合わせされている。防備を固め、槍衾を形勢した上での浄化魔法戦に持ち込むのだ。
当然、前線で指揮を執るように任されていたベイリックもその基本方針を踏襲した。だが、それがこの軍勢に対して有効であったかといえば微妙であった。
「弓、放て!」
空を埋めつくさんとばかりに後衛から放たれる矢の雨。それを盾で防ぐ化け物の軍勢。相手は軽装。当たれば当たり前のように勢いを殺ぐことができる。その目論見は確かに普通の人間なら当然だ。しかし、相手は白煙を上げながら寧ろ突撃の速度を上げた。
「なに? ちっ、弓隊は撃ち続けろ! 次、浄化魔法放て!」
射程に合わせて迎撃を試みる。決死の光を盾で塞ぎ、化け物共が決死の覚悟で飛び込んでくる。効果はあった。だが、一撃必殺とはいかなかった。その次の瞬間には魔法詠唱のタイムラグを利用して化け物が迫ってくる。ベイリックは拡声魔法を使って声を張り上げる。
「魔力が続く限り魔法を撃ち続けろ! 魔力が尽きた者は順次後ろと下がれ! 前衛は盾と槍で押さえ込め!」
ついに、最前線で接近戦が行われる。獲物と盾を撃ち付け合い、至近距離で魔法が飛び交う。当然、相手も賢人魔法を放ってくる。一撃必殺の武器を持っているのは相手だけではない。
魔法は人間相手なら十分な殺傷力を秘めている。隊列を組んで攻めるせいで、その被害は拡大した。そして何より、浄化魔法で倒れた兵士を後ろの味方が喰らう光景が広がったあたりで、公爵軍に動揺が奔った。さらにそれが味方にまで及ぶと顕著になった。浄化魔法で救出するも、敵軍に飲み込まれて効果が薄い。
(出鱈目だな本当に)
浄化魔法で倒した敵が目の前で黄泉帰るのである。また、前衛が敵に食われても敵になるのだ。兵数が問題なのではない。敵軍は、決死の覚悟で攻めても蘇ることができる。言うなれば、全員が決死隊になれる反則戦力。その能力だけで兵数が見た目のそれの何倍にもなるのである。
竜騎士は砦を攻撃している。その威力に間違いはない。秘密兵器としての役割は確かに果たしている。だが、そこで敵はあっさりと砦を捨てた。最終的に勝てば被害を度外視するつもりなのだろう。指揮官としては最低だが、効果はありそれが可能なのが化け物の軍勢。ベイリックはすぐさま決断した。
「各員、味方を救うとき以外は浄化魔法からファイアに切り替えて外套ごと燃やせ! 太陽の力で敵をねじ伏せろ!」
戦術の切り替えにより、なんとか致命的に流れを奪われない程度にはなった。が、その分戦いは凄惨になっていた。
肉の焼ける匂い、血の匂い、兵士たちの絶叫と化け物たちの上げる奇声。まるでこの世の物とは思えないような凄惨な戦いへとシフトしていた。これならまだ、魔物を相手にした方がわかりやすくて良いと思えるほどに。
兵士たち顔からは少しずつ余裕がなくなっていく。帝都では民衆の圧倒的数があった。だがこの戦場では数の優位こそあれど、それが一方的になるほどには機能できていない。結果として削り合いを行うしかないのだ。それも、決死の相手に対しての削りあい。
(小手先の戦術でどうこうできるレベルではない。ここはやはり出鱈目には出鱈目をぶつけるのが得策だが――)
頼みの綱の竜騎士は砦を攻撃し続けている。馬上から遠目に見えるだけでも、竜に挑む闇色の光との戦いが伺える。
(ふっ。結局、黒騎士が勝つか負けるかが分かれ目か。ならば少しでも長く踏みとどまるしかないな)
兵士たちを鼓舞しながら、ベイリックは檄を飛ばし続けた。
徐々に、少しずつ後退していく。外壁の上を必死に走る少年の後ろで、鋼鉄さえ引き裂く竜の爪が振り下ろされた。その度に頑丈なはずの外壁が粉砕され、煩いほどの破砕音が響き渡る。何度も耳にしたその音と合わせて、外壁が悲鳴を上げるかのように振動する。震度が一体どれだけなのかを問う余裕など、もはやアキヒコにはない。
「くそっ、でかいくせに反応が速過ぎる!」
『鬼さんこちらぁってかぁ』
数度の跳躍アタックは全て潰され、その度に体の骨が軋んだ。まるで自分が蚊やハエになった気分だった。マリスの闇で軽減してもなおその質量差が壁となる。
気分は劣勢のドラゴンスレイヤー。
どうしようもない相手に、剣一本で挑む愚かなる英雄志願者のようだ。功名心などなく、倒して手に入る物さえ何も無い。何の報酬もない愚かな蛮勇を、しかし飽きもせずに少年は続けた。
亀裂が走り、足元の建材が砕け散るより先に跳躍。驚異的な脚力で逃げ切る。それを追う竜の、嫌に場違いに可愛らしい声が響く。
「待て待てぇー」
気が抜けるような声が、しかし今はただ恐ろしい。無邪気な殺戮者の追撃。瞬間、頭に生えた二本の角がバチバチと放電。
『電撃、上からくるぞぉ』
「ちっ――」
「発雷!」
着地した瞬間、転がるようにして砦内へと続く通路の中へと飛び込む。一瞬遅れて背後から雷鳴が轟き、砦が太陽よりも眩い雷光に照らされる。そこへ、砦ごと押しつぶそうと竜の腕が破城槌となって強襲。一息つこうとしたアキヒコの直ぐ後ろ側の壁を突き抜ける。
「くそったれ。休む暇もくれないってか」
全力で前に走るその後ろで、壁を突き抜けた緑色の腕が今度はそのまま真横へと動き出す。途端に、柱も壁も関係ないとばかりに建材ごと抉りとられる。その上に組まれている屋根から上が、中抜きによって重量に耐え切れず崩落。瓦礫となって地面へと降り注ぐ。
振り返ったアキヒコは太陽の光が燦々と照りつく砦外とご対面。その向う、光を遮るように中を覗き込む竜の姿を見つける。と、目が合ったかと思えば、その竜の口がぱっくりと開いた。
「情け容赦ねぇ!?」
今度は開幕時に放ったそれとは違い、純粋な灼熱の吐息<ヘルファイア>。建材ごと焼き尽くす業火が真後ろから吹き込まれてくる。反射させるような時間的な余裕はない。アキヒコは咄嗟に剣を掲げ、闇を弾丸のように飛ばすと横の壁をぶち破って外へと逃れる。背中を炙る熱波。通り過ぎる炎がちりちりと外套を焦がすような不快な感触。その後に来るのは浮遊感。
当たり前のように襲い掛かってくる惑星の重力。歯を食いしばり、四、五階程の高さからの衝撃を両足でなんとか耐える。
「逃がさないぞぉ」
「まるで鬼ごっこだな」
『鬼じゃなくて竜だけどなぁ。フヒヒ、あいつにとっちゃお前なんてそんな程度さぁ』
竜が人間を恐れることはない。少なくとも今アキヒコの相手をしている竜は脅威など感じていないのだろう。逃げ惑うだけの相手に、何を恐れる必要があるのか。アキヒコでも立場を自覚すればそれぐらいは分かる。悔しいと感じるよりも先に、納得が来る。ともすれば手抜きをしても圧倒できる状況。だというのに、竜は声と裏腹に攻め手を緩めることはなかった。
「だが、あいつは遊んじゃいない」
『そりゃそうだろ。文句がでねぇぐらいにお前の敵として相対してるんだぜ』
忌々しいことに、竜はアキヒコの狙いを看破している。引き付けて少しでも多くの戦力を外へ出したいアキヒコが逃げたくない方向へと追い込むのもその一環だ。破壊活動は続く。少年を追い散らしながら、そのついでに内部の兵を生き埋めにする。ただでさえ余裕で踏み潰せるほどの巨体。蹂躙という言葉が生易しいほどに砦が破壊されていく。既に三分の一が廃墟となった。それの犠牲になった兵士の数は少なくない。だが、それでもそれが全てではない。
迷路中に配置されていた兵士や最初から外壁の上に居た兵士たちはすぐに跳躍して出撃している。まごついているのは篭城戦に備える準備をしていた連中や後詰たち。皮肉なことに、防衛のための迷路が仇となって人員の移動を制限した。
(とはいえ野戦の戦況は思った以上に有利。なら問題はこいつら。特に竜だ。こいつ、明らかに爬虫類だろ)
ヴァンパイア・ウィルスに感染する気配がまるでない。猿科の哺乳類に感染することまではクイーンの知識で分かっていたが、爬虫類に感染するデータはなかった。そしてそれを裏付けるように目の前の竜はどれだけ兵士を踏み潰しても感染する気配がない。まるで抗体を初めから持っているのではないかとさえ思わせるほどに。
(どうすればいい。やっぱり、頭をカチ割るしかないのか? それともいっそ、食われてから腹を破ればいいのか)
手持ちの武器は長剣一本。後はマリスの加護のみ。それであの巨大怪獣をどうにかできるのか。その自信は生憎とアキヒコにはない。
「せめて空でも飛べたら――」
『飛びたいのか? いいぜぇ、ほれよっ』
「うぉっ!?」
竜の動きを見定めていた体が、虚空へと浮かぶ。いきなりのそれに、アキヒコが咄嗟に悲鳴を上げる。
『俺様を舐めんなっての。ほれ、修行を思い出せよ。分かりやすくイメージ制御にしてやっただろ。飛べる自分をイメージしな。そしたらお前は鳥だって羨む速さで飛べるさ』
「それ早く言えよ!」
『聞かれなかったしなぁ。フヒヒ――』
必死にイメージし、暴れる闇を制御。闇の出力が飛翔に取られるが、それでもアキヒコはとりえる戦術の幅が格段に増えたことを理解する。地面を走り、飛び跳ねるだけでは足りなかった。空を飛べるというアドバンテージ、そして与えられている力をもっと有意義に使用する術が遂に反撃のカードを少年に与える。
「ぶっつけ本番ってところが最低だけど……感謝するよ魔神様っ」
初めはフラフラとしたそれを、ロボットゲームを思い出して制御。各個としたイメージを構築し、己の意思で空を制する。
「と、飛んだぁぁ!? 何アレ、どういう理屈なんだろ!? まったく分からないよぉ!」
「あんたがちんたらやってるからよ」
黒騎士が光の矢を周囲に浮かべ一斉に解き放つ。飛来する弾丸は、しかし纏う闇を貫けない。第一戦の時のライトエンチャントと同じだ。
『いいかぁ、俺が合図する攻撃以外は無視していいぜ。ただの魔法じゃそう簡単に抜けねぇからな』
「オーライッ!」
長剣の柄を両手で握り、光の矢を中を出鱈目に飛んで回避しながら竜の周囲を旋回。背後へと回り込む。竜が慌てて旋回するも、それよりも早く背中を取り効果していく。
「覚えておけってんだ。図体でかい奴ってのはさぁ――」
加速する体の前方に闇が集束。イメージするための映像は無数にある。ゲームの、アニメの、ラノベの中に数限りなくアキヒコの中に眠っている。思春期の想像力。能力に比例しない知識さえも総動員し、少年が空を舞う。
「大抵至近距離でチクチクやられるのに弱いんだよ!」
天地上下の空の只中、遂にアキヒコが攻勢に出た。放たれた矢のような加速。それを魔法障壁が阻もうとするが、知らぬとばかりにアキヒコは切り込んだ。
反発する魔法の壁と闇が鬩ぎあう。接触点が眩く輝き、エネルギー同士を対消滅させていく。レブレの背でその様を見ていたリリムはその速度に目を剥いた。レブレの巨体が完全に仇になっていた。周囲を飛翔する少年の動きが目に見えて変わっていく。
「うぅー、ちょこまかちょこまか鬱陶しいよぉ」
視界に捉えることすら困難なほどに加速したかと思えば、レブレの死角から何度も何度も剣を叩き込んでくる。徹底した一撃離脱<ヒットアンドアウェイ>。地面から解き放たれたことで、完全に上下左右前後ろへと三次元軌道を実現。予測できないような軌道で攻撃してくる。
(成長してる)
慣れていないそれが、徐々に適応していく。一つ信じられないことがあるとすれば、それはやはりその動き。相手は異世界人とはいえ人間だった。飛ぶという手段を手に入れたとしても、それをどうすれば良いかで迷うだろう。リリムだとて、飛行手段を手に入れた。だが、あんなにも不可思議な動きをしようとしたことはない。
回転しながら駆け抜けるような機動に、瞬間的な加減速。ほとんど真横への移動など、それまで知りうるはずの無い動きが、まるで当たり前のように繰り出されてくる。レブレだって空を飛べる。飛行する上でのセオリーは知っているはずだ。なのに捉え切れていない。相手がそれまで飛ばなかった二足歩行の人間なのに。
(なんて形相よ。死に物狂いで、もう後が無いみたいな。――嗚呼、そっか。あいつには本当に後が無いんだわ)
だから必死に、泣きそうな顔で無茶をやり通そうとしている。
(怖い。何してくるか分かんないどころか、最悪死なば諸共で来る感じ。だって、そもそもこいつ死にたがってるんだもの――)
少年はそんな顔をしていた。現実に耐え切れず、体だけではなく心を壊してしまった者のように。リリムだとて、そんな同輩を見たことがないわけではない。不思議と、助けてやろうなどという傲慢な考えは浮かばなかった。募るのは危機感であり、ただの焦燥。彼女は周囲を睥睨し、そうして当たり前のように選択した。
「レブレ、そいつ無視してさっさと砦を破壊しなさい」
「ええ!?」
「やることやって、化け物兵士もどうにかしないといけないでしょうが。あんたがしなきゃいけないことは、軍を勝たせることよ」
遠目に戦場が見えるが、旗色が良さそうには見えない。
「その代わり、アレが障壁抜いたら私が潰すわ」
「むぅー。了解」
渋々ではあるが、レブレが飛び回る少年を無視して破壊活動に専念する。させまいと阻むべく少年が立ち回るも、切り込むタイミングに合わせてリリムがオーラショットの気力を溜めるのに気づいて飛びずさる。
ただし、それは回避行動に出た動きではなかった。レブレたちが少年を絶対に倒さないといけないわけではないようにように、究極的には少年にとってレブレたちの相手に拘る必要は無いからである。
「げっ、今度は私たち無視して本隊狙ってる!?」
「転移するよ!」
勝たせるというのであれば、公爵軍を守らなければならない。空を飛ぶ術を手に入れ、闇を纏う少年を放置することは彼の軍にとっては致命的になる。
翼を広げ、羽ばたくと同時にレブレが公爵軍の真上に顕現。向かってくる少年へと向き直る。少年に減速の気配はない。一直線にその場所を目指して降下する。狙うのは公爵が指揮する車輪着きの櫓だろう。極めて状況を判断しやすい代わりに、敵からも見えやすい。
飛んでくる少年に眼下の兵士たちも気づいたようだが、手を出せる者はいなかった。弓も魔法も、高速ですれ違った彼に中てられるものではない。そして、頼みの綱のレブレも手を出せなかった。
下には当たり前のように兵がいる。着地するようなスペースはない。東軍の兵士の頭上スレスレを飛ぶ少年の決死の突撃を、レブレがその巨体でどうこうしろという方が難しい。
「やば。ええい、こうなったら手を出しなさい!」
「ええ!?」
何も出来ずに反転したレブレの首筋から飛びおり、徒順にも差し出された掌に乗り込む。
「そのまま投げて! 早く!」
「うぇ? あっ――」
瞬時に意図を理解したレブレが、背中の鎧を突き破って無理やり翼を生やした黒騎士を櫓に向かって投げつける。
(こ、んのぉぉぉ――)
出し惜しみせずにブーストエンチャントと聖浄気での身体能力の二重強化<デュアルブースト>。レブレの腕力から得た初速を頼りに、先行する少年に追いすがる。
時間は十秒も掛からなかった。見る見る距離を縮めていく。鳥さえも越える速度の中で、見開いた劣化魔眼が櫓に向かって飛ぶ少年を捉える。瞬時にリリムは翼を広げて、進行方向を修正。少年の真後ろへと体を空に泳がせた。
吸血鬼の翼は鳥のそれとは訳が違う。ともすれば竜の翼と同じであったが、飛翔用の魔法効果がそれにはある。それは物理法則を超越し、飛行に適しない人型に空を翔破する力を与えた。
「あんたの相手は――」
展開されている魔法障壁が風圧を阻み、大気の壁をこじ開けていく。手にした槍が発光。白い輝きを纏いながら各種エンチャントとは別の効果を付与され輝く槍先に光が集束。闇を抉る意思を乗せて突撃<チャージ>する。
「――私だっつってんでしょうがっ!!」
「ッ――」
櫓に後十メートルというところでリリムが背後から強襲。咄嗟に振り返った少年の顔が驚愕で歪む。そこへ、容赦なく槍を少女が突き出す。
「勘弁してくれよチートメイド! 羽まで生えるってなんなんだよお前!」
白い軌跡の上を、高度を上げて避ける少年。その体が櫓の上へと移動。視線で行方を追っていたリリムも、翼を羽ばたかせて反転。大地に背を向けながら上昇し追撃の構えを取る。
「く、黒騎士は有翼人だったのか!?」
櫓の上の諸侯の一人が、驚愕の声が上げる。後方に控えていた後詰の兵士たちにもそれは伝染し、闇を纏う少年と相対する黒騎士を見上げた。
二人は飛びながら戦場の空に黒と白の軌跡を描いて出鱈目に衝突する。長剣と槍が交差し、その度に空を局所的に染め上げていく。
「本当に何なんだお前! そんなに俺の邪魔ばっかりして楽しいかよ!」
「寧ろ面倒だってのよ。あんたが居るから私みたいなのが担ぎ出されるんだから!」
リリムに槍を使う技量などは無い。だが、それでも完全なド素人ではないのだ。シュルトとレブレの訓練が生きており、間合いの取り方などの類似点から応用し鈍器のように振り回すことで戦う。それは奇しくも、鞭でリーチを制するやり方に似ていた。
「それは俺の台詞だっての!」
上から振り下ろされた槍に剣を横に構え、ぶつかるような勢いで少年が前へ。突進力で槍を受け止める。衝突した瞬間、数秒で魔神の闇が武器の上からかき消されるも、そのまま構わずに虚空で右足を跳ね上げる。
「くっ――」
リリムは咄嗟に後退。ギリギリで避けると体を投げ出すようにその勢いに乗った。仰け反った体が回転し、両腕の手に持った獲物を引く。
地面など無い空。十分なスペースが次の一撃に連動した。縦回転する体の動きに合わせて円を描く槍先が、次の瞬間には線になる。真っ直ぐに下から伸びた槍。それは咄嗟に首を捻った少年の頬を掠めた。
闇のベールは光に削り取られてあまり意味がない。その事実が、少年の顔を確かな死への恐怖で染めていく。けれど彼は諦めない。後退したいと願う体の反射を、意思の力でねじ伏せて前へ出る。それにはさしものリリムも驚いた。
「くそっ。お前みたいな奴がいるからぁぁ!」
死人のような顔をした少年が絞りだすような声だった。同時に振るわれる剣に、闇が凝縮して炸裂する。槍で受け止めるも、少女は膂力で無理やりに後退させられる。
「下の連中が居たって、きっとたいしたことじゃないんだ」
「な、なにこれ――」
どす黒い闇が更に濃くなる。感情に励起する想念が吐き出すべき怒りとともに空を漆黒に染めていく。今までにないほどの闇の増殖。少年の周囲が何処までも堕ちて行く。瞳に、生気はもうない。あるのは奈落の底のように深い色だけ。
「俺は故郷を奪われ、家族を奪われた異世界人だった。日々をそれなりに適当に生きてきたさ。何か悪いことなんかした覚えもなかったよ。善良というよりは平凡なだけの毎日だったけど、そのぬるま湯のような生活でよかったんだ。なのに――」
離れた距離を少年が飛翔する。一瞬の加速。羽ばたき体勢を整えようとしていたリリムに向かって、我武者羅に少年が剣を振るう。
「俺は何故かここに居る! それはどっかの馬鹿が都合の良い幻想に溺れたからだ! それは何故だ? 決まってる。きっと、嗚呼そうだ。奴らと、お前たちのせいなんだ!」
「なぬ!?」
次々と奔る剣閃が殺到してくる。目が疲れるほどの勢いを後押しするかのように、その体から上る白煙が更に少年に力を与えた。体が壊れるほどの力で、自壊を恐れずに怨嗟を紡ぐ。
「お前だチートメイド! お前みたいな人外共が誘拐犯共の拉致を、度し難い悪行を! 醜いだけの妄念から希望に摩り替えやがったからだ!」
そこに希望があるのだと、どこかの誰かが肯定した。度し難いシステムが、その果てに一人の少年を地獄に叩き落したことなど気にもしないで。これはそれに抗うための戦い。
「どんなつもりで他所様の事情に首を突っ込んだのかは知らないさ。でもな、お前みたいな奴らのせいでこの世界の連中は! それが当然だって面して迷惑掛けてくるんだよ!」
「冗談じゃないわ! 勝手にあんたに降りかかった不幸を私に押し付けるなってんの!」
「だったらさっさと俺の前から消えろ! 俺に立ちふさがるってことは、その不幸を肯定する奴らの味方だってことなんだよ。そうでなきゃ山奥にでも引っ込んでろ!」
「何それ訳分かんない! あんたこそ手を引けばいいじゃない! コレだけの力あるんだから、迷惑かけないように生きてけるでしょうがっ」
「この世界に俺の居場所はないんだよ。下の馬鹿どもに奪われたんだからなぁ。お前だって、どうせこの世界の住人じゃないんだろ。だったら、分かるだろ。俺たち召喚された連中はあんな奴らの言い成りになって戦うべきじゃないって!」
「じゃあどうしろっていうのよ。そういうあんただって結局は化け物のいいなりでしょ!!」
「はっ。見てて分からなかったかよ。俺はもうあいつらを操る側だ。俺の都合で奴らが動いてる。この国に、この世界に報復するためになっ」
剣を叩きつけていた手が止まる。不自然に空いた空白の最中、リリムが一旦距離を取り虚空で体勢を立て直す。その間にも少年は喋るのを止めなかった。
「――そう、これは復讐だ。正統なる復讐だ。奪われた物に代えられなくても、そのための憎悪は贖われなくちゃいけない。そうだ、チートメイド。どうせならお前もこっち側に来いよ。お互い、人生をぶち壊された口だ。だったら、手を組むのはアリだと思うぜ」
「お生憎様よ。私はこの世界の住人なの。だからあんたの誘いに乗るわけがないじゃない」
「な……に? ちょ、待てよ。おい、そりゃどういうことだ!」
男の顔から、理解できない顔になる。その間隙にリリムは大きく息を吸い込んだ。気を燃焼させる。生命力を内気に代え、空を染める黒に青空を取り戻していく。それは、少年の周囲から広がる闇を焼き尽くさんとばかりに輝いた。
「私は公爵様たちに召喚された帝国の人間なの。正直今でもやる気ないけど、それでもあんたを野放しにちゃダメだってことだけは分かるわ」
人と人ではなく、化け物と人の戦いになった。それに巻き込まれたこの国の住人として少女は反論する。何をどう言い募ろうと、そこだけは違えることができないのだ。
「化け物で戦争をするあんたを野放しにはできないわ。どう考えてもあんたはもうダメよ。呼んだ奴に復讐するだけなら結構だけど、その領分を軽く踏み越えてるじゃない。見なさいよ。下で戦ってる連中はあんたのせいで今も大勢死んでるのよ!」
化け物に殺され、化け物になる兵士がいる。魔法で焼き殺される兵士がて、剣や槍で殺される者もいれば殴り殺される兵士もいた。彼らが復讐されるべき対象であるとはリリムにはどうしても思えない。
怒りも苦悩も、完全に理解できるわけも無い。そもそも失った代償が少女と少年では違いすぎた。奪われるだけだった彼と、彼女では。
「確かにあんたみたいな異世界人からしてみれば全員同じに見えるのかもしれないわ。でもね、下の連中だって全員が加担したわけでもなければ平凡を生きてるの。可哀想だけど、あんたが喚き散らしながらどうこうして良い訳がないのよ!!」
対峙したまま、少女の言葉を聞いたアキヒコはため息をつく。乾いた笑みの中からこぼれるのは、黒い怨嗟。今までよりも更に濃いそれが彼の憎悪を駆り立てた。
「……ざけてやがる。ははっ、なんだよそれ。つまり、アレか。この世界にはお前みたいな出鱈目が居る癖に、それでもまだ外側の奴らに頼ってるのかよ。それで、この世界生粋の英雄様は、簒奪されつくした上に釣り合わない程度の供物で我慢しろってか? はっ――馬鹿馬鹿しい」
一人一人の命程度では贖えないからこそに肥大化したその代価が、完全に忘れさられている。それがたまらなくアキヒコには不快だった。
「お前は、やっぱり違うんだな異世界人」
擦り切れそうな声だった。アキヒコはやりきれないと言った顔でリリムを見た。
「その理屈を、奪われもしていないお前が俺に通せるものだと思って言ってるか? 君の奇麗事は奪われていないが故に出せるものだ。ここの連中にとって都合が良すぎるだけのえこひいきな答えさ。それにこれは復讐と同時に戒めでもあるんだ。ここで俺が暴れれば暴れるほどに、この世界は召喚を忌避するようになる! これ以上お前たちに都合の良いだけの犠牲者を量産されてたまるものかよっ!」
例えドリームメイカーやマリスの召喚システムがどうにかできるものでなくても、召喚がされなければ犠牲者は増えない。単純明快なその答えを、アキヒコはこの世界にただ望み渇望する。
「犠牲は俺を最後にしてくれれば最高だ。嗚呼、お前には理解できないだろうよ。犠牲者ではないお前は、きっと最後までこの狂った世界の味方なんだろう。次の俺が、次の次の俺が召喚されて出てきたとしても、お前は俺たち異世界人を詰るだけで反省もせずに俺たちをただの悪として断罪し、蹂躙するんだろう。奪われるだけだった連中のことを、他人事みたいな面してさ。その不可思議な力で否定するんだろうよぉ!」
――そもそも、初めに領分を越えたのはどこの誰だったのか?
アキヒコの立脚点はあくまでも理不尽にも召喚される側であり、それ以上でもそれ以下でもない。召喚する側の人間の言葉など、どれも虚しく心にさえ響かない。言うなればそれは害虫の鳴き声のようなもの。
故にかみ合わない。
認めることができないし、許容もできない。
アキヒコはそんなにも強くはない。今だってそう。ただ単純にマリスの力でどうにかしている程度のひ弱な人間だ。それでも彼は彼なりの善性に縋って狂気の中を生きていた。それを間違いだと言われるのは、どうしても我慢ならなかった。
一旦凪いだはずの憎悪がぶり返し、確実に最後の一線を踏み越えさせる。けれど同時に、アキヒコは悟っていた。このままでは勝てないと。このままでは目の前の少女も、この世界さえも屈服させられないと。
だから魔神に願い乞う。この世界でたった二人だけの味方の一人に、代償を持って希望を伝える。奉げる代価などほとんど持ち合わせては居ない。あるとすればそれは、ただ残っている一つだけ。
(マリス、もういいよ――)
『おいおい、まだまだこれからだろぉ。これからが良いところじゃねーか。お前と俺で目の前のチビをZYUURINN! その後で後ろで兵隊相手に暴れてる邪魔臭い竜を倒してドラゴンスレイヤーの称号を手に入れてぇぇ、逃げ惑う帝国人共をMINAGOROSIだRO!』
(違う。単純な話しなんだ。どうしようもないぐらいに、分かったことがあるんだ)
『んあ?』
(俺じゃ、きっとこの目の前のチートメイドにさえ勝てない。なんとなくだけど分かった。頭悪いけどさ、俺はわかったよ。こいつ、お前と逆なんだ)
『逆ぅ?』
(そう、だからもういいんだ。マリス、俺の命を使ってくれ。俺は我慢ならない。この世界の奴に良いようにされ続けることが。この命さえも弄ばれることが)
少年にとってチートメイドは生粋の強者であり、インスタントヒーローではない。偶々力を得た程度の自分とは違うのだと思い知らされた。
どこか卑屈なその考えはアキヒコの中で今や確信となっていた。翼を生やして空を飛び、竜を従え少量しか使えていないとはいえ代価を奉げて得た魔神の力さえも凌駕する。認めたくはなくてももう、彼には認めるしかなかった。
こいつは自分とは違うと、一握りの先を歩く権利を有する者だと。弱いからこそそう線を引き、嗅ぎ取らざるを得なかった。
(俺の意思さえも嘲笑うのがこの世界のやり方だ。だったら、せめて目にモノ見せてやりたい。そしてそれが出来るのは俺じゃあないんだ。悔しいな。結局、俺は最後まで弱いまま奪われ続けるのかよ。ちくしょう。ちく――)
『後戻りはできねぇぞ』
皆までは言わせない口調で、魔神が問う。
(いいよ。この世界や召喚幻想を肯定する英雄にくれてやるより、お前にやるよ。うん。この方がよっぽど有意義だ)
アキヒコはマリスが嫌いだ。嫌いだが、それは彼を含めたシステムが嫌いなのであって、魔神個人の人格はもう許容できるようになっていた。悪友のような魔神。この後に及んで裏切る気配が無い魔神様の、そのどこか止めるような声が少年にとっての最後の救いとなった。
『見誤ったぜ。伸び伸びと戦わせてやろうと思ってたのにお前……そうか。フヒヒ。そんなに、そんなにこの俺様を信じていやがったのか! うわぁ、痒い上にクセェ! アヒャヒャヒャ――』
魔神が笑う。哂って笑う。脳裏で騒音公害も目じゃないほどに笑い転げ、だがそれでも返答した。それを誰よりも望んでいると、繋がっている彼には分かるから。彼にたった一つだけ残っていた最後の供物に対して惜しみはしても躊躇しない。
『オーケイだアキヒコ。お前のその最後の願い、代価を持って叶えてやるよ。願い事はなんだ? お前の声でしっかりと教えてくれよ』
(決まっている。そんなものは――)
「――さぁ、言えよ我が親愛なる二人目の契約者カンナヅキ・アキヒコさんよぉ! 誰も彼もが見放しても、俺だけは生ぬるくお前の絶望を肯定してやるぜい。お前の憎悪や絶望は心地よかった。それに敬意を評してぇぇ、この他称魔神たる俺様がサービスしてやらァァァl!」
「……なぬ?」
途中で黙ったかと思えば、少年の口から響く声があった。ギョッとしたリリムの目の前で、その少年は下品に笑いながらも狂ったようにそれを求める。
「代価だ! 俺が奪われた全てをこの世界の連中から取り戻し、次の俺が生まれないように、この理不尽でクソッたれな世界に思い知らせてやってくれ!」
「方法は!」
「奴らが望んだ召喚魔法だ。さぁ、呼べよマリス。この世界に破滅を喚ぶ英雄を!!」
「――嘘。あんた、まさか連中と繋がってるの!?」
リリムが咄嗟に槍を構える。だが、それよりも先に結果が起きた。現れるのは少年の足元に展開される黒い魔法陣。
「GA……ぐっ……嗚呼ぁぁァァaa!!」
「ッ――」
いきなり、晴天に晴れ渡る天の彼方より光の滝が落ちてくる。
初めは小さいだけの光。
けれどそれは、徐々に広がって光の柱へと変貌。リリムの眼前で巨大化していく。
「何を、何する気よあんたわっ!」
「フヒヒ。俺は領分……踏み外……ろう? だった……当然じゃ……か――」
ならばその方法が、正道でなければならない理由はどこにもありはしない。
純粋なる願いと、切実なる憎悪が燃焼される。同時にリリムの目の前で沢山の命が消えていく。敵陣から消えていく。
「あ、ああ――」
次々と消えていく命の灯火。情け容赦無いほどに、敵の総軍が眼下で動かぬ死体へと変わっていく。劣化魔眼でさえもそれが視えた。黒い魔法陣へ、供物から何もかもが流れ込んでいる。五万を越えるほどの犠牲者。かつて魔物を苗床にしたそれさえも上回る規模で供物召喚が発動する。
「ダメだ、早く離れて!」
翼をはためかせ、敵軍を蹂躙していたレブレが旋回しながらやってくる。その口元にあるのは圧倒的な膨大な熱量を凝縮したブレスの塊。リリムが後退した瞬間、空を焼く勢いで閃光の吐息<レーザーブレス>が強襲する。光が光の柱と衝突。衝突点の光陵が増していき、目も眩むような輝きを発する。思わず少女は左手で眼を庇う。
「フヒャハヒャヒャ。効くかよバーカ。アキヒコの願いはそんなもんじゃ終らねぇよ。あいつが奪われた物の重みがどれだけのもんかとくと味わえってんだ」
それには反射さえ使われなかった。純粋に熱量が召喚光だけで遮られている。単純に奉げられたエネルギーの桁が違いすぎたのだ。
十秒に満たない照射が消えれば、更に巨大化する光の柱が途方も無い勢いで広がっていく。リリムには何が呼び出されるかなんて分からない。しかし分かっていることはあった。
「そんなにまで……命を捨てようって思うほどに恨んでたの?」
憎悪が肥大化した結果がこれなのだ。誰かが省みることさえなかった異世界人の切実なる願いが、その結果を招いたのだ。
「いや、違うのね。そうよ。あんたは最初からそのつもりだったんだわ」
これは召喚幻想を踏みにじるための戦いで、少年は初めからそのためだけに戦っていた。国とか利益とか、そんなものではないのだ。どれだけ自分の命で変革を望めるかこそが彼の命題。これはそのために最も効率的な手段であり方策。
「召喚を召喚で台無しにする。そのためにあんたは――」
当たり前のように化け物との戦争をしようとしていたリリムたちの認識とは違って、この戦争は化け物と人との戦いに摩り替わってさえいなかったのだ。
これは異世界人アキヒコとレグレンシアに住む者の戦争。つまりは人対人の戦争だったのだ。今となっては気づくの遅すぎるが、それでも彼女は今更ながらそのことに後悔した。そして今感じる途方も無い恐怖を咀嚼せざるを得なかった。
召喚された英雄は、外れで無ければただ強い。シュルトやだらっちにジャン・ルックバイト。そして、下で兵士たち戦っていた化け物たちや先ほどまで戦っていたアキヒコと呼ばれた少年。彼らはレグレンシアの住民よりも強かった。そんな強者たちが、アキヒコと同じように行動し始めたとしたら?
想像は簡単に恐怖へと結びつき、遅まきながらも彼の目標完遂の意味が見えてくる。それが本当に正しく世界中に配分され、心の底から共有されるのであれば。
(でも、きっとそうはならない)
彼の戦略を、リリムは心底信じられない。意味が分かっても、それが望むべき結果にただ繋がるとは。少年の願いは自分で最後にしたいという願いであり恨み。だが、それは世界中から犯罪がなくならないように、きっと忌避はされても残り続ける。
人面魔獣とやらが呼ばれて、街を滅ぼしたという噂が流れた。けれどグリーズ帝国の宰相や公爵が呼んだ。その程度では既に広がった召喚幻想に歯止めを掛けることさえできなかったのだ。なら、目の前で恨みを突きつけるような形でなら違うのか。
(いいえ、最悪コレが更に召喚連鎖に拍車を掛ける可能性だってある! この召喚はきっと諸刃の剣よ)
リリムは確信した。もし、誰の手にもどうにもできない相手が呼ばれたら、今度はその相手を駆逐するために人々は召喚し、英雄を求め続けるだろうと。宰相と公爵のように、そうなれば結局はイタチゴッコ。少年の望みは結局は叶わない。
「……いや、違う? そっか。完全にルールを理解しているなら彼は長期的には間違ってなんて居ないんだわ」
一度は否定したそれを、しかしリリムは肯定しなおす。忘れてはならない大前提があったのだ。彼が命を代価にしたように、召喚魔法は何の代償も必要としない都合の良いだけの力ではない。それは確かな対価と共に贖われて来た技術に過ぎないのだ。
(普通の召喚魔法は代償がパワースポットの魔力らしいってあいつも言ってたじゃない!)
エルフはもうその欺瞞に気づいている。その果てに待つのがただの天候の狂うだけならばまだなんとかなる。だが、例えば作物が育てられなくなる砂漠化が世界中で起こったらどうだ? そうなれば結局、召喚に人類は頼れなくなる。そこに気づかせ、誰も目を背けられないような滅びの時が訪れれば止まる。未来の果てに召喚魔法を駆逐することができる。皮肉にも召喚の流れを加速させれば加速するほどに、結果が早く出せるだろう。ならば、アキヒコがやろうとしていることはどちらにせよ間違っていないことになる。
流れの加速の果てに待つ滅びに怯えるが故の制止か、それとも脅威へのただの恐怖か。どちらにせよ、二段構えでの抑止力になるだろう。前者ならこの世界の人類の愚かさを地獄の底でアキヒコが笑い。後者であってもアキヒコはただ満足する。彼の戦いはこれで完遂される。願いは成就する。だったら、彼が命を捨てる意味はいつまでも残り続ける。
「完敗だわ」
この戦争は少年の一人勝ちで決まった。ならばもう、リリムに出来ることは被害の軽減それだけだ。光を背に翼をはためかせ、公爵の居る指揮櫓へと急ぐ。その後ろからレブレが二度三度と召喚を妨害しようとブレスでの攻撃を試みているが、リリムはその方法を見限った。
「公爵様、急いでここから撤退して!」
櫓の上で、ただ状況を理解できずに居る兵士たちのざわめきの声をかき消すようにリリムが声を張り上げる。黒騎士の帰還と今まで喋らなった彼女の声を聞いた諸侯たちの視線が集中する。だがリリムは構わずに言い募る。
「何が召喚されるか分からないわよ! 早く兵士を下げないと、被害はきっと目も当てられなくなるわ!」
「では、やはりアレは召喚魔法の光なのかね!?」
「ドルフシュテインで見た奴そっくりよ。自分と自軍の命を代価に召喚してるみたい。正直に言うけど、私たちで絶対に勝てるとは思わないでよ」
「それほどかね」
儀式はまだ続いている。その度に、果てしなく魔法陣が広がっていく。その周囲を攻撃しながら飛んでいたレブレが諦めて飛んでくる。
「無理、あれはもう止められそうに無いよぉ。だから早く逃げた方がいい。多分、とんでもないのが来る」
「……分かった。伝令を出そう。ただし、志願兵は募る」
「おじさん!?」
「時間稼ぎぐらいは必要だ」
公爵はそれだけ言うと、すぐに伝令を出した。一度設営してある野営地はそのままだ。一旦そこまで兵を下げる。その過程で残る者だけを残して状況次第で決める。瞬時にそう判断した彼は、すぐにレイチェルたちを呼んだ。固唾を呑んで見守っていた彼女たちを前に、公爵はレブレに向き直る。
「レブレ君。君の転移とやらで屋敷に彼女らを運べるかね」
「公爵! それは――」
レイチェルが言い募るも、彼はただ首を振るう。
「バノスは真っ先に化け物として死に、すでに大勢は決した。レイチェルとノルメリアがここに居る意味はもうない。最悪、後のことはお前たちに任せるぞ。帝国の未来を頼む」
「公爵!」
「お父様!」
反論しようとする二人の側で、遂にそれが召喚された。
「来るわよ!」
皆の視線がその一点集束する。その瞬間、戦場に生き残っていた東軍の全ての兵士たちがその声を聞いた。
それは遠雷のような遠吠え。ただ耳にしただけで鳥肌が立ち恐怖を喚起する異形の声だ。その音が三つ。ほとんど連続して戦場に木霊する。
「まさか、同時に三匹も呼んだわけ!?」
「違うよリリム。こいつは――」
魔法陣に降り注ぐ淡い光の柱の向う、黒い巨大なシルエットを生み出しながらそれが遂にレグレンシアに光臨した。虚空に刻まれた魔法陣が消え、光の柱からそれが虚空に投げだされる。瞬間、着地の衝撃で大地が捲りあがり鬱陶しい程の粉塵が足元で舞った。
「LUoooN!」
「GUOOOO!」
「UGUOONN!」
黒い鱗に覆われたそれらは山のように巨大な竜にも蛇にも見えただろうか。
三つの頭に三組の牙。六つの目を持つその暗黒竜は、十二メートルはあるレブレよりも更に十倍は大きい。翼はないが、それでも二足歩行で大地に立つその様を見れば陸に生きる限りどこに居ても逃げられないと悟るだろう。
「最悪だ。やっぱり念神レベル……しかも規模だけで言ったらあのだらっちに負けず劣らずだよぉ」
「ちょっとー! あんなのどうしろっていうのよ!」
「……とりあえず、レイチェルとノルメリアは邪魔だから送るね」
時間が無い。問答をしている暇を惜しんだ子竜は、レイチェルとノルメリアの二人をすぐに転移で送り出す。召喚光に包まれた二人が抵抗しようとしたが手を伸ばすも、一瞬でこの場から消えてしまう。
「すまないな諸君。独断だが許してくれ」
「いえ、次代に繋ぎたいという意思でしょう」
「この戦に参加した時点で、死ぬ覚悟は出来ています」
「公爵が気にすることではないよ。少なくとも、皇女様の役目はもう終っている」
「すまんな」
前線に立っていなかった諸侯たちに向かって詫びながら、公爵は腰に吊るした二刀のサーベルの柄を撫でた。もはや、東軍の兵たちにとっては戦争も何もない。着地時に踏み潰された者も多く、周囲を睥睨しているその巨体の主から距離を取ろうと皆が死に物狂いで動き出していた。そんな中、三つ首の竜は恐慌する人間の様子を楽しむかのように制止している。
「ダメだ、勝てるわけがねー!」
「に、逃げろ」
「退却、退却だぁ! 野営地まで引き返せぇぇぇ!!」
伝令が拡声魔法で伝える声が、彼らの恐怖を肯定し行動に紙一重で指向性をもたらす。そんな中、公爵は櫓の上で拡声の魔法を行使。恐慌にきたした軍の中で志願兵を募る。誰も聞くわけが無いと内心ではリリムは思った。だが、彼女の予測とは裏腹に、千人にも満たない兵が櫓の周囲に残っていた。予想よりも遙かに多い。
若い貴族ベイリックもその中の一人だった。公爵が他の野営地で諸侯たちに指揮を任せるという言葉に首を振った。
「ベイリック君。君は若い。野営地に戻れ」
「逃げてどうというものではないでしょう。誰かがやらなければならないなら、その本分を全うするのが我々貴族というものです」
不思議なほどに穏やかな声で、ベイリックは言う。意地ではない。ただの義務と責務を感じて彼はそこに立っていた。レンドールはそれ以上言葉を出せず、ただ頷いた。と、その時敵に動きがあった。
「なんだ?」
「化け物が移動していくぞ」
残った兵士や目立つレブレたちなど気にもせず、ゆっくりと地響きを立てながら歩いていく。その方角は西。まるで街道に沿うかのようにように動いていた。その道の先にあるのはグリーズ帝国の首都。帝都ゼルドルバッハに他ならない。
「まさか、狙いは帝都なのか?」
「何故だ。何故こちらではない!!」
残った者たちの顔に疑問符が浮かぶ。だが、唯一の例外が居た。リリムだ。彼女だけは、アキヒコと会話して彼の望みを知っている。だから、その意味がよく分かった。あの少年の望みを成就するために徹底していただけなのだ。ならば、ただ軍を蹴散らした程度では満足できるはずもないではないか。
「目的があるのよ。私たちなんてもう、眼中にないんだわ」
リリムは強張った顔で兜を脱ぎ捨て、残った者たちの前で素顔を晒す。戦闘での熱に塗れていた体はとっくに冷えきり、全身を伝う汗が嫌な汗に変わっている。その不快感を浄化魔法で拭い去りながら、彼女はただアキヒコのことを説明した。
「それは、つまり召喚行為に恨みを持った英雄が現れたということかね」
「拉致だって、この世界の人間を誘拐犯だとか言ってたわね。それはもう怒ってたわ」
「だから、召喚を二度とさせないようにするために帝都を狙う? 訳が分からないが」
「彼は前例が作りたいのよ。誰もが召喚魔法の行使を躊躇するように。そのために分かりやすいのは帝都破壊とか、国そのものを完全に崩壊させて見せしめにしたいんでしょ。この国だけじゃなくて、彼はこの世界から召喚魔法の行使を無くしたいらしいから」
「だが、世界中から召喚を取り除くなど不可能だろう」
「そうでもないわ。ライラ店長たちエルフはもう気づいるんだもの」
「気づく?」
「召喚魔法がパワースポットの魔力を消費し、精霊や自然に悪影響を与えていることに。ねぇ、そうなのよね」
「……ええ。最悪の場所では、砂漠化も進攻してるわ。そうか、だからなのね!」
意味を正しく理解できさえすれば、からくりさえ読めればその先へと思考が飛ぶ。意味が分からないのは何も知らない者たちだけだ。
「どういう意味だ。俺たちにもわかるように教えてくれよ」
「ケイン、召喚を行う度に住める場所がなくなっていくってわかってもなお、貴方は召喚魔法が行使できる? 当然、作物も育たなくなるし動物たちだって環境の変化に耐えられなければ生きていけなくなるのよ。それは人も例外じゃない」
「そりゃ……ちょッと不味いな」
「ライラ殿。尋ねたいのだが、それはすぐなのか?」
「すぐにとは言わないけど、そんな未来があるとエルフは予測していることは事実よ。私たちエルフは長生きだから、そんな未来に立ち会うかもしれない。だから他人ごとじゃないと思っている。貴方たち今の人間には関係ないかもしれないけど、子孫がそんな目に合うって分かっててやれるかしら」
「……」
尋ねたベイリックもさすがに黙る。結論として、善性を持つ者なら躊躇するが全員が全員そうだとはいえない。だから彼には少しばかり納得できない。だが、意図がそうであるならばと理解した。この場で東軍を壊滅させないことの理由にも繋がるかららだ。生き残らせることで恐怖を伝えさせる目論見もあることは簡単に推察できる。寧ろ、それ以外に放置する理由が無い。
「ちなみに嬢ちゃん、帝都を滅ぼした後はどうすると思う」
「国中の街や村を襲うか、或いは別の国に殴り込むんじゃない。召喚できる奴を皆殺しにしたら召喚なんでできなくなるもの」
それ以外に考えられる行為はない。広く召喚の恐怖を植え付けるためにはそれが一番だ。或いは、この世界の人類種を滅ぼしてしまえば二度と召喚など使えない。どちらにしても愉快なことではないことは確かであり、一同の空気が完全に冷え込んだ。
遠ざかっていく暗黒竜の世界を呪うようなおぞましい叫び声。それは、残った公爵軍に絶望だけを残して少しずつ離れていった。
――こうして、この戦争は異世界から拉致された平凡な少年の勝利で終った。




