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第十二話「召喚幻想への反逆者」


――半鐘が鳴り響く。


 時刻は決まって深夜であった。毎日毎日安眠などさせぬとばかりに公爵軍は夜襲に会った。執拗に繰り返されるその攻めに、公爵軍は眠れぬ日々を過ごしていた。レイデンを出て三日。もはや当たり前となったそれにリリムは辟易していた。


「ああもう!」


 黒騎士スタイルで天幕の外に出れば、遠くで味方の天幕が燃えているのが見える。レイデンでの奇襲で警戒したのか、バノス軍は皇女が居る警備の厚い中央へと踏み込むことはせず、徹底して天幕を標的にした。


 既に敵が化け物であることは周知されており、レイデンの住人や兵士たち全員に浄化魔法がかけられスパイは洗い出されている。おかげで一日ほど時間を取られ、その際には扇動された住民の暴動まで受けていた。兵士の士気も当初に比べればすり減らされていた。


 浄化魔法を使えば敵を一撃で倒せる。レイデンでそう学んだ兵士たちは浄化魔法で対応する。だが、敵もそれを読んでいたかのように翌日には攻撃方法を切り替えた。


 火矢による魔法が届かない遠距離からの曲射撃ちもその一つ。数は千にも満たないだろうが、それでも兵士たちの寝床を確実に奪っていく。追いたてに出撃した重武装の騎馬隊が接近すれば、盾を構えて浄化魔法を防ぎ乱戦に持ち込み地味な出血を強いる。そして、その時には一人だけ賢人魔法を意に返さない少年の突撃が必ずあった。


 誰も少年に抗うことができない。夜闇の中を馬よりも早く疾走するその少年は、連日のように兵士たちを血の海に沈めた。


「いくぞ嬢ちゃん」


「今日こそ真面目に戦えっての!」


 ケインが操る馬に乗り、慣れない槍を片手にリリムが天幕の間を抜けていく。その間にも半鐘は鳴り響き、兵士たちの安眠を妨害した。山形に空から降ってくる矢が天幕を燃やしていく。燃える天幕のおかげでどこが攻撃されているのか位置は分かる。その向うに敵が居るのだ。だが、それが分かっていてもリリムは敵と交戦することができない。


「来たぞ! 光る化け物だ!」


「撤退、撤退ぃぃ!」


 敵はリリムたちの姿を見つけると、すぐさま反転。まともに戦わずに夜闇の向うへと消えていく。鮮やかな引き際だ。一片の迷いもなく逃げ去っていく様はいっそ清々しいとさえ思えるほどである。


「ねぇ、このまま追っていっちゃダメなわけ?」


「ダメに決まってるだろ。どんな罠があるか分かったもんじゃねぇ」


 ボソリと呟かれた声に混じった苛立ちに、内心では同意しながらもケインは止める。リリムは馬から下りると、聖浄気を開放。奇跡の光で負傷者を纏めて救護する。


 初めは驚いていた公爵軍の兵士たちにも、黒騎士が味方だということは既に理解されている。死人が生き返ることこそないものの、重傷程度ならば回復する。その恩恵と、彼が姿を現せれば敵がすぐに撤退することから、公爵が雇ったという正体不明の黒騎士様は兵士たちにとって心強い味方であった。


「あ、ありがとうございます黒騎士殿!」


「助かりました!」


 矢傷を負っていた兵士たちが、口々にお礼を言ってくる。それに一々コクコクと頷き、リリムはケインの繰る馬に飛び乗って天幕まで戻っていく。


「人気だなぁ」


「矢って刺さったら痛いもの。お礼言いたくなるのも当然よ」


「違いねぇ」


 ゴブリンなどの中には弓を使う魔物も居る。ケインだとて喰らったことはある。痛みから一瞬で開放してくれるともなれば、その気持ちは分からないでもなかった。


 皇女の天幕に戻っていく道すがら、兵士たちの視線が黒騎士に集まる。当然といえば当然だが、その中には胡散臭い目で見てくる者も居た。


「黒騎士殿、今夜もご苦労様です」


 腰元に帯剣しただけの夜着の男が、手下を引き連れて道を塞ぐ。長身の若い男だ。二十台前半だろうか。夜着の上に纏ったガウンが当たり前のように貴族階級だと証明している。篝火と魔法の明りに照らされたその顔には、秀麗な笑みがある。


 ドルレイキア侯爵家の長男ベイリック。東側の諸侯の中では最大勢力たる公爵家に次ぐ軍勢の持ち主である。当主の名代としてこの戦いに参戦しており、一度だけ秘密兵器として紹介された黒騎士に兜を脱げと言い放った男であった。その時は公爵がとりなしたが、それ以来突っかかってくる厄介な相手だった。


「今日もまた手ぶらのようで。これでは、いったい何のための秘密兵器か分かりませんね」


「……」


 リリムは無言で会釈すると、ケインの肩を叩き先を急がせようとする。と、サッと手を挙げたベイリックの指示に従って迂回しようとした二人を従者が囲む。


「そろそろ本気を見せてもらいたいものです。そのご大層な槍は飾りではないのでしょう」


(えーと、思いっきり飾りなんだけどなぁ)


 竜騎士の真似事はしているが、槍の使い方などリリムは知らない。本当に見てくれだけのデッドウェイトでしかない。真面目に言われても困るというものであった。


「あー、ベイリック様。夜も遅いんでお戯れはその辺にしときませんかね」


 見かねてケインが仲裁しようとするが、冒険者の言葉など彼は聞かなかった。そのまま腰元の剣を抜き、一旦顔の前で止めて静止。どこか貴族然とした儀礼的なポーズをとり、右足と右手を引いた下段で構える。


「兵たちも気になって眠れまい。東軍の中でいったい誰が一番強いのか」


「いやぁ、結構どーでもいいと思いますがねぇ。そんなことよりも西に勝てるかどうかが問題なんで」


 生きて帰ってこその命。そのためには勝利することが最も望ましい。負け戦は誰だって嫌なのだ。遠めに見ていた兵士たちが、貴族と黒騎士の諍いのとばっちりを喰らいたくはないとばかりに距離を取る。だが、その目には確かに好奇の色が混じっていた。


 従者たちが決闘場でも作るかのように円状に広がっていく。その只中に取り残されたリリムたちにとってはたまった物ではない。明日には砦にたどり着くのだ。さっさと寝たいというのが本音なのである。


「――」


 小さくため息を吐き、リリムが馬から飛び降りる。それにギョッとしたのはケインである。短絡的に過ぎる決断。何か有れば雇っている公爵の責任問題にもなるのだ。砦を目前に控えた今、面倒ごとは百害あって一利なし。


「あー、黒騎士の旦那。分かっちゃいると思うが……」


 コクコクと、兜が上下する。だが、鎧から漏れ出す白い光がケインの不安を激しく煽る。


(まさか、治療するからどうでもいいとか気楽に考えてんじゃねーだろうな)


 心配するケインなど知らぬばかりに黒騎士は前に出ると、無造作に槍を地面に突き刺して徒手空拳で構える。左手を胸に沿うように上げ、右足を引く。スタンスをやや広げてガッシリと握られた右拳が続かせて静止。


 獲物を捨てたことに対して、そしてやる気になった黒騎士に対して二つの意味で周囲からどよめきの声が上がる。対峙するベイリックは、それを見て浮かべていた笑みを消した。


「無手? 舐められたものだ――」


 青年の構えが変わる。右半身は変わらず、下げられていた長剣が真っ直ぐに黒騎士に向かって持ち上がり、切っ先の上を滑るように左手が添えられる。所謂突きの構えだ。


――彼我の距離は四メートル。


 それは黒騎士からすれば一瞬の距離であり、ベイリックからすれば数歩で十分な間合いでしかない。そんな中、先に動いたのは黒騎士であった。









 掲げられた左手の指先がベイリックへと向けられ、手前にクイッと二度ほど動く。まるで掛かって来いと言わんばかりの不遜さである。ベイリックはそれに激昂することはなく、ただジリジリとすり足で距離を詰めた。


 纏ったガウンと青年の茶髪が夜風に揺れる。青年貴族は眼前で白く輝く黒騎士を見据えながら、完全に待ちの構えを崩さない相手の手を読んでいく。静寂が、固唾を呑んで見守る兵士たちにも伝播し夜に音の空白を生んだ。


(驕りか、それとも自信か)


 無手とはいえ、相手はその身を金属の鎧で守っている。篭手に相当する部分も当たり前のように硬い。単純に分類するならならそれは鈍器。夜着をガウンしか纏っていないベイリックにとっては、その一打は当たり前のように手足の骨を砕く危険性を持っている。


(低身長ながらあの重量の防具を纏っての行軍をこなしていたはず。であれば、見た目とは裏腹に腕力はあるはずだ。特にあの槍、レンドール公爵の兵士が使っている物よりも重量感がある。中身がドワーフの可能性は捨て切れない)


 それにしては体系が連中の樽のようなそれとは違いスマートな気はしたが、ベイリックはそう仮定した。人間が相手という考えは初めから彼の頭の中には無い。そも、真っ当な人間ならば蛍のように光らない。


(公爵領で召喚が行われたという情報はある。些か錯綜していたが、それがこの相手だとしたら――)


 選択肢は三つ。金髪の少女と竜騎士と銀髪の魔法使い。その中で無手で戦えそうなのは竜騎士。まだ竜の姿はどこにもないが、秘密兵器ならここぞという場面で投入するに違いない。ならば、それまでにベイリックは知りたかった。


 巷の噂では、なるほど召喚された英雄とやらは強いらしい。では、現地住民とはどれだけの差があるのか? 何の損害もなく肌で直に感じられるチャンスは、或いはここだけかもしれない。


 傷を治癒する力を持つ黒騎士。どういうわけか公爵に近しい者以外と話しはしないが知能が無いわけではなく、公爵に気を使って諍いを好んでいない節が見受けられる。ならば侯爵軍の名代としての立場が自身の安全を保障する。バノス派の英雄の戦力が予想以上である現状、もしものためにベイリックは体験しておきたかった。


 魔法を遮断する闇色の障壁に馬よりも早い脚力。鎧を纏った人間を苦もなく両断する攻撃力。どれをとっても相手は馬鹿げている。それらは全て事実ではあるが、生憎とそれを直接見る機会は結局彼にはなかった。


「シィッ――」


 呼吸を整え、殺すつもりでただ踏み込む。切っ先が篝火の赤を反射し、闇夜に煌く。地面を踏みしめる足が直ぐ様間合いへと体を誘う。幾多の修練で培った肉体は当たり前のように連動。右手を霞ませるほどの速度で黒騎士の胸に飛来する――直前で軌道を変えた。


「ッ――」


 瞬間、左手で突きを外側に払おうとしていた黒騎士の動きが止まる。刹那の間にベイリックは感嘆した。そのまま突きを放っていたら間違いなくタイミングが合っていたと直感したのだ。


(化け物め。だが読み勝てれば――)


 突きの軌道が黒騎士に命中する前に左に流れる。突きと見せかけた上でのフェイント。旋回する刀身が彼自身の頭上まで跳ね上がり弧を描く。それに追従するのは左手。両手で柄をしっかりと握り締めながら上段の構えに変化し、流れる動作のままで奇剣を振るう。それは、鎧ごと両断するための渾身の一撃になる――はずだった。


――金属同士が衝突する音がする。


 音とほぼ同時に衝撃が両手を突き抜けていく。その後に通り過ぎていくのは刀身の破片。振り下ろしたはずの長剣が、ベイリックの頬を掠めて飛んでいった。その変わりに、視界の直ぐ前にあるのは右拳。白い光を纏ったまま、傷一つない黒騎士の篭手<ガントレット>がそこにある。


「ば――」


 事実は単純である。いっそ頭が可笑しくなりそうなほどにシンプルであり、逆に理解するのにベイリックが困惑してしまうほどに。


 黒騎士は避けられないと判断し、右手を振り上げて迎撃。振り下ろされる刃を真下からアッパーカットで打ち砕いただけである。ただそれだけの話しなのだが、それをベイリックが脳に浸透させ理解するには一拍の時が必要だった。その遅れが、致命的な隙を生む。


――ジャリっと地面の小石を踏み鳴らしたような音が耳に届く。


 振り上げられた拳が視界を遮る効果を生む。そのブラインドされた下で踏み出された右足が逃げられないほどの至近距離に黒騎士の進入を許す。そこへ、左手が掌打となって飛来する。


「――そこまで!」


 予想されうる衝撃は、無い。紙一重で胸元で静止された黒騎士の左手は、ベイリックに触れることなく止まっていた。


 嫌な汗が滝のように青年の背中を濡らす。その白く光る掌打を、ただの打撃だと一笑することが彼には出来ないからである。ありえるべき結果への恐怖が、確かに瞳から脳髄に叩き込まれても不思議ではない。


「黒騎士殿。気持ちは分かるがそれぐらいで手打ちにしてくれんかね」


 現れたのはレンドール侯爵であった。その側にはレイチェル皇女や他の諸侯の姿もある。黒騎士は無言で手を左手を引くと、地面に突き刺した槍を引き抜き、ケインの駆る馬に乗り込む。そうして、レンドールに向けて会釈すると無言で去っていった。


「えーい、解散だ。持ち場に戻れ!」


 兵士たちを追い散らすかのように、諸侯の一人が声を張り上げる。兵士たちはそれでお開きかとばかりに戻っていった。しかし、まだ興奮冷めやらぬといった者たちがヒソヒソと話している。


 それを尻目に、諸侯たちは作戦会議場の役割を果たしている中央の天幕へと移動。周囲に護衛を配置し、自然と夜の会議を開いた。


「ベイリック君。さっきは正直、肝が冷えたよ。間に合わないかと思った」


「私もです。レンドール侯爵」


 折られた剣を従者に預け、向き直った青年は朗らかに笑う。


「ですが実にいい経験をさせてもらいました。ありがとうございます公爵閣下」


「嬉しそうだな」


「はい。私の中にあった驕りがこれで消えました。敵の少年とぶつかるのは仰る通り止めましょう」


「白黒つけたがるのは若い時にはよくあることだが、貴族なら自分を律しなければならない。今後の教訓としてくれ」


「恐れ入ります」


「それで、直接やりあった感想はどうだベイ」 


 レイチェルが気安く尋ねる。


「絡め手でいくしかないな。アレはダメだ。同じことが敵もできると考えれば、討伐指定クラスの大物と戦っているとでも考えて被害度外視でやるしかないな」


「なら明日は大変だな」


「うん。でも凄いの見つけてきたね」


 フッと青い髪を梳きながらレイチェルが邪笑する。それを見た諸侯たちは、それぞれに肩を竦めて見せる。


 皇女レイチェルの変わりようには、諸侯たちは皆驚いていた。が、弱いだけの姫よりも戦争中は強気な方が良い。かつて親交を持っていたベイリックなどは、より強い今の方が好ましいぐらいだった。


 華美よりも質実剛健を好むとでも言うべきか。蝶よりも蜂を好み、ただの花よりも食虫植物を好む。そんな彼にとっては、今の剣を振るえるレイチェルは好意に値した。バノス宰相とレンドール侯爵とで東軍勢力に身を投じる決断を父に推したのもそのせいである。自分でいざというときに戦えない宰相に着くよりも、友に戦える者とありたい。魔物の脅威に怯える世界で、政事と保身しか行えない者に彼は用が無かった。


「公爵は運がいいのさ」


「できれば、その運を使って人間の宰相の首を取りたかったよ」


「もっともな話しだ」


「ちがいないのう」


 ベイリックの小粋なジョークで場を和ませる諸侯たちは、しかしすぐに真顔になる。戦争と呼べるほどの戦いはまだない。だが、それが明日にも迫ってるとなれば冗談を楽しんでいる場合ではない。


「それで、半日で落とせると思うかね」


「防備の調った砦を落とす。通常の攻城戦と同じように考えてもそう簡単な話しではないと思うが」


「だが、我々は出来うる限り昼間戦わねばならない」


 あの化け物共は、日の光に弱いという情報が届いていた。そしてそれを証明するかのように、ここ連日夜襲は受けても昼間に攻撃されたことはない。


「回り込んで補給線を狙われているようなことはまだない」


「西側の諸侯との連携はどうかな」


「それに関しては動いている節はなさそうだ。ただ、最初に派遣された軍全て取り込まれたと思っていいだろう」


「こちらに着くと表明した者は?」


「まだいないな」


「最悪、西の諸侯全てが化け物になっている可能性もあります。西側全て平らげるぐらいの覚悟は持っていたほうがいいかもしれませんね」


 ベイリックが微笑しながら、とんでもないことを言う。歯に衣着せぬ率直な物言いだが、諸侯はおろかレイチェルさえもその意見を笑うようなことはしなかった。


 国を割るということはそういうことである。

 その覚悟が無いなら起ってなどいない。そのままドブ底にまで汚れ果て、腐っていくのが嫌で皆ここにいる。


 言うなれば彼らが行おうとしたのは手術だ。グリーズ帝国という末期患者を蝕む膿みを出し切った上で治療する。そのためには麻酔が効かない患者の体にメスを入れ、無理やりにでも処置をしなければならない。患者が痛みに悶えようと、もはややるしかないというのが彼らの認識。当然、完治すれば患者から見返りは貰うがそれも全て勝たねば意味が無い。


「そもそも、連中の動きが妙に手ぬるいですからなぁ」


「あの焦土作戦もそうでしたな。潜伏して我らを素通りさせて補給線を叩くつもりだったのでしょうが、兵が現地で余計な知恵でも働かせたのか、暴動程度で終りました。アレが無ければ、いやそもそもあの夜襲が無ければ化け物を補給経路に野放しにする羽目になっていた。敵も一枚岩ではないということですかな」


「とはいえ、結果として我々の懐にダメージを与え負担を与えては居ます。完全に作戦失敗というわけでもないでしょう。ただ、どうにも何かあるような気がしてなりません」


「ないわけではないでしょうな。しかし何を? 補給線が襲われたという話しもない。動きが無さ過ぎるのが逆に不気味だ」


「夜襲を行う兵の数が少ないのも気に掛かります」


「斥候が調べた様子では、連中砦の周りにせっせと穴を掘っているらしい」


「穴、ですか」


「ああ。穴だ」


「つまり、これまでの動きは陣地強化のための時間稼ぎ……ですかな。程度にもよりますが、大軍で押し入れないようにしたかったとか?」


「昼間は防備に徹し、決戦を夜間に持ち込みたいのだろう。レイデンでは民間人が邪魔で行えないが、リオラスカ砦なら関係ない。だが、レイデンは重要だ。タダでくれてやるわけにもいかないから、ああしたと考えれば筋が通る」


 化け物は太陽の光に弱い。周知されている情報を考えればそこへ行き着くのが道理。敵側からすれば昼間に決戦を行うのは論外。それは少し考えれば彼らにさえ分かる。

 

「加えて、今まで出揃った情報が我々の意識を拘束する」


「そうですな。昼間の決戦を急ぐということは、移動してすぐに戦うということ。移動後、兵たちの休息が取れない。そして、連日の夜襲のせいで疲れが満足に取れている状態とも言いづらい」


「結果として攻めきれずに夜になり、向こうの攻撃準備が整うわけだ。なら夜襲が少数なのも、結局は防備のために戦力を集中させておきたかったからか」


「であれば、こちらがそれにあわせてやることはないですな。移動のタイミングをズラせばいい」


「左様。移動距離を減らし、兵を休ませる時間を取ればいい。この際、あと一日ぐらいの夜襲は大目に見ればいいでしょう」


「だがそれでは拠点を強化されるぞ」


「防備がより調った城を攻めるか、時間制限がきつくなるのを承知で防備が完全になる前に攻めるか」


「確実性を取るなら前者でしょう」


 ベイリックは主張する。


「そもそも、既に準備が十分である可能性の方が高い。英雄召喚からの日時から逆算すれば、工期はそれなりにあったと考える方が妥当です。それ以前なら見張られていたから動いていないはず。であれば、時間がより多くある方が良い。その際、斥候に穴とやらのより詳細な情報を手に入れさせておけば兵たちも戸惑わなくて済む」


 手堅く、そして無理も無い。反対する諸侯も少ない。が、それが決定になる前に異を挟んだ者が居た。レイチェルだ。


「だがベイ。それは敵も承知していよう。逆に砦を出て行軍し、一気に真夜中に進軍してきたらどうする。どちらでも夜間戦闘を強いられやしないか」


「勿論、その可能性はありますね」


「それを気にして備えていては、結局は兵も休めないと思うが」


「ええ。しかしそれならそれで良いではありませんか。その場合、移動で相手も疲弊しているはずだ」


「体が十分に温まっているともとれる」


「それは些細な問題です。確かに一時的な不利はある。けれど夜を越すことさえ出来ればこちらが有利になる。移動のために時間と体力を消費するのは向う。何より、これならうまくいけば防備の整った城を無理に攻める必要がない。それが無理でも、逃げ込む前に削ればいい」


 よほど上手く立ち回ることができた場合ではあったがその可能性が出てくるのは捨て置けない。今現在最も理想的なのは昼間に野戦を行うこと。その形に持っていくことができれば、確かに旨味はあるように思える。そこまで耐え忍ぶことができたなら、ではあるが。


 白熱するような二人のやり取りを、ヒヤヒヤしながら諸侯たちが見守った。二人の言いたいことも分からないでもないのだ。徹底的に問題を洗い出す二人は、しかしあくまでも淡々としていた。


「大体出揃ったと思うけど、どうだい」


「そうだな。私としては、たった一つの疑問に明確な答えさえ得られれば頷けるぐらいには出尽くしたな」


「ふむ? ここまで議論して阻むとなると、簡単な懸念ではなさそうだ」


「メリットは多く聞こえた。とはいえだ。根本的な問題だよベイ。夜が明けるまで我らが軍勢が耐えられるか?」  


「ほう。レイチェル様は我らが軍の力を信じていないと」


「相手が人間であれば疑いはしなかったさ。だが相手は魔物ではなく撤退が出来る、知恵のある化け物だ。攻めるなら夜が明ける前に決着を付けたがるはず。その場合、玉砕覚悟で突撃してくることを私は恐れているのだよ」


「追い詰められたネズミは猫を噛む。手負いの獣ほど恐れよ。……なるほどね。それは確かに恐ろしい。いや失敬、どうやら目先の情報だけしか見ていなかったようだ。傲慢さは黒騎士殿に粉砕して貰えたと思ったのだが、まだまだ私も見方が甘い」


「それは真に追い込まれたことがない証拠だよベイ」


「かもしれないね。所詮は安全な場所で得た程度の教訓だ。次は骨を折られるぐらいの気持ちで頼んでみよう。いや、この時点でダメなのか。中々難しいものだね」


 自嘲するように笑い、軽くベイリックは思案した。結局は、相手を人間として想定してしまっていたのである。普通の戦争であればそれで良い。だが相手は人間以上を含む化け物の軍勢。過小評価して良い相手ではない。彼は夜間に決死の軍隊と野戦で戦うことをイメージする。


 見張りと斥候を当然のように置いておき、動き出して報告が伝達するまでの間に当たり前のように距離を詰められるだろう。予想される兵力は東が優勢。削られはしたが、致命的なものではなく微々たるもの。その点に関しては心配ではない。ただし、夜の決戦を想定し備えていても、人間は夜は寝る生き物だ。来ないときのことも考えれば休ませて置かなければならず、襲撃されれば大半は寝起きだと想定。加えて、隊列をすぐに形作れるほどに動けるかどうかも未知数。相手は移動で体が温まった状態でまごつけば、愉快な想像はできない。思考する彼が結論を出すには、それほど時間はかからなかった。


「なるほど。あまり面白くはないね」


「だろう? 楽観するには少しばかり微妙なラインだ」


 若い二人が頷き、揃って公爵へと視線を向ける。ベイリックは総大将ではなく、レイチェルも対外的にはともかくとして実際はシンボルでしかない。最終的な決定権を持っているのはレンドール公爵。判断するのは彼であった。他の諸侯たちも、それに釣られるように彼を見た。


「二人とも酷いな。そこまで徹底的に揉んでおきながら結論は私に丸投げかね」


「公爵閣下は初めから反対のようだったでしょう。何か知恵があるのではないかと推察しますが?」


「他に選択肢が無いだけなのだがね」


 手堅く行こうとしても微妙ならば、もはや攻めるしかない。ただし、普通に攻めるのではない。


「――予定通りに明日攻める。ただし、秘密兵器を投入し迅速に制圧する方向で動こう」

 

 その言葉に、天幕の諸侯たちが一斉に顔を見合わせる。そんな中、ベイリックが唇を吊り上げ、レイチェルを見た。レイチェルはその探るような視線には応えず、しかし面白そうな目で公爵の決断に頷いていた。妙に自信がありそうな、そんな目であっただろうか。居並ぶ諸侯たちは、その視線の中に隠された揺ぎ無さを感じ取る。


 言い換えればそれは、一種のカリスマ性だったのだろう。皇族が血筋に宿し、脈々と受け継がせるべき王者の資質だ。その点だけで言えば、彼女はレンドール公爵を圧倒していたかもしれない。それにある種の期待感を抱いたのだろうか。一人の諸侯が公爵に問う。


「く、黒騎士殿は戦局を左右するほどなのですかな。確かに、篭手を纏っていたとはいえ、ああも容易く拳で剣をへし折るなど並ではないのでしょうが……」


「少なくとも、相手が防衛に務めてくれれば一定の効果はあるだろう。ただ、それだけではダメだ。こちらも全軍が決死の覚悟で望まなければならない」


「……と、いいますと?」


「日が沈むまでに決着をつけなければならないと、明日出発前に兵に伝える」


「それは!?」


「士気に関わりませぬか」


「戦うのは黒騎士だけではない。兵士一人一人の奮起に掛かっている。相手が化け物ならば、尚更個々人の理解が必要となる」


「そうか。こちらが追い詰められたネズミをやるわけですね」


「うむ。黒騎士殿には先陣に立って貰うが、だからといって彼だけに押し付けるわけにはいかん。無論、兵たちの命を軽んじるわけではないよ。我々の姿勢を明確にし、一人一人が成すべき事をやればいい」


 そうして、公爵は語りかけるように諸侯の顔を一人一人見渡す。


「そもそもだが、想像してみたまえ諸君。ここで私たちが負けたら本当に国が滅びるぞ。何せ相手は化け物なのだ。兵士たちにも家族がいるし、我々だってそうだ。この国は大山脈によって陸路が遮断され、海路しかない。逃げ場などどこにもないのだ。もはや我々は勝つしかない。バノス云々も確かにあった。だが、ある意味それ以上の危機に瀕しているとさえ言えるのだ」


「帝都は中枢がやられたそうですしな」


「西の諸侯軍から兵力が抽出されている現状では、確かにまともな戦力は我々しか残っていない……」


「もはやこれはただの内乱でさえなくなったというわけだ」


「バノスめ、厄介なことをしてくれたものだ」


 薄々気がついてはいたのだろう。だが、皆が直視することをどこか避けていた。それをあえて公爵が突きつけ、指導者層にさえ奮起を促す。


「ここで更に敢えて言うがね諸君。この上、我々は次の魔物たちの大侵攻のための兵力まで温存しなければならないのだよ? こんなところで化け物相手に兵も物資も資金さえも無駄につぎ込めるはずがない。明日はそういう意味でも重い一戦になると思うべきだ。兵たちだけではない。我々自身が、今こそ貴族としての義務を果たすべく働いて見せねばならないのだ。決戦のために、黒騎士に挑戦したいと言ったベイリック君のようにね」


「……そこで私を例に挙げますか。公爵も人が悪いですね」


 困った顔をする青年の様子が、諸侯たちの張り詰めそうになった空気を弛緩させた。諸侯たちの会議は、更に続いた。










「ご苦労様ですわ」


 黒騎士装備のままで戻ったリリムを、ノルメリアが迎えた。天幕には応急処置が施され、破けた部分の穴は修繕されている。魔法の明りが頭上から照らすその中で、リリムが角兜を両手で持ち上げた。すると、ノルメリアが紅茶の入ったカップを差し出してくる。


「光栄に思いなさいね。わたくし自らが淹れたティーですわよ」


「えー、店長の方が美味しいのに」


「ちょっとー! ここは素直にライバル<お友達>からの施しを受け取る場面ではなくて!?」


「はいはい。ありがとありがと」


 ズビシィッとばかりに指を突きつける元気な公爵令嬢からカップを受け取り、リリムは一瞬だけ聖浄気を展開。レブレの忠告を実践しながら味わう。


「……はふぅ。なんだか生き返った気分」


「リリム某。その顔ですと、どうやら今日も収穫はなさそうですわね」


「ええ。交戦する前に逃げてったわ」


「やっぱり敵は貴方を相当な脅威として見ているのね」


 ライラの呟きに、リリムは迷惑そうな顔で頷きカップの中身を豪快に飲み干す。染み渡るお茶の熱さもなんのその、明日への不安を誤魔化すかのように毛布に包まった子竜へと視線を向ける。


「レブレ。結局今日まで何もしてないわよねあんたは」


「何もしてないってのは心外だよぉ。さっきだって、レイチェルやノルメリアを護衛してたじゃないか」


 陽動作戦でリリムをおびき出し、その隙にレイチェルを狙うつもりかもしれなかった。だから黒騎士はともかく執事<レブレ>は動けなかった。


「この前は何もできずに気絶してたじゃないの」


「啓示のせいで完全に僕は無防備だったからね。いやぁ、アレは参ったよ。これで僕がここに来た理由の一つが潰れちゃったし」


「あんた、まさか視るために来たわけ?」


「それだけじゃないけど、黒幕の拠点を看破できたら一番だと思ったんだ。でも無理だったよ。相手が人間ならって思ったけど奥まで視る暇もなくやられちゃった」


 レブレにとっては正直、当てが外れた気分であった。啓示を魔物に行っても意味はないだろうことは自分で理解している。『だらっち』と『ジャン・ルックバイト』も論外だ。


 ジャンはそもそも狂っているし、だらっちは単純に規格外の力を持っている。レブレのそれを力づくで振り切っただろう。やるなら人間が一番安全のはずだった。けれど、敵の少年はある意味それらよりも厄介な性質を持っていた。


「まっ、完全に収穫が無いわけじゃなかったけどさ」


 ジャンは操られてはいても使ったのは自らが持ちえる魔力のみ。だがあの黒髪の少年は違う。帝都城や大山脈の結界と同質の力を使っていた。竜眼でそれを至近距離で視ることができたのは、レブレにとっては不幸中の幸いであった。


「状況にもよるけど、最悪あの異世界人はリリムに任せるよ。君の力が一番効果的なのは周知の通りだし」


「つまり、今回あんたは本当に役立たずなわけね」


「どうだろうね。アレ以外ならそれなりに戦果を挙げられるけどさ」


 実際に直接やりあったわけではない。だから必ずしも無力なわけではないのだが、それは言わずにただ黙る。実際、リリムの方がある意味では効率的である。


「じゃ、そういうことでお休みー」


 役目は終ったとばかりにレブレは寝た。


「なんというか、その子だけは最初から最後まで余裕ですわね」


「私ら人間とは価値観が根本的に違うのよ」


「まぁ、いいですけど……」


 ノルメリアにとっては気にならないでもなかったが、やはり彼女が気にするべき相手はリリムであった。


「おほん。それで、なにやら明日で大勢が決まりそうな雰囲気ですけど……その、ちゃんと勝てそうですの?」


「どうだろ。やれるところまではやるつもりだけど」


 勝てる保障などどこにもない。負けに行くつもりは毛頭無いにせよ、リリムは戦争など知らない。一人でも多くの敵を無力化していけば勝てるぐらいにしか考えてなどいなかった。


 一対一ならばそれほど怖いと今は思わない。だが、明日のそれは今までのような小手調べとは違う。レブレの上に居るとはいっても、どうにもあの異世界から呼ばれた少年と戦う役目からは逃れられそうにも無い。


 それはリリムの中ではほとんど決定事項であり、少年のことを考えるだけで胸の奥底から不自然なほどの義務感が湧いてくる。今にも泣きそうな目をしていたあの少年を開放する。それができないとは彼女には思えない。ただし、漠然とそれが果たして良いことなのかどうかが分からない。


 シュルト・レイセン・ハウダーやレブレはこの世界に適応しているが、あの少年からはそんな様子がまったく見受けられないのである。嫌々仕事をしているような、状況に拘束される者特有のやせ我慢さえ見える程だ。


 彼にあるのはきっとこの世界への怒りであり、純粋な憎しみだけ。そうと察せられる程度には、彼の行動も言葉も一貫していたように見えていた。だが、それさえもきっとリリムの想像に過ぎない。ならば、立ちはだかってくる以上は相対するしかない。その結果どうするかなんてのは、結局は終ってみなければ分からない。そしてリリムは当たり前のように手を抜く気はない。


(きっと私なら戸惑わない。メイドに言われずともやれる。操られてる風じゃなかったから躊躇なんてなく潰せるわ)


 仮にだが、操られているだけの被害者として奇跡の力で助けたとしよう。だが、その助けは本当に救いに成り得るのだろうか? 


 召喚された英雄は異世界人が多い。少なくとも自世界の人間が召喚された例をリリムは自分しか知らない。それはきっとランダム召喚の弊害。誰が呼ばれるか分からないというギャンブル性がもたらす召喚事故。いや、そもそも召喚自体がきっと度し難い行為そのものなのだろう。


 少女にはなんとなく分かる。例えばシュルトだって、帰る方策をまったく模索していないわけではないのだ。当たり前だ。自分の居た場所を安易に捨てられるような者がいたとしたら、それは単純に柵がない身軽な者か逃避したい者だけだ。


 そしてそのシュルトでさえ安易には帰れず、敵の持つそれを当てににしている程である。それは独学では帰れないという事実の証明に他ならない。その事実はきっと、呼ばれた者たちの胸に棘となって刺さったまま生涯彼らを苛むだろう。ならば、終らせてやるほうがまだしも救いではあるかもしれない。だが、リリムなら化け物になっただけの人間を元に戻せる可能性があった。事実、吸血鬼の花嫁から人間に戻った。あの闇さえなくなれば、或いは治癒も可能かもしれないのだ。


(召喚したのはバノス宰相だから、私がなんかするのはどうかとも思うけど。実際、どうなんだろ。聞いてみるほうがいいのかな)


 考えれば考えるほどにいろいろと面倒くさくなってくる。東軍に属するリリムにとってはそんな義理などまったく微塵もない。軍の兵士たちが殺されているし、故郷のレイデンもあの様だ。リリムのできるかもしれないという推測と安易な気持ちはともかく、彼らがそれを許すことはないだろう――と、そんなことを考えていたリリムの手をノルメリアが両手で抱いた。


「怖いのですかリリム某」


「怖いって、なんでよ」


「だって、貴女今とても沈んだ顔をしておりましたわ」


「あー、違う違う。そういうんじゃなくてちょっと考え事が――」


 その時、ふとリリムは気づいた。篭手を包む両手が震えていることに。


「あんた――」


「な、何ですの」


「――ううん。なんでもないわ」


 公爵令嬢に張り付いた表情には、いつものような威勢の良さが少し足りなかった。そういえば、襲い掛かってくる夜襲軍を追い払って天幕の外へと帰ってくれば、いつも戦闘服だと言い張っていたあの服を纏ってノルメリアは天幕に居たような気がする。今夜もそうだった。夜着ではなく戦闘服。


 戦えない者には戦えない者なりの戦いというものはある。リリムは冒険者だった父親の帰りを待つ母を想起した。


 それは出て行った者の家を守るための戦いだったのだろう。襲い来る結果が出るまで、何も出来ずにただ祈ることしかできない時間との戦い。そこには確かに、直接戦った者たちの戦場とは違った別の、待つ者の戦場があった。


「それより、鎧脱ぎたいから手伝ってくれない?」


「それはお姉様の仕事で……いえ、任せないなリリム某!」


 少しだけ嬉しそうな顔でノルメリアが笑う。震える指先も、何も出来ない苦痛に喘ぐよりは楽になったようだった。まだ何かできる方が楽な場合もある。そしてリリムは、行動できるというノルメリアからすれば贅沢な戦場を持っていた。だから、思いつくことは一応やってみようと思った。


(私はただの助っ人だもんね。やれるだけのことをやって、そして終わらせればいいのよ。ねぇ、そうでしょシュレイダー)


 帰ったら、お預けしていた分の血を吸わせてあげないといけない。半月近く会っていない彼の待ちわびた顔を想像しながら、リリムは決めた。先ずはいつものように足からだ、と。
















 翌日、最後の訓示を終えた軍勢が動き出した。最終的には十万にも達そうという軍勢。補給部隊や最低限の守り、そして西側勢力と領地を面する諸侯の守りで分散されて全軍というわけにはいかないが、それでも東軍が捻出できるだけの軍が進攻していた。


 最も先行しているのは斥候。砦を見張っている者たちとその伝令。彼らは慌しく砦と軍までの間を行き来し、最新の情報を届け続ける。その次に糧食部隊。早めの昼食を兵に与えるために、少数の護衛とともに野営地へと移動する。その後に本隊がゆっくりと続く。


 兵士たちの顔には、当たり前のような緊張があった。ただの内乱から一転し、人そっくりの化け物の軍勢と戦う羽目になった彼らの胸中から、完全に不安が取り除かれることは決してない。だが、それでも彼らに希望が無いわけではなかった。


 それは頭上を行きかう緑竜の存在だ。両手で補給物資を運ぶその竜は、人を襲うことなく前線の野営地と軍勢の間を行き来する。その上には黒騎士の小さな人影があり、完全に竜を従えている様が確かに見えていた。


 竜とはレグレンシアに住む人々にとっては魔物である。その強大な体躯と威容は、当たり前のように敵対する人類に対して恐怖と絶望を約束してきた。東軍の中でも、山脈への派遣勢力として対峙した経験を持つ者は居る。だからこそ、その脅威を知るが故にそれを御している黒騎士は彼らにとっての希望足りえた。


 得たいの知れない化け物が怯える黒騎士。あの癒しの光も、竜を駆る力も、人外の戦闘能力も、今は恐怖ではなく味方であるという確かな事実が彼らの心を支える。それほどまでのインパクトが竜にはあった。


 それは雑兵たちだけが例外ではない。諸侯もそうだったが、ある程度予想はできていても本当にその光景を見れば不思議なほどの勇気が湧いた。


「ふっ。皆の反応は上々だな」


「坊主はでかいから目立つしなぁ」


 皇女の馬車からでも窓からその竜が見えていた。姿を知っていたレイチェルやケインからすれば当然といえば当然のような顔である。逆に、初めて見たノルメリアやライラにとっては驚きしかない。


「ちょっと信じられないんだけど。私、アレに齧られてたのよね……」


「お互い無事で何よりですわ」


「本当ですよね」


 しみじみ言う二人であった。


「ふっ。齧られた程度がどうした。私などあの姿で顔を舐められたぞ」


「まぁっ、さすがお姉様ですわ!」


 竜の唾液は勲章ではないが、こればかりは他の追随が及ばない戦果であろう。誇らしげな顔で武勇伝を語るレイチェルに馬車の中も沸き立つ。ただ、全員が全員ともなんとなく願っていた。終っても、冗談が言い合えるような余地があることを。
















「あれ、どっからどう見ても怪獣だよなぁ」


 かつて、日本では怪獣映画が隆盛を誇っていた時代があったらしい。空を飛ぶ亀やら放射能の影響で熱線を吐く恐竜やらが様々な怪獣と戦い、人類が右往左往させられる作品群だ。今まさにアキヒコはその中の人類の気分だった。砦を囲む城門の上からその不条理が良く見える。怪獣に蹂躙される人々の気持ちが分かるというものだった。


 怪獣の正体は緑色の竜である。人間の軍勢が後ろで平原を埋め尽くすように立っているが、遠くから人と比べるとそのサイズの異常さがよく分かる。


 太古の時代、地球では恐竜とかいう大型生物が闊歩していたと専らの噂だ。思わず少年は実物が生き残っていたらあんなものかと感嘆してしまう。とはいえ、今からアレと戦わなければならないと思うと途端にその感動も消え失せた。誰がどう考えても正気の沙汰ではないからである。


「あんなのと剣一本で戦えなんて無理ゲーだって。俺なら無限弾数のロケットランチャー渡されてもやらないぞ。やるならアース防衛軍の隊員でも呼んで来いってんだ」


『フヒヒ。だぁからあの時言っただろう。竜が居るってよぉ』


「できることなら所属陣営のチェンジを今からでもお願いしたいね」


 心の底からのその言葉を、しかし神とやらが叶えてくれることはない。少年は雲ひとつ無い晴天の下、ただ不浄理を噛み締める。


「結局雨一つ降らず曇り空にもならない。頼みの綱の魔神様も、それをどうにかできるチートメイドが居やがるせいで頼りない。おまけにサイズ比が可笑しい怪獣様の登場ですよ。なんなんだろうなぁほんと。この世界、脇役A止まりのモブキャラに厳しすぎるよ」


『何言ってんだよアキヒコ。お前だってもうチートキャラだぜ。一般人じゃあ千人集まってもガチでやりゃ負けねぇよ』


「はっ。俺TUEEEできない程度のチート性能なんて、この界隈じゃ地雷だよ地雷。ちょっと修行して勝てるぐらいの相手ならむしろ引き立て役っていうんだよ」


『だぁが、勝つのはお前だぁ。俺様は確信した。どうやってもそうなる。だから、ちったぁ面白くしてやってもいいと思って提案してやったんだぜぇ』 


「是非そうであってもらいたいね」


『俺様を信じろって。フヒヒ、あ、思わず痒い台詞吐いたじゃねぇーか。てめぇ、嵌めやがったな!』


 晴天の下、脳内魔神が少年に毒づいている。そのことに対してはもう、アキヒコは何も感じない。連日の襲撃で有効性は確認できていたからである。恐怖が無いわけではないが、もう気にしないレベルで受け入れてしまっていた。


 マリス・エンプ・ティネス。ドリームメイカーたちが召喚し、そのうちの一人が名づけた空虚なる悪意の魔神。彼はアキヒコにとっては、この世界ではある意味二人目に優しかった。


「お前、もしかしてぼっち野郎か?」


『ブハハッ、人間の尺度で言うならそうかもなぁ』


 元凶というよりは共犯者であり、システムの一部でしかない魔神。この世界の理から外れた彼はアキヒコによく喋りかけてくる。


 嬉しそうに。

 楽しそうに。

 無邪気そうに。


 その本質は度し難いモノの産物でしかない癖に、まるで悪友のような気軽さと生ぬるさで忍び寄り、いつの間にか当然のようにそこにある。不快さも一週回れば心地よいほどだ。そしてこの魔神は、律儀といえば律儀だった。


 馬鹿にしながらも手を貸し、嫌々でも頼めば願いを聞いてくれる。少なくとも契約した相手を裏切る素振りはまだない。或いは、裏切る最高のタイミングを伺っているだけだったのかもしれないが、アキヒコはもう疑うことにさえ飽きていた。


『魔神的尺度で言えば俺様程ぼっちとは無縁な奴はいないが、そもそも俺が今の俺になったのは呼び出されたからだ。だったらまぁ、お前ら的に言えば俺はぼっちかもしれねぇなぁ。まだ俺の同類は来てないし。つか、魔神ってのも勝手にあいつがそう名づけただけで、意味なんてこれっぽっちもねぇよ。強いて言えばこれさえもあいつの趣味さ』


「だから話し相手が居なくなって寂しいから色々と呼び出しているんだろ」


『ただ望みを叶えてやっているだけなんだが……フヒヒ。そうと思うならそれでいいぜい。だがな、勘違いするんじゃねぇよ。俺様……というかシステムが勝手に選択肢を与えただけだ。お前らを召喚した奴らが自分たちの意思で無理やり与えられたそれを使って召喚したんだよ』


「その状況に追い込んでる癖に」


『それこそドリームメイカー共のシステムだっての。色々と追い込まれた奴だけが英雄召喚システムに選ばれる。お前を呼んだ奴は不倫がバレて家庭崩壊しかけてたような奴だ。どん底の奴にこそ救いは与えられるべきだってのが奴の持論だ。確かに俺からアクセスして遊ぶことはできるぜ。でもよぉ、俺が望んで呼んだのは二回だけだ。それ以外は不可抗力だって』


「見苦しい言い訳乙。ついでに、遊ぶために器候補探してるんだから同罪だっての」


『ハイハイ、この話題は止め止め。面白くねぇし』


 脳裏で何故かパンパンと手を叩く音が聞こえる。仕切りなおしたいらしい魔神に頷きながら、アキヒコは話題を変えた。少年自身も、実はつまらない話題でしかなかったのだ。


「しっかし、ほんとどうしようかね」


『ここに来て怖気づきまちた? 僕こわぁい? マリス様たちゅけてー――以上、アキヒコの心の声から捏造してお届けしました(キリッ)』


「ウゼェ」


『おいおい、協力者様になんて口の利き方だ。緊張を解してやろうっていう友情だろう今のは』


「ふんっ――」


 面白くもなんとも無いそれをウケているのはマリスだけ。頭を振るうと、アキヒコはもう一度敵の軍勢に視線を向けた。


 すると、砦の門が開き使者が出たのが見えた。馬に乗ったバノス宰相である。外套を纏った彼は、フードを目深に被って挑発に向かっていた。正直、相手もあんなのがいきなり白旗を掲げながらやってきたら色々と困るだろう。アキヒコなら間違いなく怒りのあまり切り捨てる。


「なんだかなぁ。一応の首魁が単身で敵陣に向かうってのはどうなんだよ」


『大将同士の一騎打ちがやりたいってんだろ。素体が敵の大将嫌いだから感情に引きづらたんだろ。直接やりあいたいとさ。好きにやらせてやりゃいいさね』


「どう考えても頭可笑しいよな。向うが受ける理由ないじゃん」


『フヒヒ。道理を掲げる奴らに泥を投げつけたいんだろぉ。戦争協定さえ守れない奴が皇帝になどなれるものかぁぁ!! 正義は我にあり! みたいな逆切れ系のノリじゃね』


「レベル低すぎるわ。子供の喧嘩じゃないんだぞ」


『でもあいつ、ある意味ゼロ歳児だろ』


「あーいや、でもそういう形容はどうなんだ? あっ――」


『どうしたよ』


「浄化魔法って奴喰らって倒れた」


『あー、これまた分かりやすいなぁ。人間じゃなきゃ話し合う必要なしってか。これからこの国は浄化魔法に耐え切った奴とだけ会話ができるルールが出来るわけだ。化け物とは共存できません! だからぁ皆殺しにしてオッケーですぅ。でも、反撃は許しません。人類一丸となって折れる事無く戦い抜きますってか? ひひゃひゃ。分かりやすいよなぁ。人間は弱いから、安易な方向へすぐに流れる』


「だね。嗚呼、そうだ。だからこそ俺が戦う意味があるんだ――」


 外套のフードを被り、アキヒコは長剣を抜く。それに従って砦内部の兵隊たちに無言で控えていたロスベル辺境伯が伝令を出した。


 ヴァンパイア・ウィルス同士の通信網。クイーンを頂点とし、現在ではキングへと全権が委ねられているそれを介して命令が伝わっていく。それに連動して兵たちが配置で矢を構え、詠唱を開始する。


 エルネスカ砦は見晴らしの良い平原にある。元々は安全であるために、新兵の訓練などで使われてきた場所でもあった。当然強固な外壁と堀で囲まれてはいたが、それだけではアキヒコが安心できずに穴を掘らせた。とりあえず中途半端な知識を総動員し、塹壕モドキを掘らせて大軍の侵入経路を限定させた。その際、この世界の賢人魔法が随分と役にたったのはいうまでもない。迷路状に掘られたそれは当たり前のようにトラップが仕掛けられ、伏兵が配置されている。外壁の上から即座に指揮できるバノス軍からすれば、それなりの効果が見込まれた防衛施設といえた。


(この戦いをできるだけ凄惨にしよう。召喚のリスクを当たり前のように知らしめてやるんだ。そうして俺の中の憎悪を僅かでも慰めて、この世界を征服してやる――)


『おいアキヒコボケッとすんな! もう戦争は始まってるぞ。ほら、早く門の前に出ろっ!』


「え、いや待ち構えるのが作戦――」


『見ろよ、やっこさんお前が一生懸命作らせたもの一撃で台無しにする気だぞぉぉ』


「は、はは。なんだよそれ。ふざけんじゃねぇぇぇ!」


 アキヒコは門から飛んだ。普段滅多に怒らないだけに、その怒りは極上の憎悪となって恐怖さえ凌駕した。マリスが喰らってもすぐには尽きない程の感情が、少年の中で荒れ狂う。


 着地の衝撃で生じる痛みがある。軋む骨を無理やり修復することにより、当たり前のように白煙が立ち上る。その痛みを振り切って、アキヒコは城門から敵を見据える。その遙か彼方には、大きく息を吸い込み始めた竜が居た。


 カンナヅキ・アキヒコは当然だが竜との交戦経験などありはしない。有るとしてもそれはゲームの中だけの話し。けれどその動きから連想される攻撃方法は彼にも理解できていた。


 ドラゴンブレス。竜が放つ灼熱の吐息だ。不自然に遠い距離からその兆候を見せるのであれば、届かないなんて考えは楽観でしかない。だから、ただただ城門の前で剣を構えた。


『フヒヒッ。さぁ、夜の修行の成果を見せろよぉ。後はお前次第だ。力の蛇口をこじ開けろ! 体ぶっ壊れる程に無理して出口を拡張しながら、お前の意思をこの世界に焼き付けてやれ。ヒヒヒ、そしたらこの世界もきっと、根を上げてお前を認めざるを得ないだろうよぉ――』


 この世界は薄情だ。自分たちの都合で呼んでおいて何の保障も用意していない。つまりは、異世界人を人間扱いしていない。これは人権を発明した文明人にとっては、あるいは真っ当な知的生命体からすれば異世界への拉致行為でしかない。地球在住の日本人にとって、拉致とはアレルギー反応を起こすほどの重罪だ。コレを凌駕するのは戦争やら核ぐらい。それほどまでに彼とは相性が悪かった。


 その相性の悪さを払拭するほどの待遇は、残念ながらアキヒコには与えられることはなく、失った物の方が多すぎた。その帳尻を合わせることさえ許されないのであれば、もはや彼には怒りしか残らない。故にこそこの世界を彼は征服しなければならない。


 故郷の変わりにはならなくても、居場所を確保しなければならない。戦って切り取って、認めさせなければならない。それがアキヒコにとっての世界征服であり復讐。そして、二度と地球には帰れないという事実が生み出した逃避先。召喚システムはあくまでも召喚するためのシステム。そのための召喚パラメータしか残っていないことをマリスに告げられていた。システム構築者たちは帰すことなど微塵も考えてはいないのだから、それは正に一方通行の片道切符。おかげでアキヒコの怒りはシステムを利用した者たちや、そうさせた者たちへと集束した。


「もっとだ。もっと、もっと力を寄越せぇぇぇ!!」


 魔神から容量を超えるほどの力を搾り取り、壊れそうになる体をウィルスによって力ずくで修復して現状を維持する。


 纏った闇が剣に集う。その力の根源は魔力でも気でもない。強いて言えば精神力。知的生命体の誰しもが持つマイナスベクトルの感情エネルギー。どこかの異世界人ならば想念そのものと定義されるべきものであった。


 それは妬みの生み出す呪いの詩。

 それは憎悪を向ける相手への死の賛歌。

 それは絶望に負ける生命の悲鳴。


 心が弱いが故に、アキヒコは容易くマイナス方向へと精神を傾ける。精神的脆弱性が魔神の居心地を良くし、彼にドリームメイカー以来の友人として力を貸すことを選ばせた。


 シスターマリカからすれば、悪しき効果を生むだけの忌むべきオブゼッション<悪霊憑依>でしかなくても、アキヒコからすれば力を授けてくれるポゼッション<聖霊憑依>にも等しかった。


『カウントダウンはしてやる。ゼロカウントで合わせろ。いくぞ。4、3、2――』


「ぐ、ぎぎぃ、がぁぁぁ――」


 内臓のどこかが壊れたのか、血がこみ上げてくる。鉄錆びたその味を無理やりに吐き捨て、剣を掲げてアキヒコは竜の一撃に挑む。


『1』


 視界の向う。霞みそうなほどの先に、竜の顎が開く。球状の赤が、陽光の下で輝いた。


『0だっ』


「飲み、込めぇぇぇ!」


 振り下ろした剣先に沿うようにして、城門の向うの空間を闇が染める。数秒も掛からない。そこへ、間の迷路ごと大地を削りながら迫る閃光の吐息<レーザーブレス>が接触した。


『フヒヒ、キタキタァー! さぁ、それを返してやれよアキヒコよォォ!』


「ぐ、く、こんの、開けぇぇぇ!!」


 弾丸を手に入れた闇が、その砲塔を開く。闇の中、出鱈目に弾道を捻じ曲げられたレーザーブレスがアキヒコの生み出した闇の中で暴れまわり、こじ開けた出口から逃げ出した。その出口は外壁の上、二十メートル程上空だ。そこから閃光を放った竜に向けて、感覚だけを頼りに撃ち返す。


『うわ惜しい。後十メートルで生意気な竜に命中だったぜぇ。ヒヒ、ビビッてるビビってる。最弱舐めんな先天的チート生物め』


「げほっげほっ。じゃあ……今度は軍を狙ってやるさ。それなら外しよう……ないもんなぁ。さぁ好きなだけ撃って来いよ。全部撃ち返して恐怖を生贄にしてやるぜ」


 全身から白煙を立ち上らせるアキヒコは、死にそうな顔に壮絶な笑みを乗せて笑う。そこにはもう、日本人としてのアキヒコはいなかった。連日の夜の襲撃、血で染めた両腕は元の彼から確かな乖離を促していた。もう戻れないと自覚できる程度には。

 だがそれでも不思議と後悔だけはなかった。全ては流されながらも最後には自分で決めた行為。どのような結末であろうとも、受け止める覚悟だけは完了していた。


「MAP兵器で終らせてなんかやらない。楽な戦いにもしてやらないぞ。後悔しろ異世界人。二度と召喚なんてしようと思わないぐらいに、教訓にするぐらいの規模で刻み付けてやる。絶対に俺は、お前たちをタダで勝たせてなんてやらない――」














「あんた、本気で今回役にたたないんじゃないの?」


 東軍の最前線。竜の背中に乗ったままのリリムは、自分の攻撃を足元近くに返されて仰け反ったレブレに容赦なく言った。


「あ、あははは――」


 そう言われては立つ瀬が無い。レブレからすれば満を持しての一撃であった。「この前の借りを三倍返しだ!」なんて言って、元気一杯放ったものでもあったのだ。


「どうすんのよ。後ろの連中の士気、当たり前のように下がったわよ」


 せっかく士気を鼓舞してきた竜騎士効果が、無言の静寂を経て恐怖に変わっていた。竜の攻撃さえも防ぐ敵として相手は彼らに理解されてしまったのだ。


「そ、それ以上言わないでよぉ。恥ずかしいよぉ」


 洞窟があったら頭から逃げ込みたいぐらいの羞恥心がレブレを襲う。ただ、そうやっておどけながらも内心では彼は驚いていた。動揺していたと言っても良かった。


(ま、不味い。アレがもし対超長距離砲撃用の大魔法にも適用できるレベルの反射魔法<カウンターマジック>系だったら、山脈の結界を破壊する手段が一つしか無い)


 少なくともレブレの持つ手段の中には手がない。シュルトの懐の広さに期待するしかないが、魔法の基本は遠距離攻撃。対結界用の近接魔法もないではないが、相手がパワースポットを掌握しているので攻撃力が限定される。それは極めて不味い展開であった。


「ねぇ、どうすんのよほんと」


 ペシペシと、握った槍で黒騎士が首筋の鱗を叩く。

 幸い、ここはパワースポットではない。すぐに気を取り直した子竜はゆっくりと前進を開始した。背後でどよめきの声が上がるのにあわせて、煩いぐらいの咆哮を上げ魔法障壁と一緒にオーラを展開。まだまだできるとやる気を見せて、下落した士気のV字回復を試みる。


「ちょっ……レブレ!?」


「こうなったら物理的にあの妙な闇を使う奴を倒すしかない。リリム、僕が化け物になりかけたら治癒よろしくね」


「もう、やばくなったら逃げるのよ!」


「うん。でも、ちょっと僕怒っちゃったよぉ」


 ズシン、ズシンと大地を鳴らしながら、竜の巨体が前に出る。やがてスピードに乗った巨躯の動きに翼が連動。力強く羽ばたき大地から飛翔した。それに釣られて、ようやくノロノロと公爵率いる東軍が動き出す。


 その動きに精彩はない。当然だ。ただでさえ移動で彼らは疲れていた。切り札たる竜はまだ何も戦果を上げていない。これでは勝ち戦の気配さえない。化け物を倒す必要があるとはいえ、誰だって負け戦はやりたくないのだ。この空気を変えるにはもはや、レブレによる目に見えての戦果が必要だった。


「しっかり捕まっててよリリム!」 


「それはいいけど、あんたこれで戦果ださないと帰ったらご飯抜きにされるわよ」


「うぅー。それは嫌だから頑張る」

  

 砦までの距離はすぐに縮まった。元々一キロも離れてはいなかったのだ。おかげで高度はそれほどないが、レブレはお構いなしに突っ込んだ。目標は砦の入り口である巨大な門。勢いをつけた巨体が、当たり前のように迷路を飛び越える。その際真下から申し訳程度に矢や魔法が届くも全て無視。翼で滑空しながら右手を振り上げ突撃していく。


「がおぉぉん! 必殺のオーラドラゴンパンチだぁぁぁ――」


「ちょっとは名前工夫しなさいよぉぉぉ!!」 


 黒騎士の悲鳴を無視し、竜の巨体が落下した。それを阻もうと先ほどと同じ闇が展開されかけるも、すぐに止む。


 相手も馬鹿ではない。リリムが乗っているのが見えたのだろう。彼女に奇跡で相殺されて無防備なところをレブレに殴られる可能性を嫌ったのだ。


 闇を纏う少年が、血相を変えながら閉ざされた門を蹴って三角飛びの要領で門の向うへと逃げ込む。それを確認しながら、レブレは思いっきり拳を城門へと振り下ろす。


 まるで岩を砕いたかのような轟音が響く。同時に着地の衝撃で拳の向う側の土砂がドッと大量に舞い上がった。大地を揺らす程の激震。一瞬、戦場の全ての声がその音に飲み込まれて沈黙した。


「GUOOONN!!」


 その後に続くのは、腹の底から響き渡るような竜の咆哮。翼を羽ばたかせ、粉塵を吹き飛ばしながらレブレが汚名返上とばかりに勝ち誇る。


「これで失態は帳消しだ。それっ。奇襲なんて許すもんか!」


 瞬間、レブレが左手を振るい左から跳躍してきた黒い影を弾き飛ばす。それは黒髪の少年であり、異世界人とあの日名乗った彼だった。


「ちぃ――」


 奇襲を感知され、大質量で殴られたはずの少年が吹き飛びながら砦の庭を転がっていく。だが、剣を地面に着きたてて止まると、すぐに二人を見上げた。


 そこにあるのはすでに死んでいるのではないかと思わせるほどに精気の無い顔。青白い肌にある二つの眼は、ゾッとするほど冷たい黒瞳が収まっている。前回の対峙とはまるで違う殺意が、見下ろす二人を威圧する。


 着ているの防御力ではなく機動力だけを重視した軽装。纏った黒の外套は、夜間戦闘用のそれのままだが、不思議とその少年には似合っていた。

 彼は白煙を上げながらも立ち上がり長剣を抜いて構える。竜の巨体に気圧されもせず、戦力差など知らぬとばかりにただ憎しみの篭った目で前を見据えて対峙する。


「ッ――」


 その瞬間、リリムの中に存在した最後の躊躇が完全に消え失せる。彼女は悟った。アレはもう完全に自分の敵であり、救いさえ求めていないと。否、自分では救えないと直感した。


(それでいいのね。助けを望みさえしないのねあんたは。なら――)


 紅眼の上を瞼が覆う。一瞬のマインドセット。呼び出す自分は戦争をやり切れる自分。そして更に躊躇なく化け物共をなぎ倒せる力を持つ自分。つまりは希望を担う聖女としてのペルソナ。


 瞬きの間に終えたマインドセット。開かれた紅眼にはもう迷いはない。公爵側の切り札として、ただただ化け物を蹂躙するのみ。


「やりなさいレブレ! こいつら全部、帝国から叩き出せ!」


「GAOOOONN!!」


 戦場に木霊する二度目の咆哮。大気を揺るがせる程の声量が、無遠慮にも耳朶を叩き生物的恐怖を喚起する。だが、少年はもう武者震い一つ起こさない。


「ロスベル、指揮権を預ける。出来うる限りの手段を使って損害を拡大させろ! もう陣地に拘る必要さえない」


「御意――」


 竜が砦に取り付いている。暴れれば施設ごと粉砕できる質量が相手だ。拠点の防御効果などもはや当てにしている場合ではない。無能であるが故に、後は任せる。アキヒコにとってはもう、余計なことを考えている余裕などないのだ。


「マリス」


『おうよ』


「往ってくる――」


『ヒヒヒ、精々死ぬまで頑張れ。最後まで俺様は見守っていてやるからよぉ』


 高ぶる闘争本能と純粋な殺意が、本当の意味での開戦の合図となった。


 竜騎士が槍を掲げ、竜の上で光を纏う。

 異界の少年が剣を掲げ、闇を纏う。


 それが、レムリング大陸史における最初の反逆者。逆英雄カンナズキ・アキヒコと、竜を扱き使う聖女リリムの二度目の邂逅だった。


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