第一話「吸血鬼と借金少女」
冬が明け、春が到来したとはいえ夜と朝はまだ肌寒い。大きな外套で包まれていても屋内ではないせいで彼女は少し身震いした。時刻は早朝。薄っすらと太陽がその頭を覗かせ、当たりを照らし出している。
少女は薄っすらと目を開けると同時に、鼻につく異臭を感じた。敏感な鼻腔がその残滓を捉えるも、匂いを発しているはずの魔物の死体はそこにはない。ぽっかりと不自然にも円形に広がった山の麓の森の中、底なし沼のようなあの影が座っている岩の周囲にこれまた円形に広がるだけだった。
「起きたか」
「はい」
黒髪の少女――サキ・トクナガは、外套の裾を抱きしめるようにしながら隣に腰掛けているシュルトを見上げた。一晩中起きていた癖に、彼には眠そうな様子は一切無い。また、彼女に外套を被せたままであったにも関わらず平然としている。彼女はその男に軽い畏怖を感じていた。
そもそもシュルトが言うには二人が今居るのは西の大山脈と呼ばれる要害の、その麓である。グリーズ帝国の国土でこそあるが、魔物のせいでその向うの各国と帝国を分断する陸の防壁であり、魔物の巣窟。そんな場所で一晩明かすなど正気の沙汰ではない。
サキが知る限りにおいては既に帝国の防衛線は山脈からかなり後退していたはずなのである。つまり正規軍でさえ死守できなかった難所であるということだ。本当ならたった二人で夜を明かせるような場所ではない。にもかかわらずこうして無事に過ごせている。これがどれだけ異常なことなのかは彼女にだって分かっていた。無論、嘘を吐いている可能性はある。だがこの男ならばもしやと思わせるような光景を昨日に見ていた。ならば信じて見てもいいような気になっていた。
「食べられそうな魔物は居ましたか」
「さて、私は食料にするつもりで魔物を狩ったことなど一度もないからな。どれが食えるかなどほとんど分からん。君は知っているか?」
「……いえ、熊とか猪とか鹿ならともかく、私も魔物はちょっとわかりません」
「そういえば空元には魔物はまだ少ないのだったな」
「はい。樹海はともかく、私の住んでいたところはまだ現れては居なかったので」
現れたのは五年ほど前からである。突如として発生し、空元中が震撼した。元々は大陸帰りの商人などから魔物なる物の怪の存在が噂になっていたが、サキの実家の周囲まではまだ広がっては居なかった。諸国の大名の中で、いち早くそれが魔物だと気づいた者が周辺に触れを出し、更には天帝までもが触れを出したことで初めてそれが動物とは違う化け物だと理解したぐらいだ。それから、じわじわと勢力を広げていく魔物たちは今では諸大名たちの頭痛の種になっていた。戦国の世にあってなお、戦を中断せざるを得ないほどに。
事態を重く見た大名の中には、対処するためのノウハウを求めて大陸の情報を集めさせる者がいた。サキは、それに目をつけた商家の次女である。
大陸との貿易は多大なる利益を生む。そればかりか魔物対策の有益な情報を集めることができれば大名に恩を売ることが出来る。海を渡るリスクを犯してでも、その新しいチャンスをモノにしたかった彼女の父がそのために海を渡る決心をした。入り婿を得た長女と妻に店を任せ、彼女と共にグリーズ帝国へとたどり着いたまでは良かったが、そこで雇っていた現地のガイドに裏切られた。
護身術程度には剣術を齧ってはいたものの、狩猟民族系である大陸人との体格差に加えて、やり手の人間に囲まれてはどうしようもなかった。そして極めつけは魔法である。空元には魔法がなかった。類似するモノが無いわけではなかったが、それは神職や巫女の専売特許であり、一般の商人には普及してはいなかった。そのせいで逃げられなかった。父親はそれで死に、彼女は奴隷商人の手先だったガイドたちに捕まった。隙を見て逃げ出したものの昨日シュルトに保護された。
「……魔物とは、一体なんなのでしょうか」
「その答えは私も知らない。だが不可解な存在なのは確かだ」
「そもそも、空元は海に囲まれています。大陸から持ち込まれでもしないかぎりは現れるはずがないのですが」
犯人が大陸人の可能性がある。しかし、だとしてもその大陸人たちでさえも手を焼くような存在が魔物なのである。こちらも突如として発生したという記録が各国に残されているし、そんなことをしても利益などまるでない。或いは人族ではなく別の種族の可能性もあるが、それもやはり懐疑的だ。襲われない種族はなく、魔物たちは容赦しないことは既に周知の事実であった。魔物とは全ての人類種に対して平等に牙を剥くからこそ恐れられているのだ。
「そうだな。その懸念は当然だと思うし、当たらずとも遠からずだろう」
「貴方もそう思いますか」
「可能性の一端には触れているとは思うよ。だがどうしても辻褄が合わない。例えば、この山の魔物だ」
講義するように、シュルトは言う。その手が周囲へと向けられる。視線を向けたサキは自分たちを包囲しようとする多種多様の群れを見渡す。彼らは皆、幽鬼の如く煌く淡い光に包まれていた。薄っすらと発光しているのは魔力障壁を纏っているからであるが、空元の人間からすれば物の怪などと呼ばれる伝承の化け物にも見える。
「昨晩から延々と私はここで奴らを狩り続けている。しかし、一向に減る気配はない」
魔物の群れからいくつかの遠吠えが響く。魔物は魔物を統括する種が居る場合は仲間同士を襲わない。それどころか、格のようなモノが存在し、頭の良い種が統括し群れを作る。この際種族の壁は問われない。これらは動物ではありえないことだ。まるで、初めから上下関係が染み付いているような、そんな不気味な感慨さえ湧き上がってくる。
「そして知能があるように見えて馬鹿の一つ覚えを繰り返す」
「GUOOOONN!」
二人に近づこうと、遠吠えを合図に一斉に魔物たちが動き出す。それら全てが、魔力障壁を身に纏って突撃してくる。そうして、いとも簡単にシュルトが展開した影に足を取られていく。そうなれば後は単調な作業の繰り返しだ。頃合を見てシュルトが指を鳴らし、シャドウブレイドの魔法を展開。影の沼から夥しい数の影の刃を生み出し、魔物たちを串刺しにする。魔力障壁などは貫通の術式のしっかり乗った彼の魔法の前では何の効果もありはしない。そのまま血を流しながら事切れて行く。やがて屍は影に飲み込まれ死体さえ残らない。残るのは大気に拡散した死臭のみ。その所業を昨夜見たときは、彼女は当然のように呆れるしかなかった。
これを延々と一晩続ける彼も彼だったが、それで命を散らし続ける魔物も魔物だ。まるで死兵なのだ。玉砕覚悟の突撃隊は、そうやって無為に死に続けている。知能が有ればまずしない。無いとしても、異常に足元に広がる影を警戒しない理由はない。動物だとて罠を警戒するのだ。魔物も生き物の範疇に入るのであれば、何がしかのアクションがあっても可笑しくは無いというのに、それさえもない。
「理解できんよ。偶に遠距離攻撃能力がある種や飛行できる魔物も来るが、それを除けば基本的には突っ込んでくるだけだ。そして昨夜のうちに確信したが君ではなく私ばかりを狙っている節がある。より強い私をだ。普通は逆だろうにな」
分からないことばかりだった。
「貴方をどうにかすればいいと考えているのでは? どちらにしても普通の人間には脅威ですよ。数が無尽蔵に見えますし、連中の魔力障壁が死に辛さを後押しします」
数の暴力に頼った正攻法と言われればそれまでなのだが、シュルトにはそれだけかが疑問だった。
魔物の問題はこの世界『レグレンシア』最大級の謎である。もう一つ、これに関連する謎があるのだが、シュルトは今はそれを考えることはしなかった。昨日の吸血により、行動の優先順位に変化が生じていたのだ。現段階においては魔物など気にする必要はまるでない。考えることはリリムのための金儲けと、隣に居るサキのことだけだった。
「どちらにせよ私にとっては金蔓が勝手に死んでくれるから楽でいいがね」
「一晩でいくらに?」
「換金してみないとわからんな。当面の生活費分ぐらいは余裕で稼げるはずだ。そろそろ小粒ではなく大物を狩っておきたいと思う。討伐指定級の上位種なら最高なんだがどうしてか姿を見せん」
「それは些か高望みしすぎではないですか」
討伐指定級とは、所謂賞金首のような魔物である。強固な個体であったり、取れる素材が高価な場合に指定される。だが、そのランクによっては凄まじいリスクを背負う正に一攫千金の獲物である。
「何、大して変わらんよ。しかし一晩過ごして姿を現さないということは……狩られたかそれとも侵攻中か」
「軍を相手に大忙しだ、と」
「それしか考えられないからな」
居るなら間違いなく襲ってくる。そういう確信がシュルトにはある。連中は出し惜しみなどしないのだ。基本的には数に合わせて全軍突撃が基本であり、第一陣、第二陣と来ることはあっても単に足並みが揃っていないだけのことが多い。これに対する人類側の策といえば、拠点を利用しての防衛だ。基本的には派手に打って出ることはない。大規模に軍を動かせば無駄に魔物たちを刺激するからである。
出来ることといえば少数精鋭での間引き作戦。冒険者たちのパーティーや少人数単位で浸透し、数を減らして離脱する。決して深入りせずに着実に数を減らす。そういう堅実な戦いで時間を稼ぎ、防衛体制を整え大攻勢に一気に狩る。そうやってこの百年魔物と戦ってきた。しかしもはやグリーズ帝国のその定石は通じなくなってきていた。それは最前線の防衛ラインであったロスベル領の城砦が落ちたことで確実である。大山脈の山道のすぐ目の前に建造されていた城砦は、国内屈指の防衛力を保持していた。にもかかわらず、それが突破されたのである。
中央の帝都までに防衛ラインを敷いているが、城砦を過信していたせいか既に第二、第三と防衛拠点が落とされているとも聞く。帝都では弱腰の貴族や商人たちがまだ無事な東側へと少しずつ移動を始めているという話で、帝都侵攻も時間の問題である。その背景に強大無比な討伐指定級が居ると予想するのは、それほど短絡的なことではないだろう。小粒で稼ぐか、それとも一攫千金を狙うか。シュルトにとっては悩ましい問題であった。
「指定級の討伐もしたいが、先ずはギルドで素材の換金だな。悪いが今は手持ちの金が無い。それまでは色々と我慢してくれ」
「保護されている身なので、文句は言いませんよ」
既に人攫いと物理的にお話しして黙らせてくれている。そればかりか一応は保護してくれているらしいその男に言う文句など、サキにはなかった。そもそも放置されても土地勘もなく帝国の人間とは会話さえままならない。言葉を理解してくれる相手が居るだけで随分と助かっていた。加えて、また人攫いに出会ったとしてもこの男なら一顧だにしないだろうという確信がある。彼女にとっては地獄に仏とはこのことだった。
「冒険者ギルドが開くまで、まだかかるな」
太陽まだようやく顔を出した程度。さすがにいくらなんでも早すぎる。しばらくとりとめのない会話を続けて時間を潰すことにした。昨夜もかなり話してはいたのだが、知りたいことは山のようにある。特にサキはシュルトのことを聞くことが多かった。信用できるかどうか値踏みしているのは彼にもわかっていたが、だからこそ邪険にはせずに律儀に答えた。逆に、彼はサキから空元の話しを聞いていた。
彼が食いついたのは巫女の話しだ。理由は、旅の噂で巫女が純潔を尊ぶと聞いたからだと彼は説明した。吸血鬼は純潔の血を好むから気になる、とも。サキはそれを聞いて物の怪の中に人を食らう、鬼と呼ばれる恐ろしい化け物の話を思い出していた。人間に恐れられる邪悪な化け物として語られる一面があるかと思えば、良き者を助け、咎人を断罪する神聖な存在とも言われる二面性を持つ化け物。果たして、彼がそれそのものの存在なのかはサキにも分からない。だが、しばらく行動を共にする以上は知りたいと思っていた。魔物も人も、関係なく敵に回せる彼という存在を。
やがて日が完全に上った頃、シュルトの転移魔法で二人は移動することにした。転移先はリリムの住んでいる中継都市レイデンではなく帝国の首都。帝都『ゼルドルバッハ』であった。
冒険者ギルド。現在では大陸の各国の首都にそれぞれ本部を持つ巨大な組合である。本部同士はそれぞれの国が運営する組織であるために基本的には対等であり、魔物対策のために生まれた。冒険者ギルドは、昨今の魔物隆盛時代においてはなくてはならない組織としてその地位を確固たるものしているといってもいいだろう。
魔物の数が増えれば人類の生活圏が失われる。食糧生産、狩猟、採掘、工業などを行うにしても土地が必要であるということは周知の事実。倒しても倒しても居なくならない魔物をどうにかしなければ、生活さえままならない。冒険者とは時代のニーズにあった職業だった。無論、倒すだけではない。倒した後の死体から剥ぎ取れる素材は武具や薬の材料、食料にさえなる。それらは既に経済の中に組み込まれ、金を生み出すシステムとして構築されていた。
「ここが、帝都の冒険者ギルド……」
「帝国の本部だ」
城門から真っ直ぐ城へと迫る大通りの一角に、一際大きな建物がある。サキは物珍しそうに見ながら周囲を見た。冒険者らしく武装した人々が出入りする場所はともかくとして、馬車が出入り出来るような大きな入り口が目に映る。その奥から、威勢の良い声がいくつも聞こえてくる。
「騒々しいですが、あそこは素材の競売所ですね」
「ほう、見たことがあるのか」
「ここではありませんが、父と一度支部を見に行ったことがあります」
冒険者から買い取った素材の中でも、特に珍しいものや高価なものが競売に掛けられ場所である。そうしたものはギルドを運営する上で重要な資金源となる。また、各国に出現する魔物は地域によって種類が異なることもあり、貿易商などは欠かさずチェックしていた。特にグリーズ帝国の魔物は種類が豊富であるため、売れ行きは良い。リスクは高いがリターンも高いため、冒険者たちの間ではこの国は稼げる国として有名である。
「奥に魔物を解体してくれる専門の職員が居る。行くぞ」
通常のカウンターは討伐依頼の、討伐時の部位証明や既に剥ぎ取った素材を少量売る程度の場合に利用される。そうではなく、魔物を丸ごと持ち込む場合などは専門の職員に任せる。ただし、今回は災難であっただろう。何せ、持ち込まれる量が桁違いなのだから。
「魔物の解体を頼みたい」
「冗談言わないでくれよ。何も持ってないじゃないか兄ちゃんたち」
冷やかしかと思ったのだろう。手ぶらである二人を見て、職員が肩を竦める。
「直ぐに出すさ」
「出すってあんた……はぁ!?」
足元の影が不自然に地面から直立。まるで、影で作られたの人間のように立ったかと思えばその頭が直角に折れ曲がって拡大。大きく横に広がった。職員が目を疑うその眼前で、広がった影から鮮度抜群の死体が山のように地面に詰みあがって行く。
職員は、ただただ呆然とした。死体の放出は止まらない。解体エリアを埋め尽くすほどに広がって行く。元々、持ち込まれることは少ない。普通の冒険者が持ち込むとしても台車を用意して大物を狙いに行くときぐらいなのだ。だというのに、明らかに桁が二つ以上違う。死体の山が五つほどできた頃、ようやく影の放出は収まった。
「し、しばらくお待ちください」
職員に言えたのはそれだけだ。とにかく応援を大声で呼び、解体職人を総出して検分に入る。一つ一つが高く売れるかは未知数だったが、討伐部位証明と素材部位だけでもかなりのものになることは明白。そこから手間賃である解体費用と、フリーの冒険者としてギルドに一割ほど利用料を取られたとしても十分な利益になる。何せ、数が数である。
これまでもギルドの運営において帝都本部の解体職人たちがここまで活躍する日は来なかっただろう。最前線ならば解体職人たちももっと仕事に追われていただろうが、帝都でこれほどの量の魔物が持ち込まれるなどありえない。
「これは昼までには終らないのではないでしょうか」
「私もそう思う」
職員が必死に動いているのは分かるのだが、明らかに数が足りない。終るまで待つのも時間の無駄だ。シュルトは職員を捕まえて尋ねてみることにした。
「どれだけかかる?」
「すいません。査定だけで夕方までかかりそうです」
「もっと早くならないか」
「大雑把に見積もって、最低金額で算出したら早くなりますよ。ただ、その分お客さんの利益が減りますからお勧めできませんが……」
個体差によってはより高く売れる素材も安くなるということであるから、利益はあたり前のように減る。本来であればきちんと査定するのだがそんな余裕がないのは実情である。
「ちなみに、全部合わせていくらぐらいになりそうだ」
「そうですね……三千万リズは行くんじゃないですかね。きちんと査定したら五千万は行く気がしますよ。お客さん、これ大山脈で狩って来たでしょ」
「ほう、分かるのか」
「あの魔物、確かレッドホークだったかな」
燃えるような真紅の翼を持つ鷹を指差して、職員が言う。
「ロスベルの城砦が健在だったころに少数だったけど居たような気がするんで。確かあんまり山から出てこないタイプでしょ、あれ。大侵攻時も滅多に攻めてこない奴で、山に行った冒険者以外は滅多に狩ってこない魔物だからすぐに分かりましたよ」
「さすが五つ星レベルの鑑定員だな」
「いえいえ、俺は元城砦組みってだけなんで」
腕に職員の種類を表す為に嵌められている腕章には、きっちりと星が五つある。能力を星で表すギルドにおいては、目の前の男が最高峰の鑑定能力を持っているということである。素直に関心しながら、シュルトは結論を出すことにする。
「では三千万という見込みに期待しようか。昼食を豪勢にしたい。できるか?」
「やってみましょう。お客さんのおかげでボーナスが入りそうだしね」
にんまりと笑みを浮かべながら、男が言う。潔くもぶっちゃけるその男は、職員をもう一度大声で呼んで召集。方針を伝えると、職人顔で作業に掛かる。
「良かったのですか? 昼間まで、なんて急かして」
職員の言葉は分からなくても、シュルトの声は何故か理解できる。会話の断片から把握できた事実を元に、サキが疑問を投げかける。
「構わんさ。多少値が下がっても金が欲しいならまた稼ぎに行けば良い。予想より一桁上であるし、それにあまり待たせると腹が辛いだろう」
サキは昨日から何も食べていない。一日ぐらい抜いたところで死にはしないが、ここ最近まで飢餓感に苦しめられていたシュルトは、早く飯を食わせてやりたかった。
幸い、水は飲んでいるのですぐに倒れることもない。彼はあまり動き回ることはせずにギルドの依頼書や指定討伐対象のチェックする。サキはそんなシュルトに付き従い、文字が分からずともなんとなくギルドというものを理解して行く。シュルトもできるだけ他の冒険者の邪魔にならない程度に説明していった。時間が余ったので、最後はギルドの書庫や訓練所などを見学し昼まで過ごした。
「まいどあり! 旦那、また来てくれよ。全力で歓迎するぜ!」
解体職人たちに見送られながら、二人はギルドを出た。彼らはプロである。特に詮索することなく素早く仕事を済ませてくれた。フリーの冒険者であることは察していたらしく、カードの提示を求められなかった。良い気配りだ。根掘り葉掘り聞くこと無かったので、シュルトとしても多少減額されたとしても満足だった。
金額は三千四百万リズ。端数はこれから地獄の解体作業を送ることになる解体職人たちの飲み代にした。予想以上の儲けだったので気分もいい。財布を後で買うことにして、直ぐ近くの食堂で昼食を取りに向かう。
「えと、さすがに多くないですか」
「遠慮するな。どうせ私の奢りだ」
テーブルに並んだ料理の数々に、サキの目が見開かれる。多いといっても食生活の違いが大きい。冒険者ギルドが近いこともあったのだろう。よく食べる冒険者用の盛り付けだったせいで多いと感じてもしょうがないのかもしれない。それでも、きっちり完食しようと奮闘するサキに苦笑しながらシュルトも食事を取ることにする。
吸血鬼の食事といえば血だが、普通の食事をすることもできる。ほとんど栄養にはならないのであまり意味がないが、味を楽しむことはできた。
しばらくは無言が続く。やがて先に食べ終わったシュルトが紅茶を嗜みなんでいると、サキが話しかけてきた。
「ごちそうさまでした」
「おかわりは居るか」
「いえ、もう十分です」
おなかをさすりながら、そう答えてはにかむ。どこか表情が少ない少女だったが、もしかしたら空腹のせいだったのかもしれない。腹が膨れて、ようやく余裕を取り戻すことができたというところだろう。そう思い至った彼は、敢えて聞かなかったことを聞くことにした。
「さて、そろそろこれからのことを話そうか」
「これから、ですか」
「空元に家があるんだろう。私はレイデンでやることがあるが、希望するのならその後に送ってもいいと思っている」
「……しばらく一緒に居させてもらってはいけませんか」
「ほう? 何のために」
「私がこの国に来た目的は話しましたよね」
「魔物対策のノウハウを調べるためだったか」
「ええ。せっかく大陸に居るのですから、帰る前にモノにしたいのです」
「しかし君は言葉が分からないだろう」
せめて文字が分かればまだなんとかなるが、意思疎通ができるのがシュルトだけでは帝国のノウハウなど手に入れることはできない。空元は大陸とは異なる独自の発展を遂げた国であるせいで、その言葉や文字を理解できる大陸人は極端に少ないのだ。大陸の東側の国々、つまりは海で繋がっている国でなければ意思疎通ができる者はほとんど皆無と言ってもいい。グリーズ帝国の中で居るとすれば、やはり空元と交易している港町だろうか。
頭の中にギルドで見た帝国の地図を思い浮かべるシュルトだったが、その顔を見て何かを察したのかサキが首を横に振るう。
「別にノウハウは帝国のモノに拘る必要はありません。例えば、リングルベル王国の魔法淑女隊創設に貢献した永久名誉顧問――シュルト・レイセン・ハウダーのノウハウでも」
「……欲張りなことだな」
「せっかく掴んだ最高の糸口ですから」
魔物に苦戦されられている大陸の情勢下にあって、唯一堂々と公言されている常勝の対魔物殲滅部隊。それが、リングルベル王国の魔法淑女隊。王国が召喚した異界の魔法使いがもたらしたというその魔法の威力は、大陸土着の魔法を圧倒的に凌駕しているという。
嘘か真かを判断できるのは彼女たちと共に戦場へと出た者たちだけ。陸路を大山脈によって遮られている帝国にさえ海を経由して伝わっていたその話をサキは知っていた。そしてその力の確認も既に出来ている。ならば、後はその手を伸ばすだけだった。
「対価はどうする」
「参考までに聞かせてください。王国が出したものはなんですか」
「遺憾ながら、結果的には何も無いな」
「は? 善意だったということですか」
「まさか。私の話を聞いているなら、本来なら私が彼らに譲歩することなど何も無いと分かるはずだ。元居た世界から誘拐されたわけだからな」
「では何故?」
シュルトは答えたくないのか口をつぐんだ。自分で考えろということなのは明白だったが、いかんせん付き合いが短すぎた。会話を重ねて理解しようとしてきたとしても、彼女には分からない。しばらくの間無言が続く。シュルトはその間紅茶を味わい、サキの言葉を待った。しかし、一向に答えは返ってこない。見かねた彼は、苦い顔をしながら言う。
「報酬は処女の血、になるはずだったよ」
「吸血鬼だから、ですね」
血を吸う存在だとはサキも聞いている。しかし、腑に落ちない話である。用意することが難しいわけではあるまい。少なくとも国が彼への報酬として差し出すのであればそれこそ逆に用意できない方が可笑しい。
「今思い出しても腹が立つよ。同時に彼女たちへの謝罪の念が消えん。全ては、誤解が産んだ悲劇だったのだ」
シュルトは少しばかり考え、重い口を開く。
「当時の私は単独で魔物を狩っていたが、数日で止めた。連中は私に血の一滴も用意しなかったからな。半ば脅して理由を聞いたら私のことを強力な魔法を使う人間だと思っていたそうなのだ。だから普通の人間の食事しか用意しなかった」
「それでは駄目だったと」
「あたり前だ。味わえるし食えもするがそれだけだ。確かに、十年は禁血できるかもしれない。だが、それは常に私に空腹感と戦えということだぞ。そんなことを強要するような輩にどうして私が協力しなければならん」
「まぁ、そうでしょうね」
サキだとて、そんな相手に唯々諾々と従う道理はない。
「そこで私は新しく提案した。人間の女性たちに魔法を教えようと。その代わりに、その教え子たちがしっかりと結果を出し、卒業するときには血を吸わせろとな。王国はこの条件を飲んだ。リングルベルの王立魔法学園はそうして生まれた」
第一期生の面接からシュルトは参加し、教養、魔力量、そして見目麗しさを基準に貴族の子女たちから選んでいった。彼の魔法は機密事項とされ、実家に流布させないように誓約書さえ書かせた上で教育が施された。もっとも、洩らされたところで男が使えば魔力が霧散し、永久に不能になるように術式が組まれていた。まともな男ならばそんなリスクは背負えない。結果として魔法学園は女学園としてしか運営できないようになっている。
「最初はじゃじゃ馬娘やお転婆ばかりだった。淑女など一握りしか居ない。我が侭し放題で育てられたあの温室育ちたちは授業をボイコットし、課題をサボり、実家の格差を使ったいじめ問題なども起こしたよ。温厚で忍耐強い私もさすがに何度も挫け掛けた。モンスターペアレントが発生したときには、新手の魔物として駆除しようかと思った。だが、次第に彼らは私との授業を通してその才能を開花させていった。そうして自信をつけていき、いつの間にかどこに出しても恥ずかしくない淑女になっていた。忘れもしない。彼女たちは私の誇りだ。だが、それがあの悲劇を生んだのだ」
「貴方が王国から出るような何かがあったというのですね」
紅茶で喉を潤すと、彼は言った。
「第一期生が三年の卒業式を迎えた日に私はそれを発見した。忌々しすぎて口に出すことも辛い。あれは、学生たちが魔物の大攻勢で軍など目ではないほどの活躍をして、週明けの卒業式にやってきた日のことだ。最後のホームルームだった。万感の思いで教室のドアを開けた私は、そこで世にも恐ろしい事実に気づいてしまったのだ」
魔物をあれほど容易く狩るほどの男が恐れることなど、サキには考えもつかない。険しい顔で俯くシュルトは、意を決して告白する。
「彼女たちがな――全員処女でなくなっていたのだ」
「……何か、私が想像している悲劇と随分意味が違うような気がしますが気のせいでしょうか」
政治的な何かで軋轢があったとか、もう用済みだと判断されて殺し屋を送られたとかそういう話でさえなかった。
「彼女たちは泥水以下になってしまったのだ! これを悲劇と呼ばずになんと呼ぶ!」
シュルト・レイセン・ハウダーという吸血鬼は偏食である。良く言えばグルメ、悪く言えば好き嫌いが激しい吸血鬼。非処女や男の血を飲むぐらいなら、餓死さえも厭わないという筋金入りの猛者である。それは彼にとっては悲劇以外の何ものでもなかった。
「まぁ、それ以前に大問題でもある。不純異性交遊は校則違反の上、全寮制の女学校だったからそもそもがありえないのだが、考えたら分かるだろう。彼女たちは貴族の子女だったのだぞ。政略結婚も視野から外すことができない存在だ。それが処女を失っているというのは、嫁ぎ先の相手に対して相当な理解を要する事柄だ。そして学園は娘さんをお預かりしている立場にあった。これは大問題だ。だから私は卒業式を副担任に任せて王に報告した。そしたらあのぽっちゃり王がなんと言ったと思う」
「まさか、それらを理由に貴方を解雇したのですか」
「違う! あの野郎、娘に相談されてサプライズとして処女の血を集めることを提案したと言いやがったんだ! 彼女たちはそれを素直に信じ、張り方で純潔を喪失し血を集めたそうだ! 卒業式の後で瓶詰めしたそれを私に渡すために! なんということだ。私のせいで彼女たちは中古女と罵られるようになってしまったのだ。そもそも初めてはせめて結婚相手にしてやるべきだろう。無機物相手に純潔を失うなどプラトニックラブに対する冒涜だ! 良き心があれば絶対に許されない鬼畜の所業だ! あの王はきっと、人の皮を被った悪魔に違いない!」
思い出しても腹立たしいのか、シュルトが顔を怒りで染め拳を振るわせる。
「私は、彼女たちにあわす顔が無いと思った。卒業式の間に荷物をまとめ、辞表を校長室に提出してから王国を去った。そんな私を連中は勝手に永久名誉顧問に仕立て上げやがったが知るものか。私は私に美味い血を提供してくれる処女の味方だ。もう二度とあんな悲劇を繰り返しはしないぞ」
飲みたいのは処女の生き血であって破瓜の血ではなかった。それを理解しなかったからこそ起こったこの悲劇は、絶対に繰り返してはならない。だから、そう。そのために彼は思い出したくも無い出来事を教訓のように語ったのである。
「というわけで、代価が分かったなサキ」
「ええまぁ。そこまで詳しく知りたかったわけではありませんが理解はしました」
「ちなみに、受け付けない程に不味い血であれば私が君に教えることは何もないからな」
そう念を押す男は、あくまでも真剣な顔である。サキはどこか馬鹿馬鹿しく思うも、そういうものだと受け止める以外になかった。
大陸で得た知識で一儲けする。そのために死んだ亡き父のためにも、手ぶらで帰るわけにはいかない。母や姉は心配しているかもしれないが、これは千載一遇のチャンス。彼女の決意は固かった。しっかりとシュルトの紅瞳を見据え決意の光を瞳に宿し、それでもいいシュルトに言った。彼は頷いた。
「分かった。そこまでの覚悟あるならば構わん」
「よろしくお願いします」
「私のことはこれからは先生と呼べ。それと準備せねばなるまい。ついてこい」
「どこへ行くのですか」
「先ずは装備を整えにいく。その後は夕方まで実戦だ」
魔物と戦うためのノウハウ。口で説明するよりも実際に見せた方が早いと考えた彼は、サキを引き連れて店を出る。次の目的地は武器・防具屋である。
娼館『小悪魔の巣』での仕事を終えたリリムは、身支度を整えて帰路に着く。店の裏口から出ると、時刻はいつもどおりの夕刻だった。
裏口を照らす西日が、眩しく彼女の碧眼へと照りつける。その中で、彼女は大きく深呼吸をした。それは彼女が一人の娼婦から少女へと戻るためのいつもの儀式だった。
娼館内では常に香が焚かれている。それは性欲を促進させるための香であり、彼女が仕事を始めてからずっと嗅いできた職場の匂いだった。
「すぅぅぅはぁぁぁ――よし。お仕事終了!」
吸い続けた独特の空気を肺から搾り出し、極普通の新鮮な空気を全身に行き渡らせていく。そうすることによってようやく、リリムは本来の自分に戻れる気がした。他に方法がなく、仕方なく仕事をしているだけの彼女にとってはそれがささやかな抵抗だったのかもしれない。
愛想良く振舞うことも、馬鹿な変態男供を満足させるテクニックも、全ては借金返済のため。その作業がない時間ぐらいは、本当の自分に戻らなければならない。でなければ、耐え切れずに本物の娼婦へと堕ちてしまいそうだった。間違っても自らそうする深みへと陥りたくはない。返済の日々が、彼女の未来を奪い去り、少しずつ変質させていく恐怖があった。それを想像するだけで背筋が凍る。
そもそも他に金を稼ぐ方法がない。薄々は考えていたそれが、嫌な現実を想起させる。だから考えない。考えたくもない。後何年仕事を続け、他の職を得る可能性を取りこぼしていかなければならないのかなど。
事実として未来が奪われていくのだ。一日に少しずつ切り取られていく。それを考えるとどうしても惨めな気持ちになった。彼女には家路への最中に通り過ぎる普通の女の子たちと、自分の差が余りにも遠過ぎるように錯覚さえした。
好きでその道を選んだ者を除けば、この道は薄暗い。初めから分かりきっていたことだというのに、意識してしまう毎日だ。出口はまだまだ遠すぎた。
途中で食材を買い、袋を抱えたまま家に向かう。すると、彼女の家の前に二人ほど人が佇んでいた。昨日の二人だった。 自称吸血鬼とやらは昨日とさほど変わらないが、黒髪の少女の方がかなり変化している。
着ていったリリムの服ではなく、明らかに冒険者前とした姿をしていた。何かの鱗を張り合わせたような緑色のジャケット。その内側に着込んだ白いシャツこそ普通そうではあったが、ジャケットとあわせた色合いのズボンも何がしかの防御効果がありそうだ。細い腰元には二本の短剣がベルトによって固定されており、左右それぞれの手で抜きやすそうな位置にある。靴も鉄版が仕込まれていそうなブーツに変わっており、軽装ではあるものの一端の冒険者らしい格好になっている。
「あんたたち、よく昨日の今日で顔を出せたわね」
ならず者たちに出会えば、また何か仕掛けられる可能性が高い。だというのに、平然としているのはそれほど自分の腕に自信があるからか。リリムはため息交じりの皮肉を吐き出さずには居られなかった。
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「あー、はいはい。服を返しに着てくれたのね」
黒髪の少女の言葉が理解できなかったが、差し出された服を見ればなんとなく何をしにきたかぐらいは分かる。服を受け取り、頭を下げる少女から視線を銀髪の男に向ける。
「で、今日はこれだけね」
「服の返却はついでだ。本命はこちらだ」
懐から袋を取り出し、差し出してくる。当然、リリムは嫌な予感がした。
「まさか、昨日の今日でお金を用意してきたってわけ?」
「そのまさかだ。一千万リズ、確かに用意してきたぞ」
「なぬ!?」
用意できて分割だろうと高を括っていたリリムが、袋の口を大急ぎで開いて中を確認する。すると、確かに見覚えのある硬貨が山のように入っていた。偽者かどうかの判断こそつかなかったが、返済しにいけばそれは分かる。国毎にそれぞれ造幣局によって硬貨に特殊な魔法が付与されているので、偽金かどうかなどすぐに分かるのだ。少なくとも昨日渡された分は本物だった。ならばこちらも本物の可能性はあった。
「どうやったのよ」
「魔物を一晩中狩ったのだ。生憎と大物は仕留められなかったが、それなりに稼げたよ」
「ちょっと、ついてきなさい」
「むう?」
「今から返済に行くわ。もし偽造通貨だったらぶん殴ってやるからね!」
「では、本物だったら君を頂くことにしようか」
間髪居れずにシュルトが言うが、リリムは答えず返却された服と持っていた食材を家の中に放り込み、のしのしとスラムを歩いて行く。当然、少女の頭の中は困惑で一杯だった。
(どれだけ魔物を狩れば、こんなに稼げるっていうのよ)
変態冒険者侮りがたし、などという感慨とあたり前のように否定してしまいたい常識が真っ向から喧嘩する。ずっしりと重い硬貨には、それだけの破壊力があった。
当然のように付いて来る二人組みの顔色にはまったく慌てた様子がない。慌てる必要が無い本物である可能性が更に高まる。こうなると違う意味で頭を抱えたくなってくるが、もう遅い。金を貸りた商人の下へ向かい、担当者の男を呼んで渡された袋を差し出す。商人の男は、夕方にまた大金を持ってきたリリムを訝しんだが、冒険者らしい二人の連れを見て嫌らしい笑みを浮かべた。部下二人に何かをことづけ、そのうちの一人に契約書などを持ってこさせる。
「やるなぁ嬢ちゃん。これで借金の方はチャラだ。良い金蔓を見つけたみたいで何よりだぜ。俺はてっきり、返すのに後二十年はかかると思ってたんだ」
「おあいにく様ね」
「さて、じゃあ次に利子を返してもらおうか」
「……利子?」
「おいおい、貸した金に利子が着くのはあたり前だろ。でなきゃ商売上がったりだ」
「ちょ、ちょっと待って。私の上がりで利子は――」
「足りねぇなぁ。足りねぇよ嬢ちゃん。確かに働き始めてからの利子は払えてた。だぁが、お前の母親がほとんど払えなかったこと忘れたか。その分の利子がまだ残ってるぜ」
「そんな……じゃあ残りいくらよ!」
「だいたい百四十万リズだな」
「百!?」
「だったら、これで終わりだな」
シュルトが影から袋を取り出し金をカウンターに並べて行く。それを見て、男が更に笑みを浮かべてみせた。
「はっはっは。兄ちゃん、あんた本気で入れ込んでやがるなぁ。そんなに具合が良かったかい」
「もう病み付きだ。この子を誰かに取られるなんて考えられん」
「くくく、筋金入りだなぁ。だが本気で言ってるところが気に入ったよ。オーケー。金
も全部本物っぽいし、こっちとしては文句ねぇよ」
証文を取り出し、返済済みの判を押す。リリムは勝手に進んで行くその手続きを呆然と見ていることしかできなかった。合計で千百四十万リズ。ここまでされると、言葉も出なかった。
「しっかし、運がいいのか悪いのか。今度はこの男に人生ごと買われたわけだ。嬢ちゃん、精々お勤めをがんばれや」
「大きなお世話よ!」
「ありゃりゃ、嫌われちまったもんだなぁ。んじゃ、また何かあったらごひいきに――っと、そうだ兄ちゃん。お前さん、昨日人攫いの連中と揉めたんだろ」
「よく知ってるな」
「商人は情報が命だぜ」
タバコを取り出し火をつける。もったいぶったその様子に、シュルトは硬貨を一枚取り出してカウンターに置いた。男は頷き、紫煙を曇らせながら続ける。
「どうやら連中、報復のためにお前さんを探してるらしいぜ」
「なら次に絡まれたら報復など考えられんほどにのしておくとしよう」
「はははっ、冗談が上手だな。だがそいつはやめておけ。兵士が動こうとしてるぜ。連中のバックには国がついてるからよ」
「ほう、中々腐っているようだな」
「ああそうだ。それもこれも、バノスの野郎が牛耳ってからさ」
「バノス?」
「知らないのか。今の若い皇帝様を傀儡にして好き勝手してるってもっぱらの噂だぜ」
「生憎と世情には疎くてな」
もう一枚硬貨を追加し、情報を買う。
「バノス宰相。前の皇帝に重用されてた奴だ。噂じゃ、世話になった皇帝夫婦と長女を暗殺し、幼い皇帝を傀儡にしたんじゃねーかって言われてる。んで、そのせいでこの領地の領主様たるレンドール公爵と仲が悪い。公爵は皇帝陛下の父親の弟に当たる入り婿だ。当然、本来なら皇帝とも仲がいいはずなんだが、今じゃあどんどん悪くなってる。この中継都市レイデンは元々は力を持ちがちな公爵家を牽制するために、例外的に中央の権力が行き届いてる都市だ。今じゃあ公爵領の奴隷商人たちははその出先機関。元々国営だから公爵も連中を止められなくてな。歯がゆく思ってるそうだぜ。公爵の風聞を落とし、ついでに資金まで稼ごうって腹だろうなぁ」
普通ならここまであからさまにやられると挙兵する事態とも男は言った。
この国の政治のことにシュルトは興味などなかったが、レイデンのパワーバランスという意味においては最低限理解した。
「とはいえ、今はバノス宰相が政治的に追い込まれててな。なりふり構わずに金や力を欲しているのはそのせいだ。本来なら怒り心頭な公爵様が動いても可笑しくない。事実、東側の魔物の被害が少ない領地持ちの貴族たちがな、増えて行く税金や出兵要請に嫌気がさしたってんで公爵と水面下で手を取りあってる。だが公爵はそれを受け入れはしても行動には移せていない。何故だか分かるか?」
「魔物だな」
「そうだ。これにはレンドール公爵も二の足を踏むしかない。帝都は国のほとんど中央にある。だが魔物が西から来るから兵力を防衛に割かなきゃいけない。しかし東側から攻めれば間違いなく宰相側は対魔物用の兵力を使って対処するのが目に見えている。もし内乱と魔物の侵攻が重なっちまうようなことがあれば、帝都に魔物の大軍が押し寄せる可能性がある。帝都はこの国の中心だ。だったら簡単に内乱なんか起こせねぇ。結果として国の機能が麻痺して、更には魔物に蹂躙されたら本末転倒だ。元々、バノス宰相は権謀術数だけはぴか一だったから、今はそうやってギリギリの均衡を保ってやがるみたいだ。噂じゃ、そのために防衛ラインをギリギリまで犠牲にしたって話もある。こっちはうそ臭い噂だがな」
「さすがにそれをやったら国中の貴族が見限るだろう」
態々魔物に利することをするとも思えない。それにはシュルトも同意見だった。
ここまでの話しで全体の構図としては宰相VS公爵の絵ずらが見えてくる。ある意味ではサキはそのとばっちりを受けていると言っても過言ではない。
兵力の増強、または資金を集めるための活動の余波だ。彼女に説明すると間違いなく憤慨することは間違いない。
「そろそろ公爵も動かざるを得ないところまで来ているかもしれんがな。我慢の限界ってのはあるし、組みする貴族たちのこともある。そして最近になって宰相側が妙な動きをしているのも気に掛かる。それ如何によっては、帝国の趨勢が決まるかもな」
「まさか、宰相から打って出るとでもいうのか? ありえんだろう」
「普通ならありえねぇ。でもまぁ、もしアレが本当だったら事態は斜め上に行くぜ」
「ちっ、商売上手め」
「ひひひ、こっちも仕事だからな」
三枚目の硬貨がもったいぶる男の眼前に叩きつけられる。
「ここだけの話だ。宰相がな、何でも召喚魔法を使う準備をしてるそうなんだよ」
「……なんだと?」
「もし、リングルベル王国を土壇場で救った永久名誉顧問――異界の魔法使い殿のような人物を召喚し、味方にすることができれば……戦況が分からなくなる可能性は十分にある」
「その話は本当なのか」
「分からねぇ。だが、荒唐無稽に思うよりも前にどこからこの話しが出てきたのかが問題だと俺は思うぜ。そもそも帝国にそんな魔法があったなら、魔物が出てきたときに使ってるはずだろ」
一般には大陸の人間は召喚魔法など開発できていない。それは存在しないはずの魔法なのだ。リングルベル王国でもそうだった。行使された事実こそあっても、誰もどうやってそれをやったかを覚えていない。嘘をついて隠しているのかと思い、シュルトが色々と無理に調べてみたが記憶から根本的に抜けている節があった。不気味なことこの上ない。
「リングルベル王国が洩らした可能性があるといえばあるが、魔法淑女隊の魔法さえ秘匿するようなところだ。他所に洩らすとも思えねぇ。な? 変な話しだろ」
「不可解だな」
「そう、不可解だ。だがどんなにそう思えても公爵としては捨て置けない」
「真実だろうとブラフだろうと動かざるを得ないわけか。難儀だな公爵殿も」
一応、理屈の上では納得できた。投げた硬貨に見合った情報かどうかは微妙ではあったが、彼としてはもう十分だった。
「ふむ、大体分かった」
「そうかい。他に何か聞きたいことがあれば金次第で教えてやるぜ」
「いや、あまり長引くと連れ二人が退屈だろうからな。次で最後にしよう」
男の言葉が分からないサキはあたり前だとしても、言葉が分かるリリムもさっきからずっと仏頂面だった。商人の男の言いようにカチンときているようだ。シュルトはふと悪戯心を発揮してそんな彼女の肩を抱き寄せる。途端に鋭い一瞥が帰ってきた。だがそれでも何も言わず、振り払いもしないのは大金を出されているからだ。辛うじてムスッとしていることこそ彼女の精一杯の抵抗である。
「おいおい、すげぇ睨まれてるぜ兄ちゃん」
「気にするな。この視線もそのうち諦めに変えてみせる」
「それ、なんか違くねーか?」
呆れたようにいいながら、男はシュルトが差し出した四枚目の硬貨を懐に忍ばせる。
「最後の質問だ。私たちの情報をリークするか否か答えろ」
その質問を聞いた商人の男の眉が、少しだけピクリと動く。恐持てながら愛想の良い親父風に喋っていた男は、唇を吊り上げる。だが答えない。一言も発することは無い。
「答えられない。つまりは既に連絡した後か。情報の売買は時間稼ぎというわけだ」
「ちょ、ちょっとそれ本気で困るんだけど! 私、全然関係ないのよ!」
「そいつはちょっと虫が良いぜ嬢ちゃん。お前さんはこの男のウィークポイントになったんだ。連中はお前さんも絶対に巻き込むさ」
「リークしたあんたが言うのか。まったく、面倒なことだ。ちなみに密告料は出るのか?」
「勿論だ。いやぁ、借金は帰ってくるは情報料を取れるはで最高だなぁ今日は」
「それは良い。迷惑料は先払いできているわけだ」
ニヤリと笑い返し、シュルトは立ち上がった。すぐに金の入った袋を影に投げ入れると頭を抱えて放心しているリリムを左手で小脇に抱える。華奢な体は首根っこを捕まれた猫のようだった。もっとも、彼女は借りてきた猫のように大人しくするような存在ではない。
「何するのよ!」
今度はさすがに抗議の声をリリムが上げるもシュルトは完全に無視。サキに向かって剣呑なことを言う。
「これから特別授業を行う。今から私たち三人を狙う奴は全て奴隷商人の手先だ。敵だから躊躇なく戦闘不能にしろ。生死は問わん」
「!”#$」
「ああん?」
サキがどこか諦めたような顔で頷き、商人が怪訝な顔をする。瞬間、入り口のドアを蹴り破ってならず者たちが殺到してきた。同時に、シュルトが座っていた椅子を右手で掴んで放り投げる。
「見つけたぞ銀髪野――どうぇっ!?」
「とりあえず馬鹿めと言っておいてやる。昨日の今日でご苦労なことだ」
椅子を投げつけられた包帯面の男が、悲鳴を上げながらドアの向こうに飛んでいった。床に落ちた椅子が、けたたましい音を奏でる。そのせいで一瞬店内がシーンと静まり返る。出鼻を挫かれた男たちを他所に、シュルトはマイペースに言葉を紡ぐ。
「明日から臨時休業になると思うが許せよ商人。迷惑料は既に払ったわけだから追加で請求してくることはないだろうが、一応は言っておいてやる。顔は覚えたからこれ以上余計な手間をかけさせるな。まだ、地獄に落ちたくはないだろう?」
言われた商人の顔は、当然のように青くなっていた。
怒号と騒音が店内を覆っていく。他の客は巻き込まれないようにと隅に逃げ出し、店内の商人やその部下たちはカウンターや机の下に潜り込んで震えている。あこぎな商売で儲かっていたであろう商人は、その凶行を前にして成す術は無い。
「もう嫌ぁぁ!」
シュルトの小脇に抱えられたまま、リリムが絶叫する。次々と店内に突撃してくるならず者たちは少女の悲痛な叫びなど意に返さない。鈍く光る刃物を手に、床にのた打ち回る仲間の仇を取ろうと床板を踏み鳴らす。
「くたばれやぁぁ!」
ダガーを持った男が、雄たけびを上げながら走り寄り刃を突き出す。シュルトは鉄板が仕込まれたブーツを跳ね上げた。瞬間、鳩尾を蹴り飛ばされた男のブレストアーマーが陥没。男の体が呆れるほどの勢いで宙を舞う。その際、壁際に飾られた見事な壷を安置している台に衝突。壷が台の上から床に滑り落ち、甲高い音を立てて砕け散った。
「ひぃぃぃ!? 空元から輸入した白磁の壷がぁぁ!?」
商人の一人が違う意味で悲鳴を上げるも、シュルトは無視。リリムが座っていた木製の椅子を右手で掴むと、サイドスロー気味に入り口に投擲する。突撃してきた侵入者が、出会い頭にそれと衝突。床板さえ踏めぬままに後頭部から外へと退出して行く。
「やはり、椅子も十分に武器になるな」
「何しみじみ言ってんのよ!」
コントロール抜群の投擲に満足する吸血鬼を、金髪少女が罵倒する。
「怖がる必要はないぞ。あんなのが百人や千人居ようと私の敵ではないからな。安心して私に身も心も委ねるがいい」
「そっちが大丈夫でもその前に私がどうにかなっちゃうわよ」
「それこそありえん。今この場所で私の腕の中以上に安全な場所はないぞ」
「貴方が居るから危ないんじゃない!」
「なにをぺちゃくちゃ喋ってやがる!」
怒号と共に、侵入してきた男がロングソードを突いて来る。お世辞にも上手いとはいえないその突きを半身になって避けると、シュルトは反撃とばかりに靴裏を叩き込む。衝撃で男の顔が歪むのを確かにリリムは確認した。たった一蹴りで大の男が数メートルも吹き飛んで行くのだ。それはまるで、大人と子供の喧嘩のような有様だった。
「そうだ、そろそろ名前で呼んでくれないか」
「……状況分かってるのよね」
「分かっているとも。君の好感度を稼ぐチャンスだとな」
「今まさに貴方に対する好感度が地に落ちたわよっ!」
「なに? そうか。やはり両手で抱き上げる方がよかったか。右手が開いた方が戦いやすいのだが、私としたことが気配りが足りなかったな。謝罪しよう」
言うなりすぐにお姫様抱っこに切り替える彼は、これでどうだと言わんばかりに満足そうな笑みを浮かべて見せる。それを見上げる形になったリリムはもう駄目だと思った。
(嗚呼、罰が当たったんだわ。楽して借金がチャラになっちゃったから)
両手を組み、居るのか居ないのかさえ分からない神に切なる祈りを女は捧げた。前世の自分が何か悪いことでもしていたとしてもこれはあんまりではないか、と。こんな運命が千百四十万リズの代価なんて嫌過ぎた。
「ふむ。感極まってお祈りか。神に感謝されるほどではないと思うが……」
「違う! 切実に救いを求めてるの!」
「!”$#&」
と、二人がかみ合わない会話をしていると、サキが声を上げた。シュルトが振り返れば、店の奥から鎧姿の兵士たちが入ってくるところだった。
「げっ、正規兵!?」
「普通は堂々と正面から入ってくるはずだろうにな。あべこべな奴らだ」
ならずものが真正面から突入し、こっそり正規兵が裏口から退路を塞ぐ。常識的に考えれば逆になりそうな配置だ。
「貴様だな、商品を強奪した盗人は!」
「情報が錯綜しているようだな。私はそこの人攫い供に親を殺されて誘拐された少女を助けたに過ぎない。捕まえるならそこらで寝ている馬鹿どもにしてくれ。治安が間違いなく向上するぞ」
「抵抗するな! 言い訳は詰め所で聞く!」
「断る。悪人の仲間に下る理由がない」
「あくまで抵抗するつもりか。ええい、かかれ!」
剣を抜き放ち、隊長らしき男が号令を出す。シュルトはすぐに肩を竦めて横に飛ぶ。背後からこっそり迫っていた男の剣が、攻撃目標を失ってカウンターに叩きつけられる。隠れていた商人が、至近距離で鳴った音にビクつきながら悲鳴を上げた。同時に、リリムの視界が急激に横に流れた。シュルトが回し蹴りを放ったせいだ。
「がぁっ!?」
カウンターに突き刺さった剣を引き抜こうとしている男が、後頭部に蹴りを受けてカウンターを乗り越える。書類や筆記道具諸とも商人の上に落ちていったならずもの。商人が男と撒き散らされた筆記用具の下敷きにされて呻くのも束の間、その後に殺到した正規兵がならず者諸とも邪魔な商人を蹴り飛ばして移動してくる。
「あいつらは本当に正規兵か? 常識がなさ過ぎるぞ」
「連中もきっと貴方だけには言われたくなかったでしょうよ」
吹き飛ばされながらもほうほうの体で安全地帯を探す商人が、妙に哀れだった。
「ふむ――」
シュルトが下がり、カウンターを回り込んだ兵士に向かって椅子を蹴り上げる。鬱陶しげに剣で打ち払ったその男は、椅子の破片を鎧で弾きながら踏み込んでくる。チンピラとは違いって確かに訓練されたその動きは、リリムからすれば段違いに速いように感じられた。思わずギュッとシュルトの服を掴もうとして、その手が空を切った。
「うぇっ!?」
気がつけば天井がキスができそうなほど近くにに迫っていた。彼女は自分の体が空を飛んでいることに気がつく。その下で、袈裟斬りをバックステップで避けたシュルトが床板を砕きかねない勢いで前に出た。切り替えしを許す程の間は無い。迅雷の速度での踏み込む。一瞬彼を見失った兵士が瞬きした頃には、既に拳が迫っていた。男の顔が防具など関係ないとばかりに叩きつけられた彼の拳によって仰け反る。ぐしゃりと鼻が潰れた男は、そのまま二・三歩後退し、ダメージに耐え切れずに鼻血をたらしながら床に倒れた。同僚がその男と入れ替わるように回り込み、真横から剣をなぎ払ってくる。
シュルトはしゃがみ込むことでそれを回避すると、アッパーカットを繰り出して男の顎を撃ちぬく。骨を砕くような音が、確かに響いた。ちょうど後ろに展開しようとしていた一人を巻き込み、兵士が将棋倒しの要領で床に倒れる。と、そこで落ちてきたリリムを両手でキャッチ。その額に軽くキスを落とす。
「無事で何より。ああ、やはり羽のように軽いな君は」
「いいから、そういうのいらないから! そもそも邪魔だからって投げる普通!?」
「むっ、臨機応変に対応できる男は嫌いか?」
「女の子を躊躇なく投げ捨てるような男は論外よ!」
心の内を隠さずに吐露する少女の受難は続く。
「……慣れれば浮遊感が病み付きになるかもしれんぞ」
「そんなわ――ああっ、また投げた!?」
強制的に空中を遊泳させられる少女の体に、今度は妙な回転を加えられている。ゆっくりとしたその回転遊泳の只中で、リリムは店の中全体を把握する。
どうやらサキも応戦しているらしい。腰元にあった肉厚の短剣を両手に握り、全身を淡い光で輝かせながら捕まえようとしてくる兵士やならず者たちを血の海に沈めている。シュルト程の余裕はないらしく、その目はどこか血走っている。驚くべきことに昨日一瞬見たときよりも、更に動きが早い。その謎を理解する前に再びシュルトの腕の中へと帰還した彼女は、文句を言おうとして今度こそ絶望的な光景を目にする。
「ええい、こうなったら――」
隊長らしき男が、ブツブツと呟きながら魔法を詠唱していた。
人間を殺すのに、何も大それた破壊力などはいらない。魔物を一撃で殺せるほどの火力が無くても人間相手なら簡単に致命傷になる。それが魔法だ。生活用の魔法だけでなく攻撃魔法もいくつか父親に仕込まれていたリリムには、その姿が鎌を振り上げた死神に見えてならなかった。
「死ね!」
部下たちでは埒が明かないと考えたのか、短絡的に男が炎の魔法を放ってくる。人一人を火達磨にできる程度の火力がそれにはある。シュルトに部下やられて距離が開いている間に片をつけようという腹だった。少なくとも室内で使うような魔法ではない。
獰猛な炎が迫る。シュルトは目の前の兵士たちに気を取られているのか、特に微動だにしない。今度こそ、リリムは己の死を予感する。
「きゃぁぁ!?」
走馬灯が脳内を駆け巡り、これまでの短い人生が過ぎっていく。良い思いでなどもはやほとんど覚えていないが、どうやら振り返ってみると両親が存命だったころはそれなりに幸せだったらしいことだけは思い出す。
(嗚呼、でもトータルで考えると不幸すぎよね私。結局変態男と心中ってどうよ)
「ふははは、これで――」
遠くで、隊長らしき男の勝ち誇った声が聞こえてくる。
だが、すぐにそれも驚愕に変わった。
「――な、んだと!?」
「リリム。リリム目を開けろ」
「何よ、天国にまで着いてきたわけ? もうやだぁ。貴方どんだけ私に執心なのよぉ」
彼女が半泣きの顔を上げると、先ほど見たサキと同じような淡い光に包まれたシュルトが、なんでもない風な顔で立っていた。
「よく見ろ。まだ死ぬには早いぞ」
「……ふぇ?」
彼女があたりを見回すと、サキを除いて皆の視線が自分たちに集まっているのが確認できた。放たれた炎がカウンターの上部に火をつけているからではなさそうだ。視線は燃え広がって行くそれなど無視している。一様に驚愕しているその理由は、結局は自身の体を見るまで分からなかった。
「げっ、私まで光ってる」
「魔法障壁だ。君たちの言うところの、魔力障壁に似ているかもしれんな。防御力は段違いだと主張してはおくが」
「えと、つまりまだ私は死んでないってこと?」
「そういうことだな」
「ぐす……それはそれでなんだか不幸な気もするわ」
もういっそ楽にさせろという本心を飲み込んで、彼女は服の袖で涙を拭う。
「私の嫁を泣かすとは……この連中はもはや生かしては置けんな」
「この涙の原因の半分は貴方のせいよぅ」
命があることが嬉しいやら悲しいやらさえもう分からない。複雑な顔で突っ込みを入れる少女は、完全に開き直ったのかどこか据わった目でシュルトを見上げた。
原因の半分を押し付けられたシュルトは腑に落ちないとばかりに小首を傾げるも、その刺すような視線の意味を考えながら三度リリムを放り投げた。
またも感じる浮遊感。リリムは緩やかに迫ってくる天井の模様を睨みながら、ただただ湧き上がってくる感情を心の中に貯金して行く。もういい加減遊泳にも慣れた彼女は、そのことに文句を言うのを諦めていた。その下で再び野蛮な戦闘行為が勃発しているのは分かっている。だがもうそんなことは知ったことではなかった。
(この変態男をそのままにしてたら、絶対にとんでもない人生になっちゃうわ)
借金返済の借りはあったし、確かに嫁でも奴隷でもなるなどと冗談で言った。だが、一度も反抗しないとも言ってないし徒順な態度を取るとも言ってない。
「生き延びたら――」
変態供と先輩たちによって鞭の扱いはもとより、男の扱いも鍛えられている。ならばテクニシャンな冒険者だろうが流血プレイ好きの変態だろうが足元に傅かせ、無理やりにでもドM根性を開花させる。その上で、パートナーを労わる奉仕の心のなんたるかを余す事無く学ばせ、実践させ、体に叩き込んで支配してやるのだ。
「――絶対にこの馬鹿を調教して私の犬にしてやるぅぅ!」
自由落下に身を任せながら、少女は再び女王様になる決心をした。
「お、大旦那様に任せられた俺の店が……」
店の端で縮こまっていた商人の男が、大立ち周りを演じられた店の中で項垂れる。最終的には武器だけの応酬では済まずに魔法が飛び交う戦場になった。とばっちりを受けたのは当然のように店である。風の刃に契約書を細切れにされ、解けた氷の槍で水浸しにされ、炎の魔法であわや火事に発展させられかけてしまった。挙句の果てにはうめき声を上げて血の海に伏している大量の負傷者と重傷者たち。当分は店が営業をすることはできないだろう。従業員はともかくとして、商談をしていた別の顧客もこんな目に会わされては仕事を持ち込んでくることに躊躇するのは間違いない。積み上げてきた信頼が、たった三人に粉砕されるなどとは完全に埒外だった。
「やっと終ったわね。いい加減、下ろしてくれないかしら」
「駄目だ。まだ外に仲間がいるぞ」
「頼む、もう勘弁してくれ!」
額を床にこすりつけるような勢いで、商人の男が言う。
「この事態を招いたのはお前なのだがな」
シュルトは適当に周囲を睥睨し、惨状を見渡す。その顔には当然のように反省の色はない。縋るように男はリリムに視線を送るも、彼女は彼女で底冷えするような冷淡な目を止めない。娼館の仕事をさせたのは彼であるから、彼女としても同情することはない。そもそもこの事態を招いたのは商人だ。自業自得だとしか思わない。
「$&$%&¥」
「ん、確かに私はともかくお前が限界か」
両手に握った血塗れの短刀を鞘に仕舞いながら、サキが転移魔法での離脱を提案する。シュルトは魔力の動きを感知し、兵士の増援が取り囲んでいることを理解していた。さすがに全員ぶちのめすのも面倒に思い、その案に乗ることに決める。
「跳ぶぞ」
サキがシュルトの外套を掴んだ次の瞬間、三人の姿は忽然と店から消えた。
「え、え?」
一瞬、目が眩んだかと思えば、いつの間にか自宅の前にいたことにリリムは気づいた。
「直に奴らはここを嗅ぎつけるだろう。リリム。家ごと持って行くか、ここに置いて行くか選ぶんだ」
「どうするって、どうしようもないじゃないのよ!」
選択肢などないようなものだった。この家はリリムに残った最後の財産だ。それを捨てろと言われていることに、腹の底から怒りが湧いてくる。キッと睨むも、その男はやはり動じない。ただの少女の一睨み程度では、動じる必要さえないのだろう。それが腹立たしくて、また涙を零しそうになる。
「ばっかじゃないの。家なんて持っていけるわけないでしょうがぁ」
「あー、君の常識ではそうなのかもしれんが持っていけるぞ」
「……どうやってよ」
「こうやってだ」
吸血鬼が指を鳴らす。と、彼の足元の影が伸び、リリムの家の敷地へと突き刺さる。影はまるでケーキに差し込まれたナイフのように敷地の外周を切り取って行く。リリムには理解できない。理解できないが、やがて影が広がり切り取った際に出来た細い穴に侵入していく。数秒、何も変化が無かった。だが、十秒を超えたあたりで変化が起きた。
「うぇぇぇ!?」
「!#$%&」
家が沈んだ。呆れるほどにピンポイントな地盤沈下だった。
見る見る地面の中へと消えて行く家を前にして、リリムとサキがしばし呆然と立ち尽くす。その隣で、シュルトが少しだけ特異そうな顔で淡々と説明する。
「私は影の魔法が得意でな。その応用で影の中に大量のモノを入れることができる。君の家ぐらいなら余裕で収納できるわけだ。どこか、静かな場所に土地でも買って二人で住もう。大丈夫、土地代なら私が稼ぐさ。こう見えて私は稼げる男だ」
「ははっ。なによそれ――」
泣き笑いの表情を浮かべる少女は、シュルトの胸に抱きついた。その肩が静かに震えている。良く泣く少女だ。などと彼が思い、その肩をそっと抱こうとした次の瞬間、リリムがキッと顔を上げてシュルトの脛を蹴っ飛ばした。全力だった。手加減無しだった。
「……そこはさすがに痛いぞ」
「私は今もっと心が痛いの!」
リリムは情け容赦なく追撃を放つ。つま先をゲシゲシと叩き込みながら溜まりに溜まった怒りを消化していく。
「あ・ん・た・はぁぁぁ……どこまで本気で私をモノにしようとしてんのよ! まさかこの街に居られなくしたのもそのためじゃあないでしょうねぇ! これじゃ私、貴方についてくしかないじゃない! 確信犯? ねぇ、確信犯なんでしょこの変態!」
「痛い、痛いというに。誤解だ。こら止めないか」
「どうして私なのよ! 他にもっと一杯居るでしょ。そこの子でもいいし、その辺のセクシーなお姉さんでもいいじゃないの!」
「ふざけるな!」
このとき、初めてシュルトの怒声が出た。さすがにリリムもそれには怯む。
「君の代わりなど早々簡単に見つかるものか! ドラゴンよりも希少だぞ君は!」
「……ちょっと待って。それ、何か違うでしょ」
「いや、何も違わないが」
「その言い方だと結局絶対に私じゃないといけないって訳じゃないじゃない」
「ふむ? それは……そうだな。君の代わりが居ればその人物でもいいかもしれん」
「こ、この場面で肯定しやがったよこの男。信じられない!」
「待て、せめて最後まで聞いて欲しい」
「いいけど、蹴り続けるからね」
容赦なく蹴りが突き刺さるも、シュルトは耐える。別にドMではない彼だったが、こういう場面で譲歩せずに居る場合の厄介さというのは骨身に染みて理解していた。故に、甘んじて受けながら諭すように言葉を紡いだ。
「確かに、君の代わりが今すぐに見つかれば君ではなくてもいいかもしれないとは思っている。だが、現実に私の目の前にいるのは昨日私を助けてくれた君だけだ」
仮定の中の可能性を語ることに意味は無い。シュルトの頭の中にはもうリリムしかいないのだから、空想の相手などどうでも良かった。
「君の代わりなど、実際にはきっとこの世界のどこにも居ないのだ。ならばこの仮定は無意味だと主張したい」
「――」
「私はそう思っている。それでは駄目だろうか」
「駄目に決まってるでしょ! どうせならもっと愛がどうたらとか言うべきよ!」
渾身の蹴りがシュルトの股間に迫る。さしもの吸血鬼もそれは不味いらしく、魔法障壁で受け止める。
「硬っ、何よこれぇぇ」
「危ないな。さすがに洒落にならん部位だぞそこは」
「ああもう、どうして貴方はこう反応が普通じゃないのよ。絶対に変だわ。ここまで反抗的だとさすがに見限るでしょ。もしかして私を苛めて悦に浸ってるわけ? ドS反対!」
「心外だな。こう見えて私は尽くすタイプだ。君を可愛がるならともかく苛めるなどとんでもない」
「貴方が言うと全然信用できないのはなんででしょうね」
がっくりと項垂れる金髪少女は、諦めたかのようにただただ肩を落とす。なんだか今なら先輩娼婦たちが冗談でよく言う、『お客さんに孕まされたような気分』とやらが分かる気がした。実際には避妊魔法で絶対回避しているのだが、とにかくそんな気分なのだ。
(なんだろ、この詰んだ感)
少なくとも害意も悪意も持っていない男ではある。稼ぎは言わずもがな問題なし。見た目はそれなりで性格は今のところ理解不能だが腕は立つ。自身に対する偏執的な執着心と流血プレイ好きなことを除けば今まで見てきた変態供よりはスペックは十分。もう少しまともな出会いをして面倒ごとも無ければ彼女もあまり抵抗感は無かったかもしれない。それ故に非情に残念さが付きまとう男だ。仮に逃げ出したとしても間違いなくこの男は追ってくるだろう。地獄の底だろうと空の果てだろうと関係なく。試すまでもなく本気だと理解できるからこそ、リリムは無性に馬鹿らしくなってくる。
「どうした、いきなり疲れた顔をして」
「そりゃ疲れもするわよ。こっちは仕事帰りだったのよ」
「……」
「あっ、こらまたぁ! オプション代取るわよぉぉ」
了解もなく両手で抱き上げられ、リリムが手足をバタつかせる。そんな彼女に対して、彼はやはり意に返さない。それどころか、微笑みさえ浮かべながら言うのである。
「こっちの方が楽だろう」
「ああもう……」
抵抗する気力もなくなった彼女は、全身の力を抜きぼそりと呟く。
「これから、私のことどうするつもりなのよ」
「決まっているだろう」
少なくとも彼は一貫した態度をとっていたからこそ、ブレずに言うのだ。
「私の花嫁にするのだよ」
「……やっぱり、貴方変態よ」
「遺憾だが今はその評価に甘んじようか。何、時間はたっぷりとある。何れはその認識も変えて見せよう」
「!”#$%」
「その子、何て言ってるの?」
「ん、どうやら追ってが来たらしい」
サキが指差す方を見れば、普段はスラムでは働かない兵士たちが集団で走って来るのが見える。商人の男がリリムの家でもリークしたのだろう。
「また暴れるのね」
「そうしてもいいが、君は疲れているのだろう? そろそろ日も落ちてきたし宿も取る必要がある。連中には悪いが逃げさせてもらおう。サキ、掴まれ。もう一度転移する」
黒髪の少女が頷き、服を掴む。そうして兵士たちの前から彼らは消えた。
次の転移先はレイデンよりも更に賑やかな街の路地裏であった。夕方だというのに表通りから聞こえる人々の喧騒は凄まじい。
「で、今度はどこよ」
「帝都だ」
「ゼルドルバッハ? はっ、今度は華の都で私の心を鷲掴みにする作戦なわけね」
もう自棄になっている彼女の皮肉を聞き流しながら、シュルトは一言だけ反論する。その言葉には、さしもの彼女も目を瞬かせた。
「ねぇ、よく聞こえなかったからもう一回言って!」
「嫌だ」
――私の心を先に鷲掴みにしたのは君だろうに。
一度だけしか呟かれなかったその言葉を、少女は何度も聞き返す。少しだけ、本当に少しだけ勝った気がして、今日始めて笑みを浮かべた。勿論、だからといって吸血鬼に気を許したわけではなかったが。