第十一話「四人目とエセメイド」
その街道を埋め尽くすほどの軍勢が、西に向かって移動していた。普段は多くの商人と旅人が往来するその道は、ドルフシュテインとゼルドルバッハを繋ぐ街道である。
軍勢の数は五万を越えていた。それぞれの諸侯の旗を掲げ、続々と集結しながら打ち合わせ通りに行軍していく彼らの顔には、様々な色が見え隠れしている。不安、期待、怒り、自信。混沌とするそれらを持ってなお、彼らの士気をそれなりに高く維持しているのは、この戦いの大義名分が酷く分かりやすいからだろう。
これは皇族殺しの大罪人バノス宰相と、それに組する国賊を討つ為の戦争である。
宰相への東側の諸侯と庶民の怒りが、殺されたはずの皇女の登場で正当性を得た形となり、兵たちに期待感を与えていた。
税金の値上がり、治安の悪化、魔物による防衛線の突破。先代皇帝が暗殺された日から続いていた気の滅入るような情勢。それを作り出してきた宰相。そんな明確な敵を自分たちの手で討ち、帝国を元に戻す。その先にある幸福を信じて願う意思が集い、表向きには膨大な熱量を生んでいる。
無論、それだけが全てではなかった。純粋にそれだけのために戦えない者も大勢いたのだ。単純に勝てると思える側についただけの勢力もあっただろうし、武功を上げ名を上げることを夢見る者だっていただろう。だが、そんな両者に共通する理解がもう一つあった。彼らは当たり前のように理解していた。
それは、この戦いで負けることは蹂躙を意味するだろうということだった。
そもそも、魔物が現れてからずっとグリーズ帝国は戦争などしたことがなかった。西の大山脈の魔物のせいで大陸の陸路から切り離されていることがその原因であるが、かつてならいざしらず現在ではそもそも敵が魔物しかいなかった。内乱がこれまでになかったわけではない。旧暦時代はともかく、賢人暦が始まってからは小競り合い程度しかない。確かに山脈向こうの領地が魔物の台頭と同時に独立し、二つの国として分離した時には戦争になりかけたことはあった。けれど人間同士で争う余裕など無かったせいで戦争が行われることはついぞなかった。
人類同士の争いの空白は、しかし完全に人々の中から奪われる恐怖を忘却させたわけではない。魔物との戦いもある種の生存戦争であり、領土の奪い合いにも似た争いであるという事実は変わらない。魔物相手はそれだけで済むが、相手が人間ならそれ以上に奪われるモノがあると考えることは想像に難くない。
東西を二分しての内戦。ただそれだけではあるものの、東側は直接魔物と戦ってきたわけではない。自領に移動してきたそれと戦うことは勿論あったが、西側のそれと比べれば平和に過ぎた。
帝国にとっての東側の役割は西のバックアップであり、食料や物資の融通、兵力の派遣や金銭的な負担といった間接的なものが基本である。だが、そのバランスは既にバノスによって崩壊させられてしまっていた。東西の税金の格差などもそうであるが、政争において痛い目を見せられてきた教訓がそこにはあったのだろう。
そしてバノスは野望家である。そのために魔物と戦える勢力である西側を味方に選んだ。中央集権のために、より強力なカードを選んだわけである。もしかしたらそれは、分かりやすい力を手元に置くことを選ばざるを得なかった状況も影響していたのかもしれない。反目していたレンドール公爵から身を守るためには、事を起こした後になってはそうするしかなかったとも取れるだろう。
バノスは敵を多く作りすぎた。そしてもはや、東側はついていけなくなったのだ。振り返ってみれば、その果ての内戦である。きっとこれは皇女レイチェルの生存など、最終的には関係がなかったのかもしれない。
だが、その中にも当たり前のように例外が紛れ込んでいた。角が二本生えた黒き兜を被り大層な槍を持って歩く、妙に身長の低い黒騎士様である。その腰には無理やり嵌めたベルトがあり、ミスリルウィップとナイフがある。羽織ったマントには公爵家を示す剣と槍が交差した紋章が描かれており、公爵軍の一員であることが伺える。
長い長い列の中、その中心。最も安全な位置を、豪華な馬車の警護するかのように歩くなんちゃって黒騎士リリム。彼女にとっては、西とか東とかはもはや小さいことであった。
(熱いし蒸れるし持たされた槍は重いし疲れるしおまけに汗びっしょりだし! もううんざり。なんで私、軍隊に混ざってるんだろ)
皇族殺しやらお国の事情やらなど、この苦行を前にすれば彼女は正直どうでもよかった。そもそも戦う理由が希薄に過ぎた。勝って得るものはなんだと聞かれれば、すぐには浮かばないぐらいであるから重症である。
既に五月に入ろうかというせいで、朝でもそれなりに日差しはある。幸運にも天候に恵まれたせいで容赦なく鎧が熱を受ける。真夏の行軍ではないだけマシだが、動けば暑くなるのが道理である。外と内からローストされている気分だった。
(戦う理由、なんだっけ。あー、首射られた借りと、ロンドとバッシュへの遠まわしなあだ討ち。後は……レブレの報酬だっけ。山脈攻め手伝えっていう奴。……もういっそのことレブレと私だけでバノスとかいう奴のところ飛んでいった方が色々と節約できていいんじゃないの? 悪い奴らはつまみ食い子竜にペシャンコにされてさぁおしまい。公爵軍は戦争なんてする必要もなくただ占領して速終了! ……ダメか)
愛国心など、そこには何も無い。有るのは個人の都合だけ。そんな最底辺の、実に余裕がない人間特有の考えだけが彼女の頭をグルグル回る。
(うう、いけない。最終目標よ私。最終目標を思い出しなさい。バノス某がなんだってのよ。本当に潰したい奴は別に居るんだから、そのために国を動かせる最大のチャンスなのよ。それを忘れちゃいけないわ)
低身長なせいで、周りの兵士たちよりも動かさなければならない足をせっせと動かし前に進む。棒のように重い足は、ここ連日の行軍に悲鳴を上げていた。
(あと一日。あと一日よ。ほら、遠くに我が忌まわしき故郷が見えてるじゃない。そこを落とせば一日休憩できるはずよ)
「……あー、大丈夫か黒騎士殿」
隣を歩いていたケインが、ふらふらしながら威厳も欠片も無く歩く最終兵器に問う。途端、リリムは兜を上下に動かす。それは、なんだか首が痛くなりそうな動きであり余計に消耗させられる気分だった。ほとんど密封状態でサウナ攻めにされている彼女と違ってケインは通気性という観点ではリリムを圧倒している。加えて旅慣れているケインにとっては、この程度の旅は何も問題ではない。
その結果が現実にえこひいきのように反映されすぎている今ならば、殺意混じり視線で殺せそうな気さえする。リリムは立場をチェンジしたいと思いながらも、それを口に出さずに黙々と歩く。
「やばくなったら馬車に乗れよ」
コクコクと、二度目の相槌。黒騎士の正体は不明なので、声を出すこともせずに苦行たる行脚に精を出した。
「今日もがんばってるなぁリリムは」
「本当、妙なところで我慢強さを発揮するものだ」
馬車の窓から見下ろしていたレブレの呟きを拾い、皇女レイチェルが肩を竦める。その井出達はこれから戦場に向かうとは思えない程に軽装だった。白いドレス姿に青い髪を彩る黄金のティアラ。戦装束というには余りにも場違いに見えるだろう。だが、それでいいのだ。彼女は戦争に直接参加することはないのだから。
神輿であり大義名分である以上、危険にさらされる場面が余りにも少ない。戦争は基本公爵任せ。一応は意見を求められることもあるだろうが、それはもうほとんど結論が決まった形である。どちらにせよ、指揮権を公爵に預けている以上は仕事など無いといっても良かった。精々が将兵を奮起させるために声を掛けたりする程度。それも、移動中なら直のこと武装する必要性はない。無論、敵を舐めているわけではない。一見無防備のようにも見えるが、辺り前のように武装はしていたしすぐ手元にはいつもの軍刀が二本用意されている。暗殺者が忍び寄ったとしても自分で排除するぐらいの気持ちで構えていた。
とはいえ、彼女はあまり心配はしていなかった。兵に囲まれた馬車を堂々と襲える暗殺者がいたら、それは召喚された英雄でなければありえないからだ。普通の人間にはこの状態でどうこうする手段そのものがない。仮に兵に潜り込んでいたとしてもこんな昼間に事を成す玉砕覚悟上等な信奉者が宰相派にいるとも考えづらい。寧ろ考えられるのは休息中か、或いは深夜だ。だから彼女は余裕の笑みを浮かべながら話しに興じていた。当然それには同席している女性人も加わってくる。
「さすが私のライバル。やはりこれもあのお方の魔法のおかげなのかしら」
「そんな魔法習ってなかったと思うけどなぁ」
「そうなんですの? でも、色々とこう、訓練で光ったり速く動いたりしているではありませんか」
「ケインの奴が同じ人間相手にしてる気がしないとまで言っていたな。私もその意見には賛成だが、どうなんだ」
「目立つから使ってないよ。おかげで結構疲れが溜まってきてるみたい」
「なら、夜にでもマッサージしてやらねばな。ふふふ――」
いつものように息を荒げながらレイチェルが不気味に笑う。対面に座っていたエルフ店長は、その笑みを遮るように地図を広げて視界に入らないようにと逃げを打つ。
「ライラは随分熱心に地図を見てるね」
「え? ええ。一応把握してはいるんだけど……色々と考えることがあるのよ。レイデンに配備されてる兵士の数とか、砦に入ったっていう宰相の話とかね。私からすればこれはこれでアリかなって思うし」
「なんで? 一番戦いやすくて、防備が整ってるところに戦力を集中するのが普通じゃないの」
「んー、考え方の違いかな。向こうからすれば最終的に公爵軍を倒すにしても決戦をどこでやるかある程度操作できるわけだし、そもそも帝都に拘る必要もないわけよ」
「城までおびき寄せて、補給線を延ばさせた上で叩く方がいいと思うけど」
「それはそれでありね。移動で疲れた兵士たちを万全の体制で迎え撃つことができる」
でも、と続けてライラは言う。
「手堅くはあると思う。でも向こうは西にできるだけ逃げたくないのよ。だから、その前に出たいっていう意識があるの」
「魔物ですわね」
「ええ。アレと公爵軍に挟まれたくはない。そして、出来うる限り攻められたくもない。そもそも単純な物量で考えれば西側の生産力は東に劣る。他国との貿易で賄うにしてもそれは長期戦になるし、帝都を拠点にして包囲されたら補給もなにもない。バノスとしても長期戦は避けたいと思うのよ。なら、速攻で雌雄を決することができる地がいい。そしてそれは――」
「それなりに防備が整えられているリオラスカ砦、或いはレイデンになるわけだ」
「――ええ。そしてこの二つに戦力を集中すれば、そう易々と攻め込めない。両者の距離も近いわ。囲まれても後ろから援軍を送れるし、補給線を叩かれる心配も減る。そして何より拠点としての防衛能力がどちらにも備わっている。本当、公爵を抑えるためには最高に嫌らしい立地ね。兵力と物資次第で確実に戦力を削れるもの」
「公爵はそれでも帝都で決戦になると読んでいたがな。帝都住民に配慮しようとするところを突いてくると思っていたよ」
「いえ、もしかしたらその住民を嫌ったのかも。こちらに貴女が居るわけで、住民が纏めて公爵側についたら帝都では致命的になりかねない。でも砦ならその心配もないわ。レイデンを前線として中間から戦線を構築する。私ならそうするかしら」
「公爵側が砦の迂回を選んだとしても、それならそれで横から突けるからな」
「或いは戦力の分散させるように仕向けて各個撃破。やりようは色々とあるわね」
「公爵たちもそれで頭を悩ませていたよ。ロスベル辺境伯の入れ知恵かもしれんが堅実で鬱陶しいな」
言いながら、しかしレイチェルは笑った。
「こちらには悪辣な切り札がある。思惑通りにはさせんさ」
「おー」
「貴方のことですわよレブレ某」
「僕? ちぇっ。なんだ面白くなーい」
元より、攻撃側は待ち構える軍勢を攻める場合は不利になる。その要因となるのが防衛拠点を強固にする外壁だ。現在では魔物用の防衛施設の代名詞であるが、当然のように人間にも有効な施設として機能する。攻撃側は接近するまでの間に矢と魔法の雨が兵士の命を削られ、更に門を破るために犠牲を覚悟で立ち回らなくてはならない。それは確かな損害となり確実に公爵軍の戦力を削ることになる。その被害を軽減できると見られているのがレブレなのだ。
「君の参戦はこちらにとって良い事尽くめだよ」
「敵は貴方を野放しにすることはできない。そうなれば自然と他の兵士たちへの攻撃が減る。攻撃と被害軽減。両方を行うことができるのはちょっと反則ね」
「んー、でもそれは前提として向うが防衛側だったときの話しだよね。全員で何も考えずに突っ込んできたらどうするのさ」
「その時は普通に野戦を行って迎え撃つしかないわ」
「というか、ありえんがな。態々地の利を捨てる意味が分からん」
「向こうに召喚された人がいるなら有り得ると思うけどなぁ。そっちの方が僕としては困るし」
「いや、出てきて二人だ」
「どうしてさ」
「間違いなく一人はバノスの元に残るからだ」
生き残ってこそ勝利の美酒を味わえる。公爵派が召喚を行ったことは既にバレているはずである。つまり、裏をかいて公爵がバノス単体の暗殺に英雄を用いたとしたらそれを阻める戦力は通常の護りでは心もとない。だから最低一人は手元に残さなければならない。
「召喚された者たちの数で言えば向うが有利だ。手堅く行くなら同時に動かして二人だな」
「私なら動かして一人ね。初戦で出来うる限りこちらの戦力を確定させ見極めてから決戦に持ち込む。ちょっと無難過ぎだけど、博打をしなくて済むものね」
「その方がこちらとしてはありがたいな。その初戦で一人潰せれば残り二人。後々でこちらのカード枚数と噛み合う」
「シュルト様の魔法を覚えているならリリム某も時間稼ぎぐらいはできるはずですものね。ふふふ。その間にこちらは兵で押し切ればいいのですわ」
「そう気楽な話しでもないんだけどなぁ。最悪の場合は鬼が出ることになるからね」
「鬼? 鬼ってあのオーガですの?」
「両軍にとってはアレより数段性質が悪いよ。ある意味で第三勢力だもん」
「ああ、魔物のことを言っているのだな。無論、斥候を出して警戒している。少なくとも今回の軍事行動に触発された動きはないようだし、リリムも見つかってはいない。心配は無いと思うがな」
「だといいけどねー」
勘違いしている皇女様たちをそのまま、レブレは窓の外に視線を向ける。その第三勢力を呼び込みかねない劇薬たる黒騎士様は、今日も忍耐強くお日様の下をがんばって歩いている。きっと今襲われたら体力がやばいなんて考えは、彼女の中では欠落してしまっていることだろう。レブレが最悪どうとでもするなどと気楽に構えているに違いない。
(なんていうか。リリムは表面的な悪意には敏感な癖に、悪意無き損害は軽視する癖があるみたいなんだよねぇ。本当に君が気をつけなきゃいけないのは逆なのに)
極論すればそれは、公爵でありシュルトだ。両者には一貫して悪意が無い。だがどちらもリリムを利用し害意なく損害をもたらしている。公爵は召喚された英雄として彼女の平穏を奪い去り、シュルトは花嫁として普通の人生を彼女から奪った。これらはただの少女として生きてきた人間のリリムにとって明らかな損害である。
だというのに、外を歩く少女はそれを受け入れてしまっている。理由を理由に、状況を言い訳に、精神的安堵などというモノのためだけに自身の未来を安易に奉げてしまう選択。それは少女の精神的な強さの証明であると同時に、彼女をただただ蝕んでいく解毒不可能な毒だった。
そして言うまでも無くその中にはレブレが盛った毒もある。それはあの山脈で出会った日に盛った一番強力な遅効性の毒だ。全身に回りきるまではまだまだかかるだろうが、恐らくは他のどの毒よりも彼女に損害を与えるに違いない。そのことに対する罪悪感などレブレが感じることはないが、同情はしていた。少なくともレブレがかつて喰らった聖女は、それに耐え切れず毒を盛った子竜に憎悪を持って挑んだのだから。
(もうちょっとだけ、面白いから視ていたいんだけどなぁ)
毒はまだ致命傷には程遠い。だが、何れ来ると予感していてもレブレはそれを顔には出さなかった。
――内心では、誰よりも危機感を募らせながら。
その少年の中には怒りと狂気、そして生来の優しさが同居していた。
時刻は昼過ぎ。白いカーテンの向うから差し込む強い光は、どこの世界でも鬱陶しく、そして気持ちよいものらしい。薄いシーツ越しの暖かさは、少し汗ばむほどではあったが、その暑苦しさは今はもう嫌いではなかった。
左腕にある心地よい重みの向うに、黒い眼をした少女が見ていた。彼女は、今のどん底に落ちた彼を支える最後の希望であり絶望である。正気を失った先に最後に残った救いは、大よそでたらめであったけれど彼にはそれをもう否定するような気力さえない。ただ、それでも思うことはあった。
――正気には戻りたくない。
戻れば認めたくない現実を直視せざるを得ない。ならばいっそ、狂ったままで居る方がどれだけ幸せなのだろう。彼の持っていた中途半端な善性と平凡な良識は、その結論に縋りつき、ようやくの安堵を得た。これを手放すことなどもう彼にはできない。そのぬるま湯のような救いを、この狂気の中で見つけた彼には、もう。
「ごめん。今日で最後なのに」
「最後だなんて言わないで。私たちはまた会えるわ」
「……うん。そうだったね」
少女はゆっくりと起き上がると、少年に慰めるようなキスをした。少年は目覚めのキスをただ受け入れて、その両手で少女を抱きしめる。
女の子の体の暖かさなんて、彼は彼女しか知らない。だから余計に惜しむように力を込めた。その華奢な体は簡単に折れてしまいそうで怖くなる。だが、ずっとそうしていたいほどに彼女は可愛らしかった。
ただただ伸ばされたままのプラチナブランドが日光を遮る。煌く長髪は男にはないアクセサリー。それに隠されていたうなじが見えると、隠されていた秘密を知った時のような小さな快感が胸を突く。それは彼の青い独占欲に火をつけ、現実を改竄し、恋の麻疹で永遠を望ませる。
もう、地球に居るはずの初恋の彼女はどこにも居ない。心の中から完全に消え去って、夢を凌駕する現実に侵される。告白さえ出来なかった少女への思慕も過去へと変換され、残ったのは現実的な救いのみ。
「ふふ。どうしたの」
微笑みは無邪気で、そして屈託が無い。生来の性格か、それとも少年の全てを今も知り尽くしているから段階を通り越えていたのか。狂気の中であってさえ美しいと思えるそれを知り、そして胸に抱かされた一つ義務感が、より一層正気を奪う。
「ご飯、作ってくれないかミライ」
「ええ」
ベッドから起き出した彼女は、請われるがままに頷いて着替え、キッチンに向かう。彼女は純粋に彼を愛しているだろう。願われることにさえ喜びがあるように見える。少年はしばらくベッドの上に居たが、呟くように彼の名を呼んだ。
「マリス」
『――フヒヒ。なんだ我が契約者。ヴァンパイア・キングのアキヒコ君』
それは自分の口からの声ではない。前とは違い、頭の中に響く思念の如き声がある。ドクンッと、その声を聞くだけで少年の心臓が跳ねたが、体は正直だとしてももう恐怖を感じる心は鈍磨していた。
マリスと呼ばれた誰かは、相変わらず楽しそうに笑っている。耳障りであり、癇に障るその笑い方。しかし、もう何日もずっと聞かされれば嫌でも慣れる。今では少年にとってはもう愛嬌さえ感じられる程だ。声色の中にある感情は変わっていないが、変わらないからこその安堵もある。これで、この超越的存在がいきなり関西弁になったりクイーンイングリッシュでも話し始めたらアキヒコの正気は更にマイナス方向へと加速していただろう。
「俺はちゃんと恐怖しているかい」
『勿論だ。お前の心は相変わらず小便垂らしたいって言ってるぜ』
「そうか。嗚呼、良かった――それならきっと最後までやれる」
学生服に袖を通しかけ、アキヒコは止まる。かつての地球の思い出の象徴は、今ではもうここらでは上品な服でしかない。もう、戻ることはない。戻れたとしても戻りたいとも思えない。ただ奪われたという憎悪と希望だけが残ればそれでいい。
センチメンタルな郷愁は、今のアキヒコにとっては毒でしかないのだ。だから一旦着ていた服を脱ぎ捨てこの世界の服に身を纏う。それは、どこか彼が知っている市販のモノよりも遙かに品質では劣ってはいたが、十分に満足できる代物であった。
賢人ファッションというのは奇抜だ。流行の最先端を凌駕し、どこかの文明人が開発したようなそれを無理やり模造したような劣化品の癖に、妙にアキヒコの肌に馴染む。カジュアルなジーンズめいたズボンに、薄手のシャツ。その上には名も知らない魔物の皮で出来たレザージャケットを纏い、この世界に来るまで触ったことの無かった剣を佩く。文章で夢想してきた冒険者たちの、その装備には程遠いだろう。だが、少年にとっては剣一本あるだけで違っていた。
彼の生まれ故郷である地球にも武器はあったが、こんな長剣など時代錯誤の代物に過ぎない。使う術も知らず、振るうべき体も満足に鍛えられては居ない。そんな彼には、それは不釣合い極まりなかった。だがそれが人殺しの道具だというのなら、不恰好でも意味はあった。武器として機能する物は、存在するだけでただ意味を持つ。当然そこに正しく機能を果たせる性能があるならば、武器は己の存在意義を全うしている。ならば、そこにどんな不都合があるというのだろうか。
胸に去来する怯えも、震えも、その先に想起する烙印も今ではマリスに奉げ我慢できる程度の痛痒でしかない。それを感じ取っていたのだろう。ただ生きるだけで恐怖を発し続けるアキヒコの脆弱なそれを喰らいながら、やはりマリスは可笑しそうに笑うのだ。
『フヒヒ。なんだなんだその歴戦の戦士もかくやって面は。弱い癖に覚悟だけは一人前って感じだぜぇ』
「実際その通りだろう。俺には何も無かったんだ。今でもそうだ、お前の魔法が無ければ会話さえできず、クイーンの恩恵がなければ剣一本振り回すだけで汗だくになっていた。そんな俺にできることなんて、腹を括る以外には何も無いだろ」
『ヒヒィィ! だが、だからこそお前は俺を楽しませることが出来るじゃないか。ならそれはきっと、才能って奴だぜ』
「それならせめてベッドテクを寄越せっての。フヒヒ――」
『おいおい、お前俺をリスペクトする気か。やめとけやめとけ、純朴なお前にゃ似合わないしキメェって』
「今のはただ、確認してみただけだ」
『ほぉー、すまんすまん。そいつぁ気づかなかったぜい。だが、どうだ。届く力は絶大だろう。俺に取っちゃあ一割にさえも満たないが、お前にとっては正に奇跡だ。奇跡のような力だ。一生かかっても手の届かない領域のそれだぁ。フヒヒ、フヒヒヒ』
ついさっきから、薄っすらと纏う黒い光。それが、憎悪に比例してどす黒く染まっていた。アキヒコは当然のようにマリスを嫌っている。だからこそ、その真似をするだけで虫唾が走る。だが、その精神の変動は確かに意味があることが確認できた。ならばそれでいい。その本質に迫ることの意味を覚えてさえおけば。
「なぁマリス」
『んあ?』
「一つだけ分からないことがあるんだ」
『良いぜ、なんでも聞けよ。俺は博識を通り越して無知だが、情報量だけは多い』
「なんで、俺が呼ばれたんだよ」
やはり、カンナズキ・アキヒコには力が無い。英雄でもなんでもないただの学生だった。平凡以下だと揶揄される程度に根性もなく、気力も無く、意中の女子に廊下ですれ違っただけで今日一日の幸福を噛み締めた程度のスクールカースト予備軍でしかない。絶望的に無能ではなかったが、天才でも秀才でも努力家でもない。呼ばれる理由など、やはりどれだけ考えても思いつかない。
『大したことはねぇよ。クジに大当たりしか入ってないって、可笑しいだろ。だぁから、適度に外れが呼ばれるシステムになってんだよ。サイの目は例外を除いてランダムだ。まっ、一度召喚することができたら別だがな。パラメータの範囲を狭めて総当りすればいずれは狙ってやれるようになる……が、魔物以外はやる気もねぇな。つまらねーしやる意味がねぇ。あいつにとっても俺にとってもそうだ。例外はあるが正直、適当に遊んでやるぐらいの関心しかねぇな。やっぱり結局意味なんて無いんだ。自己満足の世界って奴? なら結果が分からないほうがおもしれぇよなぁ。何せハラハラドキドキアドベンチャーだ』
「……なんだそれ。本当にここに呼ばれた意味ないのな」
『嗚呼。お前であることに特別な意味なんて何も無い。全ては偶然だぁ。が意味はないが意義はあったよ。ほれ、宰相閣下だ。あの、お前を見た瞬間の失望した顔を思い出せよ。俺はああいう顔が大好きなんだ。期待していたプレゼントが、その辺の石ころだったみたいな顔だろあれ。フヒヒ。ありゃあ楽しかったぜ。まぁ、お前の無力さには俺もがっかりではあったがよぉ。弱すぎて頭来たから端末伸ばして苛めてたら、クフフ。お前、よりによって世界を征服させろだぁ? お前俺を笑い殺す気かよ』
「お前、無敵の魔神様なんだろ。なんで笑いで死ぬ心配なんかするんだ」
皮肉に敢えて突っかかるように毒づく。
『三千世界のどっかにゃあ、笑い殺された神の一人や二人は捏造されてても可笑しくはねぇだろ。お前やあいつを見ていると俺は特にそう思うぜ』
「あいつって、その、ドリームメイカー?」
『最高にアホな集団さ。何せ、この俺を呼んで大半が死ぬぐらいのアホだ。一番狂ってる奴なんて最高だぜ。俺を見て恐怖を抱かないどころか喜びしか感じちゃいなかった。取り憑いたら取り憑いたで第一発言が「よし、全裸になって外を駆け回ろうぜ!」だ。頭ウジ沸いてたぜあれ』
動かしているのが自分でなければ恥ずかしくない。そんな理論で動いていたことをマリスは思い出す。まさしくキチガイであろう。常人には理解できない理論で動いていることだけは間違いない。
「しょ……正気じゃないな」
『嗚呼。だが、そうでなきゃ俺は言うこと聞いてやろうなんて思わなかったね。というか、俺という存在の実在をあそこまで喜ぶってのはもう変態だ。変態の極みだ。ああいうのはさすがに俺も持て余すしかねぇのさ。だから戯れに好きにさせてやってたら世界はこんなになっちまった。喜べ、お前は俺と同じく変態の犠牲者の一人さ』
「その馬鹿を殴りたいよ。どこに行けば会えるのさ」
『もう老衰で死んでるっての。死体はまだ冷凍庫に保存してあるが、遊びたいときに使うのさ。今度あいつが来たときか、或いは盛り上がったときにでもYO!』
「頼むから、できるだけ惨たらしく壊してくれよ」
『いやだね。喜ぶだけだぜそれ。再開の挨拶まで決めてたしよぉ。聞いてくれよ。今わの際の頼みが、「ちょっとこれから転生してくるから、システムでちゃんと召喚してくれよ。そういうの夢だったんだ」……だぞ。それでまたこの世界に返って来て、今度は俺と飽きるまで戦いたいとか抜かしやがった。あいつ、どうも伝説の英雄だか勇者を目指してるらしいんだわ。余りにも嬉しそうに言うもんだからよぉ、俺ぁ思わず再会の約束しちまった。うわっ、俺もキメェ。未だにあんな変態との友情を大事にしてるんだからな。くそっ、忘れたい黒歴史だぜ。いやマジで』
「理解できないな。夢と現実をごっちゃにしやがって。ああ、だからドリームメイカー<夢の創造者>なのか」
真実の元凶が居るとしたらその男なのだろう。けれど死んでいるなら用は無い。だから当り散らせる者たちに請求するのみ。求めるのは対価。世界を、故郷を奪われたという事実に比肩する対価。つまりは、この世界。
「ご飯できたわよ」
「あ、うん」
優しげな声に、一瞬で彼の憎悪が鎮火する。死んだような顔に笑顔を乗せて、少年は纏っていた闇を消す。
『変わり身早ぇぇぇなぁ。これが、失って手に入る力って奴かぁ。魔法使いにはなれなくても、たった一人の英雄にはなりたいってか? フヒヒ――』
不快な声を無視し、むしろ生まれ変わった気分でアキヒコは食卓に向かう。やはり人の肉よりも美味い。食べるために作られたそれを勢いよく貪っていく彼を、少女は少しばかり嬉しそうに見つめる。
「どうかな」
「美味しいよ。でも、ちょっと外が煩いね」
「うん。でもしょうがないと思う。ついさっき街中に火がつけらたんだもの」
朗らかな顔で彼女が言う。「そうだね」と淡々と返し、アキヒコが外に意識を向ける。外からは徐々に悲鳴が上がり、人々が安全な場所を求めて逃げ出し始める音が聞こえてくる。彼が借りている兵隊が動き出したのだろう。
「ミライも食べなよ。ほら、早く食べないと逃げ切れないよ。特に君は食べとかないと持たないんだから」
「ええ」
二人して健啖だったが、時間の限界は来る。用意しておいた荷物の中に思い出したように学生服いれて学生鞄ごとアキヒコはミライに預け外に出た。
「スリには注意すること。変な男にも注意すること。それから、自分は大事にすること。護ってね」
「そんな念をおさなくても大丈夫よ」
「一緒にいけないから心配なんだ」
「ん……」
別れ際は勿論、さよならのキスだった。定番の儀式を終えると、二人はそれぞれ別の方角を向く。
「じゃ、生きていたらまた会おう」
「うん。がんばってね。世界征服――」
少年は西へ、少女は東へ。それぞれ人ごみの中へと消えていく。今しがたまで二人が居た他人の家もまた、炎に包まれ燃えていく。くべるのは憎悪の炎。燃料は復讐の意思で、対象はこの国グリーズ帝国。ひいてはこの狂気を育んだ世界そのもの。
初めから全てを取るなんてできないから、小さな目標からこつこつとこなしていく。そのための道筋はすでにつけてあった。最初の目標は忌まわしいレンドール公爵軍。奴らがバノスと対立したから呼ばれることになったのは明白だ。マリスを恨む気持ちは当然彼にはある。だが、意味が無い。だから取り立てられるところから取りに行く。
知りもしない癖に得た情報を元に、少年が絵図を描く。誰も予期しない絵を描く。でたらめに無軌道に。素人なりのやり方で。
「それにしても復讐か。昔なら考えることもなかったなぁ」
それなりに幸せだったこともあれば、回りにそれほどの悪が居なかった。そんなのはテレビの向こう側だけで、極端な事例だとばかり思っていたのだ。苛めの対象にさえなったことはない。そもそも、苛める奴というのは弱い奴だ。誰かが自分より下に居ないと安心して生きていけないなんていう、そんな可哀想な人種なのだ。
アキヒコは弱かったが、道理を間違えることも、間違えられることも幸運にもなかった。その点では恵まれていた。だから考えたこともなかったのに。
「フヒヒ。でも、簡単なんだな。理由があれば。意思があれば。憎悪さえあれば」
それを止めるのは善性であり理性であり正気であり法である。だがこの世界にはそんなものは何も無かった。何一つ無かった。アキヒコは異世界人であり、人権さえもないただの外れクジ。ストッパーになり得る何もかもがそこには初めからありはしない。
『好きなだけヤレよぉアキヒコ。お前弱いから直ぐ死んじまうだろうけど、だから逆にどこまでやれるか楽しみだ。二人分、きっちり取り戻して来いや』
「言われるまでも無い」
狂気の中に正気があった。最後に残ったのは、染み付いていた善性。世界一の安全神話がもたらしたそれだけを立脚点に、無理やりにも狂気で捻じ曲げ少年が行く。そうして、彼は一人炎に燃えるレイデンを彷徨った。大声で根も葉もない流言を吐きながら。
「公爵軍だ! 公爵軍の先発隊の攻撃だぁぁ!」
「は、話しが違う!」
「何がだね都市長」
外套を纏ったロスベル辺境伯は、ニッコリと笑う。その、どこか作り物めいた笑みに気圧されることなく彼は尋ねた。
「バノス閣下は知っておられるのか!?」
「当然だ。その書状に書かれている通りなのだから」
「これに書かれているのは戦争になるから、レイデンを放棄するという文言だけだ! ここを放棄するならどうして戦場にする必要がある! そもそも奴らの本隊はまだ到着していないはずではないか!」
「向うのやり方をこちらに怒鳴られても困りますな」
半鐘の音が鳴り響き、得体の知れない鎧を纏った連中が暴れているという報告が入ったのはすぐ先ほどだったか。レイデンの都市長は平然と肩を竦める男に歯軋りしながら尋ねる。相手は貴族ではあったが、彼はバノスの子飼いの部下だった。ともにレイデンを通して美味い汁を吸ってきた間柄だ。無碍にはしないほどの信頼は勝ち取っていると思っていた。なのにこの様だ。
「放棄した後は!? 私はどこへ行けばいい!」
「ご自由にすればよろしかろう」
「ならば公爵に白旗を上げるがいいのだな!」
「構いませんとも」
「なっ――」
返答に迷いはない。そのすこーんと帰ってきた言葉が彼には信じられなかった。ここを容易く切り捨てるというのは、馬鹿げている。抵抗して然るべき場所なのだ。それは軍務に疎いものでさえも分かることだ。なのに、この目の前の辺境伯は何もしていない。防備に走るでもなく、増援を寄越すでもなく、防衛のための兵力を回収したっきり動きを見せない。
「まさか貴公、寝返ったのか!?」
「失礼な。私は今もレンドール公爵派と手を結んではおりませぬよ」
「では何――」
「答える必要はない」
詰め寄ろうとした都市長に向かって剣が抜かれる。
斬閃の後に首から血飛沫が飛んだ。絶叫を上げる余裕も無く、都市長の体が崩れ落ちる。辺境伯はそれを冷たい眼で見下ろしたまま、そのまま踵を返し部屋を出る。
ドアの向こうに控えていた秘書が、なにやら物音に気づいて不審そうな顔をしている。すれ違う辺境伯。外套に飛び散ったと見られる血に気づいた彼女が、その口からすぐに悲鳴を上げる。辺境伯は腰を抜かした彼女に剣で止めを刺し、外に出る。三十人は居ただろうか。部下も動いていたようで、騒ぎに紛れて仕事をしていた。彼らの仕事は役所でもあるここを焼き払うこと。そして、職員の中でも幹部クラスを逃がさないことであった。
全員が防具の上から公爵の旗の文様が描かれた外套を身に着けて破壊工作と暗殺に動いている。そして、当たり前のように窓ガラスが割られていた。
人々は役所まで襲われたかと考え、悲鳴を上げながら遠ざかる。何人かは冒険者たちが密かに浸透していた他の隊のものと交戦しているようだったが、ギルドも攻撃対象に入っている。重要施設はほぼ同時に強襲されており、わけも分からず始まった戦いは人々に更なる混乱をもたらしていた。
これは本来想定されていた帝都での決戦。それまでにどこまで疲弊させるかという命題からは程遠い。戦術でも戦略でもない。ただの思いつきにも似た、絵空事の持ち主の介入が原因である。だが、その絵空事には一つだけロスベル辺境伯やバノスには無かったものがあった。
「支配するために本来必要な民意などいらぬか。なるほど、確かに必要ない。食えば彼らは我らになるのだから必要なのは如何にして喰らうか。その一点のみだけでいい。そして、嗚呼、そうだ。そのために足枷を無理やりに嵌めるというのは悪くないですな。どちらにせよ――」
また一つ、遠くで火の手が上がるのが見える。密かに民間人に偽装された隊もある。彼らは今頃街中の、特に食料のある場所を狙っているだろう。火事場泥棒に見せかけての略奪隊もある。持ちきれるだけ運ばせ、無理ならば処分させる。そして、こちらも訳が分からないが街中の窓ガラスをただ割るだけの隊まで存在した。それがクイーンの代行者たるキングの命令だった。都市の防衛用の戦力はすでに砦に向かわされている。今頃は兵力に摩り替わっているだろう。ここには治安維持ができる程度の戦力も残されてはいない。
彼らの狙いは簡単である。このレイデンを廃墟にすること。物資を奪い、人の生活環境を根こそぎ奪う。それを公爵軍に負担させるのだ。そうなれば運び込まれてくる食料や物資の消費は彼らの想定を遙かに上回るだろう。また、全ての責任を公爵のマッチポンプにしてしまうことで恨みを押し付ける。なりふり構わずにただ勝つことだけを望まれているかのように。
「むっ――」
と、そこで彼は撤退の合図を受けた。ヴァンパイアウィルス同士の通信網だ。本来はクイーンを基点にその下が一方的に動くが、今は王であるアキヒコがその体制を変更。通信部隊を作り上げてやり取りさせている。アキヒコは無能だと自身で自覚していた。だから、必要なことは出来る奴にやらせる。その上で気の済む様に、マリスとの契約の範囲で動くのだ。
他の兵隊たちも、すぐに作戦通りに動きを変える。ある者はそのままスパイとして潜り込み、またある者は西門から砦を目指す。ある者は民間人に紛れ込み、それぞれの役目のために消えていく。後に残ったのは喧騒と混乱とそして、恨みのみであった。
故郷の街が燃えている。
それに気づいても、リリムにできることは何も無かった。公爵は斥候を出し、進軍を続けさせた。やや速度が上がる隊列の中、彼女は隣に控えているケインを見上げる。
「分からねぇ。ただの火事にしちゃあ範囲が広すぎる。合流部隊が手柄欲しさに先に動いたって事もありえないでもないが……やりすぎだな」
コクリと頷き、同意を示しながらレイデンへを見る。胸騒ぎがしないわけではない。だが、それしかできることがない。しばらくして戻ってきた斥候が報告。当然のように各地の将兵たちにも伝わり、騒然となった。
レンドール公爵は温和な表情を怒りで染めながら、急いで騎馬隊を先行させ消火活動に当たらせようとした。だが、街の住民は更に混乱した。悲鳴を挙げて逃げ惑い、それまで行っていた消火活動さえも一時的に放棄していった。
逃げ出してきた避難民も、公爵の軍を見ると怯えるように離れていく。事情を聞くことさえ時間がかかり、それが彼らをイラだたせる。それが収まるまでの間に多くの家屋が燃えた。
公爵軍が消火活動に勤しみ、それを遠めに見ていたレイデンの住人は、ようやく消火活動に参加。疑心暗鬼の瞳を向けながらも、消火活動を行っていく。ようやく本隊がたどり着いたときには、住民たちの怨嗟の眼差しが多くの兵たちを動揺させた。勿論、リリムもそうであった。
「訳分かんない。なんで、こっちは誰も攻めてないのに……」
云われないのない憎悪が確かにあった。無形のそれが、肌がひりつくような後味の悪さを感じさせる。ドルフシュテインで思わず耳を塞ぎたくなった言葉がふと脳裏を過ぎる。誰かが口にしたわけでもないが、公爵軍のせいだという声が市井から聞こえた。反発したかったが、向けられてくる視線にある確かな怯えがそれを止めさせた。リリムだけではない。それは、他の公爵軍全てが味わったこの内乱初の苦味だった。
(これが、戦争なの? 変だわ。何かが致命的に違う気がする。こんなの、それ以前の問題じゃない――)
公爵軍はレイデンを抜けて東門の直ぐ外を野営地にした。するしかなかったというべきか。中継都市レイデンは、その都市機能を奪われていた。どこも、そんな余裕はないのだ。人々は無事な家屋を選び、そこに公爵軍から得た物資や糧食を持ち寄って夜を明かすしかなかった。兵士たちの天幕の一部も貸し出されたが、焼け石に水だ。ただただ冬でないことだけが救いだと言えた。
そんな夜、兵士たちはどこかやりきれない顔で張った天幕の中で糧食を食んだ。貸し出したために狭くなった天幕で仲間たちと愚痴りながら、交代で番をしながら悪態をつく。
リリムたちが居る天幕もそうだった。鎧からメイド服に着替えたリリムは、糧食を減らされてふてくされている子竜に問いかけた。
「ねぇ、結局レイデンはどうしてこんなことになったのよ。外に居た私と違ってレイリーの近くに居たあんたなら何か知ってるんじゃあないの?」
「知らないよぉ。今きっと公爵の天幕で会議してるはずだし、そのうち戻ってきて教えてくれるんじゃないかな」
「多分、敵側の焦土作戦もどきよ。公爵軍の誰かの仕業じゃなかったんだから、それ以外にはないわ」
「焦土作戦ってなに」
「攻め込まれる側が、占領される前に家や食料、その他諸々を占領後に利用させないように処分しておく作戦ですわ」
ライラが口を挟む前にノルメリアが、そんなことも知らないのかとばかりのドヤ顔で説明する。予想していない人物からの説明に、一瞬リリムが驚いた顔をしてしまう。
「なんですの。その驚いた顔は。わたくしはこれでも公爵家の人間ですのよ」
「いやぁ、あんた見てるとそんな気が全然しなくてつい」
「つい? ついってなんですのリリム某!」
「まぁまぁノルメリア様抑えて抑えて。他の兵士たちが何事かと思ってやってきますよ」
「むっ、確かにそうですわね。上の動揺は下を動揺させる下策。いくら私が公爵令嬢でも、いえ、だからこそ動揺したと思われるわけにはいきませんわね。気丈に優雅に余裕を持って対応し、下々の者たちを安心させなければ」
納得の仕方が余りにも貴族然としているので、リリムはまたも感心した。突っかかってくるだけの鬱陶しい奴などという評価が少しだけ変わる程度には。
「それで、それって戦争では普通なの?」
「普通というか、そういう作戦もあるというだけの話しですわ。そもそも、今回の戦は内乱です。つまり、相手が自国民なのですわ。それが必要だとしても後のことまで考えれば、せめて都市住民の避難が終ってからにするべきね。でないと恨まれますもの。それができていないのが妙に腑に落ちません。ある意味異常であるといえますわ」
「やっぱりね。恨まれてるのはこっちっぽいもの」
「向うはそれも狙っていたってことだよ。都市住民に暴動でも起こさせてこっちの負担を増やさせるつもりなんじゃないかなぁ」
「少なくとも父が挙兵したからだと考えればこちらにも恨みは残りますわね。住民のあの表情が何よりの証拠ですわ。元々家の領内にありながら手が届き難いという複雑な都市ですし」
「これだから人間は怖いよねぇ。うー、この分だと徹底して食料狙ってくるかもなぁ」
大軍を維持するための食糧調達は軍にとっての死活問題だ。やるからには徹底して攻めて来ることは簡単に予測できる。決戦前に出来うる限り様々な手を打って公爵軍を削りに来るだろう。レブレにとっては一番嫌な展開だ。これならまだ防衛戦をしてくれた方が気持ちが楽である。
「十人前が三人前にランクダウン。酷いよねぇ。リリムがここに居るから適当につまみ食いにもいけないし。知ってか知らずかは分からないけど僕を真っ先に戦力外にする気満々だよぉ」
「なら砦にあんたと二人で突っ込んで、敵の食料食い荒らすとかどうよ」
「起死回生の策だ! すぐに公爵に進言しよ。食い物の恨みは倍返しだ!」
「もう、ダメよ」
天幕を飛び出そうとする子竜の服を後ろからライラが掴んで止める。
「うぅー……」
恨めしげにライラを見つめるレブレは、すぐに行動を開始。代替案としてエルフ店長の手を掴むと、大きく口を開けた。咄嗟にライラが手を引くが、もう遅い。子竜は店長の腕にカプリと噛み付く。
「……リリム某。あの子は一体何をしているんですの」
「店長の味見でもしてるんでしょ。空腹が過ぎるとたまにやられるわ。別に害はないからほっとくか拳骨でもくれてやればいいの。犬が骨かじってるようなものよ。よだれが鬱陶しいけどね」
「犬と竜じゃ差が有りすぎるんだけど!」
店長の悲鳴を問題ないとばかりにスルーするリリム。店長が困った顔で助けを求めるが完全に無視の構えだ。離してもらおうとするも、余計な動きをすると歯が肌に食い込んでどうすることもできない。その間、レブレは微動だにせずにエルフの柔肌を甘噛みし続ける。
「ほ、ほら。もういいでしょ」
「ダメ。あむあむ」
「そいつ、食べ物には煩いわよ。そういえば、エルフって食べたことあるの?」
「あふふぉー。ひょっふぉあふぁめかふぁぁ(あるよー。ちょっと甘めかな?)」
「品評されてる!?」
心ばかし、噛み付く力が強くなったようい感じた店長である。と、そこへケインに護衛されていたレイリーが戻ってきた。
「む? 何をやってるんだそこの二人は」
「お腹空いたから店長で我慢するんだってさ」
「そうか。程ほどにな」
「それだけ!? 今にも腕を食べられそうな私の状態はスルーですかレイチェル様!」
店長の叫びは黙殺された。
「んじゃ、俺は外でいるから何かあったら大声でも出せよ」
ケインは一応護衛だが男である。何か間違いがあってはいけないという理由でレイチェルに蹴り出される前に退散する。
「さて現状報告だが、帝都から妙な情報が入った」
冒険者ギルドの使いと名乗る冒険者から公爵に当てられた手紙である。帝都本部のギルド長ジンブルは公爵派である。一応表向きには中立だと言っているが、本音と建前は別であった。
「帝都からですの? 何かありまして」
「ゾンビもどきとやらの追加情報が届いた。後、対策法もな」
「本当ですか!」
「なんでも、城からあふれ出たそいつらは山脈でとある一般人男性と一緒に召喚された化け物らしい。召喚した連中が城に戻ったところで暴れたそうだ。一応は鎮圧できたようだが、被害は相当なものらしい。その際、銀髪のフリーランサーの一行が化け物を倒したらしいとも書かれていたな」
「銀髪ねぇ」
「んー、魔法卿だったらやりかねないかも」
まさか身内ではないかという想像が二人の脳裏を当たり前のように過ぎる。店長の腕から離れたレブレは他に無かったのかと問いかける。
「他に特徴はなかったの?」
「別段他には言ってなかったが……いや、そういえばシスターと一緒だったとも聞いているぞ」
「サキじゃないなら別人かなぁ。それで対処法ってのは」
「浄化魔法だそうだ。掃除やらで使うアレだな」
「なぬぅ」
「そ、そんなので死ぬの? 全然恐ろしくないじゃない!?」
掃除魔法で死ぬ化け物。つまりはそこらの子供でも対峙できる程度の脅威である。大仰に公爵に頼んだ店長はなんだか自分の行動が馬鹿らしくなってしまった。
「ねぇねぇレイリー。なんで効果があるかは分かるの」
「いや、それが皆目分からん。持ってきた冒険者もよく分からなかったそうだ。ただ、分かっていることはいくつかある。その化け物は人を喰らう。そして食われた人間は化け物の仲間入りする。また太陽の光に弱く、普段は外套のフードを被っていたらしい。後、奇声を上げたりもするらしいな。噛まれた場合はさっき言った浄化魔法で処置すれば助かる可能性があるそうで、バノスたちもそうなっている疑いがあるとかないとか説明された。頭が可笑しくなりそうな事態だな。諸侯たちも違う意味で頭を抱えていたぞ」
「確かにそうかもだけどさ。それが本当なら、脅威は後二人だね。僕からすれば悪くない報告だよ」
「そうなるな」
召喚された男が一般人なら、戦力に換算する必要はない。
「今現在、帝都は中枢部が壊滅した状況らしい。兵士もその時にほとんど化け物になって死んだそうだから、正直内乱がどうのこうのという状況ではないな。そろそろこちらの宣戦布告も西の諸侯や帝都にも届いているだろうし、色々と状況が変わりそうだ」
「では、気をつけるならやはりバノス宰相が化け物になっているかどうかかしら」
安易に化け物などといってはいるものの、それが具体的には分からない。懐疑的なノルメリアはライラに視線を送る。
「そのゾンビもどきとやらは強いのかしら」
「私は交戦していないから分かりませんけど……」
「言い忘れていたが、近接戦闘をするだけで化け物になるかもしれんから魔法で対処しろということ。そして、中途半端に攻撃しても煙を上げながら再生するらしいから、浄化が無理なら燃やせとも言っていたな」
「再生ねぇ。ゾンビなら腐って壊れてくだけなのになんだか吸血鬼みたいだね。んー、でも近づくなってのは普通の人間には結構厄介かも。奇襲されたらヤバイんじゃないかな。しかも今は夜だし」
「うむ。だから諸侯も夜襲に警戒させている。今、篝火も増やしているところだ」
「軍の動きに変化は」
「特にない。寧ろ、帝都が動けない今がチャンスだという意見もあるぐらいだ」
「じゃあレイデンは放置するの?」
「いや、復興のためにも伝令を領地に出している。補給部隊の一部が後で出入りし復興支援をすることになった。食料などは余裕を持って準備してきているから我々は明日には進軍する」
「ええっ!? 一日休息するんじゃなかったの」
「一戦した後に休息の予定だったが、何も無いなら移動だよ。疲れたのなら言え。この私じきじきにあんなところもこんなところもたっぷりマッサージしてやる」
「いらないっての」
リリムは鼻息荒くもにじり寄ろうとする皇女様を押しのけ、毛布を被ってこっそりと奇跡を行使。疲れを癒すことにする。
「話しがそれで終わりならさっさと寝ましょ。明日も疲れるんだから」
「添い寝は」
「い・ら・な・い!」
「ちっ――」
レイチェルの可愛くない舌打ちが天幕に響き、それを合図に皆が寝床に横になる。こうして、彼女たちの夜は更けていった。
夜が明けるには少しばかり早いだろうか。
手に入れた一枚の毛布だけを頼りに、外壁を背にしていた黒髪の少年がパチリと眼を開けた。カンナズキ・アキヒコ。この国ではアキヒコ・カンナヅキとでも名乗るべき異世界人である。
『フヒヒ。よく眠れたか』
「いや、そもそも眠れなかったんだ」
彼は適当に略奪した黒い外套を纏ったまま一人呟く。夜闇よりも暗い瞳が見つめる空には、彼が知るそれよりも遙かに綺麗な夜空が広がっている。綺麗ではあるのだろう。煌く星と、欠けた月。もし彼が天文部にでも入部していたならば、なにがしかの発見があったのかもしれない。
地球とは違う異世界の空は、文明の光に穢されていないせいか、ヤケに光陵が強く見える。そのせいなのか、今そこに居る自分さえ迷子になってしまいそうな錯覚に陥る。事実、彼は迷子だったのかもしれない。帰り方も分からず、どこに行けば良いのかさえも知らないこの少年は、きっとこの世界では迷子と呼んでもいいのだろう。
『俺がほとんど食ってなおだからなぁ。本当、ご苦労様だぜアキヒコ』
「おかしな事を言う。全部もっていけばいいだろうに」
『そりゃダメだ。お前のためにならねぇ』
「はっ――」
可笑しいだけの言葉を笑い飛ばし、毒づく言葉を飲み込んでアキヒコは立ち上がる。のそりと立ち上がった彼は、やはり略奪していたパンを袋から取り出して歩きながらかじる。
――不味い。
それが、彼の正直な感想である。ふっくら焼きたてでもなければ、中にクリームが入っているわけでもない。純粋なただのパン。それを上手いと感じられない程度には、アキヒコは飽食の時代を生きていた。無いよりはましだが、手抜きにしか感じられない。
バターが欲しい。ジャムが欲しい。蜂蜜が欲しい。サラダが欲しいしいっそうのことベーコンエッグも欲しい。欲しいと言い出せばきりが無いほどに欲が疼く。贅沢であると知ってはいても、知っているからこそ余計に欲は消えない。
(食い飽きたコンビニ弁当でもいい。なんだったら、ハンバーガーのセットでもいい。いや、無いわけじゃあないのか。でも、それは本当に食べたいものじゃないんだ)
屋台にそれっぽい何かを見たことはある。だが、やはりあのチープな味を望めば途端に物足りなくなる。料理も不自然にバリエーションがある。ドリームメイカーとやらが目指したモノ。それが、アキヒコにはなんとなく理解できるような気がした。好きにはなれないけれど、ある種の理解がそこにはあった。
「そうか。ドリームメイカーはこの星を、この世界を犯したんだ。需要を満たして供給するために。きっと贅沢な夢を見ようとしたんだな。正気じゃないのは当然さ」
『ほう、お前にはあいつの気持ちが分かるってのか?』
「少しだけね。納得はできないけど、手段としては理解できる。――そろそろ行くよ」
疑問符混じりの声に答え、外壁を登る坂道を上がっていく。普段は見張りが居るはずの外壁には、何人か一般人の先客も居た。行き場を失った人間だろうか。そう思うと、余計に少年の胸がざわついた。
彼らは奪われはしたが、まだ残っている。まだこの世界が、国が、街が残っているのだ。その程度で失ったなどと認めることが、今のアキヒコには到底できない。共感することができない。
募る苛立ちを憎悪に変えて、ようやくアキヒコは目的の場所へとたどり着く。外壁の上部は、当然だが向こう側を攻撃できる程度には低く設定された箇所と、隠れて盾にできるように突き出している部分がある。戦闘のための機能美。そうと理解できるほどには、彼の頭はもう冴えていた。
街の外。西側を見下ろせば、沢山の天幕が張られているのが見える。その一つ一つに兵士たちが居て、そのどこかにレンドール公爵が居るのだろう。篝火が焚かれ、警備をしている運のない夜勤者たちが欠伸をしているのが伺えた。
アキヒコは当たり前だが戦争になんて詳しくない。だが、よく『頭を潰せ』という言葉を聞いたことがあった。学校で言えば校長か。普段何をしているのか分からないが、学校を運営する上での顔として何かをやっているリーダーだ。それは仮にもトップである。これを潰せば全軍が動揺することはなんとなく理解できた。少なくとも学校は驚きに揺れることは想像に難くない。動揺しないことなどありえない。
では軍はどうか? 当然動揺するだろう。指揮官が変わるだけであったとしても、少なくとも混乱させることはできる。では、この世界の軍隊は?
国軍ならいざ知らず、諸侯軍はよりあつまりだ。階級は当然意味があるものとして機能しているのだろうが、その階級というのが貴族たちの爵位によって序列が決まっただけのものだとしたらどうだろう。
(それ以前に、貴族ってのは利権争いに煩いそうだ。つまり、すんなりと指揮権が委譲されたりするのかな。例えば、同格同士とかが居たら交代とかでやりそうだし、責任の押し付け合いとかもありそうだ。頭を狙うのは悪くないはずだよな。つまり、時間稼ぎぐらいにはなる)
代わりの代表が決まるまではそのはずだ。単純な話しだが、レンドール公爵を中心に決起したのだから、その公爵を亡き者にしてしまうことに意味がないとは彼には思えない。ならばそれで良かった。バノスもロスベルも反対はしなかったのだ。ただ、アドバイスはしてきた。それだけでは足りないと。皇女の命も取るべきだ、と。
公爵側からの宣戦布告は届いていた。だからこそ、そのために押し出された『皇族殺し』を証明する者を断たねばならない。寧ろこちらの方を重視するべきだとアキヒコは考えた。所謂カリスマ的リーダーかどうかは知らない。それは重要ではない。問題は、彼女には変わりが居ないというあただ一点のみ。
公爵を倒しても、別の貴族が後を引き継ぎ台頭しては対して意味がない。だが、皇女は一人だけしかいない。これを排除した場合の影響は少なくないように思える。反発も大きいだろうが、勝った後に偽者を担ぎ上げたただけの反乱軍にしてしまえばいい。そのためにレイデンを焼き払ったという風評を広めてしまえばいだけだ。通信インフラなど整備されていない状況では先にレッテルを貼ることで先入観を与えることが出来る。西側の貴族たちや、市民たちにはヌクヌクと過ごしてきただろう東側は嫉妬の対象だ。そう信じさせてやればいい。不審が出るとしても、その前に決着をつければそれで終わり。次の芽を潰し、その上で大勢を決するのが理想だ。
バノスが初めからそう対処しようとしていたように、そこだけは一致する。偽りの皇帝はバノスと共に砦に居る。であれば勝ってしまえばそれでいい。そうして、少しずつクイーンの痕跡を残さないように喰らえばそれだけで国を落とせる。
絵空事は果てしなく遠い。そんなに簡単に上手く行くと信じていない癖に、その都合の良い企みは黒い愉悦を彼に与える。
世界を奪われたのだから、世界を奪い返さなければ帳尻が合わない。世界征服の表向きの理由を考え、ふと吐き気を催すように唾を吐いた。地球とこの星を比べる時点でアキヒコは間違っていることに気づいたのだ。
なぜならば、彼にとってはこの星は異世界は故郷のそれと比べるべくもない程に無価値がなのである。比べるということは天秤で計るということで、それは故郷に対する冒涜に違いなかった。愛国心なんてきっと希薄だったけれど、奪われたからこそ思うことがあった。
「皇族を示す旗は、王冠の前に剣と槍が交差した青き旗だったっけ。篝火があるけど、さすがに遠すぎてよく見えないな。となると、ヒントは目印は旗がついたでかい天幕ってだけか」
見栄だかなんだか知らないが、力を誇示するために格差を作る。兵たちにも分かりやすい反面、それは城壁の上からよく見えた。自己顕示欲が希薄なアキヒコには、その感性は理解できないが行幸である。絞り込めるだけでもマシだったから。更に無い知恵を絞る。
「警備は当然厳重なはず。つまり、最も襲われにくい位置。中心付近の天幕だ。てことはあの辺りか」
『本当にやるのか。もっと別のやり方だってあると思うけどなぁ』
「いいんだ。俺はこれでいい。これならどう転んでも俺の勝ちだ。なら、それでいいじゃないか。俺は恨みを晴らせて、お前は腹いっぱい喰らえるだろ。ならさ、一体何処に引く理由があるんだよ」
『ヒヒヒ。ちげーねぇ。ちげーねぇが……まぁいい。やりたいようにやればいいさ。俺には損なんてねぇんだしよ。ヘイ。若きインスタントヒーロー<即席の英雄>。俺様たちの最高の悪意の中で踊れや踊れ。哀れでひ弱な自分呪って、この世界の奴らと一緒に、他人が作った幻想に溺れちまえ』
「うん――」
裏の理由のためにはそれ以外に選択肢が思いつかない。本当は、もっと上手いやり方があったのだろう。そちらの方が賢いと思えるような、そんな理想的な方法があったのだろう。けれどアキヒコは理不尽への憎悪を前面に押し出し、行動を決めて最後の正気をそこにつぎ込む。
これは復讐であった。
それは義務であった。
憎悪と怨嗟であり、希望であった。
「できるなら一度に。できなければ街道から離脱。後詰で混乱させて、それから、それから――」
ブツブツと、死んだような顔で呟きながら彼は歩く。そうして、もっとも最短でたどり着ける位置を取った。最短は曲線ではなく直線。異世界を越えてもその理にはズレはない。
「じゃ、溺れてくるよミライ。フヒヒ――」
纏うのは闇。悪意で彩られた混沌たる光。闇色に燃えるその力の恩恵を受けてアキヒコは城壁から躊躇無く飛び降りた。
夜風が少年の頬を撫でて過ぎ去っていく。どこか他人事な精神とは違い、体は正直に落下の恐怖に縮こまろうとする。けれど、アキヒコの意思はそれを許さない。
数秒もせずに迫り来る大地を前に、全身にかかるだろう衝撃を殺すべく四肢に力を漲らせる。衝撃。爪先から駆け上がってくるそれを感じながら、それでも知らぬとばかりに少年は大地を蹴った。
転がるよりも早く前に足を出す。悲鳴を上げる脚部から白煙を上がった。その後に感じるのは再びの風。二歩目は更に早く、徐々に加速する体は勢いを増していく。移動の痕跡のように抉れる地面が、砂塵を撒いた。
「ん?」
一度響いた落下音、そして明らかな疾走音が不寝番をしていた警備の兵に彼の姿を発見させる。
(行ける所まで、やれるところまで――)
駆ける速度が更に上がる。
「不審者だぁぁ!!」
響く声を無視。闇色の外套とベールで夜に紛れるように篝火の赤い光が届く距離に踏み込んだ。その後に続くのは魔法が生み出す明り球の光。夜の光さえ駆逐する白い光源が、次々と上がりアキヒコを照らし出す。
眩しい視界を手で遮りながら見れば、駆ける彼の眼前に立ちはだかる一人の男がいた。両腕に握った槍を構え、タイミングを合わせて突きを繰り出してくる。
馬鹿正直な突進を笑う名も知らぬ兵士。アキヒコはついに死んだような顔に壮絶な笑みを浮かべて跳躍。残像を残す勢いで槍ごと男を軽々と飛び越える。
「何ッ――」
それは正に、人外の脚力だった。放心しながらも、振り返る兵士が次に目にしたのは脱ぎ捨てられた黒の外套。視界を塞ぐそれを急いで振り払えば、既にアキヒコの背中は小さくなっていた。
魔法での詠唱は間に合わない。今の少年は黒い風だ。追いかけようと兵士が駆け出すも、まるで追いつけない。馬のような速さ。いや、それはもう馬さえも越えていた。故に、唯一凌駕する声に兵士は託すしかなかった。
「侵入者だぁぁぁ!」
遅れて鳴り響く半鐘の音。カンカンカンと、リズムよく音が響く。音は広がり次々に兵士たちが起き出してくる。と、アキヒコが通り過ぎた遙か後方で天幕が次々と燃えた。街に潜んでいた部隊が一斉に動き出したのだ。
見張りが居た西門の上から、アキヒコと同じように飛び出し次々と炎の魔法を放つ。それも特定の箇所だけではない。奥の天幕からどこから攻めてきているのか悟られにくくするために散会しながら仕事に当たる。
シュルトがもしそれを見ていたならば、驚愕していたことだろう。何故なら、そのゾンビもどきたちには明らかに魔力と気を持っていたのだから。
「火だ、火を消せ!」
次々と上がる火の手。闇夜を徘徊する彼らは混乱させることだけが目的ではない。その狙いは食料の集積所。喰らうよりも命令を。散会して駆ける彼らは食うこともせずに最低限の敵だけを倒しながら浸透していく。
寝ていた兵士たちは武装もそこそこに、天幕を飛び出す。そうして、燃え盛る遠くの天幕を見て初めて行動に移った。戦争はなくても、魔物との戦いはあった。戦いを知らないわけではなかったが、それでも彼らは確かに気が緩んでいた。
初戦を行う前のこの一回。最初の奇襲だけは成功させておきたい。
アキヒコは息を荒げながら何度も何度も兵士を飛び越える。休む暇はなく、雑魚の相手をしている暇も無い。完全に人で包囲されれば逃げる余裕も無くなってしまう。数は暴力だ。質を駆逐しえる唯一の力なのだ。人外の力を得ているとはいえアキヒコはド素人。どこで失敗するか分からない。余計なことをする余裕など彼にはないのだ。
「ハァ……ハァ……見えた――」
外壁の上からほとんど中心に見えていた天幕。偉そうなそれの前には兵士が詰めている。だが、ふと妙な違和感が彼を襲った。天幕に掲げられている旗が、探していたそれと違うのだ。
「マリス!」
『おうよ。それは違うな。そりゃ、指揮用の天幕だ。この場合はもう用済みの会議場だぜ。気配がねぇ』
「ならっ――」
記憶力はそこそこ。しかし、人間やるときはやるものだ。そう多くは覚えていないが、旗が掲げられている天幕は近くにあった。記憶を頼りにアキヒコは最も近いそれに向かう。角を左に曲がり、次を右に。そしてその先の三つ目の天幕。その奥に杭とロープで仕切られた大きめの天幕を見つける。
(ここだっ――)
掲げられているのは旗は王冠の前に剣と槍が交差した青き皇族の旗と、剣と槍が交差した赤き公爵家の旗。この二つが同時に掲げられていることを不審に思いはしたが、少年はそこに決めた。
「し、侵入者だ!」
「邪魔!」
腰元の剣を抜き、放たれる槍を膂力だけで不器用にも一閃。弾き飛ばすと同時に右足を振り上げる。勢いがついていた体は、鋼鉄の鎧にその速度を集束させて叩き込んだ。瞬間、兵士の体が破壊力に耐え切れずに虚空を飛んだ。それは意図しない人間砲弾となって地面を転がる。
砲弾は背後から詰めようとしていた仲間を巻き込み、ボーリングのピンのように兵士たちをなぎ倒す。
「ラッキー……かな」
「いや、そうでもないだろ」
足を止めての呟きが拾われた。反射的に視線を向けたその場所から、硬質の物が飛んできた。賢人魔法アイスジャベリンだ。剣で弾く暇はない。思わず顔を手で覆ったアキヒコ。だが、それは呆気ないほど簡単に彼の纏う闇の前に砕け散った。
「あ――」
「魔法障壁だと!? あの二人以外でかっ!」
驚くアキヒコと攻撃者。それを尻目に、マリスが嫌らしい声で笑う。
『フヒヒ。おらどうしたアキヒコ。急げや急げ。賢人魔法程度で俺の悪意は砕けねぇよ。どうせなら一軍つれて来いっての』
「はは、頼もしいなぁ」
「ちょっ、冗談じゃねぇぞ!」
なにやら焦っている冒険者風の男へと向き直り、前に出る。軸足から砂塵が舞い、体が一瞬で加速する。闇を纏ったまま空間ごと薙ぐ。一足飛びの疾走切りは、しかし長剣に手ごたえを返さない。
「この速度、嬢ちゃん並かっ――」
背後から驚愕の声がする。横っ飛びに避けられたことは見えていた。タダの人間の癖に、凄まじい反射神経。どこか感嘆としながらも、アキヒコはその声に反応せずにそのまま勢いを利用して前に出る。少年には理解する必要もなく分かった。アレは脅威ではないと。ならば優先するべきことをやるだけだった。
「ちょ、おい坊主。そっち言ったぞ!」
すぐ目の前にあるのは天幕の入り口。そこへ向かい、問答無用で剣を叩きつける。天幕の布は雨露は防げても剣の刃は防げない。抵抗のようなものさえ感じさせず、天幕の布が切り裂かれた。そうして、剣を掲げて突入。獲物を探そうと視線をめぐらせたところで『避けろ!』と叫ぶマリスからの声にアキヒコは反応した。
青い光が視界を掠める。無理やりに真横に飛んだ体の横を、ゾッとするほどの何かが抜けていく。
(くそ、異世界めぇぇ!)
乾く喉の喘ぎを飲み込みながら、咄嗟にアキヒコは転がり続ける。通り過ぎたのは雷光。眩しい雷鳴が轟音に変わり煩いぐらいに耳朶を打っている。
「うわっ、避けたよあの人!?」
兵士用のそれとは違って広すぎる天幕の壁まで飛んだ少年は、すぐに体を跳ね上げて敵を見据える。そこには、執事服を纏ったまま放電した少年が居た。
少年といっても、高校生であったアキヒコと比較すれば大層小さい。小学生低学年ぐらいだろうか。背後に見目麗しい四人の女性陣を庇いながら、ナイト気取りで構えている。その頭部からは驚くべきことに二本の角を生やしていた。
『フヒヒ。珍しいの見つけたなぁ。ありゃ竜だ。それも、格は最上級で俺の首輪を運よく外したレアな奴だ。くくく、あんま眼を見るなよ。ちょっかいかけられ――』
ドォンと、砲弾でも受けたようなほどの圧力がアキヒコを襲い、世界が暗転した。
『ありゃ、遅かったか。しゃーないなぁ――』
場の停滞は一瞬。アキヒコにとってもそうだった。だが、気づけばすぐ目の前に立っていた竜らしい少年が天幕を突き破り外に吹き飛んでいく姿が見えた。
「嘘、レブレ!?」
『フヒヒ。よかったなぁ俺が憑いてて。あのちびっ子は当分動けないだろうぜ。それよりほれ、あの金髪のチビメイドだ。あいつはやべぇ。気をつけないと俺との繋がりを断たれるぞ。あいつはお前のヒロインを殺した奴と似たような力を使いやがるんだ』
「どうすればいい」
『そうだな。限界ギリギリまでやってみるか。体壊れるかもしれねぇが、いいかぁ』
「頼む。あいつを殺った奴はこの国に居るんだろ。だったら交戦しておくに越したことは無いし、あいつが皇女を護るんならどうにかするしかない。フヒヒ――」
『オーケイ。これで無理なら策でも弄するか素直に逃げろよぉ』
死んだような眼を更に虚ろにさせながら、アキヒコは激痛に耐えた。その体からは、今までよりも更に濃い闇が噴出し、同時に白煙を発していた。
その光景は、さすがにリリムにも信じられなかった。
「嘘、レブレ!?」
敵に啓示を使ったのは彼女にも理解できた。だが、敵はその状態で黒い光を放ってレブレを攻撃した。レブレの啓示は意識を繋げる。少なくとも、喰らえば無防備になる。なのに、敵にはそれが無かった。しかもそればかりか今、確かに天幕の布を突き破っていった子竜から血が飛び散ったように見えたことも驚きを助長する。レブレが傷ついた姿をリリムは二回しか見たことが無かったのだ。
一つはシュルトによるシャドウブレイド。そして二つ目は、ジャン・ルックバイトの攻撃だけだ。そう、今までは。
「……フヒヒ――」
見たこともない少年が、ゾッとするほどに暗い顔でなにやら小さな声で呟いた。かと思えば、更に不気味に笑っていた。全身に漂う闇は、天幕の中心に展開された明りの魔法の光さえも飲み込みながら揺らめいている。視線を外したら殺される。そんな危機感が、天幕の中を支配した。
「嘘、何アレ……力が分類できない。まるで城の結界と同じ――」
ライラがノルメリアとレイチェルを庇いながら、冷や汗混じりに呟く。リリムもその意見には同意だった。だが、逃げるわけにもいかない。一瞬だけ瞳を閉じ、マインドセット。すぐに意識を切り替え必要な自分を呼び覚ます。
「店長、二人をお願いね」
レイピアを抜いたライラの隣に立ちながら、ミスリルウィップを腰から外す。左手はナイフの柄を確認。いつでも抜けるようにしながら、劣化魔眼で睨むようにそれを見据える。
魔力でもなければ気でもないそれは、リリムの紅眼ではやはり見抜けない。考えても無駄だと理解した彼女は大きく息を吸い、オーラを展開。更に、ブーストエンチャントと魔力障壁を重ねて全力で警戒した。
天幕の下、頭上の明りに照らされる二人。リリムの紅眼と侵入者の黒瞳が交差し、互いに相手を見定める。武装をチェックし、行動を推定。戦闘方法を組み立てていく。
「貴方、まさか空元人?」
サキを覗けば、ナガノブとランしかリリムは知らない。けれど、顔立ちは大陸系ではなく明らかに空元人のそれに近い。その問いに、彼は隠す事無く告白した。まるで、呪詛を吐くように。
「いいや。俺は――」
長剣を両手でゆっくりと握り締め、その少年は上段に構えながら自嘲気味に言った。
「お前たちの被害者。召喚された異世界人さっ!」
「ッ――」
少年が動く。ただ前へ奔るだけの愚直な動きは、しかし段違いに速い。リリムは咄嗟にウィップにライトエンチャントを掛けながら手首を振るう。
光を帯びた鞭が苛烈に輝く。
間合いと攻撃速度を考えれば圧倒敵にリリムの方が有利。そしてその理は覆らない。暗黒の闇を打ち据えた光が出鼻を挫くかのように少年の胸元に触れ爆裂。轟音と共に天幕の中の大気を振るわせる。
「やりましたの?」
「まだよっ!」
粟立つような肌が少女に危機感を訴え続ける。凝らした魔眼の向う、それを見渡す瞳が少しばかり驚いた顔をした少年を見据えていた。
(やっば。全然効いてなさそう)
直撃はした。その感触を右手が確かに掴んでいる。だがそれだけだ。その手応えはシュルトやレブレの魔法障壁を叩いたときのそれに酷似している。その事実が訴えるのは、当たり前に威力が足りていないという確信。リリムは直ぐにライトエンチャントを解くと、腰元に戻し更に大きく呼吸する。
「すぅぅはぁぁぁ――」
リリムには対処法が分かっている。要するに力比べなのだ。破壊力が致命的に足りていないなら、更に破壊力がある一撃を叩き込むか、連打して耐え切れなくなるまで攻撃するしか術がない。
(魔法は論外ね。近すぎて私はともかく後ろの連中が邪魔。なら近づいて殴るしかないわけだけど……)
無事で済むかどうかの確信が持てない。だが、自分以外に前に出られそうな人間がいない。結局は腹を括るしかない。なら、それはするにしても希望を繋げるべきだった。
「生きてなさいよレブレ」
再度少年が動く前にリリムは右拳を振り上げ、思いっきり地面に軽く叩きつける。瞬間、純白の光が波のように広がり天幕を透過。強制的に触れた存在全てを浄化治癒する。これで負傷したかもしれない子竜が生きていれば戻ってこれる。一手布石を置きながら、左手で鞘からミスリルナイフを逆手に抜きつつに前に出た。
彼我の距離は三メートルも無い。リリムにとっては一瞬だ。煙の向うに突っ込み、瞬時に懐にもぐりこむと天幕の床側のシートを破る勢いで地面を蹴る。連動する体は止まらない。繰り出すはオーラをたっぷりと乗せた、気増演舞そのままの型。正拳突きにも似た打撃技。それに質量と膂力とオーラの破壊力を上乗せし、渾身の力で叩き込む。
「ガッ――」
(手ごたえアリ――)
障壁が抜けた。闇に光を随分と食われたが、その下の肉を強打した音が、確かに響く。骨を軋ませる感触。拳に残る気色悪い生々しさをそのままに、更にリリムは追撃に入る。
少年のどこかなよっちい体がくの字に曲がっている。その致命的な隙から立て直そうという反射行動はまるでない。文字通り悶絶した表情のまま、口元をパクパクと動かしている。奇妙な呆気なさを感じながらもリリムはナイフを握ったままの拳にオーラを凝縮し落ちてきた顎へと左拳で振り抜く。
少年の体は、今度こそ呆気なく後ろへと飛んだ。錐揉みしながら天幕の端にまで転がっていくその様は、どこか滑稽でさえある。だが、その体は剣を握ったままであった。剣が地面に叩きつけられる。天幕を突き抜ける前に運動エネルギーを殺し、膝をつく。
「ぐ、がっ……ひくしょう。異へかいのひょーひょはふよすぎる」
煙が張れる。その向う、下顎の肉がこそげ落とされた男がむき出しの歯茎をそのままに呟いていた。
「ひぃっ――」
ノルメリアが、悲鳴を上げる声が背中から聞こえた。リリムもそれに驚きはしたが、更にその次の異常の方で息を呑んだ。
白煙が上がっている。その下から、なにやら肉が盛り上がり凄まじい速度で再生していく。完治するのに数秒も掛からなかった。
「化け物……」
「心外だっての。光り輝くJCだかJSだか知らないけど、お前の方がよっぽど化け物じゃないか。普通の人間は光らないし、魔法的ななにかなんて使わないんだよ」
「あんた、まさか吸血鬼?」
「どうだろうな。どっちかといえばウィルス兵器か何かに近いんだけど、あんまり詳しくは聞いてないからなぁ」
剣を地面から抜いて立ち上がる。顔は今にも泣きそうな癖に、闘争心は不思議な程に衰えない。少年はもう一度上段に構え、不恰好なまますり足で近寄ってくる。と、そこへ入り口から様子を伺っていたケインが真横から強襲した。
「隙ありってな」
お手本のような袈裟切り。振り下ろされるバスタードソードは、刀身に刻まれた魔力文字を煌かせながらブレイドエンチャントに似た効果を発生させている。
無防備の頭部への一閃。しかし、その剣は届かない。
「ちょっ、全然効いてないとかありえねぇだろ!」
「あ、なんだ。さっきの人か」
闇に接触した刀身が激しく火花を散らしあう。その向うの少年は一瞬驚いた顔をするも、一言呟いただけでケインを視界から外してしまう。ケインが次々と切り込むも、完全に無視である。
「ケイン。お前役にたたんな。無視されているぞ」
「煩い。とっとと逃げろってんだお前ら」
「させないよ。少なくとも皇女の命は貰う」
「できると思ってんの」
もう一度殴り飛ばそうと考えていたリリムの眼前で、少年が剣を下ろす。そうして、その刃を左手で掴むと手を握り締めた。刃は当たり前のように手を切り裂き、掌から血を滲ませる。
滴り落ちる血がある。血を垂れ流す左手をギュッと握り締めると、少年が今度は右手一本で剣を構える。相変わらずの上段。しかし、拳を握った左手は体を捻るようにして右腰に構えられていた。それは酷く不恰好なのは間違いない。それ以前に、何の意味があるのかさえ分からない。魔力も気の流動もない。オーラショットのように纏っている何かを飛ばす可能性が一瞬脳裏に浮かぶが、それにしてはそういう気配さえ感じ取れない。
(何をするつもりか知らないけど、ようはさせなきゃいいんでしょ)
リリムの輝きが更に増す。ここ最近妙に調子がいいせいだろうか。自身でも分からないそれで、今までを遙かに凌駕する輝きを練り上げていく。求めるのは打ち負けないほどの威力。纏う聖浄気は正しくその意思を汲み取り、命の力を破壊力へと代えていく。
距離を詰めてくるということは、近接用であると推測できる。ならば、間合いの外から攻撃すればいい。彼我の距離は三メートルもない。リリムも、恐らくは相手にもそれは一瞬。だが、それでも間合いは圧倒的に上である。だからこそ確信が少女にはあった。
――内気魔法オーラショット。
この至近距離なら、飛び込むと同時にカウンターで先に攻撃できる。そう考え、拳を引こうとした瞬間、リリムの心臓が大きく跳ねた。
(あれ――)
違和感がある。致命的な失敗があるような。そんな違和感が。
その正体が何かは漠然としすぎていて、どうしようもない。けれど、リリムは人一倍悪意に敏感だった。それが起こると同時に、全力で自己防衛に奔った。体が崩れ落ちながら、全力で自分を護るべく力を行使。無秩序に力を自分に向ける。
「あ、gA、AA――」
声にならない悲鳴が漏れる。同時に、それを待っていただろう少年が左手を振るう。飛び散るのは血だった。一閃された腕から飛び散った血が、急に苦しみだしたリリムへと意識を向けられていた女性陣に降りかかる。
「終ったね。さよなら」
「嬢ちゃん!? ちっ、この野郎!」
少年はすぐに、入り口に向かう。再びケインが剣をたたきつけてくるが無視。そのまま押しのけるようにして外へ。更に集まってきていた兵士たちを飛び越えて西へと駆け抜けていく。
「逃がすもんですか。来て、イフリート!」
その背中を追って外に出たライラが、詠唱していた精霊魔法を行使。炎でできた二メートル程の巨人にも見える火の精霊を召喚。攻撃をけしかける。巨人はファイアを圧倒的に越える業火を掌から放ち、逃げる少年を炎で包もうとする。
だが、それに背中から浴びても逃げ切った。炎は地面だけを焼き焦がしただけで終わり、すぐに消える。役目を終えた精霊もすぐに消えた。ライラはそれを見て舌打ちする。それほどに早い逃げ足だった。
「くそ、街道方面に逃げたぞ!」
「追え追えー!」
兵たちが追っていくが、あの様子では追いつけそうにない。リリムが心配になったケインは追撃は彼らに任せてライラと共にテントに戻ることにする。
「しかしアレ、なんつう防御力だよ。魔物の障壁なんて目じゃねーぞあれ。全然減衰する気配がなかった」
「有効だったのはリリムの光だけね。でも、あの娘一体どうし……が、AGA……」
ライラが蹲り、胸を掻き毟るように仕草をする。
「お、おい? どうしたんだ!?」
「消えろつってんでしょうがぁぁぁぁ!!」
と、支えようとしたところでリリムの咆哮が天幕の中から響き渡った。同時に、白い光が天幕から広がっていく。一度見た光だが規模が違う。ケインは呆気に取られていた。光は天幕から広がって周囲を真昼のように照らし尽くしていくのだ。
まるで太陽のような輝きだ。目も眩むようなそれを浴びたケインは、呼吸を落ち着かせていくライラを見る。もう、胸を押さえるような仕草はなかった。
「はぁ、はぁ。どうやら、命拾いしたみたいね」
「何がどうなったんだよ」
「分からないわ。でも、昔魔物の毒を喰らった時みたいな感じだった」
「毒? あんた、攻撃喰らってなかっただろ」
「ええ。でも、さっき血を浴びたわ」
「アレか。俺は無視されてたから浴びなかったが……ふむ。嬢ちゃんも浴びてなかったように見えたが……体に殴って触ったか。んー、もしかして冒険者から届いた手紙の奴か」
「浄化魔法で直せるとかっていう奴? うわぁ、もしかしてあのままだと私も化け物になってたってことじゃないそれ」
「かもな。いやぁ、嬢ちゃんが居て助かったなマジで」
混乱はまだ続いているようだったが、侵入者の気配は周囲にはなさそうだ。ケインは一応天幕を確認すると、中には息を荒げる女性陣たちが居た。寝転がって大の字になっているリリムなどは、ビッショリと脂汗をかき、普段は浮かべないほどの壮絶な笑みを浮かべていた。
「じょ、嬢ちゃん? おい、大丈夫かよ」
「また死者の川を見たわ。ふふ、ふふふ。母さんは元気そうだったけど、何度もくるなって困り顔で言ってたわ。あのチェリーボーイ、次会ったら絶対に潰すわ」
「……」
何をとは聞けなかったケインは、無言でノルメリアとレイリーの無事を確認する。二人ともしばらくすると、呼吸も正常に戻った。そこで彼はふと一人居ないことに気がつく。
「なぁ、竜の坊主はどうなった」
「近くに居たら生きてると思うわ。居なきゃ多分死んでるわね。ちょっと見てきて。多分、あの穴の向う側にいると思うから」
「うーい」
ケインが確認に向かうとレブレは三件隣の天幕で横になっていた。執事服は胸元から千切れ飛び、完全に気絶していた。死んではいないようだったが、応急処置をしていただろう衛生兵は不気味そうに語る。
「あ、明らかに致命傷でしたが、周囲が光ったかと思えば傷が塞がってました」
「そうか。んー分かった。こいつ連れて行くが、内緒にしとけ。いいな? どうせ悪い夢だ」
「は、はい」
公爵から支給されていた外套が役に立った。権力に物を言わせて黙らせると、眠るレブレを肩に背負ってケインは天幕に戻る。
「おーい嬢ちゃん。坊主死にかけてたらしいぞ」
「生きてるならいいわ」
「多分嬢ちゃんのおかげだ」
「まったく、心配させといて気持ち良さそうにこいつは」
寝たままのレブレに毛布を被せ、軽くコツンと拳骨を落とす。
「ちょっと信じられないな。なんで嬢ちゃんより強い坊主がそんなになるんだ?」
「多分、相性なのよ」
「相性?」
「私はレブレには勝てないけど、レブレが勝てないシュレイダーを跪かせることはできる。多分、そういうことなのよ」
「訳分かんねぇって」
だが、窮地は脱したことだけは確かである。生きていれば勝ちなのだ。重要なのはリリムなら真正面から戦えるということ、そして浄化魔法に弱い化け物の話しの真偽である。
「店長さんよぉ。さっきの話しをしといてくれ。俺は公爵に報告してくる。それと、一応安全が確認されるまでは警戒しといてくれや」
「分かったわ」
天幕を出て、ケインは公爵に報告に向かう。出鱈目な奴らはこれだから嫌いだと、心底顔を顰めたままで。
――駆ける。
初めた時と同じように。
体は他人のものように軽く、信じられない程の性能を発揮していた。ただの帰宅部員が、世界新記録を容易く凌駕できるほどの走りを見せる。
誰も彼に追いつけない。阻むこともできない。闇の下で吐き出される白煙は、その代償として鈍痛のような痛みを彼に与える。だが、勝負に勝てたことが彼をわずかばかり救っていた。
少なくとも皇女は人間としてはこれで死んだはずだったから。
(後はこっちで制御すれば公爵も取れる。そればかりか、上手く使えば指導者層をまとめて潰せる。なら作戦は成功だ)
無理をした甲斐はあった。その成果にアキヒコは有頂天になっていた。痛快だったとも言えただろうか。
(フヒヒ。そうだ。あのメイドも使えるじゃないか。これなら楽に――)
『いや、失敗だなぁこりゃぁ。残念無念』
「は? なんで――」
背後で、夜闇が消えた。怖気の奔るような恐怖と共に、アキヒコは跳躍。包囲網を飛び越えながら一瞬だけ背後を振り返る。
暗い愉悦に染まっていた黒瞳が、その瞬間には見開かれた。
捉えたのは白。夜明けと間違いそうなほどの強烈な光が先ほど襲撃した方向から上がっている。それは、確かにあの異世界人のメイドが使っていた光に余りにも似ていた。
「――そういうことか。くそっ、ここは俺にとって理不尽過ぎるよ! どれだけ俺を弄べば気が済むんだ!」
無慈悲な白が、それだけで彼の決死の努力を無駄にした。分かったのはそれだけだ。その証拠に、メイドも皇女と思わしき最後尾に護られていた銀髪の少女も支配下に置けていない。感染が確認できない。
「マリス!」
『さぁな。アレは俺にもマジでわかんねぇ。フヒヒ。お前も見ただろ、あいつ俺の護りを抜きやった。こりゃぁ、そろそろ認めないといけねぇかもなぁ』
楽しそうに、だが同時に忌々しそうな声で魔神と呼ばれた彼が哂う。
『ありゃあ、『奇跡』っていうらしい。名前通りの代物ならそれこそ理不尽の塊に違いねぇぞ。フヒヒ。どうするよ平凡人』
「奇跡って、なんだその曖昧な言い方。もっと分かりやすく言えよ!」
『それより着地気をつけろよ。フヒヒ。おしゃべりは安全な場所まで言ってからしたほうがいいと思うぜ』
「ッ――」
眼下に迫る大地を睨みつけながら、着地。骨の軋みを無理やりに体内のウィルスで修復させながら、白煙と共に疾走を再開する。全身からの鈍痛は止まない。
それはまるで、カッターナイフで無理やり全身を切り刻まれ、敏感な神経を直接弄繰り回されるような痛み。軽減され、狂気に落ちてなおそれ程に痛い。凡人にとって出せる対価はそれこそ自分の奉げてこの程度。そう思うと、アキヒコは素直に泣きたくなった。
『迎えが来たぜ。ほら急げ急げ。今あのチビに追撃されたらお前死ぬぞ。今のお前じゃあいつには勝てねぇよ』
「ちくしょう。異世界メイドは日常担当か万能戦力かの二択がお約束だ。たまたま力手に入れた程度の脇役Aにぶつけるんじゃないっての。くそっ、これもドリームメイカーとか言う奴の仕込みじゃねーだろうな!?」
『おふ、それは考えてなかったぜい。そういう可能性も確かにあるのか。いや、でもだったら俺に気づくはずだし俺も気づく。うん。違うな。アレは違う。少なくともあいつがあんなあからさまな奴なわけがない。奴ならもっと捻ってくる』
「そうかよっ」
放たれてくる魔法の雨をかいくぐり、最後の人垣を飛び越える。その先には、馬に乗ってやってくる集団があった。バノスの軍の一部であり、今はアキヒコが掌握している回収部隊だ。その戦闘には、剣を掲げるロスベル辺境伯が居た。少年は追撃を振りきり合流を果たす。
「キング、無事で何よりですな」
「さっさと引くぞ。それと少し動きを変える」
「はっ。ご随意に」
投げ放たれた外套を受けとり、身に纏った彼は辺境伯の後ろに飛び乗って隊ごと離脱。すぐにこの場から立ち去った。




