第十話「切り札襲来」
――賢人暦114年4月18日。
突如として現れた魔物たちを退け、その後始末が終ったドルフシュテイン。その中でも一際大きな屋敷の庭の中、一人の少女がため息を零していた。
「はぁ……」
季節は春。そよぐ風に揺らされる髪留め代わりの白いリボンと同時に、銀色のポニーテールが揺れている。
少女はなにやらアンニュイな表情のまま両手で頬杖をつき、お気に入りの庭に突如として現れた剣と石柱に目をやった。景観をぶち壊すどころの話しではないが、少女はその妙なものを気に入ったらしくテーブルを移動させてよく鑑賞していた。
初めは見張りが置かれていたものの、触らなければ害のあるものではないという判断から放置されていた。少女もこっそりと近づき、試しに触れてみると体に一度目は暴風を。二度目は電撃のような何かに遮られ庭先に転がされた。その際、大層大きな悲鳴を上げてしまい不覚にも父親から叱られてしまったことは記憶にも新しい。。
だが彼女は諦めずにその日からそれの監視を始めた。屋敷は今現在厳戒態勢が引かれ、どこもかしこも見張りの兵士たちで溢れかえっている。いつもは相手をしてくれる武装メイドもいないせいか、とても退屈。部屋の中に篭るのは一日で飽きている。そんな彼女に残されたのは、たった一つの希望だけだった。
「早くここへ来て下さらないかしら」
彼女は先日母を失って以来、ずっと会った事もない人物について考えていた。あの日、魔物の大侵攻とやらの中現れたという魔法使い。その人物についての噂は、すでに街中に広がって久しい。噂話に目が無いメイドたちや、時折兵士たちが囁いている市中の噂を聞くにつれ、彼女はやがて一つの結論に達していた。
魔物に襲われた少女の前に颯爽と現れ、強力な魔法で道を切り開いたその魔法使いは、真実魔物の軍勢をなぎ払ったのだと。しかもその人物は黒髪の少女と竜を派遣し、賊に誘拐されそうになっていた自分を助けさせ、帰りは竜に乗って帰ったらしいのである。そんなことができそうな魔法使いを、彼女は二人しか知らない。
一人は大昔の賢人。発明家にして魔法使いにして規格統一魔。あらゆるジャンルを網羅し、その全てに影響を与えたとされる歴史的偉人だ。だがその人物はもう歴史の闇に消えて久しい。ならばそう、もう一人はリングルベル魔法学園の永久名誉顧問しか彼女には考えられない。
「嗚呼、きっとこれは運命なのですわ」
異世界から呼ばれ、その絶大なる魔力で彼の王国を救い、それだけではなく魔法を伝道してリングルベルでの女性たちの地位を大きく向上させたというその男。彼は今現在行方不明であるという。ならば別段、ひょっこりと世界中を巡って人知れず魔物たちと戦っていても可笑しくは無い。勿論、その過程で竜を使役していたとしてもまったく微塵も不思議ではない。想像は飛躍し、装飾過多な要素をこれでもかと捏造していく。
「きっと魔法の叡智で不老なのよ。それでそれで、次の才能ある弟子候補を探してるんだわ。そうよ、もしかしたら賢人様の生まれ変わりだということも!」
思春期の妄想は膨らむばかりだ。彼女の中では、その偉大なる魔法使いは無口で美形で無愛想だが、慈愛に溢れ困った人は放っておけない正義感のある男だった。その手には樹齢千年を優に超える神木から切り出した杖を持ち、着古した外套で顔を隠しながら日夜人知れず世界のために戦っている無敵の魔法使い。それが、少女の思い描くリングルベル王国魔法学園の永久名誉顧問。シュルト・レイセン・ハウダー像であった。
当たり前だがそんな人物はこの世界のどこにも存在はしない。本物は若い処女ならば助け、そうでなければ適当にスルーし、日夜花嫁の心を動かそうと空回りしている残念な吸血鬼だ。だがそうとは知らないこの少女――公爵令嬢ノルメリアは妄想をただただ加速させていた。
「わたくしを助けてくれたのだってそう。いつかお迎えに来て下さるために違いないわ。きっと、魔法学園に願書をこっそりと出したことを知っていらっしゃったのね」
だが生憎と、熱意だけはあった彼女を魔法学園は留学生として受け入れてはくれなかった。元々国内貴族の才女だけが集められた学園であるから当然だ。入学の夢を断たれた彼女は、しかたなくあのカオス画伯に父親のコネで魔法学園の制服に似た服をデザインしてもらい、ドワーフの武器屋でミスリルの杖まで用意して貰っていた。それでレンドールは諦めたのかと思っていたが、まだ狙っていたのであった。彼女が狙っているのはなんと、より難度が高そうな直接のスカウトである。
「あの剣はきっと目印。いいえ、もしかしたら私を試しているのかもしれませんわね。嗚呼、いつになったら抜ける日が来るのかしら――」
少女の妄想は続く。これから始まるという戦争で、仇を取るために自分が最強の魔法使いになる夢を。と、そんなことを考えていた彼女が紅茶のカップを手に取った瞬間、四人と二頭がいきなり剣の前に現れた。
「ぶふぅっ――」
「ぬわっ」
ティータイムを彩るはずの液体は、庭に見事なアーチを描いた。テーブルに置かれていたクッキーの山に降り注ぎながら麗らかな春の日差しの向うに消えていく。一瞬煌いた虹は、それなりに美しかった。だが途端、ノルメリアは咽ながらもやり直しを要求した。
「えほ、えほっ。ちょ、タイム。タイムですわ! 今のシーンをもう一回やり直させて下さいませっ」
意中の相手は魔法使いである。当然、優雅なティータイムを過ごしながら魔法使いに送られた少女の念をキャッチし、なんだか凄い魔法で様子を伺っていたかもしれない。だというのに、はしたなく芸人もかくやというレベルの水芸のご披露だ。これはエレガントではない。粉雪のように白い顔を真っ赤に染めながら、妄想の向こう側の相手にやり直しを要求する。
と、そんな彼女の妄想など知らずに、レブレの転移で現れるなり紅茶を吹きかけられた男は魔法を詠唱。浄化しながら気安くも謝罪した。
「よぉメリア嬢ちゃん。そんなに驚いたのか? 悪いな脅かして」
「あ、貴方は冒険者のケイン某!?」
「ケインだけで呼べよ。いい加減俺の名前を覚えろっての」
「ふふ。この機会にお前は正式にケイン・セクハランクと名乗れ。良い機会じゃないか」
「どんな機会だどんな」
「レイリーお姉様!」
ガタリッと椅子から立ち上がると、現れた武装メイドに向かってノルメリアが駆け出す。そこには、感動の再開を演出して今の失態を帳消しにしようという打算染みた笑顔があった。
「ふふっ。どうしたノルメリア。今日はやけに作り笑顔が完璧じゃないか」
「お姉様には敵いませんわ。嗚呼、お姉様がいないせいでどれだけ私が退屈だったことか!」
目頭に溢れんばかりの涙を浮かべ、ノルメリアが言い募る。そこから始まるだろう愚痴を前に、メイドは思い出したかのように馬の手綱を引いた。
「おっと、すまん。ドナドナとドドンガを戻してこなければいけない。先に、ケインたちを公爵様の所に連れて行ってくれないか」
「え、ええ。それは構いませんが。お姉様はどこに行ってきたのですか。父も内緒の一点張りで、誰も教えては下さらなかったのです」
「極秘任務という奴だ。詳しくは言えないが、とにかく極秘でな。後でこっそり教えてやろう」
「楽しみにしておりますね。ところで……そちらの方々は何をしてらっしゃるのかしら」
荷物が詰まっただろうリュックを背負う金髪少女と、緑髪の少年。二人は自己紹介もせずに地面に埋まった剣を前に何事かをヒソヒソと話し合っていた。
「うん? んとね、ちょっと試しにこれを抜いて貰おうかなってね」
「そんな無理ですわ。それは普通の人に抜けるものではありませんのよ」
「うん。だから抜けるだろうリリムにやらせるんだよ」
「……はい?」
それは、その言い方は、何やらその少女なら抜けるという確信が込められているようで、ノルメリアは一瞬言葉を失った。それも当然だっただろう。何せ、彼女にとってはそれは自分のための剣なのだ。
「あのねぇ、なんで私がそれに触らないといけないのよ」
「いいからいいから。ものは試しに抜いてみてよ。封印解くからさ」
「ふ、封印?」
ノルメリアの眼前で、少年が何やら両手で印を切る。すると、そこにあった石柱が一斉に砕け散った。ノルメリアはその瞬間、声無き悲鳴を上げた。
「何をする気だ竜の坊主」
「だから、リリムに抜かせるんだって。ほらほら。早く抜いてよぉ。でないと僕、レイリーを食べちゃうぞぉ」
両手を広げ、少年が威嚇するようにがおがお言う。途端、ドナドナが悲鳴を上げて駆け出し、手綱を握っていたレイリーを引っ張っていく。
「おわっ、またお前は。ええいドナドナ落ち着け。どうどうーう」
「しょうがないわね。なんだか知らないけど抜けばいいんでしょ抜けば。でも人様を脅すのは止めなさい」
「あたっ」
遠ざかっていく武装メイドを尻目に、教育的指導をする少女。そのリリムと呼ばれた少女がおもむろに地面へと突き刺さったままの剣に手を伸ばす。そうして、柄を握り締めるや否やまるでカブでも抜くかのような気軽さでそれを抜いた。
「どっこいしょっと」
「なんて美しくない掛け声! しかもそれでさも当然のように抜きやがるなんて!?」
陽光を浴びる刃は、土の汚れも感じさせないほどに眩しく輝く。その純白の刀身は、見る者の心に確かな力と言葉にできない何かを囁いてくる。リリムに詰め寄ろうとしていたノルメリアは不覚にもそれに見惚れてしまう。
「なんて綺麗な……」
「もういいでしょ」
だというのに、抜き去った少女は何も感じていないらしく刀身を再び地面に突き刺す。すると、不思議なことに勝手に刀身がまた地面に命一杯沈み込んだ。ノルメリアは呆気にとられながらもそれを見てすぐに駆け寄る。
「チャンス到来ですわ!!」
封印が解けたのならチャンスとばかりに自らその剣に近寄り、少女に続けとばかりに両手で柄を握り締める。だが――、
「ひぎゃっ!?」
彼女は雲も無い晴天の空から落ちてきた雷に撃たれて気絶した。最後にノルメリアが見たのは、びっくりして駆け寄ってきた金髪少女が、何故か真っ白に光り輝いている姿だった。
「ちょっとー! いきなり死にかけてるんだけど!?」
「凄い防衛反応だったね。邪念一杯だったんだきっと」
「ああもう!」
倒れた少女ノルメリアに向かって、リリムは奇跡を行使。一瞬だけ庭の片隅を光で照らす。すると、今にも死にそうな顔をしていた少女の顔が穏やかになった。
「なんか今にも天に召されそうな顔してるんだが。まさか止めを刺したんじゃないだろうな嬢ちゃん」
「失礼ね。ギリギリで呼び戻しただけよ……多分」
「こいつはおっさんの娘なんだ。一応は気を使ってやってくれ。ちょっとアレだが」
呼吸と脈があるのを確認していたケインが、安堵のため息を吐く。するとそこへ、落雷に気づいた兵士たちが様子を見にやってくる。なにやらその手は剣の柄を握っており、ケインの姿を見るや否や躊躇無く剣を抜いた。
「ふ、不審人物だ!」
「ノルメリア様が暗殺されたぞ!?」
「なにぃぃ!? ちょ、待てよ。よく見ろ生きてるだろうが!」
屋敷中に響く声を前にして、ケインが近寄ってくる警備兵に無実を訴える。だが、彼らはケインを知らないのか、続々と周りに集まっては逃げ道を塞ぐかのように包囲網を形成する。
現在、諸般の事情によりこのレンドール公爵の屋敷の警備レベルが上がっていた。猫の子一匹逃さない程に徹底した警備が要求されており、現場の人間はピリピリしていたのだ。そこに公爵の一人娘暗殺疑惑である。両手を挙げて無実を訴えるケインなど無視して、彼らは職務に邁進した。と、そこへレイリーが急ぎ足で戻ってくるのが見えたケインはすぐさま助けを求める。
「おいレイリー。こいつらをどうにかしてくれ」
「ケイン。お前まさか私だけでは飽き足らずにノルメリアまで……このロリコンめ!」
「ちょっと待て。俺はお前にも何もしちゃいない。運ぶときにちょっと接触したが、それだけだろうがよ」
「ふっ、男は皆そういうのだ。ピーチやパイの一つや二つとな。おい、お前たち。こいつを牢屋に連れて行け。尋問は後で私が直々にする」
「「「了解!」」」
「ちょ、おいレイリィィ!?」
警備兵たちが突撃し、ケインを逮捕。悪態をつく彼を連行していく。
「やはり男など信用できんな。リリムは大丈夫だったか。奴も所詮は男。性犯罪者予備軍だ。隙を見せたらやられる。気をつけろよ」
「大丈夫も何も、彼は何もしてないわよ。勝手にその子がそこの剣握って雷に撃たれただけだもの」
「ふっ。私は信じていたぞケイン」
青空に向かって呟きながら、レイリーは今しがた出した命令を取り消した。
「おお、よく来てくれたリリムちゃん」
仕事に追われていたレンドール公爵は、ドッと老けたような顔に強引に笑顔を乗せてリリムたちを迎えた。
「偶々よ偶々」
「それでも十分にありがたい。それで、そちらの少年は?」
「この子はレブレ。一応今は人間の格好をしてるけど立派な竜よ」
「ほぉぉ、それはそれは頼もしいことだ。よろしく頼むぞ少年」
「うん。報酬貰うためにがんばるよぉ」
「はっはっは。できうる限り奮発することを約束しよう」
お国の大事である。当然、報いるべき用意が公爵にもあった。
「公爵、その竜の要望は私らしいぞ。なんでも、食べたいそうだ」
「は?」
胸を張り、さもなんでもないように言うレイリーに、公爵が一瞬言葉を無くす。当然、彼は目頭を押さえて聞き返す。
「ケイン。今のは私の聞き間違いかね」
「いや、どうもこいつすげぇ美味そうらしい。メリア嬢ちゃんとかもヤバイかもな」
「んー、あの子もおいしそうだね。レイリーと同じ位美味しそうだったよ。でもどれだけ美味しそうでもさ、一人二人じゃ大してお腹一杯にはならないよぉ」
何せ本性は十二メートル越えの竜である。
「……リリムちゃん」
「レブレ、せめて別のにしなさい。お腹壊すって言ってるでしょ」
「んー、じゃあ二つぐらい要求しちゃおうかな」
「は、ははは。今度は、できれば人以外にしてくれるとありがたいな」
初めに無理なことを言っておいて、譲歩した姿勢を見せて要求を通す。ポピュラーな交渉術ではあるが、まさかそれを竜にされると思わなかった公爵は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「どうしようっかなぁ。ねぇねぇおじさん。終った後がいい? それとも今言った方がいい?」
ニコニコと笑う少年は可愛い顔をして容赦しない。公爵は冷や汗をかくと同時に理解した。相手は冒険者でもなければ人間でもないのである。既存の報酬、言うなれば俗なモノで満足する可能性は低い。
「そうだなぁ。終った後で無理難題を言われてしまっては叶えられないかもしれない。できれば今がありがたいな」
「わかった。じゃあ言うね」
レブレは無邪気にも要求する。
「一つは空元と完全に対等な形で軍事的、通商的条約を結ぶこと。領土確定の周知もセットでお願いね。二つ目は僕たちが西の大山脈を攻める時にはこの国が全面的にバックアップすること。報酬はこの二つでいいよ。勝った後の公爵なら簡単に用意できると思うけど……どうかな。用意できそう?」
「ふーむ」
問いかけに少しばかり考えながら、公爵は内心で首を傾げていた。どちらも俗な要求とは程遠く、また竜が考えるだろう案件を越えているからである。そればかりか、一緒に来たはずのリリムでさえ驚いていることがひっかかった。
「……ちなみに聞きたいのだが、その報酬を用意できなければ?」
「僕はリリムを連れて帰るよ。用が無いなら居る意味がないもんね」
「リリムちゃんもそのつもりかね」
「そうねぇ。正直、要求するものが無かったから別に私はお金でもなんでもいいんだけどね。こいつがいないなら私だけだと無意味だろうから帰るわ」
「というか、仮にリリムだけここに置いていくとすっごく都合が悪くなるのはそっちだと思うな。そうするなら覚悟してね。おっかない人が出てくると思うから」
「うげっ」
思い当たることがあるのか、ケインが額に手をやった。直々におっかない人物によって依頼を遂行させられている身としては笑えないのである。
「あの旦那か。やべぇな。確かにあいつはやべぇ。何せ眼が笑ってなかったし冗談みたいなことを平然とした顔で言いやがる。係わり合いになりたくないタイプだ」
「心当たりでもあるのかね」
「……シュルト・レイセン・ハウダーだよ。あの永久顧問、公爵が嬢ちゃんに手を出さないかどうか、俺に見張れって依頼出しやがった。ほとんど強制でな。浮気調査兼護衛依頼なんてのは俺、初めて受けたぞ」
「な――」
「なんですってぇぇぇ!?」
バタンッとドアを押しのけ、ノルメリアが突入してきた。おかげで聞きそびれた公爵は呆れ混じりの視線を娘に送る。しかし、彼女はそんな視線など意に返さずにケインに向かって突撃した。
「あの方とお会いになられたのですか!? というか何故お招きしなかったのですかケイン某!」
「い、いやそう言われてもな。あいつ全然来る気なんて無かったぞ。寧ろ、公爵を暗殺しに行きそうな勢いだったんだ。後、俺はケインだ。某をつけるな」
「はあ!?」
これにはさすがに公爵も驚くしかない。狙われる理由がとんと分からないのだから当然である。だが頭を抱えているのはケインだけではない。リリムまでもが「あの馬鹿ならやりそう」などと呟くのだ。
「待ちたまえ。何故、噂の永久名誉顧問が私の暗殺など考えるのだね。私はその彼とは会ったこともないのだよ」
「だから、そこの嬢ちゃんだよ。これから戦いに巻き込むってわけだろ。嬢ちゃんを嫁扱いしているあの旦那からすれば、そいつは全然面白くないわけだ。なんつーか、ジェラシー?」
「な――」
「なんですってぇぇぇ!?」
またも公爵の言葉を遮って、ノルメリアが絶叫する。さすがの我慢の限界を超えたのか、少女はケインの外套を掴むや否や揺さぶってくる。
「どどど、どういう意味ですかそれは!?」
「レイリー。抑えておいてくれ。話しが進まん」
「しょうがないな。ムクれた顔も可愛いが、さすがにTPOは弁えなければな」
「むがっ――」
ケインを詰っていた少女は背後から羽交い絞めされると同時に、口を塞がれる。なおも言い募ろうとするが、フガフガとしか聞こえない。そこにはもはや、お高貴な貴族令嬢としての姿はなかった。
「よし。私たちに気にせず続けろ」
「それはいいけど。なんでその娘はシュレイダーに反応するのよ」
「娘はどうも永久名誉顧問のファンなのだ。小さい頃に魔法淑女隊のことを聞いて以来、弟子入りすると言って聞かんのだ。最近は大人しくなったと思っていたのだが……」
「フガ、フガガガフガ――」
「見ての通りだ」
「ふぅん。あいつのどこがいいのかしらね。ぜんっぜん分からないわ。確かに尽くしそうではあるけれど……」
言われずとも家事を手伝い、大金を家に入れる。便利ではあるが、奴は血をペロペロしたがるのである。よほど性癖がアレでなければ理解できない男なのだ。
「リリム。君はどうやら彼の価値をよく分かっていないようだな。仮にだが、各国の王侯貴族が彼を迎え入れられるならば、喜んで娘の一人や二人は差し出すぞ」
「いや、嘘でしょそれ」
「さすがに言いすぎだと私も思うが、今ならば国賓待遇で迎えてもおかしくはないよ」
何せその魔法知識がパワーバランスを崩す。接待攻勢は当然として、取れうる限りの手を打つだろう。公爵とて、金で動いてくれるなら大金をはたいても雇いたいほどなのだ。
「だとしても、よ。来る気の無い奴の話しをしても無駄よ無駄」
「来たら不味いという話しだったような気がするが……まぁいい。大体は理解したよ。しかし、そうなるとどうする。戦に連れて行くわけにもいかんだろう」
「それは気にしないでいいよ。リリムは僕の上に乗ってるだけでいいからさ」
「レブレ?」
「相手がただの人間なら僕を止めるなんて不可能だよ。空飛んで高高度からブレスを吐けばいいだけだもん。問題があるとすれば、召喚された英雄が僕より強いかどうかだ」
「頼もしい言葉だな。よし、私も腹を括ろう」
「あれれ? 考える時間は要らないの」
「必要ないよ。ただし、勝てなければ報酬は出さないぞ」
「オッケー。商談成立だね」
トコトコと執務机に向かうと、レブレが手を差し出す。公爵はその意味に気がつくと、その小さな手を握った。更に握手しながら上下に揺らし紳士的握手<シェイクハンド>で応える。
(驚きはしたが、これならまだ妥協できる範囲だろう)
公爵には約束を違える気はなかった。空元の一件は、領内での不穏な動きに頭を痛めていた彼としても相手国に対しての誠意として示すことができるものと考えればそれほど難しいものではない。加えて、大陸とは違う文化のせいで最近では色々と輸出入も増えていることをよく理解していた。戦争がしたいわけでもない彼からすれば、この案件はそれほど抵抗はないし、他の諸侯が別段難癖をつけてくることはない。東側で港を持っている貴族は少なくないのだ。空元と距離的に一番近いのはグリーズ帝国。正式な条約を結べば貿易も活発化する。つまりは、金回りがよくなる。
問題があるとすれば二件目だが、こちらは結果を出せば引っ込む。レブレたちが英雄となれば、その望みを叶えるという名目が使えるし山脈は魔物は帝国臣民にとっては大敵である。例年の大侵攻での出費も馬鹿にならず、今の帝都間近の防衛線を元に戻すことも必要だ。急には無理でも、戦は必要なのである。それに『僕たち』とレブレが言った。つまり、シュルト・レイセン・ハウダーも動くということを示唆している。それならばまだ妥協できた。長年山脈の魔物に悩まされてきた帝国としては心強い味方になりえるのだから。
「さて、もうそろそろ昼食時だ。また後で時間を空けるからそれまではゆっくりしていてくれ。レイリー、二人の部屋を用意してくれ」
「あ、僕はリリムと同室でお願いね」
「なんでよ」
「安全対策さ。僕の目の届く範囲に居てくれないと、不測の事態には対応できないじゃないか」
「それなら俺も近い場所に部屋を頼むわ。一応護衛しとかなきゃ怖い旦那が奇襲して来るかもしれねぇからよ。特に夜がやべぇ」
「あー、あいつ夜は強いからなぁ」
主に吸血鬼の生体的な意味で。
「そ、そうかね。了解だ。レイリーその方向で頼む」
「分かった。それでは公爵様。娘の躾けはお任せします」
「ぷはっ――」
ようやく開放されたノルメリアが恨みがましい眼でメイドを見据え、次にリリムを見た。
「ふふ、ふふふ。貴女、名前はなんて言うのかしら」
「リリムだけど……何よ」
「リリム……リリムね。しっかりと覚えたわその名前。わたくし貴女のことをライバルとして認めてあげましてよリリム某!」
指を突きつけ、決意に燃える瞳で銀髪少女が宣戦を布告する。対する金髪少女はといえば、「どうすんのよこれ」とばかりに余所見をするが、誰も彼もが首を横に振るばかりだった。唯一の例外はレブレだけだ。けれどこちらはこちらで援軍にさえならないだろう。何せ面白そうな顔でわくわくしているだけなのだから。
「えーと、つまりは具体的にどうしたいわけ?」
「決まっているでしょう。まずは――」
「まずは?」
「わたくしとお友達から始めなさいな!」
「……なぬ?」
レイリーに部屋に案内されたリリムは、ひとまず用意された昼食に手をつけようとしてレブレに邪魔された。突き刺したフォークの先にあるジューシーなお肉が、横から大口を空けた子竜の口に攫われたのである。
「一応、拳骨する前に聞いてあげるけど何してんのあんた」
「毒見だよ毒見。これからリリムはいつ毒殺されても可笑しくないんだからね」
「……マジで言ってんの?」
「当然じゃないか。夜は当たり前のように暗殺者の襲来に怯え、昼は昼で通り魔を警戒。兵士もレイリーも公爵の姿をした人物も、或いは僕だって変装した誰かかもしれないんだから、これからは全てを疑ってかからなきゃいけない。そんな場所に来たんだよ君は」
貴族様のセレブな昼食を楽しみにしていたリリムは、その言葉に思わず手を止めた。毒なんて、庶民にとっては完全に向こう岸の言葉だ。日常生活で使うこともなければ、使われたこともない。根本的に発想してさえいなかった。
「大体、この前の騒動で君を見た兵士はそれなりにいるんでしょ? だったら、当然スパイとして潜り込んでる奴は君を狙うよ。あ、そうだ。勿論弓矢にも気をつけてよね」
「ちょっと、嫌なこと思い出させないでよ」
正直に言えば、お腹を刺されるは首を射られるはでドルフシュテインには良い思い出など一つも無い。その上毒まで加わるかもしれないとなれば、安心して生活さえできない。それでも来たのは、レブレにがんばらせれば良いと考えたからである。そう、リリムはレブレが来ないなら来なかったのだ。
そもそも、一人で戦争の行方を左右しようという方が馬鹿げている発想だ。リリムは自分がそんなことができないと信じきっている。それが普通の少女の現実なのだ。だが、幸か不幸かそれができるのが周りに二人いた。
言わずもがなシュルトとレブレだ。シュルトはリリムとセットならほとんど無尽蔵に魔力を回復できる。そしてあのえげつない影を展開すれば普通の人間にはまず対処できない。そして距離をとっての魔法戦になればそれこそ彼の思う壺だ。最も得意な手段で戦えるので、ある意味今の人間の天敵のような男だろう。
そしてレブレはレブレで魔法障壁を張り、ただ戦場を駆け抜けるだけで人間にはひとたまりも無い質量を持つ戦車になれる。それどころか、子竜は空を飛んで上空からブレスで攻撃できる。戦争に詳しくない元娼婦にだって、それがどれだけのアドバンテージになるかは想像に難くない。
レイリーやケインが来たあの日、見捨てたくはないと何とはなしに彼女は思った。だがそれは当然、自分だけでどうにかできないと考え破棄した考えだったのである。しかしその流れをレブレが変えたのだ。
(結局、こいつの存在が私を楽観させたってことなのよねぇ。ここまで来たらもう今更後には引けないし……はぁ。それもこれも全部ケインのせいだわ)
所詮リリムは平民である。お偉方の政治をどうこう言う知識も無ければ何が正しいのかさえ知らない。だが、ケインの存在がどうにもあの一人と一頭をリリムに思い出させてしょうがなかった。公爵への義理は確かに果たした。しかし彼らに何かを返せたかどうかは別の話しなのだ。それも結局は心の問題でしかないのだが、そのせいで余計な苦労を背負いそうである。少女はもうため息しかでなかった。
「本当、こんなのはもうコレっきりにしたいわ」
「んー、それはもう無理じゃないかなぁ」
ヒョイヒョイとおかずを口に放り込む少年は、リリムの昼食を削りながらそうのたまう。その上で更に続ける。
「あ、それと器やフォークに直接毒が塗られてる場合があるからそっちも警戒してよ」
「ああもうっ!」
苛立ち紛れに奇跡を行使。部屋を閉め切っていることを理由に部屋全てを浄化。そして自分の料理とレブレの料理を取り替える。
「これで文句無いわね!」
「うわーん。アリアリだよぉ。僕のお肉が減ったじゃないかー!」
「それ元々私のじゃん」
「でもでも、こんなんじゃ僕には足りないよぉ」
お上品な食卓は、やはりというべきかボリュームに欠けている。グーグーと鳴る腹は正直、聞いていて鬱陶しいほどに飢えを訴えてくる。
「まったく、しょうがないわね」
ちょっとだけ切り分けて分けてやると現金なもので、子竜は嬉しそうに肉を頬張る。
「そういえばあんた、いつも夕方はどっかで狩りしてたもんね」
「うん。人間の姿で燃費よくしててもやっぱり足りないんだもん」
「それも公爵にいっとけば? 食べ放題は無理でも、五人前ぐらいは融通してくれるんじゃない」
「えー、食べ放題がいいよぉ」
我慢する気は毛頭ないらしい。リリムは自身も食事を初めながら、ふと尋ねるべきことを思い出す。
「そういえば報酬の件。山脈攻めを手伝えって言うのは分かるんだけど、空元はどうしてよ」
「少し前まで僕が向うにちょくちょく遊びに行ってたのは知ってるでしょ。それ関係だよ。なんていうかなぁ。そっちの方が後々都合が良さそうだからね」
「都合ねぇ……」
そのうちサキも帰郷することを考えれば、確かに国同士が仲良くしていた方がいいかもしれない。けれど、少女にはそれがどう都合が良いのか分からなかった。そもそも、この目の前に居る子竜が何を考えているかなんてリリムには分からないのだ。
思い起こせばこの一年、リリムはシュルトを注視することはあっても、レブレに関心を抱いたことはあまりない。分かったことは食い意地と圧倒的な身体能力、そして希少で面白い人間が好きらしいということぐらい。その『面白い』の枠組みに自分がカテゴリーされていることに関しては、勿論リリムも物申したいところではある。けれどそれを除いてもこれまで食以外の物事に関して子竜がプッシュしたことは少なかった。
確かに、曰くつきの刀を求めたり空元の面白い人間に会いに行くことはあった。けれどそれは結局は個人で完結する程度のことでしかない。今回のように国と国を繋げるような大それたことに踏み込もうという姿は無かったのである。
「あんた、もしかして何か企んでるわけ?」
「それなりにね。そうそう、その一環になると思うけど、空元に天帝っていう偉い人がいるんだ。そのうちリリムに紹介するね」
「偉い人ねぇ。正直、これ以上の面倒ごとは嫌よ私」
「だからそのうちなのさ。流れに身を任せていけば必ず巡りあう。何れ分かるよ」
「訳分かんないっての」
「リリムはそれでいいと思うよ。君はまだ知る必要がないのだ! もぐもぐ」
「……どうでもいいけど。それより今の問題はアレよアレ」
「うーんアレかぁ」
「そうよ。あの某令嬢よ」
二人して部屋のドアの向うへと視線を向ける。すると、いつの間にか部屋を除き見る二対の視線がそこにはあった。下には間違いなくノルメリア。その上には武装メイドらしき人物の眼がある。
スパイごっこでもしているのか、それとも何か話しでもあるのか。少なくともメイドはともかくとして、公爵令嬢も見つかった事に気づいていながらリリムたちの様子を伺っている。
「そこはお友達って言ってあげなきゃ可哀相だよぉ」
「嫌よ面倒臭い」
瞬間、ガタガタッとドアの辺りから地団駄を踏むような音が聞こえてくる。食事を再開しようとしていたリリムは胡乱下に視線を向ける。そうして、妙な魔力の流れがあることに気づいた。シュルト程ではないが、リリムの眼は花嫁化の影響で劣化魔眼と化しているから気づいたのだ。
「……まさか『集音』?」
「何それ」
「賢人魔法で、普通は耳が遠くなったときに使う奴よ」
「ああ、それだったんだ。害は無さそうだから放っておいたけど」
ガタゴトガタ。
「別にそんなことしなくても入ってお話しすればいいのに。人間ってやっぱり変だよねー」
「どうせケインがなんとかするでしょ。あいつ護衛なんだから、不審人物は排除ぐらいはしてくれるはずよ」
「誰が不審人物ですの!?」
ズバァンと扉を開けて公爵令嬢が颯爽登場。その手にあるのは彼女の身長よりも大きな金属製の杖である。何やら着替えたようで、仕立ての良い紺色の服を着て、その上から真っ黒なマントを羽織っていた。
「あ、それ一時期流行した魔法淑女隊の隊服もどきね。懐かしいわねそれ」
かつてのオプション料金請求品であり、賢人が生み出したハイセンスな制服ファッションの一つだ。今では賢人ファッションと呼ばれ、ウェイトレスの制服だの学生服だの水着だのと今では定番になったが、当時は余りに進みすぎて賛否両論になった制服の一つである。
「貴族様もごっこ遊びするのね」
「ち・が・い・ま・す! これはかの魔法学園の制服を模してカオス画伯がアレンジした世界に一つしかない戦闘服ですわ!」
「カオス画伯って……あの?」
「そう、今年のコンクールで最優秀賞を受賞したというあの! あのカオス画伯ですわ!」
「そういえば、デザイナーでもあるんだっけ」
リリムは去年、シュルトの受けた依頼で出会った老人を思い出す。結局はシュルト以外がモデルにされ、吸血鬼は一人寂しく隅でデッサン画を眺めていた。終った後でプライベートビーチでの遅いバカンスを楽しめたので、機嫌を直してはいたが。
「それで、そんなの着てきてどういうつもりよ」
「決まっているでしょう!」
「……メイドの毒牙にでもかかるの?」
「失敬なことを言うな君は。私は愛でて良い者と悪い者の区別ぐらいつける。無論、ノルメリアは可愛がってはいるが、まだ食べていないぞ。ハァハァ……」
「食べるな。そして息を荒げるな」
公爵の屋敷はとんだ魔窟である。
「これは今後の楽しみなのだ。もう少し、もう少しなのだ」
「勝手に乳繰り合ってなさいっての。ほらほら。食事の邪魔するなら帰って頂戴」
ぞんざいに犬猫を追い払うような仕草で迎撃。食事の続きにリリムは戻る。けれどそんなことで諦めるノルメリアではない。勝手に空いた椅子に座ると、パンパンと手を叩いた。すると、廊下から別のメイドたちが現れ食事を並べ始めた。どうやらさも当然のように混ざるつもりらしかった。
「ふふふ。どうかしら屋敷のコックの腕前は」
「いいんじゃないの」
「でも量が足りないよ。僕だけ後十人前追加してくれない?」
「むっ、そうか。すぐに用意させよう」
今度はレイリーが手を叩き、若いメイドを呼び寄せ、なにやら耳元で囁く。すると、何故か顔を紅く染めたメイドがそそくさと去っていった。
「真性なのね。真性なんだわこのメイド。なんでこう私の周りには変態しか寄ってこないのかなぁ」
吸血鬼を筆頭に、人生に変態が常に付きまとう運命なのか。金髪少女は運命の神とやらを鞭でしばき倒したい衝動に駆られた。きっと、その神もド変態に違いなかった。
「さぁ、食事にしましょう」
そして、奇妙な食事会が始まった。
「そういえば、まだわたくしたちはお互い知らないことが多すぎるのではなくて?」
「多すぎるも何も、ついさっき会ったばかりじゃない」
「そんなことはどうでも良いのですリリム某」
「だから某は余計だっての」
「そう。ではリリム某……単刀直入に聞くけれど、シュルト・レイセン・ハウダー様は一体どんなお方ですの」
「どんなって……そうね。一言で言うと変態ね」
咄嗟のことで、他に形容する言葉が浮かばなかったリリムが言うと、ノルメリアは眉根を寄せた。怒りの声を上げるかと思ったリリムに、彼女は更に続ける。
「それは……レイリーお姉様よりもなの?」
「ある意味では凌駕する部分があるかもしれないわね」
「どうも世間の風評とは違ってらっしゃるのね」
「風評って言っても、功績しか伝わってない気がするけど」
「そこに嘘はありまして」
「どうだろ。昔あいつがリングルベルで教鞭を取ってたのは事実らしいけどねぇ」
リングルベル王国とグリーズ帝国ではそれなりに距離がある。伝わることもどこまでが本当で何処までが捏造かを判断することは難しい。少なくとも街の噂に出るレベルであればそうだった。それでもリリムが知っているのは三つ。かつて教鞭を取っていたことと、その魔法が確かに魔物に通用すること。そして本人が本当に魔法においてはテクニシャンであるという事実だけだ。
「ではこの前のドルフシュテインへの大侵攻。あの時に北門に現れたという魔法使いの正体も彼でよろしいのかしら」
「ええ」
隠す必要もないことなので答えると、ノルメリアが両手を力強く握り、大仰に震えながら喜びをアピールする。何がそんなに嬉しいのかは、当然リリムには分からない。
「やっぱりあの方は日夜魔物と戦っていらっしゃるのね!? まるで正義の味方のように!」
「わぁーっつ?」
どこをどう解釈すればそうなるのか、リリムには意味不明である。確かに倒していないわけではないかもしれないが、それは金儲けのためだったり調査の邪魔だからであって、別段正義のためではない。少なくともリリムが知る限りにおいては皆無である。
「えーと……」
ちらりとリリムがメイドに視線を向けると、彼女をただ肩を竦めるだけである。それで処置無しと理解した彼女は、面倒なので事実を口にする。
「多分、あいつにそんな気はないわよ。偶々邪魔だからとか、討伐報酬目当てとかそんなのが理由の大半よ」
「それもあるだろうけど、魔法卿は新しい家を建てようとしてるからだよ」
「家を建てる? なんでよ」
「どこかの湖のほとりに土地を買って、静かにリリムと暮らすんだってさ」
「あー、アレ本気だったんだ」
庭がどうだとか間取りはどんなのがいいか、なんて聞かれたことをリリムは思い出す。彼女は適当に答えておいたのだが、向うは本気で取り組んでいるのだろう。彼はそういう男だ。その様が手に取るように分かるような気がして、少女は頬をヒクつかせるしかなかった。
「そういえば、世界一大きな宝石がどこで買えるかとかも聞いてきたわね」
「そのうちリリムのために買ってくるんじゃない」
「私のためっていうか、それはあいつが付けさせたいからでしょうが」
「シャラップですわ!? のろけですか、勝ち誇りですか、それともただの牽制ですか某リリム!」
「あ、反対になったよぉ」
「だから誰よ某」
もう突っ込む気も失せていたがリリムは言わざるを得なかった。すると、顔を真っ赤にする少女は食事中にも関わらず席を立つ。そうして、おもむろに制服とやらのポケットから白い手袋を取り出しリリムに叩きつけるように投げつける――が、それはレブレにキャッチされて阻まれた。
「ん? なーんだ。てっきり暗器かと思ったけどただの手袋だねこれ。紛らわしいなぁもう」
「嗚呼っ、せっかく用意した公爵家秘伝の決闘用手袋が不発にっ!」
床に放り投げられたそれを拾いに公爵令嬢が移動する。
「ふむ。不発なら決闘は成立しないな。残念だったなノルメリア」
「ちくしょうですわ!」
手袋の指先を噛みながら、ノルメリアが部屋を飛び出す。だが、部屋を出てすぐに戻ってきた。どうやら昼食をそのままにする気はないようで、歪んだナプキンをきちんと合わせ、何事も無かったような顔で食事に戻る。この図太さは一体誰から学んだものか。ふと、ニヤリと笑うメイドを見つけたリリムは、元凶らしき女に呆れ混じりの視線を送った。
「ふふっ。そんな熱い眼差しで見られると照れるな」
「黙れ。極めて変態的な元凶」
「失礼します」
と、そこへメイドたちがレブレ用の料理を大量に運んできた。子竜は目を輝かせると並べられていく料理に挑みにかかる。
「まぁ。健啖な坊やですこと」
「笑っていられるのも今のうちよ。こいつが本気を出せば、一人で屋敷中の料理を食べつくせるんだからね」
「では行軍時の食事の手配には気をつけなくてはいかんな」
またも若いメイドを呼び寄せ、レイリーが耳元で囁く。そうして、メイドが一人廊下へと消えていく。やはり顔を真っ赤にさせて。
「どうも私が想像していたような貴族宅とは違いがありすぎるみたいね。想像を凌駕して余りあるわよここ」
「そうだろうそうだろう。予想以上に素晴らしいか」
自慢げに頷く武装メイドを今度こそスルーして、リリムは力いっぱい皿の上のパンを千切った。違う意味でここに来たことを後悔しながら。
「もう。なんなのよあの娘」
夕食後の夜である。天井付近に灯したライトの明りの下、備え付けの浴室でハンドシャワーを浴びていたリリムは、度重なる白手袋の投擲劇を思いだして辟易していた。さすがにここまでは追ってこないようで、ようやく一息つけるような心地だった。
肌を伝う暖かな湯が、静かに疲れを少しばかり流していく。それが終れば暖かな湯船が待っている。金髪を濡らす水気だけを浄化魔法で飛ばすと、リリムはやけに広い湯船の中に身を沈めた。
やはり、平民の家と比べると客室であっても雲泥の差がある。掃除が面倒そうだという意識は、きっと貴族様の財力の前では皆無になってしまうのだろう。そう思うと、浴室さえどこか高貴な気がしてくるから彼女には不思議だった。
(それにしても、レブレの奴があんなこと言うから気が抜けないじゃないの)
乾かしたはずの髪が濡れるのもかまわずに、浮力に任せて湯の中で全身の力を抜く。このまましばらく瞳を閉じていると、眠りたい衝動に駆られてしまう。けれど、それは敵わなかった。彼女の強化された聴覚が、外から響いた微かな足音を聞き逃すことはなかったのだ。
それにあわせて庭側の壁の向う側から魔力反応が複数感知できる。げんなりしながら閉じていた瞳を開くと、擦りガラスのの上、湯気を逃がす天窓から何やら白い手袋が落ちてきたのが見えた。
「……」
触ると呪われそうだと思ったリリムは、そのまま無言で浴室を出ると魔法で体を乾かし着替え始める。何やら前回にレイリーに着せられたドレスと同じようなものが脱衣所に置かれてはいたが、当然のようにスルー。放置プレイを決め込んでいつもの装備を身につける。本当はパジャマにでもしようかと思っていたのだが、これもレブレのせいである。いつ奇襲されても良いように完全武装していた。
「なんで貴族階級の人に限って変な奴が多いんだろ」
シュルトにレイリーにノルメリア。そして今まで見たことのある自称貴族の変態共。彼女の記憶の中にはまともそうな人間はかなり少ない。すぐに浮かぶのが『腹でかおじさん』ことレンドール公爵だ。彼は性癖はアレだが、人格がそれに比例しない稀有な例であった。或いは、芸術に異様なこだわりを見せるがそれ以外はまともそうなカオス画伯ぐらいだろうか。
「あ、出てきたねリリム」
「あんたも入ってくれば? 気持ちいいわよ」
「浄化魔法だけでいいよぉ」
ベッドに寝転がっていた子竜は、そう呟くと毛布を被る。ライトの明り玉が室内を淡く照らす中、リリムもそれに倣おうとして騒々しい足音に気づいた。その後には軽くノックの音が響き、ケインが声を掛けてきた。
「二人とも起きてるか」
「うん」
直ぐに護衛よろしくベッドを飛び出したレブレがドアを開けると、ケインとレイリーが居た。
「なに、まだ打ち合わせすることでもあるの」
「いや、レイリーの奴がメリア嬢ちゃんを探してるらしくてな」
「見なかったか」
「見てはないけど、さっき浴室に白手袋が投げ入れられたわ」
「なら庭か。まったく、あの娘には危機感が足りん。甘やかし過ぎだな公爵様は」
自分の所業を棚に上げると、レイリーはお礼もそこそこに踵を返し廊下を走り去っていく。
「あのメイドもさすがに従姉妹は心配なのね」
「メリア嬢ちゃんはあいつに懐いてたからなぁ」
「ケインは冒険者の癖にやたらここに詳しいのね」
「奇妙な縁って奴だな。あのメイドのおかげで碌な眼にあってねぇよ」
その言葉に嘘はないのだろう。ただ、肩を竦めての苦笑には、どこか満更でもないような笑みが混ざっていた。それはきっと、リリムが知らない時間が育んだ繋がりだ。なんだかんだ言いながらシュルトの好きにさせてきた少女は、そこに振り回される者同士の悲哀のようなモノを感じ取る。
そして同時に、その笑い方が誰かに似ているような気がして彼らの姿を思い出した。ロンドとその愛馬。憂鬱ではあったが、それでもリリムは聞いた。
「ねぇ、ロンドたちの墓ってどこにあるの」
「ん? あー、そういや俺もまだ知らねーな。……当分は嬢ちゃんたちの出番もないしな。明日にでも行ってみるか」
「いいの?」
「俺も場所ぐらいは確認しときたいからな。後でレイリーにでも聞いとくよ」
「お願いね」
「おう。じゃあな」
快く頷いたケインは、そのまま部屋を去っていった。レブレがドアを閉め鍵を閉めるのに任せ、リリムはそのままなんとはしにベッドへと飛び込んで天井を見上げた。だがぼんやりと光る明りの玉が、少しばかり眩しい。少女は右腕で両目に降り注ぐ光を遮った。
「約束したご褒美が、手向けになっちゃうわね」
呟いて、その瞳を閉じると思い出したかのように毛布を被る。そうして。静かに彼女の初日は過ぎていった。
翌日、ケインと共にリリムたちはロンドとバッシュの墓に訪れた。既に大侵攻から一週間以上経過している。戦いで無くなった者たちの供養も粗方終っているのか、閑散としていた。
静かで、ただただ物悲しい。人間が生の果てに辿りつく最後の場所のその一つは、ただただ無言でリリムを迎えた。ふと、眼を凝らせば溜まりに溜まった死者の念がある。劣化魔眼に見えるのは、魔力の希薄さ故に形にさえなれない妄念。服に染み付いた汚れのように、こびりついて消えない微かな生の、その残影が春風に揺れている。
「どこも墓ってのは辛気臭いわね」
「そりゃそうだろ。いい匂いなんて、するわけもないさ」
ケインは墓碑を確認し、そこに確かに刻まれた弟分の名を確認してから手に持っていた酒の瓶をただ傾けた。途端に生まれるアルコールの滝。液体は墓石に滑り、染み落ちて地面に飲まれる。花束を用意してきたリリムは、無遠慮なその男の背に、確かな感情の発露を見出した。
「公爵の家でくすねて来た上等な酒だ。たっぷり飲めよ」
一言だけの会話。ただそれだけで十分だとでも言うかのように、ケインはリリムに場所を譲る。少女は頷き、花を供えると眼を閉じた。掛けるべき言葉は、心の中だけにある。
死者に願いなんて届くわけもない。何も感じない相手への祈りは、裏返して自分へ還る祈りとなる。辿り着くのは自身の奥深く、記憶の彼方に居る相手。そこまで届けるための作業こそ死者への祈り。
「ちょっと早いけど、多分私はもうここには来ないだろうから」
呟き、酒に濡れた墓にキスを落とす。冗談のような会話での小さな約束。結果だけ見れば彼女は帰ることができた。ならば、その約束は果たされるべきだった。或いは、たったそれだけのことのために、リリムは公爵の所に来たとも言えるのだろう。
「レブレ、ここら一体払うけど……奴らの姿はないわよね」
唇に奔る酒の苦味を無視して、レブレにただ問う。
「うん。少なくとも周囲にはその気配はないよ」
ならば、特に問題はない。大きく息を吸い込んだ少女の体から光が零れる。ケインは何をするつもりなのか分からず、不思議そうな顔をしてただ見守る。
「これが、あんたたちが守ってくれた女の力よ――」
白い光が、春風に乗る。それは今ここにある妄念も怨讐も、生への渇望も全て飲み込んでまとめて浄化。墓地一杯に広がったその光は、ただ優しかった。陰鬱な空気が消え、本来の爽やかな風が墓地を抜ける。手向けのための全力行使。これで周囲を気にせずに彼らも安らかに眠れるだろう。
「あっ」
「なに、やっぱり魔物でも出た?」
「ううん。ただ、またちょっとに君の力が増したように見えたから」
「あいつらが力を貸してくれたのかもね。なんか最近やけに調子がいいし」
「……かもしれないね」
そんな訳がないと知りながら、子竜はただ頷いて自らも人間の風習に合わせた。
――賢人暦114年4月26日。
公爵邸に辿り着いてから大よそ一週間が経過した。
正直に言えば、取り立ててリリムがしなければいけないという仕事はなかった。ある種の危険人物でもある彼女たちは、本隊に先立って先行してきた東側の諸侯軍の者たちにお披露目されることもなく秘匿されていた。
時折、リリムのことを知っている兵士たちが影で噂話をしているのに気づいたが、レイリーが一睨みするだけで退散。レブレが言うような襲撃者に合うことも無く日々を過ごしていた。
強いてやったことと言えば公爵令嬢の相手ぐらいだろう。それ以外でリリムが特にしたことはない。ダンジョンでやっていた訓練だけはレブレ監修の元継続してはいたが、魔法についてはシュルトがいないせいで専ら復習ばかり。メインはやはりいつもの気増演舞と体力作りのためのランニング。そして、暇そうなケインやレブレ相手の実践訓練である。
『ざけんな』
それが、レブレに突っつかれまいと鞭とナイフを振り回す少女を見てのケインの心からの感想であった。それほどまでに、彼はプライドを傷つけられていた。戦闘訓練開始一年ちょっとと言うその少女の動きが、完全に人外のそれであるためである。
まだまだ荒削りであり、当然のように技術は拙い。だが、それをカバーして有り余るほどの身体能力にはもはや脱帽であったのだ。訓練時には態々身体能力をあわせる程度に出力を下げるように子竜に命じられるほどであるから舌を巻く。これに更に魔法が加わると、とても同じ人間を相手にしているように彼には思えなかった。ただ、そのおかげというわけではなかったが、シュルトにエンチャントを施された剣の使い方を彼は覚えた。覚えざるを得なかった。
「本当、よくやりますこと」
ノルメリアは公爵邸の庭――地面に突き刺さった剣の前のテーブルの上でそんな彼らを見ていた。レイリーと、そして三日前に合流したエルフ店長もその様を紅茶片手に見守っている。何かと忙しいレイリーはともかく、エルフ店長などはもうなし崩し的に公爵軍の仲間入りだ。一時的に現役に戻ることを条件に公爵に雇われた。対価は勝利後のゾンビもどき対策の実施である。
彼女が持ち込んだシュルト・レイセン・ハウダーからの手紙。そうと判別できたのはレブレだけだったが、彼がそういうのであれば一応警戒した方がいいというのが子竜の感想である。
レブレもそれを知っていたから当然といえば当然だったかもしれない。ただし、二十五日の段階で帝都のゾンビもどきが駆逐されたことはまだ彼らの耳には入っておらず、来るべき開戦に向けてそれぞれに思いを馳せていた。
「今日もノルメリア様は不機嫌そうね」
「ええライラ。それはもう不機嫌ですわ」
テーブルの上に鎮座した白手袋は、結局役目を果たすことができなく噛み跡だけを刻まれていた。それこそ彼の気高き奮戦の証ではあったが、それが納得できないのが公爵令嬢様である。リリムに手袋を叩きつけたところで物理的な勝負では分が悪いことだけは分かっているので、今はどうやって勝つかで悩まされていた。勝手に捏造した入門試験は継続中だが進展はなし。不機嫌にもなるというものである。
「決闘に勝って弟子入りの仲介をさせたいというのに、あの女は既に体得しているのですわ。なんて理不尽。いえ、これも試練ということですのねきっと」
「そこで諦めるっていう選択肢はないのね」
「当然ですわ!」
「この一件馬鹿っぽいところがノルメリアのウザ可愛いところだ」
そしてそこで意味も無く自慢するのがレイリーである。褒められているとだけ受け取り、ノルメリアは諦める気配がない様を店長に見せ付ける。だが、それはさておいても気になることがあった店長は、訓練しているリリムを見ながら二人に聞いた。
「レイチェ……レイリー様はともかく、ノルメリア様もついてくるってのはどうなのかしら。私としては止めたいのだけど」
「その点に関しては公爵の意向だよ」
「わたくしとしてもその方がありがたいですのよ」
「でも、危ないわよ」
「どちらにせよ危険ですわ。負けたら当然、私などは父上諸共コレでしょう?」
自身の首に線を引くように、指先が振られる。どこかさっぱりとした口調だ。それを恐れるような弱さはそこにはない。ノルメリアも貴族である。当然最悪の末路など理解していて、だからこそ屋敷に閉じこもることを良しとはしなかった。
「そうでなくても、適当な貴族に褒章として回されて慰み者にされるかもしれませんわね。そんな屈辱に晒させられるぐらいなら父の側に居ますわ」
「そう。覚悟が決まっているのならもう私から言うことはないわね」
「ここに残る方がある意味では危険かもしれんしな」
公爵の目が届かなくなり、守りが手薄になる。連中からすれば狙いやすいだろう。どこに手の者が潜んでいるかも分からない現状、残していく方が心配である。それならまだ手元で守る方が公爵としても余計な心配をしなくて済む。
確かにこっそりとどこかに避難させておくという選択肢はあるだろう。だが、それをするにしてもよほど信頼ができる者でなければ危険に過ぎる。結局、悩んだ末に選んだ答えは連れて行くこと。その選択には公爵の不退転の覚悟さえも伺えるようだった。
「それに、だ。連れて行けば最悪リリムたちに押し付けることもできるかもしれん」
「信じているのですね」
「ただの保険だよ。負け戦などやるつもりはないからな。やるからには勝つ。バノスの首を取り、帝国をあるべき姿へと戻す。ただそれだけさ」
「では貴女が皇帝に?」
「いや、それは公爵に任せる。その役目は私にはもう荷が重い。公爵は私にさせたがっているようだがきっと碌なことにならん。私は政治の世界から切り離されすぎた。公爵のバックアップがあったとしても、どうにもミスをするような気がしてならん」
「残念ですわ。お姉様ならきっとこれからの新時代を切り開けると思いますのに。これからは女の時代ですわよ」
「それが問題なんだよノルメリア」
息巻く彼女を宥めるように、レイリーが真面目な顔で断言する。
「私が皇帝になったら国中の見目麗しい女たちだけを集めて絶対にハーレムを作るぞ。男子禁制で街一つ分ぐらいのどでかい奴をな」
「まぁ。それは大問題ですわ! 国中の殿方の嫉妬を買ってしまいます!」
はたしてそういう問題なのだろうか。エルフ店長は誤魔化されたのか本気で言っているのかが分からなかった。
「その時はライラ殿もどうだ。貴女なら私も大歓迎だ。何なら今からでも良い。ハァハァ……」
「ふふふ。高貴なお顔が大変崩れてらっしゃいますよレイリー様」
にじり寄ろうとするメイドを強引に椅子に押さえつけ、ライラが顔を笑顔で彩る。その下では水面下の争いが続くも、大浴場で涙目にされた恨みは忘れていない。全力でメイドの横暴を阻止してみせる。さすがに引退したとはいえそこは元冒険者エルフ。百も越えていない小娘に負けることはかろうじてなかった。
「レイリー様」
と、そこへ小走りで駆けてくるメイドが一人やってきた。居住まいを正したレイリーは、耳打ちしてくる話しを聞いて頷く。その顔はすぐに引き締められ、その目に剣呑な光が宿った。
「そうか」
「では――」
去っていくメイドを尻目に、レイリーの目がリリムの方へと向けられる。何故か、その目はだらしない。
「聞きたくないけど聞くわ。一体何があったのかしら」
「ん? 明日予定通りに出陣だという報告と、頼んでいた物が届いたようでな」
「お姉様、ではアレが?」
「そう、アレが届いたのだよ」
「なんだかよく分かりませんけど、私を巻き込まないで下さいね」
「善処しよう」
はっきりと巻き込まないと言わないところが店長には不安だった。
「これ絶対あいつの趣味よね。そうなのよねおじさん!」
「こら、そこは公爵様だろう。ちなみに、これから私のことはご主人様、または姫様と呼んでちやほやしろ。さぁ、さぁ、さぁ――」
届いた白いドレスでめかし込んだご主人様<レイチェル様>が荒い息で仰られる。メイド服を着せられたまま抗議に来たリリムの顔が、自然と屈託の無い笑顔で綻んだ。懐かしきマインドセットスキルは健在である。自然と開かれた唇から、敵意の華が咲き乱れる。
「うふふ。ではオプション代にプラスしてイメージプレイ料金を別で請求させて頂きますね。このご主人様め。まずは小手調べに靴掃除から始めましょう。綺麗に舌で磨き上げさせてあげますからね。――おら、さっさと跪けよ。きちんとやれたら簿褒美にこのミスリルで出来たとっても硬いウィップで、背中に跡が残るぐらいに可愛がってやるからさぁ!」
「うぬぅ。見事な変わり身だな。声と笑顔があざといぐらいに可愛いのに、内容が容赦ない。くっ、だがコレはコレで新しい世界へと旅立てるかもしれん……嗚呼!! 私は一体どうすればいいんだ!?」
「あー、私も妻に鍛えあげられた口だから色々と寛容ではあるがね。その、なんだ。ここは一応私の書斎だから、そういうプレイは自分たちの部屋でしてくれんかね」
ド変態をドSが迎え撃つ構図である。仕事の邪魔でしかたがない公爵が、困った顔で護衛男に視線を向ける。男は知らねぇとばかりにそっぽを向くと、笑っている子竜と一緒にもう一つの届け物に視線を向けた。エルフ店長やノルメリアが興味深そうに眺めているそれは、それなりに重量感が伺える代物だった。
「おっさん、これ必要なのか」
「一応な」
「ちょいとばかし重くないか」
「私もそうは思ったが、リリムちゃんが必要だと言うからな。ちなみに、一から作り直す時間は無かったから懸念どおり重い」
それは、隙間なく体を守る防具――全身鎧であった。防御力は二の次で、できるだけ軽い奴を注文したリリムが戦場に立つために要求した代物である。さすがに作るにしても時間が足りなかったので、ありあわせの鎧を利用しドワーフの職人が間に合わせた一品だ。色は黒く、大きささえ大の大人ぐらいあれば妙な威圧感があっただろう。生憎と低身長なりリムに合わせられたため、その威圧感もかなり薄れてはいた。
前回の戦いにおいて、顔までしっかりと隠せば魔物も早々彼女に気づかないことが発見されている。もし戦争中にうっかり魔物に見つかったら洒落にならないので、魔物対策にとリリムが用意してもらった代物である。
「ふーん。まぁ、それでもいいのか。考えてみれば嬢ちゃんは乗ってるだけなんだしな」
「うむ。それと竜が単体だと色々と説明が難しいというのも理由だ。下手をすると敵味方関係なく恐慌に陥るかもしれない。それを防ぐ意味でも必要だった」
「人が乗って操ってたら魔物でも安心ってか。まぁ、御伽噺にしか出てこないような竜騎士なんてのが味方についたとなりゃ、士気も上がる。悪くねぇと思うが……なるほど。普段はメイドに扮してレイリーの世話係としておくわけか。戦場に連れて行くにも、確かにその方が理由付けは簡単だしな」
そのためのメイド服だった。レブレ用に小さな執事服も用意されており、秘密兵器としての準備は万全である。少々幼すぎるが、二人とも姫様のお気に入りとでも言っておけば色々と誤魔化せることもあるだろう。
「俺とエルフ店長はどうする。護衛騎士にでも扮するかい」
「いや、冒険者の護衛というままでいいだろう。現役Aランクと元Sランクなら、文句も出まい。ノルメリアもまとめて一緒に任せるつもりだからよろしく頼むぞ」
「了解だ。一まとめにされてた方が正直護衛も楽だしな」
これで、信頼できる手駒で身内の防備を固めることができたわけである。レイリーが姫として戦場に立つことは、当たり前だがない。そんなことをさせるぐらいならリリムと一緒にレブレに乗せる方が遙かに安全だ。
単体の戦闘能力はこの際関係ない。神輿としての大義名分を失うのは士気に関わる事柄であるから、それを公爵は嫌っている。レイリー自身は真っ先に突っ込んでそこで倒れたとしても、逆に奮起する起爆剤にしろと言うだろうが、冗談でもそんなことを公爵は望んではいなかった。
「これ以上、誰も失いたくはないものだ」
ボソリと呟かれた声が、リリムとレイリーが言い争う声でかき消される。その痛ましい言葉は当然ケインにも届いた。が、彼はそれを聴かなかったことにして鎧の方へと近寄っていく。
「リリム嬢ちゃん、レイリーと乳繰り合ってないでこれ今から着てみろよ。知り合いの真面目馬鹿がぼやいてたが、慣れないと結構着脱に時間かかるらしいぜ。ていうか、装備の仕方知ってんのか」
「知らないっての。こちとら一般人なのよ」
「では私が着付けてやろう。サイズに違いがあってはいけないしな」
「あのね、普通注文する前にあわせるでしょ」
「私のメイドスキルを信じろ。女の子のサイズは決して外さん」
「ちなみに、お姉様は家事全般がほとんど壊滅的ですわ。髪を弄るのと脱がすのと着付けだけは妙に得意みたいですけれど」
武装メイドだけに。
「さっそく試着だ」
直ぐ近くの部屋で試着を試みていたリリムは、鎧という物の重量を少しばかり甘く見ていたことを知った。
「結構重いわね」
それが、フルアーマーリリムの正直な感想だった。花嫁効果で強化されていなければ、魔法を使っていただろう。まるで黒騎士を連想させるような色合いの鎧を纏った彼女は、その上から仰々しい角が二本生えている兜を被る。途端に狭まる視界。外界を認識するために開けられている穴は確かにある。けれどそれらは普段にはない圧迫感をリリムに与えた。
「どうだ」
「サイズはピッタリよ。でもこれ、思ったよりもずっと動き難そう。周りもよく見えないし……」
リリムは試しに軽く室内を歩いてみるが、どうにも全身に重りを背負っているかのようだった。本物の騎士や冒険者はこんなのを着て活動するのだろう。そう考えると、民間人でよかったとリリムはつくづく思ってしまう。
間接の稼働域が減り、当たり前のように移動速度も鈍る。確かに防御力と質量も得たが、どうにも機動力を捨ててまで重視したいものには思えない。だが、普通の人間として考えた場合には有用な場合もあることは察することができた。
(そっか。戦争だと弓があるもんね)
魔物の中にも弓を使う者がいるが、規模が違う。十や二十では効かないほどの矢が雨のように降り注いでくるとなれば、全身を鋼鉄で覆えるということには確かな意味があるのだろう。といっても、魔法障壁の恩恵を受けられるリリムからすればあまりお世話になりたいものではなかったが。
「なに、行軍中に慣れるだろうさ」
「そうね……って、まさか私もこれで歩くの? あんたらは馬車で移動なんでしょ」
「訓練がてら護衛に立ってもらう予定だ。無論、ずっとではないがな。黒騎士のお披露目も一応は必要だ」
「人使いが荒いわね。メイドと黒騎士を両方やれってこと」
「そこらの兵士たちと比べれば楽なものさ。特に君は最前線にして最も安全な場所に居るのだからな」
「それも作戦によるんでしょうけどね」
「ところでリリム、私は一つ懸念していることがある」
「懸念?」
鎧姿のお披露目のために部屋を出ようとしていたリリムは、妙に冷たい声を出したレイリーを振り返る。
「単刀直入に聞くが、君は人を殺せるのか」
「――」
少女の耳に届いた言葉には、純粋な疑問があっただろうか。武装メイドはいつになく真剣な目をしていた。もしかしたら、それが聞きたくて装着を手伝おうとしたノルメリアを排除したのかもしれない。
少しだけ体感温度が下がった室内で、動きを止めたリリムに更にレイリーは続ける。
「確かに君は竜の上に乗るだけかもしれない。だが、敵や何も知らない兵からすれば君が竜を操って殺したことになるわけだ。もう一度問うが、君に人が殺せるか?」
「へぇ……都合よく利用しようとしといて、今更そういうこと言うんだ」
ドアノブに手を掛けた手を引き、体ごと向き直る。兜の穴から見上げるリリムの瞳がどこかレイリーを射抜くような視線に変わる。
「――あんた、私のこと舐めてんの?」
金属の擦れる音とともに、床板が鳴る。足を覆うグリープが正しく重量感を音として伝えた。ドレス姿の女の前で、黒騎士が歩を止め顔を上げる。より近づいた視線を前にして、しかしレイリーはその目を逸らさない。
「ただの確認だ。もし途中で作戦を放棄されでもしたらと思えば心配に――」
「なるだろう」と、本来は続く言葉はの代わりに、彼女の着ていたドレスの生地が悲鳴を上げた。
「……皺になる。離してくれないか」
「ならその前に聞きなさいよ」
胸倉を掴む手が、白い輝きに覆われていた。いや、それは腕だけに留まらない。鎧から漏れ出す光は、全身に広がっていた。室内を淡く照らす白がある。感情と同時に励起した光が、ついにメイドの体を腕一本で吊り上げる。
「こちとらもう殺人処女じゃもうないっての。忘れんじゃないわよ似非メイド。私はね、自分の決断で一人と一頭殺してんのよ」
直接ではないとしても、間接的に殺した事実は変わらない。それを忘れて今更無神経に聞いてくる女がリリムには許せなかった。
「いいえ、きっとあんたらのせいでそれ以上殺したはずよ。ねぇ、問いかけが一週間以上遅いんじゃないお姫様」
「ぐっ――」
「それとも、あんたの体で証明した方がいい? 魔物の体がアレだけ脆いんだから、あんたのその無神経さぐらい、このままぶん殴ったら一緒に砕け散ると思うんだけど」
「――あー、ごほん。そこまでにしてくれないか嬢ちゃん」
いつの間にか、ドアを開けて入って来ていたケイン。彼の言葉が鎧越しに背に刺さる。リリムは無言で手を離し、内気の輝きを仕舞うと振り返る。
「普通、着替え中の女の子の部屋は開けないでしょ」
「いやいや、なにやら戻ってくるのが遅いし、ドア越しに苦しそうな声が聞こえたらレイリーに襲われてるんじゃないかと心配になるだろ。それと、戦場じゃ男だの女だの言ってられないこともあるから、覚えといてくれや」
「どうせ覗こうとしていたに決まっている。こいつはそういう男だ」
「……おい、助けてやったのにその言い草はなんだよ」
「ふん。誰も助けてくれだなんて言ってな――」
「とりゃ」
ゴンッと、頭蓋を叩く音が室内に響いた。皺になったドレスを確認していたレイリーは、一瞬訳が分からないような顔でケインを見上げる。
「あのなぁ。言いたかないがレイリーよぉ。そこらの力があるだけの一般人巻き込んで追い込むのはさすがに無神経だろ。つーか、寧ろお前は嬢ちゃんを気持ちよく送り出してやらないといけない立場だろうが。それが怒らせてどうすんだ」
「そんなことは分かっている。だから――」
「憎まれ役になって、自分に責任を押し付けるように仕向ければいいって? それともアレか。命令される立場だからとでも言って殺人の意識を逸らさせるつもりだったか? はっ――冗談じゃねーな。そんなお節介された日にゃあ、俺だって怒るぞ」
「っ――」
「んなことしても何にも変わらないのはお前がよく知ってるはずだ。手に残る不快な感触も、悲鳴も、血の匂いも何もかもそんなんじゃあ軽減されねぇ。何故って? それりゃあ昔から決まってるからさ。それが無理やりにでも背負わされる殺人の重みだってなぁ。重りなんざ感じない奴もいないわけじゃねーが、そいつは竜の坊主みたいな価値観が完全に違う奴だけだ」
「……」
「普通はそれを誰かが肩代わりしてくれるようにはできてねぇ。やったが最後、余計なもん背負って生きていくしかねーのさ。そうさせるのが嫌だってんなら、端ッから嬢ちゃんたちを巻き込まないで自分たちだけでやれっての。イレギュラーのせいでそれができないにしても、それならお前があの竜の坊主に乗って殺しまくれ。その方が訳が分からない黒騎士なんかよりもよっぽど士気高揚に役立つだ――!”#$%&’」
「うわぁ。下手すると潰れたわよそれ」
説教していたケインが、そのあまりの破壊力に言語を失う。
その股間には、容赦なく姫様の膝蹴りがめり込んでいた。それを横から見ていたリリムの瞳は、泡を吹いて倒れる冒険者の苦悶の表情を確かに捉えていた。
「なんていうか、どしがたい女ねあんた」
「煩い。くっ、汚らしい物に触れてしまって気分が悪いので失礼する。……言っておくが、先に手を出したのはこいつだからな!」
白目を剥いたまま失神しているケインをそのままに、レイリーは部屋を去っていく。残されたリリムはとりあえず奇跡を行使。冒険者の男を救う。だがやはりダメージは重すぎたらしい。復活に三分はかかっていた。
「ケイン、起きなさいよ」
「……んあ? あー……嬢ちゃん。なんで俺こんなとこで倒れ――」
「思い出したみたいね」
「ああ。くそ、あのアマこれで三度目だぞ」
さすがに笑い飛ばすことはできないようだった。リリムに背を向けて立ち上がると、よろめきながらも何かを確認。無事を確認して安堵のため息を零す。
「私にはよく分かんないけどさ、それすっごく痛いのよね」
「痛いなんてもんじゃねーよ。死を覚悟する痛みだ」
「そんな大げさな」
「感想聞きたきゃ今度あの旦那に見舞ってやれよ。絶対俺と同じこと言うぜ」
「それ無理。何度か頭に来て蹴ったのよ。でも全部硬いので防がれたわ」
シュルトの魔法障壁はそう易々とは抜けないのだ。
「あー、まぁ、嬢ちゃんのウェイトだと破壊力は低そうだもんな」
「それより良かったの? 今はVIP待遇の私はともかく、あんなのでも一応お姫様なんでしょ」
「今のでチャラさ。そうでなけりゃあ俺は手を引く。さすがに息子潰されてまで肩入れはできねぇからな。さらば公爵派ってなもんだ」
「ならいいけど」
「にしても、悪かったな嬢ちゃん。あいつ出自が出自だしよ。今回の戦じゃあある意味公爵よりも貪欲に勝ちを狙ってるんだ。できるだけ不確定要素を排除したかったんだろうよ」
「……家族の仇だから?」
「自分の仇でもあるんだ。きっとあいつにとっちゃあな。……そうだ。見苦しいところを見せたお詫びに、ちょっとだけあいつのことを教えてやろう」
「別に知りたいとは思わないけどね」
正直に言えば、リリムはレイリーが嫌いだった。やり方に性癖、そしてあの胡散臭い微笑み。挙げていけばきりが無い。中でも一番嫌いなのは目的のために手段を選ばない所だ。しかもそれをすればどうなるかを分かっていて、それでも行う無神経さは始末に終えない。確かにその傲慢さが支配階級の一族としては必要なのかもしれないが、やはりリリムには住む世界が違いすぎてそれが理解できないのだ。
「まぁそう言うなって。そんな長い話しでもないさ」
適当に置かれてある椅子をリリムに差し出すと、ケインはベッドに座り込んで話し始めた。
「何から話すか。そうだな。例えば昔はあいつもメリア嬢ちゃんみたいに夢見がちだったらしいって話しはどうだ」
「あいつが? 信じられないわね」
「俺もそう思う。だが公爵のおっさんが言うにはどうもそうだったらしいのさ。切っ掛けはやっぱ、皇族暗殺事件だろうな」
ケイン自身も、それを詳しく知っているわけではない。そもそもその渦中に居たわけでもない。冒険者としての仕事に追われ、何とはなしに里帰りした彼は、そこで一人の少女とであった。
「あの事件の三ヶ月後だったか、それとも半年後だったか。詳しくはもう覚えちゃいえねぇ。当時の俺は世話になってた孤児員が潰れる前に冒険者として身を立てていた。おっさんのところで兵士として雇われたロンドとは違って、どうも性に会わないと思ったんだな。孤児院を切り盛りしてた園長は元冒険者でよ。おかげで男共は出て行ったらすぐに冒険者として身を立てられるようにって剣と魔法を習ってた。強い弱いはともかく、俺はあの糞爺に才能があると言われた。事実そうなんだろう。俺はすぐにAランク目前まで駆け上がることができた。まぁ、それだけ前線に居たってことだ。毎日毎日魔物をぶち殺して過ごしてたよ」
その間、色々なことがあった。最前線にして防波堤でもあるロスベルの砦を襲う大侵攻。討伐指定級の魔物との戦い。幸か不幸か、ケインは致命的な負傷をすることもなく運良く生きていた。だが、どれだけ強くなったとしても彼は人間だった。
「疲れたんだなそんな毎日に。冒険者になって孤児院のために金をとか青臭いことを思ってたのに、その孤児院はいつの間にやら潰れてた。ロンドはその瞬間に立ち会った見たいだが、前線に居た俺のところに知らせが届いたのはそれなりに立ってからだ。八つ当たりのように戦い続けて、さすがにこりゃ体が限界だって痛感したところでようやく俺は故郷であるレイデンに慰安がてら帰ったわけだ」
「へぇ……あんたもレイデン出身だったんだ。ここかと思ってたわ」
「まぁ、最近こっちでいたからな。んで、当時はもう街はバノスの手に落ちたようなもんだった。街の雰囲気がガラリと代わり、なんだか知らない街になってやがった。税金が上がり始めたのもその頃だな。休もうにも帰る場所が無い俺は、スラムの安宿に寝泊りしてた。そんな時、胸糞悪い話しを聞いたんだ。俺らが世話になってた孤児院跡が娼館になってるってな」
「でも、それは――」
「ああ。金で買われたんだからしょうがない。しょうがないが、そこにスラムやら孤児院の餓鬼共が集められて無理やり働かされてるって聞いたら、頭の中が真っ白になっちまった」
「……」
「嬢ちゃんは運がいい。『小悪魔の巣』は老舗みたいなもんでな。変態ご用達だが、旧くから有ったからまだ体裁も整えられてる。だが、あそこは違う。使い潰してなんぼの悪徳店だ。そんなところに、かつての孤児院と勘違いしたままそうとは知らない餓鬼共が逃げ込んでくることがあったらしい。末路はまぁ、決まってるわな」
スラムにはスラムの情報網がある。孤児たちにとって、孤児院というのは最後の逃げ場所だった。その逃げ場所が知らぬ間に地獄の入り口に変わっていたのである。噂だけを頼りにやってきた子供たちはそこで地獄を見ただろう。淡々と語るケインの声にやるせなさが混ざり始める。
「男の餓鬼は奴隷商人行き、女たちは商売。徹底して合理的なシステムが作られたらしい。俺に話した元兄弟がそういう話しを聞いたそうだ。俺は、なんだか爺が必死に守っていた孤児院が穢されたような気がしてたまらなかった。若かったんだな。無謀にも殴りこんでやろうと息巻いた。だが俺は独りだ。当たり前だがまともに戦ったら勝ち目はねぇ。俺がどれだけ強くなっても数には勝てねぇ。だから夜襲をかけてやろうと思って夜を待った。んで、いざ踏み込もうと庭に侵入したところで、窓をぶち破って出てきたあいつに出会ったのさ」
遠い目でケインは続ける。
「隙を見て逃げ出したって感じだったな。さすがに常時鎖で繋いでるわけでもないんだろう。死んだような目をしたあいつを見つけた俺は、素っ裸のままで外に出ていくあいつを追った。もう奇襲するなんて不可能だったし、一人ぐらいは助けてやろうと思ったんだ」
街の雰囲気が変わっていたとしても、作りまでは変わっているわけではない。孤児院付近の地理は誰よりもケインは知っていた。そして何より、当時のレイリーには逃げ切るだけの体力が無かった。
「今はそうでもないが、数年前のあいつには体力なんかねぇ。精神的にもボロボロだったはずだ。だからあいつはすぐに力尽きた。追いついた俺を親の仇を見るような目で見上げながら、あいつは俺を追手だと勘違いしたまま罵倒した。その頃にはもう俺の知っている今のレイリーだったっけな。見た目は綺麗でも棘がある。男嫌いもそのせいだろうよ。面倒くさくなった俺は、着ていた外套を被せた。んで、無理やり担いで宿まで逃げた」
夜の逃避行の始まりだ。事情も知らないお姫様は、若く無骨な冒険者に担がれたまま、訳も分からず追手たちから逃がされた。捕まれば終わりの中、恐怖と怒りに震えながら行くあてもないまま夜を越える。それに耐える過程で生まれたのが、あの図々しくも傲慢な人格なのだろう。
リリムはふと、出会った瞬間のサキの血走った目を思い出した。怯えと怒り。そしてシュルトの影に対する明らかな恐怖がそこにはあっただろうか。救いも何も無いだろう未来への絶望がそこにはあった。奪われ、切り取られていく理不尽な生への不安は、決して彼女にとっては想像できないものではない。
「そっか。だから私はあいつが嫌いなのね」
「ん?」
「境遇には同情するわ。でも、あいつの眼はずっとそのどん底の時のままなんだわ。そこがどうにも鼻につくっていうか……致命的にあいつと私で違うところなのよ。もしかしてあいつが絡んでくるのって、あいつの性癖云々だけじゃなくて私が嫌いだからかもね」
「嫌いなら無視するだろ」
「無視できないぐらい目障りだから絡むのよ。嫌がる私を見て別の欲求でも満たしてるんでしょ。あー、思い出してもムカついてくる!」
レイリーの境遇は理不尽によるものだ。だが、リリムの場合は理不尽ではあっても心のどこかで納得できるものがあったから微妙に違うのだ。何せ理由が明確だ。親の借金返済という理由を経由しているという事実が、二人の明暗を分けたと言ってもいいのだろう。
そして、その結末も似通ってはいてもやはり違う。この差も当たり前のように関係していた。リリムは押し付けられたそれと真正面から戦い、シュルトの手によって開放された。他人に救われるという意味においてはケインに助けられたレイリーと確かに同じだ。しかし彼女の場合はまだ終ってはいない。寧ろこれから悪夢を終らせに向かうところだ。終ったリリムとまだ途中の彼女では折り合いがつくはずもない。
リリムは過去を想起させるようなレイリーにイラつき、レイリーは終らせきったリリムにイラつかされるわけである。これでは互いに機嫌が悪くなってもしょうがない。
(てことは、サキを見てイラつかないのは私と一緒だからってことか。むしろシュレイダーのせいで妙な連帯感が生まれてる感じだし。そういえばあのメイド、サキにも絡んでたっけ。目聡いというかなんというか……はた迷惑な奴)
同属嫌悪ではないが、敏感な鼻をお持ちである。だがそれを当たり前のように振り回されてはリリムとしても堪ったものではない。
「で?」
「でって、なんだよ」
「続きよ続き」
「ああ、そっからは特に何も無いな。宿に連れてって事情を聞いて、おっさんが身元引受人だって言うからそこまで連れて行った。爺経由で公爵とは知り合いだったしな。ついでに元孤児院は丁度『教会』の件で頭悩ませてた公爵と一緒に捜査。ちょっと時間が掛かったが俺らで潰した。後半は嬢ちゃんの協力もあったしな」
「ふん。アホな客がペラペラ話してたのを公爵様に教えてあげただけよ」
おかげで情報代金と称して金払いの良い金蔓をゲットできた。そういう流れだ。だが、リリムには二つだけ腑に落ちないことがあった。
「ところでその話しの疑問点は放置なの?」
「疑問ってなんだよ。単純明快な話だったろ」
「しらばっくれないで。なんであいつ生きてるかって謎よ」
「そういうこと、俺に聞くかね」
「前に暗殺者が殺したって嘘吐いて攫ったとか言ってたけど、それ娼館が暗殺者ギルドだったってオチじゃないわよね。宰相を脅すために保険にしたとか、色々考えられそうなんだけど」
「そりゃねーよ。アレは結局単なる悪徳娼館だった。レイリーの素性に関しても誰も知らなかった。まぁ、皇女レイチェル様のそっくりさんとしてそこで稼がされてたらしい。もし本物だって知ってたら、俺が街から逃げるときに面倒になってたはずさ」
「じゃあ暗殺者の方は? 捕まったの」
「まだ逃亡中だ。公爵が勝ったら皇族殺しの実行犯に皇女誘拐、おまけに強姦罪まで適用されて捜索されるだろうよ。見つかるとは思えないがな。何せ時間が立ちすぎてる」
「やっぱ国外?」
「少なくとも俺ならそうする」
「つまり、下手をするとあいつは一生今のままってことか」
バノスを倒したとしても、彼女の悪夢は終れない。そこだけは、リリムも素直に同情する。切り替えられるほどに強いならば、そもそも苛立たせるように振舞うことなどしない。する必要が無い。
「まぁ、バノスの書斎になんか証拠書類でも残ってりゃあ追跡できるかも知れないが、どうかな。ちなみに、連れ去ったのは一人だが屋敷に押しかけてきたのは集団だったそうだ。バノスの子飼いか、流れ者か。それともどっかの国が関わっているのか。個人的にはそこら辺も引っかかるが、今はその問題は後だな。目先の戦いに勝利しなきゃあ何も始まらねぇ」
「名前とかは」
「分からん。あいつが言うには攫って言った奴は金髪の若い男だったらしい。そいつはグラスと呼ばれていたそうだ。十中八九偽名だろうな」
「なんだか、殴ったら砕け散りそうね」
「見かけたら教えてやってくれ。本人ならレイリーが砕くだろ」
「覚えてたらね。んー、にしても妙に肩が凝ってきたわ」
椅子から立ち上がると、少女は両手を伸ばして伸びをする。ケインもそれにあわせて立ち上がると、二人して部屋の外へ出た。公爵たちはどうにも待ちわびていたようで、ようやく戻ってきた二人を見て訝しむ。
「おや? レイリーはどうしたんだい」
「あいつならドレスに皺が出来たから直しにいったぜ」
特に公爵に言うことでもないのだろう。余計な負担をかけまいとしたのか、ケインがすまし顔で答える。
「そうか。それで、サイズはどうだったかな」
「丁度ね。ちょっと重いけど、これぐらいならなんとかなるわ」
「ならばこれで準備も終わりか」
「レブレたちは?」
「お腹が空いたから何か食べるそうだ。ライラ殿にお菓子を作ってもらうらしいから、リリムちゃんもお茶してきたらどうだい」
「そうするわ。行くわよケイン」
「なんで俺まで」
「あんた私の護衛なんでしょ」
「甘いものは好きじゃないんだが……しゃーねーか」
二人もまた執務室を出ていく。一人残った公爵は、それを見送ると仕事に戻った。手に取ったのはついさっき斥候から届いた一枚の資料である。
「何故防備が整った城を出た。民のことなど考えないのが貴様のやり方だろうに」
資料の一文にはこう書かれていた。
――バノス宰相、リオラスカ砦へ出陣のもよう……と。




