EX04「シュルトの日記」
歳を越える前にやらねばならないものは大体決まっている。その代表格といえば、やはり新年を迎える準備であろう。
シュルドレイク山にあるダンジョンで、世間の事情など無視した生活を送っているとはいっても気分と言うものがある。その日、家主権限を利用してミニ女王様が檄を飛ばした。
「そろそろ歳も暮れるし大掃除するわよ!」
「はぁ」
「ふむ」
「えぇー」
反応は三者三様であった。サキはいきなりのことで驚いたようであったが、すぐに納得。シュルトはいつものように抵抗なく頷き、子竜だけが面倒くさそうな顔をする。
「役割分担は決めてるわ。家は私とサキ。シュレイダーとレブレはダンジョンよ」
「げげっ」
ダンジョン内はそれなりに広い。浄化魔法を使うにしてもそれなりにかかりそうである。特に訓練でよく踏み荒らしている場所などは穴が開いたりかなり凸凹してきていた。怪我防止のためにも整備しておこうと思っていたシュルトなどは、いい機会だった。
「そうだな。訓練場所の整地に、ダンジョンも防衛設備の点検や清掃。やっておくに越したことは無いか。レブレはどっちがいい」
「じゃあ設備点検」
「分かった。では終ったらもう片方に合流だ」
「うぐ!?」
終ったらそのまま行方を眩ませようとしていたレブレががっくりと項垂れる。そこへ、容赦なくリリムが追撃。
「逃げたら鱗を十枚貰おうかしら」
「うぅー! おーぼーだぁ! 竜権の心外だよぉ」
「ふふふ。いいのレブレ、そんなに駄々を捏ねて」
「ふぇ?」
「私は昨晩、からあげを二十個もつまみ食いした貴方の罪を見逃した。この意味、聡明なあんたなら分かるわよねぇ」
「うぐっ。謀ったなぁリリムぅ!」
好きなだけつまみ食いしろといって、無視された記憶がレブレには確か似合った。調子に乗ったのは自身であったが、食の誘惑にまけて調子に乗って引き際を謝ったのが運のつきであった。
「ぼ、僕。がんばって掃除するよぉ」
「よろしい。じゃ、食後に各自行動開始!」
ここに、ダンジョン大清掃作戦が決行された。
「まっ、掃除って言っても浄化魔法掛けまくって整理整頓するだけなんだけど」
普段適当にやっていることを、いつもより念入りにするだけである。サキはまず自分の部屋からのようだ。リリムはまず、最も権力が行き届いている台所から攻めることにした。レブレのおかげで必然的に肉料理が増えるので隅っこのしつこい油汚れが特に気になっていたのだ。
「浄化! 浄化! 浄化!」
レグレンシアの土着魔法、所謂賢人魔法の浄化能力は極めて優秀だ。油汚れもなんのその。鍋の錆びだって繰り返しつかえば落ちていく。
浄化魔法はモノに使えばピカピカにし、人体に使えば体の垢や匂いまで落とす。部屋に使えばどういう原理か埃が消えるし、お風呂掃除に使えばカビまで消える。シュルトが呆れるほどの多機能な清掃能力を持っている程であるから、生活魔法の代表格とさえいえるだろう。加えて、その途方も無い性能の癖に消費魔力が極小であった。
まさに清掃界の革命児であった。奥様方の負担は大いに減り、独り身の男共の清潔度もうなぎのぼり。おかげで掃除用具の使用頻度がかなり激減で、道具類が場所をとることも減って部屋の利用面積が増えた。水面下では掃除マニアが邪道だといっているが、それも所詮は圧倒的少数派であった。ほとんど絶滅危惧種といえただろうか。
生活魔法の隆盛。それは賢人が偉人と言われる一旦である。賢人様は主婦の心強い味方だった。無論、恩恵は掃除だけではない。水汲みからの開放、洗濯に食材を長期保存する冷蔵庫、果ては料理のレシピや調理器具など功績を挙げていけば限が無い。家事全般の負担軽減は、大陸中の主婦が歓喜した大事といえよう。
「浄化! ……アレ? でも今なら態々浄化魔法使うよりも、私が奇跡使って広範囲を浄化した方が一瞬じゃないこれ」
大清掃令を発令したものの、気づいてはいけない事実にリリムは気づいてしまった。
「まぁ、いっか。手抜きしない方がありがたみもでるってもんよね」
家主は最先端のスタイルで掃除を続けた。
ダンジョンは広大だ。その中でも訓練用スペースの床は石ではなく土である。転がっても石畳ほどにダメージがいかない。シュルトは訓練ででこぼこになっているそれを魔法で丁寧に埋めていく。
「ふむ。もう少しだな」
賢人魔法の範囲拡大はもとより、無詠唱化や広範囲化などはシュルトにとっては理屈さえ理解できれば朝飯前である。少女たちの努力の跡を消していくのは少し勿体無い気もしたがシュルトは綺麗に整地していった。
「魔法卿! みてみてー!」
「ん? なんだレブ――」
ノシノシと、防衛用のストーンゴーレムがレブレを乗せて歩いてくる。それはいい。それはいいのだが、そのゴーレムの姿がリリムそっくりであった。シュルトは一瞬言葉を失った。
眼は釣り上がり、おしおき時のそれである。頭部には羽着きの兜をかぶり、華奢な体を不釣合いな鎧で覆っている。両手には篭手、両足は具足。そして、右手には石の槍を持っていた。無論、それだけではない。全身石製の武器防具には簡易エンチャントが施され、戦闘能力を引き上げる工夫が施されている。正に芸術性と防衛機能を併せ持つ兵器だった。
「渾身の力作! リリムゴーレム~戦乙女仕様~。通称ヴァルキリリムだよぉ!」
「――待て。お前これをどうやって作った!?」
「決まってるじゃないか。暇な時に魔法と爪で削ってこつこつとだよぉ」
「鬼才現る!?」
子竜はクリエイティブだった。
「知っての通り竜はダンジョン作りの天才なのだ! ドワーフもなかなかやるけど、あいつらは基本的に武器製造とか鍛造とか細工とかだよね。僕たちの専門はダンジョン。そういうのって、石像型ガーディアンはつきものでしょ。ダンジョンを構える竜の美的センスとテクニックは、配置されたゴーレムを見れば大体分かる。つまり、ゴーレムを綺麗に作れる竜は凄い竜なんだよ!」
石像リリムの頭をペシペシと自慢げに叩きながら、レブレが胸を反らす。シュルトは心の底から感心。魔眼を凝らす勢いで吟味する。これが実によく出来ていて、芸術に煩いシュルトをも唸らせるほどであった。
「むっ。しかもこれは大きさがほとんど等身大ではないか?」
「うん。マメに噛み付いて態々サイズ測ってたもんね」
「味見ではなかったのか」
「味見はしてたけど、どうせ僕リリムは食べないよ? 美味しそうでも食べる必要がないじゃない。リリムを食べるなんて勿体無い!」
「そうか。私は少し、お前を誤解していたようだ。許せ匠よ」
「わははー。なんだか分からないけど許してあげよう!」
「それで、この素晴らしい石像は一体作るのにどれぐらいかかるんだ」
「本気出せば一週間もかからないよ」
「ほぉ……なら――」
「ダメダメ。次はサキゴーレム~YUKATA~を作る予定なんだもん」
「むぅ。そうか」
「それに僕は作りたい物しか作らないもんね」
造形美と破壊力とダイナミックさの融合である。見れば見るほど素晴らしい。シュルトとしてはこれにバリエーションを持たせることができるのであれば、例えば新しくマイホームを建てたときに入り口から玄関に入るまでの間の庭にズラリと並べたいぐらいだった。
「では例えばだ。例えばの話しだ。明日私が大量にアイビーフを狩ってきたとしよう。するとお前は、このダンジョンにある全てのゴーレムやガーゴイルをリリム姿に改造したくなったりはしないか」
「や、やらないよぉ」
「ではそこに更に一晩狩った私の儲けでバーベキューをするとしたらどうだ」
シュルトはレブレの両肩をガッシリと掴むと、朗らかに尋ねる。
「ま、魔法卿の儲けで一晩分……じゅるり」
「そうだ。一晩分だ。当然だが私は転移で街中を巡って肉屋を攻めることができる。この意味、聡明なお前なら分かるな?」
「あうあう。つつつ、つまり帝国中のお肉が僕の元に……」
自然と湧き上がる唾液を飲み干しながら、子竜はミートパラダイスに思いを馳せる。
「ごくり。そ、それは例えばどんなリリムが欲しいのかなぁ」
「服装は全種類違っていたらそれでいい。表情も大きさも匠に全て任せる。怒ってるのでも笑ってるのでも拗ねているのでも無表情でもいい。とにかく匠が表現できるありったけ全部だ!」
「ちょ、魔法卿! もしかしてダンジョンをリリム色に染め上げるつもり!?」
「安心しろ。サキゴーレムがひょっこり混ざっていてもクライアントはきっと気にしないし、ドラゴンのゴーレムや吸血鬼のゴーレムが居ても良いのだ。問題は素晴らしき匠の作品がこのダンジョンをより華やかにしてくれるかどうかなのだ!」
「う、うーん」
「勿論、戦闘能力を下げる必要はない。これまでどおり防衛戦力として必要だからな。万一魔物に攻められた場合のことも考えておかねばならん。そうだな。新しく鑑賞部屋……もとい、待機部屋でもつくって保管しておくのもいいかもしれんな」
「えーと、じゃあ待機部屋を用意してそこで作っていく方向にしようか。今あるダンジョンのゴーレムはそのままで、こっそりだよ」
バレたらリリムが何を言い出すか分からない。レブレとしても事を荒立てたくはない。
「そうか。よし、ではクライアントは肉を用意しよう」
意地でも自分が依頼するとは言わないシュルトである。
「ほ、本当に?」
「ああ本当だ。製作は匠が満足できるほどの肉を集め次第で構わん」
シュルトが笑顔で手を差し出す。子竜は迷った。悪魔の誘惑である。だが迷った末で、喉を鳴らしながらその手を取った。
「商談成立だな!」
「うん!」
掃除は続く。部屋を片付け追えたサキと合流し、風呂場のカビやトイレで壮絶な戦いを終えた後、少女二人は最後に残った部屋に突撃する。そこはシュルトとリリムが現在しようしている部屋である。
「悪いわね、手伝ってもらって」
「いえ、いいですよ。それよりも部屋の本はどうしましょうか」
部屋の一角に詰まれたシュルトの本だ。テキスト作りに使ったり、まだ教わっていない魔法の本もあるのだろう。触って良い代物かどうかがサキには判断できない。
「ああそれ? シュレイダーの奴、影に仕舞えばいいのに出しっぱなしにするのよね」
「まったくもう」などと言いつつ、リリムは遠慮なく近くにおいてある本棚に突っ込んでいく。それはシュルトが買ってきた本棚であり、シュルト専用。邪魔ならそこに置いておいてくれと言われているので、容赦しない。
「て、適当ですね」
「そりゃね。とっとと終らせたいし。サキは悪いけどベッドの方浄化しといて」
「分かりました」
手分けして作業に入る。すると、リリムは途中で妙なモノを見つけた。
「アレ、これ……日記?」
他人の日記など、大よそ見たことはない。そもそもリリムにはそんな趣味がなかったからふと片付ける手を止めた。
(間違いなく私の好奇心が疼いちゃってるわ)
背後でせっせと掃除しているサキには悪いが、これを放置プレイにすることが出来そうにもなかった。魔法関係の書物だけを本棚に突っ込み、それ以外の日記だけを机の上に残す。
「ふふふ。これはチャンスよね。あいつが何考えているのか知る権利が私にはあるはずだものね。いえ、きっとあるわ。私ばっかり知られ続けてるってのはダメよ。ダメダメよ」
リリムは嫁である。一応肩書きは嫁なのである。役所に届出していないし世間的に何か証明しているわけではないが、嫁には夫らしい何かの頭の中を知る権利があった。当然、プライバシーなどこの際関係が無い。踏み込んでくるのだから、知られる覚悟ぐらいしているだろうから。
「サキ、ちょっと来て。面白い物見つけたわ」
「なんですか。……先生の日記?」
「ええ。それもリングルベル時代の奴もあるみたいよ」
「それは色々と気になる代物ですね」
眉根を寄せながらサキが唸る。珍しい光景である。いつものサキなら「先生に悪いですよ」と言いそうな場面だ。女王様は笑う。共犯者はこれで確保した。
「弟子は師匠について知る権利があると思うのよ。当然嫁にもね」
「それは、しかし……掃除もありますし」
「じゃ、終ったらいいわよね」
「ええ、まぁそれは……リリム?」
「よし。そうと決まれば反則行くわよ!」
聖浄気を展開。オーラの光を神々しいまでに展開しながら、リリムは大清掃作戦のノルマに終止符を打つ。
「これこそ修行のせいか! 綺麗になれぇぇぇ!!」
気合一閃。光が突き抜けたかと思えば、サキの眼前で舞っていた埃や汚れががことごとく消失していた。ベッドの下を軽く覗き込めば、床板が輝かんばかりに清掃されている。
「それは色々と反則では?」
「いいのいいの。ノルマ終了よ。さぁ、読んでみましょ」
適当に一冊取ると、リリムはベッドに座り込んで読書を開始。とても楽しそうだった。サキは葛藤したが、目の前に詰まれている本の魔力が彼女を誘惑してくる。彼女もまた、一冊手に取りリリムの隣に腰掛けた。
――賢人暦113年4月○○日。
――その日、飢餓で死に掛けていた私は、珍獣よりも希少価値の高い少女に出会った。
「ち、珍獣? 出だしからこれって」
――そうだ。私は確かに死に掛けていたのだ。体はすでに限界だった。魔力こそ辛うじて残っていたが、それでも刻一刻と残された時間が減っていくのを私は感じた。今までに無い感覚だ。死神の鎌が今にも私の命を狩ろうとしていたのだろう。だからこそ私は、それに抗うために意識が続く限り飛び続けていた。噂で聞いたのだ。純潔を尊ぶという空元の巫女の話しを。その耳を疑うような噂に最後の希望を託していた私は、しかし空元に届かなかった。けれど、日頃の行いか。それともそれが運命だったのか。巫女の代わりに私は彼女に出会ったのだ。
――当初の私は、フリーの冒険者になってそれなりに活躍し、見目麗しい処女の女性冒険者でも見つければなんとかなると思っていた。一緒に戦い、苦楽を共にして信頼関係を気づけば血ぐらいはなんとかなるだろうと。そもそも私にはラークでの価値観があった。そう、異世界の故郷の価値観だ。それがそもそもの失敗だったのだろう。この世界の冒険者ギルドは地獄だ。地獄の入り口だったのだ。
「なんでよ。相変わらず切り口が分け分かんないんだけど」
――思い起こせば、最初にフリーランサーとしてフリー依頼なるものを確認しようと思い、ギルドに足を運んだときだ。私は、理解した。理解してしまった。冒険者ギルドは――
「な、涙でインクが滲んでる!?」
――率が極めて低いのだ。というかそもそも女性冒険者自体が少ないのだ。この世界には魔力と気を利用する技法そのものが発達していない。賢人魔法は確かに素晴らしい。それは私も認めるしかない。だが、冒険者にとっては旅を楽にする程度のツールでしかない。この世界には飛躍的に自身の戦闘能力を向上させる技法がないのだ。生身の身体能力は男女では明らかだ。結果、女性冒険者が生まれる土壌は成熟してなど居ない。つまり、私の目論見は最初から間違っていたのだ。冒険者は女性には少し厳しい職であったのだ! 嗚呼、私はなんと愚かだったのだろう。ラークなら魔力や気でその差を覆せていたが、ここではそれがない。ないのだ!
――だが、そんな愚かな私を救ってくれたのが借金苦で娼婦をやっていた彼女、リリムだった。告白しよう。私が正直に血をくれと言って、快く引き受けてくれたのは彼女だけだった。彼女だけだったのだ。偶に誰かを救って、お礼をしたいというので正直にお願いするとだけで皆ドン引きし、後ずさり、仕舞いには逃げていった。たった一滴でもいいのだ。それだけで私は救われるというのに、彼女たちはお礼をそこそこに私を見捨てた。分からない。この世界のお礼ってなんだ。助けてくれた相手を地獄に突き落とす行為を呼ぶのか? まさか、そういう文化なのかと首を傾げるばかりであった。今でもそうだが、私には理解できない。この世界は色々と異常なのだ。
――私は、それを人心の荒廃を極まっているからだと半ば無理やり納得した。いくらなんでもそれはないだろうと薄々気づきながら。しかし、それは私の希望的幻想であったのだろう。この世界は私のような高潔にして紳士なる吸血鬼には地獄だと気づかぬ振りをし続け、私はやはり当たり前のように幻想にさえ裏切られたのである。
――この世界には元々吸血鬼など居ないせい。そのせいか、私を理解してくれる女性が居ないのだ。金を稼ぐ手段はあっても、血を手に入れる手段がない。つまりは、この世界を私に容赦なく死ねと言っているのだ。私はそれに気づいてから絶望の渦中に居た。リングルベルでは安月給だけで、血は成果が出るまでなしのタダ働き同然。部屋代と飯代ぐらいは経費で落とせといいたい。劣悪な環境の中、それでも私は未来の希望を信じて授業に励んだ。酒場で不味いトマトジュースを樽一杯開けるのがお似合いな、不甲斐ない吸血鬼ではあったかもしれない。だが、最後に報われる日が来るはずだったのに、なのにそれさえも泡沫に消えた。私は、もしかしたらただの道化なのかもしれない。
――今だから正直に告白しよう。その日の前に、私はもういっそうのこと無差別に血を吸ってもいいかと思った時期があった。どこの街だったかは忘れたが、それをしようとした。そうして、獲物を探していた私はスラムで一人の少女に出会った。私は、第二の絶望に襲われたと同時に、その少女に救われた。少女は、狼狽する私を前に作り笑いをしながらスカートの裾を捲くり、代金を口にしたのである。彼女もまた娼婦だった。私は、当時持っていた全財産を彼女に押し付けると、「強く生きろ」とだけ言って泣きながら見っともなく逃げ出した。戸惑う少女の声を振りきり、空へと逃げたのである。私は弱かったのだろう。その日から強く生きようと心に誓った。安易な道に逃げるのではなく、残された日々を精一杯生きようと思ったのだ。
――血を吸うだけの悪鬼に成り果てるよりも、高潔に死のう。あの名も知らぬ少女のように、必死に生きよう。昔を思い出せシュルト・レイセン・ハウダー。お前は、処女の血に救われたのだ。彼女たちにはただの労働でしかなかったとしても、お前は処女の血に、彼女たちに救われたのだ。だから、そう。私は、救われた恩義を知る者として、誓って安易に彼女たちの血を無理やり吸ってはならないのだ。
――嗚呼、今日は書き留めておかなくてはならないことが多すぎる。本題からそれそうだ。そう、今は彼女のことを書き留めなければならない。
――リリムは処女ではなかった。空から落下し、彼女を見た私は悟った。吸えば死ねると。これが人生最後の吸血であると。あの娼婦の少女のことが脳裏を過ぎる。彼女たちだとて、好きでそうしているわけではないはずだ。そうだ。彼女たちは奪われただけの被害者だ。ならば、その犠牲者を一人でも救おう。なけなしの金を差し出し、恥を忍んで血を売って貰う交渉をした。死の恐怖に震え、世界を呪う私に、彼女は優しく微笑んでくれた。OKを貰ったのは初めてだった。これは奇跡だ。それどころか地面に座り込み膝枕をし、私の涙を拭ってくれた。嗚呼、もし慈悲の女神とやらが居るのならば、きっと彼女のような可憐な少女なのだろう。自らの自傷にさえ気にせず、彼女は私に血をくれた。涙が止まらない。もしかしたら、私は彼女に出会うためにこの世界に呼ばれたのだろうか。いや、きっとそうに違いない。ショック死すると思っていたのに死ねず、ご馳走を通り越して至高とも呼べる聖女の血さえも振舞われてしまった。
――こうして私は、彼女の優しさに心身共に救われたのである。この日記を綴れるのも彼女のおかげだ。私は、私の高潔な精神にかけて生涯この日を忘れないようここに書き留めて置きたいと思う。何故かちょっと誤解されたような気もしたが、きっと彼女ならば私を理解してくれるはずだ。嗚呼、そのためには金だ。一刻も早く彼女を借金地獄から救わなければならない。
「なんか、私のことがすっごく美化されてるような……まぁ、いいけど」
――そうだ。リリムを語る上で、もう一人外せないのがサキという少女だ。リリムと出会い、救われたその日に出会った彼女である。リリムと出会ったのが運命ならば、彼女は私とリリムの出会いを劇的にする運命の神の悪戯的存在かもしれない。ただ、今は素直に喜ぼう。また一人救えた。それだけは、喜ばしい限りである。
――賢人暦113年4月○○日。
――何から書こう。昨日リリムと出会ってからいろいろなことがあった。まずはサキのことを書こうか。彼女は私に師事したいというのだ。教職とは、実はラーク時代に思い描いていた夢の一つである。リングルベルでは失敗した。しかし、個人ならばどうだろう? 代価もサキは頷いた。失敗を恐れず挑戦しろとかつて教えたことがある。魔法を学ぶというのは失敗の連続なのだ。そう言って教えた私が、一度の失敗でくよくよするのは可笑しいだろう。失った夢の一つを取り戻すためにも、私は引き受けることにした。
――サキにスキル魔法を掛け、軽く山脈でガイダンスをしてきた帰りにリリムに会いに行く。三百歳を越えた私である。だというのに、今は初めて魔法を習ったときのように気が逸る。嗚呼、これが恋か。吸血から始まる恋。なんとも吸血鬼らしくて健全じゃないか。いかん、何故かあの子のことが頭から離れない。これはきっと重症だ。私は命ばかりか、心まで奪われてしまったのだ。さすがは聖女。生きた吸血鬼殺し。伝説のように、吸血鬼を破滅させかねないほどの恋心を抱かせるとは。これがサキュバスやらのチャーム<魅了の魔法>なら当たり前のように簡単に防げるのに、これだけは私も防げないらしい。
――再び出会った彼女は、私たちを見て驚いていた。そうして彼女と共に借金の返済に向かった。剛毅な彼女は昨日、借金を返してくれたら嫁になると言ってくれていた。正直、高々一千万リズというところが引っかかった。少なすぎるだろう。謙遜が過ぎるというものだ。世界の一つぐらい征服して来いと言われた方がしっくりくる。が、私としても早い方が良い。それに不満はない。いや、違うか。彼女の値段ではなくただの親の借金の額だったか。ふぅ、私としたことが。とんでもない勘違いをするところだった。
「世界……世界? 私と天秤にかけんなそんな大それたもの!」
――商人はあこぎだ。私だけならともかく、リリムを巻き込みやがった。そのまま店ごと物理的に潰そうかとも思ったが、リリムに怖がられたくないのでやめた。代わりに襲い掛かってくる兵隊やらチンピラに鉄拳制裁だ。リリムを両腕に抱きしめ、ナイト気分で立ち回る。正直、ちょっと楽しかった。制裁を終えるとリリムの家を回収し、帝都に向かった。ここなら安全だ。しかし、私は有頂天の余り失敗した。サキが居るとはいえ、間が持つかどうかも分からないではないか。お互いに知らないことが多すぎる。くっ、嫌われるのは論外だ。いきなりがっついて血を求めるのは違う気がする。今こそ、真の紳士になるべき時が来たのだ。この日から、私の我慢の日々が始まった。魔法使いを通り越して私は賢者にならなければならないのだ。うろたえてみっともない姿を見せるわけにもいかん。精進しなければ。
「あんな物干しそうに催促してくるくせに?!」
本人は我慢しているつもりだのだろう。更にページをめくりながら、リリムは日記を紐解いていく。
――賢人暦113年4月○○日。
――啓示の緑竜レブレに出会った。リリムが容赦なく魔物を叩いていた日だ。「跪け」とか魔物相手に言って、可愛らしく啖呵を切っていた。鞭を振り回す姿は中々に堂に入っている。よくは知らないが、プロの技という奴だろう。その頑張っている姿を見学する幸せはしかし、すぐにレブレによって奪われてしまった。まぁ、聖女として覚醒を促したので許してやるとしよう。しかし、そのせいで魔物を召喚している奴が魔物を集めてリリムを追いかけ始めてきた。厄介なことをしてくれたものだ。おまけに私に掛けられていた魔法まで解けた。それは別にかまわないのだが、リリムとの意思疎通手段が筆談しかなくなってしまった。くっ、なんとしてでも言葉を手に入れなければ! ネィティプな発音が酷く聞きにくい。く、あの小鳥の囀りのような美声も当分はお預けというわけか。まだ彼女と話すことは沢山あるというのに! 言葉の壁が私たちの邪魔をする。くそ、負けてたまるものか!!
――賢人暦113年6月○○日。
――気のせいだろうか。レブレがリリムを狙っているような気がする。味見と称して甘噛しているのだ。食ったら勿論、戦争だ。私とあいつで戦争だ。いいや、殲滅戦だ。竜狩りだ。この世界の全ての竜種を絶滅させてリリムに差し出すしかあるまい。だがそこは慈悲深きリリムだ。拳骨で許してやる寛大さを見せている。それを見ていると、私は恥ずかしくなった。嫁があんな器量を見せているのだ。夫である私が子供の悪戯程度に目くじらを立てるというのだどうなのだろうか。やれやれ。この歳になって少年の如き青さを残しているとは。私もまだまだ若いな。フッ。本当にリリムは私を色々な意味で高みへと導いてくれる。私も、できうる限り彼女に返さなければなるまい。
――賢人暦113年8月○○日。
――スリ女ルアンダに会った。それにあわせてギルド長を脅して賞金首を解除させた。中々話しの分かる男だった。しかしこの手配書、一枚貰っていってはダメだろうか。リリムに渡しておけば、私がいないときでも寂しくないだろうに。というか、リリムの絵が欲しいな。いっそのこと二人で映った絵が欲しい。どこかにこれはという絵描きはいないだろうか。いつか屋敷を手に入れたときには、入り口から入ってすぐ見える場所に飾りたいものだ。
――賢人暦113年8月26日。
――ルブール子爵に裏切られた。何故だ、私とリリムがモデルではなかったのか。いや、百歩譲って私を排除するのはいい。それはいいがメインがリリムだけではなくなった。それ以前に、芸術が駄作になった。何故だ。何故なんだ子爵! 裏のタイトルが『この中に一人男の娘が居る』ってなんなんだ。そんな説明臭いタイトルがあってたまるか!? 型破りにも程があるぞ!?
――賢人暦113年8月27日。
――子爵がお礼にとプライベートビーチを開放してくれた。赤いビキニ姿のリリムが、サキと一緒に無邪気に波打ち際ではしゃいでいる。どうやら海は始めてらしい。ルブール子爵はそんな彼女たちを微笑ましく眺めながら麦わら姿でデッサンし、レブレは何故かメイドたちに餌付けされていた。かくいう私はといえば、戯れる二人の邪魔をするのも野暮だと考え、優しい目で見守りながらパラソルの下で日光浴に勤しんでいた。途中、リリムが私の手を引いて混ぜてくれた。そんなに寂しそうな顔をしていたのだろうか? まぁいい。こうなったら童心に返ったつもりで遊び倒そう。ふふっ。魔力障壁を利用した私のマジックサーフィンの腕前に、彼女たちは釘付けであった。もしかしたら私は、レグレンシアに光臨した初めての波乗りかもしれない。二人にもレクチャーし、楽しく波に乗った。それにしても海はいい。魔物がいないのでリリムも伸び伸びしていた。嗚呼、一刻も早く魔物の問題を片付けよう。あの笑顔を曇らせる奴らは私の敵だ。例え相手が召喚を司る神だったとしても許さん。
――賢人暦113年9月○○日。
――サキがお参りに向かった。帰ってくると、何やら考えごとをしていたので相談に乗ることにする。自信をつけさせるためにも直接手は貸さないことにしたが、レブレが居るなら大丈夫だろう。サキにまでちやほやされているレブレだが、それなりに腕は立つ。いや、そもそもあの竜は下手をすると神竜やら古竜系統の子孫ではないのか? 確か、竜殺し用の魔法を探していたときに書物でそんな記述を見たことがあるような気がするのだ。子供の癖に妙にでかいのも気にかかる。気のせいであればいいのだが、もしそうだとしたら成長するとあの食いしん坊は神も悪魔も食えるようになるのかもしれない。だとしても千年は先だろう。その頃にはリリムの血の恵みを受けた私は相当にパワーアップしているはずだ。ならば力関係は変わらない。リリムの魅力に負けて理性を失って食べようとしても、どうにか守れるだろう。そんなことにはならないような気もするが、警戒はしておこう。まぁ、そんなことになればあいつは一生肉抜きだろうが。
――賢人暦113年10月○○日。
――サキががんばり過ぎではないかと心配していたが、空元のナガノブとかいう少年にあったせいか、それとも墓参りで張り詰めていたモノがなくなったのかよく笑うようになった。空元に遊びに行くようになったレブレの話しを聞いて、驚いたり呆れたりしている。このところ、何も問題など起こっていない。平和でよろしい。リリムとの距離も少しずつ狭まっているような気がする。だが、疑問がある。あの子は夜の食事の最中、何故か私に足を舐めさせるときがある。……何故だろう? グリーズ帝国の女性たちは皆そうなのだろうか? それともこの世界共通の文化なのだろうか。いや、別にどこの血でも良いのだが、色々と不思議である。もしかして、何か私たち二人の間で致命的な誤解でも生じているのだろうか? 分からない。だが、なにやら向うが満足そうなのでこのままでもいいかとも思う。本当はオーソドックスな吸血スタイルがいいような気もするが、彼女が嫁だ。リリムスタイルでもいいだろう。私の嫁なのだから、私が誰よりも彼女の性癖まで理解してあげなければならないのだ。ああ、今日も彼女との夜の食事が私を待っている。今日はどこなのだろう。美味しいので気にもならないが、癖になったら大変だ。誰か教えてくれ。もし、妙な性癖に開眼してしまったら私は一体どうすればいいのだ!?
――賢人暦113年11月○○日。
――山も随分と冷えてきた。寒いので夜の狩りと探索を控えめにする。そういえば、来月はクリスマスか。よく知らないが、子供向けの賢人童話に出てくるサンタ・クロスなる人物が活動する日だそうだ。独断で選んだ良い子だけにプレゼントを施すというちょっと不平等な童話だ。賢人の書いた童話だが、今では実際に子供にプレゼントを与えて驚かせる親が多いらしい。あるいは、恋人同士で交換する日になっているとか。私も何か交換するべきだろうか。そういえば、リングルベルでは学生たちがクリスマスパーティーを企画していたな。プレゼント……新しい鞭でいいか? いや、ちょっとそれは実用的過ぎるだろう。そうだ。ここは店長に特別に大きなケーキでも焼いてもらうのはどうだろう。ふむ、よし。予約しておこう。
「うーん。マメな奴」
毎日とは行かずとも、出会ってからずっと日記は続いていた。そういえば先日、クリスマスだとかでケーキを持ってきたことは記憶にも新しい。まさか一ヶ月も前から企んでいたとはリリムは気づいていなかった。
「サキ、そっちはどう」
「どうやら、リングルベルでの教師時代の日記のようですね」
「へぇ、なんか面白そうなこと書いてある?」
「いえ、その……教師としての愚痴ばかりです。随分と苦労したようですよ」
横から覗き込んでみると、保護者が怒ってきたとか怒りの余り教室の壁をぶち抜いたとか色々と書き連ねれれていた。
「苦労してたのねあいつも」
「ページを追っていくと苦労話以外もありましたよ」
「例えば?」
「学生に恋文を貰って驚いたとか、ツケが効くトマトジュースの美味しい飲み屋を見つけたとか。あ、後、皆立派な淑女になって嬉しいとか色々です」
「ふーん。でも教師かぁ。なんだか面倒そうだけどなぁ」
「でもこれは参考になるかもですね」
「そっか。売るってことは教えるってことだもんねサキの場合は」
「ええ。先生の歩んできたことを綴ったこの日記は、きっと参考になるはずです」
前向きというか、頑張り屋というか。サキは熱心に日記を読み耽る。リリムも、他の日記を手にとって読み続けた。
「まさか、リリムだけでなくサキまで私の日記を呼んでいるとは」
「すいません先生。つい出来心で……」
「ずるいー。僕も読むー」
「まぁ、私は見られて恥ずかしいようなことは書いていないからいいが。せめて断ってからにするべきだな」
「ごめんごめん。今日は大目に血を吸わせたげるから許して。ね?」
「くっ――卑怯な。反省の色が無いのに許してしまいそうになる文句だぞ!」
伝家の宝刀が炸裂である。もはや裏の上下関係は完璧であり、胃袋を捕まれた男はどこの世界でも弱かった。
「そういう割には、顔は正直そうなんだけどなぁ。怒るのか嬉しいのかどっちのなのよ」
「両方だ。しかし、違う意味で驚いたぞ。まさかそんなに君が私のことに興味津々になっていたとはな」
「なぬ?」
「日記を読むということは、つまり私の日常を知りたかったということだろう。ふふっ。そうか。よし、ならこれからはいつでも聞いてくれ。包み隠さずに伝えよう」
「あー、相変わらず堪えない奴……」
「そうだ、君が読めるように置いておこう。いつでも読むといい。なんなら、私と愛の交換日記でも始めるか」
「面倒くさいからパス」
リリムは正直だった。
大清掃作戦が終って一月が経過した。ふと、シュルトが居ない時間が出来たリリムの視線が、日記に向けられた。手持ち無沙汰な時間であることもあって、ふと思い出したようにその日記を見てみた。
「興味なんてないけど、暇つぶしよ暇つぶし」
――賢人暦113年12月○○日。
――ついに竜族の匠が本気を出した。今まで食っちゃ寝しているだけかと思っていたが、思わぬ才能を私に見せ付けたのだ。私は、彼との約束を果たすべくアイビーフを探す旅に出た。やはり、山脈だろう。刺激しない程度に責め続け、遂に年が明ける前に作戦を決行した。これは防衛戦力の充実と、芸術的見地から見た非常に重要な作戦である。私たちはこれをLG量産作戦と名づけ、ダンジョンをこっそりと拡張。リリムゴーレムの量産に秘密裏に着手した。律儀にも匠は、条件を満たすよりも早く着手していたようで、ヴァルキリリム以外にもう一体勇者リリムの開発に成功していた。素晴らしい。正に英雄の如き面構えだ。キリリと遠くを見据えるその姿からは、可愛らしくも力強さを感じさせる。今にも後光が差しているようにさえ見え――
「なぬぅ!?」
リリムは駆け出した。ダンジョン内に隠されているという秘密工房を探り出すために、サキ隊員を動員して探しにかかる。やがて、外から帰ってきたレブレを捕まえて交渉。遂に忌むべき防衛兵器の量産場所を突き止める。すると、そこには神妙な顔をしてデッサンをしているシュルトが居た。
「リ、リリム? 何故ここに!? まさか――」
「魔法卿。ごめんなさい」
「シュレイダァァ。貴方こんなところで一体何してるのかしら」
ミニ女王様はお冠であった。シュッシュッと鞭を意味もなく振り回し、ご立腹だと体全体で表現している。前衛芸術もかくやといわんばかりのボディーランゲージだ。
「み、見ての通りデッサンだ。素晴らしい作品があるのだから、芸術を愛でる心が動いただけだ」
そこにはヴァルキリリム、勇者リリム、浴衣リリム、シスターリリム。そして、刀を下げた浴衣姿のサキゴーレムが鎮座している。
「壊していい? いいわよねこれ!」
「だ、ダメだ! この子たちに一体どんな罪があるというのだ!? 望まれて生まれてきただけではないか!!」
「先生……せめて了解を取ってからにしてくれれば良かったのですが」
サキがもっともらしいことを言うが、今更の話である。
「ねぇ、そろそろぶっ壊していい? いいわよね」
「さ、させるものかっ!」
シュルトが魔法を展開。一瞬でダンジョンから石像諸共消え失せる。後に残ったのは、怒り心頭の女王様とその様子に震え上がる子竜とサキ隊員である。
「転移? 転移しちゃうほど大事なのアレ!?」
「いやぁ、ああ見えて魔法卿ってほら。芸術に煩いじゃない。しかもリリムの姿してるからもう歯止めが利かないみたいでさぁ。第二第三のリリムを寄越せみたいな?」
「だからって、あんたもどうして作ってたのよ」
「防衛戦力の充実は別に悪いことじゃないじゃないか。僕としても美味しい目にあってたわけだし、作ってると純粋に楽しかったんだよぉ」
「ふん。本物が居るのに石像にデレデレするってどうなのよ! 私の絵が描きたいなら私にお願いすればいいじゃないのよもう!」
「普通に頼んでも断りそうだけどなぁリリムは」
「何か言った?」
「ううん、何も」
こうして、LG量産計画は粉砕された。後日、LG量産計画Ⅱが発動しかけたが、またも日記から察知され阻まれた。だが、リリムは知らなかった。消えたリリム像がいったい何処に保管され、そしてそのうちの一体がルブール子爵家の博物館に寄贈されて人々に鑑賞されていることなど。




