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プロローグ

プロローグ


 その日、金髪碧眼の少女リリムはいつものように娼館での仕事を終え家路へと急いでいた。親から受け継いだ普通の家だが、スラムと呼ばれる区域であるために治安が悪い。いつも夕方で仕事を切り上げ、帰宅させて貰っていた。


 表通りや中央区を巡回している兵士たちも、スラムはあまり巡回しない。まるで税金を碌に払えない連中には見回ってやる義務はないとでも言わんばかりの有様だ。事実そうなので文句を言う住民は誰もいない。それどころか碌に仕事をしない連中など要らないというのがそこに住む者たちの認識である。


 安全を金で買えない。当たり前のように自分で自分の身を守らなければならない。そう理解していれば彼らに頼ろうという意識はまず出ない。リリムもそうだった。護身用にと申し訳程度に用意したナイフを懐に忍ばせたまま、着古した外套に身を包んで歩いて行く。幸い、家がスラムの奥にあるわけでは無かった。奥に行けば奥に行くほどに治安は荒れていくが、それよりはマシな位置にあるため問題はまだなかった。今日もそのはずだったのだが、そんな彼女の願いなど無視していきなり空から男が振ってきた。


「ぐっ――」


 背中から落ちたその銀髪の男は、呻き声を上げながら地面を転がっていく。そのどこかシュールな光景を前にすれば、さすがに彼女も足を止めざるをえない。眼前には男がおり、ようやく転がるのをやめていた。微かに胸元が上下していることから、生きていることだけは辛うじて分かる。間違いなく厄介ごとだが目の前でいきなり死なれても目覚めが悪い。リリムは己の中にまだ残っていた良心に従い声を掛けることにした。せめて最後を看取るぐらいは、してやるつもりだったのだ。


「ちょっと、貴方大丈夫?」


「……どうやら驚かせてしまったようだな。すまない、スラム少女よ」


 意識は辛うじて失ってはいないようだった。けれど、それだけだ。男が起き上がることはなかった。その代わりに、盛大に腹から音を鳴らして見せる。


「怪我とかは……ないの?」


「そちらは問題はない。だが、もうそろそろ餓死で死にそうだ。もう、かれこれ数年も飯を食っていないから……な」


 喋ることも億劫なのか、声は弱弱しい。しかし、男は続けた。


「君は……そうか。処女ではないのか」


「え? あ、うん。私こう見えて娼婦だし」


 金髪をかき上げながら、彼女は言った。リリムは小柄な少女である。今年で十三歳にはなっていたが既に何人もの変態男の相手をしていた。当然、純潔など失っている。


「嘆かわしいことだ。この世界はつくづく私のような者には生き辛い」


 死に損ないのその男は、ルビーのような紅い眼から薄っすらを涙を滲ませる。


「希望は、もうないのだな」


 まるで、絶望に打ちひしがれているようだった。自分の膜の有無がどうしてその男の希望を絶つのかなど、彼女には分からなかった。だが、静かに泣くその男が本当に今にも死にそうなことだけは理解できていた。彼の姿が、まるで亡くなった母のようだったのだ。転がったままの男の側にしゃがみ込み、膝を貸してやることにする。


「感謝しなさいよ。私の膝枕はオプションで別料金なんだからね」


 言いながら涙を服の袖で拭ってやる。すると、男は少しだけ笑った。


「はは、そうか。ならもう一つ頼んでいいか」


「ご飯が欲しいの? パンなら家にあるけど……」


「いや、君の血でいい」


「はぁ?」


「私は、吸血鬼なのだ」


「何それ」


「血が食事となる種族だ。私は、その中でも処女の血しか飲めない偏食の吸血鬼でな。だから餓死しかけている」


「難儀な種族ね。けど、それなら私のじゃ駄目じゃない」


「せめて、最後ぐらいは吸血鬼らしく死にたいのだ」


 男は、手を震わせながら懐をまさぐると、財布を取り出す。


「代金はこれ全部でいいか? 大体二百万はあったはずだ」


「ちょっ――」


 少女が滅多に見たこともないほどの額だった。極めて羽振りの良い変態貴族と同じぐらいの金が納まっている。娼館に大部分をピンハネされるが、これが全部懐に入る。そう考えれば思わず彼女の喉がゴクリと鳴っていた。両親が残していた借金がある。少しずつ娼館の仕事で返済していたが、それを使えばかなり楽になることは間違いない。そのまま財布を持って逃げるという選択肢も確かにあっただろう。だが、彼女は頷いた。


「分かったわ。でも、傷跡が残るのは駄目だから、ちょっとだけね」


「それでいいさ。舐める程度で十分だ。それだけあれば偏食の私ならショック死できる」


「ショック死って何よ」


 どこか釈然としない心地で、リリムは護身用のナイフを手に取った。そうして、指先を少しだけ切る。料理で軽く斬ったときのような痛みが奔る。それに眉を顰めながら、死に損ないの口に突っ込んでやる。


 男は、目を瞑って吸い付いた。舌が傷跡を舐め、生暖かい。生理的な嫌悪感が湧いてくるも、プレイだと思えばいつものように耐えられる。しばらく、その状態が続いた。だが、一向にその男はショック死などしなかった。それどころか、一生懸命に指先を吸っていた。それはまるで女王様に奉仕することに至福に感じるドM野郎のような熱烈な愛撫にも似ていたかもしれない。しかしその紅眼にはそんな奉仕の精神などは存在しない。ただただ一滴でも血を貪ろうとする必死さだけが垣間見れた。


 顔つきはそれなりに端整ではあるのだろう。飛びぬけているわけではないにしても、悪くは無い。見た目は少年と青年の間だろうか。鍛えられているというよりは、優男にも見える体躯をしている。どこか、今まで見てきた男たちとは違う感慨を彼女は得ていた。


(とはいえ、こいつも間違いなく変態さんね)


 少女の指に吸い付いたまま、熱心に舌で愛撫をする男などそれ以外の何者でもない。彼女の常識からすればそうだった。吸血鬼などという聞いたことも無い種族だったとしても、血を一生懸命に吸おうとする猟奇的なプレイを好む変態だと考える方がまだ理解できる。冷めた目で見下ろしていると、男がようやくそれに気づいて指を開放した。

 鬱血した指が少し赤い。血はまだ滲んでいる。それをどこか未練がましく見つめながら、殊勝な態度で謝罪してきた。


「済まない。予想外に美味すぎてな」


「ていうか、ショック死するんじゃなかったの」


「不味さで死ぬとかと思っていたのだが、君はどうやら例外らしい」


 男は、先ほどと比べて血色が良くなっていた。今までの弱々しい様が嘘のように力強く起き上がると、リリムの手をとって魔法を掛けた。


「わ、傷が……」


「傷物のままにしておくわけにはいかないからな」


「ありがとね、お兄さん」


「ところで君の名前は? 私はシュ――」


「ストーップ!」


 ピタリと直ったばかりの指を男の唇に押し当てて止める。


「いい? 私は貴方と深く関わりたいわけじゃないの」


「むう……しかし私は」


「命の恩人に迷惑をかけるつもりなの?」


「そういうわけではない。ただ、君に運命を感じたからこそ求婚したかっただけだ」


「あははは。面白いこというのね貴方」


 冗談にしても笑えない。どこの世界に、借金持ちの幼い娼婦に求婚する馬鹿がいるというのか。リリムは腹を抱えて笑って見せる。だが、態度とは裏腹に、その目は一切笑っていない。一人で生きるには、それなりに警戒心は必要だ。いつでも逃げられるように後ずさりしている。


「そうやって、財布を取り返そうとするわけ?」


「失礼な。それは君に代価として差し出したものだ。今更返却など求めてはいない。ただ、私は君の血を独り占めしたいと思っただけだ」


「あっそ。なら言ってあげるけど、私には結構借金があるわよ」


「なら、私も一緒に返済しよう」


「娼婦だから汚されまくりよ」


「過去など知らん。大事なのはこれからだ」


「……信用できないわね。捕まえて奴隷として売り払うつもりじゃないでしょうね」


「どれだけ私に最低な評価を下しているのだ君は! ならば、返済額を言え。用意するから、信用するかどうか判断するのはそれからでいい」


 男はあくまでも淡々と提案してくる。本気かどうかなど、彼女には分からない。唯一理解したことといえば、その男が財布など眼中にないということぐらいだ。何せ、明らかに距離を取ろうとする彼女相手に微動だにしていない。取り返すつもりなら、もう少し動きがあるだろうに。


「……万リズ」


「何?」


「一千万リズよ!」


 少女は言った。別段、額を洩らしたところで何も減るものではない。そう、どうせその額を聞けば怖気づく。大体にして、それだけの価値は彼女にはない。そう自認していたというのに――、


「一千万だな? 分かった。用意しよう」


 ――あろうことか、その男は怯むことなく頷くだけだった。それにはリリムも目を見張らざるを得ない。


「貴方正気?」


「心外だな。冗談で用意しようなどと言える額ではないぞ」


 一人暮らしなら十五万リズもあれば一月は暮らせる。きちんと節制していればもっと安く暮らせるだろうか。それを考えれば、貴族でもなければ一生ものの借金である。


「借金はやめてよ」


「当たり前だ」


「……まさか、貴方貴族ってオチじゃあないわよね」


「違う。元ではあるがな。そもそも、私の所持金は君が持っているそれが全てだぞ」


「だったら、どうするっていうのよ」


「私はフリーの冒険者だ。なら、稼ぎ方など決まっている」


 自信満々に言うその男。リリムは少しだけうんざりした。自信過剰だとしても、言いすぎだ。彼女の父はそれほど強い冒険者ではなかったが、無駄な借金をしてまで装備を整え、そして魔物に挑んで死んだ。


 一攫千金を夢見た冒険者の末路はそんなものだ。勝算はあったのだと、父親の仲間たちは言っていたが、現実問題として失敗していれば所詮は夢物語に過ぎない。母はそのせいで過労で倒れ、残った借金はリリムに受け継がれた。返済するにしても、その手段は借金取りが提示した娼館での仕事ぐらい。家だけはまだ辛うじて自分の物ではあったが、返済が滞ればそれもすぐに売られるだろう。彼女を今の境遇に陥れた冒険者など、信じられるわけがなかった。


(死にたいなら、勝手にすればいいのよ)


 リリムの中で、男への関心が急速になくなって行く。これ以上話すことは無いとさえ思っていた。どうせ、この男も死ぬ。見たところ武器の一つも所持しておらず、防具らしい防具らしい防具も纏ってはいなかった。これで冒険者だというからお笑い草だ。


 厚手の服に草臥れた外套。その癖、体つきも強そうではない。魔法使いだったとしても、リングルベル王国の魔法淑女隊でもなければ大したことはできない。少なくとも、ここ十数年で、魔法使いの戦果が謳われた話は聞いたことが無い。大陸中央から、最東南に位置するこのグリーズ帝国にその名が轟くほどの勇猛をたたき出す魔法使いはそれだけなのだ。


 大昔の賢人が編み出したという魔法の秘儀は、生活を大いに向上させ、対人戦においても有用だった。だが、この世界に突如として現れた魔物たちを一掃できるほどに強力ではなかった。


 父親が魔物の厄介さをよく愚痴っていたからこそ、そのことを彼女は知っていた。リングルベル王国が例外なのは、異世界から召喚した魔法使いが異界の魔法を伝道したからである。それが王国の機密事項として秘匿されている現状において、在野の魔法使いが稼げるなどと彼女は信じられなかった。


 魔物とは、魔力を使う動物。彼ら魔物は魔力障壁を纏い、その身を鎧う。殺しても殺してもどこからか無尽蔵に現れ続ける、百年ほど前に突然この世界に現れた生者の怨敵。当然彼らを倒せる者は稼ぎはいい。だがそれは、命をチップにしなければならない。


「腕に自信があるって顔ね。いいわ。きっちり一千万リズよ。もし全部返済してくれたら、貴方のお嫁さんだろうと奴隷だろうと喜んでなってあげるわ」


「むっ剛毅な提案だな。いいだろう約束だぞ!」


 男は笑った。すごく嬉しそうな笑みだった。まるではしゃぐ子供のようだ。彼はすぐに踵を返すと、走り出そうとする。しかし、角を曲がる寸前で引き返してきた。


「待て、名前も連絡先も分からないでは金を届けられないではないか」


「ちっ――」


「……満面の笑顔で舌打ちはよくないな。確実に相手の心を抉る行為だぞそれは」


「そのまま気づかずに行ってしまえばよかったのにね。どうせ勝手にのたれ死ぬでしょうに。まったく、可愛そうだからここは笑顔で見送ってあげるべきかしらね。優しい私の心遣いに感謝しろよ、この流血プレイ好きの変態野郎め! ニコニコ」


「心の声が漏れてる気がするが気のせいか」


「あ、ごめんね。かなり鬱陶しくなっちゃってつい本音がでちゃった。てへへ♪」


 上目遣いに両手でごめんなさいポーズを組み合わせてくる。コケティッシュな仕草で謝罪してくるそのあざとさが、男は無性に憎らしかった。しばらく無言で見下ろしていれば、碧眼からうるうると涙が滲み出している。今にも泣き出しそうな、見事な嘘泣きである。男は、もはや感心するやら呆れるやらでため息をつくしかなかった。


「私はシュルト・レイセン・ハウダー。シュレイダーと呼んでくれ。それで、君の名はなんと言うんだ」


「リリムよ。連絡先は……そうね。表通りにある『小悪魔の巣』っていう娼館にでも着てくれれば連絡が取れるんじゃないかな。お金沢山持ってきてくれたら代金に応じたサービスをしてあげてもいいわ」


 答えながら、シュルトから少女は距離を取る。大事そうに抱えられた財布は、がっちりと両手でホールドされていた。その現金な姿には奇妙な愛嬌があった。吸血鬼は今度こそ頷いて踵を返そうとして、少女の背後に目をやった。


「何よ。まだ何か用なの?」


 少女の後ろからゾロゾロと男たちが歩いてくるのが見える。見るからにガラが悪そうな一団だ。一応武装もしているようで、剣帯に佩いている武器が危機感を煽ってくる。見た目で舐められないようにという、この種の連中にとってのお約束なそのはったりは、確かな凶器を所持しているという事実には相違ない。少しだけ心配になった彼は小声で尋ねた。


「後ろの連中とすれ違って、君は無事でいられるか」


「え?」


 振り返ったリリムは、その一団を見てすぐ舌打ちした。そのまま持っていた財布を外套の内側に隠し、シュルトの手を取って視界に入らないように十字路の向うへと移動する。


「やばい奴らか」


「多分、孤児とかを攫ってったりする連中かも」


「……どこの世界も変わらんか。捕まれば末路は悲惨そうだな」 


「奴隷商人にでも売るんでしょうね。ここなら兵士はほとんど動かないしね」


 吐き捨てるように言うが、それほど余裕があるわけではないことはシュルトには分かった。彼の腕を掴んだ手が、少しだけ震えていたのだ。見たところ十人は居ただろうか。全員で襲い掛かられれば少女にはひとたまりもあるまい。


「どうしよう。家が連中の居たすぐそこなんだけど」


「別の道を使えばどうだ」


「どうだろ。仲間が他にも居たら怖いかな。とにかく、日が落ちる前には帰りたいわ」


 迂回する経路を通るも、曲がり角の向うから話し声が聞こえてくる。


「おい、本当に黒髪の餓鬼だったのかよ」


「へい兄貴。随分と足の速い奴でしたぜ」


「空元の餓鬼だったか。あんな格好で外に出りゃすぐに見つけられるもんだがな」


「その辺の家に忍び込んで着替え盗んでるかもしれないっすね」


「かもな。珍しいから高く売れる。だから捕まえて来いっつったって、何時間前の話しだよ。こっちは顔もしらねーっての」


 悪態を吐きながら男たちが遠ざかって行く。シュルトとリリムは顔を見合わせると、そっと角の向うを覗き見る。既に、男たちは歩き去っていた。


空元そらもと? 聞かないわね。一体どこの街よ」


「街じゃない。ここグリーズ帝国の東の海を超えた向こうにある国だ」


「ふぅん。海の向うの人か。だから珍しいってわけね」


「……君狙いでないなら安心だな」


「私? まぁ、可愛いから狙われるかもね」


「……送った方がいいか?」


「そうね。お願いするわ」


 リリムは、強がる箇所を間違えるようなことはなかった。素直にシュルトに護衛させると、家に向かって慎重に歩いていった。変態となんとかは使いようなのである。







「ここよ」


「これで店に行く必要はなくなったわけだ」


 彼女の家は普通の一軒家だった。既に男たちは遠ざかっており、遠めに背中が見える程度。とりあえず安心した様子で家の鍵を開けると、リリムは帰宅した。その後ろにシュルトを引き連れて。


「ちょっと、もういいわよ」


「君一人で住んでいるのだったか」


「え? ええ、そうよ」


「侵入者がいるぞ。泥棒……か?」


「そんなこと言って私の家に入りたいだけじゃないでしょうね。はっ、なんだかんだ言って私の家に押し入って夕食と一緒にデザートとか言いながら私も食べちゃう気ね!?」


「君の被害妄想はそこまで行くと一級品だな。本当に私の評価は君の中でどうなっているのか問い詰めたい気分だぞ」


「世の中には聞かないほうがいいことだってあるわ」


「これは手強い」と呟きながら、シュルトはリリムを押しのけ家に入る。家主が頬を膨らませてぷりぷり怒っていたが、その口にそっと手を当てて黙らせると、迷わず家の中を歩いて行く。家の中の様子など、彼はまったく頓着していない。その様子に金髪少女は眉根を寄せる。やがて、彼は一つの部屋の前で足を止めた。


「そこ、私の部屋なんだけど」


「ここに居るぞ」


「……なんで分かるのよ」


「魔力の気配がある」


「魔力って、そんなの分かるわけないじゃん」


 人は皆魔法が使える。魔力量に差はあれど、無い人間などいない。ならば理屈で言えば確かに魔力を感知できれば人の有無は判別できる。けれど、自分のそれはなんとなく分かっても他人のそれはよく分からないものだ。だから泥棒などが活動できる。それが常識だったが、男はその当たり前の常識を否定する。


「私は吸血鬼だと言っただろう。人にはない能力が色々とある。が、こんなのは訓練次第でできることだぞ」


「あー、はいはい」


「ぞんざいな返答をありがとう。少し下がっていてくれ。取り押さえよう」


 ドアノブに手をかけ、リリムが下がったのを確認するとシュルトは一気にドアを開く。瞬間、小さな影がドアの向うから飛び込んできた。思いのほか素早いと、シュルトが思いながら反射的に後退した。突き出されたナイフの切っ先が空を斬る。リリムが思わず「きゃぁっ」と悲鳴を上げた。


 空振りを察知した侵入者の反応は早い。敵わないと見てとったのか、すぐに部屋へと取って返し脱兎の如き勢いで窓へと向かって走って行く。離脱するつもりなのは誰の目にも明らかだ。その思い切りの良さには荒削りながらもセンスが垣間見れた。最善を一瞬で判断する才能。しかし、それはあくまでも原石でしかなかった。磨きぬかれた宝石レベルではない以上は、初めに仕掛ける行為自体が愚作である。侵入者は初めから逃げるべきだったのだ。


「逃がさんよ」


 シュルトは呟きながら、指を鳴らした。彼の足元の影が逃げる侵入者の影を追い、不自然にも繋がった。その瞬間、いきなり床を蹴ろうとした侵入者の足が影の中に沈みこむ。


「!”#!?」


 咄嗟に倒れることこそ回避したが、窓枠に手を引っ掛けたまま侵入者は動けなくなる。必死に影から捕らえられた右足を抜こうとするも、まるで底無し沼にでも足を取られたかのようにもがけばもがくほどに体が沈む。影は容赦なかった。そのまま広がって左足も飲み込む。こうなるともうどうにもならない。侵入者の顔が、目に見えて青ざめていた。


「捕まえたぞ」


「ほ、ほんとに?」


 部屋の中を覗き込んだ彼女が見たのは、荒らされた自分のタンスと、自分の服を着て影に飲み込まれかけている黒髪の少女の姿だった。


「あー、もしかしてそういうこと?」


「恐らくは」


 タイムリーな侵入者発見に、二人ともが揃って顔を見合わせた。シュルトとしてはどうでも良いが、リリムにとってはそうではなかった。服を取り返して外に放り出すことは、隣にいる自称吸血鬼にでも頼めば簡単だ。しかし、その後の彼女の末路は凄惨なものになるだろうことが分かりきっていた。


 奴隷商人とはすべからく国の息が掛かっている。それは、犯罪者の刑罰としての奴隷法というのがあることから考えても明らかである。最近では帝国を他国から分断している天然の要害――通称『西の大山脈』からやってくる魔物の大群を押し留めるために奴隷兵として使われることも多い。もっとも、それは当たり前のように男が優先だ。目の前で影に抗おうとしている少女は別だろう。


 歳は、リリムとそれほど変わらないかもしれない。黒髪に白い肌。そして明らかに大陸の人種とは違った顔立ちは、彼女の存在をより周囲から引き立てることになるだろう。物珍しさでいえばエルフなどといった希少存在とは比べ物にはならないだろうが、それでも食指を動かされる変態は間違いなく出てくる。ならば、末路は言葉にせずとも決まっていた。仮にここから逃げ出せたとしても行く当てなどなさそうだ。金を稼ぐことができるほどの非凡な能力があるならばなんとかなるかもしれないが、目の前の少女には最も必要なものが欠けていた。それは、言葉だった。


「!”#$%&」


「運が無いわねこの子も」


 喚いているらしいが、大陸の言葉ではない。リリムにはそれが、命乞いなのか罵倒なのかさえ分からない。つまりは、意思の疎通ができない。こんな状態で生きて行くなど、とてもではないが考えられない。


「ねぇ、一応聞いてみるけど言葉分かる?」


 分かるわけないわよね、と内心期待せずに少女は問う。


「頼むから見逃してくれと言っているな」


「……え、言葉分かるの?」


「あー、まぁ、そういう仕様らしいからな」


 「甚だ不愉快だが」と訳の分からないことを呟きながらシュルトは腰まで影に飲み込まれた少女へと近づいて行く。不思議なことに、彼は影に飲み込まれることはない。見たこともない魔法だったが、リリムはそれを気にする余裕など無かった。


「とりあえず静かにしろ。でなければ外で君を探している追っ手に見つかるぞ」


「!”#$%&’」


「そうだ。大人しくするんだ。今、家主と君のことで話しをしている」


「……どうしてそれで会話が成立するのよ」


 大陸の言語と、よく分からない国の言語で会話しているのに通じている。まるで意味が分からない。が、とりあえず黒髪の少女が静かになったのは良い事だった。


「やはり、外の連中の狙いはこの子らしいな」


「それ以外に導き出される答えがあるなら、是非とも知りたかったわよ」


「でだ。君はどうする」


「どうするって言われてもね。私、とばっちりを受けるのは嫌よ」


 皆自分のことに精一杯で、他人のことなどどうでもいい。他人に優しくできるのは、余裕がある者か、強い者だけだと決まっている。冷たいほどに浸透しているその論理は、弱い者たちには当たり前の処世術。それに文句を言われる筋合いなど彼女にはない。堂々と言い切ったその姿勢には、一切の迷いなど見受けられない。シュルトはそれを聞いて、「まぁ、そうだろうな」と苦笑する。


 しばらく匿うぐらいならできるかもしれない。だが、それでは結局何も変わらない。万が一見つかれば目も当てられない。そもそも彼女という負担ができれば、それだけ借金返済が滞る。自分を救うためには冷たい選択を自身に課すしか道は無い。余裕など彼女にはないから、それ以上の選択肢など選べるはずもないのだ。


「やはり私がどうにかするしかないか」


「何よ、お金無いのにどうにかできるっていうの」


「無いなら稼げばいいだけだ。まぁ、それ以上に連中が不愉快だというのもあるがな」


「物好きなのね」


「吸血鬼としては当然の選択だよ。美味い血を宿している処女は世界の宝なのだからな」

「……見直した私が馬鹿だったわ」


 損得勘定抜きに助けるのかと思えばこれである。こんな現金な人助けが在ってたまるものか。少女は黒髪の少女が変態の毒牙にかかるのが目に見えるようで、益々不憫に見えてしまう。それならまだ、自分が匿った方がマシなのではないか、とも思う程に。


 だが同時に、善意などというよく分からないモノに振り回されるよりは分かりやすくはあるのだ。その境界は、結局は好みの問題でしかないといってもまだ理解できる範疇にある。ならば、まだ理解できる色彩を帯びているだけマシである。


「ていうか何で処女だって断定できるのよ。私の同輩ってこともあるかもしれないのに」


「吸血鬼は生まれつき処女童貞を一目で見抜く眼力が備わっているのだ」


「何よ、その無駄に変態的なスキルは」


「誰だって不味い食事をしたくないだろう。私のような偏食家ともなれば、先ず間違いなく見分けられるぞ」


 純潔の異性の血こそ吸血鬼のご馳走。血が食事となる以上、獲物の目利きが出来るのは当然である。こんなのは主婦がより美味い食材を選ぶのと変わらない。だがリリムには何の役にも絶たない無駄技能にしか思えない。無駄に誇らしげに語られても鬱陶しいだけである。


「ちなみに、十代二十代の処女の生き血が最高だ。それ以外は駄目だ。泥水に等しい」


「はいはい。もうどうでもいいから、二人ともさっさと出てって頂戴」


 面倒くさい子も、変態男も知らない。外に放り出して後はおしまい。それで一切合財関係はなくなる。仮にシュルトともう一度会うことがあったとしても、その時は金の有無を理由に追い出せばいい。どうせ集めることなどできないだろうから。


「そうだな。とりあえず、連中と話しをつけなければなるまい」


 黒髪の少女の腕を掴み、影から引っ張り上げると二言も三言会話。少女が顔を引きつらせて逃げようとするも、無理やり肩に担いで出て行った。どこからどう見ても、人攫いである。というか、まだ連中が外でウロウロしているというのに連れて行くなど常軌を逸していた。変態なだけでなく、そんなことも分からないような男なのだろうかと、彼女はドアに鍵をしながらしみじみ思う。担がれている子が妙に不憫だった。


「おい、いたぞ!」


「こっちだ、逃がすなよ!」


 あたり前のように、ならず者たちの声が聞こえてくる。


(それ見たことか。あーあ。ただの偽善で命まで捨てるなんて、馬鹿な男ね。格好つけて私の気を引きたかったのかもしれないけど、冗談じゃないっての)


 多勢に無勢なのは目に見えている。黒髪の少女の悲鳴に混じって、怒号がドアの向うから響いてくる。恐ろしくなって両手を耳で塞ぐも、その叫びは止まらない。きっと、他のスラムの住民たちも見て見ぬ振りをしているだろう。割ってはいるようなアホはいないに決まっている。誰だって命は欲しい。たった一つの命だ。それをどう使うかなんて個人の自由かもしれないけれど、それだってもっと冴えたやり方に使うべきなのだ。


(服一着分請求しとくべきだったかもしれないけど、しょうがないか。冥土の土産ね)


 数分後、叫び声は聞こえなくなった。片がついたことは間違いない。鍵を開け、そっと外の様子を確かめてみる。きっとその向うで変態男がくたばっている。そう予想していた。


「……なぬ!?」


 だが、予想が当たることは無かった。地面に這いつくばっているのは全員がならず者で、それを見下ろしているのは呆然としている黒髪の少女と変態男だけだったのだ。 男は彼女に気づいたらしく軽く手を振ると、少女の手を引いて去っていった。まるで、次は君を助けに来ると言わんばかりの笑みを浮かべて。


(まさかあいつ、テクニシャンだったわけ?)


 冒険者にもランクがある。駆け出しのCランク、中堅のBランク。そして上級のAランク。最上級のSランクなるものもあるが、彼女の父親はそんな奴はみたことがないと言っていた。フリーの冒険者の場合はランクが与えられることはないが、しかし、相手がちんぴらだったとはいっても十数人を相手に完勝してしまうような力を持っていることはこれで証明されてしまった。


「何よ、フリーの人間は腰抜けしかいないって言ってたじゃんか糞親父」


 フリーの冒険者はギルドが拘束できない。依頼もフリーの依頼や討伐系に限られ、冒険者カードも発行されないし報酬だって一割削られる。確かに、緊急招集や指名依頼などの義務は負わないため自由であるとはいえ、その分名も売れないし儲からない。腰抜け呼ばわりされるのも当然かもしれない。だというのに、目の前の光景は一体なんなのだろうか。


 少しだけ、本当に少しだけ芽生えた何かが彼女の胸中を刺激する。仮に、シュルトが有能な冒険者だとしたら、本当に一千万リズ稼いでくる可能性が出てきてしまう。

 ゾクゾクと、背中に妙な汗が噴出してくる。リリムは、ことさらその可能性を忘却するために力強くドアを閉め鍵をかけた。


(まさか、ね。でも、そこまでされたらさすがに信じて上げてもいいのかもね。シュレイダーとかって言ってたっけ。あの変態さんは――)


 断固として信じるつもりなど無い。無いが、少女にはどうにも嫌な予感がするのである。あの男とは長い付き合いになりそうな、そんな予感が。



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