2 鰤大根は意外と美味しかったです。
「親父、これ昼にでも食べて」
「ん、何だ?」
日向ちゃんが実家に帰った、その翌朝。
実家に出勤すると、親父は黒いシックなエプロンを、鏡を前にスマートに身に着けているところだった。
僕が差し出したビニール袋を受け取ると、その中を覗き、タッパーを取り出した。中身を見てほう、と声を漏らす。
「鰤大根か」
「それも日向ちゃんお手製。親父は幸運だよ、滅多に食べられない代物だよ」
昨日の夜は結局、虚しく一人で夕飯を食べることになった。
棚卸しで疲れたせいか、脱力したせいか、他に何も作る気にならなくって、ご飯と鰤大根という一品料理の食卓になった。
一人分の食事がテーブルにぽつんぽつんと置いてあり、一人でもそもそ食べる。本当に悲しかった。酒気が強めだから、鰤大根がくどくなってくるし。食べていたら段々キツくなっていったし。
しかも量が多いから食べ切れるわけがない。料理に疎い日向ちゃんは、量を考えずに、本当にレシピ通りに作ってしまうのだ。いや、あの人だと全部食べるつもりだったのかも知れないけど。
日向ちゃんからは実家に着いたとか泊まって行くとかいつ帰るとかの連絡も無かった。子供じゃないんだし、日向ちゃんも仕事があるだろうから、すぐに帰って来るだろうと結論付けて、昨日はそのまま寝てしまうことにした。一人で。
食べ切れなかった酒気強めの鰤大根は、親父とお袋にお裾分けってことで食べて貰おうと思って、タッパーに入れて冷蔵庫に仕舞ってきちんと準備しておいたのだ。
日向ちゃんのお手製、と聞くと親父の表情は少し固まった。
「日向ちゃんて料理作らないんじゃなかったのか。大丈夫か、これ」
料理下手の女の料理ほど酷いものは無いんだと親父は口の中で呟く。
親父とお袋に日向ちゃんを紹介した時、何を訊かれるより早く、話の脈絡も関係無く、彼女は正面切って「私は料理を作りません」ときっぱり言い放った。非難や料理の勧めを差し挟む余地もない容赦のなさだった。僕は親父と お袋がぽかんとして彼女を見つめた表情を、よく覚えている。
「最近興味が出たみたいで。不味くはない、まあまあだよ。良かったら食べて。説明は面倒だからしないけど、昨日余っちゃったんだ」
話を聞いていたのか、店の奥から母さんが出て来て、まだ少し不審気な表情をした親父からタッパーを受け取った。
「まあ、日向ちゃんも女の子なのね。怖い顔で作らないって言ってたけど」
母さんはタッパーに顔を近付けて、少し顔をしかめた。
「お酒ちょっと入れすぎみたいね」
ちなみに、お袋の料理はそれなりに美味しい。
親父は心配そうに、自分の昼ご飯になる鰤大根を見つめていたが、僕がタッパーを入れてきたビニール袋に目を向けると、不満そうに言った。
「それにしてもな、お前、ビニール袋はどうかと思うぞ。もっとマシな手提げとかないのか」
「昨日は疲れちゃったからそれで準備したの」
「疲れていようが何だろうが、こういうときの入れ物も大事だぞ、普段の小物からセンスは問われるんだからな」
「分かってるよ」
自分はシャツのボタンの色まで気を配るからなぁ、と心の中で呟く。親父のお洒落根性には頭が下がる。
鏡を前に、エプロンを身に着け、根元までしっかり茶色く染まっている髪を整えていたとき、親父に声をかけられた。
「そういえば、高泰、昨日高宏から電話があった」
どきっとして、手を止めて親父の顔を見た。
何気無い風を装っているけど、少し緊張した顔をしている。僕の顔を窺っているようだった。
なるべく落ち着いた声を出して、尋ねた。
「兄貴から?」
「ああ」
「何、もう二度とうちに連絡取らないんじゃなかったの?」
皮肉っぽく言うと、親父は頬を掻いて、ぽつりと言った。
「いや、元気だとか、仕事も上手くいってるとか、そんなことだけだけどな。お前のことも訊いていたよ」
「僕のこと?」
「元気かって。上手くやってるって、言っておいたよ」
「・・・そっか。分かった」
エプロンの結びをきゅっと締め、蝶結びを整えた。
親父に背を向けて、店の入り口近くに置いておいたビオラの植木鉢を持って店先に出た。うちの店はビオラとか、アイビーとか、ハーブとか、植物の植木鉢を店先に置いている。親父曰く、店先に淡い緑が置いてあると、出入り口が入り易い雰囲気を醸し出して、お客さんが入って来易いそうだ。優しい生き物は、人の心を和ませるから、と。
いつもの場所に置いて、一息つく。紫と黄色のビオラの可愛い花を少しぼうっと見つめる。
気にしまいとは思っていたけど、いつも気になっていた、兄貴のこと。親父の話を聞いてほっとした。
僕のことも、気にしていたのか。
そうか。
本当、何があるか、分からないものだね。
立ち上がって空を見上げると、冬らしい、薄い白い膜を張った様な曇り空があった。
吐く息は白い。今日も一日寒そうだ。