7 鰤大根で締められた。
カーテン越しの結露した窓の外は、雪が降り積もっているはずだ。
「いやー、喧嘩したのかと思ったよ」
「あはは、まさか」
やっぱりそう思いますよね、そう思いますよね。
すいませんお義父さん。
て、僕が謝ることじゃないはずだが。まあ、日向ちゃんは僕の奥さんなのだ。やっぱり申し訳ない、ということになる。
迎えに行くだけ、と思っていたのに、桐島家に行くと、「どうぞ寒かったでしょうお上がりなさい」とお義母さんとお義父さんに丁重に迎えられ、どうせだったら日向と用意しているから夕食を食べて行きなさいと言われ、現在女性二人が夕食の準備をしているのを、炬燵でぬくぬくして待っている次第である。言い方を変えると、お義父さんのお相手。
禿げ上がった頭がつやつやしている、にこにこと人の良さそうなお義父さんが言う。
「まさか日向が料理の事なんて言い出すと思わないしなぁ」
「最近料理の本読んで、興味が湧いたらしくって」
「そうかい。料理の本なんて、開いている所見た事ないよ。よく解からない分厚い本を読んでいたのは、よく見掛けたけど」
「日向は本が好きだからね」
そうお義母さんが台所から付け加える。ちなみに日向ちゃんは台所にいる。お義母さんの手伝いをしている。僕が来ても当然のようで、出迎えもしないし声すら掛けて来ない。
台所から彼女とお義母さんの会話が聞こえて来る。
「ぬっ?酒と砂糖は入れないのか?!」
「そうよー。お母さんの好みの味じゃなくなっちゃうんだもの。それに日向ちゃん子供だったからねー。鰤大根にお酒を入れないようにしたのよ」
なるほど。彼女のお袋の味は酒は入ってなかったらしい。
酒気が強い鰤大根を、昨日の夜と今日の昼に食べてきた事を思い出す。げっそりした。まさか、いやまさかも何も、僕の夕食はまた鰤大根か?
「日向も変わったなぁ。昔は、あんな風に母さんのやる事を見たりしなかった。食べるばっかりで。高泰君に悪いと思ったよ、全然料理をしない娘だから」
「いやいやそんな事は」
お義父さんは苦笑する。
「小さい頃から妙に落ち着いていて、無表情で、子供らしくなくって。大人びた質問をして来る子だった。頭が良くて本もよく読んで、勉強もよく出来たがそればかりやっていて、友達も作らなかった。自然と慕われる子だったけどね。だけど、身近に人を置きたがらない。一人で何でも解決出来てしまうから。僕もお母さんも、心配だったんだよ、一生一人でいるんじゃないかって。あの子にちゃんと家族が出来て、いや、心底嬉しいよ。高泰君、ありがとう」
「あああいえこちらこそ」
なんだお義父さん、今日は結婚式で言いそうな事言って。
頭を下げられて、慌てて頭を下げる。この情の深いお義父さんは、結婚式中、ずっと感涙して何も言えなかったというエピソードがある。ウエディングドレス姿の娘はずっと平然として凛と佇んでいたというのに。本当にこの二人は親子なのかと疑ったものだ。
あの日。
公園から帰るその足で、日向ちゃんは僕と一緒に店に帰り、僕はそのまま両親に紹介したのだった。日向ちゃんの即決即断即行動が移ったのか、彼女と結婚しますと宣言した。
親父と母さんは、兄貴が出て行き、僕も出て行き、それで帰って来たら一人増えていて、僕が結婚すると言い出すものだから、びっくり仰天して目をひん剥いていた。
兄貴とああなった後だったから、尚更呆然したろうな。それは悪かった。前から付き合っていた彼女だと説明したから、狼狽えながらも了解してくれたけど。
後日桐島家に挨拶に行った時、日向ちゃんのご両親は僕の両親と同じような反応を示したので、僕はこの義父母とは仲良く出来そうだと思ったのを、よく覚えている。日向ちゃんのご両親は彼女が結婚相手を連れて来た事自体が相当衝撃的だったらしい。
「うちの娘でいいんですか」
何度も訊かれた。
それから一ヶ月以内に籍を入れてしまった。日向ちゃんが決めたらさっさとした方が良いとさっさと行動するので、二人でさっさと準備したのだった。急いたような結婚だったのに忙しかった気がしない。彼女の合理的さ故か。
あれからこうしてああして。一緒に住んで生活して、口喧嘩しても勝てなくて、振り回されて、ご飯食べてお喋りして、日向ちゃんは准教授になって、僕の方はお店が順調で。夫婦の間に特に衝突もなく対外的なトラブルもなく。のんびりしたりがっかりしたり、びっくりしたり笑ったり。
で、今こうして炬燵でぬくぬくしている。
台所の入り口から、彼女の後姿がときどき見える。
幸せかも。
「でも彼女は僕と出会った頃と、変わった感じはしませんよ」
「いや、変わったさ。鰤大根が、それを表しているのさ」
そう言うと、お義父さんはおかしそうに、くっく、と笑った。
出来た、と夕食が炬燵テーブルの上に並ぶ。お赤飯に、人参としめじと油揚げが入ったお味噌汁、ほうれん草のおひたし、明太子、そしてほかほか美味しそうに湯気が立っている鰤大根。やっぱり、と脱力するも、生姜の匂いが食欲をそそる。
僕の隣に凛とした表情の日向ちゃんが、当然のように炬燵に足を入れた。
「・・・何か一言、ないですか」
「よく来た」
「はい」
まあ良いか。
全員席についた所で、いただきます、と手を合わせて食べ始めた。
寒い時分に温かい食べ物はご馳走だ。三食鰤大根状態の僕だったけど、食欲をそそられる匂いに、鰤大根を取り皿に取る。鰤の身をほぐして口に入れると、汁が染みてて柔らかく、生姜も効いていて、素朴な味でおいしい。
「うん、おいしい」
「当たり前だ」
「日向、うちの鰤大根食べて欲しくて作ったんだものね」
「そっか」
日向ちゃんを見ると、微妙な半笑いを浮かべた後、無心に食べ始めた。おお、照れてる。
ご両親は顔を見合わせて笑った。僕も思わず笑う。おいしいものも食べて欲しいって気持ちは嬉しいものだ。負けじと食事にがっつく。
白ご飯だったらもっと味が映えて美味しいだろうに。お赤飯の豆もほくほくしてて美味しいけどさ。鰤大根にお赤飯て、あんまり組み合わせないと思うんだけど。桐島家ではこれが普通なのかな。
それとも何か良い事あったのかな。
「ところで、お赤飯て、何か良い事あったんですか?」
鰤を突付いていたお義父さんが目を丸くした。
「何、当たり前じゃないか」
「え?」
「めでたいじゃないか」
何の事?と首を傾げると、ご両親は顔を見合わせる。
お義母さんがお茶碗を持ち上げたまま、目を丸くして日向ちゃんを見る。
お義父さんも、僕も日向ちゃんを見る。
「日向、ないと思うけど、もしかして、高泰君に話してないの?」
日向ちゃんは三人の視線を浴びているのに気付き、咀嚼しつつ、三方を順に見て、何か思案する。ごくり、と飲み込むと、きりっと僕を見て、さくっと言った。
「言い出すタイミングが掴めなかったと言っておこう」
「は」
「実は妊娠が発覚している」
「っえ」
えー!!っと叫ぶ前に、日向ちゃんに大きめに切ってある大根を口に突っ込まれた。
苦しかった。
その後、僕は、拗ねて夕飯を放り出して桐島家の二階に日向ちゃんの私室に駆け込んで暫く悶々とした。
鍵をかけたドア越しに聞こえる声を無視して、壁際に本がたくさん詰まった部屋に正座し、もくもくと突っ込まれた大根を食べながらぐるぐると巡る思考に翻弄された。
妊娠?何それ、いつ?
いつ、そんな兆候あったっけ?
いつだいつだ、と記憶を探って、はっと思い出した。
そういえば、具合悪そうにしていたときがあった気がする。僕が丁度、仕入れと棚卸とが重なって多忙な時期で、大体そういうとき彼女は僕のしたいようにさせてくれるし、あまり五月蠅いこといつも言わないから甘えてた。
しまった。あの時か。
っていうか
「酷い!!!僕に一番最初に教えてくれないなんて!!!」
自分でも思っている以上に悲痛な声が上がり、ノックの音に続きドア越しに冷静な声がかけられた。
「悪かった。謝るからここを開け給え」
「というか何でいつも僕を頼ってくれないんだ!忙しいときでも声をかけてくれよ!」
「高泰が疲れているようだったし、私も最初はただの風邪かと」
「風邪って、風邪ひいているんでも言ってよ!」
「その次は食中毒かと」
「食中毒って、何の!」
「牡蠣だ」
「牡蠣か・・・いや、具合悪いなら言ってよ!」
「すまなかった」
「僕は君の何なんだ。夫だ。こんなことが続いたら夫婦でいる意味ないじゃないか!」
「離婚はしてくれるな。話をしよう」
「離婚するだなんて一度も言ってないじゃないかー!」
「そういえばそうだったかな」
「絶対しないから!」
「それはありがたい」
「でも一番最初に知りたかったわ流石に!」
「すまん。だが、まあ落ち着け」
二、三回ほどこれと同じようなやりとりが続き、はたと僕は気付いた。
ここ日向ちゃんの実家じゃん。
恥を忍んで出てきたら、日向ちゃんが平然たる表情で佇み、その背後に心配そうなご両親の顏があって、ものすごく居た堪れない気持ちになった。
「すいません、離婚しません」
喧嘩して部屋に籠るのって普通女の人の方なんじゃないかな。