回想六 「それってもう、運命共同体じゃない」
意外と彼女はすぐにやって来た。
透明ビニール傘を片手に差し、何故か勝ち誇ったような笑顔を浮かべて。
ベンチに座る僕の目の前に立って、見下ろす。
「ふっ、君の居場所など、すぐに特定出来た」
「そっかー」
そんな事か。
溜息をつくと、彼女は怪訝そうな顔をする。
「らしくない。君、にぱにぱしてないじゃないか」
「僕いつもそんなににやにやしてる?」
「にやにや、ではない。にぱにぱだ」
「何そのこだわり」
「それにこんな寒い。積もる根性のない軟弱な雪じゃ雪合戦も出来まい。どうしてこんな外にいる」
「雪好きなの?」
「昔見たアニメに、砂糖を雪に見立てて降らせるというのがあった。夢のような話だ。以来雪を気に入った」
「・・・」
珍しく、子供みたいに、きらきらした瞳で語るので何も言えなかった。微笑する。本当に砂糖だったら良いのに、と思っているに違いない。
「それでどうした」
訊かれて僕は憂いを思い出して、黙る。彼女も黙り、暫く沈黙が満ちた。
何か言わなければいけなかった。彼女は僕の事を共有しに、ここまで来てくれたのだ。
僕は重たい口を開いた。
「今日さ、うちに兄貴が帰って来たんだ。前話したよね。兄貴、店を継ぐのに反発して、出て行ったんだ。最近はめっきり、正月も帰って来ないで、年賀状やり取りしているくらいで。それが珍しく帰って来たんだ。何かと思ったら、会社の仕事が上手くいかないから、店を継ぎたいって言い出すんだ」
怒りが蘇って来る。でもそれと同時に、迷いも出て来て情けなくなる。
地面を向いて日向ちゃんが履いている黒い靴の先を見ながら喋る。彼女の顔は見えないが、彼女は黙って聞いている。
「自分から出てったくせに。僕がやって来た事も知らないくせに。何にも考えないんだ、兄貴は、僕の事。僕の気持ちも。今まで散々我慢してきたけど、今日は我慢出来なかった。キレて兄貴に怒鳴った。ふざけるなって。何で帰って来るんだ、僕が今までやって来た事を全部捨てろって言うのか、って」
「・・・珍しい。相当だったんだな」
「親父も今回ばっかりは怒った。奥さんも子供もいる前で。今までずっと兄貴に気を使って来たんだ。だけど・・・今日、遂に兄貴に出てけって。そうなった。駄目になっちゃったんだ」
日向ちゃんは黙っている。
「駄目になっちゃった。どうすれば良かったんだろう。今まで、家族に確執がないようにして来たのに。僕が、我を張らなければ、そうならなかった?兄貴は仕事が上手くいかないって言っていた。親父はただの甘えだって言っていたけど、本当に兄貴に合ってない職業だったら?そしてお店が本当に兄貴に合っている職業だったら?そのまま上手くいかないまま仕事辞めちゃうようになったら、奥さんも子供もいるのに、兄貴はどうなるんだろう。親父は僕の肩を持ってくれたけれど、兄貴の事、どう思ったんだろう」
そうしたせいで、兄貴が転落人生を送ったら、誰の責任?
僕は、間違った事をした?兄貴が継いだ方が筋?その方が良かった?
兄貴を差し置いて、店を継ぐなんて、出過ぎた真似?
「僕は間違っているのか?」
「・・・私が話を聞いたところでは」
日向ちゃんの声が雪と一緒に降って来た。
「君の兄はどうしようもない甘ったれた馬鹿に聞こえる」
意外な答えに思わず顔を上げて、笑ってしまった。日向ちゃんは無表情で、じっと僕を見つめる。
少し穏やかな気持ちになって、日向ちゃんを見た。
「そうかも」
「そして君は意気地無しだ」
「意気地無し?」
「自分で言っていたじゃないか。生きている意味や、答えは判らないと。自分で決めるんだと。それと同じじゃないか」
合コンの席で思わず熱く語っちゃった事を思い出す。
彼女のつま先に、また視線を落とす。
自分で言っていたのに、今は何も見出せない。
「まず、君の家族は我慢し過ぎだ。何故、馬鹿兄の為にそこまでしなければならなかったのだ。いちいち怒って、ふざけるなと言えば良かったのだ。そうすれば、確執はあったかも知れないが、そうせねば、ならなかっただろう。言わなかったのが、兄の甘えの原因ではないか?怒りをぶつける事自体は、悪ではない」
「・・・そうだな」
その通りだ。ずっと、我慢してたけど、それは衝突から逃げていただけだ。問題と、真正面から向き合うのが怖かっただけ。
「過ぎてしまった事は修正出来ないが、この先どうなるかは、君次第じゃないか。それとも兄を追い出した責任から、店を投げ出すつもりか?そんな事、責任を取った内に入らない。自分で勝手に感情的になって、投げ出したに過ぎない。それこそ、君が怒って、声を荒げて、自分の気持ちを守ろうとした事に意味がなくなる。自分の気持ちを守る事は、時に愚かな出来事を引き起こすが、私はそれが罪だとは思わないし、君が愚かだとは思わない」
日向ちゃんは一息ついて、少し声を落として言った。
「自分のお店として認められたら、嬉しいと言っていたじゃないか。幸せだって。誰だって幸せを奪われたら・・・怖いものさ。奪われまいとするさ」
僕は奪われたくなかった。
自分で望んだ事を、叶おうとさせて。それが遠い未来の事になりそうでも、勲章が与えられるわけじゃなくても、実現させたくて。
「君は、自分で決めるんだよ。この先の事なんで、判らないんだ。大事なものを、自分で大事にするだけの・・・強さ、か、覚悟、かな。君は、決めなければいけない」
兄貴は本当に、もう帰って来ないのかも知れない。転落していくのかも知れない。
僕は間違った事を、したのかも知れない。
でも、分からないんだ、それがどうなるなんて、これからどうなるかなんて。
世界は僕が見ているものだけじゃない。
いつも何処か知らないところで、動いている。
知らないところで動いているものが、僕にどう作用するかなんて分からない。
僕がした事も、誰にどう作用するかなんて、分からない。
目の前の事だけ。
彼女の黒い靴のつま先から、ぐっと視線を上げて、彼女の顔を見た。凛としたいつもの表情だけど、なんだか優しい。
「僕はやるよ。やるって決めたんだ」
自分が言った言葉が、儚い雪が舞う虚空に響いた。
高校三年生の時、迷ったんだ。進路をどうするか。僕は兄貴みたいに飛び出していく気もなかったし、地元を離れる気もなかった。有名になりたいとか、偉くなりたいとか、そんな願望も無かった。穏やかに過ごしたい。親父や母さんの為にも何かしたい。誰か他の人の為にも、何かしたい。自分がやりたい事も、したい。
あのお店で僕も働いて、誰かが好きになってくれるお店になったら、とても幸せだよ。
僕はやっぱり、この道に進みたい。僕が何かをする事で、誰かがどうかなってしまう可能性なんていくらでもある。それを以って、何かを続ける覚悟を僕は決めなけりゃならない。
兄貴はもう帰って来ないのかも知れない。でもあんな性格だ、何にも考えずにまたひょっこり帰って来るかも知れない。その時、喧嘩の一つも出来るくらい、真正面向けるようになっておけば良い。
楽天的な考え方って、笑う?誰かを蹴落としたくせにって。
「私が味方になってやる」
どきっとした。日向ちゃんは、凛とした表情で僕を見据える。
「私は君の味方になるから。私だけは、君を許す。高泰が、笑っていれば良いから」
揺るがない言葉だった。
「他の誰かが許さないと、思っても」
雪が降る。
泣きたいのか、笑いたいのか、分からなかった。
嬉しいのか切ないのか、分からなかった。
ただ僕の手に、優しいものが舞い込んだ。
ぐっと涙をこらえて、笑った。
「ははっ。僕達、なんかもう、それって、もう運命共同体じゃない」
「・・・支障あるか」
「無い無い。異論もない。無論、僕も日向ちゃんの味方、だよ」
バツが悪そうな顔をして、彼女は視線を反らす。またちょっと笑った。恥ずかしがっている。彼女はいつも好きとか言わない。でも時々、それよりもどきっとする事を言う。
この時、僕はこの先も日向ちゃんがいないと生きていけないと思った。寒い雪の日は、側にいたい。窓の外を眺めて、砂糖だったら良いのになんて言いながら食卓を囲む。
あなたの味方でいる。
そうだったら良い。
近いようで、遠い気がしてしまう願い。望み。
大切な人を守ることを決意するのは怖い。責任が発生するのは怖い。
だけど、雪が降っていた。地面に触れたら溶けるような、淡い雪だった。
目の前に日向ちゃんがいた。叶えるには、一言言う必要があった。
「日向ちゃん、僕と結婚してくれませんか?」
視線を反らしていた彼女は、僕に目を向けた。
白い息を吐く。落ち着いた様子で、僕に問うた。
「雪が砂糖なら良いだなんて、君は私が馬鹿だと思ったか?」
「思わないよ」
ふっと彼女は溜息をついた。
「実際雪が砂糖なら、翌日砂糖の始末に苦労する事になる。砂糖は溶けないからな。水で流すにしてもべたべたになる。道路なんて最悪だろうな」
彼女は凛として、目を伏せる。
「でも・・・忘れられないのだよ。そのアニメを見た時の、夢が。馬鹿だが・・・私の子供の頃の、大切な思い出だ」
大切そうに言うそれに、僕は何故彼女がその話をしたのか理解した。
「・・・何か言わないといけないと思ったの?」
「君は私に胸の内を言ったからな」
素っ気無く言ってから、彼女は口端を上げて笑った。
「もう一つ言わせて貰うと、私が化学に興味を持ったのも、アニメで大袈裟な実験室でどかんと緑とかピンクの煙が上がり何らかの変てこなものが出来上がるというシーンに憧れたからだ」
そんな事をきりっとして彼女が言うものだから、笑ってしまった。
「あはは、確かにそんなシーンあるね。日向ちゃんアニメっ子?」
「呆れないか」
「気にしてたの?」
「多少な」
気にする事、ないのに。僕は何だか安心して、日向ちゃんの顔を見た。
「気にしない。僕は日向ちゃんの事知れたから、嬉しいもの」
すると妙な半笑いを日向ちゃんは浮かべ、沈黙が満ちた。暫くして、もとの表情に戻った彼女は、ぽつりと言った。
「・・・私は料理は出来ん」
その言葉を、僕はすぐさま承諾だと理解した。
「分かってる。僕が作ってあげる」
微笑んだら、彼女も微笑みを返した。
手を伸ばされて、僕は彼女の手を取り、立ち上がった。
雪が降っていた。街灯が照らしきらきらと反射する。僕達は、手を繋いで帰った。
僕が間違っていても、彼女が間違っていても。
一緒に歩くと、約束をした日だった。
雪が降り注いでいた。
僕の知らない何処かで、この日何かの運命が凍りついたのかも知れないけれど、僕は手にした幸せを離す気はなかった。
人間てそんなものなのかも知れない。
ただ、僕に報いが来るなんて、そんな後々の事の為に、僕はこの手を離したくない。
来るなら、来れば良い。どんな事でも、受け入れて見せよう。
この雪が砂糖だったら良かったのに。そうしたら彼女が喜ぶもの。
今は降って来る雪を見上げ、そんな事を、思っていよう。
雪が降る。