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1 嫁に実家に帰られました。

 彼女の思案中の表情は、珍しくない。

 頭の中で定義だの、法則だの、理論だのが常に廻っていて、目の前で起こった出来事も、それらと繋ぎ合わせて考えてしまう習性があるから、立ち止まって思案していたり、難しい表情をして何の変哲もないような物事を見ている彼女の姿は、よくある日常の風景なのだ。

 もっとも、今日のシチュエイションは珍しかった。

 帰宅した僕の目に飛び込んできた光景。

 台所で、コンロにかけた鍋の前に立ち、小皿を片手にしている。

 味見を終えた直後の姿勢で首を傾げ、鋭い目で宙を睨み、憮然とした表情で思案する、我が奥さんの姿。


「おかしい・・・こんな味ではなかったはずだ」


 僕は、彼女の「思案中」の表情を結構気に入ってたりする。職業気質を感じさせる「思案中」の顔は、彼女の最も美しい顔のひとつだと思う。

 片方の眉をすっと上げ、切れ長の瞳は緊張感を滲ませた透明な茶色。目の前の物体をじっと見つめる、もしくは宙を睨むその時、彼女は全神経を対象に集中させて、静止している。その顔は、水辺で獲物を狙っているカワセミのように、風景を凛とした画に一変させてしまう。

 こんなことは本人に言ったことはない。照れくさい。こっぱずかしい。うん、その通り。

 だけど言わないというか、いつも言えない、というのが本当のところ。大体、そんな顔を見せるときは、いつも予想だにしない行動をとる前触れで、僕が振り回されて多少げんなりする直前のお約束の表情でもあるからだ。「綺麗だ」なんて言うのが癪に障る。


「え、何何?」


 だけど今日はそんなことすっぱり忘れていた。嬉しくて仕方がなかったからだ。

 僕の奥さんは、結婚前もプロポーズ時も結婚式中も結婚後もずっと、「料理はしない出来ない興味がない」と言い続けてきたような人だったりする。凛としていて、きりっと締まった雰囲気の彼女は、食べる専門だ。

 それが最近、僕が買った「きょうの料理」を暇潰しに読んで興味を覚えたのか、彼女は料理を作るようになった。ある日、帰宅したら夕飯に肉じゃがを作ってあったときにゃ、大喝采、感動した。一品料理だったけど美味しかった。

 それから気まぐれに料理を作ってくれるようになった。どういう気持ちの変化か分からないけれど、以前は僕が全面的に炊事を行っていたし、一生そうなる覚悟でいたから、人生何があるか分かったものじゃない。元々料理を作るのは好きだったし、彼女とは「料理しない」前提に結婚したから、そんなに気になってなかったけど。

 それでも、彼女が作るようになってから、断然楽になった。店の棚卸しとかで帰りが遅くなると、〝気まぐれ〟を起こして一品料理を作ってくれるようになったのである。この変化は感動ものだ。

 今日も棚卸しで遅くなると言ったら、先に帰る彼女が作ると言ってくれた。

 嬉しいに決まっているじゃないか!


 元々、料理にこだわりを持っていなかったはずの彼女が、職業病である「思案」を思わせる表情を、「味見」という行為によってみせている。力を貸したくなるのも道理だ。

 初心者であることを意識して、出来る限り料理本を信じて作っていた彼女。自分で考えるようになるとは。

 これは進歩なのだろうかと思いつつ、違和感を覚えた。そういえば、いつもなら、味が気に入らなければ、彼女はちゃっちゃと調味料で調整しているのだ。「おかしい」というなら、そうすればいい。

 味を見ているだけで行動しない、ただ立ち尽くして、じっと鍋の中を見つめ、静止し、「思案」している。何やら不気味だ。

 ここで僕は、やっと不穏な予感に気付いた。

 この「思案」が行われているとき、彼女の脳内では、予想だにしない思考が渦巻いているのだと、僕は知っている。

 彼女の様子に若干不安を覚えつつ、そっと近付いて鍋の中を覗くと、鰤大根が目一杯に作ってあった。濃厚な色に煮えた鰤と大根はよく味が染みていそうで、美味しそうだ。魚の煮えた匂いと生姜、酒と醤油の合わさった香りを湯気とともに吸いこむ。


「美味しそうだよ。でもこれ量多くない?」

「レシピ通りだ」


 鰤大根のページが開いてある料理本が立てかけてある。四人前から五人前って書いてあるじゃん。


「多い・・・はずだ。で、味って?」

「気に入らん」

「ちょっと僕にも味見させて」


 鰤の肉片をちょっと摘む。口に入れると、鰤の身は柔らかいし、ちょっと酒気がキツいけど味もまあまあ。柚子の皮の風味もある。初めてにしては上出来だと思うんだけど。


「全然、良いと思うんだけど」

「違う」

「だから何が」

「食べたのと違う」

「は?お店で食べたのって事?それだと違うに決まってるじゃない。お店のはプロだもん」

「違う」

「えぇー?だーかーら、何がよ」

「母親の」


 少々眉間に皺を寄せて、ぶすっとして彼女は言った。


「母親の作った鰤大根と、だ。昔食べたやつと違う」


 少し、僕は驚いた。彼女の口から家庭の味を求める発言が出るなんて意外だ。本のレシピで十分、なんて言いそうなのに。


「お義母さんが作ったのにしたいの?」

「ああ」


 彼女は考えを廻らせるように、首を廻らす。


「ふむ・・・これは本人に訊くしか・・・」


 腕組みをして、うん、と何事かを納得して、彼女は動き出した。

 さっさと台所を後にする。何処へ行ったのかと不思議に思って台所から顔を出して廊下を見ると、彼女は自室に入っていった。何だ?と首を傾げて廊下の闇の中を見つめていたら、クローゼットを開ける音が聞こえてきた。

 まさか。

 慌てて彼女の自室を見に行こうとすると、丁度彼女が部屋から出て来た。黒いマフラーを片手に持ち、黒いトレンチコートに袖を通しながらすたすたと玄関に向かう。

 自分の予想が当たっていることに気付いて、慌てて声を掛けた。


「ちょっとー!今から実家に行くっていうの?!」

「ああ」

「ああ、じゃないでしょ!今何時だと思ってるの」


 靴を履きながら、彼女は玄関の時計をちらっと見た。


「そろそろ午後十時を回る頃だ」

「普通その時間帯に実家を訪ねる人なんていないでしょ、迷惑でしょ!」

「心配無い」


 立ち上がり、黒い革靴の靴先を、玄関床にこつりと立てて、踵を合わせる。さっとマフラーを首に巻いて、きりっと彼女はこちらを見た。


「私の迷惑は今に始まった事ではない」

「駄目でしょそれ」


 頭を抱えたくなった。偶に本気で馬鹿なんじゃないかと思うことがある。


「鰤大根の事を訊きに十時過ぎに実家を訪ねる娘なんていないでしょ。明日でも間に合うでしょ、電話とかでも良いし。というか夕ご飯作ってたんじゃないの。今夜のご飯はどうするの」


 ていうか、どう考えても「夜中に鰤大根の事訊きに実家に帰って来ました」なんて、「旦那と喧嘩しましたもう一緒に暮らしてなんかいかれません」の言い訳にしか聞こえないでしょ。やめてくれ。絶対そう解釈される。ご両親が心配すると思わないのか。

 彼女は僕の言葉を少し思案して、首を捻って、それから真っ直ぐこちらを見て、凛と言い放った。


「今行った方が良いような気がするから行く。じゃ」

「ちょっとー!!!日向(ひなた)ちゃーん!!」


 行ってくる、としゅたっと手を挙げて、彼女は身を翻してドアを開け、風のように出て行った。バタンと音を立ててドアが閉まる。

 残された僕は、ただ、ぽかんと、馬鹿みたいに突っ立ってるだけ。

 日向ちゃん、夕飯は?鰤大根どうするの。あれ五人前だよ。僕、全部食べ切れない。


 即決即断即行動。


 僕の奥さん・日向ちゃんの行動理念です。


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