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プロローグ「あのひのゆめ」-Part/±0

 三条達を家に招いた。

 それから青嵐達と遊んだ。

 飯を食った。

 その後に、今度は榊達と遊んだ。


 やりたいことは、全部やった。


「御琴」

 母屋に隣接する私の部屋で、イロウが不安げに呟く。

 私はそれに振りかえって、笑顔で返した。

「大丈夫だ。何も心配することはない」

「……」

 イロウは無表情のままで、こくり、と頷いた。

 私はそれを確かめると、部屋の扉を開く。


 途端にバックステップで後ろに下がると、目の前にバァン! と落ちてくる金ダライ。


「……惜しい」

「二度も同じ手を食うか」

 私が返すと、イロウは少し悔しそうにうつむいた。

 どうもイロウはこう見えてイタズラが好きなようだ。最近、こういうトラップを入り口に仕掛けておくのがいたく気に入っているらしい。

 私は少しリラックスしてふん、と息を吐くと、

「やるなら三条達にでも仕掛けてこい」

 そう言って、部屋を出た。


 最後に――もう一つ、やりたい事があったからだ。


  ○


 すとすと、と足音が響くほどに、静かな夜だった。

 8月最初の夜は、濃紺の空に散りばめたような星と、輝く三日月が美しく映える、そんな夜だった。

 つい先日の七夕を思い出す。もう随分と昔のように感じられるあの日も、こんな風に見事な星空が広がっていた。

 時折、さぁっと風が吹く。

 最近は夜まで気温も湿度も高く、この上ない不快さを感じる季節でもあるのだが、何故か今日に限っては、そんな不快な要素は一つも感じられない。

 そんな夜空の下、母屋の通路をたどるように歩いていく。

 しばらく歩くと、縁側のある一部分に導かれる。

 ちょうど建物全体の外側を向くような配置になっているそこは、つまりは視界を遮るものが全くないので、星空を見上げるのに最も適した場所だった。ちょうど正面には池があり、満月の夜なんかはそこに移りこんだ月が大層風流だ。

 そして、その縁側の壁にもたれかかって、腕を組んでいる人影があった。

 私よりも少し背が高いその人影は、ふとこちらに気付くと、柔らかく微笑み――

「よっ」と片手をあげて、私に言った。



「待ってたよ、御琴」



 その一言に、私の心が崩れるように解放されて行くのが分かった。

 ああ、きっと私は――この瞬間を、ずっと、ずっと、ずっと待っていたのだろうな、と。

 私は彼に向かって駆け出した。

 そして、彼のもとに辿り着くと――

 そのまま、身を任せるように抱きしめられた。

「……待ってた、か」

 私は、ゆっくりと彼に腕を回しながら、

「それはこっちの台詞だ」

 離れないように、離さないように。



「……ずっと待ってたぞ、氷室」



「……待たせて、悪かった」

 氷室は、そう言いながら、私の頭を右手で撫でてくれた。

 暖かい右手で撫でられると、くすぐったかったが、この上なく懐かしい気分になれた。

「御琴」

 氷室は確かめるように、私の名を呼んだ。

「背、伸びたな」

「……まぁ、な」

「髪も、伸びたな」

「まぁ、な」

「……綺麗に、なったな。一段と」

「当たり前だろう」

 氷室の腕の中で、私は少しだけ笑った。

「私が美人なのは、お前も知ってるだろう?」

「……知ってるよ。よく知ってる。誰よりも」

 そう言うと、氷室は私につられるように笑った。


「変わらないな、ホント」

「お前も変わってないさ。……本当に」


  ○


 私達は、縁側の一角に2人並んで座っていた。

 そこは、かつて私達がいつもそうしていた、いわば思い出の場所だ。

「ここに座るのも、もう随分と久しぶりだな」

 私の隣で、氷室が優しげに目を細めてそう言った。

 そして、私に向かって頭を下げ、

「……なんだ、その。重ねて謝るよ。ごめんな」

「なに、いいさ」

 私は彼に少しだけ体を寄りかからせ、

「……今、こうしてまた会えたじゃないか。私はそれだけで、満足だ」

「そう言ってくれるなら、嬉しいな」

 氷室は笑顔でそう答えてくれた。

 私も、氷室の笑顔を見ると、自然と嬉しいような、楽しいような気分になる。昔から氷室の笑顔は、とても綺麗だった。心が洗われるような、そんな表現がぴったりとあてはまる。

 まるで天使のよう、と錯覚したのも、あながち間違いではないのかもしれない。最も、今は本物の天使の知り合いが何人もいるわけだが。

 ともかく、と私は話を切り出す。

「今晩はたっぷり付き合ってもらうぞ、氷室。話したい事も、聞きたい事も、山ほどあるのだ」

「そうだろうな。俺も、そのつもりだよ」

 氷室は苦笑いしながらそう答えた。

 私はそれを確かめて、まず最初に聞きたかった事を口にした。


  ○


「そもそもあの日、なぜ連絡も寄越さず行ってしまったのだ?」

「……ああ、それ?」

 氷室は何故か笑いながらそう言うと、ゆっくりと話し始めた。


「あの日の朝、目覚めたら暗い所にいたんだよ」


「?」

 いきなり意味が分からん。私が心中で首をかしげていると、「まぁまぁ」とその様子を察した氷室が続きを語る。

「その後、よく周りを見てみたら、俺の部屋にあったタンスとか、勉強机とかが並んでて……」

「……トラックの荷台にいたのか?」

 訝しげに尋ねると、

「お、鋭いな。そうなんだよ。あの日、俺はずっとトラックの中にいたんだ」

 と、拍子抜けするほどあっさりとした結末を教えてくれた。

 更に氷室は詳しく続ける。

「どうも俺が寝てる間に、父さんか母さんが勝手に荷台に積んだらしくてな。俺としては一言でも挨拶する気は満々だったんだけど……」

「なら、電話でも何でもすれば良いだろうが。じゃなかったら年賀状でも、暑中見舞いでも」

「あー……それそれ。そこが問題だったんだよ」

「問題?」

 私が尋ねると、氷室は滑稽な事件を笑うように、

「俺、ここの住所も電話番号も、実は知らなかったんだよ」

「……な、にぃ?」

「だってさ、すぐ近所だったし。直接挨拶に来ればいいかなーって思ってたからさ」

「……」

 確かに、思い返してみれば、今までに氷室からもらった年賀状や暑中見舞いなんかは、全て手渡しだったような気がする。もちろん、返事をする側の私もだ。

「灯台下暗し、という奴か?」

「……うん、そうだな。合ってるな」

「お前はヒバリのせいで、諺やら故事成語やらに自然と突っ込む癖が出来ているようだな」

「その通りだよ」

 氷室は苦々しげに言った。


「そう言えば、お前とヒバリはどこで出会ったのだ?」

 私の質問に、氷室は「んー……」と少し考え込んでから、言葉を紡いだ。

「そうだなー。ヒバリと初めて会ったのは、ちょうど先月の七夕の日だな」

「ほう」

 私は頷きながら、心中では驚き半分、納得半分の気持ちでいた。やはり天使というのは、七夕の日に一斉に現れたらしい。

 氷室は続ける。

「ちょうどその日、バイトのシフトが入っててさ。夜中に厨房で仕事してた時に、最後の1人まで店に残ってたのがヒバリだった」

「店の中にいたのか?」

「そ。店長に言われて、初めて気付いたんだけど」

 それから、と氷室は更に語る。

「『お金が無いから、何か食べさせてほしい』って言ってたらしくてな。放っておくのもアレだったから、俺がバイト代から食費を削って、簡単に定食もどきみたいのを作って食べさせてやったんだよ」

「それで料理に目覚めて、お前と一緒に料理を作り始めたという訳か」

「そういうこと。ま、家での食事を作ったりしてて、母さんたちは喜んでたけどな」

 氷室は懐かしむように笑ってから、

「そう言えば、御琴とイロウはどうやって?」

「ああ、私か?」

 話を振られ、私は正直に答えた。

「夜中に帰り道を歩いていたら、いきなり目の前に鎌を持って浮かんでいたんだ」

「なんだそりゃ」

「事実をありのまま話しているだけだが」

 まぁ、確かに妙な初登場だったろう。口頭で説明すると、更に分かりづらいかもしれない。

「……間違っても怖い、とか言うなよ。イロウはああ見えてデリケートな奴だからな」

「ああ、分かったよ」


 さて、次は何を聞こうか。……そうそう。

「お前と槍介の知り合った経緯が聞きたい」

「槍介? ああ」

 氷室はまたゆっくりと話し始めた。

「単純に、東京で中学時代3年間同じクラスだったんだよ。その後は別々の学校に進学したけど、ちょくちょく一緒に遊んだりしてたな」

「同級生、か」

 私でいう、桐葉や青嵐のようなものだろう。確かに中学時代の同窓生は、卒業してからも大切な友人となるものだ。

「お前は同じ学校に進もうとは考えなかったのか?」

「考えなかったね。そもそも俺は専門学校みたいなところだったし」

 それに、と氷室は少し苦笑い。

「槍介、ああ見えてめちゃくちゃ頭良いんだよな。全国一斉試験とかで、50位とかだったし」

「ははははは! バカ言え、あの槍介がか?」

 私は思わず笑ってしまう。

 家柄の上、私も槍介と小さい頃に遊んだことは何度かある。その時の印象は、一言で例えろと言われたら「バカ」に尽きる。「変態」も含めてやってもいい。

 とにかく、私以上に自由奔放で、いつも考えていることが分からない、浮世離れした人物だった。

 それが、全国100位以内に入る成績優秀者とは……。

「し、信じられないな……はははははっ」

「いや、マジだって。実際、国立の難関校に合格したしな。俺が同じ進路に進もうとしても、出来っこねぇってことさ」

「なるほど、それなら確かに納得だな」

「んだとコラ」

「事実だろうが」

 私が言い放つと、氷室は「……そうだけどさ」となおも口ごもる。こういうところが子供っぽい。

 なんとなく微笑ましい感覚にとらわれながら、私は呟いた。

「槍介も来れば良い物を。こんなに大人数集まっているのにな、あいつには宝物庫も同然の場所だろうに」

「ああ、それは言えてるな。賑やかなの好きだからなぁ、あいつ」

 今頃何してんのかなぁ、と氷室は空を見上げる。死んだ奴のことを思い浮かべるような仕草だ。

 たまには連絡を取ってやろう、と私は思った。


  ○


 ひとしきり思い出話を終え、氷室は「何か軽い夜食持ってくるよ」と言って席をいったん立った。

 私はひとり、ぽつんと夜空を見上げる。

 黒いキャンバスに白い絵の具をスパッタリングしたような星空に、一際大きな点が3つ。

 確か、一番大きく輝いているのが――

「……」

 ……何と、言ったかな。何度も見たことはあるし、名前を聞いたこともあるのだが……。

「う~……」

 何だったろうか……大きな三角形が見えてはいるんだが。

 人差し指を掲げ、確かめるように3つの星を頂点とする三角形をなぞる。

「あの一番明るいのが、ベガ」

 と、優しげな声がする。振りかえると、氷室が両手に1つずつの盆を持って立っていた。それを傍らに降ろすと、再び私の隣に座りこみ、

「一番明るいベガの左下にあるのが、デネブ。あと1つがアルタイル」

「……あれが、ベガか?」

「そうそう。ベガはまぁ、俗に言う『織姫』だな。『彦星』はアルタイル」

 楽しそうに氷室は言う。私は目を見開いて彼を見た。

「随分と詳しいんだな」

「なに、全部星の受け売りだよ」

「三条の?」

 そうそう、と氷室は言う。

「俺は星に料理を教えたけど、星は俺に天体の事を教えてくれた。名前が名前だけに、天体観測好きだからさ、あいつ」

「なるほどな」

 ここにきて、三条の意外な一面が明らかになった訳だ。名前通りと言えばそれまでだが、やはり三条星、という人間は何か面白い部分をまだまだ隠しているらしいな。

「氷室、お前の従妹を原河の養子に出す気はないか」

「俺に聞かれてもな。せめて伯母さん――星の両親にでも相談してくれ」

「私は英語が喋れんからな」

 三条、英日のハーフと聞いた。英語という科目自体は苦手ではないが、ネイティブに通じるかと言われると私も自信がない。

 しかし氷室は「大丈夫大丈夫」と手をパタパタと仰ぐように振って、

「伯父さん、日本語ペラペラだからさ。英語なんか喋れなくても通じるよ」

「そうなのか。なら、すぐにでも三条を貰いに行けるな」

「なんだよそれ」

 笑いながら突っ込むと、氷室は私に持ってきた盆の1つを差し出した。

 小さな小皿の上に黒と緑の直方体が2つ。それと、冷えた麦茶の入った湯呑み。

「羊羹か。お前はこんな物まで作るんだな」

「まぁな。黒い方が普通の羊羹で、緑の方は抹茶の羊羹な」

 一緒にちょこんと乗っていた、小さな音叉のような形のフォークで端から切って口に含む。まずは黒い方。

「……ふむ、悪くないな」

「そうか?」

 照れたように氷室は笑い、自分の手元にある同じ物を食する。

「うん、やっぱり自分で作ったもんは美味いな」

「昔からお前の作るものは美味かったからな」

 言いながら、私は次に抹茶羊羹を食べる。

「ん、これは美味いな。苦味が効いていて絶妙だ」

「だろー。割と自信作なんだぜ」

 氷室は嬉しそうに言いながら、湯呑みの麦茶を飲んだ。

 私もそれにならって麦茶を飲む。よく冷えていたそれは、口直しにちょうどいい。

 氷室は再び羊羹を食べながら、

「御琴に何か作って食べさせてやるのも、久しぶりだな」

「そうだな。昔からお前の料理は美味かったが、今はそれ以上だな」

 私もついつい食が進む。本当に舌触りが良い、というべきか。

「結構多めに作ってあるから、明日にでもまた食えるよ」

 氷室はそう言って優しく笑う。

 私は「分かった」と言いながら、あっという間に平らげてしまった。

「ごちそうさま。美味かったぞ」

「ありがとうございます」

 恭しく頭を下げて見せる氷室。どこか余裕のあるその態度は、自分に自信のある事の裏返しだろうか。

 私は残りの麦茶を飲み干し、再び空を見上げる。

 相変わらず、空には眩いばかりの星雲が広がっている。見ているだけで一晩が過ぎてしまいそうなほど、吸い込まれるような美しさだった。

 私の様子を見て、氷室も空を見上げ、「ふう」と深く息を吐く。

「……なんか、見てるだけで疲れが吹っ飛びそうだな」

 ぽつり、と氷室が呟く。

 私は答えずに、じっと夜空を見上げていた。


 無音の時間が過ぎてゆく。

 ふと、私は氷室の様子をうかがうと、

「……」

 彼は少年のような眼差しで、夜空を見上げている。

 まるで、星の1つ1つとアイコンタクトを交わしているような、そんな感覚。

「……氷室」

 私はそう言ってから、彼にすっ、と身を寄せた。氷室は少しだけこちらを見て、それから話し始めた。

「……今な、前に2人でこうやってた事があったなって、思い出してたんだ」

「あの冬の日か?」

「そうそう」

 私も思い出す。それはついこの間、夢で見た思い出だ。

「雪が降ってるのに、星はずっと輝いていたな」

「そう、その日。……めっちゃ綺麗だったよな」

 あの日も、私はこうやって、氷室にもたれるように身を寄せていた。

 季節と、私達の年齢以外は、あの時と同じだ。

「覚えていてくれたんだな」

 私が言うと、氷室は「当たり前だろ」と答えた。

「御琴と過ごした日々は、全部、俺の大切な思い出だよ」

「私もだよ」

 そう言うと、昔の思い出が一様にフラッシュバックする。


 初めて会った日のこと。

 オセロを教わった日のこと。

 花札を教わった日のこと。

 将棋を教わった日のこと。

 初めて手料理を食べさせてくれた日のこと。

 一緒にかまくらを作ったこと。

 初めて海に出かけた日のこと。

 砂浜で一緒に巨大な絵を描いたこと。

 除夜の鐘を一緒に聞いたこと。

 初日の出を一緒に見たこと。

 クリスマスの日、私にケーキを作ってくれたこと。

 誕生日にも、また違ったケーキを作ってくれたこと。


 初めて、氷室が泣いているのを見た日のこと。

 ずっと気丈に振舞っていた氷室と、「大丈夫か?」としか言えなかった私。


 思い切り喧嘩した日のこと。

 意地を張って泣いていた私を、それでも「ごめんな」と優しく諭してくれた氷室。


 初めて、氷室と一緒に星空を見た日のこと。

 言葉に出せない不器用な私に、「ずっと一緒にいる」と言ってくれた氷室。


 それから、それから、それから、それから――

「……」


 最後の、思い出は――

 部屋の隅で、ずっと、泣いている、小さな私。


「……はぁ」

「……御琴?」


 ふと気付くと、今の私も、涙を流していた。


「……すっかり、自分を騙すのが上手になってしまったな」

 私は浴衣の袖で涙をぬぐって、そう呟いた。

「強気に振舞っていても、少し辛い事を思うだけでこれだ」

「御琴」

「結局、変わっていないのは、私の方なんだな」

 上っ面だけ変わった気でいても。

 どんなに自信を持って振舞っても。


「――私は、ずっと、泣き虫なままなんだ」


 ぼろぼろ、ぼろぼろ、流れる涙。

 浴衣の袖で拭うのも億劫になるほど、私は泣いていた。

「はは……ダメだな、私は。自分で、自分のルールも、守れない」


 氷室のいなくなった日。

 私は部屋に閉じこもって、ひたすらに塞ぎ込んでいた。

 布団にくるまり、枕を抱きしめ、寂しさのあまり泣いていた。

 どうして氷室は来ないんだろう。

 どうしていきなり姿を消したんだろう。

 ずっと、ずっと、氷室のことを考えた。

 考えて、考えて、考えて、考えて――

 その末に出した、私なりの結論。


「きっと氷室は、私のことが嫌いになったんだ」


 ずっと、泣かないと決めていた。


 こんな泣き虫な自分が嫌いになったから、氷室は行ってしまったんだ。


 だから、泣いちゃいけない。泣いちゃいけない。


 そう、決めていたのに。


「私は、弱い人間だ」

 ぐっと浴衣の裾を握りしめ、

「結局、ひとりで立っていられない、不安定な人間だ」

 こぼれる涙が、両手に落ちる。

「……何一つ成長できていない、あの時の、後ろ向きなままの」

 弱い、人間。

 そう言い終わる事も出来ないまま、私は泣き続けた。

 声を殺して、静かに涙を流し続け、落ちたその行く末を目で追う。

「……御琴」

 氷室はそう、押し殺すように私を呼んだ。

 きっと彼の眼には、今の私は、さぞ痛々しく映っていることだろう。

「……なぁ、氷室」

 だから、私は尋ねることにした。

「お前には、私は、どう見える?」

 涙を流し、震える声で、そう問うと――

 氷室は一言、告げた。

「綺麗に見える」


 そう言って、氷室は私をそっと抱き寄せた。


「いつだって、御琴は綺麗だよ」

 ちょうど私の耳元で、氷室は優しくそう言った。

「笑ってる時も、怒ってる時も、泣いてる時も――いつだって。それは、お前が一番よく知ってる事だろ?」

「……」

 それにな、と氷室は言う。

「泣き虫なお前が、ひとりで立ってられる訳無いだろ」

「……なん、だと」

 言い返そうとすると、氷室は更に私を強く抱きしめて、

「ごめん」

 と、一言告げた。

「ずっと、寂しかったよな。辛かったよな。疲れただろうな」

「……」

「お前をひとりにしたのは、本当に悪いと思ってる。だから」

 そこで彼は一呼吸置いて、優しく言ってくれた。



「これからは、ずっと傍にいるから。ひとりで頑張った御琴を、支えてやるから。辛いことがあっても、一緒に乗り越えてやるから。何かあっても、俺は御琴の味方だから」

「……」

「だから、今は、思い切り泣いて良いんだよ。今までの辛いこと、悲しい事、苦しい事――全部全部、受け止めてやるから」



「氷室……」

 その言葉で、私は泣いた。

 思い切り、泣いた。

 近所迷惑なんか顧みず、声をあげて泣いた。

 今までに溜めこんでいたもの、全部全部吐き出すつもりで、子供みたいに泣いた。

 氷室は何も言わずに、ただただ私を抱きしめて、静かに頭を撫でてくれた。

 まるで、私を包み込むような、暖かいなにかがそこにはあった。


  ○


 どのくらいそうしていただろうか。

 私が泣きやむのと同時に、氷室は腕をほどいて、正面から私を見据えた。

 そして、最初にこう言った。

「気分はどうだ?」

 気丈な声に、少しだけ混じる、心配と不安の色。

 だから私は、今度こそ自信を持って答えた。


「最高だ」


「……そうか」

 それを聞くと、氷室は安堵したようにほっと息を吐く。

 私は目尻に残った涙を袖で拭い、氷室をじっと見る。相変わらず、氷室は優しげな表情で私を見ている。

 その顔を見ていると、私の心がすっと凪いで行くのを感じた。

 私は氷室に「なぁ」と確かめるように言う。

「氷室」

「なんだ?」

「……本当に、私と、一緒にいてくれるのか?」

「もちろん。今度こそ、突然御琴の前から消えたりはしない」

「……そうか」

 その言葉が嬉しくて、くすぐったくて。

 だから、私は笑った。初めて、『心から』笑えた気がした。

 こんな気分は、久しぶりだ。

 私は、ようやく『私』に戻れたのだ。

「さて」

 と、不意に氷室は立ち上がり、んーっと背伸びをした。

「そろそろ寝るか。もう夜遅いしさ」

「……そうか?」

「もう12時は過ぎてるんじゃねぇか? 御琴、明日も遊びたいだろ?」

 そうにやにやと笑いながら言う氷室は、もうすっかり『いつも通り』だ。

 今の私には、それがたまらなく嬉しく感じられた。

「氷室」

 だから、私は素直に口に出すことにした。

 ずっと、ずっと感じていた。それでも、中々口に出せなかった、私の気持ち。

「なんだ?」

 そう問い返す氷室。

 私は彼にすっ、と歩み寄って、

「――大好きだ」


 彼の両頬に手をあて――

 そっと、唇にキスをした。


 私は目を閉じていたから、氷室がどんな顔をしていたのか、分からない。

 だが、それは些末な問題だろう。素直にそう感じた。

 3秒ほど経って、私が目を開けると、

「こんのやろっ」

 照れたように氷室は、私の頭に手をぱん、と置いて、乱暴にがしがしと撫でる。

 私は彼の手首を抑えて、

「やめろ、私の美しい髪が台無しだろうが」

「……ぷっ」

 氷室は急に吹き出して、「あはははは」とまた屈託なく笑った。

「ようやく元に戻ってくれたな。その方が、御琴らしいよ」

「私は私だ。こうあるのが自然だろう?」

「そうだな」

 氷室は最後にそう言って、私を見つめた。


「俺も大好きだよ、御琴」


「……ありがとう」

 口から出てきたのは、感謝の言葉だった。

「願わくば、ずっと、ずっと、私のそばに居て欲しい」

「そのつもりだよ」

 氷室はそう言うと、こちらに向かって右の拳を突き出す。

 私はその意味を認めて、同じように右の拳をぶつけた。

「これからも、よろしくな、御琴」

「お互いさまにな、氷室」


 その言葉を最後に、私達の長い長い夜は終わった。

最後のプロローグ、御琴と氷室の物語の始まりです。

タイトルが±なのは、過去のプロローグを経て、未来へとつながる。そんな意味を込めてのものです。

これからも、御琴と氷室のとっつき合いを、温かく見守ってもらえたらな、と思います。


次回はエピローグ、第2章最終話です。

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