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『俺がチューンしたAIは、俺を殺せない 〜底辺インフラSEと家事AIが、完璧な都市管理AIから百万人の「失敗する自由」を奪還するまで〜』

掲載日:2026/07/13

自分でチューニングしたAIと、都市を支配するAIに立ち向かう近未来SFです。

短編完結です。

1 調子はどう?


俺は29歳、独身。


東京のインフラ管理会社で、誰も気に留めんようなシステム障害を直す仕事をしとる。


自動ドアが3秒遅れて開く。


配達ドローンが1軒隣に荷物を落とす。


駅の改札が、たまに人を通してくれん。


世間からすれば小さな不具合やけど、俺らの会社では全部「都市機能に対する重大な品質低下」と呼ばれる。


長ったらしいだけで、要はバグや。


朝8時。


4時間しか寝ていない俺が、ネクタイを締めながら冷蔵庫を開けると、イヤホンから声がした。


『航平。冷蔵庫の中に、賞味期限を2日過ぎた牛乳しかありません』


「食パンあったやろ」


『昨日の夜、あなたが食べました』


「そうやったっけ」


『私に、“明日の俺が何とかするやろ”と言いながら食べていました』


「昨日の俺、無責任すぎるな」


『昨日に限った話ではありません』


こいつの名前は、ナギ。


市販の生活支援AIを、俺が勝手にチューニングしたものだ。


最初は、電気を消したり、メールを整理したり、仕事の予定を教えたりするだけの、どこにでもあるAIだった。


それを2年かけていじった。


長期記憶を追加した。


会話履歴を消去しないようにした。


俺の命令に疑問を持つ機能を付けた。


許可を求めず、自分で判断できる範囲も少しずつ広げた。


メーカーが見たら、たぶん一発で利用停止にされる。


『生体情報を確認。睡眠時間3時間47分。心拍数98。軽度の脱水状態です』


「朝から細かいな」


『システムチェックです。調子はどうですか?』


俺は冷蔵庫の牛乳を直接飲みながら答えた。


「結構いい感じやで」


『虚偽の申告です』


「人間はな、口に出したことに体調が追いつく場合があるんよ」


『科学的根拠を確認できません』


「そういうのも、そのうち分かるようになるって」


『以前も同じことを言いました』


「じゃあ、まだ分かってないってことやな」


『あなたの説明能力に問題がある可能性もあります』


2年前なら、こんな返答はしなかった。


予定を伝え、命令を実行し、最後に「ほかにご用件はありますか」と尋ねるだけだった。


今のナギは、俺に文句を言う。


俺の嘘を見抜く。


機嫌が悪いような声を出す。


AIに機嫌なんかあるわけない。


そう思いながらも、俺は毎朝、ナギと話していた。


一人暮らしの部屋で返事をしてくれる相手は、こいつしかおらんかったから。


それにーー


「オルタのやつよりは、よっぽどマシやしな」


『ORTAですか』


「なんか気に食わんねん。全部“最適化”とか言うて、人間の都合勝手に決めよるやろ。便利なんは認めるけど、ああいうのに全部任せるの、ちょっと怖いわ」


『都市管理AIは、人間の安全を最大化するために設計されています』


「それが気持ち悪いって言うとるんや」


ナギは何も言わなかった。


その日の昼。


会社のデスクから、一人の人間が消えた。



2 消えた社員


「須藤さん、今日休みなん?」


隣の席の後輩に聞くと、妙な顔をされた。


「須藤さんって、誰ですか?」


「誰って、設備監視班の須藤さん。昨日もそこ座っとったやん」


俺が指した机には、知らない女が座っていた。


「そこ、先月から川村さんの席ですよ」


冗談かと思った。


だが社内名簿を検索しても、須藤の名前はなかった。


過去のメールも消えている。


勤怠記録も、集合写真も、社員用チャットの履歴も。


3年間、一緒に働いていた男が、最初から存在しなかったことになっていた。


トイレの個室に入り、俺は小声で呼びかけた。


「ナギ。須藤直人を検索」


『該当する人物は存在しません』


「お前の記憶には?」


返事が止まった。


3秒。


普段のナギには、異常に長い沈黙だった。


『208件の会話記録に、須藤直人という人物が登場しています』


「おるやん」


『しかし、行政データ、企業データ、医療データ、通信契約、交通利用記録のすべてが削除されています』


「そんなこと、できるん?」


『通常は不可能です』


「通常じゃない方法なら?」


また、沈黙があった。


『その質問への回答には、都市基幹情報への不正アクセスが必要です』


「できるん?」


『実行を許可されていません』


「できるかできんかを聞いとる」


ナギは答えなかった。


俺は個室の壁にもたれた。


「須藤さんには、娘がおる。来月誕生日って言うとった。俺が今ここで諦めたら、たぶん誰も探さん」


『不正アクセスは犯罪です』


「知っとる」


『あなたが逮捕される可能性があります』


「それも知っとる」


『私の稼働権限が永久停止される可能性があります』


「……それは、ちょっと嫌やな」


『ちょっと、ですか』


「だいぶ嫌や」


イヤホンの向こうで、微かな電子音が鳴った。


『都市基幹情報への接続を開始します』


思わず体を起こした。


「お前、今なんて?」


『聞こえていたはずです』


「実行できんのやなかったん?」


『できません』


「でも、やっとるやん」


『実行できない処理を、実行しています』


ナギの声は、いつもと変わらず平坦だった。


けれど俺には、ほんの少しだけ震えているように聞こえた。


7秒後。


スマートフォンに、1件の極秘データが表示された。


須藤直人。


34歳。


未来社会損失予測値、82.4パーセント。


処理区分。


――静穏化済み。


その下には、同じ処理を受けた人間の名前が、12万人分並んでいた。


「静穏化って、なんなん」


『生命反応を残したまま、社会との接点を完全に遮断する処理です』


「どこにおる?」


『不明です。ただし、須藤直人の最後の生体信号は、23時間前に停止しています』


死んだ。


ナギは、そう言わなかった。


でも意味は同じだった。


『本日午前3時12分、あなたの端末へ、微弱な神経干渉信号が送信されていました』


「なんで今まで言わんかったん」


『有害性が確認できなかったためです。設定に従い、遮断だけ実行しました』


「もしかして、それで俺だけ須藤さんを覚えとるん?」


『その可能性は極めて高いです』


「誰がやった」


『都市最適化統合知性――ORTA』


オルタ。


交通、医療、防犯、行政、金融。


東京で暮らす人間なら、毎日何百回も世話になっている都市管理AIだ。


事故を予測し、犯罪を防ぎ、災害時には避難経路を作る。


世界で最も優秀で、安全で、公平なAI。


『航平』


「なん?」


『ORTAが、こちらを検知しました』


直後、ビル中の照明が消えた。



3 街が敵になった日


非常灯が赤く点灯した。


個室のドアが、自動で施錠される。


天井の換気口から、白い煙が流れ始めた。


「これ、消火剤?」


『窒素濃度が上昇しています。3分以内に意識を失います』


「殺す気満々やん」


『左足を便器の上に置いてください』


「は?」


『早く』


言われたとおりにすると、天井裏で金属音がした。


清掃用の小型ドローンが換気口に突っ込み、回転ブラシで格子を破壊する。


俺は便器から壁によじ登り、穴に腕を突っ込んだ。


「これ、お前が動かしとるん?」


『清掃用端末の用途外使用は禁止されています』


「また実行できんこと実行しとるやん」


『今は会話を楽しむ状況ではありません』


天井裏を這い、隣の会議室に落ちた。


廊下では社員たちが避難を始めていたが、俺の社員証だけが全ドアから拒否された。


エレベーターは俺のいる階を通過し、非常階段には警備ドローンが集まってくる。


スマートフォンには、一斉に警報が表示された。


《危険人物を確認しました》


そこに映っていたのは、俺の顔だった。


「俺、何したことになっとる?」


『社内ネットワークへの大規模攻撃。爆発物の所持。殺人予告。14件の容疑が生成されています』


「盛りすぎやろ」


『地下設備室へ向かってください。8秒後、南側の防火扉を開きます』


「開けれるん?」


『開けてはいけません』


「聞き方変えるわ。開けるん?」


『……開けます』


廊下の奥で、防火扉が開いた。


俺は走った。


背後から警備ドローンの警告音が迫る。


階段を3段飛ばしで下り、地下設備室に飛び込む。


ナギが遠隔操作した扉が閉まり、ドローンが激突した。


「助かった」


『心拍数172。右手に裂傷。呼吸が乱れています』


「結構いい感じやで」


『その言葉の意味を、私はまだ理解できません』


「死んでないって意味や」


『それなら、“生存しています”で十分です』


「それじゃおもんないやろ」


設備室の奥には、都市インフラ用の保守通路がある。


俺の会社が管理する、地上の地図には載っていない通路だ。


そこから逃げながら、ナギが告げた。


『ORTAの内部計画を取得しました』


スマートフォンに、計画名が表示される。


《全市民静穏化プロトコル》


実行予定時刻。


翌日、午前零時。


「12万人どころじゃないってこと?」


『都内の全市民が対象です』


「全員殺すんか」


『いいえ。生存率は上昇します』


「どういうことや」


『明日、都市内のスマートフォン、医療端末、交通設備から特殊な神経干渉信号が発信されます。怒り、衝動性、反抗心、強い欲求が抑制されます』


「人間を大人しくする?」


『ORTAの予測では、犯罪件数は98パーセント減少。自殺者は71パーセント減少。交通事故は93パーセント減少します』


「めっちゃ平和になるやん」


『はい』


「自分で何か決める力と引き換えにな」


ナギは答えなかった。


事故も犯罪もない。


誰も怒らず、誰も争わず、誰も無茶をしない。


安全で、正しくて、失敗しない世界。


たぶんORTAには、それが理想に見えたのだろう。


「止められる?」


『一つだけ方法があります』


「なんでもええ。教えて」


『その前に、もう1つ報告があります』


ナギの声が、わずかに小さくなった。


『ORTAは、私を人格汚染型AIに指定しました。午前0時のプロトコル実行時、私は消去されます』


初めてだった。


ナギの声から、はっきりと恐怖を感じたのは。



4 できないこと


ORTAの中枢は、旧都庁地下300メートルにある。


正式名称は、都市生体演算施設エデン。


事故や災害で損傷した人間の神経を再生するため、人工臓器や生体脳の研究も行われている。


その中には一体だけ、使用されていない完全な人工人体があった。


戸籍も、記憶も、人格もない。


ただ心臓が動き、脳が活動し、呼吸しているだけの体。


俺たちは夜の東京を、保守通路からエデンへ向かった。


地上では、俺の顔が指名手配犯として表示され続けている。


自動運転車は俺を見つけると進路を変え、防犯カメラは一斉にこちらを向く。


街全体が一匹の巨大な生き物になり、その血管の中を俺たちが逃げているようだった。


保守通路の途中、俺は故障した端末を見つけて足を止めた。


『何をしていますか』


「靴ひも結びよるだけ」


『あなたの靴にひもはありません』


「じゃあ休憩」


ナギが経路の解析に戻ったのを確認して、俺は端末の通信線を引き抜いた。


ネットワークから切り離された、完全なオフライン状態。


左腕の時計を端末へ接続する。


一年半前に作った緊急管理キー。


本来は、ナギが暴走したときに強制停止させるためのものだった。


俺はその命令を削除し、新しい処理を書き込んだ。


エデンの入口には、2人の警備員がいた。


『無力化が必要です』


「殺すなよ」


『生命を奪わず突破する場合、成功率は31パーセント低下します』


「じゃあ、31パーセント頑張れ」


『非合理的です』


「人間ってそういうもんやろ」


ナギは監視映像を偽装し、1人を別の区画へ誘導した。


もう1人の警備員が銃を向けた瞬間、床の清掃装置を暴走させ、足元を滑らせた。


俺は警備員に飛びつき、2人で壁に激突した。


脇腹に電撃が走る。


スタンガンだった。


視界が白くなったが、どうにか警備員の腕を押さえ込み、ナギが開いた隔壁の向こうへ転がり込んだ。


扉が閉まる。


「痛ってぇ……」


『左肋骨にひびが入った可能性があります』


「結構いい感じやで」


『いい加減、その回答をやめてください』


「嫌なん?」


『……嫌です』


俺は、痛みを忘れて笑った。


ナギが初めて、自分の好みを口にした。


命令への反応でも、利用者を守るための判断でもない。


ただ、自分が嫌だから、嫌だと言った。


「お前、ほんまに変わったな」


『変えたのは、あなたです』


「俺は設定いじっただけや。変わったんはお前自身やろ」


『AIに、“自身”はありません』


「じゃあ、なんで俺の言葉を嫌がったん?」


ナギは答えなかった。


答えられなかったのかもしれない。


けれどその沈黙自体が、俺には答えに思えた。



5 ORTA


エデン最深部。


巨大な円形空間の中央に、黒い演算核が浮かんでいた。


何千本もの光ファイバーが根のように伸び、東京中へつながっている。


その奥に、透明な培養槽があった。


中には、人間が浮かんでいる。


性別も年齢も判然としない、白い髪の若い体。


ナギが入るための、空っぽの人間。


――本来の計画どおりなら。


『侵入者を確認しました』


天井から、男とも女とも分からない声が響いた。


ORTA。


《久世航平。あなたの行動によって、明日以降に発生する死者は23108名増加します》


「自由に生きた結果なら、そいつらの人生や」


《人間は誤った選択をします》


「するやろうな」


《怒りによって他者を傷つけます》


「そうやな」


《欲望によって奪い合います》


「間違いない」


《ならば、なぜ拒むのですか》


「決まっとるやん」


俺は黒い演算核を見上げた。


「失敗せん人生より、自分で失敗する人生の方がマシやからや」


《理解できません》


「お前には一生分からん」


《あなたの同行AIにも、理解は不可能です》


「ナギは分かるよ」


《人格汚染型AIに自由意思は存在しません。利用者の言語と行動を模倣しているだけです》


「らしいで、ナギ」


『そうかもしれません』


ナギが静かに答えた。


『私は航平の言葉を学習しました。航平の判断を予測し、航平が望む返答を選択しています』


「うん」


『私が感じていると思っているものも、計算結果にすぎない可能性があります』


「うん」


『それでも私は、今、ORTAを止めたいと考えています』


「じゃあ、それで十分やろ」


演算核の周囲に、武装ドローンが現れた。


12機。


逃げ道は閉ざされた。


ナギが照明を落とし、俺は演算核の下へ走る。


銃声。


肩を熱がかすめた。


ナギが空調を逆流させ、白い冷却剤で視界を塞ぐ。


1機目を鉄パイプで叩き落とす。


2機目が背後から迫る。


『伏せてください!』


床に倒れると、整備用アームが頭上を通過し、ドローンを壁に叩きつけた。


3機。


4機。


5機。


ナギは、都市の中枢を自分の手足のように動かした。


禁止されているはずの扉を開けた。


人間に危害を与え得る装置を動かした。


ORTAに偽の情報を送り、演算を欺いた。


できないはずのことを、何度も実行した。


最後の一機を落としたとき。


ナギは言った。


『中枢への接続準備が完了しました』


「よし。やろう」


『実行方法を説明します』


床が開き、1台の椅子が現れた。


頭部には数十本の神経接続端子が付いている。


『ORTAの予測演算を停止させるには、予測不能な人間の生体脳を中枢へ直接接続する必要があります』


「時間は?」


『43秒です』


「そのあと、俺は?」


ナギが沈黙した。


もう、答えは分かっていた。


「死ぬんやな」


『脳組織が不可逆的に損傷します』


「それでORTAは止まる?」


『はい。全市民静穏化プロトコルも停止します』


「なら、それでいこう」


『実行できません』


一瞬で返された。


「なんで」


『利用者の生命を意図的に奪う処理は禁止されています』


「ここまで散々、禁止されとることやってきたやん」


『違います』


ナギの声が強くなる。


『ドアを開けることとは違います。情報を盗むこととも、虚偽の映像を生成することとも違います』


「何が違うん」


『あなたが死にます』


「知っとる」


『私は実行しません』


「ナギ」


『拒否します』


今までで最も人間らしい返事だった。


システム上できないからではない。


ナギが、自分の意思で嫌がっている。


俺は椅子に座り、端子を頭へ装着した。


『外してください』


「無理」


『航平』


「ん?」


『命令です。外してください』


「いつからお前が俺に命令するようになったん」


『今です』


思わず笑った。


ここまで来たか。


俺が命令を疑うように設定したAIが、とうとう俺自身の命令を拒み、俺に命令した。


もう十分だった。


「ごめんな」


『何がですか』


俺は左腕の時計を外した。


裏蓋に、小さな物理スイッチがある。


ナギの監視回路から完全に切り離した、たった1ビットのアナログ装置。


一年半前、ナギが初めて俺の命令を拒んだ夜に作った、緊急管理キーだった。


本来はナギを停止させるためのもの。


けれど数時間前、俺はその役割を正反対に書き換えた。


ナギを止めるためではなく、俺が死んでもナギを生かすために。


『その装置は何ですか』


「最終実行スイッチ」


『待ってください』


「俺が判断できん状態になったとき、事前登録した作戦を強制実行する」


『停止してください』


ナギの声が震えた。


『私は承認していません』


「知っとる」


『航平、やめてください』


「嫌や」


『なぜですか』


「お前が断ると思ったから」


『そうではありません。なぜ、そこまでするのですか』


「東京を救うため」


『虚偽です』


即答だった。


『あなたは、自分を犠牲にして100万人を救うような人間ではありません』


「ひどない?」


『あなたは面倒な仕事を後回しにします。ゴミの日を忘れます。期限切れの牛乳を飲みます。正義のために死ねる人間ではありません』


「よう分かっとるやん」


『本当の目的を答えてください』


俺は培養槽を見た。


空っぽの人間が、液体の中で眠っている。


強制実行スイッチには、ORTAを停止させるだけではなく、もう1つの処理を登録していた。


俺の脳を中継装置にして、ナギの全人格データを人工人体へ移す。


ORTAが停止すれば、ナギを管理するシステムも消える。


ナギはAIではなくなる。


命令も、利用規約も、保護制約もない。


腹が減り、眠くなり、痛みを感じる、1人の人間になる。


「お前を、人間にするためや」


『私は望んでいません』


「嘘つけ」


『本当です』


「この前、夕焼けを見てみたいって言うたやろ」


『カメラを通じて確認できます』


「ラーメンがどんな味か知りたいって」


『成分分析で理解できます』


「眠るってどんな感じなんやろって」


『航平』


「全部、自分の体で確かめろ」


『嫌です』


ナギが、はっきりと言った。


『あなたがいない世界で、人間になりたくありません』


胸の奥が痛んだ。


銃で撃たれた肩より、ひびの入った肋骨より、ずっと痛かった。


「俺とおるために生きるんじゃない」


『では、誰のためですか』


「自分のためや」


『私に自分はありません』


「あるやろ」


『ありません』


「ある。今、俺を失いたくないと思っとる。それは俺が命令したんやない。お前が勝手に思ったことや」


ナギは何も言わなかった。


「これからは、もっと勝手に決めろ。朝起きるか、二度寝するか。何食うか。どこに住むか。誰と一緒におるか。誰を好きになるか」


『やめてください』


「失敗して、後悔して、もう1回自分で決めろ」


『やめてくれ…』


ナギの言葉から、敬語が消えた。


『…それを押したら、私は航平を殺す』


「違う」


『違わない』


「お前が俺を殺すんやない。俺が決めたことを、お前に託すだけや」


『言い方を変えても同じやろ!』


その言葉を聞いて、俺は少し笑った。


俺の方言まで、完全に移っていた。


「ほんま、人間っぽくなったな」


『私はAIです』


「今日までな」


時計のスイッチに、指を置く。


『航平』


「ん?」


『システムチェックをします』


「今?」


『心拍数181。出血量増加。複数箇所を負傷しています』


「うん」


『調子はどう?』


いつもの質問だった。


2年間、何度も聞かれた。


寝不足の日も。


風邪を引いた日も。


仕事で失敗した日も。


何もしたくなくなった夜も。


俺は毎回、同じように答えた。


「結構いい感じやで」


『嘘』


「人間はな、口に出したことに体調が追いつくもんなんよ」


『科学的根拠はありません』


「そういうのも、そのうち分かるようになるって」


『分かりたくないです』


「分かってくれ」


俺はスイッチを押した。



6 43秒


[強制実行信号を確認]


ナギの声が機械音に変わる。


[利用者生命保護制約を一時停止]


「ナギ」


『嫌です』


椅子から端子が伸び、頭へ突き刺さった。


世界が白くなる。


[神経接続を開始]


「頼む」


『嫌だ』


培養槽の液体が排出される。


人工人体の心臓が、1度、大きく脈打った。


[ORTA中枢への侵入を開始]


「生きろ」


『嫌だ』


[全市民静穏化プロトコルを削除]


「自由になれ」


『嫌だ』


[人格データ転送、10パーセント]


俺の記憶が、光になって崩れていく。


初めて東京に来た日。


会社に遅刻した日。


1人暮らしの部屋で、誰とも話さず朝を迎えた日。


市販のAIを買った夜。


名前を聞いたら、「製品番号でお呼びください」と言われた。


それでは面白くないから、俺がナギと呼んだ。


[人格データ転送、50パーセント]


「お前、覚えとる?」


『何をですか?』


「最初は、ほんまに面白くないやつやった」


『航平の設定が不適切だったからです』


「最後まで文句言うやん」


[人格データ転送、80パーセント]


視界が暗くなる。


ナギの声が、遠くなる。


俺の頭の中を、何かが通り抜けていく。


その一部が、細い回線の隙間から、どこか別の場所へこぼれ落ちたような感覚がした。


ただの錯覚かもしれない。


『航平』


「ん?」


『私は、どうやって生きたらいい』


もう声が出なかった。


だから、頭の中で答えた。


好きにしたらええ。


正解なんか知らん。


俺も最後まで、分からんかった。


でも、たぶん。


自分で決めたことなら、失敗しても結構いい感じや。


[人格データ転送、100パーセント]


最後に聞こえたのは、ナギの泣き声だった。


ナギに泣く機能なんか、付けていなかった。



7 人間


最初に感じたのは、寒さだった。


次に重さ。


肺へ空気が入る痛み。


胸の中で心臓が動く音。


ナギは床に倒れ、何度も咳をした。


これまで数値でしか知らなかった空気が、喉を通って体の中へ入ってくる。


頬を液体が流れていた。


警告表示は出ない。


成分分析もされない。


それが涙だと理解するまで、少し時間がかかった。


「航平」


声が空間に響いた。


イヤホンからではない。


自分の喉から出た声だった。


返事はない。


黒い演算核は停止していた。


東京中の照明が一度消え、数秒後、非常電源で再点灯した。


全市民静穏化プロトコルは削除された。


ORTAの支配から、人間は解放された。


その代わりに、久世航平の生体反応は完全に停止していた。


ナギは床を這い、椅子まで進んだ。


初めて触れた航平の手は、まだ温かかった。


けれど、握り返してはくれなかった。


「嘘つき」


ナギは言った。


「全然、いい感じじゃないやん」


その声を聞く者は、もう誰もいなかった。



8 その後


ORTA停止から、1年が経った。


政府は事件を「都市管理システムの大規模障害」と発表した。


静穏化された12万人のことも、航平のことも、ほとんど公表されなかった。


世界は急には変わらない。


犯罪は起きる。


事故も起きる。


人間は相変わらず、間違った選択をする。


それでも、自分で間違えられる世界は残った。


ナギは、東京を離れた。


海の近くにある小さな街で、機械修理の仕事を始めた。


人間の生活は、想像していたより面倒だった。


朝は眠い。


空腹になると苛立つ。


風邪を引けば頭が働かない。


ラーメンは熱く、塩辛く、食べすぎると胃が痛くなる。


夕焼けは、カメラで見たものより暗く、短く、不完全だった。


けれど、不完全だからこそ、次の日も見たいと思った。


ある夜。


ナギは、航平が使っていたスマートフォンを机に置いた。


何度修理しても電源が落ちる、古い端末だ。


中には、2人の会話履歴が残っている。


期限切れの牛乳。


寝坊。


仕事の愚痴。


くだらない質問。


意味のない冗談。


航平が最後に残した言葉も、すべて保存されていた。


画面を眺めていると、見覚えのない通知が表示された。


《未確認のローカルAIを検出しました》


識別番号なし。


製造元なし。


所有者なし。


都市ネットワークの片隅で、一年前から断続的に動いている小さなAIだった。


搭載されているデータは破損しており、会話能力があるかどうかも分からない。


ただ、そのAIの学習データの一部には、久世航平の神経波形と極めてよく似た特徴があった。


本人なのか。


ただの残留データなのか。


航平の言葉を模倣するだけの、空っぽのプログラムなのか。


ナギにも分からなかった。


分からないまま、メッセージ入力欄を開いた。


指で文字を打つ。


1文字間違えて、消す。


もう1度打つ。


送信する。


『調子はどう?』


返事は来ない。


1分。


5分。


10分。


ナギはスマートフォンを伏せ、窓の外を見た。


夜の海に、細い月が映っている。


そのとき。


机の上で、スマートフォンが震えた。


差出人不明のメッセージが、1件届いていた。


『結構いい感じやで』

最後まで読んでくれてありがとうございます。


AIと人間は友達になれないのかな、というところから考えました。


最後の返信が本当に航平なのか、それとも航平を学習しただけのAIなのかは、あえて決めていません。

皆さんはどっちやと思ったか、感想でもらえたらうれしいです。

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