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花たちのワルツ

作者: 空木
掲載日:2026/05/05

 苹果は、透きとおった斜陽に抱かれ音もなく落ちていった。ふつり、蜘蛛の糸が切られたかのようなかろやかさで、哀しいまでの残酷さを伴って。それはじつにあっけない幕切れであった。

 てん、てん、てん、と暫し金色をあそばせていた果実は、丁度ぼくの靴先の辺りまでやってくると、あとはもう完全に沈黙してしまった。

 ぼくはその光景をまえに、茫然と立ち竦むよりほかなかった。地に落ちてもなお神聖の光をうしなわない果実を、掬いあげることもできずに。まもなくやってくるたそがれの薄墨が、その光をさえぎってしまうまで。或いは、昏闇がぼくのをすっかり覆ってしまうのを、待っていたのかもしれない。

 月が地上に翳を落として、ぼくはおそるおそる手を差しのべる。ゆびさきが紅玉ルビーにとどくかのようにおもわれたその瞬間、ぼくはみずからの裡に生じた反応の正体をはっきりと悟った。――つまるところ、ぼくはそのときになって漸く、もう永いこと夢をみていない、という事実を意識の上にのぼらせたのだった。

 ああ、なんということだろう!

 衝撃と羞恥は遅れてやってきた。

 夢はぼくに安寧をもたらす唯一の世界であり、ぼくのすべてだった。夢があったからこそ、ぼくという存在はこの現実世界に留まり得た。夢がなければぼくはとうに、みずからの軀をすっかり投げだしてしまっていたことだろう。

 だというのに、夢に関する記憶のひとかけらすら、何時の頃からかぼくの裡より消え去ってしまっていたのだ。

 それすなわち、ミカミの存在を忘れ去っていたことをも意味していた。

 ――待っているよ、翡色ひいろ

 あの子のすずやかなこえを耳元にきいた気がして、ぼくははっとふりかえる。

 小径にのびる影はひとつ、朧な輪郭をゆらしていた。


 放課後の反省室、相も変わらず灰いろに映る景色のなかに、ぼくは身を浸している。

 薄昏い室内には〈指導〉に相応しい書籍が所狭しと並べられ、反省文と思しき紙類がうずたかく積まれている。

 ぼくは埃っぽい空気にこみあげてきそうな咳を、喉奥でしずかにおし殺した。

「――ですから、〈理想的人間〉となるために、夢に逃げてばかりではいけないのです。判りますね」

 語尾を殊更強調するような喋り方をする指導教員にあわせて、適当に相槌をうつ。

 電燈の灯がちらちらとゆれる。長机に落ちた書籍の影の輪郭を眼で追っていると、呪文のように流れていく説教がふと途切れた。

「薬はきちんと呑んでいるのですか」

「……まあ」

「そう。大抵のゆめびとは、それで事足りるのですが。それでも夢をみるということは、薬の効きが悪いのかもしれませんね。ドクターに報告しておきます」

 せわしなく手元の書類になにかを書きつける教師をまえに、ぼくは頷くことをしなかった。さいわい、顔を伏せたそのひとは、ぼくの些細な行動など気に留めなかった。

 退屈な説教から解放され、上面のことばだけをならべた反省文を粛々と仕上げると、ぼくは反省室を出た。

 すっかり傾いた陽が、おおきな玻璃窓に映しだされている。放課後だというのに、大勢の生徒たちが廊下を行き交っていた。

 不意に、密やかな歓声、のようなものがあがる。廊下の一画には、人目をあつめるひとのすがたがあって――ぼくはごく自然にみえるような動作で踵を返した。

 ひとの波に逆らって階段を降りていくと、「翡色」と名を呼ばれる。いたって穏やかなこえ。ああ、遅かったようだ。

 仕様がなく、ぼくは立ち止まる。

 階上には、ひとに囲まれていた筈の先輩のすがたがあった。

 肩口で切り揃えられた黒髪に、身の丈にきちんと合ったセイラー服。逆光のうちにあって表情は読めないけれど、いつものように口の端をあげているのだろうことはその声色から読み取ることができた。

 ぼくはその眩しさに、目をほそめる。

「酷いじゃないか。逃げなくてもいいだろう?」

「……お忙しそうだったので」

「君ほどじゃあないさ。反省室の居心地はいかがだったかな」

 この先輩には、なにもかもがお見通しのようだった。

「〈模範生〉さまにはとてもきかせられませんよ」

 先輩は階段を下り、ぼくの横までやってくる。そうして湖水が波うつようなひとみに西陽をゆらめかせ、ぼくの顔をうかがうように覗きこんだ。

「君も懲りないね。規律違反がこわくないのかい? どうしてだい?」

 無垢なおさなごのように、先輩は首を傾げる。

「……」

 ぼくが沈黙を以て応えても、先輩は眼を逸らすことをしない。

 そのとき、先輩を呼ぶこえがした。

 先輩はすいと視線をぼくの後方に遣る。「いま、いくよ」とこえをかけて、さっとポケットから出した鍵をぼくの掌に押しつけてきた。

「また、あとで」

 先輩はぼくの横を通り過ぎていってしまった。

 手のうちのつめたい感触に思いを馳せる。

 待ち合わせの、合図だった。


 旧校舎は、広大な学園の敷地内、北の外れに位置する。生徒の立ち入りは制限されており、ゆえにひとが寄りつくことは滅多にない。

 裏口から旧校舎へ忍び込むと、階段をあがり、書庫へと向かう。三階の北端、それが書庫――ぼくたちの隠れ処の在処だった。

 鍵を差しこむ。ふるびた木製の扉は、キィとおとをたて内向きにひらいた。

 脚を踏み入れた途端、古書が発する独特の匂いが鼻をつく。ひとの出入りのすくない空間特有の薄昏さとしづけさが妙に心地よい場処だ。

 そう感じるのはなにもぼくだけではないらしく、扉をくぐるといつも、先輩の纏う空気が僅かにゆるむような気がする。

 ひとの輪の中心をみずからの居場処と定めている節があるあのひとも本心では静寂をもとめているのかもしれないと、そのときばかりはなけなしの同情心を傾けそうになるのだった。

 光が漏れないよう遮光カーテンが閉めきられているのを確認したのち、ぼくは電燈のスイッチに手をのばした。

 先輩は、それから半時ほど時間をおいて姿を現した。

「遅くなったね」

 ぼくは手にしていた本から顔をあげると、先輩を出迎えた。

 先輩が息を整えた頃合いを見計らい、「それで、なにか用でしたか」と水を向ける。

 みずから話を切り出したぼくをしげしげと眺めひとつ頷くと、「話があるんだ」とぼくについてくるよう促した。

 先輩は迷いのない脚取りで書架の合間を縫ってゆく。文学、文化、歴史、自然科学――分類どおり整然とならんでいる本のタイトルはどれも見馴れぬものばかりだ。

 此処は、教育上相応しくないとされる図書の保管庫だった。

 当然生徒にはその存在は知らされていない。しかしあるとき偶々鍵をひろったと云う先輩は、ひとが寄りつかないのをいいことにこの書庫を隠れ処と定めた。それからというものの、我が物顔で出入りしているというわけだ。

 〈模範生〉と名高い先輩のこのような一面が公となれば、学園じゅうが混乱の渦に陥れられることは想像に難くない。それがどうしたことか、ぼくのような一介の生徒にその秘密を明かしたのだから、このひとの思考はほんとうに謎めいている。

 そもそも蔵書が破棄されていない時点で秩序維持機構の取り決めに叛く行為として摘発されるものと記憶しているが――深入りすべきでない事柄であることは明白だった。只だでさえ規律違反常連で目をつけられているのだ。これ以上職務に忠実な先生方の注意を引くわけにはいかなかったし、学園単位で隠蔽しているであろう真相なぞに興味もなかった。

 ひときわおおきく、床板が軋む。

 歩調をゆるめた先輩は、生物学の棚を何の気なしにながめはじめる。

 それがふりであり、口火を切るタイミングを慎重に計っているのだということは容易に察せられた。用件についてもおおよその見当はついている。それが判ったところで不出来な後輩にできることなどなにもないわけだが――。

 先輩のほっそりとしたゆびが、古書の背表紙を順繰りにたどってゆく。

 さりげないふりをしてゆきついたのは『ゆめびとの特性』と題された一冊、己の推測がただしいことの証左であった。

 消えかけた文字をなぞりつつ、先輩はちいさく息を吸う。

「君は、ゆめびとを知っているかい、」

 曖昧な語尾は問いかけというよりも寧ろ、確信のこもった響きをしている。

 本に目をむけたままの先輩の横顔からは何の感情も読み取れない。ゆえにぼくも、淡々と応える。

「夢と現実のあわいにうまれたいきもの。外見には人間との相違はあまりみられないが、特筆すべき性質として夢をみること、感情が稀薄であること、性をもたないことなどが挙げられる。現実に馴染めず夢に在る者も多い。その際、現実に属するかれらの軀は眠りつづけることとなるため、それを秩序を乱す行為として問題視した秩序維持機構は数十年前、かれらの〈夢をみる〉性質を矯正の対象とさだめた。いまでは幼いころより人間と同様の教育を施され、人間社会に完全に融けこむに至っている」

「詳しいね」

「ええ。判っているのでしょう」

 ぼくがゆめびとである、と。

 言外のことばを先輩は正確に読み取り、次には意外そうにかたちのよい眉を上げる。

「認めるとは思わなかったよ」

「べつに、隠しているわけではありません」

「禁忌なのに」

「ぼくはそう、思っていませんから」

 それだよ、先輩はそう呟いたきり俯いてしまった。口元に手をやって、心なしか薄い肩をふるわせている。

 次なる科白は糾弾か、それとも嘲笑か。どちらもこのひとらしからぬ反応だ。

 ああそう、脳裡にひらめくのは、顔も思い出せないだれかの、歪んだ微笑。理解を示そうと、善意にかがやく目で、擦りよってくる者もいた。崇高なる理念のもと、ただしくないものを矯正してやろうという思考がそうさせるようだった。

 ゆめびとに対する人間の態度とは、大方このようなものだ。彼等は秩序を乱そうとする者を嫌悪し、蔑み、排除する。

 さて、この聡明なひとは、どう出るのか。

 先輩の胸元に、淡水うすみづいろのリボンが踊る。両の輪はいつもどおりうつくしい均衡をたもっていて、模範生はこんなところまで完璧なのだとつい感心する。そうやって気を逸らしていると、先輩は唐突に顔をあげた。

「素晴らしい!」

 ひとこと、発せられたことばにはたしかな興奮が宿っていた。

 おや、とぼくは目を瞬かせる。

 いつでも柔和な表情を崩さない先輩にしてはめずらしく、喜色満面の笑みをうかべている。湖水の双眸は歓喜に潤んでいて、いまにもみづが溢れだしそうだ。ぼくはそれを、うつくしいとおもった。

「ねえ、私はね、」

 先輩は、少女がそっとひめごとをささやくように、ぼくの耳元に唇を寄せる。

「この世界を、――秩序を、破壊したいんだ」

 天使の吐息はあまやかだ。 


 夢のふかくに沈みゆく感覚を、ぼくはいっとうあいしている。それは重力に反して上へ上へとのぼっていくようでもある。おもたいものからふりすてられてゆき、さいごに残されるのは、天使の羽根よりもかるい〈ぼく〉という存在だけ――。

 軀など、必要ない。あらゆるしがらみから逃れ、かろく在りたい。それがぼくの、希みだ。

 ゆめびとは冷淡だ、と人間は云う。けれどそれは正確な言ではない。ぼくたちの多くは夢のなかに心をおいているから、現実に表出する感情がすくなく、それゆえ薄情にみえるだけなのだ。

 ああ、きょうは余計な思考に囚われている。夜というのはあっという間に過ぎ去ってしまうのだから、はやく、はやく――ぼくは中庭にぽつねんと佇む苹果の樹を思い描く。薄墨の天には暮れかけの夕陽の金色をおとして――ミカミはたそがれを好むから――曖昧な輪郭は収束し、明瞭な線となる。

 やわらかな風はヘリオトロープやゼラニウムの香をともなって、ぼくの頰を気まぐれに撫ぜてゆく。そのあたたかな感触にようやく緊張がほどけて、ふかく息を吐く。

 ぼくは未だ、この場処に立ち入ることを赦されているようだ。

 見馴れた風景のなかで、素早く辺りに視線をめぐらせる。塗装の剥げかけた白のベンチは、ミカミがふるびたものをあいするから、そのままに。三日月のかたちをした池にはアーチ橋が架かる。池にうかぶ睡蓮はぽつりぽつりと花を咲かせている。

 橋を渡った先、内緒噺にうってつけの四阿を覗きこむ。長椅子に置きっぱなしのクロッキー帳は、永いことひらかれていない。みじかくなった鉛筆は背表紙の上にころがったきり、時をわすれてしまったらしい。

 丸天井からは、絶え間なく雨音がふりそそぐ。

 波のようにちかづいては遠のき、ゆらぎ、充ちる。これは音楽をあいするミカミが、雨の旋律をもとめ考案した仕掛けだ。思いどおりに雨を降らせることはむつかしいと云ったぼくに、それなら音だけをつれてくればいい、と事も無げに云ってのけた。簡単に云ってくれる、と文句を口にしたけれど、ぼくが内心浮き足立っているのをミカミは見抜いたのだろう。一辺倒ではつまらないし、大袈裟な強弱ほど興ざめなものはない。自然に調和する音楽を――そんな試行錯誤の末、ぼくたちは終に四阿の裡に理想の雨音をとじこめることに成功したのだった。

 一歩外へ踏み出すと、密度を増した静寂が押し寄せてくる。

 さいごに庭の片隅、苹果の樹のまわりをぐるりと一周して、天を仰ぐ。

 葉を透かす金色に眼が眩んで、ぼくはいつもどおり、ひとりだ。

 心臓がひとつ、もの哀しそうに鼓動する。

 ミカミがいない。

 未だ実感の伴わない空白は、感情を波立たせることすらないけれど――触れたところから崩れてしまいそうな心を抱えこむように、ぼくは老樹の根元に腰を落ちつける。

 たそがれどきのほの昏い世界のなかに発光する樹の葉はうつくしい碧いろをしている。

 立て膝に額を寄せ、視界をとざす。

 風のうたと葉ずれの音にまじって、ときおり魚が跳ねるような水音が響く。

 三日月の池にいきものは棲みついていない。

 ぼくの心象イメージがほんものの形をなぞっているのだろうか。それとも、ぼくの知らないうちにこの場処が変容しつつあるとでも云うのか。

 しづかだった。

 あのお喋りな友人がいないだけで、こんなにも、果てのない静寂が、よこたわって……、…………。


「翡色、起きたのかい」

「ミカミ?」

「ふふ、夢のなかで夢をみていたの?」

「――夢、」

 純白の羽根が舞い、ミカがわらう。

「だって、きみが、いない、」

「いるよ、ボクは。此処に、ずうっと」

 ミカミの左肩がぼくの右肩に、ふれる。翼が頰をくすぐって、あたたかい。

 飛べないからね、もう。

 そう、さびしそうに、わらう。

 ミカミは飛べない天使だ。

 虹のふもとをめざす途上、嵐に遭い夢境に流れついたと云うミカミは、瑕ついた翼を引き摺って、或る日ぼくのまえにあらわれた。静謐で清らかな空気の充ち充ちた夢のなかは、静養にはもってこいの場処だ。まもなくミカミの瑕は癒え、翼は白雪の如きうつくしさを取り戻した。

 けれど心のほうはそうもいかなかった。飛ぼうとすると、軀が竦むんだ、翼が縺れておもうようにうごかない――ミカミは二度と、天を抱くことはなかった。

 そうしてミカミは、此処に居つくこととなった。生来の快活さと好奇心とを覗かせるようになったミカミは、ゆめびとのルールなどお構いなしに好き勝手ふるまった。ひとの夢に無遠慮に踏みこみ、あまつさえ干渉することなどあってはならないのに、だってぼくは天使だもの、とお茶目にわらってみせた。

「此処に、いるといいよ」

「うん」

 キミの隣に、いるよ。

 そう口にしたミカミの貌がみえないのはきっと、逆光の所為で、――。

 金色を弾く苹果の実が紅々と燃えている。

 目が眩んで、瞼をおろす。

 ふたたび目をひらいたとき、ぼくを取り巻くのは変わらない景色で、ただミカミだけが、いなかった。

 三日月の池に、魚が跳ねる。

 しん、とした空間に水音の波紋がひろがり、きえゆく。

 待っている。

 夢をみることを思い出したあの日から、ずっと。

 きみは、何処へいってしまったの?

 記憶はひどく朧げだ。


 眼を醒ます。まだぼんやりとした意識を押しのけて、枕元に置いた懐中時計を手にする。針は丁度六の文字盤にかかるところにある。

 きょうは、点呼のまえにもどることができたようだ。連日反省室送りとなっては堪らないと気を張っていた甲斐があった。

 懐中時計の隣には、錠剤の入った小壜が無造作に放られている。毎晩眠りにつくまえに排水溝へながすのだが、疲弊しきった軀を引き摺っていたきのうは、うっかりしていたらしい。

 小壜をふる。かろやかな音を奏でる、無邪気な貌をした、劇薬。

 ゆめびとを、夢から遠ざける薬。摂取しつづけると、やがて完全に夢をみられなくなると云う。現実に背を向けて夢に浸りつづけるものが続出した事件を機に創られた薬だった。

 夢を喪ったゆめびとは、ゆめびとと云えるのだろうか。

 いっとき、ぼくは夢をみることをわすれていた。思い返したくもない、酷くおぞましい記憶だ。ゆめびとから夢を取り上げるなど、何故そのような非道がゆるされるのだろう。人間に都合よく張りめぐらされた〈秩序〉にしたがうことが、ほんとうにただしい途なのだろうか。

 何故ぼくは、この薬を呑もうとおもったのだったか――ほのかな疑念は、心地よい微睡みに融けていく。点呼まではまだ時間がある。

 眠ろう、もうすこしだけ、このままで。

 すべてを、わすれて――。


 紅茶の薫りがふわりと立ちのぼる。

 陶器のティーポットに、揃いの装飾がほどこされたティーカップがふたつ。繊細な蔓草の模様がうつくしく縁を飾っている。

「私たちは、おなじ希みを抱いている。謂わば、同志なんだ」

 温室の玻璃窓を透った陽光が、ちいさな世界に翆の翳を落とす。ひかりを溢れさせる、庭。

 本日の放課後はお茶会を開催する――指定された場処は、先輩が管理を任されていると云う温室だった。まだ数度訪れただけであるが、外界から閉ざされた此処に、ぼくはある種のユートピアをみいだしている。

 薔薇、ローズマリィ、白百合、水仙、アルストロメリア、茉莉花……色とりどりの花が咲き乱れる此処は、さながら楽園のようだ。その中央では、ミモザの樹が開花を待ち希んでいる。

 視界の端に色硝子が燦めく。

 希み、半分夢のなかに在るような紗のかかった世界で、先輩は微笑む。

「現実の、超越だよ」

 うつくしいひとは流れるような動作で、カップに口をつける。未成年のカフェインの摂取は禁止されていると云うのに、このひとはまた何処から入手したのか、お茶会と称してはぼくを呼び寄せ、種々の紅茶をふるまうのだ。

 琥珀いろの液体の、薫りを呑む。きょうのそれは、柑橘の類いのお茶だろう。

 円卓テーブルには焼き菓子がならべられ、苹果や葡萄、木苺などの果実がつやつやとその実を光らせている。ぼくは不気味なほどに紅い苹果から、目を離すことができない。

「だから、秩序を破壊する、と?」

「そう、君は存分に夢をみることができるようになる。周囲の目など気にせず、ね。反省室ともおさらばと云うわけだ」

「いいのですか、模範生さんがそのような口をきいて。あなたはこの世界に適応できる側の人間だ。秩序を破壊する必要が、何処に?」

 先輩はおともなくカップをソーサーに戻し、目を伏せた。沈思しているようだった。やがて、口をひらいて云うことには――、

「君は秩序維持法についてどう考える?」

 やわらかな微笑みのうちに、訊ねられる。如何なる答えをもとめられているのか、生憎とぼくには判りかねた。

 ぼくはひとつ、息を吸って答える。

「人間は怠惰だ。自由などあたえられれば堕落するのみ。規律に基づいた生活を送ってこそ、真の人間、〈理想的人間〉になれる――と、云われていますね」

「私は君の意見を訊いたのだけれど」

 まあいい、呟いて、先輩は円卓のうえで両手を組む。何処か緊張感のある空気が醸成される。

 凍てついた氷のような、先輩の鋭利な眼差しが、此方を射貫かんとしていた。

「秩序に盲目的な人間、なんて愚かなのだろう。そう、思ったことはないかい?」

 ――嗚呼。ぼくは場違いにも、みずから思考の淵に脚を踏み入れることを止められはしなかった。

 何時もの声音は、万人の耳に心地よいよう、作りこまれているのだろう。先輩にとっては、場の空気をその一声で、一瞥で、操作することなど容易いにちがいない。

 氷の如き凍てついた鋭さ、それがやわらかい笑みの蔽い隠すこのひとの本質なのだろうか。この現実に在って、如何してこのような貌ができるのだろう。

 ぼくはぼくの裡に、俄に先輩への興味が湧き上がってくるのを感じた。現実で、ひさしく感じていなかった感覚だ。

 ふるえるゆびさきを隠し、努めて冷静なふうを装わねばならなかった。

「どうでもいい、というのが本音ですね。人間にも、〈現実〉にも――興味なんてありません。ぼくは只だ、なにものにも縛られず、かろく在りたい。それだけです」

 その応えに満足したのか、先輩の纏う空気がふっとやわらいだ。

 先輩はふたたびカップを手にし、和やかな茶会はつづく。

「ほら、希んでいるじゃないか。この雁字搦めの〈現実〉の、超越を」

 ぼくもカップに手をのばし、こくり、と琥珀の液体を呑みこむ。

「そうとも、云えるかもしれませんね」

 先輩はうれしそうに微笑った。

「けれど、協力なんてできませんよ。なにせぼくは〈規律違反〉常連ですから」

「構わないさ。おなじ理想を抱く者として、只だ其処に在ってくれたら、それで――」

 すくわれる、ちいさくうごいた唇は、みないふりをした。


 この学園では朝と夕の二度、礼拝がおこなわれる。任意参加ということになってはいるが、敬虔な信徒以外に点数を稼ぎたい生徒らが熱心に参加するようだった。

 特別信仰心が篤いわけでもないぼくはというと、反省室送りが続くとそれを打ち消すように放課後の礼拝に参加するのが慣例となっていた。

 礼拝を取り仕切るのは司祭さまだ。司祭さまが現れると、みな一様に頭を垂れる。生徒たちの顔は白のヴェールに蔽われていて、個人を判別するのは困難だ。しかしすこし前の列に、先輩の後ろすがたがあることを、ぼくの目はしかと捉えたのだった。

 先輩は、熱心に祈りを捧げているように見受けられた。

 秩序の破壊――先輩の大それた希みを耳にした日のことは記憶に新しい。いったい、なにが先輩をそこまで駆り立てるのだろう。〈模範生〉である先輩は、順当にいけばただしき途を辿り〈理想的人間〉と称される立場に置かれることとなるだろう。先輩が途を踏み外す未来など、想像もできなかった。

 秩序に盲目になるのは愚かなこと――そう本人は述べていたが、ぼくにはなにかもっと、ちがう動機があるように思えてならない。

 まわりが起立するのに合わせて席を立つ。讃美歌の時間だ。オルガニストの演奏にのせた旋律が礼拝堂に響きわたる。

 ――主よ、我らが途を照らし給え。

 静謐な和声が進行してゆく。おさなき者たちのこえが、幾重にも重なる。

 旋律が糸のようにぼくの軀を絡め取ろうとする。息苦しさを覚えて、ぼくは唱うことをやめる。ヴェールに隠されていてよかった、とひどく安堵する。

 ミカミのこえが、聞きたかった。

 司祭さまが場を辞したあと、流れる列に沿って礼拝堂を出ようとすると、不意にだれかのこえが響いた。

「神などいない! 神がいるのなら、どうしてわたしたちは〈理想的人間〉として生み落とされなかったのか! それこそが試練? そんなもの、人間の浅知恵が云わせているにすぎない。わたしたちは、所詮は不完全な人間でしかない。ただしき途をゆくことなど、無意味だ!」

 きょうは、シスターは不在だ。どうしたものかとあたりを見回すも、みな困惑したように壇上を見つめるばかりだ。

 しかし流れに逆らう者がひとり、そのひとに近づいてゆく様子が目に入った。先輩だった。ぼくは無意識に、その背を追う。

 こえが途切れる。そのひとに寄り添う先輩が、なにかをささやき宥めているようだった。

 やがてその場にシスターが現れた。だれかが呼んできたらしい。反省室へつれていかれるのだろうそのひとは、シスターに肩を抱かれて出て行った。

 場が収まると、生徒たちは次々に礼拝堂を後にした。

「やあ」

 扉を出たところで、後ろから追ってきた先輩に呼び止められる。

 それから、ぼくたちは肩を並べて歩く。

「ともに主張しなくてよかったんですか?」

 めずらしく先輩がなにも口にしないので、疑問を落とす。

 なにやら思考していたらしい先輩は、すこしの間をおいて、ああ、と語りだした。

「――お利口にしていないと秩序維持機構に入れないだろう? なにせ人類が永く敷いてきた〈秩序〉という制度を根本から覆さなければならないのだから――なんて、そう呆れた顔をしないでおくれ。感情が薄いと云うけれど、君は案外判りやすいよ」

 先輩は冗談めかして笑ったあとで、呟く。

「私はなにも、神を否定するつもりはないよ」

 小鳥が低く飛んでゆく。今夜は雨だろうか。礼拝堂から校舎へと続く廻廊には、重なりあったふたつの影がながくのびている。

「随分と熱心に祈っていたようですしね」

 先輩は虚を突かれたように瞬くと、不意に視線を遠くへ投げた。

「ひとつ、はなしをしようか」

 そのまま、廻廊のベンチに腰をおろす。言葉を続ける気配はない。隣へ座れということだろう。特に用事もないから、言い訳のしようがない。ぼくはおとなしく先輩の隣に落ち着いた。

「生まれながらに〈ただしき途〉から外れた哀れな人間のはなしを、君にきかせてあげよう」

 先輩の横顔は、しづかだ。

「ある裕福な家庭に、ひとりの子が生まれた。使用人含め家じゅうが子の誕生を祝った。けれど当主の顔色は優れない。なぜなら――おのれは子を成せない軀をもっていたからだ。そう、その子どもというのは、不義の子だったんだよ。愛する妻と、使用人のあいだにできた、ね。ふふ、不思議そうな顔をしている。やはりこの手のはなしはゆめびと諸君にはむつかしいのかな?」

 愉快そうに、先輩は目をほそめる。「君たち、家族はつくらないのだっけ」という問いに、「ええ」と頸を縦に振る。「寂しくはない?」――いいえ。「つづけようか」と云うから、ぼくはまた頷くことしかできなかった。

「子どもは非常に優秀だった。勉学に励み、性格もよくみなに慕われた。子どもは〈模範生〉と謳われるようにまでなったんだ。みながその子どもを、〈ただしき途〉を歩んでいるのだと称讃した。けれど子どもは知っている――みずからが、生まれながらに〈ただしき途〉から外れた存在であることを」

 先輩は淀みなく話つづける。まるで、あらかじめ用意された台本を読み上げているかのように。

「人一倍、努力をしてきたつもりだよ。でもあるとき、ふ、と緊張の糸が切れてしまったんだ。どれだけ足掻こうと、〈ただしき途〉を辿れないのだとしたら、この努力にいったいなんの意味があるのだろう、と。そうして、思ったんだ。主のお示しになった〈ただしき途〉は、ほんとうに人間の云うそれだけなのだろうか? もっとちがう在り方もあるのではないか?」

 先輩は言葉を切って、穏やかにぼくの手をとった。

「私は、こんな息苦しい世界でなく、みなが救われる世界を思い描いているんだ。其処では君たちゆめびとだって、自由に〈夢〉をみられる。――どうだい、翡色。君は、どう思う?」

 先輩の手はつめたい。碧く波うつ双眸が此方をじっとみつめている。ぼくはその手を握り返さず、天を仰ぐ。

 陽が、森の翳へと沈んでいく。

「厭いじゃないですよ、ぼくは。〈夢〉をみるのがゆめびと、ですから」

「夢なんかじゃない。現実に、変えてみせる」

「……何故、そのはなしをぼくに?」

 ずっと疑問だった。劣等生であるぼくなどを何故、その計画に巻きこもうとしているのか。先輩は内部から変革を図ろうという心づもりなのだろうが、ぼくが秩序維持機構に入れる器でないのは明白だ。利用する駒は優秀なほうがよいだろう。どうにも先輩らしくない選択だ、と思っていたのだ。

「ふふ、すこしは私に興味をもってくれたと考えてよいのかな」

 先輩は愉しげに笑う。

「前にも云ったろう。私たちは、同志なんだ。ひと目みたときに確信したよ、君が現実を厭うていることを。ああ、これじゃあ君の心は動かせないようだね。――本音を云えば、私にも判らないんだ。けれど君が隣にいたらどんなに素敵だろうと、そう感じたんだよ」

 先輩のこえに、嘘はない。普段から飄々と振る舞い真にひとを寄せ付けない先輩の心に、はじめて触れられたような気がした。


 思想史の授業は退屈だ。そもそも、みな一様にならされる教室というものをぼくは好きではない。唯一、窓側のいちばん後ろの席だけは愛している。中庭がよくみえる此処は、退屈を紛らわせてくれた。

 陽のひかりをいっぱいに浴びられるよう、カーテンをひらく。いっとう好きなのは木漏れ日だったが、偶に浴びる日光も悪くはない。

 心地のよいひかりに目をほそめていると、秩序維持法成立過程の文章を音読するよう、教師に指名された。後ろの席の欠点は、気を逸らしていることが存外目立つところだった。

「573年、秩序維持法の草案が議会に提出された。主のお示しになった〈ただしき途〉を辿り、〈理想的人間〉となるべく、定められた〈秩序〉に従うことを求める法だった。自由意志を侵害するであろう法の制定に数多の民が反対し、各地で盛んにデモが執り行われた。デモは次第に激化し、抗争にまで発展した事例もあった――」

 約五百年前、科学の発展に伴い、信仰は蔑ろにされるようになった。ひとびとの心からは慈悲の精神がうしなわれ、嘘と欺瞞にまみれた世となっていく。このままではひとびとは堕落する――事態を憂えた教会は、宣教活動を活発化させる。時を同じくして現れた偉大なる預言者により、〈秩序〉を敷き、〈ただしき途〉を辿ることが人間の幸福につながる、という思想が急速に広がり、急進派によって秩序維持法の制定が急がれることとなった。

 その後、民たちの反発はありながらも秩序維持法は成立、それに伴い、秩序維持機構が設置された。機構による広報活動により、次第に法は民へと受け入れられるようになった。

「よろしい。これは、民衆の愚かしさが判る一例です。こうしてひとはただしき途を辿りはじめました。理想的人間となるべく、ひとびとは真の歴史へと脚を踏みだしたと云えるでしょう」

 教師が解説を加える。

 生徒たちが、懸命にノートをとっている。

 ぼくは、白紙のままのノートを、醒めた眼で見下ろす。

 雲が流れ、陽のひかりが遮られる。

 翳になった教室で、真っ白なノートの頁の端を折り曲げる。

 そのとき、微かな悲鳴をきいた。

 ぼくははっと、顔をあげる。

 蝶々が、鼻先を通り過ぎてゆく。

 ひら、ひら、おともなく。

 蝶々は硝子の花に留まると、羽をやすめた。

 鐘が、鳴る。

 授業の終わりを告げるものだった。

 ふたたび陽が射し、白昼夢が通り過ぎていったのだ、と気づいた。

「翡色さん、」

 教師が出ていくと、教室内は一斉にざわめきに包まれる。そのなかで、クラスメイトに声をかけられた。

「詩作の課題、出していないでしょう?」

「期限は明日だった筈だけれど……」

「そうだね。でもきみ、何時も期限をわすれるようだから。念のため、ね。進んでいる?」

「明日には仕上げるよ」

 ぼくが云うと、そのひとはやれやれといったふうに肩を竦めた。

 そこで、眼前のひとがクラス長だったことを思いだす。クラスメイトの〈管理〉も彼等のしごとのうちだ。減点されぬよう忠実に職務を全うしたいのだろう。

 忠告を終えたというのに、そのひとがこの場を去る気配はなかった。何度か物云いたげに唇を開閉させたあとで、その視線を、ぼくへと定める。

「でも意外だな。きみみたいなひとが、あの先輩と仲がよいだなんて」

「……あの先輩?」

「はっきりと、云ったほうがいい?」

 たしかに、このひとの云いたいことを読み取るのは容易かった。

 ぼくのような劣等生が何故、みなの羨望を集める模範生である〈先輩〉と懇意にしているのか――実際は向こうのほうから寄ってくるだけなのだが、その事実をそのまま受け取る人間などいないだろう――よく、訊ねられることだったから。

 模範生さまのお情けだろう、何時ものごとくそう返すまえに、「でも……、」とクラス長はつづけた。

「ある意味お似合いなのかな」

 先ほどまでの穏やかな微笑が、わずかに歪む。

 そうして囁くように、口をひらく。

「あのひと、不義の子らしいという噂がたびたび上がるんだ。信者も多いようだけど、知っている者は知っている。それがもしほんとうなのだとしたら――生まれながらに〈ただしき途〉から外れているだなんて、可哀想だよね」

 眉根を寄せたその顔は、心底の憐れみと優越感を滲ませていた。


 先輩が定期的に開いているという〈読書会〉なるものに参加することになったのは、単に時間が空いていたからであった。先輩が特に目をかけている生徒が集まるごくプライベートな集いで、生徒たちのあいだでは、そこに招待されることが一種の名誉となっているらしい。

 ぼくが教室へ入ると、先輩が目を丸くするのが判った。毎度声をかけるものの姿を現さないぼくが、ほんとうに顔を出すとは思っていなかったのだろう。

「君が来てくれてうれしいよ」

 先輩は微笑んだ。

 放課後の教室には下級生を中心とした生徒七人が集まり、机を円状にならべ坐っていた。下は七から上は十八まで、学園の生徒たちのなかから、ある程度分別と思慮深さをもったものたちを集めているようだった。

「本日は『ゆめびとの特性』を読み進めていこう。レジュメを配るから、まわして」

 そう云って先輩が取り出したのは、〈書庫〉の書物であった。今度はぼくのほうが目を瞠る番である。このような行為が露呈したら只だでは済まない筈だ。余程このメンバーを信頼しているのか。

 先輩、とひとりの生徒が、声をあげる。

「〈ゆめびと〉は、禁忌に触れる事柄なのでは?」

 ほかのものたちは、そもそもこの言葉を耳にしたことがないのか、首を傾げている。

「たしかに、君の云うとおりだ」

 先輩は誤魔化すことなく云ってのけた。

「〈ゆめびと〉というのはね、数十年前、秩序維持機構により禁忌に指定されたひとびとの名だ。その存在は永いあいだ秘されてきた。けれどね、かれらはいまも共に在るんだ。秩序から外れたものたちといっても、この世界に存在しているのだから、当然そのひとたちのことを知っているべきだろう?」

 生徒たちは、先輩に賛同するように頷く。

「よし。それでははじめようか。ゆめびととは、夢と現実のあわいに生まれたものたちのことで――」

 レジュメには、簡潔にゆめびとの性質についてがまとめられており、さらには永らく人間と共存してきた仲間である旨が記されていた。

 家族をつくらないながらも、ゆめびとはゆめびとのもとで幼少期を過ごすことが多い。ぼくもまた、その口であった。ゆめびとが自由に夢をみることのできた時代をぼくは知らない。けれど、歳を重ねたものたちのなかには、その時代を懐かしむひとびとも多くいた。ゆめびとがゆめびとで在れることは、幸福と云えるのだろうか。すくなくとも、いまぼくが感じているような閉塞感は抱かなくてよくなるのかもしれない。

 先輩は、生徒たちの質問によどみなく答えている。相当に書籍を読み込んだにちがいない。

 ぼくは先輩の目指す新しい世界について、ぼんやりと思いを馳せた。

 読書会が終わる。廊下へ出ると、ひとりの生徒がぼくを呼び止めた。

「ねえ、きみ、ゆめびとだろう?」

 数度瞬くうちに、ゆめびとが禁忌に触れる存在であると指摘したものだと気づく。

「何故知っているのかという顔をしている。あれだけ頻繁に微睡んでいたら判るさ」

 肩を竦めながら、ぼくが返答をするまえに喋りつづける。

「きみもこんな世界がおかしいと思っているから、あのひとの傍にいるんだろう? 仲良くしようよ」

 妙に親しげに距離を詰めてくる様子に、ぼくは一歩脚を引いた。

「……べつに。暇だったからすこし顔を出してみた。それだけさ」

 ぼくの返事に、そのひとは気を悪くしたらしい。

「へえ。中立気取りは体制に加担しているのと同じだ。きみもつまらない人間たちと同じってわけか」

 そのひとが吐き捨てるようにことばを紡ぐ。空気が重くたくのしかかる。

 そこへ、最後まで残っていた先輩が、姿をみせた。

「おや、君たち、知り合いだったのかい?」

 やけに嬉しそうにする先輩にしかし、そのひとは否定を返す。

「いえ、ちょっと話していただけです。失礼しますね」

 そうして、こちらに背を向けた。

 なんだ、と先輩が残念そうに口を開く。

「君にも友人がいるのだと思って喜んでしまったよ」

「いませんし、要りませんよ。友人なんて、面倒なだけです。それより、よいのですか」

「それは残念。なにがだい?」

「目をつけられても知りませんよ」

 ぼくの言葉の裏を正確に読み取った先輩は笑みをうかべる。

「大丈夫さ。なんたって私は〈模範生〉だからね。――そんなへまはしないよ」

 このひとは相変わらずだ。危ない橋を渡って、平気そうな貌をしている。

「このあと時間はあるかい? すこし、付き合ってほしいんだ」


 先輩に連れてこられたのは、いつもの隠れ処であった。

 ぼくは頬杖をつきながら窓のそとをながめている。旧校舎に位置する書庫からは、西の森がよくみえる。

 夕陽が森の樹々の先に留まっている。碧く透きとおる玻璃のような羽を羽ばたかせる小鳥が眼のまえを横切っていき、それを何の気なしに視線だけで追った。

 先輩はキャンバスをまえに手をうごかしている。

 ぼくを描きたいのだと云う。まったく、変わったひとだ。

 先輩の閃光のような双眸がぼくを捉えている。先輩が絵を描くとき、何時もの軽快な口調はなりを潜め、只だ、夕陽を閉じこめた湖水の眼がすべてを見透かすようにぼくのうえをすべってゆく。

 すきにしていてよいと云うから、そのときどきで風景をながめたり、読書に耽ったり、先輩をみつめてみたり、思うように過ごす。放課後のこの時間を、ぼくは厭いではない。

 先輩はきょうも高潔で、苛烈だ。

 うつくしい、と喩えてもよい。如何なる境遇に在っても曇らないうつくしさを、このひとはもっている。

 傲慢にもこのひとを判断しようとするひとびとの眼には、この美が映らないのだろうか。

 ふっと、白昼夢がぼくのもとをおとなう。

 先輩の睛のように澄んだ碧いろの湖が、脚元にひろがっている。ぼくは湖畔に佇み、静謐な湖水をながめる。おさないころ、よく遊び場にしていた場処だった。いまはとおく、降り立つことは滅多になかったが――先輩の眼差しを感じると、偶にこの光景がまなうらをよぎるのだ。

「君の睛、すきだな」

 先輩の声で、白昼夢はぼくのもとを去った。視点が現実へとあわさる。先輩は手を止め、窓のそとを見遣っている。

「此処ではない何処か、を映している」

 そうして、じっとぼくをみつめた。

「私も、つれていってはくれないかい?」

「いいですよ」

 ぼくは咄嗟に口にしていた。

 そう応えなければ何処かへいってしまいそうな気配を、たしかに感じたのだ。

 ほんとうは、その手を、握ってしまいたかった。距離を隔てた場処にいる先輩に、この手は届かなかったけれど。そんなことを思ううちに、先輩は口の端をあげる。

「――冗談さ」

 と、うすくわらった。


 その夜、ぼくは夢へと降り立つと、四阿へと脚を向けた。

 ミカミも、絵を描くことがすきだった。長椅子にわすれられた、ずっとひらかれないままでいたクロッキー帳を、手に取る。ぱらぱらと頁を捲ると、未完の旋律が眼に飛びこんでくる。

 その懐かしさに、ぼくは目をほそめてしまう。

 音楽をすきだったミカミが気紛れに作曲していた曲だった。

 五線譜をゆびさきでたどりながら、旋律を口ずさむ。穏やかな微睡みのなかにもの哀しさを感じる調子は、この先何処へ向かってゆくのだろう?

 ぼくの歌声に、幼げな声がかさなる。

 みれば、ときどき顔をだすアマリリスが、四阿の隅っこでうたっていた。

 おしゃべりなアマリリス――白いろに薄紅の縁取りの一輪は、自由に夢から夢へと渡りあるくらしい――はぼくがその存在に気づいたことを悟ると、茎をゆうらりと揺らして、きゃらきゃらとわらった。

「ねえ、あのこをみないね? かえってこないの?」

「……何故そんなことを訊くの?」

「ふふ、かえってこない、かえらない。もう、いない、ここには、いない、」

「煩い」

 かえらない、とアマリリスはミカミの不在を騒ぎ立てる。言葉の通じる相手ではないことは判っている。腹の底から湧き上がる熱い感情の塊を呑みくだし、ぼくは五線譜を見据えたままでいた。

 やがて、ぼくをからかうことに飽いたのだろう。気に障るわらいごえを残して、アマリリスは去っていった。

 ぼくはふたたびクロッキー帳に眼をおとす。

 譜面の次の頁には、ぼくの横貌が描かれていた。黒の濃淡だけで巧みに表現されている。油彩をこのむ先輩とは随分と描き方がちがう。

 そんなことを考えながら、頁を捲る。

 これは――。

 すこしばかり高い場処から、この夢の庭を見わたした景色。苹果の樹のうえだろうか。画面のしたのほうには、つやつやとした苹果の実が描かれている。紅のひかりがよぎった気がして、思わずクロッキー帳をとじていた。

 ゆびさきがふるえている。それを他人事のように見下ろしながら、きつく握りしめた掌をほどいてゆく。

 クロッキー帳を長椅子に置く。無地の裏表紙、が表にみえる。なんとなく、ほんとうになんとなく、もうこれを手にとることはないだろう、とぼくは感じている。それと同時に、厭な予感が忍び寄ってくる。

 苹果の樹の下に舞い戻ると、ぼくは膝を抱えて蹲った。

 終わりのない旋律が、口をついて出る。兎に角、気持ちを落ち着けたかった。

 ――かえらない、ここに、いない、

 アマリリスの甲高い声がよみがえって、それをかき消すように旋律を口ずさんだ。

 だいじょうぶ、なにも、心配することはない。ミカミはきっとかえってくる。

 旋律は、つづく。


 その日、朝の点呼の時間を寝過ごしたぼくは、反省室へと呼ばれていた。担当の教師から、決まり文句のように繰り返される説教を受けるためだ。憂鬱だった。

「このようなことを云いたくはありませんが、ゆめびとたちはじぶんに都合のよい幻想にひたるばかり――恥ずかしくないのですか。ただしき途をゆき、立派なおとなにならなければならないのですよ――」

 ――ああ、愚かだ。ぼくたちがどんな思いで夢をみているのかも知らずに。

 しかし何時もは聞き流す科白も、今日という日には、こころに忍びこもうとしてくる。

 夢がじぶんに都合よくみられるだなんて、それこそ人間たちの考える幻想にすぎない。

 夢は、ひとつの世界であると云える。

 ぼくたちは睡りをとおして夢へと降り立つ。おのおの心象イメージに導かれてゆくわけだが、其処は非常に不安定で、ゆらぎやすい世界なのだ。

 おなじ場処に幾たびもたどりつけるとは限らない。安寧に身を委ねたつぎの瞬間にはもう、風景はゆらぎ、イメージは遠ざかってゆくかもしれない。

 それでも、縋るしかない。

 夢の世界は決して、ぼくたちを拒絶しないから。 秩序維持法が制定されてから、ゆめびとはいっそう夢に浸るようになったらしい。ぼくたちにはぼくたちの矜恃が、世界があり、何人たりともそれをゆるがすことなどできない。

 夢と同時に現実に生きているのはたしかだ。けれど、ぼくたちを排除しにかかる現実を、如何してすきになれよう?

 ぼくたちには〈夢〉がある。それだけで、よかった。よい筈だった。

 それなのに、こんなにも心がささくれだつのは何故だろう。

 ――生まれながらにただしき途から外れているだなんて、可哀想だよね。

 不意に、クラス長のことばが脳裡にうかぶ。

 どんなに模範生と讃えられようと、ただしき途とやらを歩むことができない先輩。

 あのひとは、何処へゆけるのだろう。

 ――私も、つれていってはくれないかい?

 あのときの先輩の貌を、ぼくはわすれることができない。


「週末の、予定は?」

「……何時もどおり、過ごすだけですが」

 殊更にこやかな笑みをうかべる先輩を訝しくおもいながらも、手元の本に視線をおとしながら、ぼくは答えを返す。

 厄介ごとを押しつけられないよう、素知らぬふりを貫かねばならない。

 つまりは暇と云うことだね?――そんなふうに態とらしく確認をとりながら、先輩は思わぬ提案をしてきた。

「私の家に遊びにこないかい? この週末はだれもいないんだ。自由に過ごせるよ」

 後半部分を小声で付け加えながら、ぼくの顔を覗きこむ。書庫には相も変わらずふたりだけなのだから、声をひそめる必要などない筈なのだが、臨場感を加味したのだろう。このひとはしばしば、そうした茶目っ気を発揮することがある。

 此処で表されるのは、先輩の実家にちがいなかった。全寮制の学校ではあるが、外泊届が受理されれば、週末家に戻ることは許可されている。友人の家であっても、だ。尤も、それらには保護者の監督のもとという条件が付随してはくるのだが――先輩のことだ。うまいことやる算段はついているのだろう。

「どういう風の吹き回しですか?」

「いやだなあ。反省室に通い詰めている可愛い後輩を慮ってやろうという親切心にすぎないよ」

 湖水の睛が、此方の様子をうかがっている。さぐるように視線を返すが、ゆらぐことはない。

 ほんとうに、他意はないのかもしれない。

 ぼくがひとつ頷くと、先輩は思いのほかうれしそうに、笑った。


「さあ、これを羽織って」

 週末の前日、終業後にそそくさと荷造りをし先輩と合流すると、早速と手渡されたのが濃紺のローブだった。

「〈学園〉の生徒とばれたら、まずいからね。」

「……いったい、なにをしでかすつもりですか」

 ぼくが低く訊ねると、先輩がうっそりと微笑む。

「ふふ、君は只だ、私についてくればいい」

 此処まできて引き返すのも癪だ。守衛に礼儀正しく一礼し裏門をくぐる先輩のあとを、黙ってついていくことにした。

 先輩は、駅へ向かわず、街へとおりた。

 路面電車のレールのまえで、ひとびとが蟠っている。二両の電車がとおりすぎると、ひとの波がうごきだす。

 ぼくたちは、薄昏い路地へと脚を踏み入れた。先輩はするすると、勝手知ったる庭のように歩いてゆく。

 やがてあらわれたのは、古めかしい佇まいの喫茶店だった。

 石段をおりた先に、木製の扉が姿を現す。

 先輩は躊躇うことなく扉に手をかけた。

 店内は、カウンター席が数席と、ちいさな卓子テーブルが二席という、こぢんまりとした造りになっていた。

 レコードが異国の曲を流している。なにやら香ばしい薫りが漂っていて、不思議な心地がする。

「きょうはお連れさんがいらっしゃるのですね」

 マスターと思しき初老のひとが声をかけてくる。見知った間柄なのだろう。

「ええ、後輩なんです」

 先輩の紹介に、ぼくは軽く頭を下げた。

 ぼくたちがカウンター席に腰を落ち着けると、「いつものを二つ、お願いします」と先輩が注文を済ませる。

 これといってこだわりもなかったため、口を出さずにおく。

 まもなく二客のカップがはこばれてきた。深い茶いろの水面がゆれている。

「珈琲はすきかい?」

 判りきった質問をしてくる。ぼくは呆れながら、

「呑んだことがないので、なんとも」 

 と答えるしかない。カフェインの摂取が禁じられている学園で、どうして呑んだことがあろう。

 先輩はふふん、と得意げにわらうと、カップに口をつけた。

 ぼくもそれに倣うが、焦げたような味の液体はお世辞にも美味しいとは云えなかった。

 顔に出したつもりはなかったけれど、マスターが黙ってシュガーポットとミルクを差し出してくれる。それらを注ぐと、口当たりは幾分かましになった。 

 先輩はそんなぼくの様子を満足そうに観察している。ひとの厭がる顔をみたかったのだろう。相変わらず、よい趣味をしている。

 沈黙が落ちる。

 唐突に、壁際に設置されたちいさなスクリーンが、光を灯した。モノクロのキネマが映しだされている。

 同い年ほどのセイラー服を纏ったふたりが額を寄せ、手をとりあっていた。おそらく少女たちだと思われた――性を区別することはぼくにとってむつかしいため、たしかなことは云えなかったけれど――。

 異国の言語を喋っているようで、会話の内容は理解できない。けれど、ふたりのあいだに漂う異様な空気を察することができた。それは、街なかでしばしば見かける、恋人と呼ばれる親しいふたり組の醸しだす空気とよく似ていた。

 ああこれは、〈禁忌〉に定められた映画であるのだろう――想像するのは容易だった。

 先輩は貌いろひとつ変えず映画に見入っている。ぼくの視線を感じたのか、「此処は、そういう場処なんだよ」とだけ口にした。

 先輩は映画の合間にぽつりぽつりとひとりごとをこぼす。

「生まれの話をしただろう。その罪悪感からか、家では腫れ物扱いなんだ。おかげで、ある程度自由にさせてもらっている」

 そう、おかしそうに云った。

 奇妙なかたちだと、ぼくは改めて先輩の在り方を認識した。なにもかもが、ちぐはぐだ。模範生でありながら、立ち入り禁止の場処に出入りし、たびたびカフェインを摂取する。ときには、学園の生徒の立ち入りが禁じられているであろうこのような場処にも脚をはこぶ。

 まるで、すべてを露呈させたがっているようだった。

 すべてを、終わらせたいのだろうか。疑問をもつのも、不思議なことではなかろう。

 ――I miss you.

「君は、だれかを恋しく思うことはあるかい?」

「なんですか、突然」

「そういう意味の、言葉なのさ」

 ――I miss you.

 先輩が、映画の科白をなぞるように口にする。 

「――ありますよ」

 ミカミの顔が浮かんで、ぼくは肯定のことばを紡いでいた。

 先輩は目を瞬かせる。

「意外ですか」

 おどろきがありありと伝わってきて、それこそ意外だと、ぼくは目をほそめてしまう。

「うん」

 先輩は、やけにいとけなく、頷く。このひとにこんな顔をさせたのが自分だと思うと、悪くない気分だった。

「だって、ゆめびとは――いいや、いまは君のはなしをしているのだったね。そう、君は、そうなんだ」

 ゆめびと、と呼ばれるひとびとの、現実において情に薄いと云われる特性について思考を巡らせたのだろう。けれど先輩は、ぼくのほうへと向き直ると、ぼく自身へと視線を投げかけてきた。

「すこし、羨ましいな」

 先輩の双眸が、淡い洋燈の灯をうつしてゆらめく。

「――え?」

 ぼくが聞き返すも、その間に先輩の表情は奇麗に取り繕われていた。

「なんでもないよ。そろそろ行こうか」

 ゆるやかに弧を描いた唇が、紡いだ。


 先輩の家に滞在した週末は思いのほか穏やかに過ぎていった。後輩をねぎらう、という言はどうやら真実だったらしい。

 休み明け、学校の閉鎖的な空気に厭気が差したぼくは、午后の授業をさぼることにした。

 中庭には心地よい風がそよいでいて、雲の切れ間から降りそそぐ光がやわらかく顔を撫ぜてゆく。

 身を隠すにはもってこいの大樹の下で、ぼくは息を吐いた。目を瞑ると、夢がもうすぐそこまで歩み寄ってきている。意識が沈むままに微睡みに浸った――。

 苹果の樹のしたで、ぼくは目を開ける。未だこの庭へ辿りつくことができることに安堵し、しばし景色を堪能することにする。

 苹果が落ちて、てん、てん、と転がる。脚元へとやってきた実を、拾い上げる。

 きっかけは、この果実だった。あれは現実での出来事だったけれど、この紅が地に落ちたことにより、ぼくは夢をみることを思い出したのだった。何故、忘れていたのだろう。ゆめびとが夢をみるのは、自然なことだ。それに逆らう薬を呑まない限りは――。つまりぼくは、いっとき薬を呑むことを選んだのだろう。それは、何故だったのか――。

 ふと、陽が翳る。めずらしい。雨が降るのだろうか。おもく重なる雲を見つつ四阿へ避難するために立ち上がると――。

 ふつり、と、苹果の実がおともなく落ちていった。

 ――待っているよ、翡色。

 頭のなかを、ミカミのこえがリフレインする。

待っている、ミカミはたしかにそう云った。けれどぼくは、如何した?

 唖然と、立ち竦む。まなうらに、鮮明な紅が灼きついて、離れない。

 そうだ、そうだった。如何して、忘れていたのだろう?

 ぼくは、みずからかのひとの、ミカミの手を離すことを、選んだのだ。

 あの日、この庭に降り立ったぼくは、ミカミを探していた。そうして、苹果の樹のうえに佇むミカミのすがたを見つけたのだ。

 ミカミはいつになく真剣な貌をしていて、ともすれば思い詰めた様子にもみえた。

 危ないから降りて、そうこえをかけようとした瞬間――ミカミは、樹から飛び降りたのだった。

 あ、と悲鳴をあげたときにはもう遅く、ミカミは地へと倒れ伏していた。ぼくが駆け寄るまえに身を起こしたミカミは、たいそう残念そうな貌をしていて――だからぼくは、悟ったのだ。ミカミが、飛ぼうとしていたのだということを。

 ぼくは懼れた。ミカミが、いつか飛んでいってしまうのではないか、と。そして、考えたのだ。おいていかれるくらいならば、いっそこの手を離してしまおう、と。

 掌から、苹果が零れおちる。そうしてぼくは、それを追うように地に膝をついた。

 みずからミカミの手を離した? そんなこと、そんな、莫迦なこと――!

 偽りであると云えたなら、どんなにかよかっただろう。しかし幾ら否定しようと、その真実が疑いようのないものであると、ぼく自身、気づいていた。

 ――待っているよ、翡色。

 ミカミのことばが、いつまでもいつまでも反響している。 

「――さん、翡色さん」

 眼を醒ます。

 眼前には、通りかかったらしいシスターの顔があった。

「また、夢に浸っていましたね?」

 肩に置かれた手に力がこもる。未だぼうっとしたまま一瞥をくれると反抗とみなされたのか、反省室へ行くよう促された。


 反省室から出たぼくを待っていたのは、天使の微笑みをうかべた先輩だった。

「やあ、君も飽きないね」

「先輩こそ」

 いまは、だれにも会いたくなかった。つい投げやりな言い方となってしまう。

 情緒が乱れている。感情をコントロールすることができない。

「この時間に呼ばれているということは、授業でもさぼったのかな。もうすこし真面目に受けたらどうだい? きっと将来の役に立つよ」

 先輩は如何にも心配しているという風に眉を下げ、ぼくのほうへと歩み寄ってくる。

「将来、ね」

 だれかを――否、ほかでもないこのひとを、傷つけたい。こんな衝動を抱いたのは、はじめてだった。

 ぼくはそんな自分自身の心境に、ひたすらに戸惑った。

「あなたの手駒にしたいから? ふふ、あははは――」

 けれど、ことばは自分の意思とは関係なく発せられる。

 都合よく近くに置ける存在くらいにしか思っていないくせに? 心配したような貌をして近づいてきて、いったいなんだと云うんだ。

「そんな、こと――」

 先輩はめずらしく、言葉を紡げないようだった。しばし顔を伏せたあとで、弱々しく呟く。

「……私は、翡色のことを、そんなふうには思っていないよ。ただ同志として、傍に在れたら、と――」

「ずっと疑問に思っていました。何故ぼくなのだろうって。手駒じゃないのなら、優越感に浸りたかった?」

 模範生でありながら、生まれながらに〈ただしき途〉を外れた、哀れなひと。

「――ああなんだ、秩序を破壊するだとか云って、結局、自分が排除されるのを懼れただけだろう」

 先輩はついに、完全に口を閉ざしてしまった。

 なんだ――ぼくは落胆を隠せなかった。これが、このひとの本質。このような脆弱な精神しかもっていないのだ。

「そんな人間に、現実が変えられるとでも?」

 目の前のひとが、はっと息を呑むのが判った。

「そもそもぼくは、現実の崩壊など望んでいない。現実など、どうでもいい。夢があれば、それで」

 完全なる沈黙が、場を支配する。

 ぼくの眼は、もうなにも映さない。

 ぼくは静かに、踵を返した。


 その夜は、いつになく心が乱れていた。幼いゆめびとのように幾度も夢に潜ることに失敗する。そうしてようやく辿りついた先は、はじめて訪れる広大な海だった。

 学園に入学してから、海はすっかり遠いものとなっていた。ぼくは陽を受けてまばゆく耀く砂浜へと腰を下ろす。

 さざなみが、一定のリズムをもって絶え間なく押し寄せてくる。そのうごきが月の引力によるものだと云うことを教えてくれたのは、だれだったか。

 しばし心のままに波のおとに聞き入った。

 ふと、虹のふもとを目指す途中、夢境に流れ着いたというミカミのことばを思い出す。もしかすると、この場所だったのだろうか――。

 そう考えると、無性に心がざわついた。

 ぼくは浜辺を散歩することにした。

 砂のうえを歩く感覚とは不思議なものだ。脚を置いた傍から何処までも沈みゆくようで、夢に潜る感覚とすこし、似ている気がした。

 視界の隅に、金色が躍る。みれば、ひときわ眼を惹く貝殻が落ちていた。光を受けて発光しているようなそれを、ぼくは拾い上げる。片手にちょうど収まるほどの純白の巻き貝だった。

 幼いころにそうしたように、空洞を左耳に当ててみる。どこか懐かしい波おと――そのなかに、微かに反響する旋律があった。

 オルゴールが奏でるようなそれを聞いて、ぼくははっと、息を呑む。

 間違える筈もない。

 それは、ミカミがノートに書き付けていた旋律であった。

 もの哀しさを纏った穏やかな微睡みのイメージ――聞き馴れた調子はだんだんに色を変えてゆく。

 この曲はたしか未完であった筈だ。ぼくは続く知らぬ旋律に耳を澄ませる。

 曲は、静かに静かに移り変わってゆく。

 微睡みから眼醒め、色鮮やかな日常へと戻り――つぼみはふくらみ、花をつけ、花はいつしかしぼむ。ぱらぱらと、これは本の頁を捲るおとだろうか。未知の経験に躍る心。ゆるやかに、しかしたしかに時は巡っている。

 この日々は、何時まで続くのだろう。先をしるのが懼ろしくなり、ぼくは貝殻を置き去りたくなった。

 けれど、ミカミの手を離してしまったという罪悪感が、ぼくを押しとどめる。

 ぼくは、しらなければならない。ミカミがなにを思い、この曲を紡いだのかを。此処に、この海辺に立ったのかを。そうして何故この貝殻に、音楽を込めることに決めたのかを。

 これは、ミカミの心だ。ぼくが、受け取らねばならないものだ。

 転調、変拍子、曲は不安定な様相を呈する――これは、なんだろう。ぼくの不安を見抜いていた? それとも、ミカミの感情なのだろうか。ぼくのエゴが、ミカミをこんな気持ちにさせていた――?

 曲は静かに終わりへと向かう。

 不安、懼れ、そのなかに芽生える、ある決意。

 ああ――。

 迷いながらも、ミカミの睛は先をみている。

 目の前にひろがるのは、無窮の天。ゆるやかに通り抜ける風が、迷い子を導かんとする。

 うつくしい翼をひろげ、いま、飛翔する――あたたかな思い出と、希望を胸に抱いて。

 翼は風をつかみ、うつくしい軌道を描き天高く舞い上がる。

 碧のなかに遠ざかる、背中。

 ああ、そうか。これは、ミカミの、きみの――。

「――別れの曲、なんだね」

 ミカミは、かろやかに天を舞う。そんな、どこまでもどこまでも、やさしい曲だった。

 ――キミは、キミの途をゆきなよ、翡色。ボクも飛び立つから。

 そんなふうに微笑うミカミの貌が、まなうらに浮かんだ。

「御免、御免なさい。手を、離してしまって」

 しらず、熱い涙が頰をつたう。

 それから――。

「――ありがとう。どうか、元気で」

 遠く、水平線の上に虹が架かっている。虹のふもとに在るミカミを思うとまた、涙が零れた。


 放課後、ぼくは反省室によばれた。その日の点呼を過ごしてしまったから、当然だった。

 けれど、扉を開けた先には先輩のすがたがあって、ぼくは瞠目した。

 先輩は、目を瞑ったまま静かに坐している。向かいには教師が座っており、こちらも黙したままでいた。           

「誠に嘆かわしいことです」

 教師は、開口一番に、そう漏らした。

「旧校舎の書庫に、おふたりが出入りしているという情報が寄せられました。これは、真実ですか」

「はい」

 先輩は、迷うことなく頷く。その決然とした様子に内心おどろきながらも、ぼくは無言で追従した。

「そうですか」

 誠に、嘆かわしいことです、そう繰り返すと教師は手元の書類に、なにかを書きつけた。

「まったく、理事長にも困ったものです。書物は等しく尊重されるべきなどと仰って。貴方方のような生徒が出てきたら学園の存続自体が危ういというのに――」

 なにやら呟いていたようだが、次に顔を上げた教師は、先輩のほうを見遣る。

「貴方は、大変心の清い、模範的な生徒です。――翡色さんに、無理矢理付き合わされた、そうですね」

 ぼくは笑いそうになり、しかしこの厳粛な空気を壊してはならないと、真面目な顔を取り繕うのに腐心した。

 教師は、先輩が模範生であるという事実を崩したくないのだろう。

 そのとおりだ。

 先輩は、〈模範生〉で在らねばならない。この先の、未来を切り拓くために。

 ――さあ、頷くだけでいい。

 ぼくは俯いて、その時を待った。

 しかし先輩は、幾ら待っても肯定を返すことがなかった。

 仕方のないひとだ、とぼくはまた笑いそうになる。

 この世界を変えると云うのなら、すべてを利用してみせればよいのに。そうすることができないのだろう。可哀想なひとだ。可哀想で、高潔な、ひとだ。

 仕様がないから、みずから口火を切ることにした。

「すべては、ぼくの責任です」

 視界の端で、先輩が此方を向くのが判った。愕いたように瞠られた湖水の睛が、ゆらりと揺れる。

「先生のおっしゃるとおり、ぼくが無理矢理、引き入れたのです」

 教師は目に見えて安堵のため息を吐いた。

「いえ、私が――」

 先輩がなにかを口にしようとするが、教師が声を上げるほうが早かった。

「そういうことです。止めなかった貴方にも責任の一端はありますが、大きな減点にはなりません。――よろしいですね」

 真実とは、当人のみたいように映るものだ。

 ぼくは反省文を課せられ、三日間の謹慎処分を受けた。

 処分は、異例の軽さだった。

 これが、この件の顛末だ。


「どうして、あんなことを云ったんだい」

 先輩はぼくの謹慎がとけるのを待っていたようだ。放課後、西陽の差しこむ階段の踊り場で、ぼくは先輩と向き合っている。

 あたりに人影はなく、暫し沈黙がおりる。

 先輩の視線は、ぼくをまっすぐに射貫く。その顔に、笑みはない。めずらしいことだ、とぼくは目を瞬かせる。

「判りませんか?」

 ぼくは不思議に思い、質問を返す。聡い先輩のことだ、すべてを見抜いているものと考えていたのだ。

 けれどそのことばに、先輩は躊躇いながら頷いた。そのように困惑した様子は、はじめて目にするものだった。

「簡単なことです――変えるのでしょう、この、世界を」

 先輩は大きく目を見開いた。ゆれる湖水のいろは、どこまでも透きとおっている。

 先輩は唇を震わせるものの、ことばが出ないようで、ただただぼくを見つめている。

「云いだしたのはあなたでしょう? いまさら違えるなんてこと、しませんよね」

 先輩はなにかに耐えるように瞼をおろす。そうして、そっと顔を伏せた。

 まだ、とか細いこえが、空気をふるわせる。

「――まだ、信じてくれているのかい。君は、私を。こんな、私のことを」 

 先輩の云わんとしていることを汲み取れず、ぼくは首を傾げる。

「君が、云ったんだろう――自分が排除されるのを懼れているだけだ、と。……みとめるよ。そう、君の、云うとおりだ。いつ真実が露呈して、排除されるかも判らない。そんな世界で、私は恐怖に絡め取られているんだ」

 ぼくはおのれの犯した過ちに思い至る。それは、自分でも制御できぬほどに心乱れ、このひとを、先輩を傷つけようと発されたことばたちだった。

「……すみません。心にもないことを、云いました」

 心からの謝罪にしかし、先輩はゆるくかぶりを振ると、よわよわしくことばを紡ぐ。

「生まれながらに〈ただしき途〉から外れた人間。秩序というものを、私ほど厭うている者もいないだろう。それがある限り、私は自由にはなれない。だから、変えようと思ったんだ――実際は、それに縋ることしかできていないのだけれど」

 〈模範生〉だなんて呼ばれて。笑えるだろう――先輩はようやく面をあげる。その顔には、張りつけたような笑みがうかんでいて、何故だか胸を締めつけられるような心地がした。

「――ずっとずっと、苦しかった。何故私は、生まれてきてしまったのだろう。生まれたことが罪なのだと、そんな思いが心を巣くっている」

 ――情けないだろう。君の信じてくれた〈先輩〉の正体なんて、こんなものさ。

 湖水の睛がゆらめく。いまにも溢れそうになる水をせき止めたくて、ぼくは先輩の手をとった。

「――あなたはずっと、抗っている。それは、なによりも尊いことだと、ぼくは思います」

 掌の裡で、先輩のゆびさきが跳ねる。

 押し殺された嗚咽を宥めるように、ゆるやかに手に力を込める。

「ひとりで立ち続けるのは、どんなに勇気のいることだったでしょう」

 ともすれば憎しみに染まることもあるであろう心を律し、あくまで秩序のうちに生きることは、どれほどの忍耐を要することだろう。

 ぼくごときに、その途方もない苦境を理解することは困難だ。ただただ先輩の立場に思いを馳せ、あらためてその強さに感服する。

 ぼくには、〈夢〉があった。それはぼくに寄り添い続けてくれるもので、決して思いどおりに操れるようなものではないが、ぼくを拒絶したりはしない、安寧の空間であった。

 けれどこのひとには、〈現実〉しかない。いつ排除されるともしれぬ〈現実〉に、ひとり立ち続けてきたのだ。

そのなかで闘志を燃やしつづけてきた先輩の心を、否定したくはなかった。

「――ぼくは、大切なひとの手をみずから離してしまいました」

 ミカミが飛び立とうとすることを懼れ、ぼくはあの子の手を離してしまった。そのことを思うと、未だ胸が痛む。何故、どうしてそのような過ちを犯してしまったのか――後悔は消えない。この先もずっとそうだろう。

 しかしこれから先の未来のことは、みずから選択することができる。

 俯く先輩を見据え、ぼくははっきりと口にする。

「せめてあなたの手は、離さないでいたい。これからも、先輩の――碧さんの、隣にいていいですか」

 熱を分け与えるように、ぼくは先輩のつめたい手をぎゅうと握りしめる。

 先輩は、なにも云わず、その手を握り返してくれた。

 伏せられた目から零れた涙が、先輩の頰を伝う。ぼくは先輩の耳元に唇を寄せると、そうっとささやく。

 ――あなたに出会えてよかったです。碧さん、生まれてきてくれて、ありがとう。

 ぱっと上げられた睛と、睛が合う。

 西陽を映した湖水の双眸がうつくしくゆらめき、同じ熱を共有した手は、いつまでもつながれたままでいる。

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