軽井沢指揮所
二〇一五年八月十五日 午後零時三十分
軽井沢は、東京とは別の国みたいに静かだった。
山の空気は冷えていて、鼻の奥が痛む。だが、いまの俺にはその冷たさがありがたかった。火薬の臭いと、焦げた金属の臭いが染みついたままの制服の上から、ようやく“外の世界”を吸える。
「参本、こっちです!」
呼ばれて振り返る。兵部省海軍局――通称“海軍部”の車列は、駅前のロータリーを無理やり封鎖し、次々と関係者を吐き出していた。俺は海軍部長付参謀、三上靖之少佐。合同参謀本部から出向してまだ半年、こういう非常時の“本当の現場”を見るのは初めてだった。
それでも、状況が異常だということだけは一目で分かった。
黒塗りの車が二列に並び、その周りを警務庁警備部の要員が固めている。機動隊ではない。制服の色も違う。警務庁直轄の“守りの人間”だ。
その輪の中心に、見慣れた意匠の紋章があった。
菊花紋章。
「……遷幸、ってやつか」
口に出した途端、背中が粟立つ。
帝都から天皇と政府機能を退避させる。史実なら、禁じ手のはずだ。だが今日は、その禁じ手を取らなければ“政治”が保てない日だった。
俺たちは軽井沢の離宮――いや、正式名称を使う余裕はない。とにかく“離宮の奥”へ急いだ。
廊下は絨毯が敷かれ、普段なら足音一つ立てない場所だ。だが今日は違う。靴音が走り、電話が鳴り、伝令がぶつかり、紙が飛ぶ。上品さの皮を剥いだ離宮が、ただの指揮所になっていた。
扉を開けると、部屋の中央に大きな地図が置かれていた。東京。主要官庁街。皇居周辺。市ヶ谷。霞が関。桜田門。NHK。
赤と青のピンが刺さり、線が引かれ、書き込みが乱暴に増えている。
「海軍部長、兵部省海軍局長・佐々木中将、入られます!」
声とともに、背の高い男が入室した。海軍中将・佐々木康成。いかにも海軍の将官という顔だ。感情を出さない。だが目の奥だけが、妙に冷たい。
佐々木中将の対面には、もう一人がいた。
内務省警務庁長官――伊地知宗一郎。薩摩閥の重鎮と噂される男だ。背は低いが、体の密度が違う。視線だけで相手を黙らせるタイプの官僚だ。
「状況は」
佐々木中将が短く問うと、伊地知長官が地図を指した。
「帝都中心部、概ね制圧されました。警視——東京都警察局は第七方面の一部を除き後退。桜田門は持ちこたえていますが、火線が近すぎる。皇居周辺は機動隊が粘っているが、近衛の戦車が出てきた。長くは持ちません」
近衛。
その言葉に、室内の空気が一段冷えた。首都防衛の象徴が反乱側にいる。つまり“皇衛派”は、最初から最精鋭を握っている。
「市ヶ谷は」
佐々木中将が聞く。
「陸軍局、市ヶ谷屯地、憲兵課の一部が蜂起。現時点で陸軍の指揮系統は二つに割れています。兵部省の正規ルートは機能していない。……それと」
伊地知長官が言葉を切り、紙を一枚投げた。
紙の上には、短い報告がある。
――「市ヶ谷基地内で爆発。外部工作の疑い。統一戦線関与の可能性」
「統一戦線か」
佐々木中将が小さく息を吐いた。吐いたというより、“整えた”という感じだった。
「中華側が、内乱を拡大させる。理屈は分かる。だがいまは確認が先だ。情報が踊ると、指揮が死ぬ」
伊地知長官が頷いた。
「承知しています。踊らせません。……踊らせるのは、帝都だけで十分だ」
その言い方が、怖かった。
警察の論理だ。秩序の回復のためなら、手段の汚さを選ばない。
佐々木中将が地図の上に手を置いた。
「奪還の前に、正統を固める。伊地知長官、こちらの要求は一つだ。帝都へ“陛下の御言葉”を流す。蜂起部隊に、下がれと言わせる」
一瞬、室内が静まった。
伊地知長官が答える。
「……中将。それは無理だ。陛下を政治に引きずり込む。昭和以降、御親政は事実上封じられてきた。いま出せば、皇衛派は“陛下の言葉を自分たちの物語にする”。反乱を正統化するだけだ」
「なら、どうする」
「勅令です」
伊地知長官が即答した。
「御親政ではなく、制度としての勅令。非常緊急勅令として『帝都治安緊急措置令』を出していただく。内容はシンプルに、武装蜂起の鎮圧と、内務省・兵部省・海軍の連携権限を明確化する。命令は内閣から。陛下は“承認”に徹する」
佐々木中将が伊地知長官を見る。
海軍の理屈は、軍事で勝つことだ。
警察の理屈は、法で縛ってから殴ることだ。
どちらが正しいかではない。どちらが“使えるか”だ。
「……よかろう。だが条件がある」
佐々木中将が言った。
「放送局を取り返す。帝都で電波を握らない限り、勅令は紙だ。うちの陸戦隊を出す。横須賀から。航空は厚木を押さえる」
伊地知長官が頷く。
「警務庁は警備部第六機動隊の残存と、公安局を前に出す。奪還の第一目標は通信。第二目標は官庁街。第三目標が市ヶ谷――陸軍局の再掌握」
「第三目標が市ヶ谷?」
佐々木中将の声がわずかに尖った。
「市ヶ谷が陸軍の心臓だ。そこを先に叩けば、蜂起部隊は散る」
伊地知長官は首を振った。
「散らない。散るのは“正規”だけだ。市ヶ谷に手を入れれば、皇衛派は『陛下を守るため』と言い出す。皇居を盾にする。——中将、こっちは“言い訳”を潰してから叩きたい」
言い訳。
それを潰すために、勅令。
そして放送局。
佐々木中将が地図のNHKに赤い線を引いた。
「わかった。作戦名は『白樺』。第一段、通信確保。第二段、官庁街の回復。第三段、市ヶ谷。——それで行く」
その瞬間、部屋の隅で控えていた内閣官房の事務官が、震える声で言った。
「陛下がお呼びです」
全員が立ち上がった。
廊下の先、離宮の奥へ進む。
普段なら夢でも通れない場所だ。だが今日は、国家が割れた日だ。夢の中に現実が押し込んでくる。
御座所に入ると、陛下は静かに座しておられた。
目は疲れている。だが、その疲れは老いではなく、責任の重さから来るものに見えた。
内閣総理が言葉を整え、非常緊急勅令の案を読み上げた。
「帝都治安緊急措置令」
武装蜂起の鎮圧。内務省警務庁の指揮強化。兵部省海軍局への出動命令権限。通信施設の確保。必要な拘束・検問・臨検。
読み終えた後、しばらく沈黙が落ちた。
陛下が、ゆっくりと口を開かれた。
「——朕は、軍を動かさぬ」
その一言で、空気が引き締まった。
統帥権を失ったこの時代の天皇は、軍事に直接介入できない。だが、いまの言葉は“権限の話”ではない。“意思”の話だった。
「されど、民を守るは国の務めである」
陛下は、伊地知長官と佐々木中将を見た。
見た、というより“量った”。
「治安の回復は、政に委ねる。朕はその手続きを拒まぬ。——ただし、帝都を焼くな」
伊地知長官が即座に膝をついた。
「畏れながら。帝都は必ず取り戻し、必ず治めます。余計な血は流させません」
佐々木中将も続いた。
「海軍は、必要最小限の火力で通信を回復し、秩序を取り戻します。……帝都は、我らの港でもあります」
陛下は、短く頷かれた。
「よい。——これを認む」
紙に、承認の印が落ちる。
その瞬間、勅令は“制度”になった。
そして、制度になった瞬間から、誰かがそれを利用する。
伊地知長官が廊下へ戻るなり、冷たい声で命じた。
「警務庁、指揮系統を一本化する。都警察局は本日より“臨時統制下”。反抗する者は拘束してよい。内部の揺れを止める」
佐々木中将も、参謀に短く命じた。
「横須賀へ回線を繋げ。陸戦隊、出動。厚木、確保。NHK、最優先。——電波を取れ」
俺は敬礼し、走った。
扉の外で、電話が鳴りやまない。伝令が行き交う。紙が増える。
軽井沢の静けさは、もうどこにもなかった。
廊下の角で、若い警務庁の外事係が俺を呼び止めた。顔が青い。
「参本……。ひとつ、上げるべき情報があります」
「何だ」
「帝都の中で、“陸軍の制服を着た者”が、皇衛派にも警察にも撃ってるという報告が複数……。それと、在京中華民国の通信量が、今朝から跳ね上がっています」
統一戦線。
さっきの紙切れが、急に重くなる。
俺は外事係の顔を見た。
「誰が言ってる」
「現場の無線です。——それから、市ヶ谷方面。捕虜の警察官が『偽物の憲兵を見た』と……」
俺は、一瞬だけ目を閉じた。
帝都奪還作戦『白樺』。
敵は陸軍だけじゃない。
そして最悪なのは、“敵が敵を撃っている”ことだ。内戦は、理屈で終わらない。混乱が混乱を呼ぶ。
目を開ける。
「上げろ。踊らせるな。だが、握り潰すな。——統一戦線の件、確認班を立てる。内通の線も含めてだ」
外事係が頷いた。
「了解です」
俺は走り出した。
軽井沢から帝都へ、指揮が伸びる。
だがその指揮は、誰の正義の上に立つのか。誰の都合の上に立つのか。誰の血の上に立つのか。
まだ、答えはない。
ただひとつだけ確かなのは、もう引けな
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