生還
二〇一五年八月十五日 午前十時二十分
暗闇の中で、金属が軋む音だけがやけに大きく聞こえた。
俺は逆さになっていた。シートベルトが胸に食い込み、肺の奥が潰れたみたいに息が入らない。舌の先に鉄の味。口の中にぬるいものが広がって、唾と一緒に飲み込んだ瞬間、喉が焼けた。
「小隊長……」
声が掠れて、自分の声じゃないみたいだった。返事はない。助手席のほう——陣川警部補がいるはずのほうから、何かがぶら下がって揺れている。無線機だ。セルコールが、ピッ、ピッ、ピッと、死に損なった心臓みたいに鳴り続けている。
俺は手を伸ばした。指先が何かに触れて、痛みが肩まで跳ね上がる。右腕が痺れている。骨がいってるかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。ここで寝たら終わりだ。
「至急至急、東京本部……こちら——」
送信ボタンを押し込む。返ってきたのは、砂嵐みたいな雑音だけだった。回線が死んでる。というより、意図的に潰されている匂いがした。こういう時、無線が「たまたま」通じないなんてことは滅多にない。
俺は歯を食いしばり、シートベルトのバックルを探った。視界は真っ黒だが、指の感覚だけで金具を撫でる。見つけた。押し込む。カチン、と小さな音。
次の瞬間、俺の身体は落ちた。頭が天井に叩きつけられ、星が散った。だが、痛みより先に冷静さが戻ってくる。公安で叩き込まれた「動けるなら動け」が、身体を勝手に動かす。
割れた窓から、外の音が流れ込んだ。
重い破裂音。断続的な銃声。怒号。遠くでサイレン。……そして、やけに低い、規則正しい振動音。
履帯だ。
戦車が、まだこの近くにいる。
俺は、車内の非常用ライトを探して、指で引きちぎるように点けた。白い光が狭い車内を照らす。血と油の匂いが、現実の形になって見える。床に散らばるガラス片。転がった盾。ひしゃげた扉。
陣川警部補の姿が見えた。助手席側で、シートベルトに吊られている。首が変な角度だ。胸が、動いていない。
「……小隊長」
叫べなかった。叫んだところで、戻ってこないと分かっていた。俺は目を逸らし、出口を探した。運転席側のドアは潰れている。なら後部。
俺は膝で這うようにして後部ドアに手をかけた。押す。びくともしない。蹴る。鈍い音。もう一度、今度は全体重を乗せて。
外の光が、割れ目から差し込んだ。
同時に、冷たい空気と火薬の匂いが鼻を刺した。
俺は外に転げ出た。芝の匂いがする。ここは——芝公園の外れか。目の前には道路。街路樹。煙。燃える車両。倒れた街灯。
そして、黒い塊。
戦車だった。
砲塔が、ゆっくりとこちらを向く。砲口の暗さが、喉の奥を冷やす。俺は反射的に両手を上げた。警察官の癖じゃない。獣の本能だ。
戦車の側面に、白い星章に桜葉が見えた。
近衛。
俺の背筋が凍った。皇衛派が皇居を狙う、という読みは正しい。だが、近衛が——首都防衛の象徴が——警察に砲口を向けている。
「動くな!」
怒号が飛んだ。警察の声じゃない。腹の底から響く陸軍の発声だ。
視線を向けると、装甲車の陰から数名の兵が現れた。黒い外套、ヘルメット、肩章。自動小銃の銃口が揃ってこちらを向く。照準が、俺の胸に並ぶ。
「警察だ!」俺は叫んだ。「東京都警察局、警備部——負傷者がいる、救急を——」
言い終える前に、兵の一人がこちらへ突っ込んできた。俺の胸倉を掴み、地面に押し倒す。膝が背中に入る。息が詰まった。
「銃は」
「……ある。腰だ。撃つ気はない」
「抜くな!」
兵が腰のホルスターを荒っぽく探り、拳銃を引き抜いた。安全装置の確認もせず、投げ捨てる。乱暴だが、下手ではない。少なくとも、ただの暴徒じゃない。
「大尉殿、確保しました!」
兵が背後に叫ぶ。
大尉。視線を上げる。
戦車の影、装甲車の脇に、士官が立っていた。階級章は大尉。年は——俺より少し上か、同じくらいか。顔は若い。だが目が、妙に冷えている。
その目に、既視感があった。正木だ・・・。
確かに外事の目だ。相手を「敵」としてではなく、「情報」として見る目。
正木が言った。
「撃つな。……拘束だ。生かして連れていけ」
兵の一人が不満そうに口を開きかける。
「しかし大尉殿、こいつは桜田門——」
正木は、短く手を上げた。それだけで黙る。声を荒げないのに、命令が通る。現場の統制がある。
俺は咳き込みながら、必死に息を整えた。頭の中では別の計算が走っていた。
この大尉は、ただの皇衛派の狂信者じゃない。
狂信者なら、今この瞬間に俺を撃てる。いや、撃ちたいはずだ。だが彼は「生かす」と言った。それも迷いなく。
何が目的だ。人質?交渉材料?それとも——
「立て」
兵が俺の腕を引っ張り、無理やり立たせる。肩が悲鳴を上げた。俺は歯を食いしばりながら、周囲を見た。
道路の向こうに、倒れた機動隊車両が見える。盾が散らばり、青い制服が血の染みに変わっている。誰だか分からない。だが、同じ警備部の匂いがした。
遠くで、無線が鳴っていた。陸軍の無線だ。断片が聞こえる。
「——皇居前、抵抗強し——」
「——市ヶ谷屯地、予定通り蜂起——」
「——警務庁方面、想定より早い——」
市ヶ谷。やはり憲兵も立っている。
俺が思考を巡らせたその時だった。
乾いた音。パチン、という軽い破裂。
次の瞬間、俺の横にいた兵が、糸が切れたみたいに崩れた。ヘルメットの横から赤黒いものが噴き、地面に叩きつけられる。
狙撃だ。
「伏せろ!」
士官——正木大尉が叫んだ。兵が一斉に道路脇に飛び込む。俺も反射的に伏せた。砂利が頬に刺さる。心臓が暴れる。
二発目、三発目。弾がアスファルトを跳ね、火花が散る。
「どこだ!」
「右上、ビル屋上!」
「いや、違う、左もだ!」
射撃は散らばっていた。腕のいい狙撃手なら、もっと整理されている。これは——混乱を狙った、複数点からの牽制射撃。
正木大尉が、俺の襟首を掴んで引きずった。乱暴だが、殺す手つきじゃない。俺は痛みに呻きながらも、彼の動きに合わせた。
「……お前らの内輪揉めか」
俺が吐き捨てると、正木の目がわずかに動いた。
「内輪なら、もっと綺麗にやる」
その一言が、俺の背中を冷やした。
綺麗にやる。——こいつは、こういう「汚い攻撃」を知っている。経験がある。どこで?
正木は兵に命じる。
「煙幕!引け!制圧射撃!こいつを連れて市ヶ谷へ!」
煙が焚かれ、視界が白く曇る。自動小銃と機関銃がけたたましく鳴る。その中を、俺は引きずられた。背後で銃声が続く。兵の怒号が飛ぶ。救急車のサイレンが近づいては遠ざかる。戦場だ。帝都が、戦場になっている。
煙の中で、別の影が近づいてきた。
黒い外套、腕章。顔は見えない。だが声が聞こえた。
「大尉殿、その者はここで処理すべきです。桜田門の犬を生かしておけば、後で必ず——」
聞いた瞬間、俺は違和感を覚えた。
言葉が、陸軍の敬語の癖と少し違う。ほんの僅かだが、硬い。台詞を覚えてきたみたいな硬さ。
正木が、低く言った。
「——所属を言え」
影が一瞬、止まった。
「憲兵です。市ヶ谷屯地より——」
「なら、憲兵課長の名を言え」
影の呼吸が乱れた。答えが出てこない。
次の瞬間、正木の拳銃が抜かれ、影の足元に撃ち込まれた。乾いた音。煙が揺れる。
「本物なら答えられる。偽物は下がれ」
影は、舌打ちのような音を残し、煙の中に消えた。
俺は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
憲兵を名乗る“偽物”。
皇衛派が蜂起しているこの状況で、陸軍側の制服を着た別勢力が、現場で自由に動ける。
——中華統一戦線。
頭の中で、公安時代の資料が勝手に繋がる。対中対策に関わった経験のある人間なら、今の一連を「ただの内紛」とは見ない。
俺は正木を見た。
「……お前、気づいてるのか」
正木は答えない。ただ、煙の向こうを睨みながら言った。
「喋るな。生きたいなら、口を閉じて足を動かせ」
俺は笑いそうになった。生きたいなら、口を閉じろ。公安の尋問官みたいな台詞だ。
市ヶ谷へ向かう車列は、異様だった。
近衛の装甲車が先導し、その後ろにトラックが続く。トラックには武装した兵と、捕まえられた警察官が押し込まれていた。機動隊の青い制服が、泥と血で黒くなっている。顔を上げられない者が多い。呻き声が混ざる。
俺も、その中に放り込まれた。
トラックが動き出すと、東京の景色が流れた。
普段なら、政治の中心を象徴する建物が並ぶ道だ。だが今日は違う。霞が関は煙に覆われ、路上には放棄されたパトカー、燃えるバス、割れたガラス。遠くの高層ビルの窓に、火が映っている。
ラジオ塔の方角——NHKの辺りから、黒煙が上がっていた。
「……一機204、東京本部……」
誰かが、潰れた無線機に向かって呟いていた。返事はない。返事がある世界は、もうどこかへ行ってしまった。
俺は、トラックの揺れの中で、陣川警部補の顔が浮かぶのを振り払った。泣く暇はない。怒る暇もない。生き残った者の仕事は、状況を見て、次の手を探すことだ。
市ヶ谷が近づくにつれ、銃声は遠のいた。代わりに、重い警戒の空気が濃くなる。検問、鉄条網、即席のバリケード。市ヶ谷基地が“要塞”になっている。
門をくぐる瞬間、俺は見た。
市ヶ谷屯地の旗。憲兵の詰所。儀仗隊の整列。——そのすぐ脇で、兵が兵を拘束している光景。
同じ制服。だが銃口が、味方に向いている。
内輪揉め、という言葉が喉元まで出た。だが、さっきの狙撃と“偽物の憲兵”が、その言葉を押し戻す。
この蜂起は、最初から混ぜ物が入っている。
俺は、基地内の建物——陸軍局の一角にある、薄暗い部屋に放り込まれた。
手当ては、最低限された。止血。固定。水。——そして監視。憲兵が扉の外に立つ。目つきが違う。憲兵の目だ。敵を憎むというより、規律の外側を嫌う目。
机の上には、俺の拳銃が置かれていた。分解され、弾倉は抜かれている。見せつけるように。
その向こうに、正木が立っていた。外套の肩に砂埃がつき、頬に薄い切り傷がある。
彼は名乗らなかった。こちらも名乗らない。名を交わすのは、対等な相手だけだ。捕虜と捕獲者は、対等じゃない。
「東京都警察局、歌川正輝」
それでも俺は言った。名乗ることで、俺は“個”になる。名無しの敵ではなく、手続きの対象になる。公安で学んだ生存術だ。
正木は、数秒だけ俺を見た後、淡々と問うた。
「警備部の配置。皇居方面、どの線で持たせるつもりだった」
「答えると思うか」
「思わない。だが聞く」
短い。無駄がない。尋問が下手な人間は、長く喋りたがる。こいつは違う。
俺は、机の上の拳銃を見た。——奪って撃つ、という展開は現実にはない。ここは基地内で、扉の外に憲兵がいる。俺は負傷している。夢を見るな。
「……なあ、大尉」
俺は息を整えながら言った。
「さっきの狙撃、そして憲兵を名乗った奴。あれはお前らの“同志”じゃない。分かってるだろ」
正木の目が、ほんの僅かに細くなる。
「お前は何を知っている」
「公安にいた。外事を——少しだけ、な」
嘘ではない。俺は公安第三課の出向で、対中系の情報も触った。深くはないが、臭いは分かる。
正木は、初めて感情を見せた。苛立ちではない。警戒だ。
「……歌川巡査部長」
俺の階級を呼んだ。情報を持っている。つまり調べている。
「ここから先は、余計なことを言うな。お前が捕虜であることは変わらない。だが——」
そこで言葉が途切れた。扉の外がざわつく。靴音が走る。誰かが怒鳴る。
次の瞬間、基地全体が揺れた。
ドン、と腹に響く爆音。天井の蛍光灯が瞬き、粉塵が舞った。遠くで火災報知器が鳴り始める。
「……何だ!」
憲兵の声。誰かの悲鳴。
正木の顔が一瞬で硬くなる。彼は扉へ向かい、外へ出る直前にこちらを振り返った。
「動くな。——絶対に動くな」
命令口調ではなく、忠告だった。
扉が閉まる。
俺は、椅子に縛られたまま、耳を澄ませた。廊下の向こうで、誰かが叫ぶのが聞こえた。
「——統一戦線だ!基地内に潜んでいた!」
俺は目を閉じた。
やっぱり、来た。
皇衛派と警察の戦いだと思っていた帝都の地獄は、最初からもっと大きい。もっと汚い。もっと——国家を割るために設計された地獄だった。
俺の知らない戦争が、もう始まっている。
お読みいただき、ありがとうございます! 今後の帝都の物語の展開を楽しみにしていただければ嬉しいです。 作品の応援(ブックマーク、評価、レビュー、感想、シェア)は、物語を描き続ける上での大きな力となります。ぜひ、今後ともよろしくお願いいたします。




