警察の論理
二〇一五年六月三日
正木大尉の監視を始めておよそ二週間。高橋大佐の監視班から外れ、俺が正木監視班の班長になってからというもの、頭の中の天秤はもうほとんど傾いていた。こいつは黒だ、と。
根拠は積み上がっていた。
酒の席での言動。妙に整った言葉遣いの中に混ざる、戦前めいた単語。酒が入ると顔つきが変わる瞬間がある。あれは思想の匂いだ。
それに加えて、頻繁すぎる高橋大佐の私邸訪問。勤務の終わり、寄り道もなく一直線。普通の上官と部下の関係なら、あんな頻度にはならない。連絡だって、今時は電話一本で済む。なのに、わざわざ足を運ぶ。――足を運ぶ理由がある。
そして決め手。
懐中時計。
迂闊にも奴は、監視の目が張り巡らされたその只中で、銀色の懐中時計を懐から出しやがった。たった一瞬。チェーンが光り、蓋が開いた。だが、俺には十分だった。
ああいう道具はただの趣味じゃない。見せるための道具だ。誰かに見せるための“合図”だ。
俺は、机の上の資料をもう一度眺めた。正木彰。第一近衛騎兵師団。大尉。出向歴あり。外事。
……警察の論理で言えば、点と点は線になる。
「正木の動き、今日も行くな」
相棒が、ハンドルの前で呟いた。覆面の車内は狭い。汗と安物の芳香剤の匂いが混ざる。こういう車内の匂いは、いつも最後に記憶に残る。
「行く。……行かなきゃ逆に不自然だ」
俺は無線機のチャンネルを合わせ、短く息を吸った。無線で喋る時は、余計な感情を殺す。感情は記録に残る。残った感情は、いつか自分の首を締める。
その日、正木は勤務を終えるとまっすぐ高橋大佐の私邸へ向かうようだった。
正木の運転する車を尾行する覆面パトカーの助手席で、高橋大佐監視班に無線を入れる。
「K4からマル本 対策本部並びにK2宛、正木は現在自家用車で高橋の私邸方面へ進行中。」
「了解。K2にあっては現場をK4に引き継ぎ遊撃対応とせよ。」
「K2了解。高橋にあっては特異事項なし。現在も在宅中。」
「K4了解。正木はまもなく千住大橋通過。以上K4。」
無線が静かになると、車内は急に現実味を取り戻した。
信号待ちで止まる。右折車線が詰まる。前のタクシーがやけに遅い。そういう“くだらないもの”が、捜査の成否を左右する。
正木の車は、妙に素直だった。
変な巻き方もしない。急な車線変更もしない。後ろを見る癖もない。……だから逆に気持ち悪い。気づいてないのか、気づいていて気づいてないふりなのか。
この手の連中は、どっちもあり得る。
車内で、正木がのんきに煙草をふかしているのが見えた。窓を少しだけ下げて、灰を落とす。あの落とし方。躊躇がない。
“慣れてる”。煙草じゃない。監視の視線に慣れてる。
「なあ、班長。……あいつ、気づいてるか?」
運転席の相棒が小声で言った。
「気づいてても、いまは泳がせる。——今欲しいのは“確信”じゃない。“形”だ」
警察の論理は単純だ。
疑いだけじゃ人は取れない。疑いを“手続き”に落とし込んだ時、初めて逮捕になる。
だから俺たちは、今日も走る。今日も張り付く。今日も無線を入れる。証拠という名の紙切れ一枚を作るために。
正木の車が、私邸の近くに差し掛かった。住宅街の空気が変わる。音が減る。街灯が少ない。
周辺に自然に溶け込むため、俺たちは少し距離を取った。距離を取れば見失う。詰めればバレる。
この微妙な距離感が、警察の仕事だ。
正木は、迷いなく高橋の私邸の前で停まった。
門が開き、車が入る。閉まる。
それで終わりだ。ここから先は、いつもの“待ち”だ。
俺たちは車を路地に滑り込ませ、エンジンを切った。
シートが背中に張り付く。夏の夜の車内は蒸し風呂だ。
だが窓を開ければ目立つ。エアコンを回せば音が出る。音が出れば気配になる。気配になれば、終わりだ。
「……何時間コースだ、これ」
相棒が呟く。
「さあな。長いほど、こっちは嫌になる。嫌になった方が負ける」
俺はタブレットで時刻を確認し、報告用のメモに時間を書いた。
“22時16分、正木、私邸入。”
そんな一行が、後で何十ページもの報告書の一部になる。
警察の論理は、結局紙だ。紙が積み上がった方が勝つ。
一時間。二時間。
出入りはない。車のライトも動かない。犬が吠えた。遠くでバイクが走った。
それだけだ。
退屈は、警察官を二種類に分ける。
眠る奴と、疑い続ける奴。俺は後者のほうが性に合っている。疑い続けると、何もないところに意味が見えてくる。
意味が見えてくると、人は危ない。だが、今夜の帝都は“意味がない”方が危ない。
明け方近くになって、ようやく正木が出てきた。
出てきた時の歩き方が、これまた嫌なほど落ち着いていた。用事が済んだ人間の歩き方じゃない。予定通りの歩き方だ。
車に乗り、エンジンをかけ、ゆっくり走り去る。
俺たちは距離を取って尾行したが、正木はそのまま官舎へ帰った。寄り道なし。誰とも接触なし。
結局、明け方まで私邸近くで監視を続けたものの、他の訪問者もなく、手がかりは何もつかめなかった。
何もつかめなかった。——それが、いちばん不気味だった。
「……綺麗すぎる」
俺が呟くと、相棒が小さく頷いた。
「綺麗すぎるのは、準備があるってことだよな」
俺は窓の外、白んできた空を見た。
警察の論理で言えば、ここから先は二択だ。
このまま張り続けて、いつかミスを拾うか。
あるいは――もっと“手続き”を深くするか。
「そろそろ……」
俺は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
言葉にした瞬間、もう戻れない気がしたからだ。
「そろそろ、次の段階だな」
相棒が代わりに言った。
俺は小さく頷いた。
(そろそろ、私邸の“中”が必要だ)
もちろん簡単じゃない。法手続きも、上の決裁も、リスクもある。
だが、帝都が割れる前に、割れる理由を掴まなければならない。
俺は無線機の電源を切り、報告書の束を鞄に押し込んだ。
紙が重い。紙はいつも重い。
そして、この重さだけが、俺たちの正義の重さでもあった。
お読みいただき、ありがとうございます! 今後の帝都の物語の展開を楽しみにしていただければ嬉しいです。 作品の応援(ブックマーク、評価、レビュー、感想、シェア)は、物語を描き続ける上での大きな力となります。ぜひ、今後ともよろしくお願いいたします。




