公安警察
二〇一五年五月十七日
「おかしい……静かすぎる……」
係長席で野中警部補が頭を掻きながら、モニターを睨みつけていた。公安第三課のフロアはいつも通り空調が効きすぎていて、紙とインクと汗の混ざった匂いだけが生き物みたいに漂っている。
「歌川、どう思う」
俺――歌川正輝巡査部長は、机上の資料から視線を上げた。確かに、ここ一か月ほど皇衛会の動きが“ない”。
ない、というのが一番不気味だった。
「全く動きが止まりましたね。最後の会合、いつでしたっけ」
「四月五日。陸軍会館だ」
野中係長の言葉に、俺は小さく頷きながら、喉の奥に引っかかる違和感を噛みしめた。
――陸軍会館。
それまで奴らは、市中の喫茶店や料亭で、隠す気もないのか堂々と集まっていた。監視されていることを承知の上で、“見せつける”ように。
それが急に、自分たちの縄張りへ引きこもった。そして、その後は沈黙。
見せつける時期が終わった。
次の段階に入った――そう考えるのが自然だった。
「外からじゃ限界です。そろそろ陸軍内のSを動かす頃合いじゃないですか」
「……Sか」
野中係長は、しばらく黙った。S――情報提供者。公安の仕事の骨格の一つだ。こちらが動かせば、向こうも動く。良くも悪くも、だ。
「課長に上げる。お前の意見としてな」
係長は報告書の束を掴み、課長室へ向かった。背中を見送りながら、俺は自席で頭の中のピースを並べ直す。
なぜ陸軍会館に移したのか。
なぜ沈黙したのか。
沈黙は、解散ではない。解散なら、むしろ“散る音”が出る。人は最後に一度、油断する。
だが、油断がない。
奴らは何かを隠している。
隠しているのではなく、“隠す必要がある段階”に入った。
考えがまとまりきらないまま、監視の交代時間が迫ってきた。
今日も高橋大佐殿は兵部省に籠もりきりだろう。
自宅と兵部省の往復だけ。外から見れば退屈な対象だ。だが退屈ほど怖いものはない。退屈は、こちらの注意を鈍らせる。
兵部省前の駐車場。何か月も通った場所に車を滑り込ませる。前任者に交代のメールを送ったら、俺の仕事は“待つ”になる。
省内の動きは協力者任せだ。警察がうろつけば目立つ。こちらが見えるのは、建物へ出入りする人間の背中だけ。
スモークの貼られた後部座席で、俺はタブレットを開いた。捜査資料を流し読みする。並ぶのは「特異事項なし」「特異事項なし」「特異事項なし」。
嵐の前の静けさ――そういう陳腐な言葉が、今日はやけに現実味を帯びていた。
その文字の羅列の中で、ひとつだけ目に刺さる項目があった。
――正木彰大尉。
「……誰だ、こいつ」
俺は思わず声に出した。捜査線上に上がっていない名前だ。だが添付写真はやけに鮮明で、軍人手帳の写真らしい。所属は第一近衛騎兵師団。
報告者欄を見る。
千住警察署地域課 巡査。
高橋大佐の私邸近くで、私服の軍人を現認。職務質問。相手は陸軍の人間で、高橋大佐の私邸へ出入りしていた――と。
日付は四月二十日。陸軍会館での会合の“後”だ。
公安部内では、地域課の、しかも学校出たての巡査の報告書など、軽く流される。
だが、俺にはこれが“糸”に見えた。
高橋は動かない。
なら、高橋の周囲が動く。
俺は正木の顔を、網膜に焼き付けた。係長に電話――とスマホを取った、その瞬間。
その“正木の顔”が、兵部省の正門をくぐっていった。
「……本人かよ」
心臓が一拍遅れて跳ねた。写真と同じ背格好。歩幅。首の角度。軍人の歩き方。間違いない。
正木大尉は、いま兵部省に入った。
電話は後だ。まず協力者へ。省内監視の線を、正木に寄せる。
俺は震える指先で、暗号化メールの文面を打ち始めた。
――「至急。正木彰大尉(第一近衛騎兵師団)を現認。兵部省入庁。省内動静確認願う。特に高橋大佐との接触有無」
送信ボタンに指を置いたところで、ふと背中が冷えた。
駐車場の端。反射した窓に、こちらを見ている“誰か”が映った気がした。
確証はない。だが公安の勘は、確証の前に鳴る。
俺は深呼吸し、視線を落としたまま送信した。
送信済み――。
その表示を見た瞬間、胸の奥で嫌な予感が形になった。
正木を追ったこの一通が、こちらの動きを“誰か”に知らせる火種になる。そんな感じがした。
だが、もう引けない。
静けさは終わった。音が戻ってくる。
俺は暗い車内で、兵部省の門を見つめ続けた。
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