夜の戒線
二〇一五年八月十五日 午後九時一五分 帝都・霞が関外縁
正規放送の声が流れてから、銃声は“減った”。
止まったわけではない。減っただけだ。都市が沈静する音は、静寂ではなく、点が少なくなる音だ。
霞が関の交差点。
焼けた標識の影で、湯川警視正は地図を広げた。地図には赤鉛筆で新しい線が引かれている。都心を輪切りにするような線だ。
「——ここが第一戒線。ここから内側は“緊急措置令区域”として扱う」
部下が唾を飲む。
「通行止め、臨検、拘束……全部、今夜からですか」
「今夜からだ。今夜で“勝手”を止める」
湯川はそう言いながら、心の中で別の言葉を添えた。
今夜で止めるのは、皇衛派だけじゃない。警察の中の勝手も、官僚の中の勝手も、そして——“第三の勝手”も。
「警務庁から?」
「そうだ」
湯川は無線を取る。
「東京本部、現地。第一戒線、設定完了。検問班、順次配置。……なお現場の混乱防止のため、指揮系統の文言を統一してくれ。“臨時統制下”を強調しろ。勝手な正義を増やすな」
返ってきた声は、疲れている。だが、それ以上に硬い。
「了解。——付言。今夜から“特別留置移送”を開始。捕虜・被疑者を分散収容する。襲撃の兆候あり」
湯川の眉が動いた。
「襲撃?」
「皇衛派、もしくはそれに便乗する不明勢力が、留置施設を狙う可能性。——護送路を秘匿する」
湯川は、背筋が冷えるのを感じた。
留置場が狙われる理由は一つだ。口だ。名簿だ。通信だ。
“喋らせない”か、“連れ戻す”か。どちらにせよ、統一戦線が一枚噛んでいる匂いがする。
「了解。護送路、現場には直前で落とせ。……電波は守る。だが口も守れ」
無線を切り、湯川は部下に命じた。
「警備部九機残存、護送支援に二個小隊回せ。——撃ち合いはするな。だが、奪われるな」
「了解!」
部下が走る。
霞が関の夜風が、火薬と煤を薄めて運ぶ。薄めるだけで、消してはくれない。
湯川は空を見上げた。
帝都はまだ生きている。生きている都市は、必ず“誰かの物語”になる。
その物語を、奪われないようにするのが警察の役目だ。
同時刻 市ヶ谷基地・兵部省陸軍局 通信室前
廊下の蛍光灯が、瞬きながら唸っていた。
歌川正輝は、その唸りの中に“異物”を聞き分けようとしていた。公安の癖だ。機械の音は、嘘をつかない。
正木彰大尉が、扉の鍵を開ける。
「入れ」
扉の向こうは、乱雑だった。机が倒れ、配線が引き抜かれ、交換盤が開けっぱなしになっている。
そして床には、通信兵が一人、仰向けに倒れていた。目が開いている。もう焦点はない。
「……やられたな」
歌川が呟くと、正木は通信兵の胸元を探り、名札を確認した。
「こいつは皇衛派の人間じゃない。……中立だ。だから邪魔だった」
邪魔。
つまり、正しい経路を守ろうとした人間が邪魔になる。
それが“混ぜ物”の戦い方だ。
歌川は交換盤を覗き込み、配線の一本を指で弾いた。
「これ、簡易送信機のラインだ。基地内放送に噛ませてる。……偽の声を流したのは、ここだ」
正木の目が細くなる。
「統一戦線が、基地の喉を握った」
「握ったというより——“握れるようにしてあった”」
歌川は壁際に置かれた工具箱を蹴り、底から小さな黒い箱を引きずり出した。
無線機ではない。市販品を改造したような送信装置。内側に手書きの記号がある。日本の軍が使う記号じゃない。癖が違う。
正木が吐き捨てる。
「……手慣れている」
その瞬間、背後の廊下で靴音。
二人が同時に振り返る。憲兵が一人。顔が白い。
「大尉殿! 通信室、異常は——」
正木は言葉を遮った。
「お前、ここに来る理由がない。誰に呼ばれた」
憲兵が一瞬、詰まる。
それだけで十分だった。
歌川は前に出ず、息だけを整えた。相手が焦ると、口が滑る。
「……基地内放送で、こちらに集結命令が」
「認証符号は」
正木が問う。
「え……」
憲兵の喉が動く。出ない。
正木が拳銃を抜く。撃たない。撃たないまま、銃口を足元へ落とす。
「伏せろ」
憲兵が半歩引いた。逃げの半歩だ。
歌川がその半歩に合わせて間合いを詰め、肘で顎を打った。憲兵が崩れる。口の中から、カプセルが転がった。
「——噛む前に落とさせた」
歌川が短く言う。
正木が頷いた。
「捕縛。……喋らせる」
歌川は思わず正木を見た。
「喋らせる? お前ら、こういうのは——」
「憲兵に渡せば“処理”される」
正木は冷たい声で言った。
「だから、俺の手元で喋らせる。処理させない。——ここで消えた声は、帝都でまた増える」
歌川は、心の奥で何かがきしむのを感じた。
正木は皇衛派だ。だが今、彼は皇衛派の論理より“国家の喉”を優先している。
それが信用に値するかは別だ。
ただ、この瞬間は利用価値がある。
正木が憲兵を引き起こし、低く問うた。
「誰の線だ。統一戦線か」
憲兵は笑いそうな顔で息を吐き、歯を見せた。
「……遅い」
その言葉の直後、廊下の遠くで爆音がした。市ヶ谷の別棟だ。
揺れが、通信室の天井を軽く叩く。
正木の目が鋭くなる。
「……同時だ。帝都でも動く」
歌川は即座に無線を探った。
「東京本部に繋げ。護送があるって言ってた。留置移送——そこを狙う」
正木が一瞬迷い、すぐに決める。
「繋げ」
皇衛派の大尉が、桜田門へ回線を繋げと言う。
今日の帝都は、そんな矛盾でできている。
午後九時四十分 帝都某所・護送車列
護送車のヘッドライトが、瓦礫の影を切り裂いて進む。
行き先は伏せられている。運転手も、直前に渡された封筒を開けたばかりだ。
車内には被疑者が一人。
軍曹。皇衛会の秘書官格。——武田軍曹。
両手は拘束。口にはテープ。目だけが動く。
その目に、恐怖ではなく“計算”がある。
「……こいつ、落ち着きすぎだな」
助手席の刑事が小さく言う。
後部座席の護送担当が返す。
「落ち着いてるんじゃない。——助けが来ると思ってる」
その瞬間、先導車が急停止した。
「止まれ! 前方、バリケード!」
運転手が叫び、ブレーキが鳴る。
道路の中央に、横倒しの工事車両。計画的だ。偶然じゃない。
そして、暗がりから光が走った。
閃光弾ではない。白いライト。目を潰すための照射。
同時に、無線がノイズに塗り潰される。ジャミングだ。
「……やられた!」
誰かが叫んだ瞬間、銃声が二発。
撃ち合いではない。タイヤを狙った音だ。護送車が傾く。
「下りろ! 展開!」
護送担当が叫び、ドアが開く。
だが外に出た瞬間、別方向から乾いた音。
今度は殺意のある銃声。しかも、警察の発声じゃない。
「伏せ——」
言い終える前に、護送担当の肩が跳ね、倒れた。
血が黒い。夜の血は黒い。
「……陸軍か?」
刑事が呻く。
だが、暗がりから聞こえた声は、陸軍の敬語に似ていて、少し違った。
「武田を引き渡せ。——我々が“回収”する」
回収。
軍人が使う言葉ではない。工作員が使う言葉だ。
護送車の中で、武田軍曹が目を細めた。
笑ったのかもしれない。テープ越しに頬がわずかに動く。
そして——
遠方から、別のサイレン。
重い足音。盾の擦れる音。
「警務庁警備部! その場を動くな!」
湯川の部隊が来た。間に合ったのか、それとも——“間に合わせた”のか。
暗がりの影が、一瞬だけ退く。
退き際、誰かが小声で言った。
「……南は、もう始まっている」
その一言だけが、夜に残った。
午後十時一〇分 軽井沢指揮所
伊地知警務庁長官の前に、短い報告が積まれる。
護送車列への襲撃(所属不明、ジャミング、回収要求)
市ヶ谷での同時爆破(通信室で送信装置回収)
“南の門”に関する断片的発言
伊地知は紙を見ながら、指先で机を一度叩いた。
「——帝都は、もう“戦闘”じゃない。“手術”だ」
佐々木中将が低く返す。
「手術なら、出血は避けられん」
「出血はする」
伊地知は淡々と言う。
「だが、致死出血はさせない。——統一戦線が欲しいのは、帝都の死だ。帝都が死ねば、南が立つ」
総理が息を飲む。
「……帝都が持ち直したのに、なぜ」
伊地知が顔を上げる。
「持ち直したからです。正統が戻った瞬間、別の正統を立てる。——帝都が生きたまま割れれば、国は最も美味しく裂ける」
沈黙。
窓の外は静かだ。静かすぎる。
静かな夜ほど、どこかで誰かが線を引いている。
伊地知は命じた。
「帝都、戒線をもう一段締める。留置移送は継続、だが襲撃対策を強化。各機動隊の残存部隊は一機と六機に集結させろ。千葉、神奈川のSATと埼玉のRATSに応援要請。——そして市ヶ谷。あそこは“喉”だ。喉を他人に触らせるな」
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