参りましたは、ちゃんと言え
うん、この話の雰囲気はいい。負けた時の夫だけど、一応参りましたは言うの。でも、自分の気持ちの持ちようで、負けて残念だったなーと明るく言う時と、不機嫌に参りましたという時とある。
いい修正……!
そこ、めちゃくちゃ人間味が出るし、夫の厄介さがワンランク上がる。
「言う/言わない」より
**「同じ言葉なのに温度が違う」**ほうが、ずっと刺さるんだよね。
じゃあ第3話、
構造はそのまま、
負けたときの「参りました」を“二種類あるもの”として書き直すね。
第3話「参りましたは、ちゃんと言え」(修正版)
夕食後、将棋盤が出てくる。
出すのは、いつも子どもたちだ。
「ねぇ、将棋やろう」
お願いするのは息子。
夫はすでに晩酌をしている。
「いいよ」
そう言いながら、
グラスの位置だけはきっちり決める。
夫は将棋がそれなりにできる。
息子たちは、夫と指しながら覚えてきた。
負けて、覚えて、
また負けて、少し強くなる。
それ自体は、悪くない。
ただ、対局が始まると、
夫の口が忙しくなる。
「早く駒出せ」
「ちゃんと考えてるのか?」
「それ、前も同じミスしてたぞ」
相手は小学生だ。
それでも息子は、真剣だ。
盤を見つめ、考え込み、駒を持つ。
勝ったり、負けたり。
夫が勝ったときは、決まって言う。
「ほら。ちゃんと言え」
「……参りました」
この言葉を、言わせる。
正々堂々。
礼儀作法。
たぶん、間違ってはいない。
問題は、夫が負けたときだ。
明るい日もある。
「いやー、残念だったなー」
「今日はいい勝負だったな」
そう言って、
どこか爽やかに「参りました」と言う。
そういう日は、
将棋は“いい時間”で終わる。
でも、いつもそうとは限らない。
負けが続いたり、
思った手が通らなかったり、
お酒が少し回っていたりすると、
「……参りました」
声が低い。
短い。
空気が一気に冷える。
同じ言葉なのに、
意味が違う。
言ってはいる。
でも、受け入れてはいない。
そのあと、夫は多くを語らない。
駒を戻すのも、将棋盤をしまうのも、子どもたちだ。
私は横で見ている。
この時間が、
息子たちの力になっている部分も、確かにある。
考えること。
勝ち負けと向き合うこと。
最後まで指すこと。
でも同時に、
大人の機嫌の扱い方も、
自然と身についている気がする。
将棋盤の前で、
一番気を使われているのは誰なのか。
それもきっと、
みんな、わかっている。




