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深い雪の道

作者: りな
掲載日:2025/12/06

ユキは、小学四年生のある日を境に、世界が音を立てて歪んでいくのを感じた。


 最初は、隣の席のアヤカが消しゴムを貸してくれなかっただけだった。

 些細なことだ。誰でもある。そう思って気にしなかった。


 でも翌日、机の中に入れていた筆箱がなかった。

 体操服が濡れていた。

 お道具箱の蓋が割れていた。


 全部偶然だと、ユキは自分に言い聞かせた。

 ——だって、アヤカはいつも笑っている。

 優しそうに髪を撫でてくれることもあった。


 けれど、その優しさは、必ず大人の目がある時だけだった。


 ある日、机の裏に貼られた紙を見つけた。


「ユキって、くさい」

「きもちわるい」

「みんなのじゃま」


 指先が震え、文字がにじんだ。

 それでも担任に言った。

 勇気を振り絞って。


 担任はクラスに向かって言った。


「いじめ、してないよね」


 アヤカが一歩前に出る。


「してません。ユキちゃん、勘違いしてます。私たち普通に遊んでただけです」


 クラスの十数人が頷いた。


「そうそう」

「大げさなんだよ」

「かまってほしいの?」


 ユキの視界がゆがんで揺れた。

 担任は、ユキの方を一度だけ見て、それきりクラスに向き直った。


「そうか。じゃあ、いじめはなし。終わり」


 その瞬間、なにか小さなものが心から“音を立てて”落ちていった。


 ユキは中学生になった。

 新しい制服、新しい学校。

 ユキは「静かに息をするように生きよう」と決めていた。


 そんな時、教室の隅にひっそりと座る少女がいた。

 名前はミオ。誰も話しかけない。

 まるで教室の空気ごと透明になっているようだった。

ある日、ユキは気づけばミオの隣に座っていた。ペアを組んでする作業の時間だった。


「……あの、ひとりでしているの?」

「……うん」

「よかったら、一緒にしよう」


 ミオは少しだけ驚いた笑顔を見せた。


 翌日、ユキの机の周りはぽっかりと空いた。まただ。

 でも、ユキはそこに座った。


「ごめん、私のせいで……」

「違うよ。ミオがひとりなの、放っておけなかっただけ。……私も、ひとりだったから」


 ミオは静かに泣いた。

 その涙は、ユキの胸に優しく重く降り積もった。



ユキは高校生になった


 高校は、笑い声と裏切りが混ざった場所だった。ユキは、クラスの輪の中で静かにいた。

 誰も敵意は向けないが、誰も心を寄せない。


 “薄い関係”が広がる世界で、ユキは深く息を吸うことを忘れた。


 ミオとはたまに会った。

 けれど、彼女も新しい友達をつくり、忙しくなり、距離が開いていった。


 人は、誰かを守るためだけには生きられない。

 ユキはその事実を、ゆっくりと呑み込んだ。


 ユキの高校卒業直前に、父が倒れた。

 あまりにも突然で。病院の白い部屋で、医者の言葉が空気を震わせる。


「……ご臨終です」


 ユキは、泣かなかった。

 泣くという行為が、遠すぎて、手が届かなかった。その横で、弟と妹が声を上げて泣き続けていた。


「私が……働く」


 そう言った瞬間、重い鎖が肩に乗ったような気がした。



 ユキは社会人になった。

 就職先には、噂通りの“お局様”がいた。名前は高野。


「若いのに仕事遅いわね」

「どうしてそんな簡単なこともできないの?」

「気遣いが足りないのよ。まったく最近の新人は」


 与えられた仕事以外も押し付けられ、終わらなければ“努力が足りない”と言われる。

 上司は視線をそらし、同僚は席を立つふりをして逃げた。


 ユキはトイレの個室で息を殺して泣いて、

 鏡の前で目を赤くしたまま笑ってみせて、

 それでも夕方には仕事に戻った。


「辞めれば?」

 心のどこかで囁く声がする。


「……辞められない。弟と妹がいるから」


 世界は残酷だった。大人になっても、優しさを持てない人間はあまりにも多かった。

 理不尽はいつも、弱い者にだけ降り注ぐ。



 ユキは それでも、歩くしかなかった


 ある冬の夜。

 雪がしんしんと降る帰り道。

 ユキは駅のホームで、空を見上げた。


 白い息が空に溶けていく。

 視界が滲む。

 知らないうちに涙があふれていた。


「お父さん……私、ずっと怖かった」


 誰も信じられない世界を歩くことが。

 笑われることが。

 見捨てられることが。


「でもね……弟も、妹も……大きくなってきたよ」


 今まで握りつぶしてきた痛みが、胸の奥で少しだけ溶けた。


「もうすぐ……自由になっていいかな」


 返事はない。

 ただ、雪が静かに降り続けていた。


 ユキは息を吸って、吐いて、

 震える足で一歩を踏み出した。


 ——この道の先に、光なんてないかもしれない。

 ——それでも、自分で歩ける足は、まだ折れていなかった。


 雪深い夜道に、ユキの影が答えるように伸びていく。


 ユキは、まだ自由を手にしてはいない。

 でも——


“自由を夢見る権利を、ようやく自分に許せるようになった”。


その瞬間こそが、人生の暗闇に差し込む、最初の微かな灯りだった。


……世界は知っている。彼女にいつか、「あなたがいて、良かった」と言える人物に出会うことを。彼女の道は、決して、暗闇ばかりではないということを。

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