プロローグ
この物語を手に取ってくれたあなたに、心からの感謝を。
これは、“干渉”の記録であり、“祈り”の終焉。
誰かに触れること。
何かを変えようとすること。
それは、優しさであり――時に暴力でもある。
幾度も形を変えながら、私は干渉を続けた。
『転生の果てⅡ』
干渉の果てに、人は何を赦し、何を手放すのか。
これは、祈りの終わりと静寂の始まりを描く、魂の物語。
世界は、静かだった。
あの長い旅を終えてから、ボクは普通の日常を取り戻していた。大学に通い、友人と笑い、朝日を浴びて目覚める。ごく当たり前の、穏やかな日々。
キャンパスの並木道を歩き、講義室で教授の話を聞き、学食で昼を食べる。図書館で本を読み、サークル室で雑談をし、夕暮れの空を見上げる。
何もかもが、普通だった。
それでも、どこか空白があった。
夜、ふと目が覚めると、胸の奥に冷たい何かが残っている。誰かの声が聞こえた気がするのに、そこには誰もいない。夢の中で誰かに呼ばれた気がするのに、思い出せない。
鏡に映る自分の顔を見ても、どこか他人のような気がする。目の奥に、深い疲れが滲んでいる。それがいつからあるのか、思い出せなかった。
ただ、“何か”を失った感覚だけが残っていた。
だからボクは、動き続けた。
児童支援センターで子どもたちに勉強を教え、介護施設で高齢者の話を聞き、募金活動に参加し、献血に通った。誰かのために動いている時だけ、ボクは”生きている”実感を得られた。
子どもが問題を解けたとき、嬉しそうに笑う顔。
老人が昔話を語るとき、遠くを見つめる目。
募金箱にお金を入れてくれる人の、優しい表情。
それらがボクの中に流れ込んできて、心を満たしていく。
優しさは、温かかった。
でも同時に、重かった。
誰かの痛みも、一緒に流れ込んできた。子どもの孤独、老人の喪失感、友人の不安。それら全てがボクの中に蓄積していく。
表情の隙間から、声の震えから、温度の違いから。
ボクは、気づかないうちに他人の感情を”視て”いた。
そしてそれを、自分の中に溜め込んでいた。
*
ある日、ボクは倒れかけた。
慈善活動の帰り道、駅の階段で足が竦んだ。視界が揺れて、手すりを掴む。冷たい金属の感触が、掌に食い込む。
周囲の音が遠のいた。駅のアナウンス、人々の足音、電車の通過音——すべてが水の中にいるように歪んで聞こえる。
「大丈夫?」
友人が駆け寄ってきた。同じボランティア団体の仲間だ。心配そうな顔で、ボクの肩を支えてくれる。温かい手が、ボクの腕を掴む。
「ちょっと疲れてるだけ」
そう答えたけれど、本当はもっと深い何かが蝕んでいた。
眠っても疲れが取れない。食べても胃が重い。笑っても、どこか遠くで誰かが泣いている気がする。
朝起きると、体が鉛のように重い。講義中に意識が途切れる。夜は眠れず、天井を見つめ続ける。
体調だけじゃない。
心が、他人の感情を吸い込みすぎていた。
ボクは優しさを与えているつもりだった。けれど実際は、他人の痛みを全て引き受けていた。それが毒のように、少しずつボクを侵食していた。
*
友人が差し出したのは、小さな瓶だった。
「これ、飲んで。栄養ドリンク。最近頑張りすぎだよ」
善意だった。
心からの、優しさだった。
ボクは笑って受け取り、その場で蓋を開けた。甘い香りが鼻をくすぐる。一口飲むと、舌の上で甘さと苦さが混ざり合う。喉を通って、胃に落ちていく。
「ありがとう。助かるよ」
そう言って、ボクは家路についた。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。風が吹いて、街路樹の葉が揺れる。電車の音が遠くで響き、人々が足早に通り過ぎていく。
普通の、日常の風景。
けれど、その日の夜——。
体の中で、何かが溶け始めた。
*
最初は、温かさだった。
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。心地よい眠気が全身を包む。ベッドに横たわりながら、ボクは目を閉じた。
外では風の音が聞こえている。窓ガラスが微かに揺れて、カーテンが揺らめく。部屋の照明は消していたから、闇だけがそこにあった。
でも、すぐに気づいた。
これは、自分の温度じゃない。
誰かの感情が、血の中を流れている。
子どもの寂しさ。
老人の悲しみ。
友人の焦燥。
すべてが混ざり合って、ボクの中で渦を巻いていた。
心臓が、ゆっくりと鼓動を打つ。
その一拍ごとに、他人の感情が全身へ広がっていく。指先まで、足先まで、頭の奥まで。温度が上がり、意識が溶けていく。
痛みではなかった。
むしろ、甘かった。
誰かの想いに包まれて、溶けていくような感覚。優しさと悲しみが混ざり合って、境界が曖昧になる。
ボクは、誰かになっていく。
いや、誰でもなくなっていく。
自分という輪郭が薄れて、他人の感情が流れ込む。それは侵食であり、同時に融合だった。
ボクは優しさに蝕まれていた。
他人を救おうとした行為が、毒となってボクを侵していた。
*
視界が白く染まった。
天井の照明が滲んで、部屋全体が光に包まれる。いや、照明は消していたはずだ。これは別の光——内側から溢れる、誰かの想いの光。
息が、浅くなる。
心臓が、遠くなる。
けれど、怖くはなかった。
誰かの声が聞こえた。
「見て」
「触れて」
「包んで」
それは懇願でも命令でもなく、ただ静かな呼びかけだった。
ボクは目を閉じた。
光が遠ざかり、闇が優しく包み込む。
体が軽くなって、意識が薄れていく。
でも、消えていくわけじゃなかった。
ボクは、また”始まって”いた。
*
静寂の中で、ボクは浮かんでいた。
どこでもない場所。いつでもない時間。
ただ、誰かの想いだけが、そこにあった。
干渉——。
その言葉が、ボクの中で響いた。
他人に触れること。他人を見つめること。他人を包むこと。
それは優しさだった。
けれど同時に、毒でもあった。
ボクは他人を救おうとして、自分を失った。
でも、それでいいのかもしれない。
干渉の果てに、何があるのか。
それを知るために、ボクは再び旅を始める。
それは痛みではなく、眠気のようだった。
誰かの想いが、静かにボクの中へ流れ込む。
優しさと悲しみが混ざって、血が甘くなる。
ボクは、また沈んでいく。
——干渉の旅が、始まる。
その先に、“影”が待っていた。
干渉とは、生きるということ。
祈ることも、願うことも、世界への小さな干渉だ。
そのすべてを終えたあと、私は気づいた。
「生きる」とは、触れることではなく、ただ“在る”ことなのだと。
次の転生へ――干渉の旅が、始まる。




