婚約を破棄された聖女ですが、今さら戻れと言われても遅すぎます
短期連載始めてます!詳しくは後書きから
白い大理石の床に、かすかな靴音が響く。
王都の中心、第一王宮。その謁見室の奥に、凛とした少女が静かに立っていた。
「――エレナ・アルディネ。君との婚約は、ここで解消とする」
声の主は、王太子アレクシス・レーヴェンクロイツ。
黄金の装束を纏い、従者や廷臣に囲まれながら、まるで儀式のように淡々と告げた。
「……その理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
エレナ・アルディネは、微動だにせず問いかけた。
銀の髪を結い上げ、深い紺のドレスをまとったその姿は、まさに貴族令嬢の鑑だった。だが、その瞳の奥には、抑えきれぬ揺らぎがある。
「君が“予言”したこと――あれがすべてだ。この国が三年以内に滅びる、と大広間で言い放った事だ。王家の威信を貶めるような言動は、もはや見過ごせない」
「……それは、神託に基づくものです。民を守るため、警鐘を鳴らしたまでのこと」
「ならば余計に始末が悪い。君は聖女として、国に仕えてきたはずだ。それが今さら“不吉な未来”を語って民心を惑わすなど……裏切りと何が違う」
静かながらも厳しい声。廷臣たちは息を呑み、謁見の場には張りつめた空気が満ちていた。
かつて“聖女”と謳われ、王太子の婚約者として絶大な信頼を得ていたエレナ・アルディネは、いまや不吉の象徴として断罪されようとしている。
エレナは一度、瞼を伏せ、ひとつだけ息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
「……王太子殿下のご判断、確かに承りました。
ただ、いつか、あの言葉の意味が真に理解される日が来ると、私は信じています」
彼女は静かに一礼し、背を向けて歩き出す。
扉が閉じる音が、謁見室に重く響く。
こうして、エレナ・アルディネの名は、王都から姿を消した。
社交界からは除名され、聖女の地位も剥奪。
かつて彼女を称賛していた人々は手のひらを返し、「聖女など最初から嘘だった」と口々に言い始めた。
そしてエレナは、王都を離れ、辺境の領地レーヴェ村へと追放されることとなった。
レーヴェ村は、王都から馬車で十日あまり。
山々に囲まれたその村は、かつてアルディネ家が治めていた旧領地でありながら、長く領主不在のまま放置されていた。
屋敷は風雨に晒されて老朽化し、村の人口も半分以下に減っているという有様だった。
「ここが、エレナ様の新しい居場所だなんて!かなり酷い待遇ですよこれ!」
馬車を降りた侍女のミリーが、思わず口をつぐむ。
彼女だけが、王都でのすべてを捨て、エレナの傍に残った数少ない者だった。
「いいえ、ミリー。ここから、また始めればいいの」
エレナは屋敷を見上げながら、そう言って静かに笑った。
枯れた庭、ひび割れた窓。けれどそこには、不思議な静けさがあった。
「ここで暮らす人たちがいる限り、私は私の務めを果たすわ。聖女であろうと、なかろうと」
エレナは、重ね着のマントを脱ぎ、手ずから荷を下ろした。
城のような屋敷ではない。命じれば誰かが動くような世界でもない。
だがそれこそが、今のエレナにはふさわしかった。
土を踏みしめ、空を仰ぎ、風の音を聞く。
王都の華やかな大広間では決して味わえなかった、生の実感がそこにはあった。
「まずは屋根ですね、エレナ様!あれじゃ雨が降ったら一晩で水浸しになっちゃいます!」
侍女のミリーが、目を細めながら言う。
その手には、小屋から見つけてきたらしい古びた木槌が握られていた。
「じゃあ私は、倉庫を整理してみる。使えるものがあれば、村の人たちにも分けられるわ」
エレナもまた、迷いなく動き出す。
聖女としての振る舞いも、貴族令嬢としての装いも、この地では意味をなさない。
けれどそれでいいと、そう思えた。
日が昇り、日が落ちる。
屋敷の掃除に明け暮れ、使われていなかった井戸を修理し、畑の土を耕す。
指にできた小さな傷を見て、ミリーは泣きそうな顔をしたが、エレナは微笑んで首を振った。
「いいの。痛みがあるのは、生きている証だから」
その背中に、最初は遠巻きにしていた村人たちが、ひとり、またひとりと集まり始めた。
誰よりも早く畑に立ち、誰よりも遅くまで灯りを消さない令嬢の姿に、彼らは次第に心を動かされていった。
「……あの娘、悪い聖女ってのは嘘だったんだな」
それは、辺境の村上で起きた、小さな汚名返上だった。
大勢に知られるでもなく、報いられる事でもない、赦し。
だが、エレナにとっては、それこそが何よりの贈り物だった。
「明日、村の集会所に屋根を張りたいんだが、手を借りられるか?」
そんなふうに、頼まれごとが増えていった。
エレナの手は傷だらけになり、膝にも土の跡がついた。
それでも彼女は、決して不満を漏らさなかった。
「ありがたいな。……“聖女様”ってのは、えらいもんだ」
冗談交じりに言われたその言葉に、エレナはただ柔らかく笑って首を横に振った。
「私はもう、聖女なんかじゃありません。ただ、ここで暮らすひとりの人間ですよ」
そう言って笑う彼女の顔を、夕暮れの光が優しく照らしていた。
王都で過ごした日々にはなかった、穏やかな時間と確かな温もり。
この村での暮らしは、失ったものを受け入れ、前を向かせてくれるものだった。
◇
──それから、三年の歳月が流れた。
四度の春が巡り、村には新しい命がいくつも生まれた。
かつて朽ちかけていた屋敷は、いまや立派な集会所として再建され、
村人たちはそこを「集いの家」と呼び、誰もが自由に出入りできる憩いの場となっていた。
井戸は澄んだ水を湛え、畑には季節ごとの作物が実る。
子どもたちの笑い声が風に乗って響き、夜には灯りのともる窓が並ぶ。
辺境の小さな村は、いまや誰もが「暮らしたい」と口にするほどに変わっていた。
けれどその中心にいるエレナは、変わらず控えめで、変わらず穏やかだった。
特別扱いを嫌い、名声を求めず、ただ人々の暮らしを支え続けていた。
“聖女”と呼ばれた過去に縛られることもなく、冠を求めることもない。
だがそれでも、村に災いや病が近づいたときは、そっと祈りを捧げることがあった。
村はずれの小高い丘にある祠の前。
朝露の降りる時間、時折、目を閉じて一人静かに両手を組んでいた。
「……どうか、この土地と人々が、穏やかでありますように」
その声は風に溶け、朝靄の中へと吸い込まれていく。
やがて祠から戻ると、村はすでに目覚めの気配に満ちていた。
「エレナ様、朝食の準備できてますよー!」
遠くからミリーが声を張り上げる。
彼女の手には湯気の立つ木盆があり、その上には焼きたてのパンと温かいスープがのっていた。
「ありがとう、ミリー。じゃあ、今日は畑の見回りから始めましょうか」
村人たちは、エレナに“聖女”の名を口にすることはなかった。
だが、風邪が流行れば彼女に薬草の相談をし、子どもが熱を出せば、まず真っ先に“集いの家”の扉を叩く。
不思議なことに、エレナの手を握ってもらうと安心する――と、子どもたちは言った。
その言葉にエレナは少しだけ困ったように笑いながらも、いつも手を差し伸べた。
そうして、今日もまた、何事もない一日が始まろうとしていた。
村の入り口に、見慣れない馬車が現れたのは。
それは粗末なものではなかった。馬の毛並みは手入れが行き届き、車体にはかつて見慣れた王家の紋章がはっきりと刻まれていた。
「……王都から、ですって?」
真っ先に駆けつけたミリーが、息を呑む。
馬車の扉が開き、礼装に身を包んだ若い使者が姿を現した。
背筋を伸ばし、村人たちの前に立つと、彼は大きく息を吸い込む。
「こちらにおられるはずの、元聖女エレナ・アルディネ様に、陛下の言葉をお伝えに参りました!」
その声が村中に響いた瞬間、まるで時が止まったかのようにあたりが静まり返った。
畑の手を止めた者、家の中から顔を出す者、遠巻きにしていた子どもたちまでが足を止める。
「……何かの間違いじゃないかしら」
誰かが小さく呟いた。
だが、エレナだけは微笑んだまま、静かに歩み出る。
「私が、エレナです。……まずは、お話をうかがいましょうか」
そう応じたエレナに、使者は驚いたように目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「……いえ、本日は“お伝え”ではございません。陛下ご自身が、直接こちらへお越しです」
その瞬間、ざわめきが村全体を走り抜けた。
「陛下って……まさか、王太子殿下が……?」
「違うよ。今の陛下ってことは、王様その人が……!」
村人たちの声が騒がしさを増す中、馬車の奥の扉が再び開いた。
中から現れたのは、見覚えのある男だった。黄金の装飾をあしらった上着こそ身につけているものの、王都で見たときよりもその顔は疲れていた。
「……久しいな、エレナ」
低く押し殺した声でそう言ったのは、かつて婚約を破棄した男、王太子アレクシス――いや、今や“国王陛下”となったその人だった。
エレナはわずかに瞬きをし、しかし表情を変えずに一礼する。
「お久しぶりです、陛下。こんな辺境まで直々にとは、光栄ですね」
その言葉に、アレクシスは苦笑とも溜息ともつかぬ顔を浮かべる。
「――おまえの“予言”は、三年かけて、ことごとく現実となった。国は分裂しかけ、民は不安に怯え、信頼していた貴族の多くは離反した。……私は、間違っていた」
その場にいたすべての者が息を呑んだ。
王が、自らの非を認めた。その相手は、三年前に断罪した元婚約者であり、元聖女である一人の女。
「……だから、どうかもう一度、私たちの国に戻ってきてくれないか。今こそ、おまえの力が必要なんだ」
彼の声には確かに悔いが滲んでいた。
だがそれでも、エレナの瞳は揺れなかった。
「私は、あなたの国に戻るつもりはありません」
エレナは、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「三年前、私が発した“予言”に、あなたは耳を傾けるどころか、私を非難しました。それが陛下のご判断であり、国の決定だったのです。ならば、その責任もまた、国として――あなた自身が、引き受けるべきではありませんか?」
あまりにも正論だったため、反論する者など、誰ひとりいなかった。
王の側近たちは言葉を飲み込み、ただ沈黙のまま立ち尽くしていた。
気まずさではない。弁解の余地がないと、誰の目にも明らかだったのだ。
アレクシス自身もまた、視線を伏せた。
拳を握ったまま、言葉を探そうとする素振りさえ見せない。
村の空気は静まり返り、夏の蝉の声だけが、遠くで鳴いていた。
やがてアレクシスは、ひとことも発さずに踵を返す。
その背中を、誰も追わなかった。
馬車が遠ざかり、王の一行が村を去ったあと。
ミリーがぽつりと呟いた。
「……なんだか、夢みたいでしたね。あの人が頭を下げに来る日が、本当に来るなんて」
エレナは小さく笑い、風にそよぐ前髪を指で払った。
エレナは小さく微笑み、遠くに去っていった馬車の影を一瞥する。
「“聖女”の予言は、あくまで現時点での未来にすぎないのよ」
そう言って、ゆっくりと村の方へと歩き出す。
「国が変わる余地はあった。民も、王も……誰だって選び直すことはできたはず。それをしなかったのは、あの人自身の怠慢。彼の選択の結果です」
ミリーはしばらく黙ってその背中を見つめていたが、やがて足早に追いつき、並んで歩き出す。
二人の背中に、村の子どもたちの笑い声が遠くから重なっていく。
それこそが、彼女の選んだ未来だった。
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前書きの通り、短期連載始めてます。 9話構成(完結済)です!