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老燕行

作者: 逢巳花堂

 草原をゆく馬車は、時おり石や窪みに車輪をとられ、その度に牽いている檻が音を立てて揺れ動いた。


 檻の中にいる五名の男女は、体をぐらつかせながらも、声を立てない。ちょっとでも声を発すれば、たちまち馬に乗っている盗賊二人が馬車を止め、猛烈な折檻を加えてくるからだ。


 それぞれ、異なる場所で盗賊に捕らわれた、年齢もまちまちな男女。両手足を縄で縛られて、逃げようにも逃げられない。


(どの道、私は助からない運命だったんだ)


 囚われの五名のうち、最も年若い少女である玲燕は、己の報われない境遇を呪いながら、うつむいた。


 玲燕は、彼女が生まれるより何十年も前に滅びた王朝の末裔である。その王朝は、北方の異民族国家によって攻め滅ぼされた。皇族はみな北へと連行され、悲惨な末路を辿った、と祖母から昔語りで聞いている。


 ただ、皇女の一人であった玲燕の祖母は、異民族に連行される道中で、運良く逃げ延びることが出来たそうだ。


 そうして辿り着いた隠れ里のような村で、親切にも匿ってもらい、以後はその地に居を定めて、やがて夫を得て、家庭を築き上げていったという。


 玲燕が一〇歳の時に、祖母は亡くなり、その王朝の凄惨な歴史を語る者は誰もいなくなった。


 玲燕の母は、祖母を埋葬した後、


「お母様がいなくなって、せいせいしたわ。ちっちゃい頃から毎日毎日暗い話を聞かされて、うんざりしていたの」


 と笑いながら言っていたものの、その両目には涙が滲んでいた。そのうち嗚咽を漏らし始めた。玲燕の父は、母の両肩にそっと手を触れていた。


 祖母は、家族だけでなく、村の人々から愛されていた。


 気品に溢れていながらも、どこか親しみやすい雰囲気があり、また天真爛漫なところもあった。誰もが祖母の温かさ、明るさに救われていた。だから、暗い昔語りだけはみんな嫌いだったが、愚痴のようなものと思って受け流していた。


 唯一、玲燕が好きだった話がある。


 それはかつての王朝の都の話。


 祖母の口から懐かしそうに語られる王都の様子は、まるで御伽噺に出てくるような華やかさ、輝かしさを備えたものであり、にわかには信じられない、夢のような場所だった。


 その王都の話をする時、必ず祖母はこの言葉で締めくくった。


「あの頃の私は、自分一人だけで王宮から外へと出られる身ではなかった。それでも、私は自由だった」


 何度も王都の話を聞いているうちに、「自由」という言葉が、玲燕の胸に刻みこまれた。


 言葉の意味はわかる。だけど、具体的にどういうことが「自由」というものなのか、玲燕にはまったくわからなかった。


 時が経ち、玲燕が一六になるまで、平和で穏やかな日々は続いていた。


 だが、ある日突然、村は焼け落ちた。


 真夜中に異民族の軍勢が攻め込んできたのだ。


 わけもわからぬまま、次々と惨殺されてゆく村人達。玲燕の父や母も呆気なく命を落とした。


 命からがら脱出した玲燕は、とにかく生き延びようと、必死になって逃げ続けた。


 そうして、川の渡しまで辿り着き、どうやって向こう岸まで渡ろうかと思案しているところで、盗賊に見つかって、捕まってしまったのだ。


 で、檻の中に入れられて、現在に至る。


 馬車は盗賊の砦へと向かっているようだ。これからどうなるのか何も聞いていないが、予想は着く。年若い娘が盗賊に捕まったら、どんな扱いを受けるか、答えは一つしか無い。


「うっ・・・・・・」


 嗚咽が漏れそうになるのを、必死で我慢する。道中、一人の男が大声で命乞いしたせいで、盗賊に殺されてしまった。同じ目に遭いたくなければ、声を発してはならない。


 涙がこぼれ落ちる。膝の上へと、ポタポタと。


「泣きたい時は泣けばいい」


 突然、目の前に座っている老人男性が、みんながギョッとして顔を上げるほどの声量で、玲燕に声をかけてきた。


「気持ちが昂ぶれば叫べばいい。心が浮き立つなら歓喜の声を上げればいい。人が心の底から放つ声を縛る法など、この世のどこにもありはしない。人は、自由に声を出していいんだ」


 他の者達は、みんな口に指を当てて、静かにしろと仕草で示している。馬車馬を駆っている盗賊二人は、当然老人の声が聞こえているだろうが、まだ何も言ってこない。老人を止めるなら、今のうちしかない。


 一方で、玲燕は、逆に盗賊達に対する恐れを忘れて、自らもまた声を発した。


「『自由』・・・・・・?」


 見も知らぬ老人から、まさかその言葉を聞くとは思ってもいなかった。祖母が口にしていた「自由」。それが何かを、この老人は知っているというのだろうか。


「少なくとも、今の我々に、自由は無いな」

「教えて。私の祖母は、昔東京開封府というところに住んでいたの。そこでは自由があったと話していた。私はまだ自由が何かを知らないの。お爺さんは、自由を知っているの?」

「もちろん知っているとも。私は常に自由を求めている」

「じゃあ、お爺さんは、まだ自由を手に入れていないのね」

「お嬢さん。その前に、君は僕のことを『お爺さん』と呼んでいる。確かにここ最近は肉体の衰えを感じる。しかし心まで老いたつもりは無い。『お爺さん』と呼ばれるのは、寂しいものがあるなあ。せめて、『老燕』と呼んでくれないかな」

「『老燕』。老いた燕のこと?」

「ああそうだ。さて、その老燕から、お嬢さんに伺いたいのだが、僕は君のことを何て呼べばいい?」

「とても、これって不思議な話なんだけど」

「ふむ」

「私は玲燕と言うの。美しい燕、という意味だって、母から聞いている。あなたと同じ。燕、が一字入っているわ」

「なるほど。これは天命なのかもしれないな。君と僕、玲燕と老燕、二人の燕が出会うのは」


 天命、という言葉を口にする時、なぜか老燕は苦々しげな表情を浮かべた。


 と、その時、ついに盗賊達が怒鳴り声を上げた。


「さっきから後ろでごちゃごちゃ、うるせえぞ!」

「お前らも首から上を刎ね飛ばされたいのか!」


 これは警告だ。もう一言でも声を発すれば、馬車を止めて、玲燕と老燕に危害を加えてくることだろう。


 さすがに怯えて、口をつぐんだ玲燕に対し、老燕はにこやかな笑みを向けてきた。


「大丈夫だよ。彼らに僕らを殺すことはできない」

「どうして、そう思うの?」

「僕らは戦利品だからさ。察するに、人買いに買い取ってもらうか、労働力としてこき使うか、いずれにせよ生きていてこそ価値がある。最初に一人殺したのは見せしめだ。もうこれ以上無駄な殺生を働くことはあるまい」


 と言ってから、老燕は挑発的な目で、盗賊達の方を見やった。


 盗賊達の顔は怒りで真っ赤になった。


「なめんなよ、ジジイ!」

「てめえだけでも殺してやろうか!」


 不意に、老燕は立ち上がった。


「え・・・・・・?」


 全員、手足を縛られているから、立つことなんて出来ないはずだ。ところが、老燕は両手足の縄をいとも簡単に外し、胸を張って堂々と直立したのである。


「な? ななななな? どうやって外しやがった!」


 盗賊達は狼狽する。


 老燕は涼しげな笑顔を浮かべたまま、両腕を広げて、高らかに声を放った。


「ちょうど良い、何も遊興が無くて、君らも退屈していたことだろう。ここでひとつ、私にこの縄外しの技を教えてくれた、ある大盗賊を讃える歌でも披露してあげよう。題して『鼓上蚤』」


 誰もが呆気に取られている中、老燕の歌が始まった。


 風に乗り、馬車から溢れ出た歌声は、草原一帯に澄んだ音色となってこだまする。


 骨軟かにして身躯健かに 眉濃くして眼目鮮やかなり

 形容は怪族の如く 行走は飛仙に似る

 夜静かにして墻を穿って過ぎ 更深くして奥を遶って懸る

 偸営高手の客 鼓上蚤の時遷


「ええい! もう我慢ならねえ!」


 ついに盗賊達は馬車を止め、檻の扉を開けてきた。中に入ってきて、老燕に向かって剣先を突きつける。


「慌てない、慌てない」


 老燕は少しも動じることなく、何気なく前へと進み出た。


 次の瞬間、盗賊の一人がひっくり返り、檻の床へと叩きつけられた。


(投げた!?)


 玲燕は我が目を疑った。


 盗賊と老燕の間合は、少なくとも剣一本分と、腕一本分は離れていた。老燕には、刃をかいくぐって、相手の懐に潜りこむことなんて出来なかったはずだ。


 それなのに、気が付けば、盗賊の一人は床に倒れてのたうち回っている。


「な、なんなんだ、てめえは!」


 もう一人の盗賊は、声だけは張り上げたが、すっかり腰が引けてしまっている。これでは結果は見るまでもなかった。


 檻の中に、疾風が巻き起こった。


 と思った時には、もう一人の盗賊も床に倒されてしまい、老燕によって足蹴にされていた。


「せめて彼我の実力差を見極められるくらいには精進した方が身のためだね。今後のために言っておくと」

「こ、殺さないで」

「安心してくれ。僕も無益な殺生はいやなんだ。ただし」


 と断ってから、老燕はしゃがみ込み、盗賊に語りかけた。


「案内してもらおうか。君達の頭領のもとへ」

「お、親分のところへ?」

「構わないだろう。もともと僕らを連れていく予定だったんだ。何も問題はないはずだ。他の人達も解放してもらいたいところだが、あいにくこの近くには村もありそうもない」

「あ、ああ、そうだ、ここら辺は草ばかり生えていて、人っ子一人見かけねえ」

「だったら、進み続けるしかない。そして道を知っているのは君達だけだ」


 これには、囚われの者達も戸惑った。老燕の活躍で、もしかしたら解放されるかもしれない、と希望を抱いていたというのに、彼はなぜか盗賊達の頭領のところへわざわざ行こうとしている。


 だけど、周りを見渡せば、遙か彼方まで草原が続いている。集落らしきものは見えない。ここで置いてかれたら、野垂れ死んでしまう可能性は高い。


 みな、老燕とともに、盗賊達の頭領のところへ行くしかなかった。


 結局は元通り、盗賊二人が馬を走らせ、五人が馬車で連れていかれる形となった。しかしさっきまでとは状況は全然違う。老燕は、盗賊二人をまるで従者のように扱い、盗賊達も逆らえずにいる。囚われの身だった五人全員、手足は解放されており、会話も好きなように出来た。


「あなたは、何者なの?」


 月明かりに照らされた夜の草原を、休むことなく馬車は進み続けている。明朝にはいよいよ盗賊達の砦に着けるそうだ。そこまで来てから、ようやく玲燕は、老燕に聞きたかったことを問いかけることが出来た。


 歳はいくつなのだろうか。老いてはいるが、若々しい空気感を保っている。白髪を染め、白い口髭を全て剃れば、まだ四〇代には見えると思う。だが、その何事にも達観したような佇まいからは、相当長い年月の経験の積み重ねを感じさせる。


 また、あれだけの武勇を誇りながら、なぜ盗賊達に捕まっていたのか、その理由もよくわからない。頭領に会いたがっているのも謎だ。


「何者、か。僕は何者だろうね」

「変なの。自分でも自分のことがわからないの?」

「誰もがそうさ。自分は何であるのか、何のために生きているのか、そのことを知らないまま歳を重ねていく。たとえ追究したとしても、その答えが出る前に命は果てる」

「私は、自分が何者かを知っている」

「ほう。面白いな。ぜひ教えてくれ」

「祖母は、大宋国の後宮にいた人間よ」


 たちまち老燕の表情が変化した。先ほどまで笑顔でいたのが、急に眉根を寄せて、真剣な眼差しになっている。


「玲燕。君は、宋の王家の末裔なのか」

「ええ」


 かつて中華の地を支配していた大宋国。しかしながら、内政と外交に悪手を重ね、ついには北方民族が樹立した王朝、金国によって攻め滅ぼされてしまった。


 以来、この中華の地は金国の支配下にある。


 だから、絶対に自分の一族のことを他人に知られてはならない、教えてはいけない、と祖母や母から何度も言い聞かされてきた。


 その言いつけを破り、玲燕は、つい老燕に自分の祖母のことを話してしまった。どんな反応が返ってくるかを確かめたかったこともある。


「なるほど。それはさぞ大変な生活をしていたんだろうね。ところで、僕は君が何者か、を聞いたのだが」

「いま答えたわ」

「それは君の祖母の話だ。君自身のことではない。君は、何者なんだ?」

「私? 私は・・・・・・」


 玲燕は答えに窮してしまった。自分自身が何者か、と問われると、答えるのが難しい。


「君は、自由について尋ねていたね」

「え? う、うん」


 なぜ急にその話題に戻るのかと、玲燕は困惑する。


「自由とは、自分が何者であるかを知ることだ」


 それだけ言うと、老燕は目を閉じて、檻の中で横たわった。馬車の揺れを気にすることもなく、ゆったりとしている。


「やはり歳だな。先ほどの一戦で、くたびれてしまったようだ。少し休ませてもらおう。砦に着いたら起こしてくれ」

「え? 老燕、ちょっと、いきなりそんなこと言われても」


 玲燕は慌てて老燕に近寄ったが、早くも老燕は寝息を立て始めていた。


(この人は、いったいどういう人なんだろう・・・・・・?)


 不思議な老人だ。見た目は白髪白髯のお爺さんだが、老いを感じさせない。かといって、若々しいかというと、そうとも思えない。年齢をまるで感じさせない。


「自分は何者なのか・・・・・・かあ」


 それを知ることが、自由そのものであると、老燕は語った。


 なぜそう断言するのか。どういった人生を送れば、そのような結論が出るのか。玲燕にはまるで想像もつかなかった。



 ☆ ☆ ☆



 翌朝、日が昇り始める頃になり、馬車は盗賊達の砦へと辿り着いた。


 緑深い山の中に、木の柵が張り巡らされ、そこかしこに物見櫓が築かれている。山中という地理的条件を活かした天然の要害だ。


 一際高くて頑丈に作られている木の柵の前で、馬車は止まった。正面には門がある。


「戻ってきたか! 何人連れてきた!」


 物見櫓の上から、見張りの声が降ってきた。


「ご、五人だ」


 本当は老燕に動かされているという後ろめたさからか、馬上の盗賊は上ずった声を上げた。


 見張りは眉をひそめた。


「どうした? 様子が変だぞ」

「な、なんでもねえ」

「何か隠しごとでもあるんじゃないだろうな」

「天に替わって道を行う。そ、それが、俺達の信条だろ」


 しばしの間があった。もしかして気付かれたか、と玲燕は身を強張らせる。


「・・・・・・いいだろう」


 通せ! と見張りは声を上げた。


 鈍く重い音を立てて、門は開かれた。馬車は砦の奥へと向かって進み始める。


「老燕、起きて。着いたよ。砦に着いた――」


 まだ老燕が眠っていると思い、玲燕はそれとなく、横わたっている老燕の体に触れようとしたが、手は空中を滑った。


 いつの間にか、老燕は身を起こしていた。


「ちょっと、起きているなら、起きている、って――」

「『天に替わって道を行う』。噂は本当だったか」


 若干の怒気をはらんだ瞳で、老燕は馬車の行く先を睨んでいる。


「どこの馬鹿だ。そんなカビの生えた言葉をいまだに使う奴は」


 突然、ガクンと檻が揺れた。


 馬車が動きを止めたのだ。


「うわあああ」


 二人の盗賊は馬から飛び降り、逃げていく。代わりに、オオオと鬨の声を上げ、百名近い盗賊達が砦の各所から押し寄せてくる。砦の奥深くに入りこんだところで、玲燕達は囲まれてしまった。


「も、もうおしまいだあ!」

「あんたあ!」


 家族で捕まったという、中年夫婦と、男側の母親という老婆の三人が、檻の中心で身を寄せ合い、お互いを抱き合いながらガタガタと震えている。


 玲燕は、老燕の横顔を見つめた。実に落ち着いた様子で、周りの盗賊達を微塵も恐れていない。


(この人を信用するしかない)


 覚悟を決めた。自分にやれることは何も無い。だったら、老燕に全て任せるしかない。


「いい度胸してやがるな、爺さん」


 低く重い、圧のある声が、正面から飛んできた。


 官服に身を包んだ、ザンバラ髪の壮年の男が、馬に乗り、馬車へ向かって近付いてくる。


「縄を解いて、俺の部下二人を投げ飛ばしたんだって? やるじゃねえか。にしても、そのまま逃げればよかったのに、わざわざ自分から飛び込んでくるとは、いったい何を企んでやがる?」

「君が頭領か」

「ハハハ、人を見る目はあるじゃねえか。その通り、俺様がこの赤竜山の頭領だ。人呼んで万里箭の潘仁とは俺様のことよ!」


 潘仁が弓を持った手を高く掲げると、周りの盗賊達は一斉に雄叫びを上げた。あまりの声量に、山全体がビリビリと振動する。そして潘仁が手を下げるのとともに、盗賊達はピタリと声を上げるのをやめた。


「で? 爺さん。てめえは何者だ? 金のクソ野郎か?」

「僕が金国の人間に見えるかい?」

「いいや。だから尋ねてんだよ。部下どもから話を聞いたが、ろくな抵抗もしないで捕まったそうじゃねえか。そこがさっぱりわかんねえ」

「君は見たところ、役人崩れのようだね」


 潘仁の質問には一切答えず、逆に相手のことを値踏みするようにジロジロと見回して、老燕は自分の見立てを言い放った。


 沈黙が訪れた。潘仁は険しい表情で、老燕を睨んでいる。


「その官服。これほどまでに統率の取れた集団。どう見ても普通の男ではない。大方、義憤のために人を殺して、落草したとか、まあそんなところだろう」

「・・・・・・なぜわかった」

「大昔に、君と同じような連中とつるんでいたものでね。わかるんだよ、ひと目見れば」


 老燕は馬車から降りた。無防備にも、潘仁に向かって歩み寄っていく。盗賊達は警戒して弓矢を構えるが、潘仁は手を振る仕草で、攻撃態勢を解くよう指示を出した。盗賊達は互いに顔を見合わせながら、渋々と弓矢を構えた両手を下ろした。


 老燕と潘仁、両者とも正面から向かい合う。どちらも堂々たるもの、一切気後れした様子を見せない。


「てめえの名を聞いていなかったな」

「老燕、とだけ呼んでくれ」

「よしわかった。老燕、俺はてめえが気に入った。幹部の一席に加えてやってもいいぞ」


 盗賊達がどよめいた。唐突に老燕を仲間に誘ったばかりか、幹部にするとまで、潘仁は宣言したのだ。とりわけ、老燕に叩きのめされた二人の盗賊は文句の声を上げた。


「頭領! そりゃないですよ!」

「俺達はそいつに酷い目に遭わされたんだ! 納得いかねえ!」

「黙りやがれッ! てめえらが弱いのが悪いんだろうがッ!」


 潘仁の大喝に、二人の盗賊は押し黙った。


 そんなやり取りを見守りながら、老燕は肩をすくめた。


「僕が、君達の仲間に、ね」

「おおよ。悪いことは言わねえ。外の世界で生きるよりも、この山で暮らす方が居心地はいいぜ」

「なぜそう言い切れる」

「ここには『自由』があるからだ!」


 潘仁は両腕をめいっぱい広げて、高らかに叫んだ。


「徴税で苦しむことも無い! 労役に駆り出されることも無い! 異民族どもに威張られることも無い! この山にいる限り、俺達は自由に生きられるんだよ!」

「それのどこが自由なのかな」


 老燕は嘲笑した。


「山から出ることはかなわない。物資も人手も足りないから外へ奪いに行くしかない。何よりも、いつ官軍に攻め込まれるか、怯えて暮らさなければいけない。さて、どこに自由がある?」

「天の導きがある!」


 潘仁は右拳を天に向かって突き上げた。


 その動きに合わせて、盗賊達が何十人も力を合わせて、巨大な旗を高々と掲げた。その旗には四つの文字が記されている。


 替天行道。


「老燕よ、お前の歳ならあるいは聞いたこともあるかもしれんな! かつてこの中華を宋が支配していた頃、腐りきった国に立ち向かった義賊達の伝説を!」

「梁山泊・・・・・・」

「そうだ! 梁山泊の英雄達だ! 俺は彼らの生き様に憧れを抱き、この旗を掲げている! 天に替わって道を行う! 大義のために生き、大義のために死ぬ! それが俺の選んだ道だ!」

「天命とやらに縛られて生きる、そんな生き方を、僕は自由とは思わないな」

「知った風な口をききやがって」


 吐き捨てるように潘仁は言うと、馬上から弓矢を構えた。


「俺達の仲間にならないっていうのなら、仕方がねえ。ここで死んでもらおうか」

「やめて!」


 その瞬間、なりゆきを見守っていた玲燕は馬車から飛び出し、老燕と潘仁の間に入ると、両腕を広げて、老燕のことを守るように立ち塞がった。


 なぜこんな行動を取ったのか、自分でもよくわからなかった。


 ただ、老燕をここで死なせるわけにはいかない、という想いだけが彼女のことを突き動かしていた。


「何を考えてやがる。そこをどけ」

「い、いやよ」

「てめえには使い道がある。出来れば殺したくはねえ」

「そんなこと言っている暇があったら、さっさと殺せばいいじゃない!」


 命が惜しくない、と思えるのが不思議だった。まるで自分以外の何者かに、体を操られているような感覚だった。


「・・・・・・ちっ」


 潘仁は舌打ちすると、弓矢を下ろした。


「面倒だが、こうなりゃ、勝負と行こう」

「勝負?」


 玲燕は首を傾げた。それに対して、潘仁はフンと鼻を鳴らす。


「てめえは関係ねえよ。後ろにいる爺さんに言っているんだ」


 背後から、玲燕は肩を叩かれた。横をすり抜けて、老燕が前へと進み出てくる。


「ありがとう。いい流れになってきた」


 横を通る時に、玲燕の耳元に、老燕は囁きかけてきた。


 その声音の、実に艶なること。


(ああ、そうか。私はもしかすると・・・・・・)


 初めて話しかけられた時から、玲燕の中にその兆候はあったが、この瞬間まで気が付いていなかった。


 老燕に対して、男性としての魅力を感じていることを。


 祖父とその孫ほどの歳の差があるにもかかわらず、玲燕は老燕から目が離せなくなっていた。


 何が心を惹くのか? 声音なのか、端整な顔立ちなのか、語り口の軽妙さなのか、常に崩れない飄々とした態度なのか。


(違う。私が惹かれているのは――)


 老燕が何度も口にしている「自由」という言葉。


 その二文字に込められた音の響きは、この世界の全ての苦しみや悲しみから魂を解放してくれるような、温かな安らぎがある。ただし、それは老燕が言葉にしてこそ有効なものであり、潘仁が語る「自由」はどこか違うもののように感じられた。


「さて、潘仁君。どういった勝負を所望するのかな」

「簡単だ。俺とお前で武芸の腕を競い合う。俺が勝てば、お前は俺達の仲間になるか殺されるか、だ。しかし、お前が勝てば、ここから解放してやろう」

「で、その競い合う方法とは?」

「弓だ」


 潘仁はニヤリと笑った。そして、いきなり天に向かって弓を構えたかと思うと、目にも止まらぬ速さで矢をつがえ、撃ち放った。


 上空から鳥の甲高い悲鳴が聞こえ、直後、矢の刺さった雁が墜落してきた。しかも、一本の矢に二羽も射貫かれている。


「おおお、さすが頭領だ!」

「あんな高い所を飛んでいる雁を射貫くばかりか、同時に二羽も射落とすなんて!」


 盗賊達は歓声を上げた。やがてみんなで「万里箭! 万里箭!」と大合唱を始めた。


「なるほど。万里の先をも射貫くから、『万里箭』か」

「その通り。俺を超える弓使いなんてこの世にいねえさ。俺は弓術を極めたんだよ。もしも他に弓の達人がいるとしたら、かの梁山泊の英雄豪傑くらいなもんだろうて」

「つまり、自分の得意分野で勝負をしようというわけか。思ったよりも、せこい男だな」

「ほざけ! 本来なら有無を言わさず殺しているところを、寛大な心で譲歩してやっているんだ! てめえに条件のことで文句を言われる筋合いはねえんだよ!」


 ふう、と老燕はため息をついた。潘仁に射殺された二羽の雁のそばへと寄り、しゃがみ込んで、その亡骸を撫でてやる。


「どうしたどうした? たかが雁だろうが。お前もその肉くらい食ったことがあるだろ。何をそんなに悲しむ必要がある」


 潘仁はハハハと笑った。


「・・・・・・雁には雁の世界がある」

「あん? なんだって?」

「この鳥は仁義礼智信の五常を兼ね備えている。群れ集って飛びながら、互いに譲り合い、序列を正し、空中から死んだ仲間を見た時には皆で哀悼の意を表して鳴く」


 玲燕は耳を澄ませてみた。確かに、老燕の言う通り、雁の群れは去らずに上空を旋回しながら、悲しげに鳴き声を上げている。


「空を行く雁の群れは、ちょうど、君と、君の仲間達の関係のようなものだ。親は違えども、兄弟のような仲だろう? もしも兄弟が二人殺されたら、君はどのような気持ちになる?」


 それから老燕は続けて歌を歌い始めた。


 山嶺は崎嶇として水は渺茫たり 空に横たわる雁陣三行

 忽然として双飛の伴を失脚す 月冷かに風清くまた断腸


「な、なんだあ?」


 いきなりの歌に、潘仁は面食らっている。だが、透き通った歌声に載せて流れてくる、その詩のあまりの流麗さに、つい聞き惚れてしまった様子だ。


 突然、老燕は大地を両脚でしっかりと踏み締め、仁王立ちした。その体勢から、天を見上げ、深く息を吸う。


 何も武器を持っていない。にもかかわらず、まるで弓矢を両手で構えるかのように、腕を上げて、上空に向かって弦を引く仕草を始めた。


「疾ッ!」


 気合とともに、老燕は矢を放つ動きをした。


 たちまち、上空から雁の群れが一斉に悲鳴を上げるのが聞こえてきた。次の瞬間、まるで雨の如く、何十羽もの雁が、次々と老燕の周りに力を失って落ちてきた。


 それはあっという間の出来事だった。


 もはや空を飛ぶ雁は一羽もいない。皆、老燕を囲むようにして、息を失って倒れている。


「弓を極めた、と言ったね」

「あ・・・・・・うああ・・・・・・」


 潘仁は突然、馬上から転げ落ちるように地面へと下りると、頭を大地にこすりつけんばかりに土下座を始めた。


「申し訳ありませんでした!」

「ええええ、頭領ォ!?」


 頭領のあんまりな姿を見て、盗賊達は驚きの声を上げた。だが、潘仁に「てめえらも頭下げろ!」と怒鳴られて、慌ててみんなその場で土下座した。


「極める、とはこういうことを言うんだよ、潘仁君」

「き、聞いたことがある・・・・・・真の弓術の達人は、弓と矢を使うことなく、発する気だけで、相手を射貫くことが出来ると・・・・・・ま、まさか、あんたが、その達人とは・・・・・・」

「矢を射れば命を刈り取る。射なければ何も死なない。ならばその道を極めようと思った。ただ、それだけだ」


 老燕は片足を上げ、地面を思いきり踏み叩いた。


 途端に、死んだように倒れていた雁達が、揃って息を吹き返し、群れをなして空へと舞い飛び始めた。


「殺して、いなかったのか」


 潘仁は目を丸くした。


「さて、勝負は僕の勝ちだ。解放ついでに、頼みを聞いてもらおうか。馬、それから三日分の食糧と水も用意してほしい」

「ま、待ってくれ。後生だ。俺の代わりに頭領をやってくれ」

「断る」

「頼む! ここを守り切るのは、俺だけでは限界がある。もっと素質のあるやつが必要なんだ! あんたみたいな達人なら、きっと上手くいく!」

「自由のない生き方に興味はないんだ、あいにくね」


 老燕は、他の盗賊に頼んで、四頭の馬と、五人分の食糧、水を持ってこさせた。


 荷を積んで、立ち去ろうとする老燕の背後から、潘仁は追いすがるように声をかけた。

「せめて教えてくれ! どうしてあんたは俺達の所へ来た!? わざと捕まったんだろ! 理由を、教えてくれ!」


 馬にまたがった老燕は、ほほ笑みとともに振り返った。


「随分と懐かしい言葉を旗に掲げている集団が、この山にいると聞いたものでね。ちょっと会ってみたくなったんだよ」

「懐かしい、言葉・・・・・・?」


 潘仁は首を傾げ、それから、部下が掲げている旗を見た。


 旗には「替天行道」と書かれている。かつて宋王朝の時代に反乱を起こした義賊達、梁山泊において謳われていた言葉。


 その時、ようやく潘仁は気が付いた。慌てて老燕の方を向き直ったが、すでに馬に乗って走り去った後だった。



 ☆ ☆ ☆



 玲燕と老燕が、一緒に捕らわれていた親子三人を近くの村へと送り届けた頃には、日はすっかり落ちていた。


「君もここに留まったほうがいい」


 夜にもかかわらず、一人で旅立とうとする老燕に対して、玲燕は頬をふくらませて、こう言った。


「いやよ。あなたに着いていく」

「無茶を言うな。僕はああいった荒事に巻きこまれやすい性格なんだ。そばにいたら、命がいくつあっても足りない」

「あの時、話の途中で、あなたは寝ちゃったじゃない」

「うん? 何を話していたっけ?」

「『自由』のことよ。自由とは自分が何者であるかを知ること、としか教えてくれなかったわ。それだけじゃ全然わからない」

「ああ・・・・・・そうだな、確かに・・・・・・」


 老燕は頭を掻いた。


「ならば着いてくるんだ。道中で話そう」


 月明かりで青白く照らされた平原を、二頭の馬が並んで進んでゆく。その上に乗るのは、自由を知るがいまだ自由を得られていない老人と、自由とは何かを知りたい少女、の二人。


「色々な地を旅して回った。かつての仲間の手伝いで暹羅国まで渡ったこともある。だけど、どこへ行っても、自由は無かった。僕は、ただ役割を演じていただけ。本当の僕がどこにいるのか、どこにあるのかは、いまだ見つけられていない」


 老燕は語る。その言葉に玲燕は耳を傾けたが、結局、言いたいことはわかるようでわからなかった。


「あーもう! 難しい言い回ししないでよ!」


 とうとう玲燕は耐えきれなくなった。


「だいたい、あなたは自分の話を全然しないじゃない! 昔は何をやっていたとか、どこで生まれたとか! そういうことを自然に話せもしないで、何が『本当の僕』よ!」


 玲燕に文句を言われて、老燕はハッとした表情になった。


「僕は、まだ君に、自分のことを話していなかったのかい?」

「まったく、ちっとも、これっぽっちも聞いてない」

「あはは、そういうことか。それは確かによくないな。自分の過去のことも話せずに、本当の自分も何も無い」

「別に、話したくなかったら、話さなくてもいいけど」

「ううん、ぜひ語らせてほしい。僕がどのような人生を送ってきたか、その物語を」


 そして、老燕は馬上で居住まいを正すと、玲燕のことを真正面から見据えた。


「まず名乗らせてもらおう。僕の名は燕青。かつて宋国に反旗を翻した梁山泊において、第三六位の頭領に就いていた――」


 やがて始まるは、水のほとりの物語。


 かつて浪子燕青と呼ばれた男の、自由を求める最後の旅が、いま幕を開けようとしていた。

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