シエルとアミー
膨大な魔素量を誇っていたシエルの魔素が全て集まるのには長い時間が掛かった。
間違っても自身の魔素が他者によって使われてしまわないよう、そんな事が可能であるのかは分からないが、念の為人の生存圏より遥か上空で、魔素だけの存在となっていても明瞭な思考を持つシエルは、ただただ魔素が集まるのを待ち続けていた。
それは数年か数十年か、とにかく長い時間をただの粒子としてシエルは過ごした。
他の者はいったいどうしているのでしょうか。きっと成功率はあまり高くないでしょうが……。
そんな事ばかりをもう既に幾千幾万と考えていた。
シエルの仮定としては、魔素に思考を移す事さえ出来れば、人としての意識が残っているのなら、あとは自分の魔素が集まり次第、無意識下の『人であるというアイデンティティ』の影響で自然と魔素によって肉体が再構築されるはずである。
それは以前からシエル自身が、肉体は生物的行動を可能とするための機能をもつ飾りにすぎず、思考や身体の動作等、生命維持において重要な役割は全て魔素が行っていた。という経験則から導き出した仮説である。
恐らく間違いはない。多少強引な方法ではあるが、致命的な間違いは犯していないはずなのだ。
それは自身の第六感がそう告げている。第六感はあらゆる本質を把握する。
しかしそれでも不安は拭えない。
それというのもシエルが世界を変えてから、ずっと一人分の魔素が常にシエルにつき纏っているからだ。
なぜ自身につき纏うのか、なぜ肉体を生成しないのか、テレパスを使い思念を送ってみても返事は一向に返ってはこなかった。シエルから見てもこの魔素には意識の定着はなされている。
そもそも何処へ行こうともシエルの後を着いてくるあたり、確実にただの魔素ではない事は証明されている。
しかし今日を持ってそんな疑問と不安の日々とはおさらばだ。
ようやく膨大なシエルの魔素が集まりきったのだ。
他の者であれば、ここから更に無意識の肉体生成にかなりの時間を費やすのかも知れないが、シエルは違った。
以前から魔素を循環しているなどという生ぬるい表現ではなく、魔素そのものと呼んでいい程、膨大な魔素を定着させた魔素の塊であったのだから、肉体のあるなしはシエルにとって、特にこれといった障害はない。
すぐに人気のなさそうな森へと移動し、そこで以前の姿形そのままの自身の肉体を生成する。
全ての感覚に異常はない。久々に手足を使い、身体を動かすが、数年、もしくは数十年単位のブランクは感じさせないくらいに身体の調子がいい。
それはきっとこの世界が、前の世界よりも、魔素に溢れているからだろう。
「いまのところ、何も問題ありませんね」
身体を隅々まで見ようとあらゆるポーズで視線を向けるが、そもそも視覚情報も魔素で行えているので彼女に死角と呼べるものは存在しないのだが、それでも『生物としての普通の行動を取る事』にこそ意義があると彼女は考えている。
「さて、次は衣服が必要ですね」
森の中、中性的な美しい顔立ちの少女。黒いペンキを上から被ったような白銀の髪に、双眸は蒼く輝く宝石のような輝きを放ち、瞳孔のみが妖しい紅色をしている。
瑕疵一つない玉肌な白い肌は今は完全に顕になっているが、もしその存在を見た物がいたとしても、情欲を掻き立てるような事はないだろう。
その余りにも浮世離れした神秘的な姿では、その者が跪く事すらありえるかも知れない。
「ああっ……! 四番様…………美しいです……」
シエルの眼前には、片膝を付き両手を組む、裸の少女が一人。
突如として現れたその少女の正体にシエルは察しがついていた。
初めこそ鬱陶しいと思っていたものの、余りにも長い時間共に在ったためか今では多少の情すら抱いている相手。
ずっとシエルにつき纏っていた魔素の少女であろう。
「貴女には色々と言いたい事はあるのですが、まずは衣服です。私に羞恥心というものはありませんが、本来は人が誰しも持つもの。ですので私も貴女もまずは服の生成です」
「はい、四番様。かしこまりました……ところで衣服の生成とは、どのようにすればいいのでしょうか……?」
肉体は無意識であろうとも、意識的であろうとも、『必要である』と考えたからこそ作れたものの、その少女は魔素を使って、意図的に何かを生成するだけの技量は持ち合わせていなかった。
「仕方ないですね……」
困った子です、と言わんばかりの態度で、シエルはすぐに自身と少女の衣服を肌の上に生成した。
いちいち着替えるという時間が非効率的だと感じたため、シエルはそのように行ったが、それは魔素の性質変化に加えて、相手の採寸、ミリ単位で肌の上に元々着ていたかのように生成するのは、まさに神業にも等しい繊細な技術がなければ出来ない事である。
例えば少しでも少女の採寸を測りかねたり、生成先をミリ単位で狂わせてしまった場合、少女の中に衣服が同化してしまい、衣服と少女の合成獣が生まれかねない。
二人が着用したのは箱庭で大人達が着ていたのを参考にした、白いYシャツに黒ネクタイのスーツ姿に、黒いロングコート。
以前の世界で、周囲に溶け込む為の術という教育を受けていたため、皆基本的にファッションセンスは良く、あらゆる状況に対応できるその場に適した衣装選びは得意である。
だからこそ、普遍的な衣装であるスーツを選んだに過ぎない。
ここが森である事を加味してもスーツ姿であれば、何らかの仕事で来ているという言い訳ができる。
登山姿や、山歩きのための衣装を選んで誰かと遭遇した場合、もしここが何らかの重要な土地だった場合、取られる選択肢は限られてくる。
「四番様のスーツ姿……ッ! とても美しいですッ!」
「………………それは、どうもありがとうございます」
この子本当に洗脳されていたんですよね? シエルがそう考えるのも無理はなく、今眼前の少女はシエルの姿を見て、興奮気味に祈りを捧げその瞳には涙を蓄えている。
「それでは貴女には聞きたい事が沢山ありますので、お話致しましょう」
「はいっ! 四番様とお話できる機会――」
少女の捲し立てるような口調での話を、シエルは手のひらを向けて静止させた。
「私の事は以後シエルと。その呼称はもう不要なものですので。1246番、貴女もなにか名前をつければ良いのでは?」
「名前……ですか?」
「ええ、私達魔素の子は、秘密裏にですが互いに名前をつけて呼んでいました。人間としての自我を保つためという意味合いでも必要でしたし、何より『無機質な数字では味気ない』とロノウェ――六番も言っていました」
「なるほど、では私はシエル様からお名前を頂きたく思います」
ふむ……、とシエルは命名について一度考える。
そして目の前の少女に対してこうも明け透けに、自身の事を話し、名前を呼ばせる事を強要した自分に少し驚いてもいた。
世界を変える計画を立てていた時から、あらゆる感情を覚え初めたシエルだったが、どれも悪い気はしなく、なにより感情の乏しいシエルが新たな感情を経験し、それが知識上のそれと合致することはとても心地よいものであった。
何よりこの少女と〝自然な会話〟が出来ている今をとても楽しいと感じていた。
「ハンナ……いや、んー……アニー……アミー。うん、良いですね。では、貴女は今日よりアミーと名乗りなさい。私もそう呼ばせていただきますので」
「はいっ……尊きシエル様から頂いたお名前……アミー、アミー……ああ、素晴らしいです! 私、今十四年の人生で初めての幸せを甘受しております!!」
「そ……そうですか。私も幸せという概念の感情に浸った時の事は、身に覚えがあるので分かり……まあ、貴女が良いならよいのですが」
なぜか咄嗟に「分かります」と言いたくなくなってしまった。
これが俗にいう『ドン引き』というやつでしょうか……。
なるほど、スラングとしての表現なのでしょうが、この感情を指すのであれば、上手く言語化出来たものだと感心したくなりますね。
また一つ「しらける」という感情を知ったシエルである。
「では、まずアミーに質問です。貴女は何故私につき纏っていたのですか? 本来の貴女の魔素量であれば、とっくに肉体生成を終えているはずです」
アミーはシエルから見て、魔素量が低く、そもそも次元を渡る事以前に、魔素に意識を投写する事すら不可能だと思えた。
自意識という概念を、神経生理学的な意味で魔素に投射するのには、その自意識を収めるための器である魔素量が、一定以上でなければ成立し得ないとシエルは考えていた。
だからこそあの場にいた、兵器として育てられた子供達の大半は、確実に死んでしまうだろうと思っていた。
にもかかわらずその説を崩した人物が目の前に現れた事でシエルの中に、自身の仮説に過ちがあった悔しさと、予想以上の子供達が世界を変えられたのではないか、という希望が湧いていた。
その複雑な胸中はシエルには、まだどんな感情が当てはまるのかまでは分からない。
分からないが、やはり感情が湧く、というそれ自体を楽しんでいた。
「それを語るには少し身の上話をしなければなりません…………魔素の子である皆様は分からないかも知れませんが、私達一般兵器は、常に自身のアイデンティティは良い道具で有り続ける事だと思っていました」
「脳内に埋め込められたチップが発する信号での思考誘導と洗脳教育によるものですね。幸い私達魔素の子達には思考誘導の類いは無効化出来ていましたが」
今思えばそれは魔素で思考していたからなのかも知れないと、シエルは今更ながら思い至った。
ならば他の魔素の子達もシエルほどではなくとも、普段から無意識のうちに魔素での思考を主体としていたのかもしれない。
ならば、こちらの世界に渡って来ている確率は更に高いと言える。
魔素器官から多くの魔素を循環させる事が出来ると、論理的思考能力が跳ね上がるのは、恐らく脳の計算を魔素が補助する形で補って演算していたからだ。
ならば思考の投射自体はあながち高度な技術を必要としないのかも知れない。
シエルは自分の発想を、脳が魔素器官とされた自分だけが理解できるものであって、自身をどこか悪い意味で特別に異端視していた故に、その安易な発想にまでは至らなかった。
「一般兵器の子供たちからすれば、エリートコースに渡った道具――1stの子供達、あらゆる訓練で常に最優を叩き出す魔素の子達、そしてそれらの中でも特出していたシエル様は1st含め一般兵器達の憧れのような存在でした。あの感情は信仰と呼べるものに近かったかと思います。かくいう私も野外訓練の折、巨大な熊に襲われ窮地に陥った際、シエル様に助けられて以来、その信仰はより一層強くなりました」
「思考を誘導され、更に洗脳教育を施されていても、他者に向ける信仰心が生まれるとは不思議な事ですね」
「いえ。むしろその洗脳こそが信仰心の芽生えるキッカケであったのだと私は思います」
「ああ、つまり良い道具になる事が本懐であるからこそ、より良い道具であった私達を特別神聖視したわけですか」
「その通りです。ですからあの日、会場でシエル様のテレパスの思念を受けて、私は天啓を得たような幸福感に身を包まれ、即座に実行に移しました」
そういえばチップを書き換えた後にテレパスをしたことをシエルは思い出す。
思考を邪魔する余分なものが除外されたすぐ後に、神聖視しているシエルからの思念を受け取ったのならば、それは在る種必然なのかも知れないとシエルは不承不承ながら考える。
はあ、と深く嘆息するシエル。
「それで、結局私の後をウロチョロしていたのは何だったのですか?」
「それは信仰心です!!」
「し……信仰心ですか」
普段表情を変える事などめったに無いシエルは呆気に取られ呆然とした。
アミーと話し始めてからの数十分の間で、シエルは実に人間味に溢れてきている。
「ええ、私はシエル様と共に在りたいと願いました。願わくば、ずっとお側で……と。しかし私の魔素量は少ないため、すぐに肉体の生成が始まろうとしました。しかしそれでも私は、シエル様と共に在りたいと、強い意思を持って願ったからでしょう。生成は中断され、その後すぐに意識は眠るように沈んでいきました」
「なるほど、それでテレパスでの返答がなかったわけですか。それにしても意識がなくなったのはなぜでしょうかね?」
私はずっと意識明瞭なままでしたが、と首を傾げるシエル。
「私は魔素の状態であった時は、殆ど微睡みの中にいるような感覚でした。自意識は保てていても、思考は殆ど覚束ない有様で……」
「もしかすると自意識を保つ事に魔素の大半を使っていて、思考する部分までの魔素量が足りなかったのかもしれませんね。そして私の肉体生成と同時に、自身を生成するという条件をつけた無意識下での思考で完全に魔素の容量を満たしてしまって、自意識と無意識下の希望で思考する部分が完全に途絶えていたと考えるのが自然ですかね?」
うーん、とまだ頭を悩ませるシエルだったが、そんなシエルの深い考察力にアミーは更に感動していた。
「やはりシエル様は素晴らしい御方です! 思考誘導を解いて頂き、あの箱庭から解放していただき……私は何度命を救って頂いたか……。どうかこの世界で、シエル様のお側に控えさせていただく事をお許し頂けないでしょうか!」
本当にこの子洗脳されていたのですよね……? と考えるがそういえば、魔素の子を最上位にするよう思考誘導を書き換えたのだった。
それにしても感情がはつらつとしすぎているようにも思えるが。
アミーのその熱量に、シエルは疑念を通り越してむしろ呆れてすらいた。
良くぞあの環境にいて、ここまで感情を全面に出す事が出来るものだと、一種の感心すらもあった。
――まるでロノウェのようですね……。
シエルは1st以外の一般の兵器達と関わる事が極端に少なかったため、思考誘導をモロに受けている子供達は皆人形のようなものだと認識していた。
しかし、実際は『人ではなく、良き道具たれ』という思考誘導であり、それは個性や感情を捨て去る程強力なものではなかった。
洗脳教育においても、千差万別、物言わぬ人形のようなものもいれば、やはり自身は人でありたいと強く願う者も中にはたくさんいた。
なまじ人とは違う生まれをした魔素の子達の方が、より洗脳教育の影響が強かったとまでいえよう。
普通の人間とは違う、と意識しないようにするということは、より強いコンプレックスを生み出し、自虐と他者からの洗脳教育で、より高度な洗脳として自分自身で洗脳に拍車を掛けていた、というのはなんとも皮肉な話であった。
「分かりました。私の目的は、一に自由に生きる事、二に感情を知ること、三に姉弟達を探すことです」
「ご姉弟を探すことが最優先ではないのですか?」
「ええ、会えたならば嬉しいという感情が芽生えると思います。ですが、極端な話、別に会えなくても問題はありません。私達は七人で一人。誰かが幸せであれば、それが一番なのです」
「な、なるほど……?」
アミーですら理解できない、といった思考回路であった。
やはり魔素の子達は皆どこか歪である。だがそれも致し方ない事ではあるのだ。
姉弟達の訓練は、一般兵器と呼ばれる人間の子供達の想像を絶する程、過酷なものばかりであったし、何より姉弟達の世界で七人しか存在しない、『人間ではない何か』という意識からくる強い結束は、いつからか依存関係にまで陥っており、日常は慰み者とされ、休息も必要なく、怪我もすぐに再生するとなれば、あらゆる玩具にされて当然であった。
周りの子供達は〝強い〟思考誘導によって、全員壊れていると考えていた姉弟だったが、
その真実を語るとするならば、子供達はギリギリを耐えており、魔素の子供達は既にとうの昔に壊れていたのである。