エルサーナ叙事詩 ー英雄たちの物語ー
投稿済の小説「ホアキン年代記 ー英雄たちの物語ー」
の当初オリジナル版です。
エルサーナ叙事詩 第2部
エルラシオン
―英雄たちの物語―
1 帝国
ラグーンは平和を謳歌していた。
都市国家として誕生して以来、三千年の歴史を誇るラグーンにあって草原地帯を除いた全世界がその版図となったのは約六百年前。その時点で対外戦争が行われることは無くなったわけだが、帝位をめぐる争い、あるいは内乱の類はその後もしばしば発生した。
が、近年は二百年以上にわたり大きな争いは起こらなかった。
現在、ラグーンは第一七二代皇帝ナル・アレフローザが統治していた。七年前に即位したナル・アレフローザは現在三一歳。容姿端麗、性格も温厚であり政務においては賢帝との評価も高かった。
帝国には何の憂いも存在していないかのようであった。
しかし、何の憂いもない世界などはない。
皇帝ナル・アレフローザにも、その内面に憂いは存在した。
ひとつは執政オビディウスを当主とするローザン一族の存在である。
ローザン一族。帝国の要職はほぼこの一族により占められていた。またここ数代の皇后は全てこの一族の出身者であった。
三千年にわたり続く皇帝の血脈。ラグーンの草創期において何度か父系直系の血が絶えたことはあったが、いずれにしても皇統は連綿と続き、ラグーン統合の中心としての位置がゆるぐことはない。
いかに内乱がおきようとも、この皇帝の血脈に縁のない者が帝位を簒奪したことはなかった。帝国の民にとって望みうる最高の地位は俗人としてはあくまでも臣下としての地位であった。
ゆえにナル・アレフローザにとって、その帝位が侵される心配は微塵もない。ローザン一族もふくめて、臣下はナル・アレフローザに対して最高の礼を尽くす。が、帝国の実際的権力はローザン一族が保持していたのである。
もうひとつは、皇后ルーセイラのことである。
二人はナル・アレフローザが十七歳、ルーセイラが十六歳の時に夫婦となった。
ナル・アレフローザはこの時、皇太子であった。
ルーセイラはむろん帝国の大貴族ローザン一族の出身ではあったが、一族の中では傍系に属する。父親は侯爵ではあったが、帝国政府内において名誉職以外の実質的な役職をもってはいなかった。そのルーセイラが皇太子妃となったのは、その類い希な美貌によった。
幼少のころから彼女は、一族の中で有力な皇太子妃の候補と目されていたのである。
ナル・アレフローザも幼少時からルーセイラとは面識はあったが、親しく口をきくというようなことはなかった。
実際に皇太子妃の有力な候補として、ナル・アレフローザの意向の確認のためにルーセイラと対面した時、それ以前に最後に会った時から、二年以上の月日が流れていた。
その対面の時、ナル・アレフローザは一驚した。ルーセイラは少女から大人への入口にさしかかろうとする年齢であったが、その美しさは目もくらまんばかりのものとなっていた。ナル・アレフローザは直ちに皇太子妃として迎えたい旨を父である皇帝に伝え、皇帝もこれを了承した。
だが、その美しさに対してナル・アレフローザは気後れしてしまった。将来の帝位を約束されて育ってきたにもかかわらず、ナル・アレフローザはそのことが素の人間としての価値とは何の関係もないと考える、生来の謙虚さと賢明さをもっていた。
そういうナル・アレフローザにとって、かくも美しい女性が自分の妻になるというのは、ただひとつ自分が将来の皇帝であるからにすぎないと思った。
このことが、ルーセイラに対して距離をおく態度をナル・アレフローザにとらせることになった。また、ルーセイラのその美しさには、何か気安く声をかけるのをためらわさせる高貴なる威厳があった。
この最初の気持ちの動きがその後のこの若い夫婦の仲を決定づけることになってしまった。
ルーセイラはナル・アレフローザに憧れていた。少女の頃から、直接に口をきいたことはほとんどなかったが、稀に眺める少年ナル・アレフローザの姿は少女の憧れを満たすのに充分なものであった。周囲の大人達の「いずれは皇太子妃に」との思惑も敏感に感じており、将来ナル・アレフローザの隣に立つ自分の姿を夢見た。
皇太子妃となるべく、ナル・アレフローザと対面したとき、ルーセイラの胸は緊張の極にあった。その時のナル・アレフローザはルーセイラにほとんど声を掛けることもなく、まともに見ようともしなかった。
「お気にいっては下さらなかった」
そう一人決めして悲嘆にくれるルーセイラの元に数日後「皇太子妃とする」旨の皇帝からの勅使が訪れた。ルーセイラは感激のあまり泣き出した。
それから結婚式までの間、ルーセイラには幸せな日々が続いた。
「この前、お目にかかったときはほとんど、お声を掛けては下さらなかったけれど、晴れて夫婦となった暁にはいろいろとお話下さるだろう」
結婚後の生活と、その相手を夢に描くことに関してはルーセイラは世の常の少女と何ら変わることはなかったのである。
しかし、結婚してのちも、ナル・アレフローザのルーセイラに対する態度はよそよそしいままであった。ルーセイラは失望した。
「嫌われている」とルーセイラは思った。自分が皇太子妃となったのは、殿下のご意向ではなく、何か別の力が働いたのに違いない、と思い込んだ。
こうして、もし何かきっかけさえあれば、おそらくは人もうらやむ仲となったであろう若い夫婦は、そのきっかけをつかむことのないまま、年月を重ねた。
ルーセイラが妊娠することはなかった。
妻との間に暖かな心の交流を見いだせなかったナル・アレフローザであったが、十代から二十代の前半にかけて、他の女性を渉猟するというようなことはなかった。その気になれば世の中の美女をいくらでも手に入れることが可能でありながらそうしなかったのは、理由が二つある。
ひとつは、よき皇太子でありたい、とする気持ちが強く、普段の意識の多くがそのことによって占められていたこと。
そしてもうひとつは世のどの女性をみてもルーセイラ以上に美しいと感じることはなかったことによった。ナル・アレフローザは心の深い部分では常にルーセイラを求めていたのだ。
皇帝は折に触れ、帝国内の各地を巡幸する。
ナル・アレフローザは即位の翌年、彼の治世における最初の巡幸を行った。巡幸先は帝国内で東方と総称される領域であった。東方の中でも最も繁栄した都市のひとつであるヤナハラクカとその周辺地域が巡幸の場所に選ばれた。巡幸の途上、周辺地域のひとつツヤマ地方の領主である伯爵コスロフの館に泊まったナル・アレフローザはそこで一人の女性に心惹かれた。
皇帝の元に挨拶にきたコスロフ自慢の愛妾アイリーンであった。
美しさという点でいえばやはりルーセイラには遠く及ばない。皇帝はそう思った。しかし、その容姿は、ナル・アレフローザの官能を刺激した。有り体に言えば皇帝は「抱きたい」と思ったのだ。
ナル・アレフローザは生来のものか意識してそうなったのかは定かではないが、元々女性に対する肉体的欲望はそう強くはなかった。ルーセイラに対しても心密かに求めていたのは主に精神的な交流であった。
そのナル・アレフローザがアイリーンに対しては違った。
ツヤマ地方に居住する民は帝国中枢部の民とは異質の民族である。地球的な感覚でいえば、帝国中枢部の民は西洋人的風貌、東方の民は東洋人的風貌と考えれば良い。(但し東方であってもその地の貴族階級は西洋人的民族と東洋人的民族が相半ばする。発展期のラグーンにあって功績のあった者が、東方に領地を賜る場合がまま見られた歴史による)
ナル・アレフローザもルーセイラも金髪、碧眼であったが、アイリーンは漆黒の豊かな髪の持ち主であった。目は切れ長の一重であり、本来のラグーンの美の基準から言えば、決して美人と称される容姿では無いはずだった。が、アイリーンは東方的価値観においては、やはり大変な美人であったのである。「東方には帝国中枢部とは異質な美がある」巡幸を重ねる中で、ナル・アレフローザは東方の風物を見るにつけて、そう感じていた。そしてそれは女性美についても同様であった。
これまで、皇帝としての権力の乱用を厳に慎んできたナル・アレフローザであったが、この時はコスロフに対して、アイリーンをもらい受けたい旨申し入れた。
アイリーンを手に入れるに際してコスロフはそれなりに苦労はした。人妻であり子供もいたアイリーンを、無理矢理に引き裂いたのであったから。むろんコスロフのもつ権力によればそのことは可能であった。しかし、「人々の上に立つ者には高貴なる義務がある。貴族は一般民の模範たるべくあらねばならない」それが帝国貴族に求められることであったから、コスロフは自らの評判の下落と引き替えにアイリーンを手に入れたのだ。
それからまだ一年もたっていない。コスロフは一応、控えめに抵抗は試みた。アイリーンが一般民の出身であること。陛下より年上であること(この時二七歳であった)。かつて人妻であり、子供もいること。しかし、ナル・アレフローザの意向を翻すことはできなかった。アイリーンを手放すことはなんといっても惜しかったが、「これで陛下の覚えがめでたくなれば。なんといっても陛下とは特別な関係で結ばれることになるのだから」こう思ってコスロフは自らを慰めた。
ナル・アレフローザとアイリーンの間に翌年、男の子が産まれた。ナル・アレフローザにとって初めての子供であった。イリューシュトと名付けられた。
自分との間には出来なかった子供を陛下は別の女性との間にもたれた。このことによりナル・アレフローザとルーセイラとの間の精神的破局は決定的なものとなった。
それまでルーセイラは、貞淑な妻であることに異議を挟まれるような行動をとることはなかった。
「陛下はいつか、私の方を振り向いて下さる」
ルーセイラはそう信じていた。だが、今回のことは最終的な打撃であった。ルーセイラの心の中に秘めていた何かが壊れた。
以後、ルーセイラは多くの若い貴族と浮き名を流すようになる。
元々、帝国には男女関係に関しては自由な風土があった。結婚前も結婚後も人々は自由に恋愛を愉しんだ。(コスロフが非難されたのは、それが無理強いであったからだ)
若き美貌の皇后の変化は、その元に多くの若い貴族の求愛の申し込みをもたらすこととなった。
それから歳月は重ねられルーセイラも今年、三十歳となった。その美しさはあるいは人生の頂点であったかもしれない。しかし、ナル・アレフローザとの仲はそのままであった。
アイリーンは皇帝ナル・アレフローザの子を産んだ唯一の女性であり、今に至るも唯一の寵姫であった。
現在の帝国が抱える最大の問題は後継者に関することであった。既に五歳となったイリューシュトであったが、皇子ではあっても皇太子とはなっていない。将来の皇帝としてみるには母親の出自が問題であった。ラグーンの歴史において、かくも低い身分の女性を母親とした皇帝は皆無であったし、さらに、ラグーン本来の民族とはあきらかに異なる東方の民族の女性を母とした皇帝は存在しなかった。それは最も尊い皇帝の血脈に他の民族の血が混じることであり、皇帝と同じ民族であるとの誇りをもつ原ラグーン民族にとって到底受け入れられることではなかった。
美しき皇后ルーセイラとの間に皇子が誕生することが臣下あげての願いであったが、それがかなわなければ、せめて帝国の貴族階級の娘を妾として子をなすべく何度か皇帝に対して諫言がなされた。
しかし、皇帝は肯んじなかった。
一億八千万人といわれる帝国の全人口の中で、貴族及び高位聖職者階級の占める割合は0.5パーセントにすぎない。その下に騎士階級(かつてはその言葉通り帝国の軍事をになう人々であった。今も伝統的に軍人を職業として選択することが多いが、そう決められている訳ではない。今では貴族と、一般民の間に位置する階級としての意味をもつ)が二~三パーセント存在する。八割近くは一般民であり、その下に奴隷階級が約二割存在する。
奴隷階級はその主人の所有物であり、売買の対象ともなる。職業の選択権、居住場所の選択権はないが、通常は家庭を営むことは許される。
ラシアスは二三歳にして帝国参政官の地位にあった。ラシアスは貴族ではない。一般民の出身である。
帝国においては一般民の生まれであっても帝国枢要の地位につくことは決して不可能なことではない。貴族、騎士、一般民という身分は厳に存在するし、生活の場においては上位階級に対して敬意を表しなければならない。しかし、公務の上で一般民が貴族、騎士の上の地位となる場合はありえたし、公務においては下位の階級の者が上司となった場合は貴族といえどもその命には服さなければならなかった。
むろん、貴族、騎士は幼少時代から教育環境には恵まれていたから、一般民が帝国枢要の地位につくことは並大抵のことではなかったが、可能性はあったのだ。遺した功績が顕著であれば騎士が貴族に、一般民が騎士身分に叙せられることもありえた(多くはその一代限りの栄誉であったが)
一般民が帝国枢要の地位につくことを志せば、その方法は三つあった。聖職者となるか、軍人となるか、官僚になるかである。いずれもその最高位、及び最高に近い地位はほぼ貴族によって占められていたが、そのような地位に一般民がつくことは稀ではあっても皆無ではなかった。逆に貴族も、単に貴族というだけで、帝国職階表に記されるような枢要の地位に就くことができる訳ではない。ある程度の能力を示さなければ、実権を伴わない名誉職につくことができるだけであった。
優秀な頭脳に恵まれていれば、毎年春に行われる高等官任用試験に合格することが出世のためには最も近道であった。
これは一般民のために行われている試験であり、合格者は将来、概ねかなりの地位まで昇進することになる。
従って帝国全土の秀才がこの試験の合格を目指すことになる訳だが、首都ラグーンで行われる最終試験を受験するには、先ず各地方で行われる選抜試験に合格する必要があった。そして、最終試験の合格者定員は毎年十名と決まっており、極めて狭き門であった。
受験に対しては年齢は上限は三十歳であったが、下限はなかった。とはいえ、合格するためには学識だけではなく、人格も問われた。(各地方の試験の中で、その人物全体に対する周囲の評価も合否を決める対象となった)また、後述する不文律もあり、十代で合格することは至難の業であった。
ラシアスはこの高等官任用試験に一七歳で合格した。それはこの制度が、ほぼ現在の形に整えられた三百三十年あまり前からの記録によれば史上四番目の十代の合格者であり、その中でも最も若かった。
ただ、過去十代で合格した三名のその後は、ひとりは二十代前半で精神を病み、ひとりは二十歳になる前に自裁し、そしてもうひとりは長命ではあったが、年齢を重ねるにつれかつての神童ぶりはいずこへいってしまったのか、特に際だった功績を遺すこともなく、高等官任用試験の合格者としては生涯、平凡な地位にとどまった。
このような過去の経緯により、以後は十代のうちには合格はさせない、という不文律ができていた。ラシアスは百十二年ぶりに生まれた十代の合格者であった。
合格の際は帝国において大きな話題となった。
それから六年、際だった功績をあげるということはなかったが、これは帝国の政情が安定しておりそのような大きな功績をあげること自体が不可能であることによるものであり、一七歳の合格者として周囲から寄せられる厳しい目にも、決して恥ずかしくはない能力を示し続けた。
ラシアスは通常三十歳未満では任じられることはない帝国参政官に二三歳にして任じられた。このことによりラシアスの名前は帝国職階表に記されることとなった。
ラシアスが一七歳で高等官任用試験に合格して大きな話題になった翌年、帝国に英雄が誕生した。
毎年夏に行われる帝国騎士剣技会において一七歳の若者が優勝したのだ。
優勝者の名前はアル・ラーサ。
帝国騎士剣技会の歴史は古い。伝説的なものを含めれば千年以上前から開始されていたことは間違いない。七百五十年前からは優勝者の名前もきちんと記録に残っている。
記録に残っている限りにおいてアル・ラーサは史上最も若い優勝者であった。なしとげた事柄により、アル・ラーサのことが帝国の民の話題となる量は、前年のラシアスとは比較の対象にはならなかった。帝国全土がこの英雄の誕生に沸き立った。実際の戦争が行われなくなって長い時間が経過した帝国においては帝国騎士剣技会の優勝者こそが最大の英雄であったわけであり、その剣技会に一七歳の若者が優勝したとなれば、人々が熱狂するのも無理はなかったのである。
今に至るまで、アル・ラーサは帝国剣技会に勝ち続けている。優勝者に与えられる杯を、アル・ラーサは既に六個保持していた。
騎士階級の出身であるアル・ラーサは昨年、少将に叙された。帝国において最年少の将官である。過去においてはさらに若い将官も存在したが、全て貴族であった。騎士階級の出身者としては、アル・ラーサは史上でも最年少であった。
剣技において優れていたからといってそれだけで将官になれる訳ではない。アル・ラーサは軍略においても多大な才能を示したのであった。少将に叙されると同時にアル・ラーサは近衛師団第一連隊長を拝命した。
ラシアスとアル・ラーサはアル・ラーサが最初に剣技会で優勝した二ヶ月後に初めて相知った。話題の二人を招待するという主旨で開かれた、帝国の政務上の最高職である執政オビディウス・ローザン公爵主催のパーティーの席上であった。
事の大小はともあれ、ともに帝国において大きな話題になったという共通点をもつことによったのか、ふたりは意気投合した。その後も親交を深め、今では肝胆相照らす仲となっていた。
帝国首都ラグーンの中心を占めるのは広大な皇宮である。その皇宮の外縁部に元老院、参政院、各省庁など、帝国の政治的建造物がたちならぶ。その中には軍務省、帝国首都に駐屯する第一師団もあった。近衛師団は皇宮内に置かれていた。
政治的建造物がたちならぶ地域からほど近い場所に帝国高官の官舎があった。官舎といってもひとつひとつゆったりとした敷地をもち、建物もやはり広く堅牢であった。
ラシアスとアル・ラーサの官舎は隣り合っていた。ともに独身であったから、従者も同じ建物内に居住していたとはいえ、建物の広さをいささか持て余していた。
ふたりは公務の合間をぬっては、お互いの官舎を訪問しあい、談論することがしばしばであった。話題は概ね、帝国の現状、将来の展望に関することであった。
今日はラシアスがアル・ラーサの官舎を訪れていた。いつものようにアル・ラーサの書斎に入った。アル・ラーサの執事ロイが飲み物をもってきた。二人とも酒は嗜まない。アル・ラーサは東方茶を、ラシアスはコーヒーを好む。ロイは慣れた手つきでソファに座して向かい合う二人の間の応接机にそれぞれが好む飲み物を置いた。
ラシアスは早々にカップを取り上げ口をつけた。
「うーん、今日のコーヒーも最高だね。さすがにホラビア地方の豆は違う。ありがとうロイ」
「いえ、本日はブラール産の豆でございます」
「あ、そう」
ロイは恭しく礼をすると書斎を出ていった。
ロイは思う。ラシアス様は一般民の出身であるとはいえ、アル・ラーサ様のご友人として申し分のないお方だが、ものの味がお判りにならないのが欠点だ。それでいてああやってすぐに当てようとする。当たった試しがないのだからおやめになればいいのに。
「陛下はいよいよイリューシュト殿下を立太子なされるご決意を固められたようだ。昨日、近衛師団長から内密にということで俺に話があった。近衛師団としては不測の事態も想定して備えておく必要があるからな。むろんお前以外にこのことを誰にも言うつもりはない。言うまでもないが他言無用だ」
アル・ラーサが話の口火を切った。
「そうか」
「これでいよいよ皇統に東方民族の血がはいることになる」
「そうと決まった訳でもあるまい。一旦皇太子となられた皇子がその後取り消され、別の皇子が皇太子となられたことは帝国の歴史において皆無ではない」
「では、いったいどの方が皇太子になられるというのだ。陛下には、お子はイリューシュト皇子しかいない。」
「それはそうだが」
「あれほどにお美しい皇后陛下がおられながら、なぜ、あの東方民族の女性を愛されるのか俺にはわからん。もっとも最近の皇后陛下の行状を見れば、おそれながら元々皇后としてふさわしい方ではなかったようだが」
帝国臣民としては珍しく、アル・ラーサは夫も妻も配偶者に対して貞淑であるべき、さらに言えば、性的交渉は男女とも生涯たったひとりの相手ともつべきであるという信条の持ち主であった。
ラシアスは常々「それではお前は誰とも結婚できないぞ」とアル・ラーサをからかっている。
「一五歳を過ぎて男を知らない娘を見つけるのは、砂の中から砂金を見つけるようなもの」
これが人口に膾炙した帝国における俚諺であった。
だからラシアスはアル・ラーサに対して「どこかの見目麗しい幼女をさらってきて妻とするべく養育してみるか」などときわどい冗談も飛ばしていた。が、残念ながらアル・ラーサには幼女を愛する趣味はなかった。
したがって、「誰とも結婚できないぞ」というラシアスの言葉はアル・ラーサがおのれの信条を変えない限り、けっして冗談、といってすませられる言葉ではなかったのだ。
アル・ラーサは今も帝国における最大の英雄である。十代のうちは若い娘からのファンレター、さらにファンレターの域を超えた求愛の手紙はひきもきらなかった。だが、その手紙は、当時アル・ラーサはまだ両親の家に住んでいたが、その家で飼っていた山羊の餌になるだけであった。
やがてアル・ラーサの信条が世間に知れ渡ると若い娘からの手紙はほとんど来なくなった。仮にまだ男性経験がなく、アル・ラーサの妻となる資格のある娘がいたとしても、相手がいかに帝国最大の英雄であっても、将来、当然愉しんでしかるべき多くの男性との恋愛ができない、となれば人生を愉しむことに貪欲な帝国の民として生を受けた女性にとってはその損得勘定は明らかであった。
「最近は男からしかファンレターは来なくなったな。たまに女性名前の手紙がきたと思ったら、みんな十歳以下だ」
約二年前からアル・ラーサはこう言ってラシアスによくこぼした。しかしその顔は決して悪びれたものではなかった。
自分に、若い娘から手紙が来なくなった(幼い娘は除く)ということが判ってからは、アル・ラーサは来た手紙にはすべて目を通し、返事を出した。(もっとも返事はロイの代筆であった)
アル・ラーサの信条は、風変わりなものではあっても、人々から悪意をもたれるようなものではない。帝国の民にとって、アル・ラーサはやはり愛すべき英雄であった。人々は彼のことをこう呼んだ。
童貞将軍と。
「俺の前で皇后陛下の悪口を言うのはやめてくれ」
「おっと、またやってしまったか。すまんすまん」
「俺はな十歳の時に初めて皇后陛下を拝見した時から、いつかこの方に間近にお会いしたいと志をたてたのだ。その一念で死ぬほど勉強したよ。おかげで一七歳で任用試験に受かっちまった」
ラシアスが初めてルーセイラを見たのはラシアスが育った町で行われた神殿の修復完成式に皇太子ナル・アレフローザとともに出席した時であった。その時ルーセイラは結婚した翌年、芳紀まさに一七歳であった。
「その話を聴くのは二七回目だ」
「近い内に二八回目を聴かせてやるよ。今でもいいぞ」
「このまま、あっさりとイリューシュト殿下の立太子が受け入れられるとも思えないのだ」
「お前はさっき、イリューシュト殿下以外に陛下にお子さまはおられないと言ったと思うがな。だがかくも長期にわたって皇太子が決定しない、ということも異例なことだぞ。陛下におひとりも皇子がおられなければ、必然的にニコラス大公殿下が次の皇帝ということになられるが、まがりなりにもイリューシュト殿下という方がおられる以上、万一の皇帝陛下ご不予の際に備えて、次期皇帝となるべき方を確定しておくのが帝国の慣例のはずだが」
「そのニコラス殿下を皇太弟として擁立しようとする動きがある」
「そうかやはりニコラス殿下か」
「そう、ここ七代帝位は父子継承が続いてきたが、さっきお前が言ったように皇帝が皇子がないままになくなられた場合その弟君が帝位を継がれることは、かつてはままあったことだ。東方民族の血をひく皇子が皇帝となられることに比べればむしろその方が自然だろう。ニコラス殿下は陛下と同腹のお方だから、お母君の身分にも何ら問題はない」
「だれが中心となって擁立されようとしているんだ」
「オビディウス・ローザン公爵だ」
「オビディウス公か」
オビディウス・ローザン。
ラシアスとアル・ラーサが出会うきっかけを作った人物である。今もそのまま執政の座にある。
「となれば、それは容易ならざることだぞ。ラーサ」
「うむ、オビディウス公が決心されたとなれば、むろんローザン一族はあげてオビディウス公を支持するだろう。その他勢力をもつ貴族、元老院、各省大臣、お前が所属する参政院、また聖職者、はたまた軍にもその支持の輪を広げようとするだろう。いや、あのオビディウス公のことだ。すでに相当に広げていると見るべきだろう」
「では内乱が起こる可能性もあるわけか」
「今の帝国には問題を武力で解決するという風潮はないからな。それは近代以前の考え方だ。だから、おそらくは平和的に妥協点を捜すことになるだろう。が、もし、陛下もオビディウス公も主張を変えないということになれば、武力が用いられることもありえるだろう」
「もし、そのようなことになれば、ラーサ、お前はどうする」
「俺は近衛師団第一連隊長だ。陛下に忠誠を誓っている。迷うことはない」
ラシアスは本音を言えば、陛下に折れていただきたかった。イリューシュト殿下が皇太子となれば、それではあまりにも皇后陛下がお可哀想だ。アル・ラーサには冗談めかして言っているがラシアスのルーセイラに対する思慕の念は純粋なものだった。ラシアスはルーセイラの幸福を願っていた。
ただ、だからといってラシアスが女性に無縁である、という訳ではない。ルーセイラへの思いがあるだけに、誰か特定の女性にのめりこむことはなかったが、彼は、男女の仲に関する帝国の自由な気風を存分に満喫していた。彼は、これ、と思った女性とは全て思いを遂げていた。
「なぜ、いつもそんなにうまくいくのだ」
ある人にそう問われた彼はこう答えた。
「簡単なことだ。相手が一番言って欲しい言葉が何かをつかんで、その言葉を繰り返せばよい」
だが、その彼も最も愛するルーセイラに対しては慎重だった。
あと、一年か二年のうちに。ラシアスはルーセイラと愛を交わそうと考えていた。先ずは劇的な出会いを演出せねば、と思い、その機会を窺っていた。
オビディウス公がニコラス殿下の擁立を決めたのも、一族の娘ルーセイラがナル・アレフローザにないがしろにされたということも大きな要因になっているのであろう。
ニコラス大公は二六歳。二年前に結婚して、昨年公子も誕生していた。大公妃マリカは美人とはいえない。が、オビディウス・ローザンその人の娘であった。ルーセイラには又従妹にあたる。
「そうか、二世紀ぶりにこの帝国に内乱が発生する可能性があるわけか」
「うむ、公人としては内乱が起こらないことを祈らねばならないが、私人としては、起きて欲しいと思わぬでもない。俺も帝国発展期の名だたる将軍たちのように戦ってみたい。
これまで培ってきた軍略を実際の戦場で試したいと思う」
「そのようなことを軽々しく口に出すな。帝国軍人の役割はあくまでも戦いを未然に防ぐことであって、戦いを起こすことではない」
「むろん、判っている。お前以外に俺の密かな望みを口に出したりはしない。いずれにしろ、今の俺にはまだ、事態を主導的に動かしていくような力はない。状勢の推移を見守るしかない。」
「うむ。それは俺も同じだ」
しばらく話はとぎれた。ラシアスはロイがおいていったポットから、二杯目のコーヒーをカップに注いだ。
「ところで、ラシアス。帝国の現状を総括した年次報告書の草案はもう出来ているのか」
「うむ、すでに内務省から参政院にまわってきている。二日前に読んだ」
「何か気になることはあったか」
「三つある」
「ほう」
「ひとつは前から言っているが、草原の状勢だ。今まで草原の状勢については、かの地には監視官もおらぬことだから、ほとんどふれられることはなかったが、今年度はある程度の頁がさかれていた」
「やはりお前が言うとおりになってきているのか」
「うむ、草原はついにふたつの勢力にまとまったと、今年度の報告書にはそう明記してあった。とはいえ、帝国で草原に最も近いノイエストの総督府が、草原に通う商人からの話を聞き取ったことを報告してきているにすぎぬようだが」
「お前がこれまで常々注意を喚起していたことがとうとう帝国の公文書に明記されたわけか」
「うむ、いささか遅きに失したかも判らぬがな」
「何故、その言い方だと草原の状勢の推移が帝国に直接的に係わってくる、という風にきこえるぞ。一応どういう状勢にあるかだけが判っていればそれで充分だろう」
「係わってくると考えている。そのことについてはあとで話す」
「まあ、お前は草原に関しては特別な情報のルートを持っているからな。何かあったのか。その後ルーレアート殿から手紙が来たのか」
ルーレアート。ラシアスと同郷で、ラシアスと同年齢である。ラシアスと同時に高等官任用試験を受験したが、不合格であった。その後、草原の部族アルーサの王、エルラス汗に招かれ、エルラス汗の一子、エルラシオンの教師となった。今ではエルラシオンに限らず、アルーサの将来を嘱望された子弟がその門下に集っている。
帝国と草原に別れてからもラシアスとルーレアートのふたりは手紙のやりとりを続けていた。
「来た。三日前に届いた。今日はそれもあってお前を訪ねたのだ」
「読ませてくれるか」
ラシアスは袂から手紙を取り出した。
アル・ラーサはそれに目を通した。
読み終わった。
「そうか、まもなくアルーサとテグリの間に会戦が行われるのは必至ということか。帝国が平和を謳歌している間、草原では大変なことになっているな。しかし、そのことを意識している者はこの帝国においてはほとんどいない」
「草原の状勢など帝国には何の関係もない、みなそう考えているからな」
「さて、この会戦どちらが勝つかだが、ルーレアート殿は、やはり仕えているアルーサのエルラス汗の勝利を疑ってはおらぬようだな」
「ラーサ、お前はどう考えるのだ」
「言うまでもない。ルーレアート殿の言うとおりだ。エルラス汗が勝つよ」
「が、今度の相手は草原最大の部族テグリだ。多くの部族が自らの盟主と認めている部族だぞ。これまで、次々に周辺の部族を切り従えてきたエルラス汗にとっても今度ばかりはそう簡単にはいくまい。動員可能な兵力もテグリ側の半分程度だろう。テグリの族長スクタイ汗もなかなかの人物のようだしな」
「それでもアルーサが勝つ」
「根拠は何だ」
「エルラス汗は戦争の天才だ。それに尽きる」
「そんなにすごい男か」
「ああ、すごいな。エルラス汗の戦い方には三つの特長がある。兵力の高速移動。兵力の集中。そして敵の想像外の行動をとることだ。口で言うのはたやすいがこれを行うには将兵ともに極めて高いレベルの能力が必要だ。エルラス汗は相当に兵を鍛え上げているぞ。汗は今何歳なのだ」
「たしか、三三歳のはずだ」
「まだまだ若いな。俺も草原に生まれたかった。あのような天才と戦ってみたいものだ」
「いずれ、戦うことがあるかもしれんぞ」
「帝国と草原が戦うというのか。帝国と草原は別の世界だ。相争うというようなことはこれまでなかったぞ」
アル・ラーサはラシアスの顔を見つめた。
「ふむ、何か考えているようだな。聴かせてもらおうか」
「その前に気になる点が三つあると言った残りの二点についてしゃべらせてくれ」
「おお、そうだったな。続けてくれ」
「ひとつはアルトハープ地方からの報告だ。」
「うむ」
「この地にひとつの思想が広まっている。人間は皆平等であり、貴族、騎士、一般民、奴隷といった身分上の区別は廃止されなければならない、という思想だ」
「それでは世の中は成り立つまい」
「いや、人の心の在り方が変われば、成り立つと主張しているな。まあ、歴史上そういう国家が、過去になかったわけではないしな。主唱者はアインセーラという男で、まだ二十代の若さだ」
「その男は今、どうなっている」
「一度、投獄された。しかし、出獄して後は再び同じ主張を繰り返しているそうだ」
帝国では原則として思想の自由は保証されていた。人に直接的な害を与えない限り死刑に処せられることはなかった。あまりに危険な思想であれば、今回のように投獄されることもあるが、思想を唱えるだけであればその罪は軽微なものでしかない。
「賛同者はいるのか」
「うむ、かなりの賛同者がいる。アルトハープ地方においては、ひとつのあなどりがたい勢力となっている」
「しかし、ある程度以上の勢力となればその地の帝国方面軍が簡単に鎮圧するだろう。さほど大きな心配事とは思えないがな。もうひとつは何だ」
「アイラン地方からの報告だ」
「ほう、東方の中でも最東端の地方ではないか。何だ」
「ルーラという二十歳そこそこの貴族階級の男が、新たな宗教教団を作っている。教団が誕生したのは三年近く前のことだが、ここにきて急激に信者が増加している。教義は主にふたつ。神の前の、人間の平等。そして彼岸に思いをはせることなく、この現実の世界、此岸の美しさを讃えよう、というものだ。いずれも帝国の国教の教義とは相容れない。」
「これまた人間の平等か。貴族として生まれながらそのような教義を唱えているのか。その教団が気になるのか」
「うむ」
「なぜ、気になるのだ」
「全てがあるひとつの方向を指し示しているように感じるからだ」
「ほう」
「蘊蓄を傾けたい。良いか」
「おお、久しぶりだな。頼む」
ラシアスは古今の重要な書物に通暁している。特に先賢の著したもの、いわゆる古典に対する造詣の深さは瞠目するべきものがあった。アル・ラーサと座談している際の話題からの関連、あるいはアル・ラーサの求めに応じて、ラシアスは時に古典の内容をアル・ラーサに解説する。解説を始める時には「蘊蓄を傾けるぞ」と言うのが合図だ。
「帝国が草原を除く世界の全土を領土として六百年たつ。以後、帝国の領域に変更はない。しかし、それ以前においては世界に複数の国家が存在した訳だし、ラグーンを除いて、
かつてあった国家はすべて滅んだことになる。ラグーン以前には全世界を領土とした国家は存在しなかったが、世界のかなりの部分を領土とした国家は存在した。そしてそれらの国家もまた滅んでいる。忘れてはならないのは世界がひとつではなく複数の国家が世界に存在した時代の方が歴史的に見てはるかに長いということだ」
「ふむ」
「そのまだ国家が興亡を繰り返していた時代、ツインビーという歴史家がある著作を著した。著作の名は「歴史における法則」だ」
「ほう、その著作名は聴いたことがあるような気がする。しかし内容は知らぬ。教えてくれ」
「国家、それも歴史上に大きな名前を残すような大国家が誕生して、そして滅んでいくには同様のパターンがあるというのだ。国家が誕生し、そして発展していくためには、それまでその領域に住む民が、従来のやり方ではどうしようもないような環境の変化がおこり、その環境上の挑戦に対して、国家を維持するために何らかの応戦をすることによる。環境の変化は自然がもたらす場合もあれば、政治的な変化による場合もあり様々だ。
その応戦を行い勝利した国家が発展を遂げる。この応戦を成功させた人々は創造的個人と定義づけられ、国家を指導する」
「どういう場合にその応戦は勝利するのだ」
「それも様々だ。必要に応じて何らかの新たな技術を生む場合、何らかの新たな制度を生む場合などだな。そして発展した国家は世界国家となる。これはラグーンのように文字通り全世界を領土とする場合のみをいうのではない。その国家に住む住民が自分たちの国家と世界が同義であると意識している国家のことだ。その意味で言えば草原という帝国外の領域がありながら、帝国と世界を意識の上で同義と考えているラグーンもその例に漏れないことになる。そしてその世界国家はやがて変質する。応戦の際に成功の要因となったこと。新たな技術、新たな制度などは偶像化され、進取の気風は薄れ、国家の指導者は支配的少数者となる。単に支配するだけのひとびとで、創造的な部分を喪失するということだ。次に国家の内外にその世界国家の支配を良しとしない階層が生まれる。世界国家内部のそれらの人は内的プロレタリアートと総称され、内的プロレタリアートは世界宗教を生む。世界国家外部には外的プロレタリアートが生まれる。国家内部の人々からみれば、それらの人々は蛮族、あるいはその類の言葉で総称される。進取の気性を失った世界国家は、この野性の力を止めることはできない。外的プロレタリアートは世界国家に侵攻し、世界国家を滅ぼす。この世界国家を滅ぼす蛮族の活動は後世から英雄時代と見られ、伝説的英雄を主人公とする物語の源泉となる。以上が、ツインビーが著した「歴史における法則」の内容だ」
「ふむ」
アル・ラーサはしばし瞑目した。
その目が開いた。
「そうか、ラシアス。お前はこのラグーンを世界国家。草原を外的プロレタリアート。
アルトハープ、アイランで起こっていることを内的プロレタリアートであると想定しているのだな。それゆえ、やがて帝国と草原が戦うことになる、と考えているわけか。で、ラグーンは滅びると思うのか。あるいは今回の立太子問題も滅亡の予兆とでも考えているのか」
「滅びない国家は無い。ラグーンもやがて滅亡することは間違いない。しかし、その時期は判らぬ。俺達が生きている内に起こるか。百年、五百年あるいは千年ののちになるかは判らぬ。今、内外のプロレタリアートの胎動が見られるからといって、そのまますぐに帝国に取って代わるとは限らぬ。むしろ歴史的に見れば、何度かの争いを長期的に繰り返す場合の方が多い」
「成る程、判った。俺の将来にそのような面白い時代がやってくるとは考えていなかったぞ。これはいい話を聴かせてもらった。だがそうなるとひとつ気になることがあるぞ。」
「何だ」
「帝国と草原がやがて戦うというのなら、エルラス汗に仕えるルーレアート殿と手紙のやりとりをすることはお互いに利敵行為にならぬか。お前も帝国の現状をかなりの部分まで書き送っているのだろう」
「実は俺も帝国と草原が戦う可能性があるということに思い至ったのは二日前、年次報告書の草案を読んだときが初めてなのだ。アルトハープとアイランの状勢を読んだときに突然気がついたのだ。ラグーンも歴史上の世界国家と同じ道を歩もうとしている、ということにな。帝国の民が全てこのラグーンを永遠に繁栄を続ける国家と考えていても、この俺だけはラグーンを歴史の中における一国家として客観的に見てきたつもりだったが、俺も自らが育った環境を特別に考えるということから無縁ではなかったようだ。情けないことだ。が、ひとたびそのことに気がつき、あらためてルーレアートのこれまでの手紙を読み返して見た。昨日一日、エルラス汗の行動、言動を特に注意して分析してみた。汗は草原を統一したのち、帝国と干戈を交えるつもりだと思う。だから、今日お前を訪ねた。するといきなり立太子問題だ。こういう問題が存在すれば、帝国が一丸となって、草原に対処するという訳にもいくまい。予断を許さない状況だぞ。だが、まだ時間はある。何と言ってもアルーサはこれからテグリとの会戦を控えているのだから」
「しかし、ルーレアート殿はエルラス汗の軍略まで書き送ってきているではないか。ルーレアート殿の立場なら、汗の思惑はわかっていように。あるいは元々帝国の出身者だけに気持ちは帝国の上にあり、あえて書き送ってきているということか。だが、そんなことを書いているとエルラス汗に知られればルーセイラ殿もただではすむまい」
「いや、エルラス汗はルーレアートと俺が手紙のやりとりを続けていることは知っている。自らの軍略を書き送っていることもエルラス汗は了解の上だ」
「何だと、そんなことは聴いていなかったぞ」
「将来戦うことになるとは気づかなくとも、俺もそのことは気になったのでな。一度それとなく問い合わせの手紙を書き送ったのだ。その返事にそうしたためられていた。その時の手紙はそれ以外に特にめぼしい内容はなかったからお前にも教えなかった。まあ、今にして思えば、エルラス汗が了解の上、というのは、それこそ重大な情報であったな。すまん」
「まあ、それは仕方あるまい。しかし、であればエルラス汗は帝国と戦うことは考えていないということにならぬか。だが不思議だ。エルラス汗ほどの男がありえるかも知れない未来を想定せずに行動するとも思えないがな」
アル・ラーサは考え込んだ。
そしてひとつの結論に達した。
「将来戦うことになる相手と意識していて、それでもあえて自らの軍略を明かしているとしたら、エルラス汗という男、とんでもない人物だぞ」
「やはりお前もその結論に達したか」
ラシアスは言葉を継いだ。
「俺もそう考えた。実は、将来、帝国は草原と戦うことになるのではないか、と一昨日、最初にその考えが芽生えた時、俺は、帝国の禄をはむひとりとして、ルーレアートとの手紙にも以後はあたりさわりのないことのみを書こうと一旦はそう思った。しかし、考え直した。俺が書き送っている程度のことは、エルラス汗は既につかんでいるに違いないと思う。かりに帝国の間者を草原に送っても人口の希薄なかの地で有効な活動を行うことは難しい。またすぐに見破られてしまうだろう。だが、草原から帝国内に間者を送ることはたやすいことだ。第一、今、帝国と草原は戦闘状態にある訳ではないから、そのことをとがめることはできない。エルラス汗であれば、そういう将来の布石も既に打っていよう。そうすると、この手紙のやり取りは、俺の方にはるかに得るものが大きいと思うのだ。なぜ、そのようなやり取りを汗は許しているのか疑問だったのだが、お前が今たどりついたのと同じ答えを見出した時、俺も空恐ろしくなったよ」
「しかし、判らん。エルラス汗にとって帝国と戦うことに何の意味がある。帝国と草原では生活様式も全く違う。草原の生活を続ける限り帝国の領土を奪っても仕方なかろう」
「ルーレアートの手紙から類推するに汗は、戦いに勝利するということ自体が目的なのではないかと思う。そういう人物にとって、帝国の征服者という称号ほど魅力的な響きの言葉はあるまい」
「そうか。たしかにそのとおりだ。そういう人物がこの同じ時代にいると思えばこころが踊るぞ」
アル・ラーサはラシアスに訊ねた。
「草原地帯の全人口はどれくらいなのだ」
「二百万人を超える程度であると想定されている」
「帝国全土の百分の一をやや超えるくらいか、では戦力的に帝国とは比べるべくもない。国力が違いすぎる。いや待て、そうか、草原の場合、成年男子は全て戦士となる。そういう民族だ。すると五十万人か。しかも全て騎士だ。帝国の職業軍人は帝国全土で三百万人。そのうち、騎士は七十万人といったところか、それも帝国全土に散らばっている。ラシアス、俺にも判ったぞ。草原がひとつにまとまる、ということの恐ろしい意味が。いままで草原は多くの部族に別れていて統一行動をとることなどなかったから、誰もその意味に気がつかなかった。これはたしかに早急に手を打つ必要があるな。きたるべき、アルーサとテグリの戦いもお前の言うとおりだ。手を拱いて見ている訳にはいかぬ。立太子問題などにかまけていて良い状勢ではない」
翌日、アル・ラーサはただちにこのことを近衛師団長グリウス・シューター子爵に伝えた。そして軍令の最高職である参謀総長オッテンスタイン男爵にこの件を報告したい希望を述べた。
だが、立太子問題に悩むシューターは「今はそれどころではない」としてこの希望を却下した。
2 ルーラ
ルーラは時に夢をみる。
夢の内容は常に同じであった。
何十万人もの人々が西へ向かって歩いている。その中にルーラもいた。人々を率いる先頭には胸に女児を抱く少年の姿があった。たとえその姿が見えなくてもルーラはその人の存在を常に感じていた。
ユーム。その人は人々からユームと呼ばれていた。
その人は愛。愛そのものだった。夢の中でルーラはその人の姿を見た。
その人は何も語らない。ただそこに微笑みを浮かべて存在するだけだ。だが、その人の姿を見ただけで、ルーラの心は愛と優しさであふれる。限りなく美しいもので、ルーラの心は満たされる。
その人は西に向かって歩く。人々は美しきものを追ってそのあとへ続く。
少年に率いれられた人々はやがて光の都に到着する。
愛と美に満たされたその少年の目指す先には神聖なる美が存在した。
愛と美と神聖が融合する。そしてその融合体ははるかなる高みへ飛翔していく。
地上に残された人々とともにルーラは高みを見上げた。
ルーラの夢は常にここで終わる。目覚めたとき、ルーラの顔は流れ落ちる涙で濡れていた。
夢のあと、ルーラはその夢が何をおのれに告げようとしているのかを考える。
その少年が自分に教えてくれたように、私はこの世界の人々に美しきものを教えなければならない。それがこの夢の意味である。ルーラはそう考えた。しかし、自分は言うまでもなくただそこに存在するだけで、人々に愛と優しさによって心を満たさせることはできない。自分は結局、言葉によって人々を教えるしかない。
ルーラはそう結論づけた。
それから、ルーラは来る日も来る日もひたすら思索に没頭した。
ルーラが思索することに疲れ果てたときは、必ず、そのあとの夢にユームがあらわれる。ルーラはユームが自分を見守っているのを感じた。
数年に渡る思索の末、ルーラはついに人々に語るべき言葉を見出した。
かくしてルーラの初転法輪が行われた。
初転法輪
この世界には様々な悲しみ、苦しみがあります。人は生まれ、そして人は必ず死ぬ。人は生きていく中で愛する家族や親しき人と幾度となく別れ続けなければなりません。
勿論、多くの愛する人と巡り会うという歓びもまた人生には存在するわけですが、その愛するひととも必ず別れることになるのです。
いかなる歓びもいかなる悲しみも死によって終わります。
人は必ず死にます。人の存在するこの宇宙さえもやがて滅びさってしまいます。
しかし、死は全ての終わりを意味するのでしょうか。死ぬことによって全てが終わるのなら、人間の生には何の意味もないのでしょうか。そうではありません。決してそうではないのです。
我々が生の意味を問うことは、我々が存在するこの宇宙の意味を問うことでもあります。この宇宙にはいったいどういう意味があるのでしょう。私はあなた方にそれを教えましょう。
先ず、この宇宙は無限なのでしょうか。それとも有限なのでしょうか。実は人間には此の問いに答えることはできません。
何故なら宇宙ははるかなる太古の時代、大いなる者によって創造されたものだからです。
大いなる者によって創造されたこの宇宙は時間と空間によって構成されています。宇宙が創造されたとき、時間と空間という概念が生まれました。
このように申し上げれば、きっとあなた方はこのように問うことでしょう。
「では、宇宙が創造する前にはなにがあったのか。そして、宇宙の外には何があるのか」と。
これは、人間にとっては全く意味をなさない問いなのです。
何故なら、宇宙が始まる前には何があったのか、という問いは時間のことを問うていますが、宇宙が創造される前には時間は存在しなかったのです。
そして、宇宙の外には何があるのか、という問いは空間のことを問うていますが、宇宙の外には空間は存在しないのです。
人間はこの宇宙の中に存在しています。ゆえに人間は時間と空間によって制約を受けています。人間はあたかもあらゆること、無限のことを考えられると思えますがそうではありません。人間がなにかを考えるとき、その思考の形式として時間と空間は不可欠のものです。人間は時空に基づいて、時空の中において思考を行うのです。人間には時空を超えたものを考えることはできません。仮に「時空を超える」と言葉で言うことはできても、その言葉はそれに対応するべき何らの意味も見出すことはできません。
帝国の国教は宇宙の創造者を「神」という名で呼んでいます。
我々もこの創造者を同じように「神」と呼びましょう。
国教はこの「神」があたかも人格をもつかのように、その教義をまとめた聖典において、説いています。
違うのです。「神」とは本来、人間の想像の及ぶような存在ではありません。宇宙を超えた者を人間は思惟することはできないのです。人の思考が及ぶのは、この時間と空間で構成された宇宙のことだけなのです。
宇宙が存在するということにはどんな意味があるのでしょう。人が生きるということにはどんな意味があるのでしょう。我々人間には分かりません。
しかし、この宇宙と人間が存在するということには必ず意味があるのです。
が、現に生きている人間にはそれは分かりません。
人が生まれるということは、この宇宙を超えた世界から、この時空で構成された世界にやってくる、ということです。人が死ぬということは、再び、この宇宙を超えた世界に戻るということです。
宇宙を超えた世界にいったい、何があるのか、我々には分かりません。
ところでここで「ある」という言葉を使いましたが、これは人間が普段使用している「ある」ということではありません。人の思考によって考えられる「存在する」という意味を超えた意味をもつのです。人の言葉ではあらわすことはできないものなのです。
そこに何が「ある」のか我々には分かりません。が、我々人間は言葉に拠ってしか考えることができないため、こう言うしかないのです。
そこに我々の及びもつかない世界がある、その世界に至れば、この宇宙と人間の存在の意味は全て分かるのです。
では、人間はどのように生きれば良いのでしょう。答えは簡単です。
おのれの心の中にある道徳律に拠って立って生きるのです。
真と善と美はあらゆる人の心の中に存在します。たとえ、それにそむいた行為をなす人々であっても、その人にはそれが正しいことからそむいた行為であることは分かっているのです。
何故なら真と善と美こそ、この宇宙を超えた世界に存在する「神」によって創造されたこの世界において、「神」が人間に生きる指針として与えられたものだからです。
そして「神」を求める神聖な精神こそは宇宙を超えた世界とこの世界をつなぐ精神なのです。
我々はただ、神聖な精神によって「神」を讃え、真と善と美に拠って立って生きれば良いのです。
これが宇宙と人間の意味です。
この宇宙の中に存在するこの星の、そしてこの帝国の中における貴族、騎士、庶民、奴隷の区別など何の意味もありません。それは単に人々が生きていくための方便としての約束事にすぎません。人が宇宙を超えた世界に思いを致せばそんな約束事などどうでも良いことなのです。
しかし、宇宙を超えた世界は、この世界にいる人間には、決して理解できることではないのですから、それについては時に神聖なる精神によって心を満たすだけで良いのです。折角、この宇宙に人として生を受けたからには、この世界において真と善と美に拠って立って正しく生きれば、それだけで良いのです。
3 アインセーラ
アインセーラの母アイは美しい人であった。が、奴隷階級の女性であった。十代の後半を迎えようとするとき、アイはアインセーラを身篭った。父親は母の仕える貴族階級の男だった。
貴族の息子の母となったアイは奴隷身分から解放され、主人の邸宅から程近いアルトハープの街中に一軒家を与えられ、そこでアインセーラを育てた。
時折その家を訪れる父は、いかにも貴族然としており、風采も立派であったから、アインセーラにとって父は憧れの存在であった。
しかし、その父はアインセーラをかまうことはしなかった。アインセーラは父親が家を訪れたときはいつもひとりで兵隊将棋をして遊んだ。
アインセーラが五歳の時のことである。その日は何か良いことがあったのか、いつになく機嫌の良かった父親はアインセーラに
「どうした。今日はいつものように兵隊将棋はやらないのか」
と話し掛け、さらに
「よし、今日は私が相手をしてやろう。兵隊将棋を持っておいで」
と告げた。常に無い、優しい口調だった。
傍らにいたアイもこの突然の出来事に驚いた。
父親が声を掛けてくれた。しかも遊んでくれると言っている。アインセーラは有頂天になった。
アインセーラは大急ぎで、自分の部屋から兵隊将棋を取ってきて父親の元に走っていった。だが、あまりにも慌てていたせいで、アインセーラは父の足元に兵隊将棋の駒を全部ぶちまけてしまった。あわてて駒を集めようとするアインセーラ。しかし、駒がうまく手につかない。あせればあせるほど、何度も駒を取り落とした。
「ちっ」
父の舌打ちする音がアインセーラの耳を打った。
「たまに遊んでやろうかと思ったら、何だ、その様は。もういい、外で遊んで来い」
アインセーラの目から大粒の涙がこぼれた。
アイが叫んだ。
「旦那様、お願いします。遊んでやってください。この子は旦那様にとても憧れているのです。ほら、アインセーラ、早く、旦那様にお詫びして」
しかし、一旦気分を害した父親の気持ちが元に戻ることはなかった。
アインセーラは父親との間に何の美しい思い出も持てなかった。
アインセーラにいつも優しかったアイは、アインセーラが七歳の時に亡くなった。
アインセーラは父の邸宅に住むことになったが、その日常は貴族の息子としてのそれではなく、下男同然の扱いであった。
母のことを思い出すたびにアインセーラは、その幸うすき人生を偲んだ。
「何故、人間には身分があるのか」
少年アインセーラが心に抱いた最大の疑問だった。
長ずるにつれて、アインセーラは世界のあり方に深い疑問を感じた。
アインセーラは夢想する。身分の一切無い世界を。そして、人々が愛に満ち溢れて、毎日を過ごすことのできる世界を。
青年となったアインセーラは世界と対峙して、おのれの思想を人々に対して説いた。
彼の思想の中核にあったものは、上層階級の人々に対する恨みでは無かった。
アインセーラは人々にかく語った。
「私は、この世界に存在する身分制度をそのままに受け入れることはできない。私は貴族階級の男を父として、奴隷階級の女を母として生まれた。私は母に育てられていく中で、社会の最下層にいる奴隷たちの悲しみを知った。しかし、私は、成長するに連れて、人々から低く見られている人々こそが神の栄光により近い場所にいる人であることを理解した。虐げられる人の心の中には自惚れも高慢も無い。人間としての栄光や名誉に無縁な人々こそが神の栄光を受けられる人だ。謙虚さと感謝の感情こそが神の栄光に最も近い。全ての人を神の栄光に浴するようにするためにも身分制度をこの世界からなくさなければならないのだ」
4 草原の汗
ルーレアートは夜空を見上げた。
六年前、初めて草原の地にやってきたとき、ルーレアートは空の広さに驚嘆した。見渡す限りの草原。周囲全ての方向に広がる地平線。天はそれがありうる最も低い位置から地を覆っていた。
昼、草原の空はどこまでも青く、時折浮かぶ雲は、帝国で見るそれとはどこか違っていた。
夜、ルーレアートは輝く星の多さに心をふるわせた。草原で見る星空は、帝国と同じようでいてどこか違っていた。そして空に輝く星の数は帝国のそれを凌駕していた。
天空の星を見るとき、ルーレアートは常に畏敬の念にかられる。そこに、あるいはその先に、ルーレアートは人の及ぶことの出来ないはるかなものを感じた。人は決してそこに届くことはないということも感じていた。
だが、今夜のルーレアートは空を見上げても、そこに思いを馳せることはなかった。ルーレアートの心は地上のことで占められていた。
ルーレアートはこの数日間、心に鬱勃たるものを抱えていた。そして今夜、彼は自らが仕えるエルラス汗と会うこととなった。
ルーレアートはエルラス汗がひとり思索にふけるときに使用するゲルの外幕を開いた。
「汗、ルーレアートです」
「入れ」
低く、それでいてよくとおる声で汗のいらえがあった。
ルーレアートは内幕を開きゲル内に入った。
正面にエルラスが座っていた。
座っていても汗が雄大な体躯の持ち主であることは見て取れた。そして人を射すくめる眼光の持ち主でもあった。
「そなたの方から俺に会いたいと言って寄越したのは初めてだな。しかも二人だけで会いたいということだったな」
「ご無礼お許し下さい」
「いや良い。今後とも俺に会いたければいつでも面談を差し許すぞ。そなたならば、退屈することはあるまい。まあ座れ」
エルラスは自分と向かい合う位置に置かれた椅子を示した。椅子の大きさは、エルラスの座るそれと同じだったが、ルーレアートが座ったとき、ルーレアートはエルラスの顔を見上げることになった。ルーレアートは長身といっていいだけの背の高さはあったし、エルラスも背の割に座高が高いというわけではない。
「どうした。ずいぶん深刻な顔をしておるな」
「汗、汗はまもなく草原を統一為されましょう。私は汗のお側に仕えて、その大業を目の当たりにできるおのれの幸運を喜んでおりました」
「ふむ」
「しかし、最近ある想念が浮かんだのです。今、そのことは確信に変わっております」
エルラスは黙ってルーレアートの話を聴いていた。
「汗、汗の最終的な望みは草原の統一にとどまるものではありますまい。汗は、草原を統一したあと、ラグーンと事を構えるおつもりではありませんか」
エルラスは完爾として笑った。
「やはり、最初に気がついたのはそなたであったか。そのとおりだルーレアート。が、訊いておこうか。何故、その結論に達した」
「その人が、一体何を最も欲するかで、その人の行動は決まります。汗が最も欲することは何かを考えました。それは「勝利」です。それも最大の栄光をともなった「勝利」です。汗が草原を統一したとき、彼の地には帝国ラグーンが何ら変わることなく、そこにあり続けます。さらなる栄光の対象がある限り汗はそれを求めるお人です」
「見事だな。ルーレアート」
「しかし、何故なのです、汗。この地にやってきてまもなくのことでした。何かの話の折りに汗はわが友人ラシアスのことを口にされました。「最近ラグーンで話題になっているラシアスという者はそなたの友であったな」と。そして、手紙のやり取りをするためにわざわざ、オルエン殿を連絡の役とし、私にこう申されました「そなたがこの草原で見聞きし、重要と思うことはすべて書き送れ」と。ラグーンの情報をつかむためであれば、汗は他にいくらでも方法があったはずです。現に汗は何百という人々を帝国全土に情報収集のために派遣しておられるではありませんか。そのことを防衛的な意味にのみとらえていた私は今、己の不明を恥じております。なぜ、将来、戦おうとする相手に対してそのようなことをなされたのです。私は汗のこれまでの戦いぶりも事細かく書き送っているのですよ」
「何故、と訊ねるのか、ルーレアート。その答えは既にさっきそなたが出しておるではないか」
ルーレアートは黙ってエルラスの顔を見つめた。
「最大の栄光を求める、そう言ったなルーレアート。そのとおりだ。俺はな単に帝国を征服するだけではない。俺にとってよりよき相手となった帝国を征服したいのだ。弱者を打ち破るより、最高の強者を打ち破ってこそその栄光は輝く」
「汗、あなたは何ということをおっしゃるのです。あのラグーンを、三千年の歴史をもつラグーンを、この草原を除いた全ての世界を領土とする史上最大の帝国を、今のままでは相手として不足である、とおっしゃるのですか」
「さっきからそう言っておる」
「何故、ラシアスを選ばれました。いや、汗はラシアスの傍らにいるもうひとりの男も意識しておられますね。何故、ラシアスとアル・ラーサを選ばれました」
「天才だからだ。おれは平凡な男を相手にするつもりはない。本来であれば皇帝であるナル・アレフローザを相手にしたいところだが、あやつはだめだな。元々は極めて英邁な男だったが、心に陰翳がありすぎる。おそらくはあの皇后が原因であろうが、現実を素直に受け入れ、自らの欲望に忠実な男でなければ、たとえどんなに才能があっても大業をなすことはできぬ。ラシアスとアル・ラーサの二人については世に顕れて来たときからじっくりと調べさせてもらった。ラシアスと手紙のやりとりをするそなたという者もいたしな」
エルラスはここで軽く笑った
「もっとも、アル・ラーサという男もいささか現実を直視できぬ部分があるようだがな。だが、奴の場合はそのことを、おのれが本来なすべきことにはいささかも影響させてはおらぬ」
「しかし、汗はラシアスからの手紙を一度も「見せろ」とはおっしゃらなかった。あるいは、失礼なことを申し上げますが、オルエン殿の手から事前にお読みになっていたのですか」
「たしかに失礼だな。俺がそんなことをする男に見えるか。読みたければ直接そなたに言うさ。読む必要はない。帝国の諸情勢を書き送ってくるなら、ラシアスが何を重要と考え、何をそなたに書き送ってくるか見当はつく。俺がそなたに訊ねたのはそなたと一緒に育ってきた過程において彼がどういうことを話し、どういうことを行ってきたかであったはずだぞ」
「汗、彼ら二人は未だ、帝国において国全体を動かすに足る実権を持ってはおりません。対等の相手にはなりえますまい」
「待つさ。遠からず実権を握ることになろう。俺が考えている時間の内に実権を握ることができぬとしたら、あやつらもそれまでの男だったということになる。もっともその場合でも帝国を征服することはやめんぞ。次善の栄光で我慢するとしよう」
「汗、汗はどうしても帝国と戦うとおっしゃるのですね。しかもおのれの栄光を求める心を満たすだけのために。それでは大義名分が立ちますまい。帝国そのものに何か鉄槌を下す必要のある理由は見い出せないのですか」
「ないな。まあ、いろいろと不満に思う奴もいるだろうが、ラグーンという国は仲々に見事な仕組みを持った国だ。これまでの世界の歴史を鑑みて、様々な国家の滅亡の原因となったものを省みて今の仕組みを作り上げている。才能のあるものは、身分に関わりなく、世に出て国家を動かすことの出来る地位に昇ることができる。才能がない者も飢えることはない。何より素晴らしいのは世界を平和に保ち、人と人が殺し合う戦争を起こさぬことに最大の努力をなす点だ」
「その帝国にあえて戦いを挑もうとするのですね、汗。なぜなのです。戦争を起こさぬことこそ素晴らしい、と今おっしゃったではありませんか」
「俺が天才だからだ。帝国は凡人にとっては最高の国家だ。だが、天才は別の論理で行動する」
「では私は、帝国で生を受けた者として、おのれがなすべきことをなさねばなりません。私は今、帝国の民を代表して汗に対します。帝国の、一億八千万人の人々の幸福を守るために、汗。あなたを今この場で亡き者にせずばなりません」
「大言をはいたものだな。この俺と一対一で勝てると思うのか。アルーサの騎士、一七万。俺に勝てる男はひとりもおらんぞ」
「おそらく、こういう話になると思い用意してきました」
ルーレアートは懐から携行用の片手で操作できる小弓を取り出した。矢筈は既に弦にかかり、ルーレアートが指を動かせば留め具ははずれ、直ちに発射できる状態になっていた。
エルラスの胸に矢を向けた。
「この距離でしたら、急所をはずすことはありません」
だが、エルラスはいささかも動じなかった。
「嘘は言わぬがよいぞ。ルーレアート」
エルラスは決めつけた。
「そなたが平和を望んでいるというのか。ではなぜ、今まで手を拱いていた。俺はこれまでアルーサ周辺の部族を切り従えてきた。そなたがこの地にやってきてからも何度も戦ったぞ。草原での戦いだから、帝国とは関係ないことだから傍観してきたとでもいうのか。違うな」
エルラスの目が光った。
「お前は平和など望んではいない。お前は来る年も来る年も魂が震撼するようなことは何も起こらず、本質的には同じ事が繰り返されているにすぎない今の時代に飽き飽きしていたはずだ。そのお前が今ここで俺を殺して元のとおりの毎日を続けるというのか。無理だな。お前にはできんよ」
ルーレアートは沈黙を続け、エルラスの目を見返すだけだった。
「お前がなぜ、そう思うのか。俺が教えてやろう。それはお前もまた、天才だからだ。お前の講義は何度か聴かせてもらった。人にものを教えるということは、おのれという人間のもつ全てを外の世界に投げ出すということだ。人並みの幸福を望むような男にできる講義ではなかったぞ。ルーレアート、お前こそ何を望んでいる。」
ルーレアートは沈黙を続けた。
「で、そなたはどうする。今すぐ、帝国に戻るか。それとも草原が統一されるのをその目で確かめてからにするか、どちらでも構わんぞ。帝国に天才が三人揃えばあるいはこの俺に抗することも可能かもしれんぞ」
ルーレアートは立ち上がった。
それまで、エルラスに向けていた矢ともども弓を投げ捨てた。
黙ったまま、ゲルの中をゆっくりと歩いた。
しばらくして、再び着座した。
「汗、あまり見くびらないでいただきたい。汗が帝国に侵攻するというのなら、その対応策などいくらでも思いつきます。私ひとりで充分です」
エルラスが面白そうにルーレアートを眺めやった。
「自分が一体何を一番、望んでいるのか。今判りました」
エルラスは次の言葉を待った。
「あなたと戦うことです」
エルラスは呵々大笑した。
「そうか、それがそなたの望みか。最も聴きたかった言葉を聴かせてもらった。礼を言うぞ」
「ひとつ教えていただきたい。汗は帝国を征服されたあと、どうするのです。そのまま、帝国にとどまるおつもりですか」
「成る程、こう言いたいのだな。仮に帝国との戦いに勝利して帝国を征服したとしても二百万人で一億八千万人を支配し続けることは無理だと」
「そうです」
「そんなことはないぞ。帝国の民に支配者である草原の民に対する恐怖を心底から植え付ければ良い。二百万人を帝国に満遍なく散らばせてしまえば支配することは無理だが、帝国の要地数ヶ所に騎士をまとめて駐屯させ、謀反ありときけばただちにかけつけ、反乱をおこした民を徹底的に殺戮すれば良い。さすればやがて反乱もおさまろう。このやり方なら、数十年、あるいはうまくいけば、百年くらいは支配を続けられるだろう」
「百年ですか」
「ああ、それ以上は無理だな。世代が変わって草原の民が帝国の気風に染まってしまうだろう。そうなってはもう支配できまい」
「いずれにしても仮のお話ですね。今、おっしゃられたこと、汗におできになることではない。それをしてしまえば、汗の栄光は殺戮者としての悪名の陰に隠れてしまいましょう。もう一度、質問を繰り返します。征服されたあとどうなさるのです」
「草原に帰るさ。征服されてしまった帝国に用はない。ただ、エルラシオンは帝国にとどまりたい、と考えるかもわからぬがな。まああやつはあやつで好きなように生きればよかろう。で、さっきの俺の質問に対する答えはどうした。いつ帝国に戻る」
「草原の統一まで見させていただきましょう。汗がどう戦われるのか興味があります」
「そうか。そなたは今度の戦いをどう考えているのだ」
「汗には多くの課題があります。今度の相手はアルーサの二倍の騎士を持ちます。私は、汗はこれを逆にしてから一大決戦を行うと見ていたのですが、汗は今この時点で草原を二分した、草原における最終決戦を行うことを決心なさいました」
「なぜ、そうしたと思う」
「これ以上草原同士の戦いで、草原の騎士を減らしたくないからです。帝国と戦うという汗の最終目的が明らかになれば、当然、そうあらねばなりますまい」
「で、きたるべき戦いにおける俺の課題というのは何だ」
「双方の騎士を損なうことなく勝利すること。そして、テグリとテグリを盟主と仰ぐ諸部族を、テグリの族長スクタイ汗も含めて戦いの後には汗の命に喜んで服するようにしなければなりません。そうでなければ、帝国と戦うことはできません」
「ずいぶんと難しい課題だな」
「汗はすでにその課題を解く方策が胸にあるからこそ、今の時点での開戦を決心為されたのでしょう」
「俺の胸にあることが、そなたには判っているかのような物言いだな」
「スクタイ汗は己の名誉を重んじ、そしてそれにとらわれる人物です」
ルーレアートはにっこり笑った。
「では汗、これにて失礼いたします」
「うむ」
内幕を開けようとしたルーレアートをエルラスが呼び止めた。
「ルーレアート」
「何でしょう」
ルーレアートは振り返った。
「忘れ物があるぞ。さっきそなたが投げ捨てた小弓だ。それとも俺にくれるのか」
「どうぞ」
「ところで、そなたずっと懐に小弓を入れていたようだが、危ないとは思わなかったのか」
「は」
「何かの拍子に懐のなかで留め具が外れたら大けがをしていたぞ」
「……」
「まさか気がついていなかったのではないだろうな」
「失礼いたします」
ルーレアートはゲルを去った。
残ったエルラスは含み笑いをしながらひとりごちた。
「ルーレアートよ。貴様とんでもないタマだな。今日は貴様がどの程度の男か心底まで見てやろうと思ったが、まだあれだけのものを隠していたとはな。面白い、面白いぞルーレアート。俺はこれまでの人生で初めて俺の想像の上をいく男を見たぞ」
5 皇帝
アル・ラーサはラシアスの官舎を訊ねた。ラシアスの書斎に入った。ラシアスの執事バルが飲み物を持ってきた。応接机の上にそれぞれの好みの飲み物を置いた。
アル・ラーサは茶托から椀を取り上げ、左の手のひらに載せ、右手を脇に添えた。一度息ふーっと吹きつけゆっくりと喫んだ。一口喫んではーっと息を吐く。
「うーんうまい。ありがとう、バル。今日はサヤマだね」
「さようでございます」
ラシアスが顔をしかめた。
そんなラシアスをアル・ラーサはにやりとして見る。
「香りといい、熱さといい、茶の葉の量といい申し分ないな。父のてほどきだな」
「ええまあ。昔、仕込まれましたから」
「たまには父親と会っているのか」
「いえ、ここ一月ばかりは会っておりません」
「どうして。遠くに住んでいるわけでもあるまいに、たまには父親に顔を見せてやれ。隣ではないか。ロイも待っているだろうに」
「は、ありがとうございます」
バルは恭しく礼をすると書斎を出ていった。
バルは思う。アル・ラーサ様はラシアス様のご友人として申し分のないお方だ。何と言ってもラグーン最大の英雄なのだから。しかし、人の私生活に口を出すのが欠点だな。いらっしゃる度に同じ事を言われる。ほっておいていただきたいものだ。二十歳を過ぎた男が自分の父親と何を話すことがあるというのだ。
「お前本当に嫌みな奴だな、ラーサ」
「ん」
「仕方なかろうが。俺とお前では育った環境が違う。俺は一七歳まで一番安いインスタン地方の豆で煎れたコーヒーしか喫んだことはなかったんだからな」
「何だ、その話か。お前も東洋茶にしろ。いいぞ東洋茶は。俺がじっくりと教えてやる」
「さてと、やはりシューター子爵は上への報告を同意されなかったのだな」
「うむ、、立太子問題で頭がいっぱいのようだ。もう少しは物の判る方だと思っていたが、ことの軽重が判っておられぬ」
「お前にしては珍しく迂遠なことをしたものだな。ことを即時に決することのできる権限をもつ人物に直接話さねば意味をなすまい。参謀総長への報告を希望したというが、総長とて、ことを即、決するという訳にはいかぬ立場だぞ」
「うむ、俺としては帝国軍人としての筋を通したかったのだが、そうも言ってはおれぬようだな」
「うむ」
「で、ラシアス。お前は誰に話を持って行くべきと考えているのだ」
「今、帝国で自らの判断で大事を決することのできる立場にいるのは二人だけだ。ひとりは言うまでもなく、ナル・アレフローザ陛下。そしてもうひとりは」
「オビディウス・ローザン公だな」
「さよう」
「で、お前はどちらに話を持って行くつもりだ、ラシアス」
「オビディウス公だ」
「そうか」
「お前は違うわけだな」
「俺は、近衛の連隊長だ。陛下側近の立場にいる者だぞ。俺としては陛下自らに動いていただきたい、と思う」
「たしかにそれこそ最も望ましいことだ。それが正当な形だ。だが、ラーサ。お前は本当にそれがいいと思っているのか」
「ううむ」
「かつての陛下であられたら、そうするのが当然のことだったろう。政務をとって誤りのあるお方ではなかった。しかし、今の陛下は違う。そうでなければ、イリューシュト殿下を皇太子になさろうなどどはなされまい。これはいかにも無理のあることだ。今の陛下は現実をご覧になる目が曇っておられる」
「俺に同意しろというのか」
「ラーサ、お前に訊ねる。お前の、最大の忠誠の対象は何なのだ。陛下個人か、それともラグーンなのか」
「判った。同意しよう」
しかし翌日、事態は急変した。
ラシアスの元へルーレアートから手紙が届いたのだ。
ルーレアートはその手紙で、エルラス汗と自らのやり取りをそのままに正確に記述していた(最後の部分は省いていたが)。
そしてその手紙の末尾にはこうあった。
「今、そなたたちが為さねばならぬ事を為せ」と
ラシアスはその手紙を持ち、アル・ラーサの官舎を訪れ、ただちにアル・ラーサに披露した。
アル・ラーサは読み終わった。
「いつもは簡潔明瞭な手紙を寄越すルーレアート殿も今回は違ったな。エルラス汗とルーレアート殿のやり取り、まるで戯曲を読んでいるようだった。もっとも、たしかに此の方が、汗がどういう人間なのかがより判る」
「ラーサ」
「何だ」
「俺は方針を変えるぞ。事態はより切迫している。オビディウス公を動かし、草原に対応するに足る体制を作り上げようと思ったが、そのやり方では間に合わぬ」
「で、どうする」
「「俺達が帝国の実権を手にするまで待つ」か、成る程、汗がそう望んでいるのであれば、それに答えなければなるまい。」
「ふむ」
「なあラーサ」
「ん」
「どうだ。ふたりで帝国を奪うか」
アル・ラーサはラシアスを見た。その目には非難の色があった。
「やはりいやか。それが一番早いのだがな。戦いが終われば陛下に大政を奉還すればすむことだ。しかしまあやめておくか。俺もお前と戦う気はないしな。要は俺達が帝国最高の実権を握れば良いことだ。俺達にそれを与えることができるのは陛下だけだ」
「しかし、お前は昨日、今の陛下は現実をご覧になる目が曇っておられると言っていたではないか。陛下を説得できるのか」
「陛下に変わっていただく」
「何だと」
「陛下がなぜああなられたのか、俺には判る。その原因を取り除いて差し上げればそれで良い」
ラシアスはこの言葉を苦悩に満ちた顔で告げた。
「さあ、アル・ラーサ。陛下に会っていただこう」
ラシアスは応接机の上に広げられていたルーレアートの手紙に視線を落とした。
「それにしてもルーレアートの奴、良くぞ言ったものだな。「私ひとりで充分です」か。エルラス汗の身近にいながら、俺とほぼ同じ時期にしか、汗の野望を見抜けなかったくせに。奴が帝国に戻ってきたら、さぞや働いてくれることだろう。俺は高見の見物としゃれこむかな」
帝国職階表にその名を記した者は、皇帝と直接、面談する権利をもつ。それはラグーン法大全に記された条文である。従って、ラシアスもアル・ラーサも確かに皇帝に面談を求める権利はあった。だが、今ではその条文は形骸化しており、実際には直接皇帝に面談できるのはよほどの高官に限られていた。
が、ふたりは宮内省を通して古来の条文施行規則どおりに皇帝に面談を申し込んだ。
面談希望者がいる旨の侍従よりの報告を受けた皇帝ナル・アレフローザは侍従の捧げる面談希望者の名前を見た。そこに興味あるふたりの名前を見出した皇帝は即座に面談を許した。
ふたりは侍従の案内で皇帝の謁見室に通された。
「帝国最大の英雄と、帝国最高の頭脳をもつ男が予に何の用かな」
ラシアスが答えた。
「陛下、結論から申し上げます。われらふたりに臣下としての最高の実権をお与え下さい」
「これはまた唐突な申し入れだな。理由を聴こうか」
「まもなく、草原の騎士がこのラグーンに侵攻してくるからです」
ラシアスは、簡潔にナル・アレフローザに説明した。草原の現下の情勢とエルラス汗の野望を。
ナル・アレフローザは聴き終わった
「で、草原がこの帝国に侵攻してくるというのか。いつだ」
「草原が統一されたあと、遠からずやってまいりしょう」
「とはいえ、現実には、そのエルラス汗という男は未だ、草原の三分の一をまとめただけではないか。仮にその男が将来、草原を統一することが出来たとしてもそれはずっと先のことであろう」
「いえ、私は、その日は近いと考えております」
「根拠は何だ」
ラシアスは言葉につまった、エルラス汗は天才だからです。と言ってもナル・アレフローザに理解できることではない、と思った。まして自分も天才であるから、草原が直ちに統一されることが判るのだ、と言うことは躊躇した。また、ラシアスが観察するに皇帝は何か別のことに気をとられているようであった。であれば、皇帝に話をさせるべきであろうとラシアスは考えた。
「どうやら根拠はないようだな。今日はいささかがっかりしたぞ。そなたが、風説と推定だけで取り乱す男とは思わなかった。そなたの望みをかなえてやることはできぬ。が、まあたしかに、ラグーンはこれまで草原を意識の外においていたのは事実だ。今後はその動きに注意をはらって行く必要があるな。で、用件はそれだけか」
「はい。とりあえずは」
「では折角、帝国最大の英雄と帝国最高の頭脳が来てくれたのだから、訊いておこうか。既に聴き知っているだろうが、近く立太子問題がラグーンをゆさぶる。候補は予の一子イリューシュトと弟のニコラスだ。予はイリューシュトを皇太子にしてやりたいのだ。これまで良く尽くしてくれたアイリーンにむくいてやりたいと思うのでな。が、正直言って状況はいささか予に不利だ。皇帝といっても、そんなことも自由にできぬのだからつまらん話だ。どうだ、予につかぬか。高名なそなたたちが予につけば、状況は変わるだろう。イリューシュト立太子の暁には重く用いるぞ。最初にそなたが言った申し入れも考慮する」
「いえ、イリューシュト殿下は皇太子としてふさわしいお方ではありません」
「ニコラスを推す側につくというのか」
「いいえ」
「では中立を決め込むつもりか。若いに似ず世慣れたことだな。だが、そのような態度では帝国最高の権力は手に入らぬぞ」.
.「ラグーンの皇太子にふさわしいのは、皇后陛下がこれからお生みになる皇子です」
「何を言う。予とルーセイラが不仲なのはそちも知っていよう」
「陛下、陛下にお尋ねいたしたいことがあります。ご質問をお許しいただけますでしょうか」
「許す」
「陛下は皇后陛下に陛下のお気持ちを素直にお伝えしたことがおありですか」
「予の気持ちだと。予がどう考えているというのだ」
「陛下は誰よりも皇后陛下を愛していらっしゃいます」
ナル・アレフローザは一瞬虚を突かれたような顔をした。しかし、すぐに元の表情に戻った。
「ラシアスよ。もう一度言おう。そなた、予と皇后が不仲であるとの評判を耳にしたことはないのか」
「ご評判ならいくらでも聴いております。しかし、私はそのことに関して直接、陛下からお気持ちをお聞かせいただいたことはありません。陛下どうかお聴かせ下さい。いえ、実はお聴きするまでもないのです。陛下が皇后陛下を愛していらっしゃることはあまりにも明瞭ですから。しかし、陛下。陛下ははっきりとお口にお出しにならなければなりません。皇后陛下を愛していると」
ふっとナル・アレフローザの口元に微笑が浮かんだ。
「不思議なものだな、ラシアス。予がルーセイラと結婚してから一四年経つが、予のまわりにいたものの誰ひとりとして、予の気持ちをそのようにあっさりと言い当てたものはいなかったぞ」
ナル・アレフローザは言った。
「愛しているさ。予は誰よりもルーセイラを愛している」
ラシアスは完爾と微笑み頷いた。
「ラシアスよ。何故判った」
「皇后陛下が余りにもお美しいからです」
「何」
「此の世に男として生まれて、あれほど美しい方を愛さずにすませられるはずがありません」
皇帝は笑い出した。
「そうか、一体何故判ったのか不思議だったが、そのように単純な理由だったのか。そうだな。たしかにそうだ。此の世にルーセイラほど美しい女はいない。ルーセイラを知った以上、他の女を本当に愛せるはずがない」
ラシアスはうやうやしく一礼した。
「しかしラシアスよ。予の気持ちはたしかにそのとおりだが、ルーセイラは予のことを愛してはおるまい。結婚した当初から予とほとんど口をきいたこともないのだぞ。もし、いささかなりとも愛しておればそのような態度はとるまい」
「申し上げます。それは陛下にあらせられても、皇后陛下にあらせられても特別なお育ちだったことが原因です」
「ん」
「陛下はご幼少のころより特にご自分のお気持ちをおん自ら述べられなくとも陛下の、まわりのお付きの方々が陛下の意あるところを忖度なさっておられたはずです。ですから陛下はいざ、ご自分の愛する方をおん目の前にしたとき、その方も陛下のお気持ちをきちんとそのままに想像されると思われたのです」
皇帝はラシアスの話しを黙って聴き続けた。
「しかし、ここでもうひとつお考えにならなければいけないのは皇后陛下も又、陛下とご同様にお育ちになったということです」
「では……、では……」
皇帝が驚きの表情を浮かべた。
「ルーセイラも予のことを愛しているというのか。そして、あやつも予が自分のことを嫌っていると思い込んでいるというのか」
「ご賢察のとおりです」
「莫迦なことを言うな。そなたはさっきこう申したではないか。此の世に男と生まれてルーセイラを愛さない男などいないとな。ルーセイラも自分がどれほど美しいかは判っておろう。なぜ、嫌われていると思うことがあるのだ」
「陛下、帝国の臣民はそのように思っております。そしてみな不思議がっております。何故、あれほどお美しい皇帝陛下と皇后陛下がお互いに不仲なのであろうと。そして陛下。陛下ご自身もおん自らその誤解をお解きにはなりませんでした。陛下は先程、こう申されました。「予とルーセイラが不仲なのは知っていよう」と」
皇帝は黙ったままだった。
「陛下、先程、陛下がおっしゃられたことを、立場を変えてそのまま繰り返します。此の世に女と生まれて陛下のことを愛さない女性はおりません」
「何故だ。さっき予のことを美しいといったな。しかし、仮にそうであったとしても、男と女の違いを考えにいれてもルーセイラの美と予のそれとでは美しさの桁が違うぞ」
「ご一緒です、と申し上げればそれは陛下に諂っていることになりましょう。陛下のおっしゃるとおりです。しかし、陛下は特別な方なのです。若い女性が将来の伴侶を夢に描くときにこういう言い方をします。「白馬に乗った王子様がいつか私を迎えに来てくれる」と。陛下は文字どおり、正真正銘の王子様でいらっしゃいます。いえ、王子様以上ですね。皇太子であらせられたのですから。若く、美しく、心優しい皇太子殿下。これだけものをもっておられた若き日の陛下以上に若い娘の胸を焦がすことのできる男はおりません」
「そうか、結局そういうことなのか。予は皇帝になるべき男であったからこそルーセイラに愛されたというわけなのだな。予自身ではなく」
「陛下、どうか思い違いをなさらないで下さい」
「ん」
「陛下は先帝陛下のご長男としてお生まれになり、生まれながらにして皇太子であられました。帝国の民にとってナル・アレフローザという人間は存在しません。皇帝ナル・アレフローザが存在するだけなのです」
このことばを聴いたとき、ナル・アレフローザの全身を電光が貫いた。
皇帝は立ち上がった。そして、天を見た。
しばらくして、皇帝は再び座った。その時、皇帝は生まれ変わった。皇帝は自らの運命をようやく理解した。皇帝はただ皇帝として生きるべきであるということに。
「陛下、それでは本日はこれにて退席致します」
「ん、先程の用件はどうなった。草原に関する事柄は」
「陛下、事の軽重を誤ってはなりません。今の陛下にとって一番大切なことは一刻も早く皇后陛下のもとへいらっしゃって、「愛している。初めて逢ったときから愛していた」と
おっしゃることです」
「そうか、なあラシアス」
「はい」
「思えば予も無駄な人生を歩んだものだな。その一言を言わなかったばかりに一四年も苦しむことになった。ルーセイラも今は、若い貴族と浮き名を流している。無理もない。予にずっと放っておかれ、予は他の女性との間に子までなしたのだからな。予さえ素直であったなら、ルーセイラが他の男に身をまかせることなどなかったであろうに」
「そのことでございましたら、ご懸念には及びません。陛下は皇后陛下から最もお聴きになりたかったことをお聴きになるでしょう。ではこれにて失礼いたします」
ラシアスはアル・ラーサに呼びかけた。
「ラーサ、帰ろう」
ラシアスとラーサは退席した。
謁見室を出るなりラシアスはアル・ラーサに言った。
「お前、とうとう最後まで一言も話さなかったな」
皇宮を退出したその足でラシアスとアル・ラーサはアル・ラーサの官舎に直行した。
執事ロイが二人の好みの飲み物をそれぞれの席に置いた。ロイは驚いた。コーヒーに口をつけたラシアスが何も言わないのだ。ロイはじっと待った。しばらくして、アル・ラーサがロイに下がるように命じた。ロイは寂しかった。
「ロイ」
ロイが部屋を出ようとしたとき、ラシアスが呼びかけた。
「はい、はい、何でございましょう。ラシアス様」
「いつもありがとう。今日はエスプーリャの豆だね」
ロイは吃驚した。そのとおりだった。
「ラシアスよ。今日は結局、本来の目的は果たせなかったな」
「いいや、果たしたさ」
「うん」
「なあラーサ。人が自分の最大の悩みをある人に解決してもらったとき、その人にどういう態度をとると思う」
「どういう態度をとるのだ」
「その人に対する大いなる感謝と、全面的な信頼だ。数日も経たない内に陛下からお呼びを受けるさ。おそらくは明日だろうがな」
「そうか、成る程なあ。だがそれにしてはお前ずいぶんと表情がすぐれないなあ」
「お前、判らないのか。本当に鈍い奴だな。俺は今日、失恋したんだぞ。それも最大のライバルに最高の恩恵を施してな。俺は人生の最大の目標をなくしてしまったんだぞ」
「そうか、そういうことだな。なあ、ラシアス」
「なんだ」
「話してくれ。じっくりと聴いてやるぞ。二八回目だな」
ラシアス、アル・ラーサとの面談が終わった後、皇帝はただちに皇后の居室におもむいた。
そして、ラシアスに言われたとおりのことをルーセイラに伝えた。
その瞬間にルーセイラの目からこぼれる涙を見て、皇帝はラシアスの言ったとおりであることを全て理解した。
皇帝はラシアスの退席間際に彼に告げたおのれの後悔も皇后に話した。皇后の返事はこうだった。
「陛下、そのようなご心配をおかけして誠に申し訳ありません。しかし、私には、陛下がおっしゃっておられるようなことはいっさいありません。たしかに、私は、陛下にはっきりと疎んじられていると思ったときから帝国内の若い貴族の方々との遊興に時間を費やしました。時に朝までともに時を過ごしたこともございます。しかし、陛下がご懸念なさっておられるようなことはいっさいございません。この唇も誰にもふれさせてはおりません。個室で殿方と二人きりになったこともございません。陛下と結婚する前もです。私は生涯、陛下以外の殿方とそのようなことを行ったことはございません」
皇帝は皇后を抱きしめた。
「そうか、そうだったのか。帝国の臣民はこのように言っているそうだ「十五歳を過ぎて男を知らない女を捜すのは砂の中に砂金を捜すようなもの」とな」
皇帝はさらに皇后を強く抱きしめた。
「ここに砂金があった。いや砂金などではない。ルーセイラよ。そなたこそ、この帝国において最も美しい宝石だ」
その夜、二人は眠らなかった。
愛の行為が為されたというだけではない。二人はお互いが出会ってからの歳月を、十数年の歳月を取り戻すかのように今に至るまでのお互いの気持ちを語り合ったのだった。そう、まるで少年と少女のように。
翌日、ラシアスとアル・ラーサは皇帝よりの使者を受け、皇宮に呼び出された。ラシアスには特に「ルーレアートから送られて来た書状を全て持参するように」との命があった。
二人は、昨日とは違って、皇宮内で、もっと奥まった居室に招じられた。そこには皇帝ともうひとり、帝国で最も美しい女性が二人を待っていた。
「ラシアス、アル・ラーサ。紹介しよう。ルーセイラだ」
「はじめまして。ルーセイラです」
「は」
ラシアスは一声発したきり何も話さない。ただ、ルーセイラを見つめるだけだった。その視線の激しさにルーセイラは思わず目を伏せた。
やむをえず、アル・ラーサが答えた。
「皇后陛下のご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
「はい、あのラシアス」
ルーセイラがラシアスに声をかけた。
「あなたのことは昨日、陛下から聴きました。ひとこと御礼を申し上げたく、本日は陛下にお願いしてこの場に参りました」
「皇后陛下、私は陛下にお逢いするのは初めてではありません」
ルーセイラが怪訝な顔をしてラシアスのほうを見る。
「一三年前、ナルオでの神殿修復式の際、当地の学生を代表して、陛下に花束を差し上げました」
「そう、そうだったのですか。一三年前といえば、私が陛下の元に嫁いだ翌年のことですね」
「さようです。陛下、その日私が心に誓ったことを今、この場で申し上げます」
「……」
「私の全てを捧げて皇后陛下に忠誠を誓います」
「私にですか。皇帝陛下ではなく」
「さようです」
ルーセイラは皇帝のほうを見た。ナル・アレフローザが静かに頷いた。
「判りました。あなたの忠誠をこの身に受けましょう。光栄に存じます」
「は」
ラシアスはルーセイラの元におもむき、その右手をとり、甲に恭しくキスをした。自分の最も愛する人への生涯最初の、そしておそらくは最後のキスだった。
ルーセイラは退室した。
「ラシアス」
「は」
「そうか、そういうことだったのか」
「そういうことです」
「そういえば、そなた昨日、こう言ったのであったな。此の世に男として生まれてルーセイラを愛さないはずがないとな。予はまだまだ、想像力が不足しておるな」
「どうか、失礼をお許し下さい」
「良いさ。しかしそういうことなら昨日、そなたが予に教えてくれたことはそなたにとって大変な犠牲を要することであったのだな」
ナル・アレフローザは居住まいを正した。
「ラシアス。あらためて礼を言うぞ。ありがとう」
「は」
「だが、恋の競争相手として考えるには、あまりにも元々の条件がそなたに不利であるな。どうだ。時々はルーセイラと二人であっても良いぞ。それがそなたに対する最大の礼になるようだしな」
「いえ、陛下。今、皇后陛下の頭の中には陛下のことしかありません。もっとも、陛下に初めて逢われたときからずっとそうでいらっしゃったのでしょうが。私は先程、私の一三年分の想いの全てをこめて皇后陛下を拝見し、その御手にキスさせていただきました。私にとって人生最高の瞬間でした。もう御礼は充分にいただきました」
「そうか」
皇帝は自分と同じ女性を愛する男を限りないいたわりの表情で見やった。そして、少しのあいだ瞑目してその想いを振り払った。そして居室に侍従を呼んだ。
「用意のものをこれへ」
侍従が華麗な装飾を施した盆の上に二本の巻物を載せて皇帝に捧げた。
皇帝が立ち上がってそのうちのひとつを受け取り、開いた。
「ラシアス」
「は」
「そなたを帝国宰相に任ずる」
「は」
もうひとつの巻物を受け取り開いた。
「アル・ラーサ」
「は」
「そなたを帝国元帥に任ずる」
「は」
「この任命については、おって帝国全土に勅令を発する。以上」
皇帝が着座した。ラシアスとアル・ラーサにも着座を促した。
「ラシアスよ」
「はい」
「帝国最高の実権と申していたな。これでよいか」
「はい、身に余る光栄です。非常の職であり、過去において、皇族、あるいはごく一部は貴族しか任じられたことのない帝国宰相に任じていただき、ご信任の大きさに身が引き締まります」
「ずいぶんと殊勝な物言いだな。では訊くが、帝国宰相というのは、今そなたが言ったように、そなたの身に余る職なのか」
「いいえ」
ラシアスは首を振った。
「今申し上げたのは単なる儀礼上の修辞です。古今東西、あらゆる人々の中で、帝国宰相に最もふさわしいのはこの私でしょう」
「そのことば、素直に聴くことにしよう。ではラシアス、ラーサ。実際の政務、及び軍務について話そうか。頼んでおいたものは持参したろうな」
「はい、これに」
ラシアスはルーレアートからの書状を全て皇帝に差し出した。
皇帝は読み進めた。
ルーレアートからの現時点での最後の手紙もラシアスは躊躇無く差し出していた。その手紙には陛下に対して不敬の言辞が含まれているのにな。アル・ラーサはそう思ったが、止めはしなかった。
ナル・アレフローザは全て読み終えた。
「予はエルラス汗が対等の相手と考えるには不足という事か。無理もない」
「自分の欲望に素直でない人間は大事をなすことはできぬか。成る程、成る程。いちいち頷けるぞ」
愉しそうな表情で皇帝はラシアスに書状を返した。
「ラシアス。アル・ラーサ。見込まれておるな」
「汗顔の至りです」
「心にもないことを言うな。さて無視された皇帝としてはここでひとつ何かそれなりのことばを発しなければならぬな」
「そのとおりです。陛下」
「何かひとことで言えれば気持ちがいいのだろうが、想いつかぬ」
「そうですか」
「しばらくしゃべるぞ」
「は」
「そなたたちが帝国の危機を言い立てたのも今は理解した。エルラス汗はたしかにすごい男だな。しかし自分の栄光のことしか考えておらぬ。たしかに天才には天才の論理があろう。だが、一億八千万人の帝国臣民の頂点に立つ皇帝としてはその人々の全ての幸福を考えねばならぬ。皇帝には皇帝としての義務と責任がある。これがエルラス汗に対して予の
拠って立つべき大義名分だ。正義は帝国の上にあり。これでどうかな」
「お見事です。そのお考えをお持ちになれば、エルラス汗に対して何ら臆することはありません」
「そう、たとえ本心はどうあれ、戦いには大義名分が必要だ」
ラシアスは皇帝の次のことばを待った。
「たとえ、予の本心がルーレアート及びそなたたちと同じであったとしてもな」
6 エルラシオン
ルーレアートはその日の講義を終えた。講義を聴く者はエルラス汗と正妻ラルフィンとの間に生まれた王子エルラシオン一五歳。既に故人となっている愛妾セルとの間に生まれた、エルラシオンの異母妹セレナ九歳。さらに草原の部族アルーサにおいてその将来を嘱望されているアールショー、ラスティー、アンリュー、ラルの計六人であった。アールショーとラスティーはエルラシオンと同年の一五歳。アンリューは一六歳。ラルは一三歳である。
講義が終わり、講義の行われたゲルを少年たちとセレナが去る中、エルラシオンはひとり残った。
六年前、ルーレアートが草原にやってきて最初の講義を行ったとき、受講者はエルラシオンひとりだった。三年前、エルラス汗の命により四人の少年が加わり、今年からセレナが加わった。
最初の講義からエルラシオンは熱心な生徒であった。その驚嘆すべき頭脳はルーレアートの教えをどんどん吸収していった。やがてその講義の中で時にエルラシオンは宗教において、哲学において、歴史においてルーレアートとは違う観点からの解釈を試みるようになった。師に対して反論するというのではない。こういう観点からも解釈できるのでは、との論を提起するのだったが、その解釈は正鵠を得ていた。
エルラシオンのもつ天分、資質はあるいはその父を凌駕しているのではないか、ルーレアートはそう感じていた。
ルーレアートが日常接する時間はもちろんエルラス汗よりもエルラシオンのほうがはるかに多い。が、エルラス汗が考えていることは概ねルーレアートの想像の範囲内であったが、この十五歳の少年がいったい何を考えているのか、その内面にある理想は何なのか、ルーレアートには分からなかった。
「王子、今日の講義で何かお訊きになりたいことがあるのですか」
エルラシオンが講義の後ゲル内に残り、その日の講義についてさらに論を深めることは常のことであったからルーレアートはそう訊ねた。この講義後の二人の時間は慣例となっており、そこにはエルラシオンの要請がない限り他の受講者は立ち入らない。
「今日は講義のことではありません」
「そうですか」
「父に聴きました。先生はこの草原が統一されたあと、ラグーンにお帰りになるそうですね」
「はい」
「草原と帝国が干戈を交えるとき、先生は帝国の側につかれるのですね」
一瞬の沈黙が流れた。
「草原が統一されたあと、帝国と事を構える、王子も汗から聴かれたのですか」
「父から聴いたわけではありません。父が帝国の征服者という栄光を求めていることは何年も前から気が付いていました」
自分がごく最近分かったことをこの少年は数年前から気付いていたというのか。父子だから分かるということか。いや、それだけではないだろう。ルーレアートはあらためてエルラシオンの器量の大きさを思い知らされた。 また、気付きながら、そのことを父にも師である自分にも告げることのなかった、少年とは思えない自制力にも驚いた。いや、あるいは……、ルーレアートは思う。この少年にとっては、父が求める栄光も、やがてくる草原と帝国の戦いもさして大きな関心事ではないのかもしれない。そこまで考えてルーレアートは六年という時間をもってしてもこの少年を理解することができなかった自分を感じた。
「そうですか。王子には分かっていらっしゃったのですか。私が帝国の側に立つことにつきましては、草原の禄を食ませていただきながら申し訳なく思っています」
「そのようなことを恩義に感じていただくことはありません。この何もない草原で、六年もの間、私をはじめ、草原の子弟に先生のおもちになっている全てを教えていただきました。感謝しなければいけないのは我々の方です。ありがとうございました」
「何故、私が帝国の側につくと思われますか」
「はい、ひとつは草原以上に帝国を愛されているから。そしてそれ以上に父と戦ってみたいと思われたからでしょう」
ルーレアートはぞっとした。そこまでこの俺のことが分かっているというのか。さらにルーレアートは、さっき、エルラシオンが言ったことにもひっかかった。「先生のおもちになっている全てを教えていただいた」エルラシオンはそう言った。この少年は既にこの俺の全てを吸収したと言っているのか。もうこの俺には学ぶべきものはない、と言っているのか。俺が本当に戦わなければいけないのは、戦うべき相手は……。しかし、本当に戦わなければいけない相手なのだろうか。
「先生は父にこう言われたようですね。草原が統一されるのを見届けてから帝国に帰ると」
「そうです」
「父はこうも言っておりました。どうやらルーレアートには俺がどうやって草原における最後の戦いに勝とうとしているのか分かっているようだ、と」
「……」
「先生、帝国に帰られてから、ラシアス殿、アル・ラーサ殿とともに草原の侵攻に対する備えを行おうと思われているのでしょうが、草原の統一を見届けてからでは間に合いませんよ」
どういう意味か、ルーレアートにはすぐには分からなかった。数瞬後、ルーレアートの頭脳に閃くものがあった。そうか、そういうことか。
「王子、分かりました」
「そうですか。さすがに先生です。あれだけのことばでお分かりになるとは」
「しかし、王子。何故、帝国に去ろうとしている私に教えて下さったのです」
「先生には帝国の側に立って、草原の侵攻に備えていただきたいと考えたからです。来るべき戦いを最少の犠牲ですませるために」
「最少の犠牲ですませるために……ですか」
「はい」
「……王子」
「はい」
「あなたこそ、この世界を統治されるべき方だ。ナル・アレフローザ陛下ではなく、エルラス汗でもなく。戦いが終わったあと、草原と帝国が統一された世界を治めるべきはあなたです」
「先生、その前に私には逢わなければならない人がいます」
「……」
「先ずはラシアス殿。アル・ラーサ殿。ナル・アレフローザ陛下。そして……」
「……」
「ルーラ殿とアインセーラ殿です」
「ルーラとアインセーラですって」
「はい」
「王子、王子。あなたはそんなことまで考えておられたのですか」
エルラシオンはにっこりと笑った。その笑顔は例えようもなく美しかった。
ルーレアートは膝を折った。右膝を地につけ、頭を垂れた。
「私、ルーレアートはエルラシオン王子に忠誠を誓います。来るべき戦いを最少の犠牲で済ませるために。さらにそのあとに来る世界を最も素晴らしい世界とするために」
この日、二人だけの誓約が交わされた。
数日後、ルーレアートは草原を出立した。
先ず、エルラス汗のゲルを訪れ別れを告げた。
「そうか、もう行くのか」
「はい」
「草原における最後の戦いを見る前に去るのか」
「はい、ラグーンにてお待ちしております」
エルラス汗はじっとルーレアートの目を見つめた。
「そうか。俺と戦いたいのであれば、たしかに帰国しなければならないのは今だ。さすがだな、ルーレアート」
最後にルーレアートはおのれの六人の生徒に別れを告げた。
セレナがルーレアートに話しかけた。
「先生、お願いがあるのです」
「何でしょう、セレナ様」
「私、帝国の英雄、アル・ラーサ様のお嫁さんになりたいのです。そのことをアル・ラーサ様にお伝え下さい」
居並ぶ少年達の間にどっと落胆したかのようなどよめきが流れた。
セレナはまだ九歳であったが、聡明で、何より既に故人となっている草原一の美女とうたわれた母セルに似た、この世の者とは思えないほどの美少女であったから、草原の全ての少年はセレナに憧れ、恋していたのだ。
そのセレナの意中の人が、今、明かされたのだ。
「そうですか。セレナ様はアル・ラーサ殿を思っておられたのですか。分かりました。私はアル・ラーサ殿とは面識がありませんが、親友であるラシアスを通してすぐに逢うことになるでしょう。セレナ様のこと、必ず、お伝えいたします」
たしかに伝え聞くアル・ラーサの信条を考えれば、この九歳の美少女と結ばれるということは、それほど突拍子もないことではない。それは、草原と帝国の最初の強い絆ともなろう。そこまで考えて、ルーレアートは思い至った。あるいは、このセレナの想い、アル・ラーサに憧れるようになったその想いのうらにはエルラシオンの意向が働いているのでは……。アル・ラーサは帝国において、群を抜いて名高く、人気の高い英雄である。その英雄の妻が、草原の王、エルラス汗の娘であり、九歳の世にも稀な美少女ということになれば、帝国はあげてこの話題で持ちきりとなろう。草原と帝国の絨帯として、これほど効果の大きいことはあるまい。
ルーレアートはエルラシオンを見た。
エルラシオンは静かな微笑みを返した。
「先生、それではお元気で」
「はい、エルラシオン王子。セレナ様。アールショー、ラスティー、アンリュー、ラル。さようなら」
最後にルーレアートはエルラシオンともう一度微笑みを交わして草原を去った。
ルーレアートは首都ラグーンに到着して、最初に当然のごとくラシアスの官舎を訪ねた。帝国宰相となったラシアスであったが、官舎はそのままだった。
ラシアスの官舎ではアル・ラーサも一緒にルーレアートを待ち受けていた。
「ルーレアート。良く帰って来てくれたな。遠路疲れただろう」
「いや、大丈夫だ」
「六年ぶりだな」
ラシアスとルーレアートはお互いを見た。六年の歳月が一瞬のうちに消え去った。
ルーレアートはラシアスの隣に立つ偉丈夫に視線を移した。
「ああ、こちらがアル・ラーサだ」
「はじめまして、ルーレアートです」
「アル・ラーサです。初めてお逢いするような気がしません」
「はい、私も同じです」
三人はラシアスの書斎に移った。
バルが三人の前に飲み物を置く。
ルーレアートの前にはラシアスの官舎の中に置いてある中で最も高級なコーヒー。
アル・ラーサの前には東方茶。
ラシアスの前にもルーレアートと同じコーヒーが置かれた。
「それにしてもルーレアート。帰国するのが早かったな。アルーサとテグリの会戦を見て、草原が統一されてから帰国すると思っていたぞ」
「いや、それでは間に合わないのだ」
ルーレアートはエルラス汗が何を考えているかを告げた。そしてそれはエルラシオンの示唆によって分かったのだということも同時に告げた。
ラシアスはうなった。
「そうか、成る程、そういうことか。たしかに、であれば、今帰国しなければ間に合わないな。それにしてもエルラシオン王子か。それはまたおそるべき少年だな」
「ああ、俺はエルラシオン王子に忠誠を誓った」
「何だと、では何故ラグーンに戻ってきた」
ルーレアートはエルラシオンとおのれの間に交わされた誓約を話した。
「来るべき戦いを最少の犠牲で済ませるために、さらにそのあとに来る世界を、最も素晴らしい世界にするためにか……」
ラシアスはじっと考え込んだ。
「エルラシオン王子は、ルーラの教義、アインセーラの思想をも包み込んだ新しい世界の創造を考えているということか。ルーレアート、お前の言うとおりだ。エルラシオン王子の器量は、エルラス汗を、ナル・アレフローザ陛下を、そして俺たち三人を凌駕しているな」
ルーレアートは語った。エルラシオンが描く新しい世界の構想を。エルラス汗、ナル・アレフローザ、ラシアス、アル・ラーサ、ルーレアート。そして、ルーラ、アインセーラ、エルラシオン。これらの軍事的英雄、政治的天才、宗教的天才、思想的天才が同じ時代に生を授かった今、最も素晴らしい新しい世界を創造することが、後世に対する義務であると結んだ。
三人の間をしばらく沈黙が支配した。
先ず、沈黙を破ったのはラシアスだった。
「分かった。だが、とりあえずは来るべき戦いだな。帝国はどのように対応するか。ルーレアート、何か策はあるのか。最少の犠牲で済ませるための」
ルーレアートは自らが考えた策を披露した。
「面白い」
ラシアスは即座に応じた。
「その作戦では、エルラシオン王子が、どういう人物であるかが最大の鍵となるな。だが、先程のルーレアートの話から推察すれば、たしかに全幅の信頼をおいて間違いのない方だな」
「ちょっと待ってくれ、ラシアス。本当に、今、ルーレアート殿の言われた策を採るのか」
「そうだ。このあと、陛下の元に赴き、ご勅許いただく」
「しかし、その策では我が帝国軍が活躍する余地はないではないか。俺はエルラス汗と心ゆくまで戦ってみたいぞ。軍略においてもだし、一対一で剣を交わしてもみたい」
「それは私人の情だ。たしかにお前の言うとおりにしたら後世に残る伝説も生まれるだろうが、ここは俺に従ってくれ」
「アル・ラーサ殿。お気持ちは分かります。しかし、エルラス汗は戦いの天才です。むろん、アル・ラーサ殿もまた、天才であると確信しておりますが、エルラス汗にはその配下に草原の騎士がいます。草原の騎士はそのひとりひとりを見ても騎乗技術の巧みさもあって、帝国の騎士とは比較にならない強さをもちます。帝国騎士剣技会においては帝国全土より百人の騎士が選ばれますが、もし、草原を含めればその百人は全て草原の騎士で占められるでしょう」
アル・ラーサが咳払いした。
「失礼しました。そうであってもアル・ラーサ殿はその百人の中に入るでしょうが」
アル・ラーサがさらに大きな咳払いをした。
「申し訳ありません。再度、言い直します。仮にそうであっても優勝するのはアル・ラーサ殿ですが(エルラス汗と比べたら、どちらが強いか判らないが黙っておこう)、その他の九九人は草原の騎士で占められるでしょう。こればかりはアル・ラーサ殿おひとりの力では如何ともしがたいことです。まともに草原と戦えば必ず帝国が負けます」
「しかし、いくら一騎、一騎が精強の騎士であっても、率いる者がいなければ軍団は成り立たぬ。エルラス汗ひとりを倒せば、帝国が勝つ」
「おっしゃるとおりです。それこそが、私が先程の策を成した所以です」
アル・ラーサもついにルーレアートの策を了解した。が、その落胆ぶりは激しかった。
「そうそう、私はアル・ラーサ殿に縁談を持って参りました」
ルーレアートがセレナからの申し入れをアル・ラーサに伝えた。
「はあ、それは有り難いお話ですが、そのセレナという方はおいくつなのです」
「九歳です。アル・ラーサ殿の名高い信条に決して反することはない方です」
「それは、九歳ならたしかにそうでしょうが……」
「草原は帝国とは違います。男女は生涯ただひとりの相手と愛を交わすことが価値あることとされています。あのエルラス汗でさえ、愛妾のセル様をもたれたときは、かなりの反対を押し切った上のことであったと聞いております。セレナ様も生涯、アル・ラーサ殿おひとりを愛されることは間違いありません」
アル・ラーサは黙ったままだった。
「ああ、言い忘れました。セレナ様は大変な美少女です。草原の少年は全てセレナ様に憧れ、恋しております。それほどに美しい少女です。あの方には、たとえルーセイラ皇后陛下といえども匹敵できませんでしょう。本当の意味での結婚はセレナ様が大人になられるまであと何年か待つとしても、あの方ほどアル・ラーサ殿にふさわしい方はおりません」
「おい、ルーレアート、冗談はよせ。ルーセイラ陛下より美しい方がこの世にいる訳がないだろう」
そのラシアスの抗議を遮るように、アル・ラーサが大声を張り上げた。
「そうですか。ルーセイラ陛下より美しいのですね。分かりました。セレナ様を妻に迎えたいと思います」
「お前、何を言う。……まあいいか。今こそ美しさの頂点にあられる皇后陛下と九歳の少女を比べるということだけでも陛下に不敬だ。ロリコン野郎と争うのも大人げない。まあ、良かったではないか、アル・ラーサ。待った甲斐があったな」
「先程、皇后陛下のことを話しておられたが、ルーレアート殿は皇后陛下を拝見されたことがあるのですか」
「はい、おそらく皇后陛下とラシアスの出会いについてはアル・ラーサ殿は何度も聞かされたとお察し致しますが……」
「三十三回、聞かされました」
「それは、羨ましい。私は七十一回聞かされました。そのナルオの神殿修復式で、皇太子妃に花束を捧げたのはラシアスですが、その隣で皇太子殿下に花束を捧げたのは私だったのです。本当ならナルオの学校で最優秀であったラシアスが皇太子殿下に捧げるはずだったのですが、彼のたっての頼みで、次席であり、皇太子妃に捧げる役であった私が代わってやったのです」
「成る程、そうだったのですか。篤き友情ですね」
「おい、ルーレアート。自分に都合の良いことだけ言うのはやめろ。そのあとずっと、お前が苦手にしていた古文注釈の課題をお前の代わりに俺がやってやっただろう」
童貞将軍は九歳の美少女を妻に迎える。このことが発表されたらどんな騒ぎになることだろう。ラシアスは想像してひとり楽しんだ。さて、祝辞の文面を考えねばなるまい。
「ところでラシアス」
「なんだ」
「お前が帝国宰相。アル・ラーサ殿が帝国元帥と。で、俺は何なのだ」
「ん」
「何か、俺にふさわしい、かっこいい職名を用意してくれているんだろう」
「……」
「おい、まさか何も考えていなかったのではないだろうな」
「いや……。うむ、すぐに皇帝陛下にご勅許いただく」
「そうか。で、どういう職名だ」
「帝国副宰相でどうだ」
「何で俺がお前の下に付かなければならないんだ。よし、俺が自分で考えよう。……帝国宰相指南役でどうだ」
「何で俺がお前に指南されなきゃならんのだ。そうだな。では、こういうのでどうだ。高等官任用試験筆頭不合格者」
「あ、貴様、ひとが一番気にしていることを……。待てよ。……ふむ。成る程、悪くないな。いや良いセンスだ。俺を落とした帝国政府に対する皮肉もきいているし、帝国宰相ラシアス。帝国元帥アル・ラーサ。高等官任用試験筆頭不合格者ルーレアート。と、こう三人並べてみると俺の無欲さが際立つな。いかにも風の吹くままに草原と帝国を漂泊する流浪の天才軍師にふさわしい。これは良い職名を考えたものだ。三人の内、後世の伝説で最も人気が出るのは俺かもしれないな。いや、まいったな」
「おい、考えたのは俺だぞ」
「やかましい。俺が考えたのだ。そうでなければ意味がない。いいな、考えたのは俺だからな。……ふうむ、しかし、やはり一番人気がでるのはアル・ラーサ殿か。史上最強の騎士にはかなわぬかな。まあ、ひとつはっきりしているのは、ラシアス。おまえが一番不人気になる、ということだな。可哀想に」
「ご懸念には及ばんよ。俺は玄人好みのラシアスと評されるだろうからな。分かる奴にだけ分かればそれでいいさ。一般大衆はそちらにお任せする」
三人は直ちに皇帝の元に赴いた。ルーレアートの策。そしてルーレアートの職名はいずれも皇帝の勅許を得た。
草原の最終決戦が始まった。アルーサ軍十七万騎と、テグリを盟主とする連合軍三十四万騎が対峙した。
エルラス汗はテグリとの一大会戦の開始に際して単騎、敵方の陣に向かい、スクタイ汗に一騎打ちを呼びかけた。スクタイ汗は応じるが、結果は一合でエルラス汗が圧倒的に勝利した。が,命は奪わなかった。あまりの力の違いにテグリ及びスクタイ汗はエルラス汗への忠誠を誓った。
エルラス汗はその場の両軍に対して「我を倒さんとするものは今、我に挑め」と大音声で呼びかけるが応じる者はいなかった。
エルラス汗は、愛する白馬アークティカを駆って、丘の上に立った。腰に神剣イリュージョンを凧き、草原を吹き渡る風にその長き黄金の髪をたなびかせた。
エルラス汗が語り始めた。
居並ぶ五十一万の騎士たちは、エルラス汗のことばを何一つ聞き逃すまいと、全身を耳にした。
「草原の騎士諸君。我らはこの場から直ちに帝国へ侵攻する。目指すは永遠の都ラグーンだ。諸君が戦うべき相手は同じ草原の民族ではない。諸君が戦うべき相手は栄華を思いのままにする帝国の騎士だ。
草原の騎士諸君。何故、帝国と戦うのかと問いたまえ。俺が答えよう。帝国と戦い、勝利することが、我らが得ることの出来る最大の栄光だからだ。
草原の騎士諸君。俺は時々思うことがある。俺は何のためにこの世界に生まれてきたのだろう、と言うことだ。偉大なる神もこの問いにはっきりと答えてはくれない。聖典には、全ての望みが叶う理想の世界が描かれている。しかし、我らが生きるこの世界は理想の世界ではない。偉大な神もこの目に見えるわけではない。人は生まれ、そして人は必ず死ぬ。生まれる前のことも、死んだあとのことも我ら人間には分からない。
草原の騎士諸君。今の我らには我らが生きるこの世界が全てだ。そして、誕生から死に至るまで。それが我らに与えられた時間の全てだ。
草原の騎士諸君。もう一度繰り返そう。俺は時々思うことがある。我らの魂の故郷である理想の世界を離れて、俺は何のためにこの世界に生まれてきたのだろうということだ。結局、俺には分からなかった。これが絶対に正しい答えだ、というものを俺は見つけることが出来なかった。
しかし草原の騎士諸君。俺は思う。この世界が俺に与えられた全てならば、この生命が俺に与えられた全てならば、俺はこの世界で、俺の持つこの生命を、俺は最高に輝かせたい。答えの決して出ることのない問題についてあれやこれやと考え続けているほどこの人生は長くない。俺は俺が考える最高の方法で俺のこの生命を輝かせたい。
草原の騎士諸君。人は必ず死ぬ。死んだあと、この世界に残されるのは、ただただ、我らがどのように生きたかというその記憶だけだ。
草原の騎士諸君。俺と一緒に伝説を創ってみないか。この世界に生きる人々の間で未来永劫に語り続けられる伝説を創ってみないか。
草原の騎士諸君。諸君はこの俺とともに伝説を創ってくれるか」
歓声が爆発した。
「エルラスハン」
「エルラスハン」
「エルラスハン」
さっきまで、寂として物音ひとつたてなかった、五十一万の騎士たちは身体の奥底から突き上げてくる感動に全身を震わせ、声を限りに叫び続けた。
エルラス汗が右手を挙げた。五十一万騎は叫ぶことをやめた。再び静寂が草原を支配した。
「草原の騎士諸君。はるかなる南に永遠の都ラグーンがある。そしてラグーンで我々の伝説は創られる。
草原の騎士諸君。我らの伝説は、今日、この草原で始まった。そして、我らの伝説は永遠の都ラグーンで完成されるのだ」
エルラス汗は神剣イリュージョンを抜いた。そして自らの頭上に高々と神剣を掲げた。草原を風が吹き渡る。
白馬アークティカに跨り、神剣イリュージョンを掲げるエルラス汗の長き黄金の髪が風にたなびく。この時、エルラス汗の黄金の髪と神剣イリュージョンが太陽の光を浴びて煌めいた。
エルラス汗の全身が光に包まれた。五十一万の騎士はそこに自らが全霊をあげて崇拝するべき、自らの神を見た。
エルラス汗が神剣イリュージョンを永遠の都ラグーンの方向に突き出した。
「ラグーンへ」
一声発して、エルラス汗は単騎駈けた。その後ろにアルーサ軍十七万騎。テグリを盟主としていた連合軍三十四万騎、合わせて五十一万騎が続いた。
アルーサ軍だけでなく、テグリ連合軍の糧食も既に用意されていた。
エルラス汗を先頭に帝国に侵攻する草原の軍をはばむものはいなかった。
草原軍は首都ラグーンに到着した。そこにも帝国軍は一兵も存在せず、皇宮はもぬけのからだった。
エルラス汗はこのあと首都を燃やす焦土作戦であろうと読み、その作戦の拙劣さにおのれが見込んだ男達が期待はずれであったと考えた。
エルラシオンと近侍だけを率いて皇宮の戴冠の間に入場したエルラス汗は、その間の一七段の階段を上り、その上に置かれた皇帝玉座に座った。その瞬間、幕で隠された天井からエルラス汗をめがけて一本の巨大な矢が飛んだ。
端然と座ったまま、この矢を剣で叩き落とすエルラス汗。しかし、その直後に二本目の矢が飛んでおり、エルラス汗の想像を絶する剣技をもってしてもこの二本目の矢を叩き落とすには間に合わなかった。矢が心臓を貫こうとしたその瞬間、その矢は別の者の手で叩き落とされた。エルラス汗が皇帝玉座に座ろうとした瞬間、一七段の階段を駆け上がっていたエルラシオンであった。
ルーレアートは読んでいた。エルラス汗が必ず、皇帝玉座に座ることを。自分をめがけて飛んでくる矢をみてもエルラス汗は決して逃げず、立つこともせずに矢をたたき落とすであろうということを。
これまで一七一人存在した過去の帝国皇帝の、誰ひとりとして玉座の上でその生を終えた皇帝はいなかった。そこを終焉の場所として選んだのはルーレアートのエルラス汗に対する大いなる敬愛の念によった。エルラス汗がその生命を終わらせるに最もふさわしい場所は帝国皇帝の玉座の上である。ルーレアートはそう考えたのだ。
しかし、二本目の矢はエルラス汗の心臓を貫くことなくエルラシオンによって叩き落とされた。
この時、幕で隠されていた天井裏の部屋から四人の男が降りてきた。
四人は皇帝玉座のある階段の上に降り立った。
皇帝ナル・アレフローザ。帝国宰相ラシアス。帝国元帥アル・ラーサ。高等官任用試験筆頭不合格者ルーレアートである。
四人と、エルラス汗、そしてエルラシオンが対峙する。
「エルラシオン王子。王子が本当に考えておられたのは最少の犠牲でさえなく、ゼロの犠牲だったのですね」
ルーレアートがエルラシオンに問いかけた。
「そうです」
「父子の情ですか。来るべき世界に、征服者としての栄光を求めるエルラス汗は大きな障害になる方です」
「いいえ、そうではありません」
エルラシオンは強く否定した。
「父の戦いはもう終わりました」
皇帝玉座に座ったままエルラス汗がルーレアートに呼びかけた。
「ルーレアート。この策を考えたのはそなたか」
「そうです」
「草原の騎士五十一万をラグーンに引き入れて、俺ひとりの命を取るか。見事だ、ルーレアート。俺の負けだ」
エルラス汗は皇帝玉座から立ち上がった。
「ナル・アレフローザ殿。この座、お返ししよう」
皇帝がエルラス汗に会釈した。
「エルラス汗。ご紹介しましょう。帝国宰相ラシアスと帝国元帥アル・ラーサです」
エルラス汗とラシアス、アル・ラーサがお互いを見やった。
ラシアスがエルラス汗に問うた。
「エルラス汗。これからどうなさいます」
「草原に戻る。敗れた以上、この地に留まる理由はない」
アル・ラーサもまた、エルラス汗にことばをかけた。
「エルラス汗、来年の帝国騎士剣技会にご参加いただけませんか。この帝国に私の相手ができる騎士はおりません。お待ちしています」
「それは、実に魅力的な誘いだな。……まあ、やめておこう。どちらかが敗れるよりは、お互いに剣技においては不敗のままで伝説の世界に留まっておこうではないか」
階段を降りかけてエルラス汗は我が子を振り返った。
「エルラシオン。お前はこれからどうする」
「旅に出ます」
「ほう」
「アールショー、ラスティー、アンリュー、ラルとともに帝国中を旅してみます。逢うべき人も決まっています」
「そうか。セレナは連れていかないのか」
「セレナはアル・ラーサ殿の妻になります」
物に動じることのないエルラス汗の顔に、一瞬、驚きの表情が走った。
「そうか、成る程な」
「エルラシオン王子。その旅に我ら三人も、そしてセレナ様もご一緒させて下さい」
「先生。それにラシアス殿、アル・ラーサ殿とセレナですか。宜しいのですか。お三方は帝国の最高職にあられる方ではないですか」
「いえいえ。私は勿論ですが、ラシアスにしろ、アル・ラーサ殿にしろこの戦いのための、非常の大権です。すでに陛下のお許しをいただいております。素晴らしき世界を創造するために同行させて下さい」
「そうですか。願ってもないことです」
エルラス汗が階段を降りて、戴冠の間から去っていった。
そしてエルラス汗と入れ替わるように戴冠の間に入室してきた少女がいた。少女は一歩一歩階段に近づいてきた。
誰が紹介するでもなく、その年齢、その美しさからその少女の名は明らかだった。
この時、未来の夫婦は初めて相見た。
セレナはアル・ラーサの想像をも遥かに超えた、目もくらまんばかりの美少女だった。たかだか九歳にすぎない少女に対してアル・ラーサの胸は高鳴った。まして、アル・ラーサに投げかけたセレナの微笑みを見てしまってはなおさらだった。
エルサーナ叙事詩 完