1話 召喚
吾輩はネコで有る、名前はまだ……
「あ〜こんな所に居たのねファウスト。ごしゅじんさまが呼んだらすぐ来ないとダメでしょ!」
テコテコと小さな足音を立てて、こちらに近づいて来る小さな少女。
彼女は吾輩……いや、俺を抱き上げると顔の高さまで持ち上げ、青い瞳で俺の目を覗き込む。
「今日もまほうのしゅぎょうがんばろうね!」
ニパっとまるで太陽を思わせる様な明るく輝く、それでいて自信に満ち溢れた笑顔を浮かべると、少し舌足らずな言葉で俺に話し掛けてくる。
彼女の名前はマーリン。
俺のご主人様で、俺は彼女の使い魔だ。
✳︎
「猫は良いよな……」
いつもの通勤途中、塀の上で平和そうな顔をして寝こける一匹の黒猫をぼんやり眺めながら思わず呟く。
(猫は良いよな。毎日ただ寝て食ってしてるだけで、周りからは可愛い可愛い言われてチヤホヤされるんだから)
そんな事を考えながら、ため息混じりにようやく昇り始めた太陽に目を向ける。
向かうは始発、帰りは終電。
なんでそんな時間まで仕事するかって?
そりゃ、そうでもしなきゃ終わらない量の仕事を振られるからだ。
そうつまり、俺の勤め先はクソブラック会社ってやつなのだ。
しかも早出や残業は社命では無く自主的にやってる扱いだから、その分の給料は発生しないってんだから、マジメに仕事するのがバカらしくなってくる。
じゃあどうして辞めないかって?
そりゃあ俺みたいに、学歴もスキルも無い人間を正社員として雇ってくれる所なんざ、今時他に無いからさ。
(猫は良いよな……)
もう一度塀の上の猫に視線を戻す。
(まあ、あいつらにはあいつらなりに苦労が有るのかも知れないが、毎日朝から晩までアクセク働くだけの俺からしたら羨ましい限りだぜ)
そんな事を考えながら眺めていると、黒猫が目を覚まし伸びをしながら大きなあくびをする。
そして俺の視線に気が付いたのか、大きく目を見開きギョッとした様な顔をすると、ピョンっと塀から飛び降り凄い勢いで走り出す。
塀から飛び降りた拍子に、首輪に付いた鈴が「チリン」と小さな音を鳴らした。
(ノラかと思ったら飼い猫だったのか、つーか人の顔見て逃げ出すなんて失礼な奴だな……って!)
「おい!」
静止の声を掛けるがそれで猫が止まる訳もなく、むしろその声に驚いたのか余計に走る速度を上げる。
走り去る猫の向かう方は車通りの多い交差点、あのままの速度では到底止まれる気がしない。
何故か猫ってやつは道路に飛び出したがる。
今まで何度か目にして来た、道端で車に轢かれ動かなくなった哀れな猫の姿が脳裏をよぎる。
(クソっ! 俺が驚かしたからかよ!)
俺は手にして居た鞄を思わず放り投げると、猫を追いかけ全力で走り出す。
猫は既に交差点へと差し掛かって居たが、やはり速度を落とす気配は無い。
そして信号機は運の悪い事に赤だ。
「うおー間に合えー!」
叫びながら今までの人生で一番なのでは? と思える程のスピードで走る俺は後一歩の所まで猫に追い付き、前のめりになりながら腕を伸ばす。
(間に合った!)
指先に柔らかい感触が触れ確信した。
がその瞬間、猫は俺の手を躱したかと思うと視界からパッと消え失せる。
「は?」
まあ何の事は無い、進行方向を突如真横に変えただけなのだが、目の前の猫に集中していた俺にとっては、正に消えた様に見えただけだ。
横目で見ると、何事も無かったかの様に悠々と走り去って行く猫の後ろ姿が目に映る。
猛スピードで追いかけて居た俺は当然走る勢いを止める事も出来ず、転倒してそのまま前に転がりながら車道まで飛び出してしまった。
そして目の前に迫る大型トラックのバンパー。
(あ、これ死んだな……)
不思議と痛みや衝撃を感じる事もなく、また走馬灯等と呼ばれる過去の記憶を思い起こす事もなく。
フワリとした奇妙な浮遊感を感じたかと思うと、俺の意識はただ静かに暗転していった……
✳︎
(んん……、俺はどうなったんだ……)
意識を取り戻すと、硬く冷たい感触が身体に伝わって来る。
どうやら地面に横たわっている様だ。
(感触が有る……生きてるのか? いや、あの状況でそんな訳……)
気を抜けば再び深い眠りに就こうとする自分に逆らい、無理矢理目をこじ開けると淡い光が目に飛び込んで来る。
(薄暗い部屋に……ロウソク? 今時珍しいな……)
(それにこれは石張りの床? 一体どこだろう……)
頭だけ何とか持ち上げ辺りを見渡すと、自分が床に寝そべっているのを差し引いてもやたらと目線が低いのに気が付く。
(なんだ? 何かがおかしい……)
(俺の身体どうしちまったんだ?)
慌てて立ち上がろうとするが、まるで自分の身体では無い様に言う事を聞かず、立ち上がるどころか指一本すらまともに動かす事が出来ない。
(何なんだ? まるで身体の使い方を忘れちまったみたいだ……)
それでも諦めが付かずモソモソと身体を動かしていると、背後から誰かが近づいて来る気配を感じる。
気配の元を探るべく唯一動かせる頭を背後へ回そうとすると、それにつられて寝返りを打ったかの様にコロンと身体が反転した。
チリン……
(ん?)
鈴の様な音が何処からとも無く響くが、それを気にしている暇は無かった。
「あら、やっと気が付いたのねおチビちゃん」
気配の主は俺の身体を軽々と持ち上げ、その豊満な胸に乗せる様にして抱き抱えると俺に話し掛けて来る。
そう、気配の主は女。それもやたらと(色んな意味で)でかい女だったのだ。
「どれどれ、どこか異常は無いかしら〜。意識は有るけどまだ動けないのは魂の定着が弱いからよ、直に動ける様になるから心配しないで」
女はそう語りかけながら、検査するかの様な手付きで俺の身体撫で回す。胸の温かさと柔らかさ、それに撫でられた心地良さが相まり、気が付けば俺は意図せず喉をゴロゴロと鳴らしていた。
(……は? いや待て。喉鳴らすってなんだよ、それじゃあまるで猫じゃないか。
猫……ま、まさかな……)
しかしそう考えれば全て納得がいく。
やけに低く感じた視線、自分より遥かに大きい女。
そして何より、この本能には抗えないとでも言うかの様に自分が発する喉を鳴らす音!
「毛並みは黒の短毛。月齢は一ヶ月ってところかしら。骨格と筋肉に異常無し。瞳は……知性を宿した金色、使い魔としては合格ね。後は……あら、あなた男の子なのね」
俺の身体を余すとこ無く、それこそ隅々まで触診し観察し尽くしたデカ女は、最後に俺の股間をマジマジと眺めそう締め括った。
(うわっ! 見られた、しかもチラッとじゃ無くガン見だよ。
クスン、もうお婿に行けない……
って言ってる場合か!)
「私の名前はイザベラ、貴方が仕えるご主人様の親であり師匠よ。マーリン居るんでしょ? そんな所に隠れて無いでこっちへいらっしゃい」
デカ女改めイザベラが背後に向かって声を掛けると、ガチャリと音を立ててドアが開き一人の少女が部屋に入って来る。
「はーい、お母さま。テヘヘ、バレちゃった」
舌をペロリと出し、さして悪びれた素振りも無く入って来たのは、歳の頃は5、6歳と言ったところか。顔の左右に垂れ下がる、金色の縦ロールが特徴的な可愛らしい女の子だった。
(うお! 金髪ツインドリル、リアルでは初めて見たぞ)
「儀式の間は部屋に居なさいと言いましたよね? 手違いで何かしら危険なモノが迷い込む事だって、充分有り得るんですよ?」
「お母さまゴメンなさい。でもでも、どうしても気になっちゃっておへやでじっとして居られなかったの……」
怒る言うより、しっかりと言い聞かす様に注意するイザベラ、それに対して両拳を口元に当て瞳を潤ませるマーリン。
泣く子には勝てないと言うのはどこの世界でも同じらしい、イザベラはフゥと小さなため息を付くとマーリンの頭に手を乗せる。
「初めての使い魔ですからね、貴女の気持ちはよく分かります。私もそうでしたからね」
そう言ってクスクスと笑いながら、フワフワと柔らかそうな金色の髪を撫でるイザベラ。
「さあ、マーリンご挨拶して。この子が貴女の使い魔よ」
マーリンは差し出された俺を受け取ると、さっきまで潤んでいた瞳を今度はキラキラと輝かせ、興奮した面持ちギュッと胸元で抱き締める。
「初めましておチビさん。わたしがあなたのご主人よ、よろしくね!」
舌足らずな喋りでそう言いながら顔を近付けると、マーリンと名乗った少女は俺の鼻の頭に触れる程度の口付けを落とす。
その瞬間、今まで見た事も聞いた事も無い言葉や図形、それにマーリンの物らしき記憶が俺の頭に流れ込んで来た。
余りの事に全身の毛を逆立て目を白黒させていると、イザベラが近付きそっと俺の頭に触れる。
「……うん、契約は無事完了ですね。
気を失って居ない所を見る限り、貴方は強い精神力を持っているようです、マーリンを頼んだわよおチビちゃん」
「改めてよろしくね! え〜と……うん、決めた!
貴方の名前はファウスト、黒ネコのファウストよ!」
イザベラとは違う幼い子特有の柔らかさと温かい体温に包まれながら、ネコとしてそして使い魔として第二の人生が始まったのだった。