絶対に押さないでください
『絶対にこのボタンを押さないでください。このボタンを押すと、地球が滅亡してしまいます』
突然自宅に送られてきた正体不明のボタンには、このような注意書きの紙が同封されていた。私は注意書きを読んだ後で、もう一度ボタンを観察してみる。クイズ番組でよく見かけるような、四角い台座の上に赤い半球がのっかているボタン。何かの機械に取り付けられているわけでもなく、コードでどこかと繋がっているわけでもない。何か特殊なカラクリがあるのだろうかと思って、上下左右の方向から観察してみるが、特に変わったところは見つからない。このボタンが入っていた段ボールを見てみたが、そこには自分の名前と住所が記載されているだけで、送り主の名前や製品名は一切書かれていなかった。
単なる嫌がらせだろう。ボタンをテーブルの上に置き、私はそのように結論づけた。知り合いにこんな幼稚なことをする人間はいないし、きっと知らない誰かが適当に選んだ相手がたまたま私で、どこか私の預かり知らないところで楽しんでいるんだろう。独り身で中年の私にこんな手間とお金をかけたイタズラをしかけるなんて、よほどの物好きがいたもんだと私は一人で感心してしまう。
これはしょうもないイタズラ。だから、このボタンを押しても地球が滅亡することはない。そもそも、ボタンを押しただけで地球が滅びるなんて、そんな馬鹿げた話があるわけない。私は注意書きを机の上に放り投げ、ボタンに手を伸ばす。しかし、人差し指をボタンのてっぺんに置いた瞬間に、先ほどの言葉が頭をよぎる。
絶対にこのボタンを押さないでください。このボタンを押した瞬間、地球が滅亡します。
小学生じゃあるまいし、こんな馬鹿げたことを信じる方がおかしい。それでも、なぜか今の私はこのボタンを押すことを躊躇してしまっていた。別に何も起こらないのだから、ボタンを押すことに何の問題もない。しかし、だからといって、無理にでもこのボタンを押さなければならないわけでもないじゃないか。そう考え直し、私は人差し指をゆっくりとボタンから離した。
この部屋に置いていても邪魔だし、このままゴミとして出してしまおう。そう思って私はボタンを手に取った。しかし、ふと、ゴミ袋を回収するタイミングでこのボタンが偶然押されてしまう可能性があるのでは? という考えが浮かぶ。もちろん、このボタンを押しても何かが起こるわけでもないし、そんな心配をする必要なんてない。しかし、ボタンが押されてしまう可能性を考えただけで、このままゴミとして捨てることに抵抗を感じてしまうのも事実だった。
私は目の前のボタンをじっと見つめ、このボタンをどう扱おうかと考える。しかし、考えても考えても、上手い処分方法は思いつかない。結局最後には、別に場所を取るわけではないのだから、このまま家に置いておいてもいいだろうという結論に落ち着く。私はボタンを掴み、一応、地震が来ても大丈夫なようにと、机の引き出しの奥へとそのボタンを収納した。
それから特に何かが起こるということもなく、ボタンが自宅に届けられてから三ヶ月が経った。変わらぬ日常に忙殺され、ボタンの存在すら忘れかけていたそんなある日の休日。私が一人部屋でくつろいでいると、突然家のチャイムが鳴る。宅配便かなと思って玄関を開けると、そこには私と同じ年くらいの中年男性が立っていた。中年男性は背中を丸め、媚びるような笑みを浮かべ、ペコペコと頭を下げながら挨拶をしてくる。
「こちら、明石総一郎さまのご自宅で合ってますでしょうか?」
「はい、そうですが。何か御用でしょうか?」
「実はお聞きしたいことがありまして……。三ヶ月ほどくらい前ですかね? 明石さまのご自宅に、何かボタンのようなものが届けられたりしませんでしたか?」
その男がボタンという言葉を口にした瞬間、私はハッと息を飲んだ。私がゆっくり頷くと、男はほっと胸を撫で下ろし、嬉しそうに表情をほころばせた。
「あー、本当によかったです。いえ、実はですね、そのボタンに関してお願いがあるんです。単刀直入に言うとですね、明石さまの方でそのボタンを是非押してもらいたいんですよ」
男が額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、説明を続ける。
「もちろんあのボタンの注意書きには絶対に押さないようにと書かれているのは知ってます。でもですね、別にあのボタンに何か意味があるわけではないんですよ。だから、あの注意書きは無視して、ぜひ明石さまにあのボタンを押していただきたい。あ、それすら面倒だというのであれば、私の方で押しても大丈夫ですよ」
「でも、あのボタンを押したら地球が滅亡すると書かれていたはずじゃ……」
「ははは、そんな馬鹿なことを本気で信じてるんですか? 核ミサイルのボタンじゃないんですから、あんなボタンを押したところで地球が滅亡するわけないじゃないですか。どうです? 今からすぐにでもやっていただけませんか?」
男のその軽快な笑い声に、身体全体が緊張で強ばった。彼の言う通り、あのボタンは何の意味も持たないボタンで、あれを押したところで地球が滅亡してしまうなんてあり得るはずがない。しかし、本当にそうであるならば、なぜこの男はこうして自宅を訪ねてきて、ボタンを押してくださいと言ってくるのだろうか。私の様子を見た男が、どうしましたかと尋ねてくる。その表情の中に私は一瞬、何か嘘をついている人間特有の鋭い視線を感じた。
「押しません!」
私はそう叫び、勢いよく玄関の扉を閉めた。扉の向こうで男が何かボソボソとつぶやく声が聞こえてきたが、やがて何も聞こえなくなる。念の為ドアスコープを覗いてみると、男はすでにいなくなっていた。無理やり押し入ってくることがないとわかり安堵はしたものの、結局あいつは何者なんだという疑問が頭から離れなかった。
私はおぼつかない足取りで部屋へ戻り、引き出しの奥からボタンを取り出した。しかし、改めて見ても、そのボタンは何の細工もされていないように思える。しかし、だとしたらどうしてあの男がわざわざ私にこのボタンを押すように言ってくるのか。どうしてもその理由がわからなかった。やはり、このボタンはただのボタンじゃなく、本当に地球を滅亡させてしまうボタンなんじゃないのか? そんな馬鹿らしい考えが頭の中で湧き上がってくる。
私は震える手でボタンを掴む。そして、うっかり押してしまわないように、そっと、そっと、引き出しの奥へとボタンを戻した。
それから、私と私にボタンを押させようとする謎の勢力との闘いが始まった。時折自宅にやってくる中年の男に加えて、道端で突然私に声をかけてきた人の良さそうな若い女性、行きつけの居酒屋で偶然隣に座った若いサラリーマン。彼らは偶然を装って私に話しかけてくると、こちらが心を開きかけたそのタイミングで、私の自宅にあるボタンについて言及し、それを私に押してくれないかと言ってくる。
それに対して、私は鉄の意志を持って徹底的に抵抗した。誰に唆されようが、誘惑されようが、私はこのボタンを押すことはしない。そして、謎の勢力が私にボタンを押させようとすればするだけ、私の推測は確信へと変わっていった。それはつまり、このボタンは地球を滅亡させてしまう破滅のボタンで、地球滅亡を目論む勢力が虎視眈々と狙っているものだということ。そして、その勢力から地球を守るために選ばれたのが、この私だということだった。
私は地球を守る英雄として、謎の勢力と闘い続けた。あらゆる手法を用いて私を誘惑してくる彼らを巧みにいなし、何を言われても、どんなに煽てられても、絶対にこのボタンを押すことだけはしなかった。次第に私は、このボタンを守るために自分は生まれてきたのだと考えるようになった。昔からずっと疑問に思っていた。私は何のために生を受けたのか、そして、何のために死んでいくべきなのかということを。幼き頃に憧れたヒーローのような派手なアクションもなければ、ドラマチックな展開はない。だがしかし、私は今こうして、ボタンを守り続け、地球を悪の勢力から守り続けている。これこそが私が生まれてきた意味だったのだ。
そして、ボタンが自宅に届けられてからちょうど一年が経ったある日。何の前触れもなく、家のチャイムが鳴る。また、例の中年だろうと思ってドアスコープを覗いてみると、玄関の前に立っていたのは糊のきいたスーツに身を包んだ男性二人組だった。何者だろう。少しだけ不安を覚えながら、私は恐る恐る玄関のドアを開ける。男たちは礼儀正しく頭を下げた後で、自分たちはこういうものですと名刺を差し出してきた。
『国立人間心理研究所』
私は名刺に書かれていたその言葉を読み上げた。左に立っていた男が小さく頷き、そして自分たちのことについて淡々とした口調で説明を始める。
「その名前の通り、国立人間心理研究所は人間心理に関する高度かつ大規模な研究を行う機関でして、政府発案の心理学実験を秘密裏に進めることを主たる活動としています。そして、昨年より我々が国民全体を対象として秘密裏に進めていた心理学実験がありまして、それが、絶対にボタンを押してはいけないと言われた時の人間心理の変異調査というものなんです。心当たりはもちろん、ございますよね?」
男は私の返事を遮るようにさらに言葉を続ける。
「無作為で抽出した、各世代の老若男女を対象に同じ内容の心理実験を実施しました。絶対に押してはいけないと注意書きが添付されたボタンを受け取り、それに対して人々の行動がどのように変異するのかを観察、調査するというものです。ボタンを受け取った後の行動だけではなく、さらにボタンを押すように働きかける外圧、まあ外圧といっても脅迫や暴行を加えることはできませんから、劇団員を雇ってそれとなく匂わす程度しかできませんが、とりあえずそのような外圧を受けた場合の行動についても観察しておりました。余談混じりにお伝えしますと、心理学実験の被験者の大半はその日のうちにボタンを押す、あるいはゴミとして処分してしまい、その後も時間の経過や外圧とともにほとんどの人々がボタンを押してしまいました。そして、今現在ボタンを一度も押していないのは一人しかいません。それは明石さま、あなたです。
もちろん我々としてはこの興味深い実験をさらに長いスパンで続けたかったのですが、予算の都合上、実験期間は一年と区切られています。なので、本日明石さまの元へと訪問させていただいたのは、実験の終了とその経緯をお伝えするためなのです」
もう一人の男がカバンから何枚かの書類を取り出し、それを私へと手渡してきた。書類は何十ページにもおよぶもので、実験の経緯や法的根拠、実施手順などが詳細に記載されている。そして、最後のページに目が留まる。そこには小さく、実験協力金として300万円ほどの報酬が支払われるということが書かれていた。
「この書類にサインをいただくことで明石さまへの報酬金の支払いが確定します。サインに署名をお願いできますか?」
私は書類にざっと目を通した後で、男をじっと見つめる。どうかされました? 男が不思議そうな表情を浮かべて聞いてくる。
「それではあのボタンは一体なんなんですか?」
「ああ、あれは押された時に我々の研究所へと通知がくるだけの何の変哲もないボタンです。なので、別に明石さまの方で処分してもらっても構いませんし、今まで我慢してたのであれば、思う存分押してもらっても大丈夫ですよ」
男が口元を緩ませ、快活に笑う。その男の説明に対して、私は「そういうことなんですね」とポツリとつぶやく。何がでしょうか? まだ笑顔が張り付いたままの男の問いかけに、私はふつふつと湧き上がる怒りを押さえつけながら返事を返す。
「普通の方法では上手くいかないことがわかって、次はこういう方法で私にボタンを押させようとしているってわけだ……」
私の言葉に二人の男が顔を見合わせ、それから困り顔を浮かべた。
「えっとですね、疑り深い気持ちになっていることは理解できるのですが、実際にあのボタンは実験のために作られた何の変哲もないボタンでして……」
「その手に乗るものか! この宇宙人どもめ!! 出てけ! 出てけっ!!」
私は玄関横にかけていたビニール傘を手に取り、二人組に向かって振り下ろした。二人組は頭を手で守りながら必死に防御し、そのまま逃げるように玄関から去っていく。そして、走り去っていくその背中に向かって、私はあらん限りの声量で叫んだ。
「絶対にボタンを押すものか! 私が! 私がこの地球を救うんだ!!!」
そして、大声で叫び声を上げたその瞬間だった。自分の胸に経験したことのない激痛が走る。私は扉を閉め、胸を押さえた。胸の奥が、締め付けられるように痛い。呼吸が、少しずつ少しずつ苦しくなっていく。私は這うようにリビングへと戻ると、震える手で携帯を握りしめ、救急車を呼んだ。しかし、胸の痛みと呼吸の苦しみは刻一刻と強さを増していった。死。私の頭の中にその単語が思い浮かぶ。そして、それと同時に、私が最期にやるべきことに気がつく。
私は残りの力を振り絞って引き出しの元へと近づき、そして、奥から例のボタンを取り出す。そして、引き出しの奥の方で丸まっていた紙を必死に取り出し、それを震える手で引き伸ばした。
『絶対にこのボタンを押さないでください。このボタンを押した瞬間、地球が滅亡します』
私は皺を広げた注意書きの上にボタンを置く。こうすれば、救急隊員がこのボタンに気がついてくれる。そして、私の意志を引き継いだ誰かの手にボタンが渡り、地球の平和が守られるはずだ。
私はやりきったんだ。その満足感が死が近づきつつある私の心の中を満たしていく。恐怖はなく、心はいつになく穏やかだった。私は私の人生に与えられた使命を果たし、このボタンを悪の勢力から守り抜いてみせた。短い人生ではあったかも知れない。しかし、何の意味もなく、何の使命もなく生き続けていく人生よりもずっと、私の人生は素晴らしいものだったと胸を張って言える。遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。しかし、もはや間に合わないということは理解できた。
私は胸を手で押さえ、目の前に置かれたボタンを最期にもう一度だけ見つめる。そしてそれから、私はゆっくりと、目を閉じた。
*****
「昨日、搬送された患者さんだけどさ、やっぱりもう手遅れだったよ」
「昨日の患者さん? ああ、ボタンを抱きしめたまま家で倒れていた人のことですか?」
「そうそう。救急隊員が間違ってそのボタンを踏んで、足を挫いたってやつ。なんで、あの患者さんが人生の最期にあんなボタンを大事に抱いていたのかはわからないけどね」
「え、今朝のニュース見てないんですか? ほら、絶対に押さないでくださいって注意書きがついたボタンを渡されたら、人がどんな行動を取るのかっていう心理実験がこっそり行われていて、そのやり口があまりにもひどいって大炎上してるやつですよ」
「何だその、馬鹿馬鹿しい実験は」
「本当にそうですよね。ネットとかでも国の税金を使って何してんだってみんな言ってますよ。多分、昨日の患者さんもこの実験の参加者だったんですね。可哀想に」
「うーん、そうかな? 可哀想かどうかと言われると、私はそうとは思わないけど」
「どうしてですか?」
「だって、ほら。救急隊員も言ってただろ。あれだけ安らかな死に顔をした人は今まで見たことがないってさ」