飛蝗
ブッダですか?その痕は
唐突に聞かれて、私はしばらく目を瞬かせていた。そして「ああ」と思った。口に出したかもしれない。
「面白くないですよ、その冗談」
「ところで実は、会社辞めることにしたんだ」と私が言っても、彼女は同じことを言うだろうな、と思った。
職場近くのラーメン店で、私はちょうど食事を終えた。おつりを受け取り、扉を押して外へ出た。
「ありがとうございましたー、またお越しくださいませー」
店員の言葉を私はもう聞いていなかった。曇りの空に目をやると、電線に烏が三羽いて、遠くのごみ置き場は彼らのレストランと化していた。私は少し迷ってから、それと反対方向に歩き出した。醜いものの近くをとおるか、少し遠回りをしてみるかで、私は後者を選んだことになる。緑色にペイントされた鉄格子に、許可はしたのか看板があった。「空き地売ります」とあり、道順まで示してあるのを横目で見ながら、すぐに忘れた。ただ「あそこはまだ売れていなかっただろうか」と思うだけだった。そういえば岡本さんの家は売れただろうか、と連想する。築十五年の家はそれほど高くは売れないはずで、だから岡本さんもそれを待つこともなく、さっさと引っ越していってしまった。そういえば、本を返していなかったな、引越し先を聞いておけばよかったなと思った。そう思ったと思ったら、思考は中断された。電線にぶら下がっていた雨のしずくが私の頭に落ちてきたのだ。私は嫌な気分になった。電線から雫が頭に落ちてきたのは生まれて以来何度目か忘れたが、いつも「静電気やらがたまっていて、私の健康が害されるのではないか」と無根拠に思う。現実に引き戻された私の思考は「少し先のコンビニで半分だ。今日は近道を通ろうか通るまいか」と考えていた。
コンビニが視界に入ると、左肩に茶色のバッグを背負った若者が、右のT字路から出てきた。若者の服装はファッション誌に出ているような「いかにも普通の若者です」と語りだしそうなものだったが、私の目を引いたのは彼の肩に掛かるよりも長い髪だった。その髪はぼさぼさで、ヘアピンとワックスでオールバックに仕立てられていた。いつしか自分がしていた髪型にそっくりだった。
彼は私に気がつくと近づいてきて、
「こんにちわ。ちょっと、お時間よろしいですか?」
と声を掛けてきた。私は特に警戒することも無く「ええ」と答えた。私は、道でも尋ねられるかと想像した。
「友人の家を探しているんですが、どうも道順が細かいんです。それで今、目印の空き地を探しているんですが、分かりますか」
私はやはり、と思った。読みは当たった。ここらの道にはかなり詳く、私は自信満面に道を教え始めた。彼は途中で私の話を遮り、こう言った。
「百聞は一見にしかず」
要するに、連れていってくれということだろう。会社へ戻る道を少し逸れたところだから、ちょっとした寄り道だと思って、私は道案内を了承した。
さて、彼が怪しい人物だと思った時にはもう何もかもが遅かった。
空き地は一戸建てが六つ建つ大きさで、道路を挟んだ反対側には廃ビルがあった。要するに、ここは人目がない。彼は私と空き地の間に立った。
「ありがとうございました。ところで、貴方は岸田陽助さんですよね」
そう言うなり、彼はポケットから銀色の怪物を取り出した。
「助けを呼ぼうなんて思うなよ。これは本物だ」
彼の口調は一気に変わった。私は喋ることさえできなかった。ようやく落ち着いた私は、
「それ、玩具じゃないと言えます?」
と言った。なぜか、他に思いつく台詞はなかった。「壁に撃って証明してみてくださいよ」そう続けようとしたが出来なかった。言う前に、彼は銃口を私の額に押しつけ、私はそのまま下がり続け、ついには廃ビルのガラス戸に張り付けになった。
「わ、私は何をしたんですか。何か悪いことでもしたんですか」私は初めて見る怪物に慌てていたので語尾が怒りっぽくなったことを後悔した。
「したよ。したに決まってんじゃん。強盗殺人、私物破損。立派なお罪だこと。人間のやる事とはとても思えない」私は「証拠はあるのか」と反抗しようと思った。だが「おっと、証拠ならあるぜ、ほら」と先回りされた。彼は左手で持ている鞄を軽く叩く。「だが良かったな、俺が警察じゃなくて。ほんと、お前は幸せだよ」
「やめてくれ、殺さないでくれ」
「お前を殺す?なぜだ?教えてくれよ陽助」
だって、立派な罪を犯したじゃないか。
「というか逆に、褒めに来てやったんだぜ」
にしてはなんと気のない接待だろう。
「なんと言ったって社長は久しぶりに大笑いしたんだからな」
私のギャグを笑ってくれる人がこの世にいたとは!
「社長さん凄いよな。素晴らしい人格者だよ。ほんと」
私は口に出してみようと思った。
「でも何で、私の額にはこんな物が突きつけられるんです?」
「さあ。気分?」
「えも言われぬ」
「面白くないし」
「社長さんはつくづく素晴らしいお人だ」
「ああ、そうだよこれ」ICカードと名刺を渡される。「明日からうちに来るように。あんたは俺の後輩になる」
「え?嘘だ!」私は酷く驚いた。何しろ殺される覚悟だったのだから。
「なぜ嘘をつく」
私は頭をひねった。あんな残忍なお人にちょっかいを出したのだから、殺されるのが筋かと思っていた。しかし私は、逆にお近づきのチャンスを貰った。九死に一生を得たわけだ。すると、私はどこか、吹っ切れてしまった。「どうせ死ぬはずだったんだから、やれる所までやって、後は天に任せよう」というわけだった。
「え、ええと、断ったら?」義理のように私は問うた。
「岸田陽介は行方不明かな」彼は銃口をさらに強く押しつけた。扉を縛る錆びた鉄鎖がジャリ、と音を立て、錠がガラス戸にぶつかった。「強盗殺人されてもいい」
それを聞いて、私は気が楽になった。「命懸けの決断は、私が下したのではない。無理矢理そうさせられたのだ。私は嫌嫌で、でもそう決断せざるを得なかったのだ」と、後で失敗しても、自分に言い訳できるからだ。
「明日からよろしくお願いいたします」
「はい、どうぞどうぞ」
そしてようやく、物騒な物はしまわれた。
「ぷっ、悟りが開けた?」
私は意味が分からず只、目を瞬かせていた。
考えればあれは、銃が突きつけられて出来た痕を笑われたわけで、失礼な奴だと私は改めて思った。
「面白くないですよ、その冗談」
私は揺れる電車に乗っていた。昼過ぎの電車は程良く空いていたので、私は乗るなり座ることが出来た。今乗ってきたばかりの若者は私の前に立った。他にも席が空いているのにどうして私の前に立つのかと思った。見ると端の席は皆空いていなく、私の座っている席は端の席だった。「端はいいよなあ。寄りかかって寝られるもんなあ。うんうん」と私は、大音量の音楽をヘットフォンで聞きながら外の景色をぼうっと眺めている目の前の若者に、微妙な仲間意識を持った。彼の目は右から左へゆっくりと動き、また素早く右に戻り、ゆっくりと左に動いていた。優先席に似た、三人座りのシートに、太った男が座って寝ていた。髭をぼうぼうに生やし、髪など生まれてから一度もシャンプーを使って洗ったことが無い様子で、服もかなり汚れていた。ホームレスかなと思ったが、ホームレスがなぜ電車に乗るのか、分からなかった。電車に乗るには少なくとも160円要ると私は思っているが、160円もあれば食料に当てると思うし、遠くに行きたいにしても、歩いて行けば良いわけだし、ホームレスに「急用」があるとは思えなかった。それにホームレスがどうしてあんなに太れるのかも、謎だった。謎の男だなあと私は思った。しかしそう思ったと思ったら、悟りが開けた。あの男は160円を手に入れて、電車の中で休養しているに違いない。そしていつか、乗った駅にまた戻り、全額返してもらうのだろう。私はそう決めつけた。向かい側の席には一人の学生が座っていて、私の目を引いた。制服の女学生で、本を読んでいた。本を読んでいただけなら、勉強熱心か、読書好きだと分かる。いや確かに読書好きなのだろうが、それが残酷そうなものだったので驚いた。私は眼鏡を掛けていなかったのでよく読めなかったが、確かに「人肉」とタイトルにある。表紙には倒れているらしい人が黒い線で描かれており、背景は赤一面だった。私の目を引いたのはこの赤い表紙だった。おかしな趣向に驚いたが、それを隠そうとしない性格にさらに驚いた。その胸ポケットには金色のペンが差してあった。
ふと、自分の胸ポケットにある二枚の名刺を思い出した。一枚はICカードと共にあり、一枚は無造作にねじ込まれたために皺だらけだった。変形した名刺を見て、そこに書き記してある名前を心の中で読み上げた。
「柳原喜一朗」
彼には悪いことをしたなあ、と思った。
私は柳原社長の前に立ち、ついさっき書き上げたばかりの退職届を出した。社長は目を丸めていた。
「なぜだ?嘘だろう、お前が去ったら私はどうすればいいんだ?何だ、何が不満か?給料なら上げてやる。好みのプロジェクトに回してもいい」
「いえ、なんて言えばいいか、」私は言葉が見つからず、少しの間黙った。「ごめんなさい」
喜一朗は更に驚いて、口を何度も開けたり閉じたりした。「ごめんなさい」は、私に最も似合わない台詞に思われていた。
「どうして」喜一朗は落胆と、驚きと、不条理とに押し潰されそうで、弱弱しい一言を呟き、背もたれに体を預けた。
「ごめんなさい。私の問題なんです。自分が悪いんです。なのに、迷惑をかけてごめんなさい」私はそう言い残すと、彼に背を向けて走り去った。
喜一朗はしばらくそのまま宙を見つめていたが、すぐに私を追いかけた。私の右肩を掴んで止め、心臓の部分を平手打ちした。見ると私は彼に名刺を押し付けられていた。彼は名刺を持ち替えて摘み、私の目の前にひらひらさせた。
「困ったことがあったら、何でも言えよ」
そう言い残し、彼は「柳原喜一朗」と会社の連絡先やらが刻まれた客先向けの名刺を、私のポケットに捻り込んで戻っていった。
私は立ち尽くし、しばらくするとそのまま会社の門を出た。
名刺を裏返すとそこに、喜一朗の私用の電話番号があった。皺を伸ばすと、その名刺を財布の中に入れた。
いや、これは自分の妄想であった。実際には、退職届を喜一朗の机に置いて、出て行った。皺を伸ばすと、彼の名刺を財布の中に入れた。名刺を裏返しても、何か書かれているわけが無かった。
「柴田健介」
私の関心はすでに移り、次に心の中で読み上げたのは、あのお兄さんの名だった。気づくと「田」と「すけ」が一緒だなあと、奇妙な仲間意識を勝手に作り出していた。「自己暗示と一緒かな」と思った。
「いや違うと思う」
いつの間にか柴田くんが隣に座っていて、自分の頭の中の言葉に返答していた。また思ったことを口に出してしまっていたのだろうか、やっぱり危険かな、精神医に通った方がいいかな、と思った。
「お父さんやっぱり頭おかしいんじゃないの?」
十一歳の我が子にそう聞かれた私は、少し傷ついた。いや、かなり傷ついた。それは純也は自分の唯一の家族であり、その一言から冗談の意が読み取れなかった為であり、当時会社に妙な噂が立ち、社長のノイローゼが少なからず私にも移った為だった。
「そうか、じゃあパパにいい医師を紹介してくれよ」
「ああ、ちょうどいい」そう言って純也はポケットから一枚のカードを取り出し、私にくれた。「チャイルドライン」とあり、電話番号がある。受付は「ごご4時からごご9時」までだそうで、時計をみるともう十時を回っていた。思い出したように私は言う。
「そうだよ、もう十時じゃないか。早く寝なきゃ、明日はまた学校だろう」
「はいはい」と返事して純也は歯を磨きにいった。
私はしげしげと手に持ったカードを見る。「18歳までのカウンセリング」とある。私は「もう大人だっつうの」と突っ込みを入れるより「俺ももう大人かあ。あっという間に時は過ぎてしまったなあ」と感慨にふけった。5月5日から11日までのキャンペーンらしく、下に「無料」の字が踊っていた。毎日無料で待ってるよ、と。期間が終わると金を取るのかな、と考えるが確信はなかった。5月5日の上に「こどもの日」とあり「ああそうか、もうすぐ子供の日なのだな」と思った。今考えると、純也はこどもの日のプレゼントを待ち望んでいたのかもしれなかった。
純也が薬物を一年以上やっていたことは、それから二年後に分かった。毎日一緒にいてなぜ気がつかなかったのかと私は自分を責めた。その薬物がエバルスによって売られたものだとは後から知った。
仕事関係でエバルスのコンピューターをいじる機会があったので、復讐ではないが、いたずらをしてやった。そして今日に至る。
「おうい、大丈夫か?」私の思考は現実に引き戻された。
「あれ、どうしたんです」
「意識が飛んでたのか」
「そうかもしれません」
「最近どうしたんだよ」
「それほどの付き合いでしたっけ?」
「いや」
「実は、最近よく意識が飛ぶんですよ」
「ほう、それは大変だね、お宅も」
「って言っても六年くらい前からなんですけどね」
「ほう、そりゃまたどうして?」
「息子の入院ですよ」
「ありゃあ、どうしてまた」
「自分の心に聞いてください」
「薬やってたんだ」
「エバルスのお陰様です」
「そいつは申し訳ない」
「どれ程本気でして?」
「アリ五匹ほどかなあ」
「人の心が全くないですね」
「今頃?」
「知ってましたけど」
しばらくの沈黙。
「ということは、復讐か?」
「そうでもないですよ」
「なんだそりゃ」
「息子の件は、私に責任があると思っているんです」
「ほう」
「ただ、薬物売ってる会社に腹が立たなくもないっていうか」
「それで、機会があったからいたずらを?」
「そうですね」
また、沈黙。
「あれ、」と私は思った。いたずらで通るのは、おかしい。いくら何でも、おかし過ぎる。もしかすると、純也が薬をやっていて、私がその父であることは、調べがついていたのではないだろうか。すると、私は何か大きな陰謀の渦に、巻き込まれたのかもしれない。
「そう言えば造語ですよね、エバルスって」
「ああ、そうだけど。知りたいんだ?」
「え、知るとまずいんですか」柴田の悪戯な口調は、危険な匂いを孕ませているように思えた。
「いや、別に。どうしてそんなことを」
「だって、知りたいのかって、危険なにおいを漂わせた物言いだなと思って」
「ああ、大丈夫だよそんな」
「じゃあ教えてくださいよ」
「英語で、奴隷って知ってる?」
「いえ、知りません」
「slaveって言うんだ」宙にs,l,a,v,eと書いてみせる。
「へえ」
柴田は私が答えを導き出すのを少し待っていた。
しばらく考え、悟りが開けた。「あ!逆さ?」
「そうなんだ。E・V・A・L・Sで、EVALSなんだよ。面白いだろう」
「おかしなネーミングセンスですね。意味あるんですか」
「単純に、奴隷の反対、ってことじゃないの」
「悪趣味ですね」
「おかしな人だろう」
「ということは、佐久間社長ですか」
「そうだよ。よく分かったねえ」
「おかしな人って所で」
「狙ったんだけどね」
「自分で考えついたんですか?」だとしたら凄い。
「だとしたら凄いんだけどなあ」
「なあんだ、違うんですか」
「佐久間社長が、陽ちゃん聞いてくるだろうからって言って、わざわざ教えてくれたんだよ」
「つくづくおかしな人ですね」
今日の電車も、おかしな人がたくさん乗っているな、と私は思った。左から踏み切りの音が聞こえ、音はだんだん大きくなり、通過した途端、音は低くなり、遠ざかっていった。
この短編は誰かの作品(出展失敬)を読んで思い当たった。「頭おかしい人を描いてみたい」という衝動からである。よって、表現に関する感想を多く頂けたら嬉しい。