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とある家族の物語(後編)

20X7/01/24 16:58


 一人でマンスリーマンションに住んでいると、家族のことばかり思い出される。

 さようならを宣言したあの日、確かにわたしは新型ウイルスを『相当危険なもの』と認識していた。しかしまさか、それのせいで世界が滅ぶとは思っていなかった。

 ……ああ、やはり、最後は家族と一緒にいるべきだったのか。たとえそのせいで死ぬとしてもだ。

 このマンションの住所は誰にも教えていない。パソコンもスマホも使えなくなり、郵便局も閉鎖している今、家族にわたしの無事を知らせるすべはない。特に夏海。彼氏と山奥に住むと言っていたが、どこの山かは聞いていない。ああ、わたしはなんてことを。もしかすれば二度と、家族と会えないかもしれないなんて。

 わたしの住むマンスリーマンションも、今では廃墟同然だった。電気も水道もガスも通っていないし、家賃はタダだ。……家賃を請求する人々もいなくなってしまったからな。

 どうする。一度、我が家を見に行ってみるか。春子、秋穂、冬人はまだあそこに住んでいるかもしれない。いや、三人かたまって暮らしているのなら、まさかこのパンデミックで――

 わたしの思考を遮るかのように、誰かが窓ガラスの前を横切った。顔を上げ、窓を見る。私の部屋は一階――道路に面しており、誰かが窓の近くを通ってもおかしくはない。しかし近頃、この近辺を『人』が歩くことはあまりなかった。マンションの住人も、いまやわたししかいない。


「誰だ?」


 窓の向こうに声をかける。返事はない。

 ……物取りか? それともゾンビか?

 足音を忍ばせそっと近寄る。外からはアスファルトを踏む音がした。――確かに誰かがいる。


「誰だ!」


 物取りならば追い払わねばならないし、生者なら匿ってやらねばならない。そう思いわたしは窓をあけ――眼前に迫る女の姿に息をのんだ。

 不自然に明るい髪色と、何本か折れてしまった長い爪。ピンク色のダッフルコート。

 真っ赤に充血した目。赤紫の血管が無数に浮き出た頬。


「――なつ、」


 わたしが名前を呼ぶより早く、夏海が大きく口を開いた。思わず、腕でガードしようとする。しかし夏海が求めていたのは、わたしの顔や首「だけ」ではなかった。

 ごりり、と手首の砕ける音が脳に響く。


「うあああああああああああっ、やめ、やめなさ、――夏海ぃっ!」


 突き飛ばすと、夏海は簡単に地面に転がった。噛みつかれた右手首を確認する。くっきりと夏海の歯型が残っており、そこから血が滴り落ちた。

 ――噛まれ、た。

 視界のすみで、のそりと夏海が起き上がった。わたしは次の攻撃にそなえ、窓を閉める。しかし、夏海はわたしに興味をなくしたかのようにどこかへ消えてしまった。


「あ、ああっ……」


 手首をおさえてその場にしゃがみこむ。痛みよりも、違う感情のほうが勝っていた。

 ――噛まれた噛まれた噛まれた。夏海、なつみ、そんな、ああぁ……。


「なんてことだ……」


 手近にあったシャツを裂き、手首に巻き付ける。手は動く。出血もすぐに止まりそうだった。しかし。


「夏海……わたしは、……あ、うあああ……」


 わたしは、わたしも。

 ――おまえたちを、愛していた。





20X7/01/24 19:42


 少し眠ってしまったようだ。身体が冷えている。防寒ジャンパーを着、ジッパーをあげた。風邪でも引いたのか、少し具合が悪い。意識もぼんやりとしている。

 ……おかしいな、今日一日のことをよく思い出せない。

 記憶をたどってみようとするが、思い出されるのは家族のことばかりだ。春子、秋穂、冬人。……ああ。


 みんなにあいたい。


 会いに、いこうか。我が家に行けば会えるのではなかろうか。きっと三人はまだあの家に住んでいる。父親の勘だ、きっとはずれない。

 会いたい。家族に会いたい。離れれば離れるほど絆が深まっていくような気さえする。ああ……。会って、かけよって、抱きしめて。


 おまえたちに、かみついてやりたい。





20X7/01/25 09:22


  我が家へ向かうべく、愛車で国道をひた走る。誰ともすれ違わず、開店している店も見当たらない。むしろほとんどの店舗は窓ガラスが割られ、商品が持ち出されているようだった。

 悪寒と頭痛に耐えきれず、風邪薬を放り込む。本格的に体調が悪くなりはじめていた。もしかすればインフルエンザかもしれない。時折右手に力が入らなくなり、車がふらふらと蛇行した。バックミラーにつりさげている貝殻たちが、そのたびにからからと乾いた音をたてる。昔、家族で海に行った時に子供たちが拾ってきてくれたものだ。

 ――家に着くまでの辛抱だ。

 自分に言い聞かせ、アクセルを踏む。気分は最悪だが、ドライブにはもってこいの天気だった。朝の空気は清々しく、陽はさんさんと降りそそいでいる。スクリーンのような青空の中を飛んでいく数羽のスズメ、一羽のカラス。そうして地に視線を戻せば、こちらに手を振る女子高生。

 ――……女子高生?


「うおっ!」


 思わず力いっぱいブレーキを踏んだ。跳ね飛ばすかと思ったがそうでもなく、彼女は歩道からこちらにむかって両手を振っていた。――わたしの車が止まったのを見て、ツレの青年に何やら言っている。助手席側の窓を開けると、こちらに走って来た。


「ほら神林君、とまってくれた!」


 きゃっきゃとはしゃぐ女子高生は対照的に、背後の青年は神妙な面持ちだ。彼はわたしと色違いのような黒のジャンパーを着ている。一方の女子高生は制服姿だった。


「おじさん、とまってくれてありがとね」

「いや……」

「んでさ、どこに行くの? あっちの方?」

「え?」

「XX方面なら乗せてほしいんだけど。途中まででもいいから」

「ええと……」

「あれ? 神林君、XX方面であってた? あってるよね?」


 ……なんともマイペースな娘である。青年のほうは気が弱いのか、彼女の後ろで溜息をつくばかりだ。二人の姿を上から下まで確認する。武器を持っている様子もなく、これといっておかしな点もない。二人とも重そうなリュックを背負い、どこかへ向かっているようだ。

 ――わたしの家は、彼女が口にした方向と同じである。確かに途中までなら乗せられるが……。

 びゅおう、と冷たい北風が吹いた。女子高生は鼻を真っ赤にしている。今日はいい天気だが、これでもかというくらいに冷えこんでいるのだ。時折吹く風は肌を切り裂きそうである。

 こんな寒空の下、声をかけてきた生者を放っておくのも気が引ける。


「……途中までなら」

「ほんと!? 乗ってもいい!?」

「……後ろの席に」

「やった! 神林君はやくはやく」


 女子高生は寒さを振り切るように、勢いよく車に乗った。車内がぐらぐらと揺れる。神林君と呼ばれている青年は「お邪魔します……」と遠慮がちに女子高生の隣に座った。……二人とも律儀にシートベルトをしている。一見不躾な女子高生も、そういうところは真面目なのか。

 二人が席におさまったのを確認し、わたしはアクセルを踏んだ。ぐんぐんとスピードをあげ、信号もない国道を突き進む。「いやー、久しぶりに快適な移動」と女子高生が弾んだ声を出した。シートベルトが伸びる範囲で、こちらに身を乗り出してくる。


「おじさん、どこに行くとこだったの?」

「家に帰るんだ」

「へえー。……家族って結構大人数?」


 わたしは、バックミラーで女子高生を見た。彼女もミラー越しに、わたしを見ている。


「どうして、そうだと?」

「この車。おっきいじゃん、寝泊まりできそう」


 女子高生がへらりと笑う。キャンピングカーに乗っているわけではないが、七人乗りかつ車内の広さをウリにした車を購入したのも確かだ。


「……妻と、三人の子供がいるんだ」

「五人家族? いいなあ、あたしもきょうだい欲しかったな。神林君は弟がいたっけ?」


 青年が「うん」と短く答える。この神林君とやらは恐らく、うちの秋穂と同じタイプだろう。物静かで、あまり自己主張しない。


「……君たちは、カップルか何かか?」


 あまりにも凸凹としている男女なので、訊ねた。女子高生は「ぜんぜんなにも」と、少しおかしな回答をする。


「なんというかねー、旅の道連れってやつ?」

「……その日本語は正しいのか?」

「多分違うけど。そーいや、神林君はあたしのことをなんだと思ってんの」


 とんでもない台詞だ。場面によっては修羅場になる。

 質問を振られた青年は言葉を詰まらせ、かなり時間が経ってから


「……………………終末世界を一緒に歩いてる人」


 文学的に見えて率直な表現をした。間違ってないわと女子高生が笑う。

 よく分からぬ男女を拾ってしまった。早くこの子たちをおろして、家族のもとに向かわねば。そうだ、今は家族が第一優先だ。こんな男女にかかずらわっている暇はない。国道からそれるあたりでこの二人はおろすか……。





20X7/01/25 10:27


 おかしい。指先に力が入らなくなってきている。発熱しているのか、大量の汗が背中を伝う。気分もすぐれない。自分の運転に酔ったのだろうか。

 気づけば、後部座席のふたりは無言を貫き通していた。寝ているのかと思ったが、そうでもない。女子高生は窓の外に目をやっているし、青年の方は不安げに女子高生を見ている。何が不安なのだろう。わたしの運転が荒いのか?


「……おじさん」


 かれこれ三十分は口を閉ざしていた女子高生が、再度口を開いた。先ほどよりも静かな声で。


「ほんとに家に帰るの?」

「……なに?」

「家族のこと、大切?」


 なにを言うんだ。この娘は。

 吐き気をこらえながら、わたしはその質問に答える。


「もちろんだ。何がなんでも守りたい、わたしの宝物だ」

「そう。――んじゃ、Uターンしたほうがいいんじゃないかな」


 ブレーキを、踏んだ。

 足元でタイヤが甲高く鳴り、シートベルトがロックされた。がちん、と耳元で音が鳴り、胸が締め付けられる。後ろの二人もそうなったのだろう。「いったー」と女子高生が声を出した。しかし、謝るつもりもない。


「……どういうことだ」

「おじさんさ、なんで家に帰るの」

「家族に会いたいからだ」

「会いたい、なんだね。……その家におじさんも住んでるんじゃなくて、『家族に会いたい』からなの?」


 揚げ足をとるように女子高生が言う。気分の悪さも手伝って苛ついた。


「何が言いたい!」

「――その手首、どうしたの」


 女子高生が。

 私の右手を見ながら、無表情に、言った。

 言われて確認する。袖口から、包帯のようなものが覗いていた。よく見ればそれは包帯ではなく、なにかの布らしかった。

 ……わたしは。


 手首にこんなもの、巻いていたか?


 袖をまくる。手首に巻き付けられた布に、血のようなものが付着していた。今はもうすっかり乾いているが、わたしは……これは、どうしたんだ?


「いつ噛まれたの」

「……え」

「覚えてないの?」


 女子高生が、深刻な顔をして言う。噛まれた……噛まれた? 

 震える手でゆっくりと布をはずしていく。一周はずすごとに、血の面積が増えていく。はらはらと、白い布がシートに落ちる。嘘だ、うそだ、うそ――


「……あ」


 手首には。

 大切な家族のあとが、あった。

 そうだ、わたし、夏海に、噛ま――――


「あ、あああああああああああああああああああああああああ!!」


 わたし、そう、あ、夏海に、夏海に噛まれて、だめだ、ああ、噛まれてゾンビに、もう間に合わ、ああ、家族、家族、ちがう大丈夫だ、自我は、意識はまだ、はっきりして、わたし、まだわたしだから、家族、家族に、

 ――そうだ。

 わたしは噛まれてから、感染してから、家族に会いに行こうと、して。


『――――……おじさん、よく聞いて。多分脳がやられはじめてる』


 女の、ひずんだ声。だれだ? どこから話しかけてきている。姿が、姿が見えな、


『このままだとおじさんは、家族を噛み殺すよ。……ううん、もう噛み殺そうとしてるのかも』


 なに言って、


『それが嫌なら今のうちに、』

「だまれえええええええええええええええええええええええっ!!」


 うるさいうるさいうるさいうるさい!

 どこから聞こえてくるんだこの声は! わたしは家族に会うんだ邪魔を、邪魔をするな!

 そうだ家族に会いに行かないと、わたしの大事な、会わないと抱きしめないと噛まないと。

 わたしはまだ理性がある、大丈夫、ほらシートベルトはずしてドアあけて、そうだこっちだわたしの家。

 わたしの、わたしの家族。

 会わなきゃ。はやく。


 はやく、かみたい。



『――……車、乗せてくれてありがとね。おじさん』






20X7/01/26 14:01


「……なかなかいい具合にさびれたスーパーだねえ。しおなか。聞いたことないや、ここら辺にしかない店なのかなー」

「めぼしい商品ものが残ってるとは思えないけど……」

「もしかしたらなんか残ってるかもしんないじゃん。そうだ、ポテチとかないかなあ。野菜食べたい」

「……野菜」


「さーてと、そんじゃあおじゃまし、――んわっ」

「なに?」

「先客がいたわー。あっちの棚の向こう」

「う……」

「ゾンビじゃないよ、多分」

「え? じゃあ」

「生きてる人間。それも二人。どうしようかねー」

「……その人たちがいるってことは、この店にはあんまり期待できないね」

「っぽいよねー、ポテチももう取られてそう。仕方ない、違う店に移動しよっか。店内で出くわして、身ぐるみ剥がされるのも嫌だし」

「朝倉さんはそういうのも撃退できそうだけどね……」


「あーあ、ポテチ専門店とかどっかにないかなー」

「――あ」

「どしたの神林君」

「あの男の人……」

「んー? ……あ」






20X7/01/26 14:37


 一人の少女が、息を切らしていた。

 足元を見る。そこには父親が倒れていた。父親であったはずのゾンビが、転がっていた。

 視線を自身の胸元へとずらす。茶色のコートについた返り血を見た途端、疲労感が両腕を襲った。護身用にと持ってきていた金属バットを地面に落とす。弟のものであったそれはあちこちが凹み、曲がっていた。父親の頭も同様に、ところどころが陥没している。


「あ、あきねえちゃん……」


 背後に隠れていた弟が、震えた声を出した。見ると、涙と鼻水で顔をべたべたにしている。血色の悪い頬に、父親の物とおぼしき血液が少量飛んでいた。


「と、おとうさん、死んじゃったの……?」

「死んでたの」


 少女は唇をかみしめ、言いなおした。


「もう、死んでたの」


 父親のジャンパー、その袖口から覗いている歯形を少女は凝視した。赤黒く変色した傷口は、何日か前にできたもののようだった。恐らくは昨日か、一昨日。

 弟はぐずぐずと泣いている。少女は、汗と血の混ざったものを拭った。

 昨日も、そうだった。


「……おと、さんのとこにも、なつ姉、いったの……?」


 弟が言う。少女は頷いた。


「おとうさん『も』……なつ姉に、やられたの?」


 少女は頷いた。

 長女、母親、父親。三人を殺した少女の手はじんじんと痺れている。いや、腕ではなく脳が麻痺し始めているようだった。

 昨夜、ゾンビとなった姉が目の前に現れた時の恐怖も、襲われた瞬間の叫びも、母親が噛まれた時の絶望も、近くにあったバットで姉と母を殴り殺した感覚も。

 そのすべてが、薄れているようだった。


「……誰かがやらなくちゃいけないの」


 少女が呟く。


「家族、だから。――誰かが、やらなくちゃいけないの」


 正当化するでもなく言い逃れするでもなく。ただ、呟いた。

 弟が嗚咽を漏らし始める。少女も泣きたかった。しかし、どうすればいいのか分からなかった。どうすれば泣けるのか。どうすれば悲しくなるのか。まるで見当もつかなかった。

 もはや、自分こそが死人のようだと思えた。

 ふと視線をあげる。見知らぬ男女がそこにいた。女はあっけらかんとした顔をしている。通夜のような表情をしているのは男の方。正反対の反応を示している二人は、けれどもどちらも、少女たちに声をかけようとはしなかった。

 奇妙な沈黙が続いた。少女は息を整える。

 見知らぬ二人がいる場所で、父親の死体が転がる場所で。

 少女はただ、自分の背中で泣きじゃくる弟を守り抜く方法だけを、考えていた。


「――……ごめ、なざっ」


 弟が何かに向けて謝った。頭の割れた父親にだろうか。


「ごめ、ね、……ごめん、さい、……あき姉ちゃっ……」


 ――私、に? 何に、だろう。

 少女は振り返った。手の甲で涙を懸命に拭う弟がいる。


「ごめなざ、おれっ……」


 なにをそんなにあやまって――


「お……おでっ……、小指……なぐしでっ……」


 少女は。

 弟の右手小指がなくなっていることに、気づいた。


 第一関節より先を欠損し、断面には絆創膏を何枚も貼り付けている。止血を試みたのだろう、指の付け根は輪ゴムできつく縛られており、そのせいで小指の色は黒に近い紫に変色していた。少女はそこまで観察してようやく、昨夜からずっと、弟がポケットに両手をいれていたのを思い出した。


「……なん、で」

「なつ姉がっ……お母さんを噛む前におれのとこ来て、それでっ……」


 少女の「なんで」は、そういう意味ではなかった。しかし、聞きなおそうともしなかった。

 泣きじゃくる弟に問うても、もはやどうしようもないことだった。

 弟は青白い頬を伝う涙を拭い続ける。指の先からは赤黒い血液が落下した。


「おれ……こわぐで、言えなぐでっ……ごめなさ、ごめんなさ――」


 少女は、冷たいアスファルトにぺたりと座り込んだ。

 恐怖も、憤怒も、絶望も、悲哀も。

 そのすべてが薄れているようだった。

 ただ、笑えるくらいに場違いな空腹だけを感じていた。


「――……ふたり、きりに……してもらえますか」


 その場にいた男女二人に呟く。頷いたのは女の方だった。彼女は何も言わず、男の腕を引っ張ろうとする。ただ、男の方は何か言いたげに、少女をじっと見下ろしていた。

 少女にはもう、冬の冷たさも日の暖かさも、空の青さも血の赤さも分からなくなっていた。


「……生きろって言うんですか」


 見知らぬ男を見上げる。

 自分が怒っているのか嘆いているのかもわからずに。


「こんな世界でも君だけでも。家族の分まで立派に生きろって、……そう言うんですか」


 男は、何も言わなかった。

 女が、男の腕を強く引いた。

 少女は、小指をなくした弟の右手を、両手でそっと包みこんだ。






 ――ひさしぶりに、楽しい話をしよっか。


 みんなでさ、海水浴に行ったの覚えてる? えっとね……三年くらい前だったかな。

 ちょっと遠出して、綺麗な海に行ってさ。そうそう、小さな魚がいっぱいいたとこ。

 あの時、お父さん、海の中で幽霊に足引っ張られたって大騒ぎしたでしょ。

 あれ……犯人私なんだ。

 簡単だよ。潜って、ちょっと足触っただけなの。

 なのにお父さん、勘違いしちゃって。前日に怖い番組観てたじゃない? あれのせいだと思うんだけど。一人で大騒ぎして、海に塩まで撒きはじめて……おっかしかったなあ。あんなに澄んでる海なんだからさ、足元を確認したら私の姿も普通に見えてたと思うんだけど。

 ……お父さんってば幽霊の存在を信じちゃって、「わたしが家族を守るんだー!」って海に宣言しちゃってさあ。なんていうか、お父さんってそういうところあるよね。ズレてるけど必死なの。

 夏海お姉ちゃんとお母さんは呆れてたし、冬人はげらげら笑ってたね。周りの人もみんなこっち見てるしさ。

 ――あれ、すごく恥ずかしかったけど。

 それでも私、お父さんのああいうところ、好きだったなあ。


 ……もう一回、みんなで海行きたいね。あ、でも今度はお父さんの足触らないよ。さすがに恥ずかしいもん。それから今の話、お父さんには内緒にしてね。

 絶対だよ。約束だからね。





 ――……冬人、寝ちゃった?





 ……そうだよね、疲れたよね。私もちょっと疲れちゃった。



 ――……なぁに? 怖いの?

 大丈夫だよ、私ここにいるから。いなくなったりしないよ。

 ちょっとだけ……離ればなれになるかもしれないけど。

 でも、ずっとそばにいるからね。


 今度目が覚めたら、きっとみんな同じところにいるから。


 だから大丈夫。

 ね? 



 ……うん。




 おやすみ。







「――――……さようなら、家族」




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― 新着の感想 ―
切なすぎて好きです。 こうなる前に、もっとしておくべきことが、って思います。
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