とある家族の物語(前編)
20X6/12/07 11:00
「さようなら、家族!」
わたしの間抜けな声が、閑静な住宅街に響いて消えた。
妻春子は、冗談か悪夢でも見ているような顔をしている。
長女夏海は危機感がないらしく、彼氏と同棲すると言っている。
次女秋穂は寡黙な子で、黙々と自分の荷物を確認している。
末っ子である息子の冬人は、この期に及んでまだゲーム機を持ち歩いている。
「……あなた。本当にもう、やっていけないの?」
「その言い方は語弊がある。わたしは離縁しようとしているのではない」
――そう、わたしは家族が好きだ。大好きだ。だからこその別れだ。
「マリッジリングウイルスというやつは死後、ゾンビとなって最愛の人間を殺してしまうそうだ。……わたしにとっての最愛は家族だ。みんなにとってもそうだろう? つまりいま、家族みな一緒にいるのは危険なんだよ。家族は一度、解散すべきだ」
残酷な話だ。好きだからこそバラバラにならなければならないなんて。
「春子。お母さんも子供たちが大切なら、理性があるうちに離れるべきだ」
「…………」
「何かあってからじゃ、遅いんだよ」
「あっくそ、死んだ」
冬人がガチャガチャとゲーム機をいじる。わたしは詳しくないが、大きなモンスターを狩るゲームらしい。主人公が大きな剣で切りつける度、ぶしゅぶしゅと血が飛んでいる。『斬解黒曜楼月剣!』モンスターの右腕が吹っ飛ぶ。……このゲームは本当に、中一がやってもいい内容なのか?
「おとーさん、もう行っていい? 彼、待たせてるしー」
夏海が毛先をくるくると指に巻き付けながら言う。この子はいつからこんなに髪色が明るくなったんだ。化粧も濃すぎるまつげが長すぎる。それよりなにより
「彼氏と一緒にいるなんて自殺行為だろう!」
「誰もいないような山奥で、二人でひっそり生活するから大丈夫だもーん」
「成人もしてないのに同棲とは何事だ!」
「せーきまつになったらそんなの関係ないし。大体あたしだって、あと半年でハタチだもーん」
夏海は外人のように肩をすくめ、大袈裟に溜息をついた。この子には本当に、危機感というものがない。この別離をせいぜい『鬱陶しい親とおさらばするチャンス』としか思っていないのだろう。
いや、わたしの家族は全員、このパンデミックについて深く考えていないのだ。春子は恐らくわたしに対して『なにもそこまでしなくとも』と思っているだろうし、冬人はいまだに残酷なゲームをたくさんやっている。秋穂は元来おとなしい子であったが、今回もやはり何も言わない。こういう時くらい発言してもいいだろう?
わたしが断腸の思いで『家族解散宣言』をしているというのに。
「……あなた。確かになんだか妙な風邪が流行ってるようだけど」
「風邪じゃない。ゾンビウイルスだ」
「それ信じてるの? そんな非科学的な」
「これだけ噂になっているのだ、火のない所に煙は立たない。お母さんこそ『目の前にない脅威』について考えないようにする癖をどうにかしなさい」
そう。確かにまだ、わたしたちの周囲で「プラナウイルスに感染した」という話は聞かない。しかしこれは恐らく相当「まずい」ウイルスなのだ。だから我々一般庶民には、噂話のようなものしか入ってこないのだろう。
「とにかく。今ある情報を総括して考えるのなら、最愛の者とは離れるべきだ。大切なものの命を守りたいのであれば、今は傍にいない方が賢明なんだよ。だからわたしは、お母さんたちとは物理的に距離を置くこととする。だが忘れないでくれ。距離を置くのは『物理的に』だ。心は、……心はぁっ」
いかん、わたし泣きそう。
「おとーさん話長すぎ。ねー、あたしもう行くよー」
夏海が魔女のようなネイルを見ながら面倒くさそうに言う。この子はいつもこの調子だ。わたしは深呼吸をして心を落ち着かせる。
「……ワクチンができるまでだ。せめてそれまでは離れておこうと思う。世界が『元』に戻ったら、その時はまたみんな一緒に暮らそう。そう、また仲良く暮らそうではないか。そうだ。だってこれからも心は、……心はぁっ!」
「イモータルタイム来たあっ! 死ね! 早く死ねぇっ!」
冬人。お父さんはいま結構大事なことを言おうとしていた。
「……秋穂。最後に何か言うことはないか」
夏海と冬人が元気であることは充分に分かったので、先ほどから一言も発しない秋穂に声をかける。しかし、秋穂は首を振るだけだった。この子は、十五になっても反抗期がない。
……うん。こんな感じの家族ではあるが、私はやはりみんなを愛しているし、幸せだ。
しかしそう、だからこそ。
「それでは今度こそ本当に……」
愛しているからこそ。
「さようなら、家族!」
――私のひっくり返った声が静まり返った住宅街に響き、お隣の鈴木さんがぴしゃりと窓を閉めた。
20X7/01/24 20:14
あれから一カ月半もの時間が過ぎた。
一人でいればいるほど、家族が恋しくなる。耳が痛くなるほどの静寂で、家族の笑い声を思い出す。こんな世界だからこそ、家族と過ごしたくなる。
「ああ……」
漏れるのは、溜息ばかりだ。
会いたい。やはりみんなで一緒に暮らしたい。「さようなら」なんて言ってすまなかった。わたしが間違っていた。
家族、家族、――わたしの宝物。
会いに行ったら怒られるだろうか。今更父親面するな、と思われるだろうか。冬人なんかはそろそろ反抗期だ。無責任に自分たちを捨てていった間抜けな父親だと思っているだろうか。いくら「家族を守るためだった」と言っても、そんなの言い訳だと思うだろうか。
しかし。
「会いにいくぞ……!」
自分を奮い立たせるように言い、車の鍵を探した。家族全員乗れるようにと購入した、七人乗りの大型車。お母さんも夏海も運転できないからとわたしがもらってきた。ガソリンはまだたっぷり残っていたはずだ。
――たとえ罵られても嫌われても侮蔑されても。
「会いに行くからな!」
わたしはやはり、おまえたちのことを愛している。
20X7/01/25 19:22
しまった、前に進むのに夢中になりすぎた。
一日が終わるのはあっという間だ。すっかり暗くなってしまった。いくら月明りがあるとはいえ、外灯もない世界ではほとんど何も見えない。今日はもう、この辺で休んだほうがいいだろうか。
……いや、歩き続けよう。一刻も早く家族に会いたい。今日は疲れのあまり、途中で数時間も昼寝してしまったが……そのおかげか、目が覚めたら頭もすっきりしていた。何事もポジティブに考えられそうだ。
それにしても寒いな。凍えてしまいそうだ。寒の入りの恐ろしさを今まさに体感している。
家族は、無事だろうか。
わたしを出迎えてくれとは言わない。いやそりゃあ、出迎えてくれたほうが嬉しいが……贅沢は言わない。元気でいてくれればそれでいい。うむ、やはり私は前向きになったようだ。自宅までスキップできそうだ。いやうそ。さっきから足を引きずるようにして歩いている。この年で、万年運動不足で、さすがに歩きっぱなしはきついのだ。
しかし、家族のためだ……!
妻の春子。いつもわがまま言ってすまん。今回も面妖な主張を貫き通し、家を出たわたしを許してほしい。もうすぐ帰る。
長女夏海。そうだ、あの子も今は彼氏の家にいるのだ。帰宅しても会えない。しかしもちろん愛している。
次女秋穂。一番大人しい子だが、一番しっかりしている子でもある。わたしのダメっぷりに呆れ果てているかもしれないが……それでもわたしはおまえを抱きしめよう。
長男冬人。残虐なゲームばかりやっているが実は甘えたで、思春期とはいえまだまだ子供だ。家に帰ったら久しぶりにキャッチボールしよう。最近はゲームにかまけているが、本当は野球も好きなのだろう?
ああ、待っていてくれみんな。今帰る。今度こそちゃんと、おまえたちと過ごそう。家族全員、一緒に暮らそう。もうすぐだ、――そう、
「もうすぐ会えるからな!」
わたしの声が、星光る夜空へと消えた。
20X7/01/26 08:09
気づけば、夜通し歩いてしまっていた。
ううむ、冬だしあまり汗をかいた覚えもないが、もしかしたら体臭がきつくなっているかもしれん。こんなボロボロなオヤジ、家族は嫌がるだろうか。
……いいや知っている。春子も夏海も秋穂も冬人も、そのような人間ではない。みな、心優しい人間だ。臭いからってそんな理由で、父親を毛嫌う子たちじゃない。
しかし……家族を抱きしめるとなるとやはり、このままではまずいだろうか。どこかで身体を清めた方がいいか? しかし寒い……。ジャンパーをしっかりと着ている今ですら凍え死んでしまいそうなのに。
身体を洗うのは、家に帰ってからでいいか。
そうだ、まずは家族に会うのが先だ。
見慣れた景色も増えてきた。家に近づいている証拠だ。このまま歩き続けよう。
大丈夫、もうすぐ会える。
もう、一人は嫌なんだ。
家族と――みんなと一緒に、最後の時を迎えたい。
世界が終わる、その瞬間を。
20X7/01/26 14:03
父親の勘だが、わたしの家族はここにいる気がする。
スーパーしおなか。家族みんなで暮らしていた頃は、主にここで買い物していた。近所にある他のスーパに比べ、肉が美味い。魚も新鮮で、日用雑貨も豊富。しかし、野菜だけは何故か常に高かった。
家からは多少歩くが、このスーパーにはよくお世話になった。もしかすれば、いや絶対に、わたしの家族はここに来ているはずだ。
……父親の勘というのはすごいな、終末世界でこそ発揮されるものなのだ。
さあ、もう少しだわたしの身体。歩くんだ。きっとこのスーパーに家族はいるぞ。よかった、ようやく会える。ああみんな、さようならだなんて言ってすまなかった。やはり家族の愛は絶対だ。必要だ。必須だ。今度こそみんなで、家族全員で――
「おじさん」
……だれだ。人がせっかく、感慨にふけっていると言うのに。わたしはいま、それどころではないのだ。
「おじさん、聞こえてる?」
聞こえてはいるが、なんなのだ一体。
わたしは声のする方に顔を向けた。見たこともない男女が立っている。一人は気の弱そうな青年で、年齢は二十歳前後といったところ。もう一人は制服を着た少女で、制服のつくりからして高校生だろう。わたしに話しかけてきているのは女子高生のほうだ。
「…………な、」
「聞こえてるんだね。……でももうギリギリかな。そうだよね、あたしらと別れてからもう丸一日は経ってるし」
――あたしらと別れてから?
初対面なのに、何を言うんだこの子は。
男のほうを見る。眉をハの字にして、わたしのことを見守っている。なんだ? こんな二人組に最近会ったか? まったく覚えがないのだが。人違いではないのか?
口を開こうとした刹那、ぱきりとガラスを踏む音が聞こえた。女子高生からそちらへと、わたしは視線をうつす。
「……あ」
声を出したのは、秋穂だった。わたしの勘が当たったのだ。やはりスーパーにいた。後ろにいるのは冬人。何を警戒しているのかポケットに両手を突っ込み、青白い顔をしてこちらを見あげている。二人とも、見覚えのあるダッフルコートを身に着けていた。きょうだい三人へ、わたしがあげたものだ。夏海はピンク、秋穂は茶、冬人は紺。お揃いは嫌だと言っていたが、ちゃんと着ているじゃあないか。
秋穂、冬人……。よかった、ようやく会えた。
二人へと近づく。これまで歩いてきた距離が嘘のように、身体が軽かった。なんなら走っていってもいいくらいだ。
ああよかった、わたしの家族。少しやつれているが元気そうだ。もう二度とさよならなんて言わないからな、絶対にそんなこと言わないからな。わたしの家族、わたしの宝物。愛しているよ、ずっとずっと愛している。さあ、早く、早く抱きしめて、
噛みつかないと。
『――……だから言ったんだよ、おじさん』




