愛の証明
「わー、お取込み中でした?」
入室してくるや否や、黒髪の女が間延びした声でそう言った。私は首を振りながら、すばやく女の容姿をチェックする。薄汚れてはいるが、きめの細かい肌。猫のように大きな目と、少し小さな口。自分で適当に切ったらしいざんばら髪。高校生だろうと目測する。というか、そんな推測をしなくとも制服を着ている。スクールシャツに、オフホワイトのセーター、えんじ色のプリーツスカート。その上にはカーキ色のジャンパー。
女子高生は私に驚く様子も引く様子も見せず、抜けた声で続けた。
「やあー、どう見たってお取込み中じゃないですか。失礼しました退散します。……あ、でも今日はこのホテルの違う部屋に泊まってもいいですか? 外、もう暗くて」
「構わないわ。ここは別に私の別荘でも家でもないし」
私は肩をすくめた。あいにく、ラブホテルに住む趣味はなかった。世界が終わるまでは。
女子高生はよかったあ、と笑う。
「んじゃあ遠慮なく。神林くーん、あたし部屋変えるから。……え? SMの部屋には先客がいたの! どうしよっかな、せっかくラブホに泊まるんだしちょっと変わってる部屋がいいんだけど」
廊下に向かって女子高生が叫ぶ。SMの部屋には先客。ちょっと変わってる部屋がいい。変な台詞だ。世も末だな、と思う。
私の目の前にいる男が低く唸った。彼の座っている椅子がガタガタと鳴る。女子高生がふわりとこちらを、あるいは彼の方を向いた。
「おねーさん。余計なお世話でしょーけど、それ危ないんじゃないですかね。その男の人、おねーさんの彼氏さんでしょ」
「そう見える?」
「げっ、違ってました?」
「いえ、当たってるわ」
私は頬杖をついて、椅子を鳴らす男を見た。祖母に噛まれたのだという彼は、先ほどから私に噛みつこうと必死だ。ガチガチと歯を鳴らしながら、動こうともがいている。けれど、部屋にあったおもちゃの手錠で自由を奪われている彼は、ロープで椅子に縛り付けられている彼は、虚しく身体をゆするだけだ。
私はそんなゾンビと向かい合って座っている奇妙な女である。普通は引くだろう。ドン引きだ。
だというのに、
「彼氏さんの手首、ちょっと腐ってきてますよ。手がちぎれ落ちたら手錠の意味もなくなっちゃう」
女子高生はのんきにそう言った。……なかなか肝の据わっている子だ。普通は泣いて逃げ出したくなるような光景だろうに。
「そうね。この人が腐りきる前に、手錠か椅子が壊れるかもしれないわ」
「そしたらおねーさん、危ないですよ。だってその人、さっきからおねーさんを噛もうとしてるじゃないですか」
「そうね。その時はここで、彼と一緒に死ぬわ」
女子高生はきょとんとした顔でこちらを見た。けれどそこに何故か少しだけ、羨望のようなものがあった。
「……彼氏さんと、そういう約束してたんですか?」
「いいえ。今こうしてるのは私のエゴよ。感染したと泣く彼をここにつれてきて、生きたまま椅子に縛り付けたの。彼は死んで、ゾンビになって、それで今のこの状態。一緒に死のうだなんて一言も言ってないわ。でも私、死ぬなら彼と一緒がいいの」
「……おねーさん、彼氏さんのこと大好きなんですね」
「ええ。彼も私を愛してくれていたんだって分かったから」
返事をするように「があ」と彼が声を出す。腐った沼のような匂いが漂った。がたた、がたた。彼が暴れるたびに私は安心する。彼が私に噛みつこうとするたび安心できる。
――私は彼に、愛されている。
「……あなたは、どういう時に彼の愛を感じる?」
私の質問に、女子高生は首を傾げた。
「彼?」
「神林君、だったかしら。廊下にいるんでしょう?」
「ああー」
女子高生はどこか情けなさそうに笑った。
「あたしたち、そーゆー関係じゃないんで」
「……そういう関係じゃないのに、共に行動を?」
「まあなんというか、深くない訳がありまして。ともかく付き合ってないですし、彼もあたしのこと、なんとも思ってませんよ」
「それは分からないわよ。死んでみないと」
私が薄く笑うと、「怖いこと言いますね」と彼女は苦笑した。それでも引いた様子はない。……もしかしたら。
もしかしたら、この子も「愛されたがり」なのかもしれない。
「――私はね、いつも怖かったの。私は本当に彼に愛されているのかしらって。好きって言って手を繋いでプレゼントをもらって同じ時間を共有して。……人間ってどの瞬間に、他者からの愛を感じるのかしら」
「んー。むつかしいこと考えますね、おねーさん」
「好きだなんて口先だけでいくらでも言える。愛し合っていなくとも身体は重ねられる。お金があれば――いいえお金がなくとも愛情がなくとも、プレゼントは用意できる。……ね、自分が絶対に愛されてるって分かる瞬間はあるのかしら」
「そうですねー、それ言われちゃうと」
「……でも、このウイルスだけは絶対的に信じられる」
がたた、ごとん。椅子が悲鳴を上げ、彼が唸る。
「マリッジリング。生前愛していた者だけを噛みに行くゾンビ。素敵だと思わない? 死者は嘘をつけない。取り繕うこともしない。世間体も表向きもない。本当に、心の底から。――自分が愛していた者だけを攻撃する」
「……」
「彼は私を愛してくれていたの。ようやくわかったのよ。……私ね、数時間おきに彼に指を差し出してみているの。彼がそこに噛みつこうとするたびにほっとするわ。彼にとっての『最愛』は私だったんだって。ねえ私、愛されてたのよ。この愛をもっと感じていたいの。だからこうして彼と向かい合って、彼の愛を確かめて、……そうね死ぬ時も彼の愛情で死にたい。この人に噛まれて死ねるのならそれは本望だわ」
「そーですか」
「……私のこと、気持ち悪いって思った?」
「いえ、ぜんぜん」
女子高生は、屈託のない笑みを見せた。
「あたしはおねーさんのこと、止めるつもりなんてないですよ。好きにしてください。……だから、さっきからさりげなーく握ってるそのナイフもしまってもらえますかね?」
「ごめんなさい。もしもあなたが、私と彼を引き離そうとしたらその時は、と思って」
「いんや、そんなつもり毛頭ないですから。はっきり言っておねーさんが五秒後に死んでも、あたしにはなんの関係もありませんし。好きにすればいいと思いますよ。どーせ世界も終わってるんだから」
ただ、今日だけは同じ建物で寝泊まりさせてもらいますねと彼女。本当にすごい精神力の持ち主だ。ナイフを持っている人間と同じ建物で寝ようだなんて。
けれど確かに、私だって彼女のことはどうでもいい。
彼との時間を守れれば、それでいいのだから。
「そんじゃ、末永くお幸せに。チェックアウトするときは声もかけないようにしますから」
重そうなリュックを背負いなおしながら彼女が言った。私は思い出して、言う。
「突き当りの部屋が少し変わってるわよ。……中身はあえて言わないわ」
「お、情報ありがとうございます。さっそく行ってみます」
「どうぞ楽しんで。神林君も気に入ってくれるといいんだけど」
「彼とは別の部屋に泊まりますって。お互いそんなつもりないし」
「――……分からないわよ、死んでみないと」
廊下に消えようとしていた彼女が動きを止めた。私は微笑む。
「もしかしたら彼だって、ゾンビになったらあなたを襲いにくるかもしれない。そしたらそれは『信用できる愛』よ。好きだと言われるよりプレゼントをもらうより、ずっとずっと信用できる。噛みつこうとする、彼のその行動だけは嘘ではない。……ねえ、もしもそうなったらあなたはどうする?」
なんとなくわかる。この子と私は同類だ。
――愛に飢えて、泣く子供。
そうですねえ、と彼女は頭を掻いた。
「もしそうなったら、感動のあまり泣いちゃうかもしれませんねえ」
「私のように、もっと愛を確かめたくなるかもしれないわよ。椅子に縛り付けて」
「あはは、それもいいかも。……でも」
彼女が、すっと目を細めた。
「もしも本当に、神林君があたしを襲いに来たら。……あたしは彼に失望して、さっさと殴り殺しちゃうかもしれませんねぇ」
彼が椅子を揺らす音さえも、途絶えた。
彼女を見つめる。次の瞬間には、へらりとした笑顔を見せていた。けれどわかる、今の言葉は本気だ。この子はやはり私と同類なのだ。愛に敏感で、その分疎い。
「……なにか、複雑な事情がおありのようね」
「そーですね。話し始めたらちょっと長くなるかも。聞きたいですか?」
「いいえ、ただ……。お互い、納得のいく死に方ができるといいわね」
「あはは、確かに。……そんじゃ、さよなら」
久しぶりに見た生者は、足音も立てないような歩き方で消えていった。
私と同類のひと。
――誰からも愛されない、人気者。
見知らぬ人間がいなくなったことに安堵したらしい。私の『最愛』は元気を取り戻し、ごとごとと椅子を鳴らした。
「――ごめんなさい。久しぶりにあなた以外の人と出会ったから長話しちゃった。寂しかった?」
指を差し出す。がちがちと鳴る彼の歯。どぶのような酷い匂い。
「……私のこと、ちゃんと愛してくれているのね。嬉しいわ」
私は笑う。私を愛してくれている人に。
私を絶対に確実に間違いなく、愛してくれていた人に。
「――これからもずっとずっと、死ぬまで愛し合っていこうね」
私は笑う。さっきまで話していた女子高生の顔も彼氏の名前も、すでに忘れてしまっていた。思い出すつもりもない。
そう。
この人が愛してくれるのなら、他の人間なんて私には必要ないのだから。