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ブルーマリッジ

 外で手を繋いだのは、これが初めてだった。

 ちらりと相手の顔を盗み見る。涼しい顔をしていた。いつものことだ。クールとか精悍とか、そういう言葉の似あう顔。高い鼻、きゅっと結ばれた口。僕の大好きな、横顔。

 指先に力が入らなくなってきて、僕は俯いた。それに気づいた彼が、手を握りしめてくれる。僕の分まで力をこめるようにして。

 このままではいけないと、分かっていた。

 けれど、手をはなしてと言える勇気もなかった。


「……せっかく堂々と手を繋げたんだ。最後まではなさないからな」


 僕の思考回路を見透かしたように彼が言った。僕は再び視線をあげる。なんでもないような――当然のような顔をして、彼はそこにいた。

 男の僕が好きになった男の人が、そこにいた。

 自分でも制御できないくらいに身体が震える。それにあわせ、ぱたぱたと雫が落ちた。長身の彼が不安そうに、僕の顔を覗き込む。


「具合悪いのか?」


 気分が悪いのはさっきからずっとで、けれどそれを認めたくなかった。僕はゆるゆると首を振る。


「……人前でデートっぽいことするのは初めてだから、緊張してる」


 嘘だった。

 僕は曖昧に笑って、それが自分の「嘘をつくときの笑顔くせ」だと思い出した。もちろん彼だってそんなことは知っていて、それでも僕の嘘に付き合ってくれる。


「人前って言ってもコレだしなあ。そんなに緊張しなくてもいいだろ」


 彼は苦笑し、ぐるりとあたりを見回した。そこには確かに人がいて、けれど皆『生ける屍』だった。

 動かないもの、徘徊しているもの、動こうとしているが身体が腐って動けないもの。

 つい先日まで挨拶していた近所のおばさんが、血管の浮いた腐りかけの顔面を僕らに向けた。けれど、近寄ってはこなかった。

 彼が、すうっと視線を空へ向ける。いつもより青く見える、皮肉のように晴れた空だった。社会が停止するのに比例して、美しくなっていく世界。


「今日はいい天気だな。……どこ行こうか」


 それに気づいているのかいないのか、彼はいつも通りの声を出す。僕も、できるだけいつものようにふるまった。


「駅がいいな」

「駅ぃ? 電車はもう動いてねーぞ」

「それでもいいよ。駅に行きたい」


 これもまた嘘だった。本当は、どこでもよかった。ただ、ここより少し遠い場所を選んだに過ぎない。徒歩二十分。それまで僕が「もつ」とは思えなかった。ただ、立ち止まるのが――現状を確認するのが怖かった。

 ぽたり、と地面に赤い雫が落ちる。

 ……綺麗な景色だった。

 青い空があって、赤い雫があって、太陽の光があって、黒い影があって。

 僕の隣に、彼がいた。



 ――好きな子はねえ、かずくん!

 小学校に上がって間もない頃、母に「好きな子はいないの」と訊かれて素直にそう答えた。母は最初こそ笑って、けれどその次には質問を変えた。「好きな女の子は?」

 ――女の子? わかんない。

 答えながらも、僕は不満に思っていた。せっかく答えた「かずくん」が流され、何故だか「女の子」と絞られたことに。

 好きな女の子は分からない。そう答えたにも関わらず、母はかずくんに一切触れずに――まるで押し付けるように女の子の名前をあげた。隣の席のりんちゃんは? この前遊んだえりちゃんは? 近所に住んでるはなちゃんは?

 どうして、母は女の子ばかりをあげてくるのだろう。不思議に思って僕は訊いた。

 ――僕が好きになるのは、女の子じゃなきゃダメなの?

 僕の質問に、母は困ったように笑った。けれども、当然のような顔をして頷いた。


 ――男の子はね。女の子を好きになって、その子と結婚するのよ。大人になったらきっと分かるわ。


 時は経ち、僕もようやく理解できた。

 母の言う「好き」と、僕がかずくんに抱いていた「好き」は同じであったこと。

 けれどそれは、ほんの少し理解されにくいこと。

 そして、彼女だの結婚だの言う両親にんげんには、決して打ち明けられないことを。



 駅へ続く大通りを、ふたりでゆっくりと進む。歩道の端に設けられた花壇には、ノースポールがその白さを主張するように咲き誇っている。それが愛おしくて、けれどその形をほとんど視認できなくなっていることが悲しかった。目をこすってみても、見えにくさは変わらない。

 水中のようにぼんやりとした世界が広がって、看板の文字さえろくに読めない。歪んだ道路に、かろうじて分かるコンビニの看板。曖昧になっていく地面と空の境目。

 それでも、彼の顔だけは妙にはっきりと見えた。輪郭も、顔のパーツも。彼の声も彼の体温も彼の表情も、なにもかも。

 ――ああ、だから。

 僕はようやく納得する。

 ――好きな人しか見えない世界になるから、だから感染者は、みんな。


「……そこのベンチで少し休むか?」


 僕の顔色を確認して、彼が気遣わしげに言う。僕は相変わらず立ち止まるのが怖くて、けれど歩き続けるのにも限界を感じていた。


「…………そ、だね」


 頷くと、首筋からぴぴっと血が飛んだ。彼は何も見なかったふりをして、木製のベンチに腰掛ける。もちろん手は繋いだままだ。


 ――僕を噛んだのは、母だった。

 表向きには母好みの息子になっていたからだろう。母にとって僕はいまだに、自慢の息子だった。公務員の父と、大手広告代理店に内定をもらった息子。絵に描いたような「幸せな家族」を、母は最も愛していた。だからこそ彼女はわざわざ十キロ以上歩いて、「ルームメイト」と暮らしている僕の元にやってきたのだ。

 自慢の息子に、噛みつくために。

 ……もしも。もしも僕が、ルームメイトではなく恋人と暮らしているのだと教えていたのなら、そしてその恋人が男性だと教えていたのなら、母は僕に噛みつきに来ただろうか。

 今となってはもう、その答えだって分からないし、訊けない。

 母は「僕」を愛していたのだろうか。

 それとも、「幸せな家族」のパーツとして、僕を大切にしていたのだろうか。

「真実」を伝えれば、僕は噛みつかれずに済んだのか。

 噛まれない方が幸せだ、と僕は思えたのか。

 ――考えてみたってもう遅い。


 上着の首回りがびちゃびちゃと嫌な音を立てて、皮膚にへばりつく。生温かくて、冷たくて、とにかく気持ち悪い。寒いはずなのに、背中には大量の汗をかいていた。感染してどのくらいの時間が経ったのだろう。分からない。腕時計を見る。見えない。長針はどこで短針はどこで……どこからが文字盤でどこからが僕の腕なんだ?


「……あ。なあアレ」


 彼の声が聞こえて、僕は視線をあげた。彼がなんともいえない表情をしていて、その先で白いものがうろうろとしているのが分かる。けれど、何が何だか分からない。


「……なに?」

「見えないか? あれ、ウエディングドレスだよ。花嫁。ブーケ持ってる」


 結婚式の途中だったのかな、と彼は呟いた。だとすれば実についていない人だ。人生最高になるだろう日に、パンデミックに巻き込まれるだなんて。


「噛まれ……てる? その人」

「ん……あー噛まれてるみたいだな。ドレスが汚れてるし、歩き方もぎこちない」

「……ゾンビになってるのに歩いてるの? その人」

「ん? ……そうだな」


 歯切れ悪く彼が言った。……そう。もしも結婚式の途中で噛まれたのなら、最愛の人だって近くにいたはずだ。なのに今、彼女は最愛の人を探している。つまり。

 結婚相手のほかにも最愛の相手がいたのか、最愛の人――花婿に逃げられたか。

 実は、結婚相手は「最愛の人ではなかった」のか。

 僕と同じくその事実に気づいたのだろう。彼は少しだけ話題を変えた。


「……子供の頃、思わなかったか? なんで自分は男と結婚できないんだろうって」


 言われて驚いた。彼はいわゆる「ノーマル」だった。あるいは、自分は異性愛者だと思いこんで生きてきた人間だった。僕が告白した時は散々驚いていたし、付き合うようになった時もなんだか違和感を覚えているようで、間違えてはめ込んでしまったパズルピースを見るような、掛け違えたボタンを見るような、そんな目をしていた。

 好きだ、と声に出してくれるようになってくれるのはつい最近だ。言われたのだって数えるほど。だから僕は、「巻き込んだ」と思っていた。今までと少し違う世界に、彼を巻き込んでしまったのだと。


「……男の人に興味あったの?」


 僕の言葉に、そういう訳じゃないんだよと彼は苦笑した。


「なんつーか、不思議だったんだ。同性同士の夫婦がいないのはなんでだろうって。いてもいいと思ったんだ。んで、親に聞いた。四歳くらいの時だったかな」

「……親御さん、なんて?」

「男の子同士だと赤ちゃんができないからよ、だって。しかし、当時の俺って男女のあれこれをそこまで知らないじゃん。だから次の質問はこう。――じゃあ、ぼくがひでくんとチューしても赤ちゃんできない?」


 思わず僕は吹きだした。赤いものがいくらか飛んだ。


「いや当然ひでくんとチューしたかったわけじゃねーぞ。チューするならさおりちゃんって決めてたんだ。でも、女の子とチューすると赤ちゃんができる、赤ちゃんを産んでいいのは大人になってからって思っててだな……」

「だから男と? 相当なプレイボーイじゃないか」

「幼稚園の頃はやんちゃだったってことだ」


 声を出して二人で笑う。青い空に笑い声が溶ける。笑顔は背景に溶けて、赤いものばかりが視界に増えていく。

 僕らはそんな、――そんな終わり方をする。


「……さおりちゃんとチューはしたの?」


 今まで彼が話そうとしなかった、元カノの話題だった。「女性」との話題を僕が避けていたというのもある。彼はそうだなーと少し悩んでから、けれど正直に答えた。


「『さおり』ちゃんとはしてない。ただ、初チューの相手は『しおり』ちゃんだった。高校ん時の彼女は『かおり』ちゃんだ」

「……色々と惜しいね」


 僕は笑いながら、彼を見た。彼の首筋が。肩が。腕が。気になって仕方なかった。

 そこに僕の痕跡を残したい。赤く、深く、致命的な痕を。

 僕は彼のことが好きだ。食べたいんじゃない殺したいんじゃない、でも独占したい。好きだから、好きならば、嚙みついたっておかしくないだろうそれくらい好きなら。

 どうして――どうしてこんなことばかり考えてしまうんだ。


「……最後のチューの相手は、『ひでくん』だったなあ」


 彼の声にはっとする。目を向けると、うっすらと笑う彼がそこにいた。僕の血が飛んだのだろう、頬は赤く汚れている。緊張なんてものを通り越して、痙攣のように震える僕の手を、彼はずっと握りしめてくれていた。

 白くなっていく視界の中で、彼の姿だけはよく見えた。無防備な首も、四肢も、腹部も。

 その表情も。


「……なあヒデ」


 白い息を吐いて、彼は照れたように笑った。


「結婚しようか」


 その言葉には色んな決意が込められていた。そして、色んな感情が、混ぜられていた。

 ――二日前に聞けたなら、もっと幸せだったのかもしれない。けれど、今だからこそ言えた台詞なのかもしれなかった。終末こんな世界だからこそ。

 ――……どんなに幸せだっただろう。

 彼とずっと、一緒にいられるのなら。

 でも僕は、……僕はもう。


「――……が、」


 言いかけて、吐血する。二人の間――繋がれた手の上にぼたぼたと血が落ちる。けれども彼は、まったく動じなかった。


「……ご、ごめ」

「新婚旅行、どこ行きたいか考えとけよー。……つっても『あっちの世界』なんて見たことないから、二人とももれなく迷子だろうけどな」

「ごめ、ん」

「なんだ?」

「手……はな、て」


 僕の言葉に、彼は目を丸くした。


「嘘だろ、俺ふられた?」

「ちがっ……僕、もう、ごめ」

「どっちなんだ? 俺はふられたのか?」

「ふってない……好き、で、だからっ」

「好き同士なら手をはなす必要もないだろ」


 彼が優しくそう言って、その声色とは裏腹に強く手を握ってくる。

 このままではいけないと、分かっていた。

 けれど、手をはなしてと、強く言える勇気もなかった。

 ――本当に好きだったんだ、と改めて思う。僕は、どうしようもないくらいに彼が好きだ。愛は盲目なんて誰が言ったんだろう。本当に、彼しか見えない。

 彼しか見えない。


「ごめ、ごめん」

「つーか、今日は本当にいい天気だな。布団干してくりゃよかった」

「だってもう、ごめ」

「駅に着いたら喫茶店でも入るか。式場とか色々決めようぜ」

「ぼく、は、ぼくはほんとにっ」

「ん?」


 ――幼い頃からどんくさい僕のことを庇ってくれて、一緒に遊んでくれて、中学になっても高校になってもその優しさは変わらなくて、大学生になって僕が告白したあの日も引かずにいてくれて、初めて恋人として手を繋いで、好きだって囁いて、けれどそれはいつだって二人きりの時で。

 視界が白に染まって思考回路がボロボロと崩れ落ちて、それなのに僕は、穏やかな朝も賑やかな昼も優しい夜のこともすべてきちんと覚えていて。

 ――なのにごめん、ごめん、もう。


「ぼくは、ほんとに、カズのこと好きで、ずっと、だからっ……!」

「――だからいいんだよ、これで」


 ふっと吐かれる息。首筋、首筋、――首筋。

 僕はきっとなにかを繰り返し叫んだ。「ごめん」かもしれなかった。「好き」かもしれなかった。

 彼の名前かも、しれなかった。

 彼はただ「うん」と言い続けた。何にだろう、何がだろう、何をだろう。

 口の中にあたたかな液体が入り込んできて、口内を支配していた鉄の味が濃くなって、そこで僕はようやく彼に噛みついてしまったのだと気づいた。自分の血液と彼の血液が、ドロドロに混ざり合うのが分かる。ベンチに血が飛んだ。それが僕のものか彼のものかもわからなかった。頭ではやめようとしているのに、犬歯はぶちぶちと肉を噛み千切る。

 これで彼は、彼が、彼も。

 首筋に噛みついた僕の頭を、彼はゆっくりと撫でた。はは、と短く笑う。ごぼりとくぐもった水音。

 彼の姿すらなくなっていく世界で、その言葉だけははっきりと聞こえた。


「……マリッジリング、受け取った、サンキュ」


 ――終末こんな世界だからこそ始まるものも、確かにあったんだ。






「……神林くん、あれ見て」

「ん? どれ? ウエディングドレスの人?」

「それもだけど、あっちのベンチのひとたち」

「えーっと……ああ、いた。男性二人だね」

「あれもう『人形』っぽいよねー」

「そうだね。あれなら近づいても安全だろう」

「…………」

「『あたしのことも嚙んでほしいのにー』とでも言いたげな顔しない」


「あの大人しそうな黒髪のひとが、茶髪のひとを噛んだのかなー」

「逆かもしれないけどね……」

「でも多分、どっちかがどっちかを噛んだんだろうねえ」

「うん……。よほどの大親友だったんだろう」

「恋人同士だったのかもよ」

「えっ」

「なにその『えっ』て。別にふつーにあり得るでしょ」

「まあ……そうだけども」


「それにしてもこの花嫁さん、落ち着きがないなー」

「花婿に逃げられたのかもしれないね」

「うっわ、人生最高の日が最悪になる日だねそれ。花嫁さーん、そんな男ほっといてこっちきなよー」

「ちょ、朝倉さん!」

「…………うわー、花嫁さんに完全スルーされたあ」

「噛みに行くのはあくまでも『生前』愛した人だからね……」


「……んんんー?」

「朝倉さん、そろそろ行くよ」

「待って待って、花束落ちてる」

「どれ?」

「ほらこれ。造花だけどめっちゃ綺麗」

「……ウエディングブーケ、じゃないかなこれ」

「あ、確かに。あの花嫁さん、落としたのかなあ?」

「……あげたのかもしれないよ」

「え? 誰に」

「この男性二人組に、だろうね」

「えっ」

「二人の目の前に置かれてるんだから、そうだろう」

「……ゾンビってそこまで考えるの?」

「さあ」


「――この男の人達さあ」

「うん」

「手、繋いだままはなさないね」

「そうだね」

「他のゾンビよりなんだか安らかにも見えるし」

「うん」


「……ブーケってさあ、もらえた人は結婚できるんだよね?」

「そんなジンクスもあるね」

「ってことは、この二人もできたのかな」

「……さあ」


「――結婚、できてるといいなあ」



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