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生を追う死

 ――ふっざけんじゃねえぞあのクソアマ!


 一台の車も通らない車道を走りながら、俺は叫んだ。周囲には死人が溢れている。車が通っていないのは単純に、こいつらが道を塞いでいるせいだった。車でゾンビ全員を跳ね飛ばすとなると、道を通り終える前に車が動かなくなるだろう。

 だが、徒歩ならばいくらでもどうとでもなる。なんでこの道に大量のゾンビが集まっているのかは知らないが、こっちからすれば好都合だった。

 もしかすれば、あの女を撒けるかもしれない。


 ――パンデミックがどうこう、新型ウイルスは愛する人間をどうこう。そんな話を聞いた時、俺はさっさと妻の元から離れた。妻の元にいれば危険だと判断したためだ。

 別に、妻の身を案じたわけではない。逆だ。俺があいつに噛まれるのを恐れた。

 ……妻のことは確かに好きだったよ、付き合い始めた当初はな。でも結婚なんかまったく考えてなかったし、今じゃ好きかどうかもよく分からない。

 妻はパッとしない、見どころもない女だった。

 俺は元来飽き性で、それは女性関係についても言える。妻と付き合っている頃からセフレは何人も確保していたし、結婚してからも絶やしたことはない。結婚は妻が言いだしたことで、あまりにもしつこいから根負けしただけだ。

 これは持論だが、結婚生活をうまく持続させるコツは、他の女ともつながりを持つことだと思う。つながりってのはもちろん、飲んだり食べたりするだけじゃない。身体のお付き合い含む、だ。

 ずっと妻だけを相手にするんじゃなくて、他の女もちょくちょくつまんでおく。そうすれば、妻に飽きることだってないのだ。いつでも新鮮な感覚でヤれる。結婚してからも「いい関係」を維持できる。

 だから女ってのは、男のだらしなさを多少は認めるべきだ。多少じゃないな。全面的に黙認すべきなのだ。


 全力で走りながら、俺は振り返った。黒縁眼鏡の女は見当たらない。

 黒縁眼鏡は、半年前に会社にやってきた新人だった。アラサーだという彼女は根暗なコミュ障に見えたが、割とすんなりうちの会社に馴染んだ。無口かと思えばそうでもなく、話しかければ普通に会話が成立する。「すみません」とか「私おっちょこちょいで」が口癖。服装は地味で、女を捨てているように見えるくせに、ちょっと可愛い服も着る。清潔感があるがどこかだらしなく、しばらく彼女を観察していた俺は「ふーん」と思った。

 こういう女って、「釣りやすい」んだよな。

 これまた俺の持論であった。卑屈な女は意外と褒め言葉に弱く、簡単に「その気」になるのだ。自分は女として見られてない、そこを気にしている女こそ、もてはやせば調子に乗る。

 ……どれ、ちょっと誘ってみるか。

 今までの経験をフル動員させて、俺は彼女にあらゆる言葉をかけた。顔や体型すらも地味な女だが、地味は地味なりに褒めようがある。褒め方のコツは「さりげなく」だ。こういう女は警戒心が強いため、分かりやすく褒めればかえって疑心を抱く。だから、言葉の端々に「好意を抱いてますよ」とほのめかしておくのだ。

 当時の俺は、長年付き合っていたセフレと別れて暇を持て余していた。妻はいるが、面白くはない。新しい女を探さなきゃなあと思っていたところに彼女が現れたため、声をかけただけ。

 つまりは都合がよかったのである。


 黒縁眼鏡は最初こそ訝しがっていたものの、いざとなったら簡単に誘いに乗った。都合のいい女はどこまでも都合がよく、スケジュールはすべて俺に合わせてくれたし、ベッドの上でも好き勝手にさせてくれた。そして俺が妻帯者だと知っても、彼女は別れを切り出さなかった。まあ、黒縁眼鏡も長らく独り身で寂しかったのだろう。

 俺が妻帯者だと判明した後は、単なるセフレとして互いに割り切れていた。

 そう思っていたのだが。


「――……おめーと本気で付き合ってるわけねーだろ馬鹿が!」


 黒縁眼鏡のゾンビに追われながら叫ぶ。あの野郎、腐ってるくせに俺のことを執拗に追いかけて来やがる。しかも、全速力で走るときた。そんなのは近年流行りのゾンビ映画だけだと思っていたが、どうやらマジらしい。

 死者は息切れしないが、生者こっちはずっと走り続けられるわけではない。下手をすれば追いつかれる。

 ――ちくしょう、なんで俺がこんな目に。


 パンデミックが発生し、妻の元を出た俺は、黒縁眼鏡の家に転がり込んだ。ホテルに泊まる金がなかったんじゃない。ただ、大勢の他人と過ごす場所は信用できないと思っただけだ。

 その点、黒縁眼鏡と俺は「愛する者」にも該当しないし安全だ。

 そう思っていたのは、俺だけだった。

 昨夜、真っ青な顔をして黒縁眼鏡が帰宅した。彼女は一人で食料の調達に行ったのだが収穫はゼロ、かわりに真っ赤な傷をつくってきた。聞くと、いつも同じ電車に乗っていた男に噛まれたのだという。

 ――あるんだな、そういうのも。いつも同じ電車に乗ってる異性に恋するってやつ。一人で本気になっちまう片想い。本当にいるんだな、そんなピュアなやつ。わざわざ噛みにきたってことはよほど本気だったんだろう。こんな地味な眼鏡女を相手に、ご苦労なこった。

 などと半ば感心していたら、黒縁眼鏡が「逃げて」と言い出した。なんで、と返す。不満だったのだ。だって、こいつが死んだら俺はこの家で一人安全に暮らせるじゃないか。


「私、あなたのことが好きなの。だから」


 ……はあ? ってなるだろ。こっちは全然本気じゃないし、向こうもそうだと思ってたし、というか普通に考えて妻帯者が声かけてくる時点でお前は「遊び」なんだよ気づけよ。

 ところがあの女、ゾンビ化するやいなやガチで俺のことを襲ってきやがった。


 ――ふざけんなふざけんなふざけんな!


 ゾンビは頭部を破壊すれば死ぬってのは知ってるが、実際それにはかなりの危険がつきまとう。というのも、思っていた以上に女のゾンビが素早いのだ。下手をすればこちらの攻撃が当たる前に、向こうに噛みつかれてしまうだろう。ここは日本で、つまりは銃器も飛び道具も持っていない。

 くそっ、調子にのんなよクソ女! 運動音痴の愚図だったくせに!

 俺は眼鏡女の家から、命からがら脱出した。最初は車を飛ばしていたが、二度もゾンビの大群に道を塞がれ乗り捨てた。死人の群れが眼鏡女の行く手を阻んでくれればいいのに、何を考えているのか何も考えていないのか、眼鏡女が近づくとゾンビたちはひょいっと道をあける。

 まるで、『恋の邪魔はしませんよ』といわんばかりだ。


 ――呼吸もしてねえくせに空気読んでんじゃねえよゾンビ野郎!


 真冬にもかかわらず大量の汗をかきながら、俺は案内標識を確認した。このまままっすぐ走れば自宅マンションにたどり着く。妻はまだそこにいるのだろうか。もしかしたらあいつももう、違う誰かに噛まれてゾンビになっているのか? だとすれば今、あいつの元に戻るのは自殺行為だ。


 ――いや、あいつも大概、胸のデカさしか取り柄のない馬鹿だったからな。モテてた様子もないし、誰かに噛まれてるなんてないだろ。


 黒縁眼鏡のマンションから二時間ほど走り、ようやく自宅にたどり着く。しかし、家は十三階だ。エレベーターのボタンを押してみるが反応はない。壊れたか、電気がとまっているのか。畜生、勘弁してくれ。

 背後を確認する。黒縁眼鏡の気配はない。しかし、どこまで迫ってきているのかも分からないのだ。まだまだ距離は開いているのかもしれないし、すぐそこまで来ているのかもしれない。とにかく余裕はないんだ、急がないと。

 手すりに全体重を預けるようにして階段をのぼる。……帰宅したらしばらく籠城ろうじょうしよう。そう、あの黒縁眼鏡が完璧に腐って動けなくなるまでだ。食料の調達やらなんやらはすべて、妻にやらせればいい。

 ――新型ウイルス、マリッジリング。

『結婚指輪』なんて阿呆な名前、よくもまあ考えたもんだ。3ちゃんの奴らのネーミングセンスにはあきれる。

 マリッジリング。その通りだと言えばそうなのだろう。

 俺はいつ、女から求婚されてもおかしくない。マリッジリングをもらう危険性はある。

 しかし、あいつにマリッジリングを渡そうとするやつなんているはずがない。あいつは俺のもんだし、特別魅力もない馬鹿女だからな。


 やっとの思いで階段をのぼりきり、自宅の扉を勢いよく開く。……よし、腐臭も血の匂いもしない。「妻」がこの場にいるかは分からないが、少なくとも「ゾンビ」はこの室内にいない。

 リビングのドアを開ける。人の気配はなし。室内が荒らされた形跡もなかった。妻はどこかに逃げたのだろうか。せっかく俺が帰って来てやったのに。

 ……まあいい、今日からはここを根城にしよう。黒縁眼鏡の女が腐りはててしまえば、俺は自由だ。



 ――――とんっ。



「あ? ……うあっ!」


 唐突に背後からぶつかってきた『何か』に振り返ろうとした途端、脇腹に激痛を感じた。何かが身体にねじ込まれたような感覚に、膝の力が抜ける。

 床にへたり込む俺と、頭上からふってくる声。


「おかえりなさい、あなた。……帰ってくるとは思わなかった」


 無感動な――物を見るような目をした妻が、そこにいた。

 俺は痛みの発生源へと目を移し、自分の脇腹から生えている包丁にようやく気付いた。そしてそれが、妻の仕業だということも。


「おまっ……なんで」

「なんでって何が? 刺されたことが? 『なんで』かもわからないの?」


 妻が心底呆れたような声を出す。

 ――普通に考えたら、『なんで』かなんて分かるでしょ。


「わたしね。もしも自分がゾンビになったとしても、あなたを噛んだりしないと思うの。だってわたしはもう、あなたのことをこれっぽちも愛していないもの。結婚しても他の女とほいほい寝るような男のこと、愛し続けられると思う? むりでしょ」

「っ……」

「ちなみに、さっきまでどこにいたの? ニュースで新型ウイルスの話が出た途端、うちを出て行ったけど。……どうせ女のところでしょ。あれってなに? わたしに噛まれると思ってたの? あなたってどこまで馬鹿なのかしら」

「それはっ……」

「都合よく考えられる人間っていいわねえ」


 妻はふいにかがむと、俺の脇腹に刺さっている包丁の柄尻をとんとんと叩いた。痛みが倍増し、切っ先から逃れるべく内臓が動いているような気さえする。俺の絶叫に、妻は声を押し殺して笑った。


「これ。ドラマなんかでよく言ってるけど抜いちゃだめなんでしょ。だから抜かないでおくわね。早く救急車が来て、病院につれてってもらえるといいわねえ。……病院が機能していればの話だけれど」

「あ……ぐっ……」

「痛いわよね、ごめんなさいねえ――でもどうしても刺しておきたかったんだもの」


 妻が、ふっとその表情を失くした。


「あなたのこと、どうしても許せなかったの。さっきも言ったけれど、わたしはマリッジリングに感染しても、きっとあなたを襲わない。だからゾンビになる前に、あなたに復讐しておきたかった。……よかったわあ。わたしが『人間』であるうちに、あなたが戻ってきてくれて」


 それに、と妻は付け加える。


終末この世界にはもう、法律も何もないでしょう。わたしがあなたを刺したって、罪には問われない。もちろん、あなたを殺してしまったとしてもね。――終わった世界って最高ね」


 脇腹から溢れた生ぬるい血が、服と床を汚していく。視界がぼやけ、指先はしびれ始めていた。しゃがみ続けることも困難になり、ついに倒れる。濡れた頬がフローリングにはりついた。

 落ち着け、大丈夫、俺がこんなところで死ぬはずない。

 満足げに微笑む妻へと手を伸ばす。力がうまく入らず、がくがくと腕が震えた。

 謝る。今までのことはちゃんと謝るから今まで付き合ってた女とは全部縁を切るからこれからはもう誰とも遊んだりしないから、

 俺はお前のことをちゃんと愛してるんだから、

 だから早く病院に――


 ずぐ、というくぐもった音に足を引っ張られた。前方にいる妻は、俺が伸ばした手を冷たい目で見ている。「前方」にいる妻は。

 じゃあ、誰が俺の足を引っ張って、


「……あなたのような男でも、愛してくれる女はいたのねえ」


 呆れたような、同情するような妻の声。

 振り返ると、黒縁眼鏡の女が俺の足首に噛みついていた。


「おっ……」


 俺が言葉を発するよりも先に、ゴギンと何かが砕ける音が響いた。


「がああああぁぁあああああぁあぁああああああぁぁぁあああああ!!」


 黒縁眼鏡の身体を蹴り飛ばす。しかしそのせいで、自分の足首も深くえぐれた。噛み千切られた肉が、フローリングの上に落ちる。

 金属が差し込まれた脇腹の激痛。足首からリズミカルに噴きだす血液、傷口からはみ出た白いゴムのような何か。蹴飛ばされたにも関わらず、蜘蛛のような体勢でカサカサと俺に近づいてくる黒縁眼鏡。眼鏡の下の大きな口。ブチブチと音を立ててなくなっていくふくらはぎ。汚れていく床。


 あ、あ、待て待て俺は噛まれる前に包丁で刺されたから死ぬとしたらそっちが原因でだからゾンビ化はしないのかいやでも噛まれたしウイルスってもう俺の身体に入っててそうだまずとりあえず病院に連れて行ってもらわねえとこのままだと死んじまうしいくら妻でも人殺しにはなりたくないだろう刑務所なんかはごめんでそうだそうだ今の俺が妻を噛んだらこいつも感染するのかな待て待て俺はまだ死んでないんだよ生きてる俺が噛んでも感染力あるのかないのかいやいや噛まれるより先に俺は包丁で刺されてんだからもしも死んでもゾンビにはならないんじゃねつーか妻は妻はどこ行ったんだ何してんだ早く助けろよ夫婦だろうが!


 ……そーだ。

 駅前のケーキ屋でショートケーキでも買ってご機嫌とって、それから適当に謝って褒めて感謝の気持ちでも添えてやれば。

 あいつもすぐに俺を許して病院につれてって、一発いや何発でもやらせてくれるんだろ。

 女は女はどうせ女ってのは、簡単だもんな。



「――……さようなら。せいぜいお幸せに」





「神林くーん、おそーい!」

「なんで……マンションの……最上階……に」

「息切れしすぎ。一回くらいさあ、最上階で寝泊まりしてみたかったんだよね。でも高層マンションだと、のぼるの大変じゃん。エレベーターとか止まっちゃってるし」

「十三階でも相当……疲れた……っ、ごほぉ!」

「体力ないなあ。体育は欠席するタイプ?」

「その前に、学校にもほとんど行ってなかったし……。半引きこもりというか……バイトの時以外はほとんど部屋から出ないタイプ」

「あ、そっかー。部屋の中で筋トレとかしてなかったの?」

「……するように見える?」

「見えない」


「どの部屋を寝床にしようかな、神様の仰るとーり! ……ってことでそこの角部屋! おしゃましまーす!」

「ゾンビのいない部屋がいいなあ……」

「――ごめん、ふつーにいるわ」

「ええぇ……」

「あとで部屋替えするね。……しっかしおしゃれな部屋。家具とかすんごい凝ってる」

「綺麗に掃除されてるね。ゾンビさえいなければ、ホテルのような部屋だったろうに……」

「でも」

「ん?」

「なんだか、『偽物』みたいな部屋だなあ」


「この二人は夫婦なのかな……。眼鏡の女性は『人形』になってるけど……」

「眼鏡が割れるくらいの激しい愛だったのかねえ。……でも」

「うん。男の方は動いてるね」

「落ち着きのないお兄さんだなー。片足、骨丸見えなのによく歩けるわ。……んで、脇腹に刺さってるこの包丁はなんのアクセントなんだろ」

「眼鏡の女性が、旦那であるこのひとを噛んだんだろうね。しかし、旦那には他に好きな人間がいて……ってところかな。本当に落ち着きがないし、旦那の方はそのうちこの部屋を出て、『最愛の人』を探しに行くんだろうね」

「……そうかなあ」

「え?」

「なんかね」

「……なに?」


「この男の人、自分が誰を愛していたのか、誰を噛めばいいのかも分かってないような気がする。だからこの場をウロウロしてるんじゃないかな。――これからもずっと」



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