愛を望む者
愛されるのって、一種の才能だと思う。
愛される環境に生まれる才能。愛される性格になる才能。愛してくれる人をみつける才能。
誰かひとりにでも大切にされる、才能。
みんなはそれを、すごく普通にやっているように見える。無理をしていない。「自分」を貫き通しても見捨てない家族があって、遊んでくれる友達を見つけて、愛してくれる恋人を作って。どんな自分をさらけ出しても傍にいてくれる、そういう人間が近くにいて当たり前。
実際はどうなのか知らない。けれどみんな、それを難なくこなしているに見えた。
そう考えると、あたしは残念なくらいに愛される才能に恵まれていなかった。泣きごとひとつ言えば母に蹴られるし、実際に泣いてしまうと真冬でも下着姿のままでベランダに放り出された。食事は母が残したものばかりで、どれも冷めきっていた。電子レンジを使えば、電気代が勿体ないと怒られた。
けれどあたしは、長らくの間「その事実」に気づいていなかった。めでたい人間だったのだ。あたしはずっと、こんな夢を見ていた。
あたしは母に、愛されている。
小学二年生の冬、折檻に耐えきれず泣いてしまった結果ベランダに立たされたあたしは、近所の家々のあたたかな色を見ていた。カーテンの隙間から漏れる光と笑い声。向かいの家の窓は暖色に灯り、カーテンの向こうで水色や赤色の電飾が明滅しているのがうっすらと見えた。
よく考えてみれば、その日はクリスマスだった。
ゴムの伸び切ったパンツに擦り切れたシャツ一枚という素晴らしい恰好で、あたしはカーテン越しに見えるツリーを眺めた。手の指はかじかんで動かなくなっていたし、足の指は千切れているのではないかと思えるくらいに冷たい日。古ぼけたアパートの、薄暗いベランダに立っているあたしは背景と同化しているようで、誰にも気づいてもらえなかった。あたしなんかより、暖かい色をした窓の方が幾分目立っていた。
しばらくすると、黒猫の絵が目立つトラックが向かいの家に停まった。ドライバーがチャイムを押すよりも早く、家人が中から出てくる。セーターのよく似合う、恰幅の良いおじさんだった。
ドライバーが荷物を渡して、おじさんが頭を下げた。おじさんの受け取った箱は綺麗な包装紙でラッピングされ、真っ赤なリボンまであしらわれている。絵に描いたようなプレゼントを、あたしはその時初めて見た。あんなのが現実にあって、子供に渡されているなんて信じられなかった。
強い北風が吹き、おじさんは身震いしながら家に入っていった。あたしはガチガチと歯を鳴らして、自分の家を覗いた。あたしを放り出した、母の姿は見当たらない。
――あたしだって愛されてるんだ。
白い息で指先をあたためながら思う。プレゼントをもらえないから愛されていないわけじゃない、夕ご飯をもらえないから愛されていないわけじゃない。大丈夫、あたしだって愛されてるんだから。
あたしだってちゃんと、愛されてる。
ガララッ、と背後で機嫌の悪そうな音がした。振り仰ぐ。飲みすぎて頬を赤くした母が、面倒くさそうな顔を窓から出していた。
家に入れてもらえるかどうかは、次にあたしが発する言葉にかかっている。
あたしは唾を飲み込んで、口を開いた。歯と舌に外気が突き刺さった。
「――ごめ、」
言いかけたところでシャツの首元を引っ張られた。びいっと布地の裂ける音がする。
母は洗濯物よりも乱暴にあたしを家に放り込み、掃き出し窓をぴしゃりと閉めた。脱ぎ捨てられた母の衣類と、転がっているビールの空き缶。ご飯粒のついたコンビニ弁当の容器に、割り箸の突っ込まれたカップ麺の残骸。見慣れた我が家には、けれどもクリスマスらしさはなかった。
母の赤い目を見て、あたしはすぐさま身体を丸めて俯いた。甲羅にこもる亀みたいに。
顔をあげろと母が言った。ごめんなさいとあたしは言った。
顔をあげろと母が言った。ごめんなさいとあたしは言った。
顔をあげろと母が言って、ごめんなさいとあたしが言う前に頭皮がぶちぶちと音を立てた。あたしの頭を鷲掴みにした母が、酒臭い息を吹きかけてくる。失敗した、と思った。母が顔をあげろという時、言われた通りにすると「母親を睨むんじゃない」と怒られることが多々ある。顔をあげるか、あげないか。正解はその時の母次第で、今日のあたしは不正解を選んでしまったらしかった。
――これ以上、何も言ってはいけない。
あたしは口を閉ざし、目をつむり、身体を更に丸めて次の暴力に備えた。母はあたしの頭をつかむのをやめ、あいた手で思い切り背中を叩いてきた。さっき抜けた髪が、ぱらぱらと畳の上に落ちる。
暴力は一時間も続かない。母が飽きるか寝てしまうまで、一言も発せずにいればいいのだ。これ以上何か言えば、母は更に機嫌を損ねるだろう。「ごめんなさい」も今日は禁止だ。
あんたはどうしていい子にできないの。
母の言葉と足が、背中に重くのしかかった。ごめんなさいと内心で呟く。
ごめんなさいごめんなさい、いい子じゃなくてごめんなさい。
――愛されてる、と感じたのはいつだってこの瞬間だった。母があたしのことを殴って蹴って罵る時。あたしはきっと、あたたかい家で素敵なプレゼントを貰う子供たちよりも愛されているのだと思えた。
だって母がこんなにも、あたしのことを見てくれている。
あたしのために言葉を使って、あたしのために時間をつかって、あたしに触れてくれている。
母はあたしを無視したりしない。あたしのことを見ているからこそ、あたしが悪い子なのだと教えてくれる。母は暴力を振るうその時、あたし「だけ」を見てくれている。ベランダに放り出しても、こうやってきちんと家に入れてくれる。見捨てられていない。
この時だけは、絶対に、愛されてる。
さっきまで冷たかった全身が、じんじんと熱を持ちはじめる。皮膚が赤くなって、青くなって、黄色くなって。それが途方もなく、あたたかいと思えた。抱きしめてくれなくとも、洋服をくれなくとも。母はこうして違うやり方で、あたしを温めてくれるのだ。
――あたしは愛されてるんだ。
「泣きたいのはこっちだ! あんたなんか死んじまえ!」
母が怒鳴って、あたしは顔を上げた。
死んじまえ、というのは母の口癖だった。暴力が終わる合図でもある。あたしはのろのろと母を見た。弁当の容器をあたしに向かって投げ捨て、母はごろりと横たわってしまった。
瞼が切れたのか、生ぬるい液体が次々と頬を伝う。あたしは目をこすって、血液の色が何故だか透明だということに気づいた。殴られた場所と同じくらい、目が熱かった。
――愛されてるのにどうして泣くの。
自分で自分に問いかけた。鼻がつまって、鼻血だと思っていたそれはやっぱり無色透明だった。涙は止まらない。
――きっとあたしは嬉しいんだ。母と一緒にいれて嬉しいんだ。
自分からの問いにそう返す。高そうなプレゼントも美味しいケーキも要らない、お母さんが愛してくれればいい。だからあたしは幸せなんだ。泣いているのは嬉しいからだ。
健気に、愚かに。あたしは自分にそう言い聞かせた。
悲しいくらいに、あたしは母のことが好きだった。だけどそれは言ってはいけない感情の一つで、だからあたしは「好き」とは違う言葉でそれを伝えた。母が納得する言葉で、母が喜ぶ言葉で。
お母さん。
「――生まれてきて、ごめんなさい」
あたしは。
悲しいくらいに、母を愛していたのだ。
「……あー」
我ながら最悪の目覚めだった。涙が耳の穴に入っていく気持ち悪さに鳥肌が立つ。両目に腕をのせて、自分が泣き止むのを待つことにした。昔は知る由もなかったが、目をこすると腫れるらしい。
変な夢を見た理由は分かっている。宿泊中のこのハイツと、体調不良のせいだ。
症状が出だしたのは二日前だった。寒気がする、ただそれだけだった異変はあっという間に悪化し、高熱が出て身体の節々が痛んで咳をしまくったあげくに吐いた。医者でなくともわかる、つまりは風邪だ。いや、インフルエンザの可能性もあるか。
そのような弱っている身体で泊まることになったのが、よりにもよってこのオンボロハイツだった。
周囲の一軒家はどこも鍵がかかっていて、窓ガラスも割れていなかった。あいていない家にはお邪魔しない、というのがあたしと「彼」の独自ルールだ。
そんな中、唯一施錠されていなかったハイツの一階角部屋を、あたしはとにかく拒否した。しかし、拒否してる最中首を振りすぎて気分が悪くなり、やっぱり吐いた。そこまで具合が悪いのに、雨風しのげる場所を拒否する権限もない。あたしはしぶしぶ、ハイツの中に足を踏み入れた。
彼が気付いているのかどうかは知らないけれど、あたしは終末世界を旅している間、ずっとこういったハイツやアパートは避けてきた。高層マンションだとかホテルだとか、少し高級だったり変わっていたりする宿を選んでいたのだ。理由はとても単純明快。
こういうハイツに来ると、どうしても、過去を思い出すから。
「あー、もう」
弱り目に祟り目。踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂は飛んでこないようだが酷い気分だ。あと、風邪と涙のダブルパンチで鼻水がすごい。あたしは枕元に置いておいた箱ティッシュに手を伸ばし、盛大に鼻をかんだ。これまた枕元に用意しておいたゴミ箱に、濡れたティッシュを突っ込む。
誰の家かは知らないけれど、部屋の中は思った以上に綺麗だった。というより、散らかせるほど物がない。よほど質素な生活をしていたのだろう。
あたしの家とは大違いの、綺麗な部屋。それでも過去を夢見るだなんて、あたしは相当弱っているらしい。
「……おーい」
声を出すものの、周囲は無音。「彼」はどうも出かけているようだ。恐らく、ドラッグストアかコンビニでもまわっているのだろう。大絶賛風邪っぴきの「旅のお供」のために。
ほのかにカビくさい布団を頭まで被って、あたしは目を閉じる。ここで眠れば、きっともう一度嫌な夢を見るだろう。せっかく泣き止んだのに、気づけばまた泣いていた。
「……プリン食べたいよう、神林君」
ここにはいない彼に言う。もちろん、こんな世界でプリンなんて用意できるはずもない。
眠らずやりすごすつもりだったのに、疲れたあたしの頭と身体は、ものの数分で睡眠を選んでしまっていた。
人に嫌われるのが怖かった。
こういうと少し語弊があるかもしれない。あたしはとにかく母に見捨てられたくなくて、だからいい子でいたかった。いい子というのは、学校でも笑顔を振りまいて、同級生にも教師にも好かれていて、問題行動も起こさず勉学も真面目にやるタイプのことだ。
必要最低限、そして絶対の条件は、母が学校に呼び出されないようにすること。
制服の内側にある、青色や黄色の「模様」を誰にも悟られないこと。
お調子者というキャラクターは案外簡単に作れるもので、とりえのない人間でも面白ければ「いじってもらう」ことは可能だった。何を言われても傷ついても、笑い飛ばしていればオッケーなのだ。あたしは常にお馬鹿キャラを貫き通してみんなを笑わせた。成績は常にトップ3に食い込むようにして、それでも天然キャラで憎めない子になれるよう必死だった。
周囲からのウケはよかった。教師からも評判がよかった。もちろん、母の手を煩わせるようなこともしなかった。
あたしは学校では無敵で、――けれど今思えば味方もいなかった。
「朝倉ってさ、一緒にいるとすげー楽しいしすげー笑えるんだけど、彼女として見れるかって訊かれたらまた違うよな」
中学に入った頃、そんなことを言われた。相手は男子で、あたしだって特別そいつのことはなんとも思っていなかった。
「ふーんだ。あたしだってそのうちイケメンの彼氏つくるもんねえー」
あたしは笑い飛ばした。今思えばあの男子は、あたしの本質というか性質というか、そういうものを見抜いていたのだろう。
あたしは。
誰からも好かれて、けれど誰からも愛されない人間だった。
母は蛍のような人間だった。
夜になると光り物を身に着けて、外へとでかける。けれどその命は長続きしなくて、朝になれば冴えない顔で帰ってくるのだ。安物の香水と酒の混ざった空気を纏い、コンビニ弁当をひとつぶらさげて。
ご飯をかきこんで布団に潜り込み、夜になればまた光る。スナックという川辺で甘い水を飲む。母の人生はその繰り返しだった。
光って、儚くて、――明るい場所で見ればただの虫。
父のことは何も聞かされていなかった。生きているのか死んでいるのかもわからない人。写真すらないのだから、あたしにとってはいないのが当たり前だった。
あたしには、母さえいればよかった。
母は次々と男を自宅につれこんだけれど、「新しい父親」は見つけてこなかった。つれてくる男たちは大抵が明らかにアウトローな人間で、天地がひっくり返っても「サンタさんに変身する」人間ではなさそうだった。あたしは子供のころからサンタさんなるものを信じていなかったけれど、「子供のためにサンタを演出する大人」がいる事実は知っていた。
母はたびたび男を連れてきては、かわりのようにあたしを外に追い出した。あたしがいい子で悪い子でも、真冬でも真夏でも関係なく。外にいる時間は二十分で済むときもあれば、三時間以上かかることもあった。
男が出て行ったことを確認して家に戻ると、皺だらけになったシーツの上にのびている母がいた。下着姿で気怠そうに煙草を吸っている時もあって、可哀想なあたしはそれがかっこいい大人の女性なのだと勘違いさえしていた。
「受験勉強。ちゃんとしてんの」
中学三年の夏。母がそう言い、あたしは素直に驚いた。中学を卒業したら働け、と言われるだろうと思っていたからだ。受験勉強はしていなかったけれど、通常の勉強はきちんと続けていた。
「高校は行った方がいいんだよ」
ふーっと煙草の煙を吐きながら、母は言った。
「女子高生で、制服着てるってだけで価値があるんだからねえ……」
――値踏みするような目で、あたしを見ながら。
あたしという、とことん馬鹿で可哀想で悲しい女の子は、母の言うことならなんでもやった。褒めてもらえるのが嬉しかった。
誰が相手でも、なんでも、やった。
福沢諭吉の力は特に偉大で、それを渡すと母は上機嫌になる。
「あんたを育ててよかった」
恐ろしく単純なあたしはその言葉が嬉しくて、次々と「客」をとっては母にお金を渡した。表向きは優等生を貫き、みんなから信頼されて好かれて、その裏では見ず知らずの中年に色々なものを売った。――本当に色々なものを。
たとえば、好きでもない男とお金のために寝て、それを悲しいと思う気持ちなんかを。
「あんたを育ててよかった」
母のその言葉を、お金で買っているのだと認める心も。
高校に入った頃から折檻されることはなくなった。肯定的な言葉をかけてもらえた。けれどそれは「商品」に傷をつけたくなかっただけ。人間ATMと化した娘を喜んで利用していただけだろう。今思えば本当に、どうして気づけなかったのだろう。
どうして、愛されていると思っていたのだろう。
――あたしの世界が終わったその日は雨が降っていた。
ニュースでは感染だのウイルスだのと切迫した声で繰り返していて、町はすでに機能していなかった。スーパーはおろかコンビニものきなみシャッターがおろされ、街路にも人はほとんどいなかった。いるとしてもそれは大抵死んでいる人達だった。死んで、それでもなお活動を続けている人達。
『愛していた人間を殺すウイルス! ~愛が世界を破壊する~』
道端に落ちていたオカルト雑誌を、あたしは家に持ち帰って読んでいた。三週間前に発売されたらしいその雑誌は、ふざけながらもどこか信憑性のある話を載せていた。
ゾンビは『生前愛していた人間』しか襲わない。愛していた人間が全員死ねば、ゾンビは『人形』となる。
この世界で生き残ってしまえばそれは、『誰からも愛されていなかった』ということ。
雨風にうたれてパキパキになったページをめくる。さあさあと細やかな雨が降り続いていた。朝から姿の見えない母は、ちゃんと傘を持っていっただろうか。あたしは雑誌から顔を上げ、玄関へ向かい、傘がなくなっているかどうか確かめようとした。
扉が勢いよく開いたのは、その時だった。
「ざ、けんじゃねえよ、このっ!」
母だった。ビニール傘を懸命に振っている。
そこにいるのは、顔面が半分削れているような男だった。
「おか、お母さん!」
あたしは慌てて、母を部屋にいれようとした。けれどそれよりも早く、腐りかけの男が母の首筋に噛みついた。母が絶叫し、傷口から噴き出た鮮血が玄関と母の服を濡らす。素人でも、大きな血管が傷ついたのだと分かる程度の勢いで。
あたしは母と一緒に叫び、力まかせに扉を閉めた。いまだに母を掴もうとしていた男の指が、扉にはさまりバキリと曲がる。唯一切断された小指は三和土の上に落ちた。
「うわあああぁああぁ、ちくしょうっ、ちくしょう!」
傷口をおさえながら母が喚く。首の傷からしゅーしゅーと奇妙な音が鳴っていた。あたしは懸命に母を呼びながら、救急車だとか警察だとか、現実的で非現実的なことを考えた。あたしの世界が終わる前に世界はすでに終わりかけていて、現実的なものは大抵生きていなかったのに。
「ち、くしょう……」
ただの口癖だったのか。終わりの合図だったのか。
誰に向けたのか。何を思ったのか。
母は最後の力をふりしぼり、弱々しく呟いた。
「あんたなんか、死んじまえ」
母が俯いて、あたしは顔を上げた。
目を開いたまま微動だにしない母は、顔色だけはよかった。丸く、濃く塗られたチークのせいだ。玄関には、錆びた鉄と香水のかおりが入り混じっていた。世界が終わっても母は母を貫き通し、死んだ。
母は死ぬまで母で、……だから嘘でも娘を愛しているとは言わなかった。
あたしは母の眼前で手を振った。母の目は右に左にとあたしの手のひらをおいかけ、だけどそれだけだった。呼吸は止まっているのに目は動いていて、それでもあたしに興味はなさそうだった。それはまるで、感情のないお人形のように。
――ゾンビは『生前愛していた人間』しか襲わない。
――この世界で生き残ってしまえばそれは、『誰からも愛されていなかった』ということ。
「…………おかあさん」
目の前にいるその人を呼んだ。返事はなかった。煙草もふかしていなかった。下着姿でもなかった。けれど彼女は気怠そうに、あたしを見ていた。
あんたに襲いかかるつもりなんて毛頭ないわよ。そう言いたげな表情で。
「お金ならまた持ってくるよ。お母さんに言われた通りにするよ。殴られたことも蹴られたことも誰にも言わない。……ねえ。ねえ!」
終末世界というのは馬鹿にも優しくできていて、愛に形はないとか目には見えないとか、そういう概念をもすべて壊してくれていた。
馬鹿にも優しく丁寧に、真実を教えてくれる。
――お前は誰からも愛されていない。
「……おか、さん」
あたしはこの期に及んで、あたしを貫き通すのである。
母親に好かれるよう必死で、健気で、可哀想な子。
そういう子は最後まで、母親に気に入られようとする。
事実に気づいてもなお、母の好きそうな言葉を選ぶ。
「……生まれてきて、ごめんなさい」
愛される才能もなかったあたしは。
最後の最後まで、悲しいくらいに母のことを愛していたのだ。
二度目の目覚めもやはりというか最悪で、しかも世界が雨まで降らせてくれていた。嫌がらせにもほどがある。八方美人というのは世界からも嫌われるらしい。
成績が良くても素行がよくても人付き合いがよくても信頼されていても。
誰かの一番になんて、なれやしないのだ。
「……神林君、プリン食べたい」
彼は、傘を持っているのだろうか。
玄関に傘があるかどうかを確認しようと、布団からのそりと顔を出す。そして
「――ひっ」
あたしの枕もとでなんでか正座している神林君を見て、変な声が出た。
「え、なに、お、おかえりっ……」
「……ただいま」
バツの悪そうな顔で、神林君。鏡を見なくとも、自分が泣いているのは分かっていた。神林君の近くには、見覚えのないコンビニの袋が転がっている。
あたしは「寝起きだから」と言い訳して目をこすった。ガシガシと。あとで腫れるだろう。
「……神林君、いつ帰ってきたの」
「さっき」
「雨、大丈夫だった?」
「うん」
「そう、よかった」
「うん……」
会話が続かない。あたしは袋の中を覗き込むようにした。
「食料調達ありがと。なんかいいのあった?」
「偶然なんだけど、レトルトの卵がゆが残ってて……」
「あはは、寝込んでる人間にはちょうどいいね」
「うん」
神林君はさえない顔で笑い、ジャンパーのポケットをなにやらごそごそとやった。
「……あと駄菓子屋でこれ見つけたから、よかったらデザートに」
そう言って神林君があたしの手のひらにのせたのは、プリンなんだかゼリーなんだかハッキリとしない商品名の駄菓子だった。これまだ売ってたのか。食べたことないけど。
そして、見た目は確かにプリンなのだけれど、
「ちっさ……」
「ごめん。あの、でも、おいしいと思うよ、多分……」
商品名と同じく神林君のコメントも不明瞭だった。食べたことがあるのかないのか、よく分からない。
あたしは小さなプリンを手のひらで転がしながら、神林君をちらりと見た。目が泳いでいる。右に左に。何かを追うように。
あの日の母のように。
「……あたし、変な寝言とか言ってなかった?」
あたしの言葉に、神林君は難しい顔をした。叱られている子供のような、あるいは嘘と言い訳を探す大人のような顔だ。
「――――――……………………いや、なにも」
その間。さすがに長すぎる。馬鹿でも嘘だってわかるよ神林君。
「そう。ならいいんだけど」
あたしは適当にその嘘にのっかって、涙でベタベタしている頬をふいた。神林君はやはり気まずそうに、正座したままであたしから視線をそらしている。なんというか、女子の着替えを見ないよう頑張っている少年漫画のキャラクターみたいだ。そんなふうに挙動不審になる男子、本当にいるんだ。
「……なにも言わないんだね、神林君」
ぐずぐずと鳴る鼻にティッシュをあてがいながら言う。神林君はやっぱり結構な間をとってから
「……気、が、きかなくて。こういうとき、何を言えばいいのか……、どうしてあげればとか、そういうのが、あの……」
プリンの説明よりも小さな声で呟いた。あたしは笑って首を振る。
「いいよ、それで」
泣くなとか笑ってるほうが君らしいとか、そんなことを言われるよりかは。
「知らんふりしてプリンをくれるほうが、あたしは救われる」
――あたしは神林君が好きだ。それも、初めて出会った時から。
でもそれはきっと、「恋人のために動く人間」に惹かれているのだ。必死で恋人を探している、その姿が好きなのであって、きっと神林君そのものが好きなのかどうかはまた別だ。
あたしは勝手に、彼の「恋人」に憧れているだけだ。羨ましがっているだけだ。
あたしも誰かに愛してほしい。
愛してほしかった。
「……あのさあ、神林君」
コンビニからくすねたらしいスプーンでおかゆをすくいながら言う。
「あたしのこと、嫌いにならないでね」
彼がレトルトパウチから視線をあげる。
「でも」とあたしは付け足す。
「あたしのこと、好きにならないでね」
もしも彼があたしに恋心を抱いてしまって、死後あたしを襲いに来るようなら。
あたしはためらうことなく、彼を殴り殺すのだろう。
だって「それ」は、あたしの好きな神林君ではない。
あたしは彼のことが好きで、だからこそ彼はあたしを好きになってはいけない。
この恋は多分、難しいし実らない。
「……あと。もしもあたしがゾンビになって君のことを襲いに行ったら。その時は容赦なくあたしを殺してね。じゃなきゃあたしは君のこと嫌いになるよ」
「なんというか……難しい注文だね」
「人間って難しいんだよ神林君」
情けない顔をする神林君を見て、あたしは笑った。
愛の溢れるこの世界は、生きている人間に残酷だ。
あたしは世界の果てまで歩くことで、自分を愛してくれる人間を見つけようとしている。見知らぬ土地で出会える誰かに期待している。
けれど本当は。
あたしは、世界の風景をすべて知っているのだ。
凍えるようなベランダで見た、暖かな色をした家々。
宅配のトラックに詰まれた、数々のプレゼント。
世界は愛で溢れていた。
だから。
あたしが世界の果てにたどり着くとき。
そこにはもう、誰もいない。




