愛を与える者
「消毒液、探してるんですよね」
それを聞いた時、僕は真っ先に彼女の手首を見た。癖だった。怪我をしたと聞くやいなや、その人の手首を見るのが。
彼女は僕の様子を不思議そうに眺め、それから脱力したように笑った。
「高校生がころんで擦りむくの、さすがに恥ずかしいですよねー」
「え?」
「ここ」
しゃがんでいた彼女は立ち上がり、自身の左ひざを指さした。赤くなり、血が少し垂れている。出血は止まっているようだが、傷を洗った様子もないため見た目が酷かった。
制服姿の女子高生は、若干ぱさついた髪の毛をいじりながら苦笑した。
「何もないところでころんじゃって。消毒液とか持ってないから探しにきたんです。病院ならあるかなーと思ったんですけど」
彼女と僕のいるここは確かに病院で、ただし外科や皮膚科ではなく精神科だった。『パンデミック』で避難警告がでたのだろう――病院はすでに閉鎖され、中には彼女以外誰もいなかった。扉や窓ガラスはほとんどが割られていて、院内に併設されているこの薬局にも物品はほとんど残っていなかった。
消毒液を探しているという彼女は、んーんーと唸りながら戸棚を漁っていて、そこにばったり僕が入り込んでしまったのである。
僕は僕で、薬を探していた。病院で、いつも処方されていた睡眠薬を。
ところが、
「……おにーさんは何を探してるんです?」
その質問を聞いた時、僕の口は「薬」とは答えなかった。
「彼女……を」
しゃがんで棚の奥に手を伸ばしていた女子高生が、僕の答えを聞くなりこちらを見た。
「ここら辺ではぐれたんですか? あたしもさっきここに来たばっかりで、今のところおにーさん以外、誰とも遭遇してませんけど……よかったら一緒に探しましょうか?」
「あ、いや」
僕は慌てて訂正した。
「彼女ってあの、遠距離で……八百キロくらい離れたところにいるから」
「え」
彼女は短い声を出し、目を丸くした。
「おにーさん、車かなんか持ってるの? 電車も飛行機もない世界だけど」
「いや、徒歩で……」
「八百キロ歩くの!? ほんとに!?」
彼女はあんぐりと口を開け、珍獣でも見るような目を僕に向けた。交通手段のなくなったこの世界を歩いている人間は結構いると思うのだが。そりゃあ、うまくやってる人は車やバイクを所持しているだろう。というか僕自身、バイクを持っていたが一日で盗られた。持っていれば持っているだけ盗られる世界なのだ。それを厳重に保管できる場所も、守ってくれる法律もない。
目の前の女子高生はしばらく目をぱちくりさせていたが、やがて「へえー」と感嘆した声を出した。そしていつの間にか、敬語ではなくなっていた。
「おにーさん、よっぽどその彼女さんのこと好きなんだ?」
「……うん」
「そんな遠いところにいる人と、どうやって知り合ったの? ネット?」
「いや……バイト先で知り合ったんだけど、彼女が家の事情で引っ越して」
「へえー。おにーさん、大学生?」
「いや……。進学せずにフリーターしてて」
「へえー。ちなみにおいくつ?」
ぽつぽつと、彼女の質問に答える。
自分が十九歳であること。中学一年から高校二年まで、ほぼ引きこもりであったこと。高三になる年齢でバイトをしはじめ、そこで年下の彼女ができたこと。けれど交際して半年ほどで、彼女が引っ越したこと。それから何度か会いに行ったが、遠距離恋愛をしている間に「マリッジリング」ウイルスが蔓延したこと。
「おにーさんのご家族は?」
「両親と弟がいて……。でも、母が誰かに噛まれたらしくて父まで感染して、そのあと『優秀だった』弟がやられて……」
「おにーさんは?」
「僕には誰も、目もくれず。……今ではみんな、人形」
いつの間にか家族と溝ができていた自分は、誰からも愛されていなかったこと。
そして。
「八百キロ先まで会いに行くってことは、彼女さんは無事なんだ?」
「いや、分からないんだけど」
「え?」
「生きてるかは分からないんだけど……それでも」
歩いてでも会いにいこうと決心したこと。
会いたいと思ったこと。
気づけば、見知らぬ女子高生相手に自分の情報をべらべらと話してしまっていた。僕がお喋りだったというよりかは、女子高生のほうが人懐こかったのだろう。ここにくるまでに何人かの『生者』と遭遇したが、ここまで気さくに話さなかった。
ある程度話し終え、僕はようやく女子高生の怪我を思い出した。
「それ」
未開封のミネラルウォーターをリュックから出しながら、言う。
「まずは洗ったほうがいいよ。あとはこの軟膏を塗って……僕はガーゼしか持ってないけどもしかしたら処置室にもっといいのがあるかもしれない……」
「え、水とかもらっていいの? 貴重でしょ」
「いいんだ、まだ持ってるから。あと……この水とその薬を交換してほしいんだけど」
僕は、彼女が先ほどから弄んでいた薬を指さした。僕がよく処方されていた錠剤だ。
彼女は、自分の持っていた薬をまじまじと見た。恐らく、それの名前も効果も知らないのだろう。
「これ、なんの薬なの?」
「眠剤」
隠しもせずに答えると、彼女はしばらく薬を眺め、「ふうん」とだけ呟いた。僕はピルケースから薄いピンクの錠剤を取り出し、彼女に投げて渡す。慌てて受け取った彼女が、ぐりんと首を傾げた。
「なにこれ」
「抗生物質。……その傷が膿んだら使って」
「ふうん。ところでおにーさん、医療関係者?」
「いや。……スーパーの品出ししかしたことないけど。どうして?」
「そのリュック、救急箱みたいに色々出てくるから」
言われて、僕は自分のリュックを見た。フリーマーケットで購入した、年季の入った鞄。黒い生地はところどころ擦れ、薄くなっている。
「……薬、とか、あった方が便利だと思って」
半分本当で、半分は「ごまかし」た。
抗生物質や軟膏は本来、「僕の彼女」のために用意したものだった。世界がこうなる前から、僕は救急用具を持ち歩いていたのだ。
手首を切る、彼女の治療をできるように。
――バイト先で彼女と知り合ったというのもぼやかしていて、実際はバイト先で知り合った後、精神科のロビーでばったり出くわしたのが付き合うきっかけだった。
僕は人とのコミュニケーションが苦手だったり不眠であることを相談に、彼女は手首を切ったり薬を飲みすぎたりするのを相談しにきていた。
彼女は手首を切ったあとのことは無頓着で、傷が化膿しているなんてしょっちゅうだった。そのせいか、気づけば僕が消毒液なんかを持ち歩くようになっていた。
目の前の女子高生がこの話を聞いて何を思うのかは知らない。傷の舐めあいといえばそうなのかもしれない。
ただ僕は、彼女を愛していた。
何百キロ歩くことになっても、彼女に会いたかった。
将来、「そのせいで」死ぬことになったとしても。
「まあ確かに、薬は色々持ってたほうがいいよね。……ふうん」
女子高生は、納得したようなしてないような顔で呟いた。それから、赤黒くなった自分の膝を見おろす。血は乾いているが、水で洗えば染みそうだ。
「これ。どういう状態になったら化膿してるっていうの?」
「え……。こう、傷口がジュクジュクしたり、変な液体が出てきたりとか……」
「んー。よく分かんないから、化膿したら教えてくれる?」
「教えてくれる? って、どういう……」
僕たちは別に行動を共にしているわけではないし、むしろもうすぐ別れる人間ではないか。そう思っていたら、彼女がへらっと笑った。人懐こい、けれど力のない笑い方だった。
「もしよかったら、しばらくおにーさんとご一緒したいんだけど」
「……え、誰が?」
「もちろんあたしが」
僕はぎょっとして、彼女を見た。「そんな顔しなくてもいーじゃん」と彼女は笑う。
「別に、彼女さんからおにーさんを奪おうとかそんなの思ってないよ。ただ、あたしも旅のお供が欲しいなあと思っただけで。ひとりで歩くの寂しいじゃん?」
「……えっと。君も、どこか目的地が?」
「んーん。強いて言うなら『世界の端っこ』まで」
彼女は自信たっぷりに、訳の分からないことを言った。
――世界の端っこまで。
その答えだけでは彼女が何をしたいのかは分からず、けれど彼女が何を求めているのかは分かった。
僕も彼女も、「感染」せずにここにいるのだから。
この世界で生き残っている人間が心の底から欲しいものは、たとえばお金や食べ物や薬ではなく……そうなのだろう。
「そーゆーつもりはないから」
僕の思考を見透かしたかのように彼女は断言した。
「おにーさんが彼女さんと会えるまででいいの。ウザくなったらそこでお別れしてくれればいいし。ただちょっと、誰かと一緒に歩きたいなーと思っただけ」
「…………」
「だめ? 変な女と一緒だと、彼女さんが拗ねる?」
「いや……なんというか」
返答に困る。嫌だとは思わなかった。僕の彼女は嫉妬や束縛をするタイプでもない。
ただ。
この世界を他人と歩いて、余計に虚しくならないだろうかと不安になっただけだ。
女子高生は僕の沈黙を肯定ととらえたのだろうか。それとも拒絶されるのを恐れたのだろうか。「そんじゃー決定ね」と話を纏めてしまった。かなり勝手に、強引に。
それを断り切れなかったのは、やはり僕も心細かったのかもしれない。恐ろしかったのかもしれない。
この世界で、いまだ生き残っていることが。
彼女は僕の欲しがっていた薬を投げ、嬉しそうに笑った。
「そんじゃ、今日からしばらくよろしくね。あたしの名前は、……」
言いかけて、言いよどんで、口を閉じて、開いて。
「朝倉」
――それしか、言わなかった。
どうして下の名前を言わないのか。分かる気もしたし、分からない気もした。ただ、言及しようとは思わなかった。
僕は頷き、
「……神林」
やっぱりというか、名字だけを教えた。それでも彼女は宝物のように、「かんばやしくん」と繰り返す。
――なんとなく。ただなんとなく、僕はきっと永遠に彼女の名前を聞けないだろうし、彼女に僕の名を教えることもないだろうと思った。教えるのが嫌だと思ったのではない。それはただの勘だった。
「そんじゃ、処置室に行こう神林君。そろそろ膝が痛い」
彼女はわざとらしくおどけて、一人薬局から出ていく。これから僕と一緒に行動したいと言ったのは彼女のほうなのに、自分以外は誰もいないような歩き方だ。ふらふらと揺れる、その細くて薄い背中を僕はしばらく眺めた。
初対面なのに、性別も年齢も違うのに、僕は彼女に妙な親近感を抱いていた。恐らくそれは、生存者どうしだからこそ抱くものなのだろう。
誰からも愛されていないと、身をもって知る者どうしだからこそ。
……ただ、僕と彼女ではやはり事情が違う。
僕は彼女の背を追った。彼女が一人で行ってしまわないように。
世界の端っこ。彼女がそれをどこだと認識しているのかは分からない。南極だとか北極だとかそういう意味ではなく、恐らくは彼女だけの『端』があるのだろう。
彼女にしか認識できない、彼女だけの『終わり』。
そこにたどり着いた時、彼女が一人でなければいい。




